江戸カルタ「よみ」分室 弐頁目

〜江戸カルタ技法「よみ」に関する研究室です〜


『雨中徒然草』を読む(一)
  解題及び第一、第二の序

本章から数回に分けて、「よみ」技法に関する最重要資料である『雨中徒然草うちゅうつれづれぐさ』全文のテキストを公開し、内容を検討して行きます。

『雨中徒然草』の完本は兵庫県芦屋の滴翠美術館に収蔵されています。他には一冊のみ、実物未見ですが東京国立博物館に『かるたの本』という書名で収蔵されている物が有りますが、完本では無い様です。現存するのはこの二点のみという全くの稀本なのですが、大変有難い事に滴翠美術館本を元にした完全復刻本が『江戸めくり賀留多 資料集』(日本かるた館編 近世風俗研究会刊 昭和五十年)に収められており、誰でも簡単にその全貌を知る事が出来ます。同資料集には佐藤要人氏による翻刻及び詳細な解説を載せた冊子が収められていますので、興味をお持ちの方は是非一読をお勧めします。尚、佐藤氏はこれに先行して『季刊古川柳』(川柳雑俳研究会 昭和四十九年一月創刊)の創刊号から四回にわたって「かるた目付絵雨中徒然草」を連載されていますので併せてご参照下さい。本稿を書くに当たっては佐藤氏の解説を大いに参考にさせて頂きました。実際の所、江戸文芸や歴史事実に関する我々の知識は佐藤氏の足元にも及ばないというのが正直なところですが、氏の触れていない事項の解説や文献資料の紹介、及び佐藤氏の解釈に対する疑問点も交えながら稿を進めていきたいと思います。

最初に書誌を整理しておきます。

  判形  半紙判半裁二ッ折、横本
      左右16.3cm、天地11.2cm
  表紙  薄茶表紙・題筌無し
  書名  序一丁表の冒頭に『かるた目付ゑ雨中徒然草』
      同文末に「雨中徒然草と題しぬ」と有り
  著者  序五丁裏に「作者 太楽」と有り
  版元  不明
  刊年  序に「明和六丑ノ正月」
      跋の末に「明和七 寅の正月目出度日」
  柱題  序文「序」、本文「雨中」
  丁数  序文九丁、本文三十丁
  奥付  無し

かるた目付ゑ 雨中うちふ徒然草つれ/\くさ

   叙
せんをすゝめ悪をこらしむる昔よりせいけん者のおしへはまのまさこよりおゝしといへとも四角四めんのへんくつゆへ下こむのひとをもしろからすかな本にをとけましりのきやふ訓をあんし出すこと其こう大かくにすきたり此さつハ悪をにくませるため中にすて有しをひろい雨中徒然草つれ/\くさと題しぬ
   明和六丑ノ正月

(序1オ×1ウ)

善を勧め悪を懲らしむる。昔より聖人賢者の教え浜の真砂より多しと言えども、四角四面の偏屈ゆえ下根の人面白からず。仮名本におどけ交じりの教訓を案じ出す事、その功大学に過ぎたり。この冊は悪を憎ませる為、路中に捨て有しを拾い雨中徒然草と題しぬ。
  明和六丑ノ正月
『雨中徒然草』序一丁表

なかなか格調高い序文では有りますが、大した内容では有りません。本書刊行の目的は勧善懲悪、悪を憎む心を易しく説く為と述べている訳ですが、実際に読み進めるとすぐに本書の内容とは全く無関係である事に気付きます。この序文自体が一種の洒落と考えて良いでしょう。

『雨中徒然草』という書名について考えてみたいと思います。言うまでも無く「徒然草」は吉田兼好の随筆からの流用です。当時から『吉原徒然草』『色里徒然草』等『○○徒然草』という書名はかなりの数が見受けられますが、「雨中」と付けた作者のアイデアは中々洒落ています。実は雨とカルタには深い縁が有り、江戸文芸にも数多くこの組み合せが登場します。

咲分論さきわけろん』安永初年頃(1772)
まづはるはしめやかにして降続ふりつゞ雨夜あまよ物語ものがたりにめくり札の品定しなさだめをなし
『かつらのみ 初編』明和三年(1766)
船へかるたのひける五月雨

五月雨とは旧暦の五月の雨ですので現在では六月頃、つまり梅雨時期の長雨の事です。雨とカルタの組み合せで最も多いのは春雨です。この場合の春雨とは単に春の雨全般では無く、主に正月の雨を意味します。

和歌ゑびすわかえびす』宝暦三年頃(1753)
春雨やかるたの釈迦の御戸開

現代でも雨降りは何かと不便なものですが、当時は現代とは比べ物にならない程厄介なものでした。特に江戸の職人の花形であり、従事する人数も多かった大工や左官といった、いわゆる出職と呼ばれる人々にとっては正に「商売あがったり」状態ですし、棒手振(ぼてふり)等の行商、露店商といった零細商人にとって雨は死活問題と言っても良いでしょう。しかし何事に対しても超ポジティブなのが江戸っ子です。くよくよしていても仕方ないので

