江戸カルタ「よみ」分室 参頁目

〜江戸カルタ技法「よみ」に関する研究室です〜


『雨中徒然草』を読む(四)
  第四の序(其の一)

 黒十八 白二十 附
 たとへハ
  壱角なれハ
   黒かた一ツ五十穴
   白かた一ツ五字
点料てんりやう二ケ
 白一ツ 白一ツ 合一番

是をのけ置候得は一はんに四宛ノ石たまり黒と引かへミれハ黒石の数二十となる壱角分也○但二はん半に黒ニツ割○黒二十あれはかるた打候数五十はんにすミ申候○壱角分二十也内極次第にて入目引○役打上度次打事是も極によつて打也十云ハ十一人前よりとれハ石一宛うつ尤めい/\こまりにひを打ハ二角もたまる故にわり返しにをゝし是ハミはからい候きわめにあり
たいかいハ五百字にあつかうときわ入目石二百字たけのけて割三百字にあつかふときハ百五十字のけてわる
割返しと云ハ此石ウタレたる人のかたへ十に一の割を以てかへせハをのつからうたれ数すくなく乗たる人の乗かつも多し是を当せいの割返しと云也いつれの大小かけにても此心也またなけ込と云ハ壱角なれハ壱角切のかちまけゆへに何ほと打れても壱角より不出乗たるかたより乗かたニ而たん/\助てミれハ壱角にて済也

(序6オ×7オ)

いよいよ『雨中徒然草』序文の最後、最も難解な第三の序の検討に入る訳ですが、正直な気持ちを申し上げますと、憂鬱な気分と言わざるを得ません。と言うのもこの部分、余りにも内容が難解過ぎて解らない点だらけなのです。難解に成っている原因としては、前述のように元々本書が既に「よみ」技法を知っている読者向けに書かれている為、細かな説明が省かれている点が挙げられます。もう一点、敢えて当方の読解力不足を棚に上げて言わせてもらえば、失礼ながら作者の太楽先生、お世辞にも一流の著述者とは言い難い。せめてもう少し親切な書き様が有ったのでは、と愚痴のひとつも言わせて頂きたい気持ちです。しかし思い直せば、これ程貴重な一書を我々に残して下さった太楽先生にケチを付るのはやはりお門違いというもの。気を取り直して読み進めて行こうと思います。

碁石 黒十八 白二十 附
 例えば壱角(一分=千文)なれば
   黒の方 一ツ五十穴(五十文)に当る
   白の方 一ツ五字(五文)に当る
『化物通人の寐言』

いきなり「碁石」が出て来て戸惑われる方も多いかと思いますが、実は当時カルタ競技の得点計算用に碁石を使用する事が一般的でした。もちろん必ず碁石が使われた訳では無く、銭そのものが遣り取りされた場合も有りました。

『博奕仕方』寛政七年(1795)ヵ
壹番毎に銭にて勝負いたし候者有之又は取遣り捗取不申候に付こまと名付、碁石等にていたし候得は黒白にて銭の高下を定め譬は白石一つにて十文或は五十文と相定め

当時の黄表紙の挿絵を見ても両方の場面が見られますが、碁石を使用している状況が判り易いものを二点ご紹介しておきます。

上段は天明二年の『化物通人ばけものつうじん寐言ねごと』、下段は寛政元年の『孔子縞干時藍染こうしじまときにあいぞめ』で、共に『雨中徒然草』からは少し後の時代の黄表紙であり、行なわれている技法も「よみ」では無く「めくり」という違いは有りますが、点数計算用に碁石を使用している事がお判り頂けるかと思います。

『孔子縞干時藍染』

碁石の使用がいつ頃から行なわれていたのか、具体的な資料が有る訳では無いので正確に特定は出来ませんが、次の資料から推定すると江戸初期までさかのぼる可能性が有ります。

貞徳誹諧記ていとくはいかいき』寛文三年ヵ(1663)
まきちらす碁石と星やみえぬらん
 かるたをうつと月も愛せず
長き夜を一間所にあかしゐて

「江戸カルタ」と「碁石」の関係は川柳・雑俳の題材としても多く取り上げられています。幾つか見てみましょう。

『川柳評万句合勝句刷 安八松2』安永八年(1779)
鳥の目にごいしを遣ふまつの内

「鳥の目」とは「鳥目ちょうもく」で穴あき銭、つまり当時の通貨である寛永通宝の事です。江戸時代を通して賭博は御法度、原則全面禁止でしたが唯一正月松の内の間だけは大目に見られるのが慣例でした。題句は「碁石」を出す事で正月のカルタ賭博を暗示しています。

