うんすんかるた分室 九頁目

~うんすんかるたに関して専門に研究している分室です~


うんすんかるた雑考

ここからはうんすんかるたに関する様々な問題について、大ネタ小ネタを取り混ぜて思いつくままに考えようと思います。
 “雑考”ですので系統立った論考と云う訳では有りません。個々のテーマは独立した物で基本的には一回完結ですが、前の論考を踏まえて展開している部分も多いので、順番に読んで頂いた方が理解し易いと思います。全てのテーマに共通するのは“うんすんかるたに関する事”と云う点のみですが、全体として当方のうんすんかるた観、うんすんかるた史観をお伝え出来る内容に成ればと考えています。

最初にお断りしておきますが、ぶっちゃけた話うんすんかるたの事は良く解りません。解らない事だらけと言っても良いでしょう。但し何故解らないのかの理由は分かっています。最大の理由は、うんすんかるたに関する直接的な資料の数が絶対的に少ないからです。従って当方が江戸カルタの研究で心掛けている、複数の資料根拠に基づいて論を展開する手法を採るのが難しく、又、多数の資料を統計的に処理し、もっともらしい数字をでっち上げて強引に論を進める得意技も使えません。従って研究方法としては、限られた資料を基に“ひたすら考える”ことが主な手段と成ります。勿論、単に空想を巡らせて夢物語りを描く積りは有りません。限られた資料に基づいて出来る限り合理的に考え、批判に耐え得る仮説、或いは少なくとも批判されるに価する仮説を提示したいと考えています。まあ、論証と妄想の間を行ったり来たりする事に成ると思いますのでご承知おき下さい。

“考える”と云う作業には起点と成る客観的な事実や、信憑性が高いと見做せる資料が必須であり、それを起点として論理的に導き出された結論は演繹的論証と認められます。しかし起点自体の真偽があやふやであれば、そこから如何に論証を尽くそうとも妄想の域を出るものでは有りません。とは言え、妄想が真実を言い当てている可能性も有りますし、そもそも妄想は楽しいものなので、全面的に否定するものでは有りません。

うんすんかるたに関して起点と成り得る資料としては、以下の物が挙げられます。

  1. 最も確実な物は現存するうんすんかるたの遺物でしょう。又、現物の所在は不明ながら、近代に撮影された写真図版や、実際に使用されたであろう版木も同等に扱って良いでしょう。
  2. これに準ずる物として、様々な器物に描かれたうんすんかるたの絵柄や、現物の模写図が挙げられます。これらに関しては、製作者個人の認識や技量による変容の可能性に注意せねばなりませんが、概ね信頼度の高いものとして扱って良いと思われます。
  3. 文献資料の重要性は言う迄も有りません。勿論個々の資料自体の信頼性と、記述内容の信憑性については慎重に検討せねばなりませんが、いかんせん絶対数が少な過ぎる為、資料間での比較によって評価する事が難しいのが悩ましい所です。しかしこの点については、江戸カルタ関係の諸資料や、様々な状況証拠等によって或る程度は補えると思います。
  4. もう一つ幸運な事には、熊本県人吉地方に伝承されたうんすんかるた技法の存在が有ります。恐らく江戸前期にこの地に伝わり、昭和期に再発見される迄の、少なくとも200年以上に渉って伝承されて来たと云う奇跡に感謝するしか有りません。
     人吉のうんすんかるたは熊本県の重要無形民俗文化財に指定されていますが、カルタやカードゲームの研究者にとっては、国の重要無形文化財やユネスコの世界文化遺産に登録して貰いたい程の価値の有る代物です。

“雑考”とは“雑多なテーマについての考え”と云う事です。決して“雑に考えた”ものでは無く、当方なりに真剣に考え抜いた末のものではありますが、元々あまり性能の良く無い我が頭脳をフル回転させたとて、捻り出された“考え”の品質は保証しかねます。只、願わくは「玉石混淆」つまり、幾つかでも「玉」が混ざっていれば御の字だと思っています。尚、一見無価値な「石」に見える中にも、丁寧に磨き上げれば「玉」と成る原石が紛れているかも知れません。その為にも皆様からの忌憚の無いご意見、ご批判を頂ければ幸いです。

さて、前置きが長く成ってしまいましたので、そろそろ“雑考”を始める事にしましょう。

【1】うんすんかるたは“誰によって”作られたか?

最初に取り上げるテーマは、うんすんかるたが“誰によって”作られたかと云う問題です。
 勿論“誰によって”といっても、うんすんかるたの考案者個人を特定する事は、奇跡的な新資料の発見無くしては叶う筈も有りません。今回考察を試みるのは主に現物のうんすんかるたの構成を基に、考案者が如何なる文化的背景や知識、教養を持っている人物(或いは集団)なのかを推測する事です。

