うんすんかるたに関する新資料など、さすがにそう簡単には見つからないだろう・・・と常々思っていましたが、とある随筆の中に見つけちゃいました。それも『日本随筆大成 〈第三期〉8』という有名な叢書に収録されている物なのに、不思議な事に(管見では)今迄どこにも紹介されていいません。この資料に関しては、多分江橋先生もご存じでは無い様です。短文ではありますが、中々興味深い内容ですのでここに紹介させて頂きます。
本資料は、天野政徳が自身の所有するうんすんかるたについて記したものですが、後半部は友人の荻野梅塢(おぎのばいう)による「骨牌の記」と題された文章の一部を引用したものです。併せて“グルの馬(カバ)”と“イスのソウタ”の2枚の挿絵が描かれています。
天野政徳による地の文はさほど難しく無いと思いますので、荻野梅塢による「骨牌の記」の部分の解説をしておきます。
「骨牌の記」読み下し
「骨牌、古色愛すべし。これ、呂宋(ルソン)にて製する所。一転、元亀年間、ウンスンカルタと称えるてへり。けだし、ウンスンは神州にて、煩悶吟噫を呼ぶの称なり。この骨牌を闘う者、煩重悶然。ゆえにこの称を負う。この物、御物に係わる。その製、昔年観る所の南畝蔵中の物と相同じきゆえ、云々。斯の如くのみ。癸巳季秋幼室老人長于梅塢。」
同部分意訳
「骨牌の古びたおもむき、愛すべし。これはルソンで造られたものである。その後、元亀年間にウンスンカルタと呼ばれるようになったと言われている。思うに、ウンスンは我が国では、案じ苦しみ、嘆く声を呼ぶ名である。この骨牌の勝負をする者は、案じ苦しみ、悶える様(さま)である。それ故にこの名前がつけられた。この物は、高貴な方に関係するものである。その製は、以前見た大田南畝所蔵の物と同じなので・・・云々。こういう事である。癸巳(天保四年)の秋、幼室老人長于梅塢。」
「云々」以下の部分が略されているのが実に残念でなりません。一体何が記されていたのでしょうか? まあ、大した内容ではなかった為に削られたのだと考える事にしましょう。
ちなみに「ウンスン」の語源に関するくだりは、現代の“うんともすんとも”の語源についての俗説の裏返しの様な内容です。まあ現実問題として、この様な経緯で名称が決まったとは考えられませんので、この部分は梅塢の想像か、当時の俗説の類いだと考えた方が良いと思います。
本書の著者、天野政徳(あまのまさのり)は幕臣にして、国学者・歌人としてもそこそこ知られた人物で、本書以外にも数点の著作を遺しています。安永四年(1775)江戸に生まれ、文久元年(1861)八月十九日に、当時としてはかなり高齢の八十七歳で歿しています。
本書は『天野政徳随筆』という書名で掲載されていますが、解題によれば底本には書名が記されておらず、『天野政徳随筆』は仮の書名です。つまり、単に天野政徳さんが書いた随筆というだけのネーミングなのですが、実は原本には筆者の署名すら有りません。なのに何故、天野政徳によるものと認定されているのでしょうか? 解題にも説明は有りませんが、よくよく考えてみた所、ヒントは本文中に有りました。
著者は文中で自分の考察を述べる際に、度々「政徳按(あんずる)に」と書いていますので“政徳”と云う名前が確定されます。又「我師大石千引翁」と云う記述が有ります。著名な国学者である大石千引の門下で“政徳”という名の人物を探せば、天野政徳以外には該当者はいません。これだけでも確実ですが、実はもっと直接的な証拠が有りました。三巻の「鰐口」の項に「我家」の事として幕臣天野家の歴代当主の系図が書かれています。そこには“政徳”の名も有り、更にその次の当主について「我子政輝」と書いていますので、これを書いている「我」は天野政徳と云う事に成ります。
本書の成立年も不明ですが、唯一の手掛りは『日本随筆大成』の解題でも指摘されている、本文中の「今天保十四年」と云う記述(第一巻に二か所有り)です。つまり天保十四年(1843)を含む数年、彼が60代の終わり頃の著作と考えられます。前述の天野家の系譜によれば、彼は既に家督を息子の政輝に譲った隠居の身です。
『日本随筆大成』が定本としたのは無窮会神習文庫(むきゅうかいかんならいぶんこ)収蔵の写本です。一応お断りしておきますが、当方は未だこれを実見していません。本来ならば原本を確認しておくべきでしょうし、出来る事ならば見たい気持ちはやまやまなのですが、残念ながら出来ないのです。令和三年現在、無窮会文庫は所蔵資料の閲覧を停止しています。いずれ再開されるでしょうが、恐らくその際には以前と同じく数万円の年会費を払って会員登録をせねばならないであろうと予想されますので、当方の様なアマチュアの好事家風情には、ちょっとハードルが高過ぎます。
『天野政徳随筆』の翻刻には以下のものが有ります。
当方が把握している翻刻は以上の3点のみで、定本は何れも無窮会文庫本です。
次に、関係する人物について確認しておきましょう。
「骨牌の記」を贈った荻野梅塢も天野政徳と同じく幕臣であり、文人としても名が残っている人物です。天明元年(1781)生まれ、天保十四年(1843)歿ですので、政徳からすると少し年下の友人です。
「骨牌の記」の文中に登場する「南畝」は、言わずと知れた江戸後期を代表する文化人である大田南畝(蜀山人)の事であるのは確実です。大田南畝は寛延二年(1749)生まれ、文政六年(1823)歿ですので、三人の中では最も年長者です。「骨牌の記」が作られた癸巳(みずのとみ)は天保四年(1833)に当たりますので、既に南畝の死去から十年を経ていますが、かつて梅塢と南畝との間に直接的な交流が有ったのは間違い有りません。天野政徳も含め、同時代を生きた江戸の文化人サロンのメンバーと言って良いでしょう。
本書の伝本で確認されているのは、無窮会神習文庫収蔵の三巻本の写本のみです。『日本随筆大成』の解題では触れられていませんが、これが天野政徳本人による自筆本に間違い無いと考えています。本来ならば自筆本であるか否かは、他の自筆本の筆跡や文体との比較や、書誌学的な見地から判断されるべきものでしょうが、当方には能力的に不可能です。にも係わらず、他者の手による筆写本では無く、天野政徳本人による自筆本であろうと主張するのには、勿論根拠が有ります。
天野政徳はとても多才な人であり、画も能くしたそうで本書にも40点近い挿絵を載せています。比較的ラフなものから精密なもの迄、多少バラツキは有るものの、総じて優れたデッサン力であり、特に写実的に細部に至る迄緻密に描き込んだ幾つかの絵を見れば、彼の画力が玄人はだしのものである事は明らかです。とは言え、この様に時間と労力を掛け、自分の持てる技量を注ぎ込んで挿絵を描き上げるのは並大抵の労力では有りません。それが出来たのは、自分自身の著作であったからに外ならないと考えます。もしも『天野政徳随筆』を借り受けた他者が筆写し、自分用に複本を作った(当時はよく有る事です)のだとしたら、仮にその人物が同等の画力を持っていたとしても、ここ迄の労力を掛けて挿絵を精密に再現する事は有り得ないでしょう。よって無窮会文庫収蔵の『天野政徳随筆』は、本人による自筆本で(多分)間違い無いと考えます。
『日本随筆大成』の解題の言を借りれば、本書は「記述の態度は甚だまじめ」であり、しかも著者の自筆本の可能性が高いと考えられますので、素性のはっきりした良質な資料だと言って良いでしょう。但し資料自体の素性の良さと、そこに書かれている個々の事項の真偽は全くの別問題です。
【2】元亀年間製のうんすんかるた!?