『川柳評万句合勝句刷 明四満3』明和四年(1767)
のぞみなと内義碁石をかきよせる

「のぞむ」はトランプでいう所の「カット」で、札一組を任意の所で分けて上下を入れ替える手順です。競技の開始に際し配り手に不正の無い事を証明する為、或いはツキの流れを変える目的で「のぞみ」を行ないます。題句は前回の勝負に勝った内義(奥さん)が徴収した碁石をかき集めながら「さあ、のぞみな」と言う得意げな様子。

『他評万句合勝句刷 安元賦2』安永元年(1772)
石ばかり借リにやつたら気かつかう

本来碁石は碁盤とセットで使用する物です。それを碁石だけ借りに行かせたらきっとピーンと来るだろう。借り手は暗に「これからカルタをしますよ」と誘いを掛けている訳です。

『誹風柳多留九篇』安永三年(1774)
もふせんへのるが碁石のかくしげい
『誹風柳多留一〇三篇』文政十一年(1828)
人がらに似ざる碁石の加役也

同想句です。一句目の「もふせん」は「毛氈」の事です。当時、毛氈を敷いた上でカルタ打つ習慣が有りましたので「毛氈」と「碁石」の組み合わせで「カルタ」と気付かせている訳です。二句目の「加役かやく」とは役人(江戸時代ですので武士)が本来の役職以外に他の役を兼任する事を言いますが、狭義では特に、鬼平こと長谷川平蔵で有名な「火附盗賊改」の職を指す場合も有ります。句意としては碁石の本芸、本職は言う迄も無く「囲碁」で有り、カルタに使うのは言わば碁石の隠し芸、加役にあたるという訳です。

『川柳評万句合勝句刷 宝十三仁3』宝暦十三年(1763)
茶のほんへくろいご石を一ッ遣り

「茶のほん」は「茶の盆」でしょう。情景としては、カルタの場に茶を給仕してくれた者に心付け(チップ)として、茶を乗せてきた盆に黒い碁石をひとつ置いて遣ったという事でしょうか。この碁石を最後の精算時に現金に替えて貰える訳です。おそらく心付けを渡すのは、その場で一番勝っている競技者の役目だろうと思います。

お気付きかも知れませんが、これらの句に「カルタ」という言葉は一切出てきません。従って「カルタ」以外の解釈も成り立ち得る訳ですが、おそらく全て「カルタ」の句と考えて間違い無いと思います。

『雨中徒然草』に戻りましょう。「碁石 黒十八 白二十 附 。例えば壱角なれば、黒の方一ツ五十穴に当る。白の方一ツ五字に当る。」一人の競技者が持つ碁石は、黒石18個、白石20個。白10個が黒1個分に当たります。囲碁の場合は通常技量が上の者が白石を持ちます。つまり黒石よりも白石の方が格上だと言えますが、カルタの場合には逆に黒石の方が点数が高いので格上と成ります。この事を表した川柳を二句、ご紹介しておきます。

『川柳評万句合勝句刷 安九梅3』安永九年(1780)
碁て無ひ時にハくろ石かくかいゝ
『川柳評万句合勝句刷 寛元誠2』寛政元年(1789)
黒石のかくのいゝのハげひた事

ところで驚かされるのは、賭け金のレートを「例えば壱角なれば」と具体的に書いている点です。繰り返しに成りますが賭博は御法度の時代、場合によっては死罪になる可能性も有る重大犯罪でした。もっとも賭博に対する取り締まりの厳しさは時代によってかなりの幅が有り、いわゆる寛政の改革、天保の改革の両時期は特に厳しかった様です。逆にこれらの改革断行の直前、寛政改革前のいわゆる田沼時代や天保改革前の化政期と呼ばれる時期は、賭博を含め社会の風紀の乱れた時期で有ったと言えます。『雨中徒然草』が刊行された明和六年(1769)は正に田沼時代の幕開け前夜と言える時期で有り、比較的賭博取り締まりの緩かな時代で有ったと考えられます。とは言え賭博が御法度で有った事には変わり有りませんが、前述した様に正月松の内に限っては大目に見られる慣習が有りました。本書の序文や拔文でやたらと「正月」が強調されているのはこの為だと思われます。

もうひとつ賭博取り締まりには抜け道が有りました。賭け金がごく少額の場合、これを「慰み」と呼んでお目こぼしされるのが慣例でした。では一体どのくらいの金額迄が少額で、「慰み」と見做されたのでしょうか。おそらくここに例として書かれている「壱角(一分)」程度がその上限だったのでは無いでしょうか。これは競技者各自が「一分」ずつの金を賭けての勝負という意味で、大負けしたとしても最高で一分限りの負けと成ります。では一分とは現代の金銭に換算すると幾ら位に成るのでしょうか。江戸時代と現代の貨幣価値を正確に換算するのは難しいのですが、色々な研究から見ると一文はおおよそ20円位考えるのが良いようです。一分は千文に相当しますので二万円程度と考えられます。少額と言うにはちょっと多い感じもしますが、もしも一分の賭け金が「慰み」の範疇を越えるものならば、例として出版物に堂々と書くのは流石にまずいのでは無いでしょうか。従って一分程度が「慰み」の上限と考えられる訳です。

