うんすんかるた分室 七頁目

〜うんすんかるたに関して専門に研究している分室です〜


J狩野文庫蔵『うんすんかるた打方』顛末記

それは平成17年の夏の或る日の事でした。例によって調べ物の為に図書館で『国書総目録』のページを捲っていた時に思いがけない文字が目に飛び込んで来ました。

うんすんかるた打方 一冊 (類)遊戯(写)東北大狩野(狩野亨吉写)

ちなみに『国書総目録』とは国初から幕末迄の日本人の作になる刊本、写本、総数50万点を超える国書を全9冊にまとめた総合目録で、古典籍を研究する者にとっては最も基礎的、且つ最も重要な参考文献です。それ迄にも少なくとも数十回は目を通していた図書ですが、まさかそんなベタな書名が載っているとは想像もしていませんでしたのでこれを見つけた時は正に呆気に取られたという感じでした。記述の意味するところを解説すると、書名が『うんすんかるた打方』、狩野亨吉の手による写本全一冊で、内容の分類は遊戯に関係するもの。収蔵されているのは東北大学附属図書館狩野文庫です。

この記述を見つけて大興奮したのには訳が有ります。「うんすんかるた打方」といえば真っ先に思い浮かぶのは『半日閑話』『博戯犀照』『耽奇漫録』に収められている一文ですが、実はもう一つ、幻の『うんすんかるた打方』と呼べるものが存在するからです。但し現在その所在は確認されていませんので、正確に言えば存在していた事を示す記録が有り、今も何処かに存在している可能性が有るという事なのですが、この発見も又偶然でした。

その日はカルタの絵柄が描かれた漆器等の資料を探す目的で図書館に籠っていました。カルタ資料展示室でも幾つかご紹介していますが、南蛮趣味の流行した桃山から江戸初期にかけてにはカルタの文様を施した様々な工芸品が作られました。何か新しい発見は無いかと漆器や南蛮美術関係の本を手当たり次第に漁っていたのですが、その中の一冊、西村貞著『南蛮美術』(昭和三十三年講談社刊)に目を通していた時、そこにさりげなく書かれた一文にビックリさせられました。「稿者もさきに元禄十六年板の『うんすん歌留多うち方』と題する横綴本を一見したことがあるが云々」と有ります。何と元禄十六年(1703)刊の版本です!!。更に推測するならば、内容の性格から考えて同年正月の刊行と考えて良いでしょう。だとすればこの年の正月松の内、人々は前年十二月に起きた赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件の噂話などをしながら「うんすんかるた」に打ち興じていたのかも知れません。この資料の存在から元禄末(翌年三月宝永に改元)頃には「うんすんかるた」がかなり遊ばれていた事実が伺えますが、もしも実物が発見されれば「うんすんかるた」の研究を飛躍的に進歩させる貴重な資料と成る事でしょう。しかし、この記述からは西村貞氏が本書を何処で、いつ頃見たのかがハッキリしません。氏の経歴から考えると、残念ながら戦前戦中の可能性が高いと思われます。もっとも必ずしも戦災によって焼失したとは限りませんし、西村氏は戦後迄活躍されている方ですので、この幻の元禄十六年版『うんすんかるた打方』が今も何処かに存在している可能性は決して低いとは言えません。いつの日にか発見される日の来ることを切に願うばかりです。

という訳で『国書総目録』に『うんすんかるた打方』を発見した時、真先に思い浮かんだのはこの元禄版『うんすんかるた打方』の写しでは無いかという期待でした。後は一刻も早く調査を開始するのみです。

本書が収蔵される狩野文庫、正式名称東北大学附属図書館狩野文庫には、教育者として明治から大正に掛けて活躍し、古典籍や浮世絵の蒐集家としても有名な狩野亨吉(1865-1942)が収集した約10万8千点を越える資料が収蔵されています。資料は目録に整理され、更に和書古典およそ5万5千冊がマイクロフィルム化されて各地の大型公立図書館や大学図書館での利用が可能に成っています。つまり、こと和書に関してはかなり高い割合でマイクロフィルム化されている訳ですが、不安材料としては本書が原本では無く写しであるという点です。期待と不安半々に早速図書館に向かったのですが、事態はここから意外な方向に進んで行ったのでした。