『うつわの水』安永二年(1773)
よくふると言て来るのはよみ仲間

という事になります。雨で全く仕事に成らず時間はたっぷり、かといって現代のように様々な娯楽手段が有る訳でも無し。そんな時「江戸カルタ」こそが最も手軽な娯楽手段だった訳です。

置みやけおきみやげ』享保十九年(1734)
 春雨
慰(ナクサミ)にうつは面白かりた哉
 よくにかゝらはつんとよしなや

おそらく当時の人々にとって、雨の中つれづれに・・・と言えば、先ず連想するのは「江戸カルタ」だったのでは無いでしょうか。つまり『雨中徒然草』という書名自体が「江戸カルタ」を連想させるに十分なものだったのです。

すゝめ海中に入はまくりとなるとわ久しいことはなれ共誰もミた人もなしいま目前に掛取へんしてれい者となる一夜明れハ気もへんしアヽまゝのかわまた今年も三百六十余日と子供相手のすこ六もそれ箱根しやから日本橋へかへらしやれ此返答へんとうに行くれし折から亭主ていしゆ御内かまつ夕礼なれと御目出たしなんとすこ六よりよミハ気なしかされハ/\気ハあるけれと役とやらをしらぬさつてもきついやほしやななせ箱根から帰りし事ハいなならわぬきやうハよまれぬ道理これを見たまへ此一冊ハ我等大切の役付しらぬハ末代のはししや
  みたまへ/\

(序2オ×2ウ)

雀、海中に入り蛤と成るとは久しい言葉なれども、誰も見た人も無し。今、目前に掛取り変じて礼者と成る。一夜明ければ気も変じ、アヽまゝの皮、また今年も三百六十余日と子供相手の双六も、「それ箱根じゃから日本橋へ帰らしゃれ」この返答に行き暮れし折から「亭主、御内か。まず夕礼なれど御目出たし。何んと双六よりよみ(読)は気無しか。」「さればされば気は有るけれど役とやらを知らぬ。」「さってもきつい野暮じゃな。何故箱根から帰りし事わいな。習わぬ経は読まれぬ道理。これを見給え。この一冊は我等大切の役付。知らぬは末代の恥じゃ。見給え見給え。」

第二の序では一転、ぐっとくだけた文体となり、本書の真の目的が示されます。つまり技法「よみ」の「役」について教える書だという訳です。本書の本文には全部で90種あまりの「役」が紹介されています。その中には「三光」「揃」「はね」「崩し」「一九」「三馬」等江戸初期から中期にかけての文献にもしばしば見られるものも幾つか有ります。一方「ねはん」「かむろ」等の普通名詞や「きく五郎」「市まつ」等の人気歌舞伎役者の名前、「よりまさ」「相馬」等の歴史上の人物名といった固有名詞を役名に冠した一連の「役」が有ります。数的には後者が大部分を占めていますが、これらは古い文献にはほとんど見当たらず、更に登場する歌舞伎役者名の年代を考えると、これら多くの「役」は本書の刊行からそれ程遠く無い時代、おさらく宝暦年間頃(1751-1764)以降に成立したのでは無いかと考えられます。

何れにせよ、これらの膨大な「役」全てを記憶するのは容易な事では有りませんので、本書の様な「役」の手引き書の需要が生じたと考えられます。しかし手引き書が必需となる程に複雑化したゲームは、その複雑性を越えて余りある面白さ(例えばコントラクト・ブリッジや麻雀等)が無い限りは衰退していく運命に有ると言えます。「よみ」に関して言えば、いみじくも「さればされば気は有るけれど役とやらを知らぬ。」というセリフに表されるように「役」の過度の複雑化に因って遊戯人口の減少をもたらし、技法としての衰退を招いたのでは無いでしょうか。

「江戸カルタ」の歴史を振り返れば、本書の巻末に記された「明和七年(1770)」という年は「めくり」技法の文献初出である『辰巳の園』の刊年に一致しています。そして数年後に始まる「めくり」の大ブームによって「よみ」は「江戸カルタ」の主役の座を追われる事となります。本書『雨中徒然草』は正に「江戸カルタ」の歴史の大きな転換期を象徴する一冊と言えます。

公開年月日 2008/11/26


『雨中徒然草』を読む(二)
  第三の序(其の一)

