ようこそいらっしゃいました!こちらでは「カルタ」についてあまり詳しくご存じでない方向けに、簡単なガイダンスをさせて頂きます。しかし簡単にと言っても少々お時間がかかりますので、どうぞくつろいでお聞き下さい。
あっ、煙草も構いませんよ!なにしろ当研究室のメンバーときたら超ヘビースモーカーばかりですから。
申し遅れましたがわたくし、当研究室主任研究員のすだれ十と申します。まあ主任と言っても、研究員は室長と私の二人だけなんですがね・・・
最初に「カルタ」の伝来についてお話したいと思います。「カルタ」がいつ、どの様にして我が国に伝わり広まっていったのか詳しい事情を知るのは困難ですが、大雑把な言い方をすれば天文十二年(1543)に種子島にポルトガル船が漂着して以来、南蛮人との交流交易を通じて、いわゆる南蛮趣味の一つとして徐々に広まっていったものと思われます。おそらく最初は交易品としてではなく、船員たちの娯楽用に使用していた物を譲り受け、遊び方を習い覚えたのでしょうが、後には交易品としてまとまった数が輸入されたことでしょう。しかし当時の「舶来カルタ」はかなり高価な物であった筈で、誰もが簡単に手に入れられる物では無かったと考えられます。しかし舶来品を模倣し、時にはオリジナルより優れた物を作り出す能力にかけては今も昔も日本人の右に出る者は無く、恐らく「カルタ」に関しても早くから国産化が始まったのではないでしょうか。
当研究室では、「舶来カルタ」を模倣して作られた「初期国産カルタ」からその系統を受け継ぎながらも、様々に変化しながら江戸時代を通じて(実際には細々とではありますが現代までも)作られ、遊ばれて来た「カルタ」を総称して「江戸カルタ」と呼びたいと思います。
ところで、大変幸運な事に初期の「カルタ」のデザインがどのような物であったのかは、神戸市立博物館に保管されている「カルタ版木重箱」によって、正確に知る事が出来ます。これは実際の「カルタ」の印刷に使用されたと思われる版木を組み立てて重箱に仕立てたもので、版木自体の年代は桃山から江戸初期の物と推定されます。
一組の「カルタ」は4種の紋標(スーツ)と12の位(ランク)から成り、計48枚です。紋標は、棍棒(パウ又はハウ)、剣(イス)、貨幣(オウル)、聖杯(コップ又はコツフ)の4種。それぞれ、1に当たる札には竜の姿が描かれています。2から9までは、それぞれの数の紋標を配置し、10、11、12に当たる札には、それぞれ女従者、騎士、王の姿が描かれています。これらの特徴は、古いポルトガル系のカルタ(一般に ドラゴンカードと呼ぶ)に完全に合致します。
江戸も中期以降になると「カルタ」の絵柄も次第に簡略化される傾向にあり、それに伴い紋標の呼び方にも変化が現れます。「パウ」「イス」はそれぞれ青い線、赤い線で表され、単に「青」「赤」と呼ばれるようになります。「オウル」「コップ」に至っては次第にその区別も取り払われ、まとめて「がす(かす)」とか「すべた」と呼ばれるようになります。
位(ランク)を表す呼び方は、2から9まではその数で呼びます(青二、赤八、すべたの五、等)。10に当たる札は、初期にはポルトガル語と同じ「ソウタ(sota)」と呼ばれていましたが、やがて単に「十」と呼ばれるようになりました。又、絵柄も初期の女性像から僧侶の姿に変化した為「坊主」と呼ばれることも有ります。尚、特別に「青の十」の事を「釈迦十」と呼びます。12の札は、初期の呼び名ははっきりと確認されていませんが、同じくポルトガル語の「レイ(rei)」が使用されていたらしき痕跡が有ります。延宝期(1673-1681)以降には「切」と呼ばれています。11の札の古い呼び名を示す資料は見当たりませんが、同様にポルトガル語の「カバーロ(cavallo)」か、それに近い呼び名であったろうと考えられます。延宝期以降は「馬」と呼ばれています。1の札は初期、中期には「虫」又は「つん」、安永(1772-1781)前後からは「ぴん」と呼ばれます。「青の一」だけは初期から一貫して「あざ」と呼びます。また、オウルの二の札も重要な札で「太鼓二」と呼び、「すべた」には含めません。「あざ」「釈迦十」「太鼓二」の三つは多く登場しますので、ぜひ記憶しておいて下さい。
