江戸カルタメイン研究室 弐頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


札の呼称の変遷

前章で紹介した『博奕仕方』中、「めくり仕方」の最初に、この時代(寛政年間)における「カルタ」について、札の構成、呼称、点数等が詳しく書かれていますが、この章では札の呼称の時代的変遷について検討いたします。

最初に、札の位(ランク)の呼称を見てみると、2から9までについては江戸初期から変わらず、その数をそのまま呼んでいたようです。一方、1、10、11、12のいわゆる絵札については、江戸初期と中期以降で変化が見られます。
 10の札は『博奕仕方』では単に「じゅう」と呼んでいますが、江戸初期には「ソウタ」と呼んでいたようです。これはポルトガル語でこの札を表すsota(女従者の意)をそのまま使用したと考えて良いでしょう。資料の数はそれ程多く無いので、確認済みの資料を全て記しておきます。

仁勢物語にせものがたり』寛永十五〜十七年(1638-1640)
をかし、女はあざ持つ、男はそうた持てり。早く打棄てたりけるを見て、勝ちこそは今はあだなれ是無くはそうたは四方に有らまじ物を
鷹筑波たかつくば』寛永十五年(1638)
あざやかな月にそふたかり田哉
 むねはおどれどなぐさみもなし
『東海道名所記』万治二〜四年(1659-1661)
柿かたびら赤まへだれのしづ
 かるたのいすのそうた人かも
私可多咄しかたばなし』万治二年(1659)序 寛文十一年(1671)刊
むかしむかし、遠国に外科有。さる者、あざとる薬を給ハれと云。外科、心えたとハいへ共、此薬をいかゝせんとあんしわつらひ、かるたの札のそうたとやらんいふものを、くろやきにして、天下一あさとる薬とじまんしてやつた。
『やぶれはゝき』延宝五年(1677)
つゝましき袋をもつて立すかた
 君ハこつふのそうたさま也

尚、10の札の異称として「坊主」、特に「パウの十」を「釈迦」又は「釈迦十」と呼びますが、これらの初期の資料も見ておきましょう。
 まず「坊主」については

『類字名所狂歌集』延宝四年(1676)
くらまにはかるたのぼうず多して
 山におふるの木をそ打きる
『江戸広小路』延宝六年(1678)序
 かけ銭や伊勢の神垣さればこそ
三枚坊主いむといふなり
 冨士を軒端の銭見せの先
箱入のかるたの釈迦の御来迎
『二葉集』延宝七年(1679)序
 まづ弁慶は坊主也けり
高々に読上たりや十馬切
『誹諧坂東太郎』延宝七年(1679)序
加留太の釈迦坊主揃や涅槃講
『西鶴大矢数』延宝九年(1681)
 坊主ころしのナゲぶしの末
カゾえ加留多馬ツナクなと話寄り

次に「釈迦十」ですが、初期には単に「釈迦」と呼んでいたようです。上記『江戸広小路』『誹諧坂東太郎』の他には

『誹諧当世男』延宝四年(1676)序
三途川質に置てや流すらん
 あはせかるたの釈迦もむなしき
『わすれ草(歌仙)』延宝七年(1679)
 百にぎらせてたはぶれの秋
仇し世をかるたの釈迦の説れしは
 あるひはでつち十六羅漢
『見渡せば(百韻)』延宝七年(1679)
おもへらくかるたは釈迦の道なりと
 親仁の説法聞ばきくほど

等が見られ、元禄後期より

『かはりごま』元禄十四年(1701)
妾者下女とよみ打大晦日
八日講薬師が十の釈迦に成る
『西国船』元禄十五年(1702)
たりませぬ・坊ンがねぶつて釈迦の十
白河燕談しらかわえんだん』享保十五年(1730)
ジフムマキリ呼者皆蛮人之形也日本称釋迦ジフ者彼土之神形也

等の表現が見られます。

 余談になりますが、「十」の読み方は通常「じゅう」と「とお」の二通りが考えられますが、上記『白河燕談』に拠り「じゅう」であると確認出来ます。又、『博奕仕方』に「青馬」「青切」の別称として記されている「トウ之馬」「トウノきり」に、わざわざ読みがふられているのも、裏を返せばその前に出てくる「十」が「じゅう」と読まれる事の傍証となります。

12の札きり」も初期にはポルトガル語のrei(王の意)をそのまま使用し「レイ」と呼んでいたと考えられます。確定的な資料とは言えませんが、次の二点を記しておきます。

毛吹草けふきぐさ 追加』正保四年(1647)
よみあくるかるたのれいか十二月
物種集ものだねしゅう』延宝六年(1678)
読かるた馬のかよひはなかりけり
 れいも鳴尾の沖津ふく風

