江戸カルタメイン研究室 四頁目
前節の「あわせ」に引き続き、「江戸カルタ」の様々な技法について考えたいと思います。
「江戸カルタ」には実に様々な技法が存在したようです。しかし一部の技法を除いては、技法の名称こそ記録されているものの、その内容についてはほとんど解っていません。本節からはそれら「謎の技法」も含め、おおよそ年代順に検討していきたいと思います。
はっきりと技法名と解る最初のものは「かぞえかるた」でしょうか。
- 『吾吟我集』慶安二年(1649)
- くばりつゝ札をうちきる順礼や
かぞへがるたの遊びなるらん
内容の検討に入る前に、「かぞえかるた」に関する他の全資料を紹介しておきましょう。
- 『続山井』寛文七年(1667)
- 手を打てかぞへかるたや年の春
- 『俳諧大句数』延宝五年(1677)
- 道中をかそへかるたの馬宿に
関山三か四か五か六歟
- 『飛梅千句』延宝七年(1679)
- 七五三命を延る心知して
かそへかるたの花さき雪ふり
- 『西鶴大矢数』延宝九年(1681)
- 其うらみかそへ加留多の馬つなく
坊主ころしの投ぶしの末
計え加留多馬繋なと話寄り
- 『ひとり寐』享保十一年(1726)
- 或は常うつかぞへかるたと言ふものにもいろいろの名ある事やといひし也
「かぞえかるた」の技法の内容を推測する上で、最も参考になるのは最初に紹介した『吾吟我集』の句でしょう。順礼といえば一番札所、二番札所と順番に「お札」を納めていき、全部の札を納め終われば終了となる訳です。これを「カルタ」の技法に当てはめると、1の札、2の札と順番に札を出していき、全部の札を出し切ると終了(勝ち)と考えられます。だとすれば、これは我々が既に知っている「よみ」技法そのものだと言えます。又、『俳諧大句数』の「関山三か四か五か六歟」の句からも同様の印象を受ます。『雍州府志』中の「よみ」に関する記述をご覧下さい。
- 『雍州府志』貞享三年(1686)
- 人々所得之札數一二三次第早拂盡所持之札是為勝是謂讀倭俗毎事算之謂讀
つまり手札から一、二、三と順に札を出し、持ち札を出し尽くせば勝ちとなり、しかも「よむ」とは「かぞえる」という意味であると書かれていますので、語義上も一致している事が解ります。
さらに『ひとり寐』の「常うつかぞへかるた」という記述の意味を考えてみましょう。この時代の最も一般的なカルタ技法は「よみ」だと考えて間違いないでしょう。従って「常打つ」のが「よみ」では無く「かぞえかるた」というのは奇妙に感じられます。しかし、この記述は「ある古ばくち打のかたりける」話を元にしているという事なので、当時一般化していた呼称「よみ」ではなく、古い呼称である「かぞえかるた」を使用していたと考えればそれ程不自然ではありません。これらを考え合わせると「かぞえかるた」は「よみ」系統の技法の古い呼称であった可能性が高いと考えられ、主に使用されていたのは延宝期(1673-1681)頃迄のようです。
一方、「よみ」「よみかるた」が技法名としてはっきりと確認出来るのは寛文期(1661-1673)の末頃からです。
- 『徒然御伽草』寛文十二年(1672)
- 火事も厭はぬかるたずき
かるたのよみ好なる人、毎晩てあひをきはめうちけるに、此者あざがけをすきて、百文二百文づつかくる。霜月の頃、或夜大風吹き世間騒がしかりしに、それにもかまはず、よみをうつ。其夜はあざがけ仕合あしく、まけるにかゝつて居る。やうやうあざにとりあたり、既に銭をとらんとする時、向側より火出て、「それ火事よ」といふ程に、女房子供あわてふためき、「それ穴蔵へ道具入れよ」と穴蔵の口をとるに、亭主口もとへ飛んで来り、「まづこのあざを先へ入れよ」というた。
- 『子孫鑑』寛文十三年(1673)