次に、「江戸カルタ」の主な遊戯法を幾つか紹介いたしましょう。
最も代表的な技法は「よみ(読み)」と呼ばれるものです。カルタ一組から「赤二(海老二とも呼ぶ)」以外の赤札を除いた三十七枚を使用し、四人の競技者に九枚づつ手札として配ります。残り一枚は「死絵」と呼び、伏せたままにしておき競技中には使用されませんが、競技終了後の点数計算の際には勝者の手札に加えられます。
最初のプレーヤーを「親」と呼び、手札から一枚、表向きに場に晒します。例えば「一」の札を出した場合、ひとつ多い数「二」を持っていれば続けて出すことができ、同様に連続した数が有れば何枚でも出せます。出せる札がない場合は右隣のプレーヤー(胴二と呼ぶ)が同様に札を出していきます。以下、三人目(胴三)四人目(大引)と進み「親」に戻ります。こうして最初に全ての手札を出し切った者が勝者と成ります。
点数は「上がり点」に「役点」を加えて計算されます。「役点」とは手札の中に数枚の特定の札が揃っていたり、手札の全体か一部がある条件を満たしている場合に成立する「役」によって得られる得点で、「役」の種類によって得点が決められています。その際「死絵」も「役」の構成札に加えることが出来ます。「役」には数多くの種類が有りますが、例えば「あざ」「青二」「釈迦十」の三枚が揃った場合、江戸初期には「三光」、後には「団十郎」と呼ばれる「役」になります。
もう一つ重要な技法としては「めくり」が有ります。「めくり」は明和期(1764-1772)の中頃に登場し、安永、天明(1781-1789)のいわゆる田沼時代に大ブームを巻き起こしました。この頃の黄表紙、洒落本、噺本等の文芸作品にも数多く登場し、「よみ」に代わってカルタ技法の代表格となった感があります。
「めくり」は三人で競技しますので「胴三」は無く「親」「胴二」「大引」のみとなります。カルタ一組四十八枚(時に「鬼札」と呼ばれる一枚を加える事も有り)を使用し、各人に手札として七枚づつ配り、場札として六枚を表向けに晒し、残りは山札として裏向きに積んでおきます。競技は「親」から開始します。手札の中に場札と同じ数(ランク)の札が有ればそれを出し、場札と合わせて取る事が出来ます。同じ数が無い場合は任意の一枚を場に表向けに捨て、以後この札も場札となります。次に山札の一番上の札をめくり、場に同じ数の札が有れば二枚合わせて取る事が出来ますが、無ければその札も場札に加えられます。続いて「胴二」「大引」の順に同じ手順を繰り返し、七順で一勝負(番個と呼ぶ)が終了します。
お気付きかも知れませんが、これは現代の花札で行われる「花合わせ」や「八八」の技法とほぼ同じです。点数計算も花札と同様に、札固有の点数の合計に「役点」を加えて計算されます。「めくり」では「青札」「赤札」の全てと「太鼓二」にそれぞれ固有の点数があり、その他は無点(すべた)です。主な役は次の六種です。
カルタ技法のもうひとつの大きなグループとしては、賭博系の技法があげられます。江戸時代の代表的な賭博と言えば、何といってもサイコロ二つを使用する「丁半」バクチでしょう。実際、江戸時代に単に「バクチ」と言うと一般的にはこの「丁半」を意味するようです。「丁半」に次ぐナンバーツーの位置に在るのがカルタを使用する「かう」という技法で、歴史も古く寛文(1661-1673)頃刊の仮名草子『浮世物語』に既に記述が見えます。
競技者は二枚、又は三枚の札を受け取り、札の数を合計します。合計が10以上の場合は10の位は無視し、1の位のみを比較して勝敗を決めます。最も強いのは9でこれを「かう」と呼び、次いで8が強く「おいちょう」と呼びます。以下、7から2まではその数に「寸」をつけ「七寸」「六寸」等と呼び、1の場合には少し変わって「うんすん」と呼びます。最も弱いのは0で「ぶた」と呼びます。各自の点数を比較し高位の者が勝ちとなります。これは現代の花札で行われる「追丁カブ」や、カジノゲームの「バカラ」と同じ原理です。