少し脱線しますが「一分」が当時の庶民感覚でどの程度の金額だったのか、別の角度から見てみましょう。江戸で唯一の公認の遊郭である吉原。時代によって変遷は有りますが、そこにはそれこそピンからキリまで数千人の遊女が居ました。遊女を置いていた「見世(店)」にもランクが有り、最も格式が高く高級な「大見世」は一分ではとても登楼不可能です。次ランクの「中見世」で部屋持ちと呼ばれるクラスの女郎の揚代がちょうど一分で、これは酒及び酒肴少々と床入りセットでの代金です。これは吉原全体のランクから見れば中位か中の上といったところで、庶民にとってはかなりの奮発の部類に入るのでは無いかと思います。しかし一方では、一分きっかりの予算で登楼する客を指す「素一分」という表現が有り、川柳では馬鹿にしたニュアンスで使用されます。揚代一分にプラスαの出費、例えば酒や酒肴を追加注文したり、相方の女郎や店の者への祝儀をはずむ客は上客と見做されますが、「素一分」はしみったれた客として小馬鹿にされてしまいます。つまり、一分を越えるか越えないかのラインが重要な境界線だと言えます。この事をもって「慰み=一分以下説」の裏付けとは言えませんが、あながち根拠の無いものではない事がご理解頂けるかと思います。

次に、何故カルタの点数計算に碁石が使われるように成ったのかを考えてみましょう。第一には高得点の場合の遣り取りが楽に出来る点が挙げられます。江戸時代の通貨である銭は、明和五年(1768)に明和四文銭が鋳造される迄の長い間一文銭一種類のみでした。前述した様に碁石を使わずに、得点に応じて直接銭を遣り取りする場合も有りましたが、この場合得点が一桁か、せいぜい十数点程度ならばさほど不便は感じないでしょう。しかし例えば得点が六十点だった場合に一文銭60枚を一枚づつ数えるのには相当な手間が掛ります。一方、碁石を使用した場合には六十点は黒石六個分ですので一瞬で片付く訳です。

碁石の使用にはもうひとつ利点が考えられます。

『川柳評万句合勝句刷 安六櫻2』安永六年(1777)
もふせんの上でごいしのそうバたち

「毛氈の上で碁石の相場立ち」
点数計算に碁石を使用すれば、実際にはカルタで金銭を賭けた勝負をしているとしても、傍から見たのでは分かりません。更にどれ程の金額(レート)を賭けているのかも、レートの取り決めをした当事者達以外には知る術が有りません。分かり易いようにドラマ仕立てにしてみました。

舞台は江戸のとある町屋。時は暮れ四つ頃。薄明かりの漏れる室内からはパチッ、パチッとカルタを打つ音。時折聞こえてくるのはジャラジャラと碁石を掻き集める音と数人の話し声。家の前には手下の岡っ引きを連れた与力。

ガラガラ ドタドタドタ
岡っ引き「じゃまするぜぃ。おっと、そのまま/\。
     噂を聞いて来て見れば、御法度のカルタ賭博の真最中とは恐れ入ったぜ。
     てめえら、神妙にお縄を頂戴しろいっ!!」
町人A 「これは/\ 親分さんに八丁堀の旦那までご一緒で。
     御法度のカルタ賭博などとは滅相も御座いません。
     私共ただの「よみ」好きの集まり、ほんの座興に白石一文賭けのケチな慰み事に御座います。」
与力  「ムム・・一文賭けの慰みとな。その方ども、しかと相違無いか!!」
一同  「ありませ〜ん」
与力  「さればお上とて下々の者の慰みまで咎める程の野暮では無いわ。
     今日のところは不問に付すが、屹度賭博に手を出すでないぞ。よいな!!」
一同  「はは〜」

一同、平伏しつつも舌をペロリ (終)

『雨中徒然草』に戻りましょう。

点料 二ケ
 白一ツ 白一ツ 合せて一番、白四つ有り。
是を除け置き候えば、一番に四ツ宛ての石貯まり、黒と引き換え見れば、黒石の数二十と成る。壱角分也。但し、二番半に黒二ツ割。黒二十有れば、かるた打ち候数、五十番に済み申し候。