11の札「うま」、ポルトガル語ではcavallo(騎士の意)については、残念ながら資料が見当たりません。しかしながら熊本県人吉地方に現存する「うんすんかるた」の技法において、10、11、12に該当する札をそれぞれ「ソウタ」、「カバ」、「レイ」と呼んでいる事からも、江戸初期においては「カバーロ」あるいは略して「カバ」等と呼ばれていた可能性は高いと思われます。

それではこれらの古い呼称から「十」、「馬」、「切」に変化して行ったのは、いつ頃の事なのでしょうか。最初期の資料を何点か記しておきます。

俳諧胴骨はいかいどうほね』延宝六年(1678)
つはさにも札を付たる人あれは
 うつ十馬きりん鳳凰
『二葉集』延宝七年(1679)序
 まづ弁慶は坊主也けり
高々に読上たりや十馬切

囲置虫もころさぬ人じやもの
 十馬すてゝきりぎりすちよん
銀葉夷歌集ぎんよういかしゅう』延宝七年(1679)
かるたならて花に歌よみ打みるも
 是十馬きりか八つ哉
阿蘭陀丸二番船おらんだまるにばんせん』延宝八年(1680)
奉加帳鐘もさだかによみあげたり
 古銭新銭八九十きり

このように、延宝六年(1678)以降、多くの資料が確認出来ます。「ソウタ」の最後の使用例が同じ延宝六年なのは偶然にしても、おおよそ延宝年間(1673-1681)の事と考えて良いでしょう。
 ただし、ひとつお断りしておく事があります。ここで紹介した「ソウタ」の資料は、四十八枚の「江戸カルタ」に限定したものであり、実は江戸後期の「うんすんかるた」に関する資料(大田南畝『半日閑話』等)には「ソウタ」が登場するのです。又、前記のように人吉地方の「うんすんかるた」技法にも「ソウタ」「カバ」「レイ」といった古い用語が残されています。「江戸カルタ」では、遥か以前に使用されなくなった用語が、「うんすんかるた」にのみ良く保存されているのは大変興味深い事実です。

次に1の札に対する呼称「つん」「虫」について見てみましょう。
 「つん」の語源はポルトガル語で数字の1を意味するun(ウン)に由来するのではないかと思われますが、確証は有りません。初期の資料としては

『やぶれはゝき』延宝五年(1677)
 さあなぐさまん是四方の春
かるた箱手の内よりも年明て
 正月ことばはづんたる声
つんがへし二なき遊びに春立て
『銀葉夷歌集』延宝七年(1679)
ひねつてもきかすかるたをうつけたら
切てすてふそつんとたしなめ
『江戸大坂通し馬』延宝八年(1680)
三四五六七八重霧のきり
切てツン虚空にあがらせ玉ひけり
『俳諧六歌仙』元禄四年(1691)
ツンにきりたる春の仕合

等があります。

 「虫」の使用は更に古いようで、寛永十五年(1638)序の『毛吹草』巻三、付合に「虫」の縁語として「かるた遊」と有ります。他には

『鷹筑波』寛永十五年寛永(1638)
 しりよりもたゞぞ出ける
手枕のひぢに付たるかるたふだ
『誹諧当世男』延宝四年(1676)序
 宿札は物まう申の声
かるたをひねる袖のしら露
『江戸広小路』延宝六年(1678)序
あざ天下もちいられぬはの声

等が見られます。尚、江戸カルタの1の札に描かれているのは「竜」の絵ですが、これを「虫」と呼ぶのは奇異に感じられるかも知れませんが、この時代の「虫」の語は、現代的な感覚の「昆虫」とは異り、例えばミミズ、ムカデ等の小型生物全般を含んだ語だと、ご理解ください。

最後に「パウの1(青の一)」を指す「あざ」について見てみましょう。前出の『仁勢物語』、『鷹筑波』、『私可多咄』以外に古い例としては

讃嘲記時之大皷さんちょうきときのたいこ』寛文七年(1667)
ある人のいわくひたいに黒くみゆるはあざなりかるかゆへに此きみをかるたさまといふと伝り又人のいわくさにはあらすみな人かうをこのむといふ心なり
『徒然御伽草』寛文十二年(1672)
 火事も厭はぬかるたずき
かるたのよみ好なる人、毎晩てあひをきはめうちけるに、此者あざがけをすきて、百文二百文づつかくる。霜月の頃、或夜大風吹き世間騒がしかりしに、それにもかまはず、よみをうつ。其夜はあざがけ仕合あしく、まけるにかゝつて居る。やうやうあざにとりあたり、既に銭をとらんとする時、向側より火出て、「それ火事よ」といふ程に、女房子供あわてふためき、「それ穴蔵へ道具入れよ」と穴蔵の口をとるに、亭主口もとへ飛んで来り、「まづこのあざを先へ入れよ」というた。

