江戸カルタメイン研究室 参頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


C技法「あわせ」の研究 前編

『雍州府志』貞享三年(1686)
互所得之札合其紋之同者其紋無相同者為負是謂アハセ言合其紋之義也

『雍州府志』の賀留多の項にこの様な一文が有ります。少々解りにくいかと思いますので、読み下しますとこんな感じでしょうか。

「互いに得る所の札を、其の紋の同じ者を合せ、其の紋の相同じき者の無きを負けと為す。是を合せと謂う。其の紋を合せると言う義なり。」

『雍州府志』に見られる「江戸カルタ」の技法の中で、技法の内容が書かれているのは「よみ」と「あわせ」の二種のみです。又、『雍州府志』と同時代の咄本『鹿の巻筆』(貞享三年刊)にも「あわせ」が登場します。

『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
又三郎兵衛はかるたをすきて、よみの、あわせの、かうなどゝいふ事のみふかのぞみけり。

これらの資料から、この時代には「あわせ」は大変ポピュラーな技法であり、「江戸カルタ」の代表的な技法の一つであった事が解ります。
 時代を遡って見ますと、寛永十五年(1638)序の『毛吹草けふきくさ』巻三、付合に「袷」の縁語として「賀留多遊」と有るのが、技法「あわせ」に関係する最も古い資料でしょうか。

『毛吹草』寛永十五年(1638)序
あはせ 四月一日 掛香かけがう 相撲すまひ 薬 哥  賀留多かるた遊 菊 草 鴬 にはとり 犬 虫 貝

「あわせ」に関する比較的古い記述として、次の資料が有ります。

拾椎雑話しゅうすいざつわ』宝暦七年序(1757)
寛文大地震の時三十日斗も人々家業を止め小屋懸に住、互に隙ゆへ慰にかるたを翫ひけり。其頃御抱の能役者町住宅いたしてありける、此者あわせかるたといふ事をいたす、小浜にては珍しとて打習ひ、是故江戸かるたと名目申たるよし。

これによると、少なくとも江戸では寛文期(1661-1673)迄には「あわせかるた」が行われていたと考えて良いでしょう。
 延宝期(1673-1681)に成りますと、雑書や誹諧書に次の様な記述が見られます。

吉原大雑書よしわらおおざつしょ』延宝三年(1675)
あわせかるたや哥かるたけんしさかもり哥あわせ哥やれんかやしをつくりさもけたかくもじんしやうにしほらしくおハせしか今の女郎ハあさましや
誹諧当世男はいかいいまようおとこ』延宝四年(1676)
三途川質に置てや流すらん
 あはせかるたの釈迦もむなしき
大坂壇林櫻千句おおさかだんりんさくらせんく』延宝六年(1678)
 かるた打ちる裏風の音
さらさらとよせてはあはす空貝

それでは、この「あわせ」とはどの様な技法なのでしょうか。例えば、同人「日本かるた社」のメンバーの佐藤要人氏は、あっさりと次のように書いています。

めくりは古くは「あわせ」といった。

佐藤要人「江戸のめくり札」
『別冊太陽No.9 いろはかるた』平凡社 1974年

つまり、「あわせ」は「めくり」の古称、或は「めくり」の元となった同系統の技法であるというのが定説と言って良いでしょう。これを「あわせ=めくり説」と呼んでおきます。これには、山口吉郎兵衛氏の『うんすんかるた』中の次の一文の影響が大きいと思われます。

合せ、記載簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合せる意味であろう。「其紋之同じき者を合す」とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じきものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代って大いに流行した。現代の「花合せカルタ」は此技法を伝えている。

山口吉郎兵衛『うんすんかるた』
リーチ 1961年

これに対して、法政大学教授の江橋 崇氏は次のように疑問を呈しています。

次に「合せ」というのがあります。これは、後の時代の花札のように、手に持っている札と場に出されている札とを「合わせ」るものと考えられていました。しかし、よく読んでみると、紋の同じものを出し合い、その中での高い低いが勝負、その紋がないものは負けと書いてあります。今日のブリッジやツーテンジャックのような、いわゆるトリックテイキングの遊びと理解しておいた方がよさそうです。