  1. 先ず最も重要なポイントは、うんすんかるたの“うん”の絵柄の一つに、日本固有の福神である恵比須が採用されている事です。日本以外に恵比須を信仰する地域は有りませんし、日本人以外には恵比須はほぼ知られていません。
  2. 他の“うん”の絵柄の題材、例えば大黒天のデザインが出雲神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)と混同された日本的なスタイルである事、日本人の間で超人気キャラクターである達磨さんや、これも人気キャラである弁天様(弁財天)が含まれている事等を考えれば、もうこれらの点だけからでもうんすんかるたの考案者は日本人であると言い切っても良さそうに思われます。しかし、ここは少し慎重に、他の条件についても検討する事にしましょう。
  3. うんすんかるたでは、ポルトガルやスペイン系カルタの伝統的な“パウ”“イス”“オウル”“コップ”の四紋標に加えて、“グル”と言う三つ巴紋を採り入れています。三つ巴紋は、我が国では色々な所に用いられる一般的なデザインですが、当方の浅い知識の範囲内では西洋にせよ東洋にせよ、日本と同程度に三つ巴紋が普及している文化圏は知りません。日本人以外が、第五の紋標として三つ巴紋を選択するとはとても思えません。
  4. “すん”の絵柄の人物像は明らかに中国風ですし、“こし(きり)”等、他の絵札にも中国的な要素が見られる物も有ります。従って中国文化(多分、明の時代)の影響が有る事も間違い有りませんが、かと言って直接中国人が関与したと断定出来る程濃厚なものでは有りません。例えば古くから中国と関係を持ち、その文化に尊敬と強い憧れを持っていた近世日本の知識層や、当時の平均的な日本人の認識レベルの“中国風特徴”を越えるものでは有りません。
  5. うんすんかるたにはポルトガル系カルタの特徴が色濃く見られますので、ポルトガル系カルタに接する機会が有った事も必須条件と言えます。これにはポルトガル本国とその周辺の西欧諸国の人々、世界各地に広がっていたポルトガルの植民地や、貿易拠点としていた都市の人々も該当します。そして、ポルトガル系カルタが伝来し、それを忠実に模倣したカルタを造り、愛好していた江戸初期の日本人にも十分に資格が有ります。
  6. うんすんかるたの“コップ”の絵柄に注目すれば、ポルトガル・スペイン系カルタの“コップ”とは天地が逆に成った日本式の江戸カルタと共通しています。つまり、うんすんかるたは西洋式カルタの影響を直接受けたものでは無く、日本化した江戸カルタを参考にしたものであるのは明白であり、少なくとも江戸カルタを知らないと造り得ない物と考えます。
  7. 前稿でうんすんかるたの成立過程にスペイン系カルタの影響が有る可能性を指摘しました。しかしポルトガル系カルタと比べてその影響力が限定的なものであった事は間違い有りませんし、そもそもスペイン系カルタの影響説は仮説に過ぎませんので、考案者に求められる必須条件では有りません。
     又、仮にスペイン系カルタとの接点を条件に加えるとしても、近世初期に日本とスペインとの間に交易関係、文化的交流が有ったのは歴史的事実ですし、スペイン系カルタが伝来していた可能性についても説明済みです。少なくとも、この条件によって日本が除外されるものではありません。

これらの条件を兼ね備えた人物こそ、うんすんかるたの考案者である可能性が高いでしょう。まあ、これだけくどく言えば当方が思い描いている人物像が伝わっているとは思いますが、結論としては“うんすんかるたは日本人によって考案された”と云う事です。もしも日本人以外に求めるならば、日本の文化に精通した外国人と云う事に成りますが、絶対に有り得ないとは言わない迄も可能性は限りなく低く、敢て考慮する必要は無いでしょう。
 従って、今回の結論は次の様に成ります。

この結論に異議を唱える方はそれ程多くは無いと思います。寧ろ多くの方は、余りに普通過ぎる結論に拍子抜けされたのでは無いでしょうか。
 この“うんすんかるたは日本人によって考え出された”と云う命題は、これ迄十分に議論される事も無く、敢て明言される事も無いままに暗黙の了解として通用して来た感が有りますが、今後うんすんかるたに関して色々と考えていく上での一つの“定点”として押えておきたいと思います。

【2】うんすんかるたは“何処で”生まれたか?

次のテーマは前項の結論を踏まえてのものです。うんすんかるたを考案した日本人は何処に住んでいたのでしょうか? 彼が暮していた場所こそがうんすんかるた誕生の場所と成ります。
 敢て言う迄も無く、今も当時も日本人の圧倒的大多数は日本国内に住んでいますので、常識的に考えるならばうんすんかるたの考案者も日本国内に住んでいたものと想像されます。しかし、割合としてはほんの僅かですが日本国外に住む日本人がいたのも事実ですので、一応それら海外在住の日本人による考案の可能性も検討しておく必要は有るでしょう。

中世末期から江戸初期(鎖国以前)の日本は、東アジア・東南アジア地域とは朱印船貿易や、南蛮貿易の中継地点として濃密な関係に有り、それらの地に定住していた日本人はかなりの数に及びます。勿論日本人全体から見れば極めて少数だとはいえ、彼等によってうんすんかるたが創り出された可能性を無視する事は出来ません。但し、日本人の住んだ全ての場所が候補地に成る訳では有りません。
 一人の日本人のアイデアマンがうんすんかるたを考案する事は、世界の何処に居ようとも可能ですが、それは単なるアイデアに過ぎません。アイデアに基いて札の絵柄をデザインし、それを描き、更に紙牌としての体裁を整えて初めて実体としてのうんすんかるたが完成します。そう考えると、とても一個人の手に負えるものでは無く、少なくとも或る程度の規模の日本人コミュニティーが形成されていなければ難しい作業でしょう。更にはそれを日本に伝えるルートが確保されている必要が有ります。
 初期の東アジア・東南アジア地域には日本人町と呼べる規模のコミュニティーが形成されていた場所が幾つか有ります。或る程度の規模のコミュニティーならば、そこに江戸カルタが持ち込まれて遊ばれていた可能性は高く、それを参考にうんすんかるたを考え出したと考えられなくは有りません。大規模な日本人コミュニティーが存在し、しかも日本との交易の拠点であった地域を考えれば、うんすんかるた誕生の候補地として考えられるのはポルトガル統治下にあった中国南部のマカオと、スペイン統治下にあったルソン(フィリピン)のマニラの二地域にほぼ絞られるでしょう。
 しかし決定的な問題点としてマカオやルソンや、或いは他の如何なる地域にせよ、うんすんかるた自体は勿論の事、うんすんかるたの札が描かれた器物等も全く確認されていないと云う事実を無視する事は出来ません。又、少数とは言えうんすんかるたに関する文献資料が残されているのも我が国だけです。更に我が国では熊本県の人吉地方にうんすんかるたその物が伝承されていますが、マカオやマニラや他の世界中の如何なる地域にも類似の遊技の伝承は有りません。つまり、うんすんかるたに関するあらゆる痕跡(文献資料・現存遺物・伝承技法)は日本国内に限られていると云う事ですので、必然的にうんすんかるたは日本国内製である蓋然性が高いと言えるでしょう。

ちなみに、江橋先生は『歓遊桑話』の記述を基に“中国伝来説”を提示して、うんすんかるた研究に大きな一石を投じられ、当方も『天野政徳随筆』を根拠に“ルソン起源説”と云う小石を投げ入れてみましたが、何れも“日本国内製説”の対抗説としては根拠が弱過ぎると言わざるを得ません。
 江橋先生の“中国伝来説”に関しては、既に賛同しかねる根拠を説明済みです。当方の“ルソン起源説”も残念ながら取り下げざるを得ません。自分で提出しておいて何ですが、やはり無理でしょう。

この辺で一旦、結論を示しておきましょう。

これもごく常識的な結論だと思いますが、宜しいでしょうか?