「かう」の詳しい競技法は解っていませんが、断片的な記述や挿絵などを見ると、一人が「親(胴)」に成り複数の「子」と勝負する形式が多いようです。「子」はそれぞれ任意の金額を掛け金として張り、「親」の手と比較して勝った者は同額の金を得、負けた者は掛け金をを没収される訳です。又、別の方法として競技者全員の手を比べ、最も高位の者を勝者とする方法も有ったようです。この場合は全員が同額を張り、勝者が全額を取ったのでしょう。
もうひとつ「きんご」についても簡単にご紹介しておきましょう。これも古い技法で、延宝期(1673-1681)には既に行われていた形跡が有ります。「かう」と同様に札の数を合計していきますが、10の位を除く事はせず、合計15点を最高とします。四枚目以降も札を請求出来ますが、合計15を超えてしまうと「ばれ」と言って負けになります。カジノゲームのブラックジャックの最高点21点を15点にしたものと考えて頂けば良いでしょう。
江戸カルタには他にも幾つかの技法が有りますが、それらについては研究室内でご紹介していこうと思います。又、「よみ」「めくり」「かう」「きんご」についても研究室内でより詳しく検討していきます。
次に「カルタ」自体の呼称について整理しておきたいと思います。まずお断りしておきますが「江戸カルタ」という呼称は、当研究室の研究対象である「江戸時代に使用された48枚系のカルタ」を指す造語であり、一般的なものではありません。江戸時代においては単に「カルタ」と言うとほとんどの場合はこの48枚系の「カルタ」の事を指します。百人一首等の和歌を記した物は「歌かるた」と呼んではっきり区別しています。表記は仮名書きが最も多く、平仮名、片仮名ともに用いられますが、当研究室内では引用の場合を除いて「カルタ」に統一しています。これは単に元々は外来語であったという事を意識しての事です。漢字で表記する場合は「骨牌」の字を当てる事が最も多く、他には「加留多」「加留太」「賀留多」「歌留多」等が多く見られます。
初期(桃山〜江戸初期)の国産カルタの事を指して、一般的には「天正カルタ」と呼ぶ事が多いのですが、当研究室においてはこの語は使用いたしません。何故なら「天正カルタ」という語はこの時代の文献には全く登場せず、江戸後期になって初めて現れる上、全く別の意味が有るのではないかと考えているからです。詳しくは研究室内で検討していきたいと思いますが、将来的な混乱を避ける為にも「天正カルタ」は使用せず、単に「初期国産カルタ」と呼びたいと思います。
江戸時代を通して多く用いられる語に「読カルタ」が有ります。これには「よみ」技法を意味する場合と、「よみ」に使用する札、つまり「カルタ」自体を意味する場合が有ります。特に「歌かるた」等と明確に区別する場合などにこう呼ぶようです。
これと似たものに「めくりカルタ」が有ります。現代の辞典やカルタの解説等の多くはこの語を「めくり」技法、又はそれに使用する札と解説していますが、江戸時代の文献を詳しく調べて見ますと若干の疑問が残ります。確かに「めくりカルタ」の語は少なからず登場しますが、その多くは御触書(法令)や御仕置例(判例、裁判記録)といった言わば公文書とも呼べるもので、その他には一部の随筆(大田南畝著『半日閑話』等)に見られるぐらいです。一方「めくり」の流行していた時代の黄表紙、洒落本、噺本、等の文芸作品にはこの語はほとんど見当たらず、技法を指す場合には単に「めくり」と呼び、使用する札の事は「めくり札」又は「めくりの札」と呼んでいたようです。些細なこだわりですが、当研究室においても「めくりカルタ」の語の使用は極力避けています。
近年における近世(江戸時代)研究の進展には目覚ましい物が有ります。様々な分野で次々と新しい研究、見解が発表され従来の江戸観を大きく塗り替えつつ有ると言えますが、その中において、残念ながら「江戸カルタ」に関する研究は大きく立ち遅れていると言わざるを得ません。