  書付をミれは
それ加留多わ陰陽いんやう合をひよやふし相合を本儀として合初むるのことふきなりよつて加富多とミをくわへをゝしと名附正月より十二月をひやふし節分より一陽の気さすところをもつて下より上へ切上/\陰わ陽にかへす三々九の数をまき落絵おちへと云テ一枚とるハ大極なり四所へ九枚つゝまくハ四九三十六しんをかたとり一人やすむときハ絵数三九二十七右の大極一枚をくわへて天の二十八星をとれり十につくりてハ一へかへれハ十一月とう時ハ異国の正月と云亦本儀に生る心を以て十一を午といふ十二月物こと納り切と云心て十二を切と云異国いこくにて此名をうんすんと云其形丸きをおゝると云半月をこつふと云青きをいすと云をゝるハ玉なりこつふハさかつきなりいすはほこなり赤絵ハ天かいと云則からかさなり大皷たいこ二ハかゝミなり玉鏡剱をひやふしたるハ三種の神宝なり傘くハんいの気比きひ大臣日本へ帰朝の後ぬいはくそめ物所と云ものをはしめたまふゆへ二にかゝミの形を絵書たまふ正月このかたちある絵を手にふれたる人は神徳を得て七なんをのかれ七ふくのくわにをふ去によつて七まい金入と云二に花かたを付大このことくなるゆへうつと云又十二月よミつきる心にてよむとも云五こく成就の心をもつてまくと云上るとハいねをうへて出る心なり一節に目出度田をかる故にかるたと云
青切ハ日本人青馬ハ唐人青二ハ龍人青十ハ釋迦如来しやかによらい青三ハ三種さんしゆ天人地三徳あさは虫をひやふす黒金をくいしと云ハあやまりなり大人小人共に虫の病ハこふたゐすさましき大病一より十をまてといへとも十をこし十二迄神通を得たり此虫の大毒によつてもろ/\のむしのミ迄をそるゝゆへ蚊のましないと云伝ふ座中の金銭を喰上る故黒金を食すならん

 作者
  太楽

    [勝負の字の印]

(序3オ×5ウ)

第三の序に至って、ようやくカルタに深く関わる内容になってきます。これも全体としては陰陽説、太極図説、二十八宿説等をこじつけた一種の洒落に過ぎませんが、中に数多くのカルタ用語が折り込まれており、「江戸カルタ」に関する資料としては色々と興味深い情報を提供してくれています。

 書付を見れば
それ加留多は陰陽和合を表し、相合を本儀として合初むるの寿なり。よつて加富多と名附く。正月より十二月を表し、節分より一陽の気ざすところをもつて下より上へ切り上げ切り上げ、陰は陽に返す。三々九の数を蒔き、落絵といって一枚取るは大極なり。四所へ九枚づつ蒔くは四九三十六神を象り、一人休む時は絵数三九二十七、右の大極一枚を加えて天の二十八星を取れり。

冒頭「書付を見れば」と元ネタの存在を正直に白状しているように、この一文と似通ったモチーフは他の文芸作品にも見られます。佐藤要人氏も指摘されている洒落本『咲分論さきわけろん』や黄表紙『開帳利益札遊合かいちょうりえきのめぐりあい』とは「よみ」と「めくり」の違いは有るものの、大変似通ったモチーフと言えます。ここではより古い例として貞享三年(1686)刊の『鹿の巻筆』から、同様のアイデアに基づく一文をご紹介しておきます。

鹿しか巻筆まきふで』貞享三年(1686)
それかるたは人間の盛衰せいすい根本もと、されば佛法にいわんには、まづ四十八枚は弥陀みだの四十八ぐわんなり。一より九まで四とをりにて、四九三十六、地の三十六ゐんをひやうし、十、四枚は釈迦しやか弥陀みだ薬師やくし弥勒みろく佛、馬四枚は文殊もんじゆ普賢ふげん観音くわんをん勢至せいし、きり四枚は持國じこく毘沙門びしやもん廣目こうもく増長ぞうてう、さてまた、いす、こつぷ、はう、おうる四しな にさだめしは、須弥しゆみしう萬物ばんもつのはじめなれば、あざを天下にたつるなり。

「下より上へ切り上げ切り上げ」と有るのは以前検証したカルタの切りまぜ(シャッフル)を表している様です。更に想像すると、当時行われていたカルタの切り方は、現在でも我々がトランプを切る時に通常行なっているやり方である「ヒンズー・シャッフル」と呼ばれる方法だと思われます。欧米でよく行なわれる切り方である「オーバーハンド・シャッフル」がカードを上から下に回して行くのに対して、「ヒンズー・シャッフル」では逆に下から抜き取り上に回します。正に文中の「下より上へ切り上げ切り上げ」の表現にぴったりです。

川柳、雑俳から、この「カルタを切る」という行為を題材とした句をご紹介します。

わらわまと 四篇』明和四年(1767)
あれか座頭か骨牌きる音
『川柳評万句合勝句刷 明六義4』明和六年(1769)
哥かるたちよき/\切てしかられる

二句共に『雨中徒然草』とほぼ同時期の作です。万句合の句から当時は「ちょきちょき切る」という行為は、哥かるたの作法として好ましく無いと考えられていた事が判ります。では「ちょきちょき」と切られていた物は何かといえば「江戸カルタ」に外なりません。当時は「哥かるた」は上品であり「江戸カルタ」は下品と認識されていましたので、「江戸カルタ」と同じように「ちょきちょき切る」という動作は品が無いと見做されたのだと思われます。