競技への参加者は一回の勝負毎に一定の参加費を払います。これを「点をかける」と言います。

『博奕仕方』寛政七年(1795)ヵ
打初め候時点をかけると申事御座候、此点と申は手合可到と存候札に候得ば銭壹文其場え投出し、其次の者も相手に可相成と存候札に候得ば是も銭一文投申候、其次の者も同様に存候得ば銭一文投出し申候、、此訳は相手に相成可申と申す証拠に銭を投候事を点を掛ると申候
『咲分論』安永初年頃(1772)
いづルにてんをかけあふふはれいなり

『博奕仕方』では現金勝負の場合として銭一文を出すと説明していますが、碁石を使用している場合には銭の代わりに白石一つを出す事になり、これを「点石」と呼びます。「よみ」の場合は四人による競技が標準ですので、一回の勝負毎に点石が白石四つ分ずつ貯まる事に成ります。

『博奕仕方』寛政七年(1795)ヵ
碁石一ツ拾文に定め候得ば右之点の度々三人に候得ば三拾文両人に候得ば貳十文にて五十番打続候へは一貫文余に相成、五ツ度も仕候得ば五貫文余に相成申候、右之銭は博奕の宿仕候もの緒雑用に請取候儀に御座候

貯まった点石は緒雑用(後述する「入目」に該当します)に充てる為に「博奕の宿仕候もの」、つまり胴元が受け取るという事です。更に後述する「割返し」も点石の中から捻出されますので、これらを引いた残りが実質的な「寺銭」として胴元の取り分と成ります。では「寺銭」「入目」「割返し」はどの様な割合で配分されるのでしょうか。この問題に関しては佐藤要人氏が『江戸めくり賀留多資料集 解説』(p51)に次のように書いています。

勝負一番毎に、四人の斗技者から、白石一個ずつを徴集する。従って白石四個分が保留される。このうち二個分は点(ママ)になる。点料というのは点者てんじゃ(会元、つまり賭博の主催者)に支払うもので、寺銭のことである。この保留石が黒二十(一貫文)になれば、五十番の勝負がすんだことになる。このうち点料は五百文になるから、残り五百文のうちから、場費を算用する。これを入目いりめという。この入目を除けた分を「割返し」に遣う。割返しというのは、石の打ち負けた者に対し、十に一つの割で戻してやることをいう。つまり、壱角(一貫文)の勝負であれば、五百文は点料、残り五百文のうち二百文が場費(入目)、これを差し引いた残りの三百文が割返しの対象となる。

「点料 二ケ
  白一ツ 白一ツ 合せて一番、白四つ有り。」

ところで、カルタ競技では一回の勝負の事を正式には「番子ばんこ」又は「番」と呼びます。現代で相撲の取り組みを一番、二番と数えるのと同じです。尚、カルタ競技では「よみ」にせよ「めくり」にせよ五十番をもって正式な一区切りとしました。

『咲分論』安永初年頃(1772)
番子ばんこの五十ばん人間にんげん命数めひすうをあらはし
『博奕仕方』寛政七年(1795)ヵ
段々打候て番数を定め五十番にて先ツ其勝負を洗ひ、碁石の数を改め其節銭之取遣り仕候儀に御座候

一番の勝負につき点石として白石四つが貯まりますので、五十番では4×50で二百個、黒石に換算すると二十個分と成ります。つまり、一々何番打ったかを数えていなくても「黒二十有れば、かるた打ち候数、五十番に済み申し候。」と分かる訳です。中々合理的ですね。

カルタの勝負が五十番というのは当時の人々にとっては極めて常識的な事で有った様で、単に「五十番」と言うだけで「カルタ」が連想された様です。

『幸々評万句合勝句刷 安二雅2』安永二年(1773)
五十ばん上下を取ずるい事

ここでも直接「カルタ」の語は使われていませんが、先ず「五十ばん」でカルタを連想させ、「上下(かみしも)」で正月の年礼を暗示します。二つが組み合わされる事により、本句は年始の客を巻き込んだカルタ競技という情景以外には受け取れなく成ります。人数が足りないところに、たまたま訪れた年始客が強引にカルタに付き合わされるという状況も考えられますが、「ずるい事」という語感から考えると、元々カルタを打つ約束が出来ていて、年礼にかこつけて正装して家を出て来たものの、相手宅に着くと早速裃を脱いでカルタを打ち始める、という計画的犯行と見た方がぴったり来ると思われます。