『天野政徳随筆』の「骨牌」の項で最も気になる記述は「おのれがもたる所の骨牌、いとふるき物にて、元亀年間のものならんと人々いへり」の部分です。もしもこれが正しいならば、うんすんかるたは元亀年間(1570-1573)以前に誕生していた事になります。荻野梅塢も「骨牌の記」で「骨牌、古色愛すべし。・・・一転、元亀年間、ウンスンカルタと称えるてへり。」と述べており、うんすんかるたと云う名称が出来たのは元亀年間で、その物自体はそれ以前から有ったと考えています。
天野政徳所有のうんすんかるたが元亀年間製だと考えるのは、さすがに難しいと思います。彼の描いたうんすんかるたの挿絵(後で詳述します)を見ると、鎧を着た武者風の人物が描かれていますが、この様な純日本風の意匠は、うんすんかるたの系譜の中では比較的後発のものであろうと考えられます。これが元亀年間製ならば、うんすんかるたの始原は元亀年間を更に遡る事に成りますので、さすがに現実的とは思われませんが、一応はその可能性について検討しておくべきでしょう。
元亀年間(1570-1573)は、鉄砲が伝来した天文年間と本能寺の変のあった天正年間の間の時期で、室町幕府が滅亡(元亀四年)し、各地の戦国大名が群雄割拠して天下の覇権を争っていた、正に戦国時代の真っ只中です。日本国中が戦に明け暮れていたこの時代に、一体誰がうんすんかるたなどでノホホンと遊び呆けていたと云うのでしょうか? あっ! 天皇や公家連中か!! それなら有り得るかも・・・そう言えば「骨牌の記」に「高貴な方に関係するものである」と云う記述が有りましたね。
とは言え、そもそも現代の定説では、ポルトガル系カルタの伝来自体が天正年間(1573-1592)の事と考えられており、当方も基本的に受け入れていました。これが正しいならば、それ以前に製造されたうんすんかるたなど存在する筈ありません。しかしよくよく考えれば、天正期伝来説自体が、かなり後年になってから見られる“天正かるた”と云う名称以外には、これといった根拠も無い一つの仮説ですので、実際にはそれ以前に伝来していた可能性も否定出来ません。天正年間以前にも何艘ものポルトガル船が我が国を訪れており、恐らくその殆ど全てで、乗組員の娯楽用に数組のカルタが積み込まれていたと想像されます(証拠は有りませんが、決して無謀な想像とは思いません)。それが日本人の手に渡った可能性は十分有ると考えます。従って“元亀年間製のうんすんかるた”を、頭ごなしに否定は出来ません。
定説では、うんすんかるたの考案は元禄年間後期(元禄十五年(1702)の「博徒考察」の設置による賭博取締り強化を契機と考える、山口格太郎氏の説による)とされています。これに対して当方は、遅くとも延宝年間(1673-)以前の成立と考えていますが、それを更に約100年も遡る“元亀年間以前のうんすんかるた”は、さすがにちょっと無理っぽい気がします。しかしそれは、現代に伝わっている記録や遺物から得られる知識では支持出来ないと云う事であり、根本的に否定する根拠が有る訳ではありませんので、検討に値しないと迄は言えません。
ところで、種子島に漂着したポルトガル人によって、我が国に鉄砲が伝えられたのは天文十二年(1543)の事です。想像を逞しくすれば、彼等の所持品の中にカルタが含まれていたとしても不思議ではありません(ポケットにも入ります)。彼等の取り調べを担当した役人達は、当然彼等の所持品を詳しく調べたでしょうから、もしもカルタを所持していたならば見逃す筈は有りません。
当時の日本人にすれば、初めて見るカルタに興味をひかれない筈はありません。ポルトガル人と応対した役人の一人がカルタに興味を持ち、個人的に譲り受けたとも考えられますし、或いはポルトガル人の方から、色々な面での便宜を期待して、カルタに興味を示した役人に進んでプレゼントしたとも考えられます。鉄砲の方は、当地の領主種子島時尭が大枚を叩はたいて二挺の火縄銃を買い取り、その経緯が正式な記録として残されましたが、カルタの伝来に関する記録は残っていませんので証明は困難ですが、同時期に伝わった可能性を論理的に否定するのも難しいでしょう。尚、同じ様なシチュエーションは、ポルトガル船が来航する度に起こり得ますので、天正以前にカルタが伝来した可能性は更に高まります。
もしも仮に、鉄砲と同時にカルタが伝わったとすれば、元亀末年迄には約30年の期間が有ります。この間の我が国の鉄砲の状況について見れば、短期間の内に国産化に成功し、元亀の頃には数千挺単位で国内製造されている(数年後の天正三年(1575)の長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康の連合軍だけで三千挺の鉄砲が使われたと言われています)程急速に普及していると云う事実が有ります。これを鑑みれば、当時の日本人のアイデアマンが、ポルトガルカルタを基にして独自のカルタを考案し、肉筆画によるうんすんかるたの製作に至る迄に、30年は十分な期間だと考えられます。勿論、戦国の乱世に登場した強力な新兵器である鉄砲と、単なる遊戯具であるカルタとを同列に考えるのは無謀でしょうが、少なくとも“元亀以前のうんすんかるた”が絶対に有り得ない話では無いと云う事です。とは言うものの、“絶対に有り得ない話では無い”とは具体的にはどれ位の確立なのかと問われれば、ぶっちゃけて言えばせいぜい1%程度と考えます。寧ろ“九分九厘は有り得ない話だ”と言った方が良いのかも知れません。
当方は、うんすんかるたが誕生するには①カルタの国産化が始まっており、②ある程度の流行が有る、と云う状況が必須条件だと考えます。実際にその様な状況だったならば、何等かの記録が残されていて然るべきですが、慶長二年(1597)の『長曾我部元親式目』以前のカルタに関する記録は見つかっていません。やはり“元亀以前のうんすんかるた”は現実的では無いと考えざるを得ません。
まあ、いつの時代も古物のコレクターなる人種は、往々にして自身のコレクションの由緒を過大評価しがちなものだと思いますが、ここでは天野政徳自身が自分の所持するうんすんかるたを元亀年間の物だと一方的に主張している訳ではありません。「元亀年間のものならんと人々いへり」つまり周りの人達がそう言っているので、特に否定はしないと云う態度です。ちなみに彼自身はうんすんかるたに関しては余り詳しくは無い様で、「是を宇武須牟かるたといふといふよし」と、うんすんかるたと云う名称もその「人々」から教えられた様です。
では「元亀年間のものならん」と言った、その「人々」とはどの様な人達なのでしょうか。先ず荻野梅塢は確実に入るとして、直接交流が有ったらしき大田南畝も含まれる可能性は十分に有ります。更に古物や故実の考証に関しては、同時期の江戸には山東京伝(1761-1816)、山崎美成(1767-1848)、滝沢馬琴(1797-1856)といった、そうそうたる顔触れの考証家達が揃っていました。この面々の内で、大田南畝の『半日閑話』、山崎美成の『博戯犀照』、美成と馬琴の二人が係った『耽奇漫録』に、ほぼ同内容の「うんすんかるた打方」に関する記録をが残されています。少なくとも彼等がうんすんかるたの事を知っていたのは間違い無く、少なからず関心を持っていたであろうと想像されます。勿論、彼等が天野政徳の言う「人々いへり」に含まれているかどうかは何とも言えませんが、この様な時代背景には留意しておくべきでしょう。つまり江戸後期の知識人や超マニアックな考証家達にとって、『天野政徳随筆』の「元亀年間のものならん」と云う記述が、荒唐無稽な珍説の類として非難の対象となる物では無かったと云う事です。
もしも、うんすんかるたの成立が定説通りの元禄後期頃だったとするならば、彼等にとっては100年ちょっと前の歴史事実であり、にも係わらず、誰一人としてそれを知らなかった事に成ります。まあ、彼等の知識、調査能力は所詮その程度のものだったと云う理解も可能でしょう。
しかし、彼等以外の人々も含めて、江戸中期以降に“うんすんかるたの元禄後期成立”に言及した人物は一人としていません。彼等の接し得た記録や口伝の類は、現代に伝わる資料より遥かに豊富であったと思われますが、にも拘らず“うんすんかるたの元禄後期成立”に関する記録は一切残されていません。この事実は、そもそも“元禄後期成立”が歴史的事実では無い事を示していると解釈すべきでしょう。
うんすんかるたの成立年代問題に関しては、いずれ整理して発表する積りです。
話が逸れてしまったので戻しましょう。
元亀以前のうんすんかるたの存在に関しては、100%無いとは言い切れませんが、まず99%は有り得ないと云うのが当方の見解です。勿論、新たな資料の発見でも有れば話は別ですが、その可能性も極めて低いと考えます。
もう一つ驚愕の記述が有ります。荻野梅塢による「骨牌の記」中の「是呂宋所レ製(これ、ルソンにて製する所)」の部分です。当方の第一印象を正直に言えば「さすがにこれは有り得ないだろう」と思いましたが、同時に「ルソンと云う具体名を挙げるからには、何等かの根拠が有ったのではないか?」とも考えました。
思い込みはいけないと反省したばかりです。否定にせよ肯定にせよ、論証無くしてはただの空想に過ぎません。とにかく様々な角度から、じっくりと検討した上で結論を出しましょう。もしかしたら結論は出ないかも知れませんが、それも又、一つの結論では有ります。
論を進める前に、日本とルソンとの交流史を概観しておきましょう。
両国間の交易や人的交流は、恐らくかなり古く(先史時代?)から有ったと考えられますが、カルタ史と関係の無い部分は省きます。交流が最も盛んだったのは安土桃山時代後期から江戸時代初期であり、奇しくもこれは我が国のカルタの黎明期と思われる時期とほぼ一致します。
交易の柱は二つ有ります。一つは豊臣・徳川政権が発行した朱印状による朱印船貿易であり、両国間の直接的な交易関係です。もう一つはルソンの中心都市であるマニラを占領し、アジア貿易の拠点としていたスペインとの南蛮貿易を介した間接的な関係です。天正十二年(1584)にルソンを経由したスペイン船が平戸に来港し、商館を開いた事によりスペインとの交易が本格化しました。海外進出のライバルであるポルトガルには、約40年の遅れをとっています。
。
朱印船貿易やスペインとの南蛮貿易による、ルソンと日本との交易や人的交流の最盛期は江戸初期です。マニラには日本人町が形成され、最盛期の元和年間(1615-1624)には三千人程の日本人が暮らしていた様です。しかし両国の蜜月時代はそう長くは続きませんでした。江戸幕府は寛永元年(1624)にスペインとの交易を断絶し、更に寛永十二年(1635)に発せられた日本人の海外渡航・帰国の禁止によって朱印船貿易も終焉を迎えます。これ以降、海外貿易の中心はオランダと中国(明朝)となり、ルソンとの関係にもピリオドが打たれます。
この様な日本とルソンとの関係について、江戸後期の人々がどれ程の知識を持っていたのかは分かりません。しかし天野政徳や荻野梅塢レベルの知識人ならば、或る程度の知識を持っていたものと想像されます。そうで無ければ、そもそもルソンの名が出て来る事は無いでしょう。「是呂宋所レ製」の「是(これ)」をどう解釈すべきかが難しい所で、二通りの解釈が可能です。
前者の場合は、“うんすんかるたには色々あるが、天野政徳所有の物に限ってはルソン製だと鑑定する”と云うニュアンスになります。あえて“ルソン製”と指摘する背景には、多くのうんすんかるたは“ルソン製”では無い、つまり日本製だと云う認識が有るものと考えられます。
では、どの様な場合に“メイド・イン・ルソン”と云う鑑定が為されるでしょうか。一番確実なのは、そのうんすんかるた自体に“ルソン製”である事を示す直接的な証拠が有る場合です。現代ならば輸出品には原産国表示が義務付けられていますが、勿論当時はその様な規則も慣行も有りません。しかし、たまたまカルタの箱なり、添付文書なりに“ルソン製”と明示されていれば決定的な根拠と成ります。
しかし箱書きには製作者、製作年、簡単な由来等が記されているのが普通であり、製造地のみが記されるケースは考え難いですし、ましてや添付文書ならば更に多くの情報が記されていた筈です。もしそうならば、天野政徳や荻野梅塢はルソン製と云う情報だけでは無く、他の情報も書いていても良さそうなものですが、そうはしていません。よって天野政徳の所有していたうんすんかるた自体に“ルソン製”である事を示す直接的な証拠が記されていたと考えるのは難しいでしょう。