【3】うんすんかるた考案者の実像に迫る

ここ迄の議論を踏まえて、うんすんかるた考案者についてもう少し突っ込んだプロファイリングを試みましょう。

先ず押さえておきたいのは、うんすんかるたの構成はほぼ同一であり、明らかな例外は無いと云う点です。この事からうんすんかるたの成立過程を考えれば、自然発生的に幾つものアイデアが別個に生み出され、競合する中で一種のみが生き残り、残りは淘汰されたと云うプロセスは想像し辛いでしょう。一人のアイデアマン、或いはプロジェクトチームによって考案された物と考える方が自然でしょう。ならば彼(彼等)は如何なる人物なのでしょうか?

候補の一つとしてアマチュアの好事家が挙げられます。カルタに限らず、既存の遊技具を使った新たな技法を考案したり、遊技具自体の改良を試みる好事家は当時もいたでしょう。但し、現代ならばそれを製品化し、ゲームマーケット等のイベントやネット通販等で販売する手立ては有りますが、近世初期には一個人のアイデアを商品として販売する事が容易だったとは思われません。
 アマチュアが難しいならば、より有り得そうなのはプロと云う事に成ります、つまり当時のカルタ業界内部の人間、今で言えばゲーム販売企業の企画開発部門のメンバーです(或いは、彼等が適任と考えた外部の人間に依頼した可能性も含まれます)。新商品の企画が通りさえすれば、後は製造ルートも販売ルートも整っていますし、宣伝のノウハウも有りますので、その商品の完成度が高ければ十分にヒットが見込めます。現代で言えば、既存のトランプゲームをアレンジして商品化した“UNO”の成功例が挙げられます。

当方の見解としては、うんすんかるたは個人の好事家が脳内・机上で捻り出したアイデアでは無く、既存のカルタ製造販売業者(以下“カルタ屋”と呼びます。)によって企画開発された商品だと考えるのが現実的だと考えます。確たる資料根拠が有る訳ではありませんが、傍証として次の資料をご紹介しておきます。

『小間物問屋旧記写』享保年間(1716-1736)
一番組
  小間物問屋
    貳拾五人組

  覺 一 繪合かるた
一 かるた類
一 自讃かるた
一 うんすんかるた
一 歌かるた

これは享保九年(1724)に江戸の小間物問屋の組合が、取り扱い商品の一覧を公儀に届け出た文書の一部で、京都で製造されたうんすんかるたが、江戸の小間物問屋で商品として売られていた事を示すものです。勿論、これをもってうんすんかるたが既存のカルタ業界内部で考案された証拠だとは言えませんが、享保年間にうんすんかるたがカルタ業界の商業的な流通ルートに乗った商品だった事実を軽視する事は出来ません。少なくとも、うんすんかるたがカルタ業界と密接な関係に有った事は疑えません。
 又、うんすんかるたのバリエーションであるすんくんかるたが、京都の「きやうしや(経師屋)四良兵衛」なるカルタ屋の手によって製造・販売(多分企画も)されている事実から見ても、うんすんかるた自体も商品として生み出された物である可能性が高いと推測されます。

勿論、元々は個人の好事家が考案したうんすんかるたを仲間内で遊んでいたものが、次第に口コミで評判が広がったと云うシナリオも考えられなくはありません。しかしその場合にせよ、何処かの時点でそれを目ざとく嗅ぎ付けたカルタ屋が介入したと考えねば、上方・江戸・九州と広範囲に伝播した事実を説明するのは難しいでしょう。従って・・・

この様に考えます。過去のうんすんかるた研究では殆ど意識されていなかった視点だと思いますが、この視点を持つ事によって新たなアイデアが色々と湧いてきそうです。以降、これを“うんすんかるた商品論”又は単に“商品論”と呼びます。
 勿論これは一つの仮説に過ぎませんが、もしもこの観点によってうんすんかるたに関する様々な側面に合理的な説明が可能である事を示せれば、その信憑性が高まるでしょう。

【4】うんすんかるたは“誰の為に”作られたか?

一応、うんすんかるたはカルタ業界内部の人間によって、商品として開発されたものと仮定して論を進めていきます。

うんすんかるたが商品ならば、当然の事ながら売れなくては困ります。商品として販売が決定される為には、ゲームとして一定の完成度が有る事は勿論必要ですが、それ以上に、或る程度の売り上げが見込める事が絶対条件と言えます。結果としてうんすんかるたは“そこそこの人気商品”に成った様に見えますが、それは市場のニーズをしっかり把握出来ていたからこその結果だと思われます。
 そこそこの人気商品と云う評価について補足説明をしておきます。残念ながらうんすんかるたが大ヒット商品では無かった事は、当時の資料に極めて僅かしか登場していない事実から見て認めざるを得ないでしょう。しかし①そこそこの数の現物や模写が伝存している事、②拡大版であるすんくんかるたが作られた事、③元禄十六年板の『うんすん歌留多うち方』と題する手引き書が刊行されたらしき事、④恐らく京都で誕生し(この点、詳しくは後述)、製造されていたであろううんすんかるたが、享保期の江戸でも販売されていた事が確認される事(『小間物問屋旧記写』)、⑤九州の人吉地方に迄伝播していた事。これらの情況証拠を考え合わせれば、恐らく江戸前期から中期頃にはかなりの広範囲にわたって広まっていたと考えられます。その様な情況を、うんすんかるたが“そこそこの人気商品”だったと表現しました。