玉柳たまやなぎ』天明七年(1787)
二百枚あるとかるたもひんがよし
柳筥やないばこ 四篇』天明六年(1786)
あをのけにまくでかるたの品ンがよし
『川柳評万句合勝句刷 安元宮1』安永元年(1772)
春の雨よんて取ルのハひんがよし

次にカルタを各競技者に配る段と成ります。
「三々九の数を蒔き、落絵といって一枚取るは大極なり。四所へ九枚づつ蒔くは四九三十六神を象り」の部分は『博奕仕方』の「よみ仕方」の「手合四人一人え九枚ツヽ蒔附置、残り札を死繪と唱、除置候事」という記述に対応しており、ここから「よみ」の基本形は四人による競技で有り、手札は各自に九枚という事が確認出来ます。ただし、続いて「一人休む時は絵数三九二十七」と有るように、手の悪い一人が勝負から降りて残りの三人のみで競技する場合も有った様です。更に想像を廻らせれば「三々九の数を蒔き」というのは、九枚の札を配る際に一枚づつ配るのでは無く、一度に三枚づつ三回に分けて配るのを表しているのでは無いでしょうか。現代に伝わる「八八」「テンショ」「ポカ」等の伝統的な花札技法の多くでは一度に三枚なり四枚の札を一度に配る方法が取られますし、人吉地方の「うんすんかるた」も同様に三枚づつ配ります。これらは全て「江戸カルタ」の配り方の伝統を受け継いだものと考えられます。

「落絵」は『博奕仕方』では「死絵」と呼ばれていますが、両者は同じものと考えられています。

『川柳評万句合勝句刷 安元信2』安永元年(1772)
死繪をも正月しまと落ゑなり

つまり「死」は縁起が悪いので、正月の間だけは「死絵」の使用を避けて「落絵」と呼ぶという訳です。『雨中徒然草』も正月の出版ですので「落絵」を使用していますが、通常は「死絵」と呼ぶのが普通だった様で、文献に見られるのも殆どが「死絵」です。 ここで江戸期の川柳、雑俳に登場する「死絵」について見てみましょう。古くは十六世紀初頭から「死絵」の記述が見られます。

『誹諧日本國にほんこく』元禄十六年(1703)
一枚の死絵シニエはあざよよみがるた

「死絵(落絵)」に関しては『雨中徒然草』中の後の部分で「呼出しというは、落絵を入れて役にするを呼出しというなり」と説明されており、勝者が役点を計算する際に手札の一枚として扱われた事が解ります。「死絵」が多くの役の構成に絡む「あざ」や「釈迦十」といった重要な札だった場合、一気に得点が増える可能性が有ります。そこで元々の点が低い場合は「死絵」による一発逆転を期待して

『桃人評万句合勝句刷 宝12・2・21』宝暦十二年(1762)
壱枚のしに絵を当に打て出
つるこえ』享保二十年頃(1735)
こんな時に絵の蠣が拝ミたい

と期待して開けては見たものの、大抵はたいした札では無くガッカリするケースの方が多かったでしょう。しかし既に手札で多くの役を持ち、高得点が確定している場合は「死絵」を開けるのも余裕満々です。

『川柳評万句合勝句刷 天二松3』天明二年(1782)
ちつと大いと死繪に手をかける

えてしてこういう時に限って良い札が来るもので、「死絵」から「釈迦十」が現れて更に新たな役が幾つか成立。これを見た残りの三人は顔面蒼白と成り

『さくらの』宝暦頃(1751-1764)
三人は死絵のしやかになみたくみ

という事に成ります。この様にドラマチックな展開を生む「死絵」は、川柳、雑俳の絶好の題材として用いられました。

「落絵」「大極」に関しては、佐藤要人氏が『江戸めくり賀留多資料集 解説』(p19-p20)に次のように書いています。

四十八枚の札のうち赤札の十二枚を除き、残りの三十六枚を用いる。
(中略)
親は、この中から一枚を大引に引かせる。この札を、裏面を向けたまま、座蒲団の下などに仕舞う。これを落絵おちえまたは死絵しにえという。この落絵がいかなる札であるかは、斗技者は知ることが出来ぬのである。そして、この落絵の代りにえび二の札を加える。えび二札には「大極」の文字が入っており、これを大極札という。恐らくトランプのジョーカーの役に当るのであろう。自由自在に変身する特殊札であるから、ぴんにも二にも、馬にもきりにも転用できるのであろう。

佐藤氏はかなり具体的に「一枚を大引に引かせる」「裏面を向けたまま、座蒲団の下などに仕舞う」「代りにえび二の札を加える」と説明していますが、これが如何なる資料に基づくものかは不明です。これに対し『博奕仕方』の「よみ仕方」には「手合四人一人え九枚ツヽ蒔附置、残り札を死繪と唱、除置候事」と有り、三十七枚の札を四人に九枚づつ配った残りが自動的に「死絵」に成ると解釈出来ます。