だとすれば、梅塢がルソン製のうんすんかるたの存在を示す何等かの先行記述を知っていて、更に天野政徳のうんすんかるたに、それがルソン製だと推測される何等かの特徴を見出して“ルソン製”と鑑定したと云う事でしょうか。しかし、少なくとも当方の知る限り、うんすんかるたとルソンを結び付ける他の資料は現存していませんので、これを資料的に裏付ける事は出来ません。又『天野政徳随筆』に載る挿絵の札にはルソンと結び付く様な要素は全く見られません。
この様に考えると、荻野梅塢が天野政徳のうんすんかるたに限ってルソン製だと鑑定する状況は考えにくいと思います。
だとすると、荻野梅塢がうんすんかるたその物がルソンで誕生したと考えていた可能性を検討する必要が有ります。
仮に“うんすんかるたルソン起源説”と呼んでおきますが、荻野梅塢はその様な記録や口伝を知っていたのでしょうか? しかしもしそうならば、それを引用として記していないのは不自然です。先行記録の引用は自らの主張を裏付けるものであり、同時に、さりげなく自分の博識をひけらかす効果が有ります。積極的に為されて然るべきなのに彼はそうしていません。つまり“うんすんかるたルソン起源説”と云う先行認識が有ったとは考えにくいと云う事です。勿論、現代にもその様な記録は伝わっていません。
より有り得そうなのは、荻野梅塢自身が自らの知識を総動員してルソン製だと推測した、と云う事でしょう。先ず、彼は江戸初期に日本とルソンとの間に深い交流が有った事、ルソンが南蛮貿易の重要な拠点の一つであった事を知っていたものと考えます。又、彼は当時の他の多くの知識人と同様に、カルタの起源が南蛮からもたらされた物である事を認識していた可能性が高いでしょう。だとすれば、うんすんかるたの起源も又西洋にあると考えても不思議では有りません。尚、彼が日常的に目にしていたカルタは所謂めくり札であり、それと比べるとうんすんかるたの絵柄に西洋的な要素を感じ取ったで有ろうと想像されます。更にうんすんかるたの絵柄には西洋的な要素だけでは無く、中国風・日本風といった東洋的な要素も見られます。よって、うんすんかるたは西洋と東洋の文化が混在する地域で誕生したのではないかと考え、かつて西洋(スペイン)・中国・日本を結ぶ国際的な貿易都市であったマニラを思い浮かべ、ルソン製と考えたのではないでしょうか。つまり“うんすんかるたルソン起源説”は、荻野梅塢の提唱した一つの仮説と位置付けるべきだと考えます。
フ~ 我ながら強引過ぎるのは重々承知していますが、何とか“うんすんかるたルソン起源説”を議論の俎上に乗せる所迄漕ぎ着けました。これが魅力的な食材、いや題材である事は間違い有りません。後はどう料理するかですね。
“うんすんかるたルソン起源説”には『天野政徳随筆』以外に何の資料根拠も無いのが現実です。生き延びる為には、“ルソン起源”も有り得ると納得させる情況証拠を示すしか道は有りません。で、唐突ですが、ここで江橋崇先生に御登場頂きます。先生が“うんすんかるたルソン起源説”に賛同されるか否かは別にして、少なくとも大いに関心を寄せて頂けるであろうと思われるからです。
当方はこれ迄、江橋先生はうんすんかるたの研究に関しては余り積極的では無い印象を持っていましたが、『日本かるた文化館』では「江戸期かるた文化の研究」の章に“2ー5「うんすんカルタ」と「すんくんカルタ」”の項を設けて、様々な研究成果を発せられています。読んだ感想を言わせて頂けば、素晴らしいの一言に尽きます。これは決してお世辞では無く、ましてや皮肉でも無く、一研究者としての率直な感想です。特にうんすんかるたの図像に関する分析と考察は、鳥肌が立つ程の感動を覚えましたし、その他にも優れた論考や、魅力的な新説を唱えられています。とても密度の濃い内容であり、江橋先生の凄さを再認識させられた次第です。
とは言え、個々の論証や事実認定には納得のいかない点も多々有ります。それらについてはこの後、遠慮無く批判させて頂きますが、それらのマイナスポイントを差し引いてもトータルとして素晴らしいと云う感想に変わりは有りません。今後、うんすんかるたについて語ろうとする者にとって、必読の論考である事に疑問の余地は有りません。
前置きが長く成りましたが、先生はそこで“うんすんかるた中国伝来説”とでも言うべき説を唱えられています。先生ご自身の言葉を引用すれば、次の様な内容です。(以下、緑字の部分は、特に出典記載の無い限り『日本かるた文化館』からの引用です。)
江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)の早い時期に、一組四十八枚の南蛮カルタとは別に、中国経由あるいは東南アジアの中国人社会経由でポルトガル船によって、一組七十五枚前後(タロットカードは一組七十八枚)の中国化したタロット遊技とそのカードが伝来し、その「ウン」と「スン」の札の図像は伝来当時の中国風のものが長く残った
これは過去の著書や論文には見られない内容ですので、比較的最近に思い至られたものと思われます。今迄にも多くの定説に異を唱えて、独自の新説を発信し続けられている江橋先生の面目躍如と言える斬新な説です。当方もカルタの伝来過程や遊技法に、中国が関与した可能性に関心を持っていますので、先生の新説を大変興味深く読ませて頂きました。
江橋先生は『天野政徳随筆』「骨牌の記」の“ルソン製のうんすんかるた”の事はご存じ無いと思われますが、奇しくも先生の言う「東南アジアの中国人社会経由」そのものです。当時のルソンには、日本人を遥かに上回る、数万人規模の福建系の中国人が暮らしていて、かなりの規模の「中国人社会」が形成されていました。更に、先述の様にルソンと日本との間には交易の太いパイプが有りました。
“ルソン製”の真偽は別にしても、その様な認識が有るという事自体が江橋先生の“うんすんかるた中国伝来説”の傍証と成りますし、逆に“中国伝来説”が信憑性の高いものならば、当方の“うんすんかるたルソン起源説”も簡単に否定出来ない事に成ります。
と云う訳で、少々横道に逸れる事には成りますが、“うんすんかるた中国伝来説”について詳しく検討しておきましょう。
【4】江橋崇先生の“うんすんかるた中国伝来説”
当方の理解する限りでは、江橋先生は中国伝来説の主たる根拠として“資料的根拠としての『歓遊桑話』の記述”と、“「うん」と「すん」の絵柄が中国風である事”との二点を挙げておられます。
先ず“資料的根拠”として挙げられている『歓遊桑話』の、該当する箇所を見て頂きましょう。
これについて江橋先生は『日本かるた文化館』に於いて、次の様に指摘しておられます。
ここで、あまりにも簡単な記述であるので容易に見過ごされるのが「唐渡の加留太」という表記である。江戸時代の文献史料で、カルタが、いかなる種類のものであれ、「唐渡」、つまり中国から伝来したと指摘しているのはこの『歓遊桑話』だけである。カルタは蘭人が伝えて長崎から入ってきたというのが常識の社会で、中国から渡ってきたと書くのは破天荒なことである。うんすんカルタに絞って考えてみても、その伝来の経路を特定して記述したのは空前絶後である。これ以外に、うんすんカルタの発祥の経緯を述べた者はいない。残念なことに、『歓遊桑話』にはうんすんカルタの遊技法に関する記述はないが、それでも、これがうんすんカルタ史上の最重要な文献史料であることは確かである。「唐渡の加留太」という重要な表記をまるで無視して恥じない研究姿勢を改めて、ひとまずはこれを真剣に受け止めることが望まれる。
まことに耳の痛いご指摘です。『歓遊桑話』に関しては当サイトでも取り上げて検討(但し未完)しておりますので何度も繰り返し読んで来ましたが、思い込みというのは恐いもので、恥ずかしながら「唐渡」を“西洋伝来”の意味だとばかり思っていました。先生のご指摘の通り“中国伝来”の可能性にも留意すべきでした。
ところで江橋先生は“唐渡り”の語を、「つまり中国から伝来したと指摘している」と断定されていますが、これが“西洋伝来”の意味である可能性については検討されていません。当方とは逆に“唐渡り=中国伝来”に間違い無いと思い込まれているのでしょうか。勿論“唐渡り”の原義は“中国伝来”です。しかし近世には、広く他の諸外国(特に西洋)からの輸入品をも指して使われていた事をご存じ無いとは思われませんが、それをあえて無視して“唐渡り=中国伝来”と断定しての議論はフェアーな立場とは言えません。最初に検討すべき問題は、桑林軒が『歓遊桑話』において「唐渡」を“中国伝来”か“西洋伝来”か、どちらの意味で使っているのかと云う点でしょう。『歓遊桑話』の記述に沿って検討していきましょう。
江橋先生もこの部分に関して色々と考察を重ねておられますが、失礼ながらいつもの先生らしいキレが感じられず、論理的に明快な道筋を導き出せずに苦労されている印象を受けます。それは“唐渡り=中国伝来”を前提として考察されているのが原因の様に見えます。誤った前提に基いていくら論証を重ねても、論証が行き詰まるのは必然です。“唐渡り=西洋伝来”と考えれば、スッキリと筋道の通った解釈が可能です。
更なる脱線に成りますが、『歓遊桑話』のうんすんかるた記事に関して、もう一つ付け加えておきたい論点が有ります。ここでの記述も又、うんすんかるたの成立が元禄後期以降だと云う定説とは相容れないものだと云う点です。もしも定説が事実ならば、桑林軒はそれを知らなかった事に成ります。
彼は、先ず七十五枚のうんすんかるたが存在し、それを基に四十八枚の江戸カルタが作られたと主張しています。もしも彼が“うんすんかるたは元禄後期に成立した”と云う現代の定説を事実として認識していたならば、江戸カルタの誕生はそれを更に下ると考えていた事に成りますが、それが有り得ない事は当時でも分かり切った事です。桑林軒がその様なトンチンカンな歴史観を主張をする筈は有りません。彼がうんすんかるたの起源をかなり古いものだと考えていたのは確実です。
『歓遊桑話』の成立は『大東急記念文庫貴重書解題』では「享保頃の刊か」とし、当方は(強引に)享保十六年(1731)と推定していますので、元禄十五年(1702)は僅か30年程前の事になります。但し、佐藤要人先生は「享保末年~宝暦間の出版と推定される。所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚で、元文・寛保頃の刊本かも知れない」と、かなりの幅を想定されていますので、少し遅めに宝暦初年頃(1751-)と仮定してもせいぜい50年前の事に過ぎません。つまり、通説でうんすんかるたが誕生したとされる元禄後期は、僅か30~50年前の事です。『歓遊桑話』執筆時の桑林軒の年齢は不明ですが、30~50年前といえば自身が直接体験しているか、せいぜい親世代の出来事であり、当時の現代史と言える範疇です。少なくとも世間からその記憶が完全に失われるとは考えられません。
『歓遊桑話』を見れば、彼がかなりの勉強家、読書家であり、特にカルタに関しては古今の書物の調査を尽くしていたのは間違い有りませんが、彼にはうんすんかるたが元禄後期に誕生したと云う認識は全く有りません。もしも“元禄後期成立”が歴史的事実ならば、それを知らなかった彼は、一人で研究に没頭するばかりの、世情に疎い専門馬鹿だったのでしょうか。世間の常識を教えてくれる友達もいなかったのでしょうか。これを桑林軒個人の資質の問題に帰するのか、或いはそもそも“元禄後期成立説”自体が誤りなのか、どちらが合理的であるかの判断は読者の皆様にお任せいたします。
前にも江戸後期の考証家達を引き合いに出して、同じ様な論証をしましたが、今回は時代的にも近く、カルタの専門的な研究者と見做せる人物による証言ですので、より重いものだと考えます。
次に“中国伝来説”のもう一つの柱である“「うん」と「すん」の絵柄が中国風である”と云う主張に関して検討致します。江橋先生は次の様に述べられています。
残されているどのうんすんカルタでも「ウン」と「スン」は見事に中国風の人物像で揃っている。日本国内の発祥なら、なぜ日本人らしい人物像にしなかったのであろうか。
ビックリしました!