江橋 崇「海のシルクロードートランプの伝来とかるたの歴史」
『遊戯史研究1』遊戯史学会 1989年

『古事類苑遊戯部』には「合せ」の遊びが多数掲載されているが、「絵合」「歌合」「花合」「香合」「鳥合」「琵琶合」「今様合」その他、多くは競い合せの意味である。「貝合」も同様で、より素晴らしい貝殻を競う遊びであった。はまぐり貝を使って本来のペアと合わせる遊びは、これとの混同を避けて「貝覆」と呼ばれていた。こうした、ダイナミックな競い合せが、自分の身分に釣り合うものに寄り添うというニュアンスの「合せ」に沈滞するのは江戸期以降であった。そして、近代では「合せ」は主として後者の意味で使われる。「貝覆」が「貝合せ」と呼ばれるようになったのは象徴的である。
(中略)
 かるた史の世界で「合」というと直ちに思い出されるのが貞享元年(1684)に刊行された『雍州府志』にある「互所得之札合其紋之同者其紋無相同者為負是謂合言合其紋之義也」(互いに得しところの札その紋の同じき者を合わす。その紋の相同じきなき者を負けとなす。これを「あわせ」と言う。その紋を合わせるの語義なり。)という記述である。
 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』三八頁は、この部分を次のように理解した。
 「記述簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合わせる意味であろう。「其紋之同じき者を合す」とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代わって大いに流行した。現代の「花合せカルタ」は此技法を伝えている。」
 山口の理解はその後広く支持され、今日まで疑われたことはない。しかしこれには今日の「合せ」の語感で江戸前期の文献を理解している危うさがある。当時の語感からすれば「合せ」はまさに同じ紋標のうちで強いものを出し合う「競い合い」であったはずである。『雍州府志』はたしかに山口が言うように簡単すぎてよくわからないが、「同じ紋のものを競い合わせる」という基本構造の記述は「間違い」ではなかろう。

江橋 崇「花札の歴史(三・完)」
『遊戯史研究9』遊戯史学会 1997年

つまり、技法「あわせ」はトリックテイキングゲームであるという事です。ただし、そのように考えたのは江橋教授が最初という訳ではありません。

同じ紋の札を合せすて数の多いものが又次の紋の札を出し此れをくりかへして早くなくなったものが勝となり、紋の同じものがなくなり親に従はれなくなつてし(ママ)うのが負となるのである、つまりトランプの絵取で切札が無く、又持ち合せの無い時ちがふ札は決して出さずその回はぬけると云ふ様なことになるのである。此れに依つて前の様な勝負をするので此れを「合」と云つて居たのである。

有馬 敏四郎「遊戯・玩具」
『日本風俗史講座』雄山閣 昭和三年

少々深読みし過ぎの感もありますが、確かに「あわせ」をトリックテイキング系統の技法と捉えています。

おおよそ六十年を経て江橋教授によって復活した「あわせ=トリックテイキングゲーム説」ですが、その根拠を整理すれば次のように成るでしょうか。

  1. 『雍州府志』の記述を文面通りに解釈すると、トリックテイキングゲームの原理と矛盾しない。
  2. 江戸初期における「合せ」の語義は「競い合せ」であり、トリックテイキングゲームの原理にこそふさわしい。

確かに、山口氏の言う「紋標は同じものが十二枚もあるから」間違いであるという推定は説得力に乏しく、「紋標」が「数標」の間違いであるとする合理的な理由は、特に見当たりません。
 ただし、参考までに紹介しますと『うんすんかるた』の元となった論文「ウンスンカルタ」(『美術・工芸 21号』 昭和18年12月に所収)を見ますと、ほぼ同文が掲載されていますが「紋標は同じものが十二枚もあるから」の部分のみ欠けています。この部分が、後に山口氏ご自身によって書き加えられたものなのか、『うんすんかるた』の編集時に加えられたものなのかは不明です。