図書館での最初の作業は、狩野文庫の総目録で『うんすんかるた打方』がマイクロフィルム化されているかを確認する事です。ところが不思議な事に、何処を探しても『うんすんかるた打方』の文字が見当たりません。つまり目録に載っていないのです。まるで狐につままれた様な気持ちでひとまず図書館を後にし、取り敢えず何か情報は無いかとインターネットで検索して見ると次の様な記録が見つかりました。

(展観目録第40号)「加留多・双六」に関する図書展
日 時  昭和39年1月8日(水)9日(木)
    各12時から16時まで
会 場  東北大学附属図書館会議室
目 録
○ かるた 1. 倭詩(コトバ)接木の花二巻 下河辺拾水画 明和6(1769)刊 2. 美よし野 作者未詳 刊年未詳 3. 衛生いろは歌留多一枚 作者未詳 明治26刊 4. うんすんかるた打方 幸堂得知抄 写(狩野亨吉写) (後略)

もう一つあまり聞き馴れない名前が登場しましたが、幸堂得知(1843-1913)は明治時代に活躍した文人です。先ず原本を幸堂得知が写し、更にそれを狩野亨吉が写したという経緯でしょうか。とにかく『うんすんかるた打方』という書名の写本が狩野文庫に収蔵されている事は間違い無い様です。こうなれば後は直接収蔵者に当たって見るしか有りません。それまでの経緯の説明と『うんすんかるた打方』に関する情報提供をお願いするメールを東北大学附属図書館に送ったのは9月頭の事でした。

この件に対応して頂いた東北大学附属図書館情報サービス課相互利用係のT氏から頂いたご返事は、またもや驚くべき内容でした。T氏曰く、『うんすんかるた打方』が狩野文庫に収蔵されているのは間違い無いと思われるが、現物の所在が確認出来ない、つまり何処にも見当たらないとの事。いよいよ手詰まりかと落胆しつつ、引き続いての調査をお願いして取り敢えずひたすら待つしか有りませんでした。

そのまま何の進展も無いままに一カ月以上が過ぎ、このまま迷宮入りかと諦めかけていた時、事態は急展開を見せました。T氏から「現物確認」の一報が入ったのが10月19日の事。それからはとんとん拍子に話が進み、一週間程で『うんすんかるた打方』の表紙を含む全ページの複写物が下記の様なメモを添て手元に届きました。

時間がかかってしまい申し訳ございません。
この資料がマイクロ化の際に目録にも掲載されなかった理由は不明ですが、資料がみつかりましたので、スキャニングによる画像化を行ってみました。
あくまで実験的な画像化ですので、参考までに画像のプリントをお送りいたします。

最後の一行は、実はこちらからの費用の問い合わせに対する答えなのです。「あくまで実験的に、スキャニングによる画像化を試みた副産物ですので、お金を頂くつもりは有りませんよ」という訳で、こちらも有り難くご好意に甘えさせて頂きました。今回対応して下さったT氏もそうですが、図書館司書や職員の方々の仕事ぶりにはいつも頭の下がる思いです。国会図書館や大学図書館から市町村立図書館の小規模な分館に至るまで、真剣に求める者に対しては常に全力で答えようとする姿勢には幾度となく感心させられました。

さて、『国書総目録』での発見に始まり足掛け三カ月に渉った狩野文庫蔵『うんすんかるた打方』探求の物語りでしたが、途中紆余曲折は有ったもののようやく最終章を迎える事と成りました。恐る/\封筒を開けて中身に目を通してみると・・・