確かに「すん」に関しては、殆どが「中国風の人物像」である事に異存は有りませんが、それとて当時の日本人がイメージする、中国人のステレオタイプ的な表現の範疇を出るものでは無く、強力に中国製説を支持するものとは思えません。
それよりも、果たして「うん」の絵柄が「中国風の人物像」だと言えるでしょうか? その描画様式が中国風だとおっしゃりたいのならば解らないでも有りませんが、どうも先生は描かれている題材が中国風だとお考えになっている様です。
「ウン」は七福神の図像であり、「ハウのウン」は大黒天、「イスのウン」は寿老人、「コップのウン」は布袋、「オウルのウン」は恵比寿、「グルのウン」は七福神外の達磨である。七福神は日本で考え出された編成であり、うんすんカルタ日本考案説の論拠になるが、内容的には、インドと中国の俗神である。中国からの伝来当時には「八仙」の図像であったものを同じ中国の俗神で日本人になじみの深い七福神に変えたのだろうか。それとも、日本オリジナルなのであろうか。
少なくとも「うん」に描かれている人物像(神像)の一部は、間違い無く「日本オリジナル」です。尚、「八仙」はうんすんかるたの「うん」のラインナップとは全く関係が有りません。何でいきなり持ち出されたのか理解不能です。
あのー・・・まさかとは思いますが、江橋先生は恵比寿が「インドと中国の俗神」では無く、日本発祥の神であり、インドや中国では全く知られていない存在である事を御存じ無いのでしょうか? まさか中国人のうんすんかるた考案者が、将来的に日本への販路拡大を見据えて、日本で人気のキャラクターである恵比寿を捜し出して「うん」の構成員の一人に採用したとでもお考えなのでしょうか?
又、大黒天は元々インドに由来し、中国経由で我が国に伝わった神ではありますが、その後日本神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)と混同される事によって福神として大ブレークして広く信仰されたものです。多くの(全てのか?)うんすんかるたに見られる、大きな袋を肩に掛け~♪、打出の小槌を持ち、米俵の上に立つ大黒様の姿は我が国独自のものです。恐らく中国にはこの様なスタイルの大黒天は存在しないでしょうし、そもそも大して人気のキャラでは無い筈です。
弁財天も同じくインドで誕生し、仏教を介して伝来した女神であり、我が国では弁天様と呼ばれて広く信仰されています。詳しくは知りませんが、恐らく中国では、日本における程の人気キャラでは無いと思われます。(全くの勘違いでしたので、削除しました。2022/08/10)
達磨は実在した中国の僧侶です。中国国内でも良く知られた存在ですが、我が国でも同等か、それ以上に有名な存在かも知れません。特に達磨をモデルにしたダルマさんは、江戸時代の人々から今どきの幼児でも知っている人気キャラクターです。元祖国民的ゆるキャラと言って良いかも知れません。
以上見て来た様に、「うん」の札に選ばれた福神には、日本独自のものである恵比須や、中国よりも寧ろ日本で
人気のキャラが含まれています。ハッキリ言わせて頂きます。「うん」の絵柄は決して中国風では無く、寧ろ日本風です。
もしもあくまでも“中国伝来説”に固執するならば、先生もおっしゃっている様に恵比寿や日本式大黒天は、我が国への伝来後に加えられたと考えるしか有りません。しかし勿論その様な物的証拠は存在しませんし、そもそも「うん」の絵柄が中国風である事を“中国伝来説”の根拠とする論理自体が破綻しています。
うんすんかるたの絵柄に関して、もう一点指摘させて頂きますが、グルの紋標として使われている“三つ巴紋”は極めて日本的な文様です。我が国では家紋に使われているのを始め、様々な場所に描かれている見慣れた文様ですが、中国では殆ど見られないものです。恐らく我が国発祥のものであり、少なくとも“中国風”の文様とは言えません。
この様に、うんすんかるたの絵柄には我が国固有のものが複数描かれています。江橋先生が“中国伝来説”の根拠として、うんすんかるたの絵柄が中国風である事を挙げるのは、全く的外れだと言わざるを得ません。
当方は、うんすんかるたはポルトガル伝来のカルタから生まれた江戸カルタを基にして、我が国で誕生したと考えています。少なくとも江橋先生の唱える“中国伝来説”は、その根拠自体が事実誤認に基くものであり、到底賛同出来るものでは無いという事です。
江橋先生はご自身の“中国伝来説”に関して、次の様に総括されています。
私から見ると、中国伝来説を全く無視して自説を展開している従来のうんすんカルタ史研究の大胆さは驚異である。私は、うんすんカルタは、ヨーロッパのカルタがアジアに入ってきて、どこか、東南アジアないし中国国内でヨーロッパ人と接触する機会の多かった中国人社会で「タロット」からうんすんカルタに変身して、それがポルトガル船ないし中国船によって日本に伝来し、日本国内では、その図像を微妙に日本風に変化させる微調整を経て使われてきたという歴史像を私の研究関心の外に追い出すことができない。江戸時代初期(1603~52)に、そういう経路で伝来した可能性を捨てることができない。
私から見ると、十分に検討されていない根拠に基づいて“唐渡り=中国伝来”“「すん」「うん」の絵柄=中国風”と断定し、新たな歴史像を唱える江橋先生の大胆さの方が余程驚異です。
尚、江橋先生はうんすんかるたがタロットから変化した可能性を示唆されていますが、これも同意出来ません。ちなみに松田道弘氏も『トランプものがたり』(岩波新書 1979年)で、この可能性について検討されていますが、最終的な結論は保留されています。
当方は二つの理由で、タロット起源は無いと考えています。
タロットカード起源説は、両者の枚数が近い事を発想の起点としていると思われますが、それは偶然だと考えた方が良いでしょう。
“うんすんかるたルソン起源説”の強力な後ろ楯に成るかと期待された“中国伝来説”でしたが、残念ながら余り頼りに成るものでは有りませんでした。頼みの綱が切れてしまった今、もはや潔く“うんすんかるたルソン起源説”を捨て去るべき時なのでしょうか?