「えび二(海老二)」とは「赤二」つまり赤絵(イス)の2の札の別称で、海老の絵が描かれている事からの命名です。ところで『博奕仕方』には「海老二」札の使用は明記されておらず「かるた三拾七枚 めくりかるた四十八枚ノ内赤繪札十貳枚を除」と有ります。文面通りだと48ー12=37と成り、計算が合いません。当時のめくり札には通常の四十八枚の他に「鬼札」と呼ばれる札が含まれていたと考えられていますので、この「鬼札」を加えて三十七枚にした可能性も有ります。しかし

『類字折句集』宝暦十二年(1762)
海老が切れかるた一面買にやる

と有り、少なくとも宝暦から明和頃には「海老二」を加える方法が一般的だったと考えて良いかも知れません。正し、この『類字折句集』が「海老二」に関すると思われる記述の初出であり、「赤二」の札に海老の描かれた所謂「海老二」の札がこれ以前のいつ頃から使用されていたのかは不明です。「赤二」札に関するより古い資料としては次のものが有ります。

『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
さる物、おれはよミはしつたが、かうをしらぬ。なにと何がかうぞ。さる人ゆうは、七と二とがかう、三と六とぼうずとかう、九壱枚いちまいにぼうず二まいもかう、四と五とぼふずもかうじや。それをすれば、かわをみなとり候とゆふ。しからハわれ、とうどり可申もうすべきか、ミなはり候かとゆう。皆々、白人じやほ どにはれといふ。やがてまきつけ、おやぶたあけた。四と五とぼふずしや。とろかといふ。やれとれとて、はたハみなとりた。白人とうどりハいらぬもの。四と五とぼうずハぼうずじや。十てもむまでもきりでもなかつた。あか二の上に、ほていがあるのじや。

この資料から「赤二」の札に布袋の絵が描かれたタイプの「江戸カルタ」が存在した事が確認出来ます。これを裏付ける強力な証拠が「江戸カルタ」の末裔とも言える地方札「赤八」に残されています。
地方札「赤八」ギャラリー 花札より)
又、『雨中徒然草』と同時代に刊行された資料にも布袋の絵の描かれたカルタについての記述が見られます。

絵本富貴種』明和六年(1769)
かるたに布袋ほていをゑがくこともろこしほてい和尚おしやう小性こせう金吾きんごといふ人はじめて百人一首のうたとよミとをこしらへてあきなふ其家名いへなをほていやと申ける

つまり「赤二」に布袋が描かれていたのは、江戸時代最大のカルタ屋であり、多くの資料に登場する京都の「布袋屋」のカルタ、又はその系統に属するカルタだった様です。一方『雨中徒然草』に描かれているカルタは、「太鼓二」に竹の絵が描かれている事から江戸に有ったカルタ屋「笹屋」の系統だと推測されています。だとすれば海老と布袋のデザインの差は、時代による変化と言うよりも、製造元の系統の違いによるものなのかも知れません。

『雨中徒然草』本文九丁表

佐藤要人氏の説に戻って後半部の「えび二札には「大極」の文字が入っており、これを大極札という。恐らくトランプのジョーカーの役に当るのであろう。自由自在に変身する特殊札であるから、ぴんにも二にも、馬にもきりにも転用できるのであろう。」という記述を検討しましょう。確かに画像を見ると『雨中徒然草』の「海老二」札には「大極」の文字が書かれています。しかし『雨中徒然草』の文中には「海老二」の札を「大極札」というとは書かれていませんし、「大極札」という言葉自体、他のいかなる文献でも見た事が有りません。

『新造図彙』海老二

尚、全ての「海老二」の札に「大極」の文字が書かれていた訳では無い事は、天明九年(1789)刊『新造図彙』所収の「海老二」の図を見れば明らかです。では「大極」とはどの様な意味なのでしょうか。

『雨中徒然草』の「三々九の数を蒔き、落絵といって一枚取るは大極なり」という記述を素直に読む限りは、「大極」とは「海老二」の事だとは決して言っていません。どう読んでも「大極」とは「死絵(落絵)」の事を指しているとしか解せません。「大極」には幾つかの意味が有りますが、この場合は易用語から来ていると考えられます。『日本国語大辞典』(小学館)によれば

たいきょく【太極・大極】
A易の用語。占筮(せんぜい)の時、五十本ある蓍(めどき=筮竹)のうち、最初に除く一本のこと。

筮竹(ぜいちく)を使った占いで最初に除く一本を「大極」と呼ぶのになぞらえて、「よみ」の競技で最初に除く一枚、つまり「死絵(落絵)」の事を「大極」と呼んでいる訳です。

この点を踏まえれば、「海老二」を大極札と位置付け「自由自在に変身する特殊札であるから、ぴんにも二にも、馬にもきりにも転用できる」とする佐藤氏の推測には疑問を抱かずにはおられません。通常この様な特殊札を「化け札」と呼びますが、確かに『雨中徒然草』の本文で役の説明について検討していくと、この様な「化け札」の存在を仮定しなければ理解しづらい例が幾つか見受けられますが、それを「海老二」札だと断定するには根拠が乏しいように思われます。