- 又世中に正月あそびとてかならずある事成。あるひはふうふ童男女、あるひは奴婢雑人倶によりあつまり、一銭二銭がけによみがるたといふ事を、例年手ずさみ、これをはじめ
のならいとして、後こうじてかく人といふものになる事ありなん。いかん。
- 『西山宗因千句』寛文十三年(1673)
- 我恋はよみかるたをも打切て
- 『物種集』延宝六年(1678)
- 読かるた馬のかよひはなかりけり
れいも鳴尾の沖津ふく風
- 『大坂壇林櫻千句』延宝六年(1678)
- よみかるたきりの笆に秋の月
- 『俳諧大矢数』延宝六年(1678)
- よみかるた今を限りと見えし時
ひねり出したる胸さきの虫
「かぞえかるた」と「よみかるた」が同じものだとすれば、寛文から延宝期には両方の呼称が併用されていた事になります。
次に、謎の技法「奈良よみ」をご紹介します。
- 『一騎討後集』宝永四五年(1707-1708)
- 下直骨牌奈良ではよまじ青二悪
- 『都ひながた』正徳四年(1714)
- 姫君おかしく冷泉々々。つけめのことばでくどくなら。奈良よみで返事しや。
- 『とはず口』元文四年(1739)
- はんなりと・まつならよみや青二よし
- 『繪本池の蛙』延享二年(1745)
- ならよみのにぎりあざにまだみれバ
はずゑの露も青三によつこり
- 『浮世壱分五厘』安永五年(1776)
- 申ス迄はござらね共。四つぼ三枚除まいのぞきの類は。お手に入ましたで御ざらうとあれば。玄大臣あたまをかいて。博地一通りは私のきつい不得手二文三文の奈良読もこのみませぬと。
おそらく、「よみ」技法のバリエーションではないかと思われますが、詳細は不明です。最後にもう一つ、謎の技法を紹介しておきます。
- 『吉原下職原』延宝九年(1681)
- わがごときのびりこきもの四三五六人よりあひこのへうばんにめざしかるたの一から十まてよミてミるに
この「めざしかるた」が技法の名称なのか、或いはカルタの種類を表すものなのかは不明です。角川古語大辞典で「めざし」を調べると
目の上で前髪を切そろえる小児の髪形。また、その年ごろの童子。
とあります。「めざしかるた」とは「子供用カルタ」なのかも知れません。しかし、『吉原下職原』の文章からは「よみ」系統の技法のようにも読み取れます。「めざしかるた」の資料としては他には今のところ次の一点のみです。
- 『二息』元禄六年(1693)
- 手目くはず目指かるたのまき直し
これとても「めざしかるた」と読むのか、或いは「めざす」と読むのかも不明です。
公開年月日 2007/06/03
最終更新日 2007/06/10
「かう」「三枚」は共に江戸初期から見られる技法で、基本的なルールはほぼ同じだと考えられます。或いは、全く同一の技法の別称である可能性も有ります。例えば、次の資料では「三枚がう」の語が見られます。
- 『やく者絵づくし』元禄八年(1695)以前
- しるもしらぬもまねきよせまんまくうたせはれござしきてなくさみとてかるたほうびきけんねんじさあ御ざれ御ざれしハり八ぶのちよほいちじやひねつてあそべ三まひがうひねるハへたたにぶんなけろおつとこたへて四つぼのさい
「かう」と「三枚」の内容に関しては慎重な検討が必要と成りますので、ひとまず別項に譲る事とし、ここではそれぞれの初期の文献資料の紹介に留まらせて頂きます。
技法「かう」に関する最初の記述は寛文初年頃(1661-)の『浮世物語』に見られます。
- 『浮世物語』寛文初年頃(1661-)
- 巻一 三、博奕の事
又、いつのころよりか、南蛮よりかるたといへる物をわたし、一より十ニにいたり、四與になして勝負を決す、今は迦烏追重といふ事をして、人の前にまきわたす繪を、こなたより推してしる事、通力あるがごとくなる上手の鍛煉あるもの、世におほくなりけるほどに、これに出あひて立あしもなくうちまけて、一夜のうちに乞食になる人おほし、