いや、諦るのは簡単ですが、ここはもう少し未練がましく粘ってみたいと思います。そもそも他の人の説に頼ろうとしたのが間違いでした。やはり、何とか自力で解決すべきでしょう。とは言うものの、非常にキビシイ状況にあるのは確かで、どうしても克服せねばならない問題が有ります。
我が国の江戸カルタやうんすんかるたは“ドラゴンカード”の存在によってポルトガル系カルタの系譜に属すると考えられますが、当時のルソンはスペインの影響下に有り、中でも日本との貿易拠点であるマニラはスペインの占領下に有りました。従って、そこで主に遊ばれていたのはスペイン系カルタだった筈です。“うんすんかるたルソン起源説”が生き残る為には、スペイン系カルタとうんすんかるたとの間に、何等かの接点が有った事を示す必要が有ります。
先ず最初の論点は、スペイン系カルタと我が国との関係です。近世初期の日本にポルトガル系カルタが伝わったのは確実ですが、ではスペイン系カルタはどうか? で、先程勇ましく何とか自力でと言った舌の根も乾かぬ内に何ですが、この問題を解く為には再び江橋先生のお力をお借りせねば成りません。
先生は『日本かるた文化館』で“スペイン系カルタ伝来説”(当方が勝手に命名しました)と呼ぶべき説を唱えられています。
ところで、カルタ模様の器具には、ひとつ大きな謎がある。かつて『南蛮漆藝』や『ブック・オブ・ブックス 日本の美術●38日本の漆工』で紹介された「縞ウンスンカルタ蒔絵重箱」(後者では「うんすんかるた蒔絵重箱」)がある。数枚の天正カルタが散らして描かれているが、上蓋には「オウルのキリ」と「イスのソウタ」がある。問題なのはこの「イスのソウタ」の図像である。これは明らかに男の兵士で、楯を振りかざす戦闘のポーズである。これと酷似するのが『童遊文化史』で紹介された「天正かるた文様蒔絵手焙」である。描き方は前者よりやや丁寧であるが、同じカルタ札を写したと思われるほどに酷似している。さらに、同じ男性のソウタを描いた模様の文箱が三池カルタ・歴史資料館にある。この時代の遺物で、三点もあれば事件である。
問題は男性のソウタをどう理解するかである。これまでのカルタ史研究では、伝来したカルタがポルトガルのものであるという論拠の一つとして、この国のカルタでは、ソウタは女性であるとしたシルビア・マン学説が挙げられてきた。それなのに、江戸時代初期(1603~52)の日本には男性のソウタも伝わっていたのである。ソウタを男性として描くスペイン製のカルタも伝わっていたということである。
さすが江橋先生ですね。当方もこれらの特異なデザインのカルタの事を認識してはいましたが、恥ずかしながら“江戸カルタ=ポルトガル系”と云う固定観念に縛られていて、スペイン系カルタの影響には全く思い至りませんでした。我が国とスペインの関係を考えれば、スペイン系カルタの影響の可能性は十分に有りますし、男性像のソウタについての論証も得心がいきます。その影響の程度は別にして、我が国にスペイン系のカルタが伝わっていた可能性は高いと考えます。
江橋先生は「スペイン製のカルタも伝わっていた」証拠として、①『南蛮漆藝』や『ブック・オブ・ブックス 日本の美術●38日本の漆工』で紹介された「縞ウンスンカルタ蒔絵重箱」、②『童遊文化史』で紹介された「天正かるた文様蒔絵手焙」、③「三池カルタ・歴史資料館にある」「同じ男性のソウタを描いた模様の文箱」の三種を揚げられていますが、当方も我が国にスペイン系カルタが伝わっていたと推測するに足る、信頼出来る物的証拠だと考えます。
ここでちょっと指摘しておきたいのは、これらのカルタの絵柄が、日本に伝わったスペイン系カルタそのものを描いた物では無く、日本流にアレンジされたカルタだと云う点です。その根拠は、そこに描かれている“コップ”の紋標のデザインに有ります。
前にうんすんかるたの“コップ”が、日本風の“巾着型コップ”である事を説明しました。『ブック・オブ・ブックス 日本の美術●38日本の漆工』の「縞ウンスンカルタ蒔絵重箱」には“コップの2”と“コップの7”、『童遊文化史』の「天正かるた文様蒔絵手焙」には“コップの3”の札が見えますが、これらも全て“巾着型コップ”であり、スペイン系カルタの“聖杯型コップ”ではありません。従ってこれらは、日本流にアレンジされたスペイン系カルタです。
ここで、予想される反論について先回りしてお答えしておきしょう。「これは“コップ”の絵柄が引っ繰り返っているのでは無く、スペイン系カルタの札自体を天地逆に描いているのではないか?」とお考えになる方もいらっしゃるでしょうが、それは有りません。『童遊文化史』の“コップの3”の札には、紋標が上段に一つ、下段に二つ描かれていますが、この配置はスペイン系カルタでも、日本式カルタでも共通です。従って、札自体が天地逆に描かれている事は有り得ません。
これらカルタは舶来のスペイン系カルタそのものでは無く、江戸カルタにスペイン系の“男性像のソウタ”を採り入れて作られたものと考えて良いでしょう。そうだとすれば、我が国にはポルトガル系カルタを基にした江戸カルタとは別に、スペイン系カルタの特徴を採り入れた、もう一つの江戸カルタが存在した事になります。但し、このスペイン系江戸カルタの広がりは限定的なものであり、存在した期間も短かったと思われます。
これで一応、スペイン系カルタと江戸カルタとの繋がりを確認出来ました。江戸カルタとうんすんかるたには深い繋がりが有りますので、スペイン系カルタ、江戸カルタ、うんすんかるたを繋ぐ、一本の糸が確保されました。
江橋先生の着眼点の鋭さにはいつも驚かせられますが、一方で奇妙な歴史認識にもしばしば驚かせられます。上記に続けて、次の様に様に述べられています。
だが、スペイン船との交易の記録はない。
「スペイン船との交易の記録はない」ですと~??? 思わず二度見、いや三度見しました。衝撃的な発言で混乱した頭で“何か深い裏の意味でも有るのか?”と勘ぐりもしましたが、いくら考えても字面通りの意味にしか読み得ません。先生は、教科書にも載っているスペインとの交易など無かったとされます。
前にも書きましたが、スペイン船は天正十二年(1584)に初めて平戸に来航し、当地を治めていた松浦氏の庇護の元に商館を開き、その後も幾度かスペイン船が来航したと認識しています。但し、豊臣秀吉がキリスト教の布教に警戒心を持ち、スペインとの関係に距離をおいたのも事実です。江戸時代に入ると徳川家康はスペインとの交易に積極的ではありましたが、スペインのアジア貿易の拠点であるルソン島のマニラでの、我が国の朱印船を介した交易が主流であった様で、この時期にスペイン船が直接日本に来航したケースが有ったのどうかは知りません。多分、江橋先生はこの頃の情況を想定して「スペイン船との交易の記録はない」と言われたものと想像しますが、何の説明も無しにこの様に書いちゃダメでしょう。鵜呑みにした学生が試験の答案に書いたなら、間違い無く不正解とされます。
まさか江橋先生が、天正以来のスペイン船来日の記録は捏造であり、史実では無いとお考えだとは思えませんし、ましてやこの様な基本的な事項をご存じ無いとは考えられません。先生の真意を測りかねますが、引き続き、我が国にスペイン船は来ていないと云う前提の基に論を進められます。
したがって、ありうるのは、ポルトガル本国でもスペインのカルタ札との相違はあまり意識されることなく混在していて、ポルトガル船がスペイン製のカルタを運んできたという事情である。これは大いにありうる。ポルトガル船や後のイギリス船などにスペイン人の船員が雇用されて乗り込んでいたこともあったし、バタビアなどのアジアの交易港で売買されていたカルタの中にスペイン製の商品が混じっていても不思議ではない。そもそも、当時のカルタの愛好者は、ポルトガル製とスペイン製を区別していたのかも怪しい。
確かに、スペイン船の来航以前に、ポルトガル船の乗組員によってスペイン系カルタがもたらされていた可能性は有り得るとは思います。しかし実際問題として、平戸に来航したスペイン船の乗組員や、マニラを拠点とした朱印船貿易を通じて多くのスペイン人との接触が有った筈ですから、直接彼等から手に入れたと考える方が、より現実的でしょう。
謎はこの先にある。日本では新村出の発見以来、カルタ用語はポルトガル語と考えるのが普通になっているが、よく調べて見ると、中には相当スペイン語が混じっている。だが、日本にはスペイン人が来た例は乏しい
更に先生は、スペイン人の来日自体が「乏しい」と指摘されます。何人位を想定して「乏しい」とされているのでしょうか。確かに同時期のポルトガル人や、後のオランダ人に比べれば少ないでしょうが、有名な所ではフランシスコ・ザビエルはスペイン人ですし、スペイン国王の使者が徳川家康に謁見もしています。他のスペイン人宣教師や商人、スペイン船の乗組員をトータルすれば、それなりの数のスペイン人が来日している筈です。
さすがに宣教師達がカルタを持ち込んだとは思えませんので、天正十二年以降に来日したスペイン人商人や船員によってスペイン系カルタがもたらされた可能性が高いと考えます。それが、先に伝来したポルトガル系カルタの影響を受けて誕生していた我が国のカルタに、何等かの影響(遊技法を含め)を与えた可能性を否定出来ません。
ちょっと話が逸れますが、又しても江橋先生に苦言を呈しておきたい点が有ります。先生は“スペイン系カルタ伝来説”の根拠の一つとして、我が国のカルタ用語の「中には相当スペイン語が混じっている」と指摘されています。普通ならば続いて“例えば・・・”と、具体例を幾つか紹介する文脈、いや、そうせねばならない文脈なのですが、江橋先生はそれを全く示されていません。まあ、今迄にも何度も有ったパターンではありますが。
ポルトガル語とスペイン語は良く似ていますので、どちらが語源かハッキリしないカルタ用語は幾つも有りますが、浅学の当方には、明確にスペイン語由来であると考えられるカルタ用語の例が一つも思い浮かびません。先生は「よく調べて見」られたとの事ですので、その努力には敬意を表しますが、残念ながら具体例が示されなければ“スペイン系カルタ伝来説”の根拠としての説得力は全く有りませんし、未来の研究者に何も寄与しないと云う事に思い至って頂きたいと願います。