試しに『雨中徒然草』以前の時代の文献中に出現する、カルタ札の特殊名称を探して見ると、先ず圧倒的に多いのが「あざ」です。次いで「釈迦十」又は「釈迦」、更に「太鼓二」になると一気に数が減りますが、それでも十数件確認出来ます。これに対して「海老二」はというと前出『類字折句集』の僅か一件のみです。もしも「海老二」がオールマイティーな「化け札」で有ったならば、せめてもう少し題材として取り上げられていても良さそうな気がします。これらの点から「海老二」=「大極札」=「化け札」とする佐藤説の当否は、もう少し慎重に検討する必要が有ると考えています。

公開年月日 2008/12/24


『雨中徒然草』を読む(三)
  第三の序(其の二)

十に作りては一へ帰れば十一月、冬時は異国の正月という。また本儀に生る心を以て十一を午という。十二月、物事納り切という心にて十二を切という。異国にてこの名をうんすんという。その形丸きをオオルという。半月をコップという。青きをイスという。オオルは玉なり。コップは盃なり。イスは鉾なり。

前半は、「本儀に生(うまれ)る心を以て十一を午(うま)という」と、かなり苦しい語呂合わせを交えながらの戲文が続きますが、後半には中々興味深い内容が書かれています。先ず「異国にてこの名をうんすんという」という記述を考えて見ましょう。この文脈では「この名」というのが具体的には何を指しているのか明瞭では有りませんが、一応「カルタ」の事を異国では「うんすん」と呼ぶ、という意味に解しておきましょう。勿論これは間違っているのですが、著者は一体どこからこの様な知識を得たのでしょうか。又「オオル」「コップ」「イス」等の紋標の呼称に関しても、これらは既に当時、一般的には使用されなくなっていた様なので、やはり何等かの先行資料の記述を参考にしているのだろうと考えられます。

参考に幾つかの先行資料をご紹介しておきます。

本朝世事談綺ほんちょうせじだんき』享保十八年序(1733)
賀留多かるた
阿蘭陀人おらんだしんこれをもてあそ寛永くわんゑいのころ長崎港なかさきのみなと人民じんみんならいたハむれとせりおよそ四品しひん十二まい四種ししゆもんあり一しゆ伊須いすと云南蛮なんはんにハけん伊須波多いすはたと云りよつて此もんけんかたちえか波宇はうと云青色せいしき波宇はうといふ此もんあをいろを以いろどれり又古津不こつふと云ハ酒盃しゆはいをハ古津不こつふといふ也酒盃しゆはいかたちあらハす又於宇留おうると云これハたませうして於宇留おうるといふ也すなハちたまかたちありたい十ハ法師ほうしかたちゑかく僧形そうきやうひようたい十一ハ騎馬きはの人をゑかくものゝふひようす第十二ハ踞床きよしやうの人をゑかくハ庶人そしんひようするもの也又加宇かう宇牟須牟うんすんなどいふありすべて南蛮国なんはんこくことはなり
『歓遊桑話』宝暦頃ヵ(1751-1764)
唐渡の加留太はウンスムとて七十五枚有しかも一キワ大也然るを和朝之規則に合せ其理を縮め桑数とす桑の画たるや四十八因茲ヨツテコレニ名付て桑札ともいつへし
彩画職人部類いろえしょくにんぶるい』明和七年(1770)
賀留多カルタ 又骨牌

阿蘭陀人是を玩ふ寛永のころ崎陽の人民倣てたハむれとせり
其製古今同しからす今もてあそふ所の製は外黒くして内白なり画く処
青色 巴宇と云
赤色 伊須といふ
圓形 於留といひ
半圓 骨扶と云
 四品各十二共に四十八枚也
則其一は虫の形豆牟と云
二より九にいたるまて其数目を画く
十は僧形
十一は騎馬
十二ハ武将也
又・加宇カウ宇牟須牟ウンスンなといふありすへて南蠻國のことはなり

『雨中徒然草』の著者がこれらの文献の何れかを実際に見た可能性も有ります。例えば「異国にてこの名をうんすんという」という記述は『歓遊桑話』の「唐渡の加留太はウンスムとて七十五枚有」を元にしているのかも知れません。しかし『雨中徒然草』とこれらの文献の記述には決定的な食い違いが有ります。それは「青きをイス」と述べている点です。上掲の『本朝世事談綺』『彩画職人部類』は勿論、その他『雍州府志』『白河燕談』『和漢三才図会』等の文献では例外なく、青札は「パウ(はう)」が正しく、「イス」は赤札です。この誤りが不正確な見聞によるものなのか、又は現在未発見の何等かの文献資料に基づくものなのかは不明ですが、冒頭で「書付を見れば」と断っている事から考えても後者のケース、つまり何等かの未知の文献資料の存在を考えてみたく成ります。