では、うんすんかるたの製造元が商機有りと見込んでいた「市場のニーズ」とはどの様なものなのでしょうか?
 先ず考えておかねばならないのは、現存するうんすんかるたの遺物の殆どが細密な肉筆画による高級仕様品であり、間違い無くかなり高額の商品である点です。それらはどう見ても一般庶民の手が届く品では無く、大名クラスの上級武家や上級公家、或いは豪商、豪農といった富裕層向けの物だと思われます。これらの上級階層の人々がうんすんかるたのターゲットの一つで有ったのは間違い無いでしょう。
 しかし、全てのうんすんかるたがこの手の高級品だったとは考えられません。すんくんかるたの版木の存在や、『耽奇漫録』の挿絵に見られる素朴なデザインの札から、木版による骨刷りに簡単な手彩色を施した廉価版が存在したのは間違い無いでしょう。人吉地方で使用されていたのもこの手のタイプだった様です。現存の遺物の殆どが高級品なのは、それらが高級品であるが故に財産として大切に保存伝承され、近代以降も好事家や博物館の収集対象として保管されて来たからでしょう。対して廉価版の方の遺物が稀なのは、江戸カルタと同様に単なる消耗品の遊技具として殆どが廃棄された為だと思われますが、当時流通していた数量的には廉価版の方が圧倒的に多かったと想像されます。そうで無ければ“そこそこの人気商品”になど成り得る筈は有りません。
 但し、もしうんすんかるたを一般的な江戸カルタと同じ素材、同じ工程で作ったとしても、枚数の多い分だけ余分にコストが係りますので、最終的な販売価格が割高に成るのは必然です。

ちなみに、カルタ文化を支えていた主たる愛好者は、江戸初期に限って言えば裕福な上流階層の人々であったと想像されます。それはカルタが高価な品だったと考えられる為です。しかし、後の本格的なカルタブームの中核を担ったのは比較的下層の庶民であったと考えて間違い無いでしょう。別の言い方をすれば、購買者としてカルタ業界の経営基盤を支えていたのもかれら庶民階層だったと云う事で、カルタブームと呼べる様な社会現象が生じるには、人口の大多数を占める一般庶民でも手が届く程度の廉価のカルタの存在が必須条件だと考えられます。更にカルタは、愛好者仲間の数人で一組の札を共有出来る性質の物ですので、例えば新品への買い替えが必要になった時でも、割り勘にすれば大した負担には成らないでしょう。彼等にとってカルタは身の丈に合った手頃な遊技具(賭博用具でも有ります)であったと思われます。
 しかし、彼等庶民階層が高価なうんすんかるたの登場を熱烈に歓迎したとは思えませんし、販売元のカルタ屋にしても、彼等を主な購買層と考えていたとは思えません。カルタ屋がうんすんかるたのもう一つのターゲットとして想定したのはは、比較的経済的に余裕の有る中流階層だったと考えられます。

つまりうんすんかるたは①上流階層向けの超高級カルタとして、及び②中流階層向けのちょっと高級なカルタとして考案、販売された物であり、実際に購入し愛好したのもその様な人々だったと考えられます。その様に考えれば、うんすんかるたの文献資料が知識人による考証書の類と、比較的高尚な文芸と見做される俳諧書に限られ、大衆的な娯楽文芸に全く登場しないと云う資料事実とも辻褄が合います。

以上の考察から導き出される結論を要約すれば・・・

と云う事に成ります。

【5】何故うんすんかるたが中流以上の人々に受け入れられたのか?

前項で、経済力の無い庶民階層が「高価なうんすんかるたの登場を熱烈に歓迎したとは思えません。」と書きました。これは金銭的な負担増を明らかに上回る何等かの魅力が無い限り、彼等に広く受け入れられる筈は無いと考えたからです。

当方は南蛮カルタの伝来時に、当時ヨーロッパで人気のトリックテイキングゲームの一種が伝えられたと考えています(この件については黒宮公彦さんのご著書『トランプゲームの源流 第1巻』に詳しいのでご参照下さい)。江戸初期の我が国で、48枚の江戸カルタを使用する“原ウンスン”と呼ぶべきトリックテイキングゲームが遊技されていた事は、『仁勢物語』(寛永十五~十七年)『私可多咄』(万治二年序)といった資料によって裏付けられます。うんすんかるたは、この“原ウンスン”を拡大したものだと考えています。
 うんすんかるたがそこそこ面白いゲームであるとは思いますが、うんすんかるたと“原ウンスン”のどちらがより面白いかは個人の感じ方の問題ですので、客観的に評価を下す事は出来ません。しかし、現在世界中で愛好されているトリックテイキングゲームの殆どが52枚の標準型のトランプか、それよりも少ない枚数でプレイされている事を考えれば、トリックテイキングゲームが単に枚数を増やせば面白さが増すと云う性格のものでは無い事は明白です。
 勿論、うんすんかるたは枚数を増やす事によって複雑さが増し、より高度な戦略が求められる事によって面白さが増したと感じる人はいたでしょう。逆に枚数の多い分、一回の競技に掛かる時間がどうしても長く成る事、ルールを習得するのに多少手間が掛かる事と云うマイナス点があります。更に金銭的な負担増(恐らく二倍位か?)の問題を考え合せれば、当時の平均的な庶民にとって、うんすんかるたが“原ウンスン”に取って代わる程の魅力的な商品であったかは疑問です。実際に庶民層にうんすんかるたが流行した形跡は有りません。

では何故カルタ屋が上流・中流階層を主なターゲットとし、そこに商機有りと見込んだのか。そして何故彼等にそこそこ受け入れられたのかを考えます。
 先ず何と言っても庶民層よりも経済力が有ることが重要なポイントである事は間違い有りませんが、江戸カルタと比べて何等かの明白な魅力が無ければ、敢て高価なうんすんかるたを選択する理由が無いのは庶民層と同じ事です。従って問題は、うんすんかるたに対して庶民層には感じられず、中流以上の階層には感じられた魅力とは何か? と云う点に成ります。
 考察の前提として、当時の人々がカルタに対してどの様なイメージを持っていたのかを資料によって確認しておきましょう。

『色道大鏡』延宝六年(1678)
 加留太 かるたは、異狄より渡りたれば、その根元をしらず、ばう、いす、おうる、こつぷ、などいふ名目も弁へ知りがたし、上品にはあらねど、わさ/\したる物なれば、時により、傾国の内でも難なし、一座のさびしき時は、興ともなるなり、竹箆しつぺいがけなどいふも、一きはをかしく聞え侍る

江戸前期には、遊里がカルタ流行の重要な拠点の一つであった事は、多くの遊里図屏風にカルタ遊びの場面が描かれている事から疑い様は有りません。但し遊里での遊びの中で、少なくともカルタは上品な遊びだとは見做されていなかった様です。

『人倫重宝記』元禄九年(1696)
加留多かるたあそび男女なんによともに見ぐるしく
『教訓世諦鑑』享保六年(1721)
さいるたの二品ハ、下品げぼんの悪勝負なるによつて、中人ちうじん以下いげのもの、過分くハぶんの勝負をなして、身をほろぼし、家職かしよくをやぶるに至る