賢明な読者の皆様は薄々お気付きかと思いますが、世の中そう何もかもが上手く運ぶものでは有りません。結論から言いますと、残念ながらこれは「うんすんかるた」に関する世紀の大発見と呼べる様な物では有りませんでした。しかし気を取り直して読み進めると、幾つか興味深い点も見つかりました。何はともあれ内容を見て頂きましょう。原本に興味の有る方は直接東北大学附属図書館にお問い合わせ頂ければ入手可能かと思いますので、ここでは全文をテキスト化したものを掲載致します。

  うんすんかるた
第一 一 うん  五枚
      布袋 福禄寿 大黒 恵比須 達磨
第二 一 すん  五枚
      唐人の黒冠するもの皆すんなり
第三 一 そうた 五枚
      異国人の如きもの
第四 一 ろはい 五枚 又虫ともいふ
      飛竜の如きもの
第五 一 こし  五枚
      武者の腰をかけしもの
第六 一 馬   五枚(注1)
      共に馬に乗る体
   一 花   九枚  棒の先に花の付しもの
                 ろはいに花の付しを
                 貴む是より打出す
   一 ぐる  九枚  太鼓の模様
                 くるのウン太鼓に
                 達磨余ハ准す之

   一 おふる 九枚  ◎如此模様
                 おふるノウンハ恵比
                 須なり

   一 こつぷ 九枚  宝包の如きもの
                 こつぷのウンハ布袋
                 なり

   一 剱   九枚  利剱の模様
                 利剱ウンハ福禄
                 寿なり

總て丸き物ハ数少きをよしとす長き物ハ数多きをよしとす札員七十五枚なり
    打方
先札を合せてきり交ぜ三人にて打時ハ惣札の内より一枚取りて是を中へ置く跡を三人へ五枚つゝ順に配り末に成り二枚余りく(「た」の誤記か)るを別に除け置き是ハ捨にして用ひず扨最初に一枚取て置し札譬へバグルの六なれハ側三人の者いづれもグルの付し札を人に見せす取分置是其番のきゝものといふて尤も大切にすへきものなり是はウンスンの順によりてウンにグルの付たるハ第壱番のよ重きものとする故なりグルを取除て夫よりうちかゝる第四番のろは(「い」が脱)に花の付たるを持し人より打始るなりろはいに花の付し札を持たぬ人先何にても手にある軽き札を両人とも出す也扨二人出し候札譬へハ花の三を一人出し一人ハ剱の三を出す時ハ彼ろはいに花の付し札のある者の手より長きハ数多きをよしとすれハ剱の五を打て其五の札を上に置き膝の前へ弾く也それより右に居りし次の人又打なり其打方皆同しいつれも長き物ハ数多きにて取り丸き物ハ数少きにて取るなり夫より段々札も少くなれハ彼初除置しグルの付たるを出して打也是ハグルとしにハかちまけなれとも外の札ハつゞくものなし其後さすといふ事ありさすとハ壱人人物類か虫の類をもてふせ置其次の人たゝの札を出すハ捨といふて初手より捨てしまふなり剱の札なとにてハとても取る事ハならす今壱人ハ手にある所のうんより馬まての繪の付たるをもつてさすなり向の人第六番目の馬をさせバ此方にてハ夫より上の五番目のこしをさして取るなり其順にてうんをさせハ是に勝るものなしか様にして皆取しまひ一番多く札を取りしもの勝となるなり其札のとりかたさしかたに大きに上手下手ある事也(注2)
一 最初一枚取置く札もしうんより馬まての札なれハあまりよき物ゆゑ益なき事なれバ又側より五枚つゝも取りて切直し其中より一枚をく事もあり
一 棒の五丸の五ハ丸の四棒の六にて取る
一 棒の九丸の四きゝ取所」
右うんすんかるたの事ハ南畝翁掌記の中に見へたり又古きうんすんかるたに添ありし書付云すんうん(注3)そうたきりうま虫右の外ハ棒ハいづれにても数多き方へ取るなり丸きものハ数少なき方へ取申候いつれも置次第にて勝負いたし候まき候て残りををきと申候置に御座候虫を持候者より打出申候おきハ互ひにふせてさし申候置を互にさしても人の付候方へ取申候人にてもをきにて御座なく候へバ丸きものにても棒にても其時々の置の方へ取申候いつれにても繪の付次第たがひにさし候て勝負いたし申候」
是等を併せ見て打方の概略をしるへし
□居云カルタノ打方クサ/\アリトミエタリ
浮世物語博奕ノコトヲ云条
いつの頃よりか南蛮國よりかるたといふものを渡し一より十二に至り四組になして勝負を決す今ハ迦烏カウ追重オヒテウという事をして人の前にまきわたす絵をこなたよりおして知る事通力あるか如く云々イヱリ余ハカヽルワザハツエシラサレハ其コトコノ物ニミヘタルスヘヲサトリ難シコレラモ今ハ云々イヘル故ニソノカミト打方ノ異ナルコトト思ハルヽノミ