今歳笑ことしわらい』安永七年(1778)
 安産あんさん
もふ出時分だ。うんといへ。またかふる。イヤもふ、人の多いもやかましくつてわるいが、また人のすくないも、あんまりいそかしい。こんなときに、だれぞ来てくれゝばよいに。表から戸をくわらりとあけて、そんなら又しらせてくれたかいゝ。どれ、おれも五十番ひかふと、ずつと這入て、ハアめくりかとおもつたら、マア御目出たふごんす
伊達競阿国戯場だてくらべおくにかぶき』安永八年(1779)
合じや。おく五十番くらわそふじや有まいか。アヽがしらたしなまつしやれ。アヽイヤ/\そふ云ハしやんな。かるたの数も四十八枚。則弥陀みだ御誓ごせい。仏は見通しいざござれ

これら二つの資料ではそれぞれ、「五十番引く」「五十番くらわす」が「カルタを打つ」という意味で使われており、「五十番」という語が「カルタ」と深く結び付いていた事がうかがえます。

ところで一勝負五十番といえばかなりの数ですが、一体どのくらいの時間が掛かったのでしょうか。仮に一番の所要時間を3分で計算すると五十番で150分、つまり二時間半と成ります。現代と比べると格段に娯楽手段の少なかった江戸時代ですので、いざカルタを打つという時はたっぷりと時間を掛けて楽しんだ様です。

公開年月日 2009/04/29

最終更新日 2009/05/27


『雨中徒然草』を読む(五)
  第四の序(其の二)

いよいよ難解に成って来ますが、頑張って読み進めて行きましょう。

壱角分二十也。内、極め次第にて入目に引く。役打ち上がる度次を打つ事、これも極めによって打つ也。十一とおいちというは、十、一人前より取れば、石一つ宛て打つ。もっとも銘々、こまりにひを打てば、二角も貯まる故に割返しに多し。これは見計らい候極めに有り。

前章で説明した通り五十番打ち終わると黒石二十個分の点石が貯まります。白石一つが五文のレートで換算すると丁度一角分に当たります。この中からその場の取り決めによって「入目いりめ」分を取り分けます。「入目」については後述します。「役打ち上がる度次を打つ事」というのは、勝負の勝者が次の番の親に成るという意味と思われます。これは現代の花札競技やトランプゲームでも一般的に用いられる方法ですが「これも極めによって打つ也。」と有りますので絶対的なルールでは無く、その場の参加者の同意による取り決めによっては別の方法、例えば一番毎に親が順番に移っていく方法等も認められたのでしょう。

十一とおいち」は次に説明される「割返し」の事を言っていると考えられますが、続く「もっとも銘々〜」以下のくだりは正直な所、意味がはっきりつかめません。「こまり(困り?)にひを打てば」の語に至っては今のところ全く意味を解しかねています。佐藤要人氏でさえこの語に関してはあっさりとスルーされています。

「入目」とは必要経費、雑費というような意味で一般的に使用される言葉であり、ここでも敢えて特殊なカルタ用語と考える必要は無く、一般的な意味での諸経費と考えて良いでしょう。ここで少し本筋から外れますが「入目」の内容について考えてみましょう。

必要な費用の第一番目としては、本来消耗品であるカルタ札自体の購入費用が挙げられます。しかし消耗品といっても数回の使用で使い物にならなく成る様な代物では有りませんし、単に競技を楽しむ為ならば、最低限絵柄の識別さえ可能ならば多少傷んだカルタでも支障は有りません。しかしある程度の金銭を賭けた真剣勝負の場合にはそうはいきません。使い古しのカルタでは自然に出来た汚れやキズ等が目印と成り、札の裏面から見て表の絵柄が判ってしまう事が有ります。例えば「あざ」や「釈迦十」といった重要な札にこの様な目印が出来た場合、それが全員に判る様なはっきりした目印であれば競技者間で有利不利という差は生じませんが、少なくとも競技自体の面白味を著しく損なう事に成るのは間違い有りません。しかしもし、誰か一人だけその目印に気付いたならばその競技者は大変有利な立場と成ります。更にその様な自然に出来た目印では無く、目印が故意に付けられる可能性も有ります。例えば井原西鶴の浮世草子『世間胸算用せけんむねざんよう』に見られる次の記述はその様な印付けを表していると解釈されます。

『世間胸算用』元禄五年(1692)
布袋ほてい屋のかるた一めん買て道ありき/\八九どうに心覚へするもの

「八」「九」「十」の札に目印を付ける事によって最も有利に成ると考えられるのは「かう」「三枚」系の技法でしょう。このケースでは道を歩きながら新品のカルタに仕掛けを施すという巧妙な方法を取っていますが、通常は新品かつ未開封のカルタを使用する事によってこの種の不正を防ぐ事が出来ます。現代のカジノでも「ブラックジャック」や「バカラ」等のゲームに使用するカードは新品をどんどん使い捨てにします。