(中略)
もみ賽重迦烏のたてもの、銭の中に銀をまじへ、銀のしたに金をしきつゝ、たてゝはとられ、つみてはとられ、夜ごとにより合てうつほどに、負る事かぎりなし、
巻一 四、博奕異見の事
もみ賽に目をこひ、重迦烏に繪を念ずる、
- 『讃嘲記時之大皷』寛文七年(1667)
- ある人のいわくひたいに黒くみゆるはあざなりかるかゆへに此きみをかるたさまといふと伝り又人のいわくさにはあらすみな人かうをこのむといふ心なり
延宝期(1673-1681)以後には「三枚」の名も多く見られます。
- 『大坂独吟集』延宝三年(1675)
- ひねるとこそはかねて聞しか
三枚のかるたの外に月の暮
- 『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
- 合せにては人の善悪をしり、かうにては人の運否をしる。三枚まくは三くじの心なり。
「きんご」の名称の初出は享保十七年(1732)刊の『壇浦兜軍記』かと思われます。
- 『壇浦兜軍記』享保十七年(1732)
- 訴人したらほうびハすくなずくな銭十くわんそれを元手にめうとづれで。[きんご]して遊んだら面白かろでハあるまいか
しかし、これ以前から「きんご」の技法が存在していたのは間違い有りません。既に延宝期には「きんご」の存在を示す資料が見られます。
- 『難波鉦』延宝八年(1680)
- かこひ女郎はむかし十四匁づゝにうりましたげな。それをかこひといふは、かるたに九と五と、六と八とのやうなことで、七と七とで十四にて、つがうしてかこふといふことがござんすげな。それゆへ十四匁にうりましたによつて、十四匁の女郎をかこひといひますげな。
これは「きんご」の技法と考えて間違いないでしょう。しかし、当時この技法が「きんご」という名で呼ばれていたかは不明です。
次に、謎の技法の一つである「比伊幾」について検討したいと思います。「比伊幾」の名は唯一『雍州府志』にのみ見られます。
- 『雍州府志』貞享三年(1686)
- 或又謂加宇又謂比伊幾或又謂宇牟須牟加留多其法有若干畢竟博奕之戯也
「比伊幾」の読みは「ひいき」で良いでしょう。「比」「伊」「幾」はそれぞれ、いわゆる変体仮名の「ひ」「い」「き」の元になる字の中でも最も標準的なものです。(この点は「江戸カルタ掲示板」にてCr様よりご示唆頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。)『雍州府志』は全て漢文で書かれていますので、漢字表記が無かったり、不明な場合にこの様に仮名で表記される事に成ります。仮名表記の最も代表的なケースは外来語の場合ですので、「比伊幾」についても外来語の漢字表記の可能性を第一に考えるべきだと考えます。しかし、残念ながら今のところ当時のヨーロッパのカードゲーム名や、ポルトガル語の中にそれらしい候補は見当たらないようです。
しかし、仮名表記が必要なのは、何も外来語の場合に限った事では有りません。日本語であっても漢字表記が存在しない場合や不明な場合も有りますので、「ひいき」が日本語である可能性も考慮する必要があります。
「ひいき」という発音で真っ先に思い浮かぶ日本語は、おそらく「贔屓」でしょう。そこで「贔屓」の語源について調べて見ると、どうやら「引き」と関係があるようなのです。『近世上方語語辞典』(前田勇編 東京堂刊)の「贔屓」の項を見ると
「引き」の長呼。一説、贔屓の長呼。
と有ります。又、『雍州府志』と同時代の『鹿の巻筆』に次のような記述が有ります。長文になりますが、技法「かう」に関する重要な資料でもありますので、全文をご紹介しておきます。