当時の知識階級は、カルタは「見ぐるしく」「下品」なものと認識していた様に見えます。又、当方は『雍州府志』で黒川道祐は江戸カルタ全般(うんすんかるたを含めて)を「畢竟博奕之戯也」と切り捨てているものと考えています。

『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
自分じぶんには似合にあわずかるたわざ、ふつ/\とやめ給へ。かるたは博奕ばくちだい一なり。人のおもふ所もあり。なぐさみとはよもいわじ。さりとてはやめさせ給へ、與市どのと云。

「與市どの」はそこそこの身代の商人(つまり中流以上)で、大のカルタ好きと云う設定です。彼に対して友人が「人の思ふ所もあり」つまり、世間体が悪いのでやめなさいと忠告している訳です。つまりカルタは、社会的地位の高い階層の人々の趣味としては好ましいものでは無いと認識されていたと云う事です。

『咲分五人娘』享保二十年(1735)
人を善道せんとうへみちびく寺の和尚が。かるたの宿をめさるゝは。大ぞくにおとる仕業しわざ

僧侶は社会的な階層を超越した存在とも言えますが、少なくとも道徳的レベルでは高い事が求められる存在です。にもかかわらず「かるたの宿(カルタ賭博の胴元)」をするなど、俗人に劣る仕業だと云う事です(僧侶は聖人、それ以外は如何に身分が高かろうが俗人です)。つまりカルタは、建前上は聖人である僧侶には相応しく無い遊技だと見做されていたと読み取れます。

『絵本池の心』元文四年(1739)
ミちとき文字もんじくちにいひながら無理むりなることをするぞかなしき

挿絵の書棚に置かれている書物から、カルタを配っている人物が儒学者(所謂町儒者の類いだと思われますが)であるのは明らかです。知識階級であり、いつも偉そうな講釈をたれている儒者が、カルタの胴親をしている事を揶揄しているものと考えて良いでしょう。

これらの資料は全て創作物、つまりフィクションであり、実際に同じ様な事例が有ったのかどうかは分かりません(多分、有ったと思いますが)。しかしエピソードの真偽は大した問題では無く、重要なのはこれらの作品の作者・読者共に、カルタは社会的地位の高い人達、知識層、高い倫理性が求められる人達には相応しく無い遊技だと認識していたと云う点です。ぶっちゃけて言えば

と云う事です。当時、一般的に“カルタは下品なものだ”と認識されていたと云う視点に立てば、何故カルタ屋が中流以上の階層向けのうんすんかるたを企画したのか、そして何故彼等の間でプチ流行したのか、これらの疑問の答えが導き出せます。

“下品なものだ”と云う認識はカルタにとってマイナスポイントである事は間違い有りませんが、庶民階層にとっては大した問題では有りません。一方、中流以上の階層に属する人達にとっては大きな問題だったと考えられます。
 江戸時代には“分相応”つまり自身の身分や立場に相応しい行動を取るべきだと云う概念が、人々の行動規範の重要な原理として行き渡っていました。従って下品であるカルタは、庶民階層にとっては自らの身分に相応しい遊技であり、何等躊躇すべき理由は有りません。一方、中流以上の階層にとっては自らの“分”には不相応な遊技であり、大っぴらにカルタ好きとは公言しづらいものだったと考えて良いでしょう。

更に妄想を広げて行きましょう。中流以上の階層や知識階層の中には、世間で下品な物と見做されていた江戸カルタなど全く興味が無く、寧ろ毛嫌いしていた人も多かったと思われますが、中には庶民が熱狂しているカルタに興味を持ち、実際に体験してその面白さに魅了されていながら、世間体と云う壁によって大っぴらに遊ぶ事が憚られる事に歯痒い思いを抱いていた人々も少なからずいたと思われます。カルタ屋から見れば、彼等は潜在的なカルタ購買者予備軍であり、目の利くカルタ屋が彼等をターゲットとして企画したのがうんすんかるただと考えます。

・・・我ながら少々強引過ぎる気もしないでは有りませんが・・・ここは勢いに任せて考察を続けましょう。ここからはカルタ屋がうんすんかるたに込めた戦略と、それを受け入れた購買層の心理を掘り下げて行きます。

カルタ屋の側から考えれば、中流以上の階層にカルタが普及しない最大の要因が“カルタは下品な物”と云うイメージにあるのだとすれば、下品なイメージを払拭する高級カルタを作れば良いと考えて考案されたのがうんすんかるただったと考えます。
 恐らく最初に企画され商品化されたのは、上級武士や豪商・豪農といった裕福な階層向けの、超高級仕様のタイプだったと思われます。多分このタイプのうんすんかるたは大量生産の既製品では無く、注文主からの希望に合わせて製作された特注品であったと考えられます。その理由としては①現存する遺物のデザインが画一的では無く、バラエティーに富んでいる事。②製造コストの高い物ですので、確実に利益を上げるには注文生産が最も安全な方法である事。この様に考えます。
 このタイプの高級うんすんかるたがそこそこ現存している事を考えれば、ある程度の需要が有ったと考えて良いでしょう。しかし、一部の上流階層向けの高級うんすんかるたのみでは大幅な販路の拡大は望めません。そこで、うんすんかるたに或る程度の手応えを感じたカルタ屋が、次なるターゲットに定めたのが中流階層であり、木版の骨刷りに手彩色を施した廉価版のうんすんかるたの製造に踏み切ったと考えます。

これに飛びついたのが、世間体が気になり大っぴらにカルタで遊ぶ事は憚られるものの、かと言って高級仕様のうんすんかるたには手が届かない中級の武家や商人や、或いは宗教家や儒者等の知識層と見做される階層だったと想像されます。
 享保九年(1724)の『小間物問屋旧記写』に、当時の江戸の小間物問屋の取り扱い商品の一つとして記されているうんすんかるたは、問屋から小売商を通して市販された物ですので、恐らくこのタイプの廉価版うんすんかるただと考えて間違い無いでしょう。そしてこの記録から江戸ではそこそこの人気商品であり、少なくとも商品として採算の取れる程度の需要が有った事は間違いありません。カルタ屋の目論みは或る程度の成功を収めた様です。

この様に想像しましたが、どうでしょうかねえ?