それでは新品のカルタ一面の値段はどのくらいするのでしょうか。もちろん一口にカルタと言っても、それこそピンからキリ迄有り、上は「三池カルタ」と呼ばれる高級品から廉価な普及品迄色々なランクが有ったと考えられます。庶民が日常的に使用するのは京都の「松葉屋」「布袋屋」、江戸の「笹屋」といったカルタ屋製の普及品だったと思われます。幸運な事にカルタの値段を具体的に示す資料が有りますので見てみましょう。

五箇ごか餘情男よせいおとこ』元禄十五年(1702)
かるた代が壹匁三分、手まり代が七分五厘、羽子板代が壹匁

江戸時代の通貨には金、銀、銭の三種が独立して存在しました。この「もんめ」「ふん」は銀の単位です。これらの通貨間の換算レートは日々変動します。これは円、ドル、ユーロの相場が日々変動するのと全く同じ事です。ただし一応の目安となる公定レートが幕府によって決められていました。元禄十三年(1700)以降の金、銀、銭の公定レートは次の通りです。

 1両=60匁=4000文

 このレートを基に、上記の「かるた代が壹匁三分」を銭に換算すると約86文強と成ります。仮に1文=20円で計算すると1720円ですが、1文=20円というのは幾分高めの設定ですので、平均的なカルタの値段としてはおおよそ1500円前後が妥当な線だと思われます。引用した文献は元禄十五年(1702)刊とかなり古く、『雨中徒然草』の刊行年代とはおおよそ70年程隔たっていますが、江戸中期から幕末以前は全般的に物価の安定していた時代と言われていますので、若干の物価上昇を考慮しても上限として2000円位に収まるのでは無いでしょうか。一方、下限についても考えてみましょう。先述した「松葉屋」「布袋屋」「笹屋」等は多くの文献に登場する有名なカルタ製造元であり、これらの店のカルタは言うなればブランド品です。カルタが庶民に広く普及し、大量に消費されるように成った江戸中期以降にはこれらの有名店以外にも多くのカルタ製造販売元が存在し、主に比較的安価な普及品を中心に扱っていたのではないでしょうか。これらの商品の価格をブランド品の価格1500円の3分の2程度と仮定し、1000円前後と考えておきましょう。

江戸カルタの価格に関してどうやら答えが見えて来ました。江戸中期から後期にかけて、超高級品や粗悪品を除外した一般的なカルタの価格帯は今のお金に換算すると大体1000円から2000円位だったと考えられます。興味深い事にこの金額は現代の花札やトランプの一般的な価格帯と概ね重なり合います。この位の金額ならば長期間の使用によってカルタの傷みが著しい場合、或いは金品を賭けた真剣勝負での不正を防ぐの目的で、割と気軽に新品を買い求める事が出来たと思われます。

続いて他に「入目」として必要と思われる費用を考えてみましょう。正月松の内といった特別な場合や、雪や雨等で仕事が出来ないといったやむを得ない場合は有りますが、普通は大の大人が真っ昼間からカルタを打つのはあまり体裁の良いものでは有りませんでした。ましてや非合法のカルタ賭博の場合、必然夜間に行なわれる事が多かったと考えられますが、そうすると必要となるのが照明器具です。江戸時代の代表的な室内用の照明器具といえば行灯あんどん蝋燭ろうそくですが、蝋燭は当時大変高価であった為、日常的に使用されていたのは行灯です。当時の川柳にも次のような句が見られます。

『川柳評万句合勝句刷 安元仁5』安永元年(1772)
あんとんハ吹からだらけよミの朝

「行灯は吹き殻だらけよみの朝」
吹き殻とは煙草の吸い殻の事、後は特に解説は不要でしょう。

『孔子縞干時藍染』

行灯の構造は至って単純です。小皿に灯油を入れ、そこに灯心を浸して火を灯します。通常はそれを四角か円筒形の木枠に障子紙を張ったもので囲んで使用します。右図は寛政元年刊の『孔子縞干時藍染こうしじまときにあいぞめ』の挿絵ですが、右ページ奥の方に描かれているのが行灯です。良く見ると前面の部分が開けられているのが判りますが、これには理由が有ります。照明器具としての行灯の最大の問題点はその明るさ、と言うかむしろ暗さと言った方が適切かも知れませんが、照度としては1ワット程度だと言われています。これでは多少目が慣れて来てやっと物の輪郭が判別出来る程度で、文字を読んだり針仕事等の細かい作業には不向きです。もう少し明るさが欲しい場合、挿絵のように前面を開ける事によって多少明るさが増します。カルタを打つ場合も同様に、最低でも絵柄の判別が出来る程度の明るさが必要ですので、前面を開けて使用する事に成ります。又、長時間点灯し続けて灯心が燃えて短く成ると炎が小さくなって来ますので、時々灯心を少し引き出してやる必要が有ります。これを「掻き立てる」と言います。