あくまで想像ですが、おそらく『雨中徒然草』に先行する、同様のカルタ指南書が既に存在したのではないでしょうか。或いはもっと簡単な、例えば商品としてのカルタに添えられた「手引き」の様な物で有ったかも知れません。何れにせよこの手の書付けは言わば消耗品で有り、後生大事に保管しておく類いのものでは有りませんので、先に挙げた『本朝世事談綺』『彩画職人部類』『雍州府志』『白河燕談』『和漢三才図会』等、著名な著者の手による考証書や随筆に比べると、年月を経て散逸してしまう確立がより高いと考えられます。考えてみると『雨中徒然草』や『歓遊桑話』の様な特異な雑書が偶然散逸を免れて、現在でも我々が目にする事が出来るという事の方が、むしろ奇跡的な幸運と言えるのかも知れません。

赤絵は天蓋といい則ち傘なり。大皷二は鏡なり。玉鏡剱を表したるは三種の神宝なり。傘、官位の具。気比大臣日本へ帰朝の後、縫箔染物所というもの始め給う故、二に鏡の形を絵書き給う。正月この形ある絵を手に触れたる人は神徳を得て七難を逃れ七福の果に負う。さるによつて七枚金入という。

「七枚金入」とは文字通り、金色の刷りのほどこされた札が七枚有ったのだと思われます。序の後の方で点数計算の説明中、「上り一ツ、七金もの二ツ」と有るのもこれを指しているのでしょう。しかし、残念ながら『雨中徒然草』には、一体どの七枚の札が金入りなのか書かれていません。重要な手掛かりに成るのは『博奕仕方』の「めくり仕方」に見られる「金泥(等)にて彩色」という記述です。記されているのは「あざ」「青六」「青馬」「青切」及び「太鼓二」の五枚です。この中で「あざ」「青馬」「青切」「太鼓二」の四枚は間違いないと思いますが、「青六」に関してはちょっと検討する必要が有ります。『博奕仕方』によると「青六」は札固有の点数が六十点と全札の中の最高点と成っていますし、安永天明期には「青六」を重要な札と見ていた事を窺わせるような資料が幾つか見受けられますので、この時代のめくり札の「青六」が金入りで有ったのは事実でしょう。一方、『雨中徒然草』以前の時代の資料には「青六」についての記述はほとんど見当たりませんし、『雨中徒然草』に出て来る多くの「役」にもほとんど絡んでいません。この様に、明和期以前において「青六」が重要視されていた形跡は有りませんので、「青六」が「七枚金入」の一枚で有ったとは考えにくいのです。では「あざ」「青馬」「青切」「太鼓二」の他の三枚はどの札なのでしょうか。『雨中徒然草』と『博奕仕方』の成立年代にはおよそ二十年の隔たりが有り、その間に金入り札の内容に変化が有ったと考えられます。

『雨中徒然草』本文一丁表

今度は『雨中徒然草』の中から手掛かりを探して見ましょう。本書中には数多くのカルタの絵が載せられています。右上段の画像は『雨中徒然草』本文から「五光」「せんがくじ」及び「下六光」の三種の役の構成札を示したものです。一番上の「五光」を構成札は右から順に「青二」「釈迦十」「太鼓二」「青切」「青馬」その下が「あざ」の六枚です。「五光」は全ての役の中で一番最初に出ている重要な役であり、その構成札も重要な札だと考えられます。実際これら六枚の札は多くの役の構成に絡んでおり、「七枚金入」の有力候補と考えて間違いないでしょう。

『雨中徒然草』本文四丁表

描かれているカルタの絵はかなりデフォルメされている様です。例えば「青切」を見ると、顔の部分については何とか顔である事を判別出来るものの、身体に当たる部分は全体的に白い斜線や網目状の描線によって覆われてしまっています。この様な描き方の特異性は、右図中段の「せんがくじ」に見られる三種の「切」(右から「青切」「コップの切」「オウルの切」)の絵を比較して頂ければ明瞭かと思います。おそらくこれは金刷りによる光り具合、光沢感を表現していると考えて間違いないでしょう。同様の表現方法は「あざ」「釈迦十」「青馬」の札にも見て取れます。「太鼓二」に関しては明瞭では有りませんが、下の円内の図柄や、竹の絵の描き方に同様の特徴が感じられます。

『雨中徒然草』本文四丁表

「五光」の構成札の残る一枚、「青二」について見てみましょう。右図下段の「下六光」の図には青絵の一(「あざ」)から六迄の六枚が描かれていますが、「青二」「青三」の二枚には棒状の紋標の中央に白い波線が描かれています。又、「釈迦十」の右辺の部分にも同様の表現が用いられています。おそらくこれが金刷りを表しているのでは無いでしょうか。「青四」から「青九」迄の札にはこの様な白波線は見られません。よって「七枚金入」の最後の一枚の候補として「青三」を挙げたいと思います。

以上見て来ました通り、「七枚金入」は青絵の下三枚と上三枚、つまり「あざ」「青二」「青三」「釈迦十」「青馬」「青切」に「太鼓二」を加えた七枚を有力候補として挙げておきたいと思います。