当研究室は主に、江戸時代に書かれた様々な文献の中から「カルタ」に関する資料を探しだし、その実態を明らかにする事を目的としています。調査する程に「カルタ」に関する資料数の多さに驚かされると同時に、いかに「カルタ」が当時の江戸の人々にとって身近な存在で有ったかを思い知らされます。当研究室では現在千点を越す資料を公開していますが、残念ながらその大部分は断片的なものであり、ある程度まとまった内容を持つ資料と呼べるものはせいぜい数十点程度ではないでしょうか。しかし、個々の資料は断片的なものであっても、例えばジグソーパズルのように個々のピースの関連を考え、組み合わせていく事によって次第に全体像が見えて来るのではないでしょうか。気の遠くなるような地道な作業に成りそうですが、少しずつでも研究の成果を発表していきますので宜しくお付き合い下さい。
今回取り上げるのは、江戸カルタを研究する上で最も重要な文献である『博奕仕方』についてです。本書には江戸時代に行われていた十七種の賭博の方法が解説されており、その中には「めくり」「よみ」「きんご」の三種のカルタ技法が含まれています。特に「めくり」についてはかなり詳細に記されており、当時の技法をかなり正確に知る事が出来ます。
ここでは先ず、内容のご紹介の前に、本書の資料性格について検討しておきたいと思います。
『博奕仕方』は写本の形で数冊が伝存していたようですが、残念な事に現在の所在は全て不明です。しかし、翻刻書によってその内容をうかがい知る事が出来ます。
@『賭博と掏摸の研究』尾佐竹猛著(大正十年刊)
本文中にバラバラに引用されているが、大部分の翻刻有り。(家蔵本。以下、尾佐竹本と呼ぶ。)
A『賭博史』宮武(廃姓)外骨著(大正十二年刊)
最も参考になった資料として本書の名をあげている。明確な引用は無いが、明らかに本書を参照していると思われる部分が見受けられる。(帝大法学部蔵本。便宜上、宮武本と呼ぶ。)
B『続法制史の研究』三浦周行著(大正十四年刊)
全体の翻刻有り。(家蔵本。三浦本と呼ぶ。)
C『未刊随筆百種』三田村鳶魚編(昭和二年刊)
『博奕仕方風聞書』の書名で、奥書を一部欠くもののほぼ全体の翻刻有り。(林若樹氏蔵本。便宜上、三田村本と呼ぶ。)
以上、少くとも四種の写本が存在した事が確認されています。また、本書は天保十年編の『鞠吏記則』第三十冊目「雑、処雑方及博方上記」に収録されており、こちらは、一橋大学の合九冊本、東京大学の二冊本と抄本の三種が伝存しています。
『博奕仕方』という書名に関して、お断りしておく事が有ります。実はこの書の名称として、一般的には『博奕仕方風聞書』という書名が使用される事が多く、国書総目録でも『博奕仕方風聞書』で記載されています。しかし、『博奕仕方風聞書』となっているのは三田村本のみで、他の三本では単に『博奕仕方』となっています。当研究室では、『博奕仕方』を正式名称と考え、採用しています。
本書の成立年については、三浦本の奥書に「卯 九月」と有り、尾佐竹本に朱書きで「寛政七卯年九月六日北方臨時廻書上之写」と有る事から、寛政七年(1795)成立と推測されます。
作成者は北町奉行所の臨時廻六名、三浦本の奥書に名が記されています。
豊田安太夫
岡田幸次郎
片山門左衛門
小西安右衛門
橋本佐平治
鈴木新七
一種の司法資料として町奉行所に提出された物と思われます。
『博奕仕方』には「めくり」「よみ」「きんご」の三種の江戸カルタ技法が記されています。以下、全文を『未刊随筆百種』(三田村本)より原文のまま転載致します。ただし、一部の旧漢字は現代の物に直してあります。尚、他本との重要な異同については、注釈をご参照下さい。
注釈
以上、「めくり」「よみ」「きんご」の三種の技法の詳細については改めて検討したいと思いますが、「めくり仕方」の文中には江戸カルタ全般に関連する事項が幾つか書かれていますので、次章からはそれらについて検討いたします。