公開年月日 2022/12/30

【6】うんすんかるたは多人数用の遊技札か?

当サイトの掲示板にて、うんすんかるたは多人数で遊べるカルタとして考案されたのではないか? と云う趣旨のご意見を頂きましたので、これに対する当方の見解を示しておきます。
 一般論として、札の枚数が多い方が多人数での遊技に適しているのは間違い有りません。又、人吉地方のウンスンカルタの中心的な遊技法が、多人数の競技者による「八人メリ」であると云う情況証拠にも一定の説得力が有ります。確かに一つの仮説として成立し得ると考えますが、個人的にはどうも腑に落ちないと云うのが正直な感想です。

当方は“うんすんかるた商品論”の立場を採っています。「商品」は、最低限その製造コストに見合う需要が有って成り立つ物です。ぶっちゃけて言えば“売れてなんぼ”の世界であり、もし売れなければ、それが如何に素晴らしい物であろうが、或いは数百年後に高い評価を受けようが、単なる失敗作に過ぎません。従って、特に新商品の開発に関しては市場のニーズを慎重に見極め、一定の潜在的購買層が存在すると判断して初めて商品化されると考えられます。
 うんすんかるたに関して言えば、結果として大ヒット商品とは言えない迄も、少なくとも開発以来かなりの長期に渡って販売し続けられたロングラン商品と成ったのは間違いなく、そこそこのヒット商品だと評価して良いでしょう。つまりカルタ屋の読みは当たったと云う事です。ではカルタ屋が想定した市場のニーズが、多人数で遊べるカルタだったのかを検討しましょう。

何れも大して説得力のある根拠とは言えませんが、これらの情況証拠を総合的に鑑みれば、“うんすんかるたが多人数で遊べる事を目的として考案された”と言われても腑に落ちないと云う事です。
 当方は前稿で述べた様に、うんすんかるたは江戸カルタと差別化された高級カルタと認識された事によって、中流以上の階層に受け入れられたと考えます。つまり、下品なものと見做されていた江戸カルタと違って、うんすんかるたを買い求め、それを所持する事に対しては世間体を気にする必要は無かったと云う事です。更に言えば、高級仕様のうんすんかるたを持っている事は、寧ろ一種のステータスであったろうと想像されます。これこそがうんすんかるたの購買層であった人々のニーズであり、そこに商機有りと見込んだカルタ屋によって企画された商品であろうと考えます。

【7】『半日閑話』と『博戯犀照』の「うんすんかるた打方」の関係

うんすんかるたの遊技法に関する江戸期の資料としては、大田南畝の『半日閑話』に収められている「うんすんかるた打方」と題する文章が良く知られていますが、これとほぼ同内容の記述が、山崎美成による『博戯犀照』と『耽奇漫録』にも収められています。又、近代のものではありますが、『博戯犀照』の「うんすんかるた打方」の部分のみを単独で採り上げた写本が東北大学附属図書館狩野文庫に所蔵されています。以上で全てです。
 これらの資料の性格をざっと見ておきましょう。

以上四種の文献資料には細かい相違点は有るにせよ、基本的な内容は共通しており、起源を同じくしている事は間違い無く、それが大田南畝所有の資料である事は疑い様が有りません。但し明確な相違点から『半日閑話』系と、『博戯犀照』系(『耽奇漫録』は文章の構成は異なりますが、同じ著者によるものなので『博戯犀照』系に含めます)との二系統に大別出来ると考えますので、その点について説明します。

「うんすんかるた打方」は二種類の要素によって構成されています。一つ目は中心と成る本文と呼べる部分で、これを更に細かく分ければ①札全体の構成、絵柄のデザイン及びその呼称、各札間の強弱関係を説明する前半部分と、②遊技法を説明する後半部分とで成り立っています。
 もう一つの構成要素は、『半日閑話』において「古き書付添壱枚有之」として記載されている文書です。「書付添」とは、何かに添付されていた文書を意味しますので、この場合はうんすんかるたのセットに添付されていたものと考えるのが自然でしょう。例えば、すんくんかるた版木にも「書付添」と見做せる簡単な文面が含まれている事からも、同時期のうんすんかるたにも同様の「書付」が添えられていたとしてもおかしくは有りません。

『半日閑話』系と『博戯犀照』系とを明確に区別するポイントは、本文の①の部分に有り、本文②の部分や「古き書付添」に関しては、資料毎に細かい異同はあるにせよ、基本的に共通していると言って良いでしょう。
 本文①には幾つかの割注(主に本文に関する補足説明)が有りますが、そこには両系統に共通する記述と、『半日閑話』系にしか見られない記述が見られます。『半日閑話』系のみに見られる記述を以下に列挙します。

  1. “そうた”の説明部分
     「二枚不足」
  2. “ろはい”の説明部分
     「虫と云ものか壱枚不足」
  3. “こし”の説明部分
     「きりと云もの壱枚不足」
  4. “花”の説明部分
     「壱枚不足」
  5. “惣数七拾五枚”に対して
     「内四枚不足」

この内、2の「虫と云ものか」と3の「きりと云もの」に関しては、「古き書付添」に記されている絵札の名称と相違しているものに対して、その対応関係を考察しているものであるのは明白です。
 その他は何れも札の不足枚数を記したものです。これらは執筆者自身がうんすんかるたの不完全なセットを所持しており、資料に記載されている枚数に対して不足している枚数を記したものと理解出来ます。つまり、『半日閑話』の「うんすんかるた打方」が南畝による草稿だとすれば(多分そうです)、彼自身がうんすんかるたの不完全セットを所持していたと考える以外に合理的な説明は難しいでしょう。更に、『天野政徳随筆』に有る荻野梅塢の「昔年観る所の南畝蔵中の物と相同じ」と云う証言が決定的な証拠と成ります。だとすれば、「書付添」はそれに添付されていた物である可能性が高いでしょう。
 更に考えるに、この不足札の枚数に関する記載は、比較対照となるうんすんかるたセットの存在に関する説明無しには、読者にとっては意味不明の不完全な記述だと言わざるを得ません。従ってこれは、公表を前提とした完成稿では無く、備忘録的な草稿の段階のものと考えられます。

ここ迄に見てきた内容と、そこから推測出来る事を整理してきましょう。

【8】南畝と美成は、直接面会したか?