と云う訳で、江橋先生の“スペイン系カルタ伝来説”を、そのまま丸ごと受け入れる事は出来ませんが、その根幹部分である“我が国にスペイン系カルタが伝来したであろう”と云う事実認定については、全面的に賛同致しますし、我が国のカルタに対するスペイン系カルタの影響と云う観点に気付かせて頂いた点には感謝申し上げます。“うんすんかるたルソン起源説”はギリギリ首の皮一枚で繋がっています。
【6】スペイン系カルタと、うんすんかるたとの関係前稿でスペイン系カルタとうんすんかるたが、江戸カルタを介して、一本の糸で繋がっている事を示しましたが、それが余りにも頼りない糸であるのも自覚しています。出来ればスペイン系カルタとうんすんかるたを、直接結び付ける鍵を見つけたいと思い悩んでいた所、突然一つのアイデアが閃きましたのでご説明致します。本稿の目玉の一つと言える新説(珍説?)です。
うんすんかるたと江戸カルタとの相違点の一つに、江戸カルタでは数標1の札であった“ロバイ(ドラゴンカード)”の扱いを、うんすんかるたでは絵札(切り札)の一種とし、代わりに紋標を一つだけ描いた“1の札”を新設した点が挙げられます。これはちょっと不思議な発想ですよね。“よみ”“かう”“きんご”といった江戸前期の代表的な技法では、ドラゴンカードは1の数札として扱われます。“ドラゴンカード=数標1の札”と云う共通認識が有る中で、それを破るのは当時としては画期的なアイデアだった筈です。如何にしてこれを思いついたのでしょうか? 「たまたま偶然閃いたのであろう」と言ってしまえばそれ迄ですが、それでは面白くも何とも有りませんので、何かもっともらしい理屈をでっち上げて見ましょう。
発想の出発点は、この“閃き”にはヒントとなった何等かの手本が有ったのでは無いかと云う点です。では、今迄見過ごされていた“手本”とは何か? これ迄の話の流れから、薄々感付かれている方もいらっしゃると思いますので、さっさと結論を言ってしまいましょう。それはスペイン系カルタです。ここで江橋先生の“スペイン系カルタ伝来説”と繋がる訳です。
スペイン系カルタには、ポルトガル系カルタの大きな特徴であるドラゴンカードは含まれておらず、1の札には紋標が一つだけ、それも比較的大きめに描かれているのが一般的です。そしてうんすんかるたの1の札にも、紋標が一つだけ大きく描かれています。うんすんかるたの1の札の考案に、スペイン系カルタの影響が有った可能性は無視出来ません。又、江橋先生が指摘されていた男性像の“ソウタ”もスペイン系カルタの特徴ですが、うんすんかるたの“ソウタ”にしばしば男性像が見られるのも、スペイン系カルタの影響である可能性も考えられます。つまり、うんすんかるたの考案者はスペイン系カルタを知っていて、その特徴を採り入れて1の札を考案したと云う説をブチ上げたいと思います。多分、今迄に誰も明言していない新説だと思います。
但し今の所、江橋先生の“スペイン系カルタ伝来説”以外にこれと云った傍証は有りませんのであまり自信は有りませんが、かと言って強く否定すべき根拠も思い浮かびません。少なくとも荒唐無稽なヨタ話や珍説奇説の類いでは無く、仮説として十分成り立つものと考えます。
スペイン系カルタとうんすんかるたの間の、直接的な関係を示せた事で“うんすんかるたルソン起源説”は何とか生き延びていけそうです。ルソンには大規模な日本人コミュニティーが存在しており、そこに江戸カルタが持ち込まれていた可能性は十分に有ります。うんすんかるたの成立にスペイン系カルタの影響が有ったと云う仮説が正しいならば、スペイン系カルタが主流であったであろうルソンで、江戸カルタとスペイン系カルタの特徴と、日本風の意匠を組み合わせて、うんすんかるたが生まれたと云う経緯が考えられます。更に、出来上がったうんすんかるたを、日本に届けるルートは確保されています。もしも、うんすんかるたの起源を日本国内以外に求めようとするならば、その有力な候補地としてルソンの名を挙げる事は許されるでしょう。
“うんすんかるたルソン起源説”に関する考察は、一旦ここ迄とし、最終的な評価はもう少し時間を掛けて下したいと思います。
さて、話が余りに拡散してしまいましたので、この辺で一旦、本筋である『天野政徳随筆』に戻りましょう。
次に『天野政徳随筆』に描かれている挿絵について考えたいと思います。
『天野政徳随筆』には「こゝに其図をいだす。かるたは金地極彩色なり。」と記されて、“グルの馬”と“イスのソウタ”の二枚の挿絵が描かれています。「金地」が金箔紙なのか、金泥による着色なのかは判りません。
上段が“グルの馬”で、鎧(よろい)兜(かぶと)に身を包んだ騎馬武者が描かれています。全体的には日本的な武者姿と云う印象を受けますが、唯一奇妙に感じられるのは兜の形状です。当方が思い浮かべる武者兜の標準的なイメージは、頭部を覆う鉢(はち)の部分はドーム型で、額の位置に金属性の鍬形(くわがた)が付き、左右と後方に錏(しころ)が垂れている物です。しかし、この“グルの馬”の兜には鍬形が付いておらず、頭頂部が平らになっている点に少し違和感を覚えます。あくまでも個人的な感想ですが、一種異国風の雰囲気も感じ取れます。勿論、当方には日本式にせよ西洋式にせよ、兜の形状に関する専門的な知識は有りませんし、当時の人々の兜に対する標準的なイメージに関する知識も有りません。繰り返しますが、あくまでも個人的な印象に過ぎません。
馬は全身黒毛で、防具か飾りの様な物を身に付けています。右方向を向き、左前足を軽く曲げている為、ゆっくりと歩いている様な印象を受けます。武者は右肩越しに後ろを振り向いており、右上にグルの紋標である三つ巴紋が独立して描かれています。
下段が“イスのソウタ”で上半身のみ甲冑を纏った女武者の立ち姿です。兜は被っておらず、髪は結っていないすべらかし髪で、近世初期以前の一般的な日本女性の髪形です。下半身には鎧や脛当を着けておらず、ゆったりとしたズボン風の物を穿いています。これも日本風と云うよりも、寧ろ中国風か西洋風と云う雰囲気も感じられ、上半身の鎧とはアンバランスな印象を受けます。
右手にはイスの紋標である剣を掲げ持ち、下げた左手には小型の龍を掴んでいます。女武者の視線はその龍に向けられている様です。パウとイスのソウタに描かれる龍はポルトガル系カルタに由来するもので、初期国産カルタや、一部のうんすんかるたに見られるものです。
つまりこの札は“女性像のソウタ”“イスのソウタの龍”と云う、明らかにポルトガル系カルタの特徴を受け継いでいながら、絵柄は基本的に“純日本的な女武者像”で有り、更に“国籍不明の穿き物”と云う特徴をも併せ持つ、何とも奇妙な絵柄だと云う印象を受けます。
この挿絵の出来栄えが実に見事なものである事は、掲載した不鮮明な画像からでも感じ取って頂けると思います。個人的には、本書の全挿絵の中でもダントツNo.1の出来栄えだと思っています。では、この挿絵を描いたのは誰なのでしょうか?
天野政徳に対する評伝によると、画力のレベルもかなり高かった事が窺われますので、挿絵も全て彼の手によるものと考えて良いと思われます。そもそも『天野政徳随筆』は出版を前提にしている著作では有りませんので、他者に挿絵を依頼する様な状況は想像出来ませんし、ましてや著者本人がそこそこの画力を有しているならば、尚更有り得ないでしょう。
当時のこの種の随筆類の内で挿絵が添えられている物はそれほど多い訳では無く、寧ろ少数派だと言えますし、しかもこれ程レベルの高い挿絵が添えられているのは希有な例だと思います。『天野政徳随筆』に多くの挿絵が添えられているのは、彼が優れた画力を有しており、そこそこの自信を持っていたなればこその事であり、従って挿絵も全て天野政徳自身の手による物であるのは間違い無いでしょう。
ところで実を言うと、このうんすんかるたの挿絵が余りにみごとな為、最初に“大成版”を見た時、これは絵では無く本物のうんすんかるたの写真だと思いました。つまり『天野政徳随筆』の原本には現物の札が添付されていて、それを写真製版した物だと思ったのです。或いは、全く別個のうんすんかるたの写真を掲載した可能性も考えました。緻密な描写は勿論の事、絵柄全体が墨絵では再現不可能と思われる質感を持っており、絵柄のバックにごく淡い地色が確認される点などから写真製版に違いないと思われます。本書中の他の挿絵と比べても明らかに異質なものです。
しかし冷静に考えれば、『天野政徳随筆』に本物のうんすんかるたが添付されていた可能性は無いでしょう。天野政徳は「こゝに其図をいだす」とハッキリ言っていますし、もし現物を添付するなら「かるたは金地極彩色なり」と、わざわざ説明する必要は無いでしょう。
では現物で無いならば、何故他の挿絵とは異質の質感を感じさせるのかを考えると、有り得る可能性は一つしか思い浮かびません。それは、他の挿絵とは異なった描画法によって描かれていると云う事です。具体的に言えば、この挿絵だけは多色の絵の具で描かれていて、それを写真製版したと考えます。多色ならば墨一色と違って、細部も質感をもって描き分ける事も可能です。バックの地色は金の代りに、黄色系か、淡い黄土色で代用しているとすれば、わざわざ「かるたは金地極彩色なり」と断っているのも納得がいきます。
勿論、全くの想像に過ぎませんし、そもそも彼が多色画の技術を持っていたかどうかも知りません。無窮会文庫の原本を確認すれば一発で解決する問題なのですが、原本の閲覧が叶わない現状においては、せいぜい目一杯想像を巡らすしか有りませんし、妄想する事自体がとても楽しい作業です。
続いて“大観版”の挿絵をご覧頂きましょう。“大成版”とほぼ同じ絵柄であり、“大成版”で想像した“全く別個のうんすんかるたの写真を掲載した可能性”が有り得ない事は明白に成りました。
“大観版”もそれなりに緻密に描き込まれてはいるのですが、受ける印象は“大成版”と大きく異なります。“大観版”は、いかにもペン画による模写を凸版に起こしただけと云う出来栄えであり、“大成版”の様な質感は全く感じられません。両者が全く別の製作過程によるものであるのは明らかです。
両者は同じ原本によるものですので、基本的に良く似ているのは当然です。しかし細かく見れば小さな違いが幾つか有りますが、それらは“大観版”では黒単色で再現せねば成らなかったと云う制約による、やむを得ない事だったと了解出来ます。しかし、それでは説明が付かない大きな相違点が一つ有ります。