この「あわせ=トリックテイキングゲーム説」は、大変魅力的です。何故なら、これが正しければ「あわせ」こそが「うんすんかるた」の元となった技法だと考えられるからです。
 「うんすんかるた」とヨーロッパの古いカードゲーム「オンブル」との類似性は古くから指摘されている事ですが、この二つのゲームを繋ぐ中間的な存在が「あわせ」技法だと考えられます。つまり、@我が国へのカルタ伝来と共に、「オンブル系統」の技法の一つが伝えられ、Aそれが「江戸カルタ」を使用する一技法として行われ、「あわせ」と呼ばれた。B「あわせ」技法を元にして、札の数を増やした「うんすんかるた」が作り出された。このような流れが考えられます。

「あわせ=めくり説」と「あわせ=トリックテイキングゲーム説」。一体、どちらが正しいのでしょうか。長く成りましたので、結論は次節に譲りますが、最後に参考資料を一つご紹介しておきます。

太平記万八講釈たいへいきまんはちこうしゃく』天明四年(1784)
これがむねんと思しめさバ、ちやうはん・ちよぼいち・かう・きん五・お花・さいがう・よみ・めくり・あわせかるたにひつぺがし、何なりともおしへ奉らん。

ここには、「めくり」と「あわせかるた」がハッキリと別のものとして書かれています。やはり、「あわせ=めくり説」は間違いだったのでしょうか?

公開年月日 2007/05/20


D技法「あわせ」の研究 後編

前節に引き続いて技法「あわせ」について、例によって江戸時代の文献資料を元に考えたいと思います。「あわせ」に関する最も重要な文献は、「カルタ資料展示室」に既に展示済みの『教訓世諦鑑』でしょう。

教訓世諦鑑(きょうくんせたいかがみ)』宝永八年(1711)
二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第しだい々々に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留かるたと云ふ。

この記述は『雍州府志』の「合」の記述よりも具体的です。技法の詳細までは解りませんが、ここでは明らかに同じ「数」を合せるとありますので、やはり「めくり」系統の技法である可能性が高いと思われます。「あわせ」は「めくり」の古称、或いは元になった技法と考えて良さそうです。次の資料も又、この「あわせ=めくり説」を支持していると思われます。

大の記山寺だいのきさんじ』天明三年(1783)
青五山あをごさん  負寺まけでら

本尊 釈迦青二仏しやかあをにぶつ 六代ろくだい御前まも本尊ほんぞん
霊宝 あさまる太刀たち あお兵衛ひやうへか太刀也

此寺このてらはむかし借住寺かりじうじさだまらずして工面くめんのあしきひとてらぬしとする也むかしは五大せんあはせみやといふてらにて一しうたつきた

(中略)

明和年中めいわねんぢう取立とりたて庫裏くりも目だつほどにたてければ皆人みなひと此くりを。めくりといふ。今ははなはたたさかりにして此宗旨このしうし帰依きゑせぬ人はなし団十郎仲蔵なとゝいふ役人やくにん有ておゝくの散銭さんせんをとりあくる此末寺このまつじに十三めくりといふ小寺有こでらあり

内容は勿論フィクションですが、寺の縁起にかこつけて、元は「あわせ」と呼ばれていた技法が「めくり」と呼ばれるように成ったという歴史的事実をパロディー化したものと考えられます。「めくり」の登場時期を明和年中(1764-1772)とするのも他の資料事実と合っています。

他に「あわせ」技法の内容について、僅かではありますが伺い知れる資料としては、次のものが有ります。

関取千両幟せきとりせんりょうのぼり』明和四年(1767)初演
はせの勝負かちまけ骨牌かるた、「一まん二千二まん五千、三まん八千がお才様さいさまかち。」「アノどうしてれがかちぢやぞいな。」「エヽ不器用ぶきようなお才様さいさま、まだおぼえさんせぬか。」「サイナ歌骨牌取うたがるたとりとちがうてむづかしいものぢやわいな。」「ナンノれがむづかしい、禮三様れいざさん末永すゑながはせの勝負しようぶ