『半日閑話』系と『博戯犀照』系とが同一のルーツを持つものであるのは疑いようが有りません。そのルーツについて美成は、『博戯犀照』での本文部分の引用に際して「南畝翁掌記の中に見へたるなり」と記していますので、南畝所蔵の資料が大元であるのは確実です。
 本稿では二人の間の接点、具体的に言えば、二人が直接面会したか否かについて考えます。

先ず、事実関係を確認しておきますと、彼等が直接面会した事を示す記録は存在していません。しかし当たり前の事ではありますが、二人が会っていない事を示す記録などそもそも有り得ませんので、この問題に断定的な解答を示す事は不可能です。但し、当方は二人が直接面会したであろうと云うシナリオを思い描いていますので、それを納得して頂けるかどうかが本稿のポイントです。

大田南畝は寛延二年(1749)生まれ、文政六年(1823)に75歳で没しており、山崎美成は寛政八年(1796)生まれ、安政三年(1856)没ですので、物理的な時間の重なりは十分に有ります。但し、山崎美成が活発に著作を発表し始めたのは文政二年(1819)頃からですので、両者の面会が実現したとすれば、この頃から南畝の没した文政六年(1823)迄と考えるのが現実的でしょう。

美成は文政七年(1824)に始まった“耽奇会”の主催者的な立場に有りましたので、少なくともこの頃迄には、会のメンバーである当時の一流文化人達からそれなりの評価、信用を得て、彼等と強力なコネクションを築いていたと考えられます。勿論、その様な関係性は一朝一夕で築けるものでは無く、数年越しに少しづつ築き上げて来たものでしょう。
 ちなみに、耽奇会メンバーの殆どは美成よりかなり年長者ですので、既に南畝と知己の間柄であり、長年にわたって親しく交流を持っていた者も多かったと思われます(具体的に調べてはいませんんが、間違い無いでしょう)。つまり両者の間には、まだ間接的ながらもかなり強力な人脈が築かれていたと想像されます。もしも美成が南畝との面会を望んだならば、その仲介役を買って出る人物に事欠く事は無かったでしょう。二人が直接繋がるのはもはや時間の問題です。

少なくとも美成が執筆活動を活発化させた文政二年(1819)以降、南畝がこの新進気鋭の同好の若者の事を知らなかったとは考えられませんし、寧ろ少なからぬ関心を持っていたとしても不思議ではありません。両者の間には47歳の年齢差が有りますので、南畝から見れば美成はほぼ孫の世代と言って良いでしょう。この情熱的な若者に、若き日の自分自身の姿を重ね合わせていたのでは無いかと想像したくなります。
 もしも美成から面会を求められたとしたら、それを拒むべき理由は思い浮かびませんし、ましてやそれなりの人物の仲介が有ったとしたら、二つ返事で承諾した事でしょう。寧ろ南畝自身、山崎美成なる若者に会ってみたいと思っていても不思議ではありません。
 ちなみに二人共に江戸の住人ですので、話がまとまりさえすれば、即日にでも面会は可能です。

一方、美成青年にとって南畝は尊敬すべき大先輩であり、憧れの存在だったのは間違い無く、それだけでも面会を望むに十分な理由たり得るでしょう。しかし果たしてそれだけでしょうか? 美成にはどうしても南畝に接触せねばならぬ、具体的な目的が有ったのではないかと想像します。勿論それはうんすんかるたに関する情報の収集です。
 『博戯犀照』の成立年代は明らかになっていませんが、仮に文政年間初頭から構想を持っていたとしましょう。『博戯犀照』には多種多様な賭博が採り上られていますが、その中でもカルタに関する記述が重要な構成要素の一つと成っています。更に、江戸のカルタを語るのにうんすんかるたを避けて通る事が出来ない事は、彼自身も十分に認識していたと思われます。そして恐らく、美成は何等かの情報源を通じて、南畝がうんすんかるたに関する資料を所持していると云う情報を掴んでいたのでは無いでしょうか。先述の、荻野梅塢が南畝のうんすんかるたを実見した記録は、決して彼だけの特殊なケースだったとは考えられません。南畝と交流を持つ面々の中には、南畝のうんすんかるたや、関連資料を実見した者が少なからずいたのは間違い無いでしょう。その情報が美成の耳に入ってもおかしくは有りません。
 一方、南畝以外にまとまった情報を持っている人物は居なかったのでしょう。実際、南畝以外の人物によるその手の記録は今も見つかっていません。美成としては南畝こそが唯一の頼みの綱でした。面会を乞う具体的な目的が、うんすんかるた情報の収集だった可能性は高いでしょう。そうでは無く、たまたま面会の場で南畝からうんすんかるたと関連文書を披露され、強い関心を持つに至ったと云う経緯も有り得なくは無いですが、余り現実的とは思えません。

もう一度南畝のサイドから考えて見ましょう。
 当時の南畝は、江戸を代表する文化人として人々に知れ渡る存在でしたので、彼と面識を得たいと望む者も数多くいた事でしょう。しかし、その全てに対して親切に対応していては、とてもじゃないが身が持ちませんので、ある程度の取捨選択はやむを得ません。その基準としては、主に①ないがしろに出来ない人物による仲介が有り、大人の事情として渋々面会を許した者、②仲介の有無は関係無く、南畝自身が当人に興味を持ち、会ってみたいと考えた者の何れかだと考えられます。美成が、それ迄に築いていた強力な人脈を利用したかどうかは分かりませんが、何れにせよ南畝は美成との面会を歓迎したであろうと思われます。鍵となるのはうんすんかるたです。
 太田南畝がうんすんかるたに興味を持っていたのは間違い有りませんが、彼以外の同時代の文化人、好事家で、うんすんかるたに関心を持っていたらしき者の記録は殆ど見当たりません。美成以外の人物による南畝のうんすんかるたコレクションに関する言及は、管見では『天野政徳随筆』に見られる荻野梅塢の「昔年観る所の南畝蔵中の物と相同じ」と云う、かなり後年の証言が唯一の例です。しかし荻野梅塢が見ているのですから、当然他の好事家仲間にも披露している筈ですし、だからこそ美成の耳にも入ったのでしょう。
 そもそもコレクターと云う人種は、例外無く自身のコレクションに対して強い愛着を持っているものですが、それを自ら眺めているだけで恍惚感に浸れるタイプと、他者に見てもらう事に強い喜びを感じるタイプの二種類が有ると思われます。南畝が後者のタイプである事は、彼の膨大な著述活動を鑑みれば疑い様が有りません。このタイプのコレクターは、自身のコレクションの価値を高く評価される事に至上の喜びを感じるものです。南畝とて例外では無いでしょう。もしそこに“うんすんかるたについてご教示願いたい”と申し出る若き探求者が現れたならば、無下に断る事など有り得ましょうか。