二に花形を付け、太鼓の如くなる故、打つという。又十二月、読み尽きる心にてよむともいう。五穀成就の心をもつて蒔くという。上がるとは稲を植えて出る心なり。一節に目出度、田を刈る故にかるたという。

同じカルタの仲間でも「江戸カルタ」をする場合は「打つ」と言い、百人一首等の「歌かるた」の場合は「取る」と言います。英語の場合は全て「play」の一語で片付くのでしょうが、日本語は実に複雑です。ちなみに囲碁や双六は「打つ」ですが、将棋の場合は「指す」が正解です。

「読み尽きる心にてよむともいう」
「よみ」の技法名の元となる「読む」という言葉ですが、現代では「文字を読む」事か、或いは「先を読む」「手を読む」といった使われ方が普通ですが、近世においては「数える」という意味も一般的でした。『雍州府志』では「よみ」について次の様に書かれています。

『雍州府志』貞享三年(1686)
人々所得之札數一二三次第早拂盡所持之札是為勝是謂ヨミ倭俗毎事算之謂讀

最後の部分はおおよそ「普通我が国では物を数える事を読むと言う」といった意味です。つまりカルタ技法としての「よみ」はこの「数える」という意味なのです。これを裏付ける珍しい資料をひとつご紹介しておきましょう。ここでは「よみかるた」に「算骨牌」の字を充てています。

八景聞取法問はっけいききとりほうもん』宝暦四年(1754)
女郎ちよらう花代はなたい算骨牌よミかるた望性もとでハいふい及ばず。

「田を刈る故にかるたという」
これと同様の発想は他にも多く見られます。

鷹筑波たかつくば』寛永十五年(1638)
あざやかな月にそふたをかり田哉
『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
さるによつてかるたとなづく。米は是人をたすくる、そのいねのあとをかるたといふ。
『誹諧[ケイ]五編』安永八年(1779)
刈田沙汰なく仕廻ふ住吉
青切は日本人、青馬は唐人、青二は龍人、青十は釈迦如来、青三は三種天人地三徳、あざは虫を表す。黒金を喰いしというは誤りなり。

当時、実際に「あざ」は黒金(鉄の事)を食べるという俗信が有った様です。

廣原海わだつうみ 二十二篇』元禄十四年(1701)
鉄や黄金喰ふ骨牌カルタ
漢楊宮かんようきゅう』宝暦八年(1758)
そのころうつくしきむし出けりくわん女たちなくさミにいろ/\ものをくわせけれどもしよくせずたゞ針をのミくひけれバわれも/\とくわせける
雨譚うたん注万句合』安永頃(1772-1781)
はりをのむ内にころせばころすとこ (安九仁3)
 あざといふ虫
『川柳評万句合勝句刷 天四梅1』天明四年(1784)
顔にあるあざもやつはり金を喰ひ
大人小人共に虫の病は後退凄まじき大病。一より十(とお)までといえども十を越し、十二迄神通を得たり。この虫の大毒によつて諸々の虫、蚤、蚊迄恐るる故、蚊の呪いと言い伝う。座中の金銭を喰上る故、黒金を食すならん。
 作者
  太楽

    [勝負の字の印]

最後に本書の作者である「太楽」について考えて見ましょう。勿論これは本名では無く、いわゆる「号」です。「太楽」に本書以外の著作が有ったかは不明ですが、少なくとも今のところ本書以外には「太楽」の名は見当たらない様です。従って残念ながら彼の本名や、どの様な人物であったのかを知る術は有りません。しかし「太楽」という名前の意味、言い換えれば何故「太楽」という名を用いたのか、という問いに対してはちょっとしたアイデアが有ります。

『雨中徒然草』序五丁裏

おそらく「太楽」とは本書の為に用意された、一回きりの名前では無いかと思われます。画像をご覧下さい。「作者 太楽」の後の印の文字は「勝負」と成っています。つまりこの印は、カルタの手引き書である本書の内容に合せた一種の洒落です。印が洒落ならば、同様に号もカルタに関係する洒落である可能性が高いのでは無いでしょうか。

ここからは論証では無く、一種の言葉遊びですので軽い気持ちで読み流して下さい。先ず「かるた」を逆さに読んで見ましょう。「たるか」と成りますが、いまいち人名ぽく有りませんね。そこで、もうひとひねりして見ましょう。江戸時代の文献には「か」の代りに「くわ」の音の使用がしばしば見られます。火事くわじ外科げくわ勧進くわんじん懐中くわいちゅう等、現代では「か」に統一されていますが、当時は「か」と「くわ」の発音を区別して使用していました。「かるた」の場合は「か」が正しいのでしょうが、強引に「くわ」を当てはめると「くわるた」と成り、再度これを逆さに読んで見ると「たるわく」と成ります。これを声に出して、少し早口で読んで見て下さい。ほとんど「たらく」と同じ響きに成りますね。後はそれらしい漢字を当てれば、目出度く「太楽」の完成と相成りました。

公開年月日 2009/02/11


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