ここからは「あわせ」が三人で行う技法である事、点数を取り合い、最終的にその合計点数によって勝敗を決める事が読み取れます。この二点共、「めくり」技法にも共通しています。

「めくり」技法の重要な特徴の一つとして、札に固有の点数が有り、その合計点によって勝敗を決める点があげられます。「よみ」「かう」「きんご」或は「うんすんかるた」等の技法にはこの様な「札に固有の点数」という概念は見当たりません。しかし、不思議な事に明和期の「めくり」出現以前の文献に、この「札に固有の点数」の記述が幾つか見られます。どうやらそれらが「あわせ」だと考えて良さそうです。それらについて見て行きましょう。

『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
しやかハきわめが百文なり。あわせも百にたつ。なんぢ五十にねきること、三ごく一の此しや伽を、あをにゝするかといわれたり。

「あわせも百にたつ」とは「釈迦(十)」が「あわせ」技法では100点である、という意味でしょう。この資料では「釈迦(十)」が100点、「青二」が50点と考えられます。他の資料でも「釈迦十」は全て100点のようですが、「青二」「あざ」につては資料によってまちまちです。

『軽口もらいゑくぼ』元禄六年(1693)ヵ
(前略)おまへ様ハ釈迦しやかじやと存、百文しんじ候と云ふ。僧、然れは其方の手に持けるを見れば、たしかにあをとミへた。けつく、此方より百上打うハうちをとらすべしとて、百文やられける。是ハ忝候。それならハとてもの事ニ又六十文被下べし。こゝにあざが御座るとて、右のかいなに生れ付よりくろくろとしたるあざをミせ、わがしんじたる銭の外ニ、以上百六十文申うけたると也。

ここでは「釈迦十」100点、「青二」100点、「あざ」60点のようです。

『須磨都源平躑躅』享保十五年(1730)
我等われらためにはすつてけた鉈廻なたまはし、坊主ぼうず釋迦しやかじふ青二才あをにさい阿根輪あねわめ、はせて三光百さんくわうひやくづゝ。

はっきりしませんが、「三光百づつ」とあるので「あざ」「青二」「釈迦十」共に100点でしょうか。

商人軍配団あきんどぐんばいうちわ』正徳二年ヵ(1712)
打こんでかるたのかき。一から十迄年中是で女夫めをとが口をすぎぬ。不断ふだん書てゐる釈迦の十は百ものときけど。つゐに百つなぎたる銭のねすがたを見ず。
役者金化粧やくしゃきんけしょう』享保四年(1719)
しからばおまへは百十郎様と申せしお方か。中々百十じやによつて釋迦しやか異名ゐみやうは申が。

共に「釈迦十」100点を示しています。「あざ」や「青二」の点数は、時代や地域によってバリエーションが有ったのかも知れません。

「あわせ」に関する資料は数が少なく、今のところこれ以上詳しい事は解りませんが、以上の資料から考えると「めくり」と同系統の技法であったと結論づけて良いでしょう。
 最後に、「あわせ」に関する残りの資料をご紹介して本節を締め括らせて頂きます。

色里新迦陵頻いろさとしんかりょうびん』享保初年(1716)頃
あはせしよもどりしよてがうにまけをおしませ申まじ
『俳諧 時雨笠しぐれがさ』享保八年(1723)
ひとへ物 あわせにしやうと 買ふ骨牌
『ひとり』享保十一年(1726)
合せかるたといふものあり
華頂百談かちょうひゃくだん』延享五年(1748)
女まじりに。よミの。あハせのとて。二月三月迄毎夜まいやあそび。
艶占奥儀抄えんせんおくぎしょう』明和八年(1771)
それから一六いちろくとやらあはせとやらにかゝりなさるとかんのうちてもかたはだぬきになりぬぐひのはちまきはよふござんせん
天満宮菜種御供てんまんぐうなたねのごくう』安永六年(1777)
札事といや あわせまんぐわん 読金五 かるたの吹へは綺麗きれいにやるは

公開年月日 2007/05/26


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