- 『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
- 芝居
大夫もとの日待
木挽町大夫もとにて日待ありしに、あまり夜長なるに、すこしなぐさまんとて、うちよりてかうをしけるに、一人が筒を取に、さる名ある役者なりしが、ひた負に負けるほどに、のちはそこらあたりの金を借りて、みな負けた。氣の毒におもひ、此上は是非なし。これをはろふといふ。わが抱への野郎をよび出してはる。しかも名ある者なり。さきの者、是は迷惑でござります。あまりひきもござらぬにといへば、是はすてゝても三十両がものはあるが、お主はうきやらぬかといへば、さようなる大博奕はいやでござるといふ。さてさて、お主は、宵からいくら取られたとおもやる。是がしまいじやとて、ほんにはる。そばなる人のいひけるは、それは、さりとては不覚で御座る。二つに割つてはらしやれ。宵からみるに、親も入目はござらぬ。貴さまのほんがちで、負けさしつた。二つに割れば、たとへ親の目がよふて頭を取られても、尻は残ります。尻さへあればいつでも客はなるといふた。
全体の検討は別の機会に譲るとして、今は下線部分にご注目下さい。「ひき」が「贔屓」と同じ意味で使用されているのが解ります。仮に「比伊幾」=「引き」と考えると「江戸カルタ」の技法名として自然に受け取れます。何故なら「江戸カルタ」の技法名の多くは、その技法に特徴的な動作から名付けられているからです。つまり技法名「よみ」「あわせ」「かぞえ」「めくり」はそれぞれ「読む」「合せる」「数える」「捲る」という動詞が元になっています。同様に「ひいき(ひき)」の場合は札を「引く」という動作が元になっているのでは無いでしょうか。つまり各自が山札から札を引いていく形式の技法であると考えられます。
「江戸カルタ」の技法の中で「引く」という言葉と最も関連が深いのは「きんご」でしょう。「江戸カルタ」の場合、技法を行う事を表す言葉として「打つ」というのが最も一般的ですが、外にも色々な言い方が有ります。「読む」「めくる」はそれだけで「読みをする」「めくりをする」という意味で使用されますし、その他「握る」「ひねる」「撒く」等の言い回しもよく使われます。「引く」もその一つですが、使用例の多くは「きんご」の場合です。幾つかご紹介しておきましょう。
- 『潤色江戸紫』延享元年(1744)
- 盃が済むだら其の後で、きんこひかうと思ふて、歌留多を持参致した。
この拍子に奥へ往て、ぎんご引いたら、どうだいにあざがあがろ。
- 『百花評林』延享四年(1747)ヵ
- 歌児
探花子が云。金五を引がごとし。十二三までが花なり。十五を過れば。ばれ気が見へるものと。ある人の見たて置れしなり
- 『川柳評万句合勝句刷 明三仁6』明和三年(1766)
- ばれたやつ人の引のをのぞいて見
ちなみに、「ばれる」とは札の合計数が16点以上になった状態です。上記以外にも「きんごを引く」という表現が数多くの文献に見られるのに対して、「きんご」以外の技法では「引く」という場合が皆無ではありませんが、ごく稀です。
以上述べてきた理由により、『雍州府志』に書かれた「比伊幾」が「きんご」の別称、又はふるい名称であった可能性を示唆しておきます。最後にもう一つ、謎の技法を紹介しておきましょう。
- 『万の文反古』元禄九年(1696)
- 是はやらぬ銀子の子細は、四枚の名人をかけて前後に四百両程取申候。てらはかり拾五六貫目春中に取申候。
「四枚」に関する資料はこれだけです。これが「江戸カルタ」の技法名である確証すら有りませんが、可能性は高いと思われます。
公開年月日 2007/06/10