グルの巴紋が“大成版”では左巻きなのに対し、“大観版”では右巻きに成っています。この点に関しては“大成版”が原画の写真製版、“大観版”が模写だと云う仮説に従えば、“大成版”が正しいと考えるしか無いでしょう。しかし“大観版”が概ね原画を忠実に再現している様に見える中、この部分だけうっかり描き間違えたと云うのも不思議ですし、それに気付かぬまま校了とされた経緯も理解不能です。当時の出版業界はそれ程大らかだったと云う事でしょうかね? この点に関しては、いくら考えても合理的な説明は思い浮かばず、謎だと言うしか有りません。
『天野政徳随筆』のイスのソウタの図柄には何となく見覚えが有りましたので、記憶を頼りに手持ちの資料を当たった所すぐに見つかりました。『別冊太陽第9号 いろはかるた』(平凡社 1974年)の綴じ込み付録になっている、滴翠美術館所蔵の「ウンスンカルタ」(以下“滴翠蔵品”と略します)の“イスのソウタ”(左上)、“グルの馬”(右下)共に『天野政徳随筆』の札に良く似ています。滴翠美術館は複数のうんすんかるたを所蔵しており、これはその内の一組です。
『天野政徳随筆』の挿絵と、“滴翠蔵品”が良く似ている事は納得して頂けると思います。“滴翠蔵品”は金地に、少なくとも6色以上の絵の具を使って描かれており、この点も『天野政徳随筆』の「かるたは金地極彩色なり」の記述とも合致しています。両者の基本的な構図や、人物のポーズはほぼ同じと言って良いでしょうが、一方で明らかに異なっている点も幾つか有ります。
先ずグルの馬を見ましょう。馬の毛色が『天野政徳随筆』では全身暗色ですが、“滴翠蔵品”では胴体は白色で、足・たてがみ・尻から尾の部分が茶色です。又『天野政徳随筆』で気になる点として。兜の頭頂部の形状が偏平な事を挙げましたが、“滴翠蔵品”では通常見慣れたドーム形です。
ちなみに“大成版”と“大観版”とで異なっていたグルの文様の件ですが、“滴翠蔵品”では“大観版”と同じ右巻きに成っています。“大成版”が本来形であろうとした推測は、もう少し慎重に検討する必要が有りそうです。謎は増々深まるばかりです。
イスのソウタの方も違いが幾つか有ります。先ず女武者の装束ですが、下半身は『天野政徳随筆』と同様のゆったりとしたズボン様の穿き物を身に付けていますが、下部に脛当てを着けている点が大きく異なります。上半身の鎧の仕様も異なり、胴の部分こそ鎧らしい硬質の素材で出来ている様に見えるものの、“滴翠蔵品”の肩や腰の部分の防具は、素材も形状も何だか良く分からない、奇妙な描かれ方をしています。
もう一点、両方の札に共通した相違点が有ります。それはカルタ札のサイズに対する絵柄のサイズのバランスの違いです。『天野政徳随筆』では“大成版”“大観版”共に、絵柄が周辺に十分な余白を取って描かれているのに対して、“滴翠蔵品”ではイスのソウタでは剣の先端や竜の尻尾の先端が札の縁ギリギリに成っていたり、グルの馬では馬の右前足や尾がほぼ縁に掛かっています。又、グルの巴紋の位置が、『天野政徳随筆』では人物と少し離れた位置に有るのに対し、“滴翠蔵品”では鎧の肩に少し重なる様に描かれています。これは『天野政徳随筆』と同じバランスで描くと紋の一部が札からはみ出して欠けてしまうので、それを避ける為だと理解出来ます。
この様に絵柄自体は良く似ていながら、大きさのバランスの異なる事例は他のうんすんかるたや、初期国産カルタにもしばしば見られます。この様な現象が生じるメカニズムを説明したいと思います。
先ず確実に言えるのは、二種のカルタの絵柄がそっくりだと云う事は、同じ手本に基いて作られていると云う事ですが、その場合二つのケースが考えられます。
今回のケースがどちらなのかは断定出来ません。両品ともに見事な出来である事から、前者の可能性が高い様な気がしますが、想像の域を出るものでは有りません。
まあ、何れのケースにせよ製作方法に大きな違いは無いと思われます。最初の工程は手本の輪郭をトレースするか、或いは大量に製作する場合や金紙の様なトレース不可能な材質の場合には、輪郭のみの版(骨刷り)を作成し、全体の構図を描く事でしょう。そこに彩色と細部の描写を施し完成させると云う工程が考えられます。実際にこの様な方法が採られていたのかは分かりませんが、この方法ならばさほど高度な技術が無くても、一定レベルのコピー製品を作る事も難しくは有りませんので、特に新規参入製作者の場合はこの手法を採ったと想像されます。この場合、手彩色の工程で自らのアイデアを盛り込んで独自のデザインにする事は可能ですが、基本的な構図と絵柄のサイズは変更出来ませんので、完成品は手本と同じサイズに仕上がる事になります。
勿論、雛形や骨刷りに頼らずに、一から手描きの肉筆で描かれたカルタも多く有ったでしょう。特に特注の高級品の場合にはこのケースが主流と思われます。優れた画力を持つ製作者ならば、既存のカルタ札のデザインに忠実に、絵柄のサイズのみを大きくする事もさほど難しい事では無いでしょう。しかし、注文主がその様な事を望む理由自体が想像出来ませし、高い技術とプライドを持つ製作者がそれを良しとするとも思われません。まあ、依頼者の強い希望と報酬額いかんでは絶対に無いとは言いきれませんが、可能性は低いでしょう。
以上の考察から得られる結論は、ほぼ同一のデザインのカルタは、同じ見本に基く量産品であり、原則としてその絵柄のサイズは同じであると云うものです。
「じゃあ何で『天野政徳随筆』よりも“滴翠蔵品”の絵柄が大きく成っているのさ!?」と云う当然の疑問にお答えしましょう。それは“滴翠蔵品”のカルタ札のサイズが小さく成っているからです。つまり、絵柄のサイズは同じですが、カルタ札のサイズが小さく成っている為に相対的に大きく見えると云う事です。
現代の西洋式のトランプ類や、初期国産カルタやうんすんかるたの遺物と、現代の花札・地方札の大きさを比べれば、我が国のカルタが小型化の道を辿ったのは明らかです。『歓遊桑話』の「和朝之規則(ノリ)に合、其理を縮め」はこの事を言っているものと理解されます。尚、カルタの小型化の具体的な例は江橋先生が『日本かるた文化館』で紹介されていますのでご参照下さい。
小型化された要因としては、当時の日本人の手のサイズが西洋人に比べてかなり小さかった為、小型の方が扱い易かったのが最も大きな理由と思われます。
又、カルタが大衆化し、販売者間の競争が激化いていく中で、製造コストの削減の意味が有ったのかも知れないと考えます。江戸時代初期には紙はとても高価な物でしたし、特に金紙・銀紙等の高級素材を使用する場合、札一枚のサイズを少し小さくするだけで全体ではかなりのコストダウンになり、その分販売価格も抑えられます。もし現代に手描き・手作りで高級仕様のうんすんかるたを復元しようとするならば、人件費が費用のかなりの部分を占めるでしょうが、当時は寧ろ原材料費の占める割合がかなり高かったであろうと想像されます。
以上の論考を整理すれば、類似の絵柄でありながら絵柄の大きさが異なる(様に見える)物が有るのは、絵柄の絶対的なサイズは同じでありながら、カルタのサイズが小さくなっている為に相対的に大きく見えると云う事によると考えられます。ちなみに、このアイデアの大部分は江橋先生による考察の受け売りである事をお断りしておきます。
更にこの論考に従えば、絵柄のバランスの大きな方が“系統的に新しいものである”と推測されます。誤解の無い様に補足説明しておきますが、これは天野政徳のうんすんかるたと“滴翠蔵品”といった、個別のカルタ間の先後関係を特定するものでは有りません。あくまでも“系統”としての先後関係を推測する手掛かりに成ると云う事です。
以上、類似の絵柄でありながら、大きさのバランスの異なる札が生じるメカニズムを説明しましたが納得して頂けたでしょうか。
余談に成りますが、恐らく江戸カルタ製造の歴史に於いて、既存のカルタのコピーと云う行為が繰り返されていたであろう事は想像に難く有りません。ならば出来上がりが手本よりも劣った物に成って行くのは必然です。江戸後期のめくり札や、近代の地方札の一部がメチャクチャに崩れたデザインに成っているのは、この様な過程の繰り返しに起因するのかも知れないと想像します。
最後に、『天野政徳随筆』の挿絵に採り上げられたのが何故この二枚だったのかと云う問題を考えます。これも幾つかの経緯が考えられます。
何れも有り得ますし、天野政徳の記述からは何れかが正答と断定する事は出来ませんが、一応検討して見ましょう。
①は自然な解釈に思えますが、気になるのは“グルの馬”が有る事です。どういう意味かと申しますと、グルの札が有る事によって、これが通常のカルタの一種では無く、うんすんかるただと特定出来る訳です。たまたま持っていた二枚の内の一枚が、偶然グルの札だったとはちょっと出来過ぎでは無いでしょうか? いや、それ程の事でも無いか・・・
その点②のケースならば、限られた手持ちの札の中から、うんすんかるたである事が明確に分かり、且つ見栄えの良い二枚を選んだ結果だとすれば不自然では有りません。しかしよくよく考えると、幾つかの選択肢が有ったのならばこの二枚がベストの選択だとは思えません。もしも自分ならどうするだろうかと考えると、二枚とも絵札の組み合わせにはせず、一枚は数札にし、更に何れか一枚はうんすんかるたに固有の札を選びたいと思います。そうすれば二枚の札だけで、江戸カルタと同系統でありながら別種の物である事を示せるからです。
少し話しが逸れますが、山崎美成編の『耽奇漫録』にも二系統各二枚のうんすんかるたの挿絵が載せられており、それぞれ“花(パウ)の馬と花の4”“イスの馬とコップの4”が描かれています(これらが山崎美成所有の物なのか、或いは滝沢馬琴を含む他の耽奇会メンバーの所持品なのかは不明です)。前者では“花(パウ)”の紋標が通常の棍棒では無く、まさに花そのもの(恐らく桜の花)に成っている極めて珍しい物です。
掲載されている二系統のうんすんかるたは共に、描かれた二枚の札だけでは確実にうんすんかるたであると特定は出来るものでは有りませんのでベストな選択だとは言えませんが、最低限の枚数で全体像を想像させると云う点では、絵札と数札の組み合わせは理に適っていると言えます。その点『天野政徳随筆』での“グルの馬”と“イスのソウタ”の二枚と云う組み合わせには疑問を感じます。
更に言えば、数枚から数十枚と云う中途半端な枚数を持っていると云う情況が少し不思議な感じもします。まあ、一組のうんすんかるたを好事家仲間の数人で分け合ったとも考えられますが。