等が見られ、古くから「あざ」の呼称が定着していた事が解ります。では、この「あざ」と云う名称は何に由来するものなのでしょうか。この点については佐藤要人氏が『江戸めくり賀留多資料集』(昭和五十年 近世風俗研究会編)の「江戸の『かるた賭博』についての考察」の中で次のように述べています。

青一は竜の図が描れていて、それが次第にくずれ、海馬(たつのおとしご)のように見えたり、青い痣のように見えるところから、海馬・あざ・虫などの異称がある。

つまり「青一」札の絵柄が、体にできる「青痣」のように見えるところから、「あざ」と呼ばれるように成ったという事でしょう。しかし、この説にはかなり無理が有ると思います。一体「青い痣」に見える絵柄とはどんな絵なのでしょうか?たしかに江戸後期以降のカルタは、絵柄がかなり崩れ、一見何の絵だか解らなくなっています。想像をたくましくすれば、青痣と見る事も不可能ではないかもしれません。しかし、今見てきたように、「あざ」の名称は江戸初期の寛永年間から使用されています。江戸初期のカルタの絵柄は、蒔絵等のデザインに幾つか残されております。これらを見ますと、「あざ」の絵柄は竜が棍棒をくわえている絵であり、間違っても青痣に見える様な代物ではありません。

それでは「あざ」の語源とは何なのでしょうか。直接的な資料は有りませんが、推測は可能です。今まで見てきたように、江戸初期における札の名称の多くは、ポルトガル語のカルタ用語をそのまま使用したものでした。だとすれば、寛永期から使用されている「あざ」も、ポルトガル語に由来する可能性が高いと考えられます。候補として考えられる語は一つしか有りません。ポルトガル語でカルタの1の札を指す「as(アス)」がそれです。元々は、1の札全体を指す「アス」が何等かの理由で、「パウの1」に限定して使用されるようになり、発音も「あす→あさ→あざ」と変化していったのではないでしょうか。

次に4種の紋標(スーツ)の名称について検討します。
 「江戸カルタ概説」でも述べたように、江戸初期の紋標名は「パウ」「イス」「オウル」「コップ」であり、これらは他の用語と同様に、ポルトガル語のカルタ用語を、そのまま流用したものでした。少々長くは成りますが、確認済みの全資料を記しておきます。

『東海道名所記』万治二〜四年(1659-1661)
柿かたびら赤まへだれのしづ
 かるたのいすのそうた人かも
続山井ぞくやまのい』寛文七年(1667)
七夕は今宵あふるの二けん哉
『類字名所狂歌集』延宝四年(1676)
ほのあかくうち見えにけり百姓ひゃくしやう
 あきにかるたもいすの六波羅

くらまにはかるたのぼうず多して
 山におふるの木をそ打きる
『やぶれはゝき』延宝五年(1677)
つゝましき袋をもつて立すかた
 君ハこつふのそうたさま也

いすの色ハしぐるまにみる楓哉
『江戸広小路』延宝六年(1678)序
みだけぜにのがすまじとて追懸おひかけたり
 こつぶとをつるぎひつさげ
『江戸十歌仙』延宝六年(1678)
先爰にパウの二けんの杉高し
 日待にきたか山郭公
色道大鏡しきどうおおかがみ』延宝六年(1678)
かるたは異狄より渡りたれば、その根源をしらず、はういす、おうる、こつふ、などいふ名目も辧へ知りがたし
談林軒端の独活だんりんのきばのうど』延宝八年(1680)
おほるの二南無やかるたの神の膳
近来俳諧風躰抄きんらいはいかいふうたいしょう』延宝八年(1680)
うは気にたてる行平の松
 壷布コツフうて因幡の山の峯かおふる
雍州府志ようしゅうふし』貞享三年(1686)
凡賀留多有四種紋一種各十二枚通計四十八枚也一種紋謂伊須蠻國稱劍日伊須波多此紋形似劍自一數至九第十畫法師之形是表僧形者也第十一畫騎馬人是表士者也第十二畫踞床之人是表庶人者也一種稱波宇蠻國稱青色日波宇此紋自一數至九數第十第十一第十二同前一種紋謂古津不蠻國酒謂古津不是表酒盃者也一種紋謂於宇留蠻國稱玉謂於宇留是表玉者
鹿の巻筆しかのまきふで』貞享三年(1686)
いす、こつぷ、はう、おうる四しなにさだめしは、須弥しゆみしうをかたどりたり
人倫訓蒙図彙じんりんきんもうづい』元禄三年(1690)
しゆおのおの十二まいあつてこつふわうるはういすの四しゆあつて合四十八枚なり
『座敷はなし』元禄七年(1694)序
さるあげやの座敷に。かるたのおうるの二が一まいおちて有けるを。
染川集そめかわしゅう』元禄十年(1697)
手いつはいいすのかるたやつゝし山
陸奥鵆むつちどり』元禄十年(1697)
イスぬく骨牌けふも暮しつ
和漢三才図絵わかんさんさいづえ』正徳二年(1712)序
△案樗蒲其製古今不同今所用者本出於南蛮矣用厚紙作之外黒内白而有畫文青色巴宇赤色伊須圓形於留半圓骨扶之四品各十二共四十八枚
『(日本五山)建仁寺供養』享保八年(1723)
いすおふるのかるたの九を。左右につかみ片足上。