『誹諧寄太鼓よせだいこ』元禄十四年(1701)
 行かねにけり/\
灯心をかるたのあざでかき立る

本来は「掻き立て棒」という専用の道具が有るのですが、カルタに熱中のあまりそれを取りに行く手間もまどろっこしく、手持ちの札を使って掻き立てるという様な手荒な真似も有ったのかもしれません。

『上手談義』

それでも行灯の明かりだけでは十分では無いと見えて『孔子縞干時藍染』の絵では手前の方に蝋燭も立てられているのが見て取れます。江戸時代のもう一つの代表的な照明器具である蝋燭は、行灯と比べれば数倍の明るさが得られるのですが問題はその値段です。最も大型の百匁ひゃくめ蝋燭で一本200文もしましたので一種の贅沢品で有り、庶民が日常的に使用出来る様な代物では有りませんでした。しかしカルタを打つにはその明るさが魅力で有ったのは間違い無いようで、当時のカルタ遊戯図を見ると蝋燭を使用している場面が圧倒的に多いのが分かります。一例として天明二年(1782)刊の『上手談義じょうずだんぎ』を載せておきます。画面の左側では四人の男女が蝋燭の明かりの元でカルタを打っています。周りを囲っている屏風には明るさを増す効果が有ると思われます。画面の右隅では行灯の前で女性が何やら(餅?)焼いています。この他にも蝋燭を使用してのカルタ風景は数多く見られますので、興味の有る方は「江戸カルタ展示室」のコーナーをご参照下さい。

「入目」についての最後のテーマは「夜食」です。一回のカルタの勝負は普通最低でも五十番、時間にして二〜三時間は掛かりますので夜も更けて来ると当然お腹も空いてきます。そんな時に重宝するのが江戸の夜食の定番とも言える「夜そば売り」です。「夜そば売り」は移動式の屋台で商いをし、「夜鷹そば」とも呼びます。現代で「夜鳴きそば」といえば普通はラーメン屋で、チャルメラの音色をトレードマークにしていますが、当時は当然の事ながら日本蕎麦で、屋台に風鈴を吊るしてその音を目印とした事から「風鈴そば」とも呼ばれます。カルタに限らず夜の賭博場は夜そば売りにとって上得意の一つだったと見えて古川柳にも数多く詠まれています。

『川柳評万句合勝句刷 安六智6』安永六年(1777)
まつの内夜そば素人うりもする

「松の内 夜そば素人売りもする」
普段のお得意さんは賭場に出入りする玄人の博徒達ですが、正月松の内に限っては素人賭博も良いお客さんとなります。夜そば売りにとっては正にかき入れ時です。

『川柳評万句合勝句刷 安四亀3』安永四年(1775)
めくりハかさがうれねへと夜そばいゝ

「めくりは嵩が売れねえと夜そば言い」
明和(1764-1772)末期から安永(1772-1781)初年頃、「江戸カルタ」の中心技法は「よみ」から「めくり」へと移って行きました。「よみ」は四人技法、「めくり」は三人技法ですので単純計算で25%の売上げダウンと成ります。「かう」系の技法は更に大人数の場合が有りますので、あわよくば大量注文が見込めます。

『川柳評万句合勝句刷 安四信1』安永四年(1775)
もふせんのうへで二八をもりわける

「毛氈の上で二八を盛り分ける」
現代でもよく使われる「二八そば」という言葉の語源に関しては「2×8=16 そばの値段が一杯十六文だったから」「つなぎのうどん粉とそば粉の割合が2:8だから」と二つの説が有ります。ここでこれらの真偽について論じるつもりは有りませんが、少なくとも『雨中徒然草』の書かれた明和頃のかけそば一杯の値段が16文であったのは間違いない様です。

ここ迄「入目」について色々と見てきましたが、この辺で整理しておきましょう。先ず第一に使用するカルタ代です。安物で済ます手も有りますが、やはり使用する用具にはある程度こだわりたい所です。ここは奮発して下り物の「布袋屋カルタ」を用意しましょう。値段としては『五箇の津餘情男』から導き出した86文としておきます。次に照明用の蝋燭代ですが、これは何としても最も明るい百匁蝋燭を用意したい所です。一本でどのくらいの燃焼時間なのか知りませんが、五十番の勝負に掛かる二〜三時間でおおよそ4分の1使うと仮定しましょう。一本の値段が200文ですので4分の1で50文と成ります。夜も更け勝負も佳境に入る頃、微かに風鈴の音が聞こえて来ました。風鈴そばです。丁度小腹が空いて来たところなので夜食として16文のかけそばを奢りましょう。四人分で64文の出費となります。ここ迄を合計しますと86+50+64=200。〆て丁度200文と成りました。ここで『雨中徒然草』に戻って次の記述にご注目下さい。