③の場合には更に選択肢が広がる訳ですので、ますますこの二枚を選んだ理由が理解出来ません。まあ、そもそも天野政徳はうんすんかるたに関する深い知識も、さほど強い思い入れも持っておらず、単にお気に入りの、しかも自分の画力を誇示出来るタイプの二枚を載せただけと云う可能性も大いに有り得ます。
更にもう一点、もし自分だったらどうするかと考えた時、文中に自分の持っているカルタの枚数を書きたくなると思うんですよね。特に75枚揃いの完全セットなら尚更自慢したいと思うでしょうが、天野政徳はそうしていません。この観点からも③は難しいと思います。
何しろ、かの大田南畝ですら5枚不足した不完全なセットしか持っていなかった(この件の詳しい事は後述)のですから、天野政徳が75枚の完全セットや、それに近い物を所持していたと云う情況は考えにくいですし、もしも持っていたのならば、単なる自慢の為では無く、考証家としてその全貌を記録していて然るべきだと思います。ちなみに『耽奇漫録』に載せられたうんすんかるたの図も又、同じ理由で75枚揃いの完品や、それに近いセットから選ばれた二枚だとは考えにくいでしょう。
結局、最終的な当方の印象としては①のケース、つまり天野政徳が持っていたのは掲載された二枚のみだったか、或いは②の場合でも極めて少ない枚数からの選択であった可能性が高いと考えます。勿論、あく迄も現代の知識に基づく、現代的な認識による推測に過ぎず、論証と呼べる様な説得力は無い事は承知しております。この件に関して、論理的に妥当な結論としては“分かりません”と言うのが正解なのでしょう。
この問題に関しては、もしも『天野政徳随筆』の原本を確認出来たとしても解決はしませんし、そもそもどうしても解決せねばならない重要な問題でも有りません。しかし、如何に些細な問題であるにせよ、又結論は出ないと分かっている問題であるにせよ、しっかりと考えておく事は決して無駄な作業だとは思いません。大して意味が無いと思っていた妄想が、全く別の場面で生かされた経験も有ります。まあ稀にではありますが。
“下手な考え休むに似たり”と云う格言が有りますが、到底同意は出来ません。“考える”と云う事は、例え結果的には“下手な考え”であったにせよ、何も考えない事よりも遥かに意義の有る行為だと考えます。
最後に当方の妄言に少しお付き合い下さい。今回『天野政徳随筆』のうんすんかるた資料を紹介しましたが、管見では当資料に触れたカルタ研究を知りませんし、江橋先生も全く言及されていません。今回の『天野政徳随筆』の紹介は、絶対的に資料数の乏しいうんすんかるた研究の現状に、僅かながらも寄与出来たと考えますが、別にそれを自慢したい訳では有りません(まあ、ちょっとは有りますが)。
本稿の最初でも述べた様に、当資料は『日本随筆大成』という有名な叢書中の一冊に翻刻(活字化)されているものです。翻刻ですので特別な訓練を受けていない読者でも読みこなせるものであり、だからこそ当方の様な素人でも見つけ出せたに過ぎません。
『日本随筆大成』は多くの公共図書館に収蔵される有名な叢書です。過去にプロの研究者からアマチュアの好事家迄、相当な数の人達の目に触れて来たと思われますし、全百余巻に目を通した方もそこそこの数がいらっしゃると思われます。恐らくそれらの方々の多くは、当方と同様に自らの研究テーマに関連する資料を探す為に読破されたものと想像されますが、残念ながら誰一人としてカルタに強い関心を持っていなかった様です。たまたま当方の研究テーマが“カルタ”だった為に『天野政徳随筆』の記事の重要性に気付いただけの事に過ぎません。
だとすれば、近代以降に刊行された夥しい数の翻刻書の中に、まだまだ多くのカルタ資料が未発見のまま埋もれている可能性が高いと想像されます。当方レベルの素人でも、もしも或る程度の人数が集まれば、間違い無くかなりの数の新資料が発見されるであろうと確信します。従って、今急務なのはカルタオタクの育成です。
しかし、それではまだ十分では有りません。
現存する近世文書の内で、翻刻されている物の割合は数パーセントに過ぎないと言われています。残る膨大な量の未翻刻資料の中に、相当な数のカルタ資料が埋もれている事は疑い様が有りませんし、その中には驚く様な貴重な情報が含まれている可能性も低く無いと思われます。
未翻刻資料の中でも版本ならば、当方程度の素人レベルでも少し勉強すれば何とか読み解けますが、写本や所謂古文書の類になるとそう簡単には行きません。訓練された文献史学者や、学徒の皆様の力をお借りしたい所ですが、残念ながらアカデミズムの世界では、カルタは真っ当な研究対象として認められてはいない様です。この様な現状を一気に転換出来るとは思いませんが、たとえ一人でも二人でも、カルタに関心を持つ研究者が現れれば希望が見えて来ます。
現状を打破する為に当方に出来る事は、地道にカルタの魅力と云う撒き餌を撒いて(情報を発信して)、後は釣り糸を垂らして、喰いついて来る慌て者が現れるのをジッと待つだけです。
『天野政徳随筆』に引用された「骨牌の記」中の、「昔年観る所の南畝蔵中の物と相同じき」と云う記述を見た時は、思わずヨッシャーと叫んでしまいました(勿論、心の中でですが)。当方は以前から、大田南畝がうんすんかるたのセット(但し、欠札のある不完全な一組)を所持していたと考えていましたが、この仮説が裏付けられたと言って良いでしょう。この事は『半日閑話』の「うんすんかるた打方」について考える上で、重要な基礎認識と成ります。
大田南畝がうんすんかるたを所持していたと考えていた根拠は、『半日閑話』「うんすんかるた打方」冒頭の、札構成の説明部分の割注に見られる、札の枚数不足についての記述です。「そうた」(二枚不足)、「ろはい」「こし」「花」(一枚不足)、「惣数七拾五枚」(内四枚不足)とあります。不足札の合計(2+1+1+1=5枚)と、全体の不足数4枚との食い違いは奇妙ですが、今は誤写だと考えてスルーさせて下さい。
この不足枚数の記述の意味する所を考えれば、この部分は南畝オリジナルの文章では無く、何等かの元となる文献資料が存在し、その記述と自らの所持するうんすんかるたとの異同を記したのだと考えるのが唯一の合理的な解釈でしょう。今回、南畝のうんすんかるた所有が確認されましたので、この解釈の妥当性は揺ぎ無いものに成ったと考えます。
続く「打方は~」に始まる遊技法の記述部分は、直前の札構成の説明に連続する文書であると考えられます。ならばこれも南畝のオリジナルでは無く、同じ元資料の転載、或いは抄録であると考えて良いでしょう。
南畝が参照した元資料が如何なる物なのかは不明ですが、一つだけ思い出さずにはいられない資料が有ります。以前にも紹介しましたが、西村貞氏が『南蛮美術』(昭和三十三年講談社刊)で、「稿者もさきに元禄十六年板の『うんすん歌留多うち方』と題する横綴本を一見したことがある」と証言している物です。残念ながら現存品は確認されていませんが、「元禄十六年板」「横綴本」と具体的に記述していますので、西村貞が当該書を実見した事は疑い様が有りません。
元禄十六年刊の『うんすん歌留多うち方』は、『半日閑話』以前でうんすんかるたの遊技法が記されていると考えられる唯一の資料です。又“うんすんかるた打方”と“うんすん歌留多うち方”では表記は異なるものの、読みは共に“うんすんかるたうちかた”で完全に一致しています。太田南畝の利用した元資料が、この『うんすん歌留多うち方』だった可能性は排除出来ません。しかしもしそうならば、何故南畝は出典を明記していないのかと云う疑問が残ります。南畝の元資料は出処の定かで無い、断片的な文書だった可能性の方が高いかも知れません。
一方、「うんすんかるた打方」の後半部分で南畝は「又古き書付添壱枚有之」と前置きをしていますので、それが別の何等かの元資料の転載であるのは明らかです。単に「書付」では無く、「書付添」と表現されている事から、うんすんかるたのセットに添付されていた説明書の類いだと考えるのが妥当でしょう。この点に関しては、山崎美成が『博戯犀照』で「古きうんすんかるたに添ありし書付に曰く」と表現している事からも裏付けられます。但し、美成は「古きうんすんかるた」自体を見たとは言っていませんので、南畝が「書付添」のみを所持していた可能性を排除出来ませんでした。しかし今回『天野政徳随筆』によって、南畝自身がうんすんかるたを所持していた事が確認されましたので、「書付添」は南畝所蔵のうんすんかるたに添付されていた物に間違い無いと考えます。
但し、現存するうんすんかたの遺物に「書付添」の様な文書が添付されている実例は見つかっていませんので、実際にその様な慣行が有ったのかは不明です。しかし似たものとして、すんくんかるた版木に併せて彫られている下記の文が挙げられます。
これがすんくんかるたのセットに添付された文書、つまり「書付添」であるのは確実です。この事から類推するに、当時のうんすんかるたにも「書付添」を添付する慣行が有った可能性は高いと考えます。
以上の考察により、『半日閑話』の「うんすんかるた打方」の資料性格を整理すれば、大田南畝がメインの記述の元となる文献資料と、「書付添」を伴ったうんすんかるたセット(但し欠札有り)を所持していて、それらを基に構成されたものと考えれば全ての辻褄が合います。
ところで江橋崇先生は『日本かるた文化館』の中で『半日閑話』と、『耽奇漫録』『博戯犀照』との関係を次の様に説明されています。
後二者は『半日閑話』の述べる遊技法の記事を写しつつ、山崎美成が「古きうんすんカルタに添えありし書付」の情報を足したものである。
つまり『半日閑話』には「又古き書付添壱枚有之」以下の文が無かったと言っている訳ですが、これが誤りで有るのは明白です。勿論、意図的な誤情報では無く単純な思い違いでしょう。“弘法にも筆の誤り”的なものであり、誤認自体を非難する積りは有りませんが、カルタ研究の最高権威者、発信者の責任として、誤情報の速やかな訂正を望みます。
次に、大田南畝が所有していたうんすんかるたに関して想像される事を幾つか述べます。
以上、大田南畝が所有していたうんすんかるたをネタにしてアレコレと考えて見ましたが、とても楽しい作業でした。限られた情況証拠を元に、出来るだけ合理的な解釈を試みた積りではありますが、中にはトンチンカンな妄想も混じっているやも知れません。しかし、18世紀初頭の江戸や上方の知識人にとって、うんすんかるたが“珍しい品”であったと云う認識にはかなり自信を持っています。