    幸堂得知

内容の殆どは既にお馴染みの「うんすんかるた打方」とほぼ同じものでした。本文の中程に「右うんすんかるたの事ハ南畝翁掌記の中に見へたり」と有りますので、直接的には山崎美成の『博戯犀照』内の「うんすんかるた」の項を写した物と考えて良いでしょう。

本文に続く「□居いんきょ(一字目は一般的な環境では表示されない文字です。「竹かんむり」に「均」と書き「いん」と読みます。以下同。)云カルタノ打方クサ/\アリトミエタリ」以下の段落が書写者である幸堂得知によるコメントです。先ずこの部分を検討しましょう。寛文初年(1661)頃刊の『浮世物語』からの引用に続けて「私はこの様な遊び(カルタの事)は全く知らないので書かれている事の意味は理解し難いが、今は迦烏カウ追重オヒテウという事をして〜と有る事から、時代によって様々な打ち方が有ったのだと思われる」という様な内容が書かれています。

ところで「□居」とは『嬉遊笑覽』でお馴染みの喜多村信節(1783-1856)が用いた号の中の一つですが、何故ここで彼の名前が出て来たのでしょうか。『嬉遊笑覽』の中には「カルタの打ち方、種々有りと見えたり」という意味の記述は見当たりません。勿論喜多村信節には『嬉遊笑覽』以外にも多くの著作が有りますので、それらの中に同様の趣旨の文が書かれていて、幸堂得知はそれを知っていたのかも知れません。しかしより現実的な解釈としては幸堂の見た写本に「□居(喜多村信節)」の名前が記されていたと考えるべきでしょう。

喜多村信節は『博戯犀照』の著者山崎美成とほぼ同時代に活躍した考証随筆家であり、互いに親交が有りました。『嬉遊笑覽』を始めとした多くの考証随筆の資料として、古今東西の膨大な数の文献を収集していた喜多村信節の事です。親交の有った山崎美成からも様々な資料を借り受けていた筈で、その中に山崎美成自筆の『博戯犀照』も含まれていたとしてもおかしく有りません。その場合、当然の事ながら全部、又は興味の有る一部分の写本を作り手元に残した筈です。

ところで「カルタノ打方クサ/\アリトミエタリ」という文章の出処ですが、実は『博戯犀照』の「うんすんかるた」の記述の直前にこれと良く似た「また打やうにくさ/\あり各左にしるす」という文章が有るのです。これを見た幸堂がこれを喜多村信節によるコメントだと勘違いした可能性も有ります。何れにせよ幸堂得知が参照したのは喜多村信節の署名の記された、おそらく自筆の写本で有ったと考えられます。