大概は五百字にあつかう時は入目石二百字だけ除けて割り、三百字にあつかう時は百五十字除けて割る。
割返しというは、この石打たれたる方へ十に一つの割を以て返せば、自ずから打たれ数少なく、乗りたる人の乗り勝つも多し。これを当世の割返しという也。何れの大小賭けにてもこの心也。

「入目石二百字」が先程の合計とピッタリ一致したのは全くの偶然です。更に上記の計算式自体が強引なこじつけに過ぎませんが、ここに書かれた入目としての「二百字」「百五十字」という金額が現実的、妥当な数字で有る事はご理解頂けるかと思います。

「入目」を引いて残った点石が「割返し」に使われる事に成ります。「割返し」とは勝負の敗者が負けて支払った金額の十分の一に当たる金額を戻してもらえるという制度で、一種の敗者救済制度と考えられます。

『咲分論』安永初年頃(1772)
相手あひての点石ハ割返わりかへの中に入てしづんて見えざるは是南極星なんきよくせひ
(中略)
まけたる人に割返わりかへつくるはじんなり

「割返し」は古川柳にも登場しますのでご紹介いたします。

玉柳たまやなぎ』天明七年(1787)
割返し抔と碁石を安くする

「割返しなどと碁石を安くする」
「安くする」とは『江戸語大辞典』によれば「@軽視する。見くびる。ばかにする。A粗末に扱う。冷遇する。」といったニュアンスです。

『誹風柳多留四二篇』文化五年(1808)
不首尾な杓子割かへし斗リ取リ

「不首尾な杓子 割返しばかり取り」
これには少々説明が必要かと思います。当時「杓子」は勝負運を上げるという俗信が有り、富突きの際お守りとして懐中に忍ばせて行きました。例句を揚げておきます。

『誹風柳多留初篇』明和二年(1765)
くわい中の杓子を出していたゞかせ
『誹風柳多留一七篇』天明二年(1782)
大わらい富場でしやくしおつことし

カルタの勝負にお守りとして杓子を持参したものの結果は「割返しばかり取り」。「割返し」は敗者が受け取るものですので「割返しばかり取り」とは裏を返せば連戦連敗という事です。正に役に立たない「不首尾な杓子」と成る訳です。

「割返し」の意義に関して論じる前に、次の「投げ込み」についての説明部分を見ておきましょう。

又、投げ込みというは、壱角なれば壱角切りの勝ち負け故に、何程打たれても壱角より出ず。乗りたる方より乗りかたにて、段々助けてみれば壱角にて済む也。

この説明はさほど難しくはありません。どれ程大負けしてもあらかじめ決められた掛け金、例えば一角の勝負ならば一角を上限とし、それ以上の負け分を支払う必要は無いという事でしょう。これも一種の敗者救済制度と言えます。

「割返し」は一見奇妙な制度と感じますが、実はそれなりに合理的な面が有ります。そもそも「割返し」に充てられるのは参加者が出した点石から「入目」を引いた残り分、つまりは余ったお金であり、それを再び競技者に還元するシステムと言えます。「割返し」は敗者に返されるものですので、僅か一割分とはいえ敗者にとっては直接的な利益と成ります。時には「割返し」によってぎりぎりの所で「投げ込み」という最悪の状況を免れる可能性も有ります。一方で勝者の側から見ると、他の競技者が「投げ込み」に成るという事は本来ならば受け取れるはずの金額に対してその一部分を取りはぐれる事になりますので、必ずしも望ましい事とは言えません。つまり敗者が「投げ込み」を免れるという事は、勝者の最終的な勝ち分の増加につながるという意味で、勝者にとっても間接的に利益をもたらすものと言えます。つまり「割返し」は敗者勝者の双方にとって利益と成ります。そう考えると今まで難解だった「割返しというは、この石打たれたる方へ十に一つの割を以て返せば、自ずから打たれ数少なく、乗りたる人の乗り勝つも多し。」という文の意味が見えて来ます。「打たれたる方」というのが敗者を意味するのは容易に想像出来ます。一方「乗りたる人」が勝者の事を指すと考えて良いでしょう。「気分が乗る」や「調子に乗る」と近い用法の「乗り」です。つまり「割返しというは、この石(余った点石)を敗者の方に十分の一の割合で返す事により、敗者の負け分を減らし、勝者の勝ち分を増やす。」という意味に解釈出来ます。

公開年月日 2009/07/01


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