いすおふるの九を二まい。まへおいてうに虫なりやよいが。もし二がでればねからこつそり。重て三まいやめよと有ル我々に御異見ゐけんの。判字はんじ物かと口々取々。
『白河燕談』享保十五年(1730)
此中凡有四品朱而為罫者号伊寸イス農耕名也圜形彩色号遠々留ヲヽル商売名也青色為罫者号巴宇ハウ官吏義也朱並丸者号乞浮コツフ酒器也

これ以降も一部の考証書の類や、「うんすんかるた」の文献等に若干見られますが、一般的にはあまり使用されなく成って行ったようです。
 次に「青」「赤」の使用例について年代順に見てみますと、元禄中頃から「青二」の呼称が見られます。

『軽口もらいゑくぼ』元禄六年(1693)ヵ
(前略)おまへ様ハ釈迦しやかじやと存、百文しんじ候と云ふ。僧、然れは其方の手に持けるを見れば、たしかあをとミへた。けつく、此方より百上打うハうちをとらすべしとて、百文やられける。是ハ忝候。それならハとてもの事ニ又六十文被下べし。こゝにあざが御座るとて、右のかいなに生れ付よりくろくろとしたるあざをミせ、わがしんじたる銭の外ニ、以上百六十文申うけたると也。
廣原海わだつうみ 初篇』元禄十一年(1698)
九九とみて青二引出す惣拂ひ
『近衛家熙公(豫楽院)カルタ遊自画讃巻』元禄十六年(1703)
青二釈迦あさ此をはあふきて三皇となつけ侍るこれたにてに入侍れはうたぬさきにかち侍るそのほか四きり八かみなと伝てさまさまのこと侍るよしかたり侍るかゝるいみしきあそひのなとかおほやけには御さたもなかりけることよし心得すこそ彼三皇の名わするゝこともや侍らむとつゝけをき侍る

  青によしならのみやこのしやか仏
     あかめそまつるあさなゆふなに
『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
しやかハきわめが百文なり。あわせも百にたつ。なんぢ五十にねきること、三ごく一の此しや伽を、あをにゝするかといわれたり。

上記『軽口あられ酒』の他の部分に、「赤二」の語が見られますのでご紹介しておきましょう。おそらく「赤」の呼称の初出と思われます。

『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
四と五とぼうずハぼうずじや。十てもむまでもきりでもなかつた。あか二の上に、ほていがあるのじや。

又、「イス」の札全体を総称して「赤絵」と呼びますが、初出は次の資料かと思います。

『削かけ』正徳三年(1713)
まだるいの・五六八ごろはちいたそ赤繪出しや

「青二」に戻ります。

一騎討後集いっきうちごしゅう』宝永四五年(1707-1708)
下直ヤス骨牌奈良ではよまじ青二アシ
みやこひながた』正徳四年(1714)
たそやたそ樟子せうじのそとにをとするは。あざ。しやか。あを二三光さんくはうの。
白應歳旦はくおうさいたん』享保八年(1723)
いかのぼり青二もよしや山の端に

お気付きと思いますが、ここまでの資料は全て「青二」のみで、他の青札は見られません。この後も「青二」の資料は幾つか見られますが、省略させて頂きます。「青二」以外の最初の使用例は次の資料です。

『繪本池の蛙』延享二年(1745)
ならよみのにぎりあざにまだみれバ
 はずゑのつゆあをによつこり

「青二」の初出から実に五十年余り後になって、ようやく「青三」の使用が確認されます。この資料事実から一つの仮説が導き出されます。つまり、最初から「パウ」の札全てが「青」と呼ばれていた訳ではなく、「青二」の呼称のみが他の青札に先行して使用されていたのでは無いか、という事です。ようするに「あざ」「釈迦十」等と同じ特殊名称(ニックネーム)として先ず「パウの2」のみが「青二」と呼ばれるようになり、後に他の札に拡大して使用されるようになったのでは無いかという疑問です。「青二」は「よみ」技法の重要な役である「「三光」を構成する札の一枚です。「三光」の他の二枚の構成札、「パウの1」「パウの10」がそれぞれ「あざ」「釈迦十」と呼ばれるように「パウの2」を「青二」と呼んだと考えても不自然では有りません。
 決して充分とは言えない資料に基づく、危うい仮説ではありますが、ここに提出させて頂きます。

公開年月日 2007/02/18

最終更新日 2007/05/20


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