少し妄想が過ぎたかも知れませんが、少なくとも“二人が実際に会っていたとしてもおかしくは無いな”と云う印象を持って頂けたなら、こちらの思う壺です。
 勿論、全て情況証拠に基づく推測に過ぎない事は、十分に承知しています。重要なのは具体的な根拠に基づく合理的な説明であり、そこが腕の見せ所でしょう。

二人が直接面会したであろうと考える一つ目の根拠は、『博戯犀照』の「南畝翁掌記の中に見へたるなり」と云う記述です。
 先ず「掌記」の意味を確認しておきますが、これは南畝が所持している文書類と云う意味と考えます。これには南畝自身の書いた草稿も含まれる可能性も有り、その場合には後に『半日閑話』に収録された「うんすんかるた打方」の草稿も該当する事に成ります。しかし、美成が南畝による「うんすんかるた打方」を元にしたとは思えません。もしそうであるなら、南畝によって付け足されたと考えられる割注部分を敢て削除した上で引用し、それに対して「南畝翁掌記の中に見へたるなり」と言うのには強く違和感を感じます。やはり、ここでの「掌記」は南畝が所持している原資料を意味しており、美成はそれを実見した上で自らの著述に引用したと考えるのが妥当と思われます。

では、いつ美成は南畝の「掌記」に接したのでしょうか。問題を解く鍵は『博戯犀照』での引用に際して、美成が南畝の事を「南畝翁」と表現している点にあります。“翁”とは、高齢の男性に対して用いられる敬称であり、既に鬼籍に入っている人物に対しては用いられませんので、もしも南畝没後に彼の遺稿に接したのならば「南畝翁掌記の中に見へたるなり」と云う表現は不適切です。つまり、少なくとも『博戯犀照』の当該部分は南畝の存命中に書かれた物であるのは間違い無く、ならば当然の事ながら、美成が「南畝翁掌記」を実見したのは南畝の存命中の事であるのは明らかです。
 美成が「南畝翁掌記」に接した経緯を考えれば、①直接面会して閲覧した、②第三者を介して借り受けたと云う、二通りの可能性が想定出来ますが、常識的に考えれば②のケースは難しいでしょう。例え美成が強力なコネを持っていたにせよ、南畝に対してその様な不躾な要求をするとは思えませんし、そもそも美成自身、出来る事ならば憧れの南畝と面会したいと望んでいたのは間違い無いでしょう。
 南畝にしても、仮に信頼の置ける仲介者を介してにせよ、全く面識の無い相手に貴重な資料を貸し出すよりも、出来れば直接面会し、その人物を見極めた上で貸し出しの可否を決めたいでしょう。更に想像を膨らませば、誰も大した興味を示してくれなかったうんすんかるたに強い関心を示す、山崎美成なる人物に興味を抱かなかった筈は有りません。直接会った上で、自慢のコレクションと蘊蓄を披露したかったであろうと推測します。
 美成が南畝との面会を熱望していたであろう事は疑えませんし、南畝が面会を拒むべき理由は有りません。だとすればとは、美成は南畝と直接面会し、元資料を閲覧し、更にその場での書写を許されたと考えるのが最も現実的な解釈でしょう。

二人が直接面会した事を裏付けるもう一つの根拠は、南畝が『半日閑話』で「古き書付添」として示している文書に関して、美成は『耽奇漫録』での引用に際して「此書付ハふるきうんすんかるたに添有し候よし」と、より突っ込んだコメントをしている点です。文末の「~候よし」とは、自身の考察によるものでは無く、誰かからの伝聞である事を意味します。ならば「書付添」の所有者である南畝と面会した際に、直接本人からそう聞かされたと考えるのが自然だと思われますので、その線で考察を進めて見ましょう。

先ず、南畝による「古き書付添」と云う証言の意味を考えましょう。「書付添」の引用部分が元文書の全文だとすれば(多分そうでしょう)、文面のみからそれが古い物か、或いは比較的新しい物かを判断するのは容易ではありませんし、それが独立した文書なのか、何かに添えられていた添付文書なのかも判断は困難です。にも拘らず、何故南畝はこの文書が「古き書付添」、つまりうんすんかるたのセットに添えられていた物であり、しかも「古き」物であると断言出来たのでしょうか?
 これは、南畝自身がうんすんかるたのセットを所持していた事を考えれば、容易に説明出来ます。つまり「書付添」は彼自身の持つうんすんかるたに添付されていた物であり、更にそのうんすんかるた自体が「古き」物であると考えたならば、必然的に「古き書付添」と云う認識が導き出される事になります。
 南畝は以前、最初期の国産カルタである三池カルタを実見した事が有りますので(『小春紀行』文化三年)、古形のカルタに関して多少の知識は持っていたと考えて良いでしょう。自身の所持するうんすんかるたを古い物だと認識したが故に、それに添付されていた文書を「古き書付添」と表現したと考えます。

次に山崎美成の立場から、「此書付ハふるきうんすんかるたに添有し候よし」と云う記述の意味を考えましょう。彼はこの情報を何処から得たのでしょうか。更に、何故その根拠も示さずに断言出来たのでしょうか。
 「うんすんかるた打方」の本文部分については、美成が「南畝翁」と直接面会した際に閲覧したと考えられる事は考証済みです。ならば「書付添」も、その時一緒に閲覧したと考えるのが自然でしょう。更に想像すれば、この時に南畝の持つうんすんかるたも一緒に閲覧したと考えて間違い無く、その場で南畝が美成に①「書付」がそのうんすんかるたに添付されていた物であり、②うんすんかるたがかなり古い時代の物と考えられる事を、その根拠と共に説明したと考えれば、『耽奇漫録』の「此書付ハふるきうんすんかるたに添有し候よし」と云う記述はすんなりと理解出来ます。

以上の検討から得られる結論は・・・

公開年月日 2023/12/31

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