次に本文の内容を他の『博戯犀照』と比較して検討してみましょう。比較対象は国会図書館蔵の写本増補博戯犀照』(以下国会本と略します)と、もうひとつは『続燕石十種 第一巻』に収められた翻刻です。実はこの『続燕石十種』には1908年に国書刊行会から刊行された旧版と、1980年に中央公論社から出た新版の二種類が有り、『博戯犀照』に関しては使用した底本が異なっています。新版の方の底本は国会本ですが旧版の方は底本が示されていません。この点について新版の解題の中で「黒川本か?」と推測していますので、便宜上黒川本と呼ぶ事とします。細かい表現の食い違いは別にして、三本間には大きな差異と言える点が三箇所指摘できます。

狩野本国会本黒川本
「馬」の枚数×
文の一部脱落××
「すんうん」の順×
検討結果を解り易いように表にしてみました。『博戯犀照』の元々の形と思われる方をに、後から変化したと思われる方を×としました。結果は一目瞭然で狩野本の圧勝と成りました。つまり狩野本は『博戯犀照』の本来の姿をかなり忠実に伝えている可能性が高いという事です。同時にこの事は単に『博戯犀照』だけの問題に留まらず、『半日閑話』や『耽奇漫録』に見られる全ての「うんすんかるた打方」の本来の姿に近い事を意味します。

山崎美成自身「右うんすんかるたの事ハ南畝翁掌記の中に見へたり」と出典を明らかにしている通り、オリジナルは南畝翁、つまり大田南畝による草稿です。山崎美成(1796-1856)と大田南畝(1749-1823)の間には47歳の年齢差が有り、南畝の没した文政六年(1823)に美成は20代後半でした。若き日の美成と晩年の南畝の間に直接的な交流が有ったのかは判りませんが、少なくとも美成が『博戯犀照』の資料として利用したのは、後に『半日閑話』に収められた「うんすんかるた打方」の南畝自身による元原稿で有った可能性が高いと思われます。

最後に、狩野本「うんすんかるた打方」に係わった人物全員に再び登場してもらいましょう。写本の系図は次の様に成ります。

 大田南畝 (1749-1823)
   ↓
 山崎美成 (1796-1856)
   ↓
 喜多村信節 (1783-1856)
   ↓
 幸堂得知 (1843-1913)
   ↓
 狩野亨吉 (1865-1942)

この中で喜多村信節と幸堂得知の間には年代的な隔たりが有り、個人的な交流が有ったとは考えにくいので、この間に一人か或いは複数人によって作られた写本が存在している可能性は有ります。しかし『国書総目録』によれば『博戯犀照』の写本は国会図書館本と京都大学付属図書館本の僅か二点のみしか現存していない事を考えれば、元々それ程多くの写本が作られたとは考えにくく、従って他の無名の人物による写本が途中に介在した可能性はそれ程高くは無いと思われます。

それにしてもこの類いの写本でこれ程その来歴、及び代々の書写者の素性迄もがはっきり判明してている資料は実に稀だと言えます。しかもその面々たるや、実にそうそうたる顔触れが名を連ねています。この点からも正に由緒正しい資料だと言って良いでしょう。それにしても最初の三人は解るのですが、幸堂得知、及び狩野亨吉の二人はうんすんかるたに対して一体どのような興味関心を持っていたのか、とても気になるところですが今と成っては知る由も有りません。

思い起こせば本資料がようやく手元に届き、最初に目を通した時の感想を正直に告白すれば、一言「ガッカリ」というものでした。例の元禄十六年版『うんすんかるた打方』の件が有った為に過度の期待を持ち過ぎていたのかも知れませんが、何れにせよそのまま充分な検討もせずにほったらかしにしていた次第です。今にして思えば当時の自分自身の不明さに恥入るばかりですが、今ようやくその真価を理解出来るように成りました。幻の元禄十六年版『うんすんかるた打方』は相変わらず幻のままですが、昭和39年の展覧会以来雲隠れしていたもう一つの幻の『うんすんかるた打方』を再び日の当る場所に取り戻せた事を一つの成果として、ここにご報告させて頂きます。

公開年月日 2010/04/11


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