江戸カルタメイン研究室 七頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


K「やくざ(八九三)」の語源考

語源がカルタに由来すると言われている言葉が幾つか有ります。最近流行の雑学本やテレビのクイズ番組、更にはウェブサイト上でもしばしば取り上げられていますのでご存じの方も多いと思われますが、主なものとしては「ピンからキリまで」「やくざ」「うんともすんとも」「すべた」といった所でしょうか。今回はこの中から先ず「やくざ」の語源について考えてみたいとおもいます。

試しに『日本国語大辞典』(小学館)の「やくざ」の項を見ると、冒頭に次のように書かれています。

カブ賭博の一種である三枚ガルタで、八(や)九(く)三(さ)の札がくると、ブタのうちでも最悪の手になるところから

「三枚ガルタ」は単に「三枚」とも呼ばれています。技法としては「かう(かぶ)」技法のバリエーションか、或いは単なる別称である可能性も有りますが、何れにせよ基本的な原理は同じ物と考えて良いでしょう。

燕居雑話えんきょざつわ』天保八年序(1837)
因に云、三枚といふ事は、めくり骨牌のごとく、一より十まで四枚づつ四十枚あるを、五人にても、又は六人にても、席に列りし人に配当して、残を席上に伏せおきて順に一枚をとり、手に持たる下に重ねて、そろ/\とあけて見る是を引と云。其数合せて十八とか、十九とかいふ数出れば、各席上に出し置たる賭を取る事也。十又は二十と数つまれば、再び引く事ならずといへり。其事知りたる人に聞たるまゝを記しぬれば、余がことも覚束なし。是もまた程泰昌が、樗蒲のことを研究せし類とやいはむ。

これは江戸後期の資料ですが、現在の株札と同じく四十枚で行われていた事が確認出来ます。尚「三枚」の名称は江戸初期から見られる大変古いものです。

大坂独吟集おおさかどくぎんしゅう』延宝三年(1675)
ひねるとこそはかねてききしか
 三枚のかるたの外に月の暮
鹿の巻筆しかのまきふで』貞享三年(1686)
あわせにては人の善悪ぜんあくをしり、かうにては人の運否うんぷをしる。三枚まくは三くじの心なり。

この「三枚」において八、九、三の三枚の札が来ると合計二十点に成り、最弱の「ぶた」に成る事から「役にたたない物」の事を「八九三やくざ」と呼ぶように成ったという訳です。転じて「役にたたない者」という意味で博徒を指すように成り、現在ではほとんどこちらの意味で使用されています。実際には「やくざ」の語源としてはこの他の説も幾つか有るのですが、『日本国語大辞典』でも採用されている様にこの説が通説として認められています。
 「やくざ」の「三枚ガルタ」語源説の出典としては『嬉遊笑覧』(文政十三年(1830)刊)を挙げているものが多いのですが、そこに書かれている「やくざ」の語源に関する部分については、さらに元となる出典が判明していますのでそちらをご紹介しておきます。

牛馬問ぎゅうばもん』宝暦五年序(1755)
亡父ホウフかたりしは、我覺へてより以來コノカタ、新言葉三つあり、ヤクザ、ベラボウ、今一ッは何とやらんいひしが忘れぬ、是もと博徒ハクトの言葉にして、常庭ツネテイの人につかふべき事にあらねとも、今は天下の常語となりぬ、物の惡きをヤクザと云事は、博奕ハクエキに三マイといふものをするに、八九のスウを高目上々として、十とつまるは數にならす、八九三なれば、廿につまる故、ヤクにたゝず、それより彼輩カノトモガラのうちにては、すべて物の惡き事の隱語インゴを、八九三ヤクザ/\といひ始たると也、又ベラボウとは、始も十、中度も十なれば、終り一枚には、八九の高目も出んやと、樂しみ開くに、又釋迦十の出る事をいふとなん、阿房アホウらしき事を、ベラボウと隱語インゴす、是下賤の時花ハヤリ言葉なれとも、今は通用の語となると一笑しける、

著者は新井白我(1715-1792)、彼が父親から聞いた話という訳です。「我覺へてより以來コノカタ、新言葉三つあり」の部分は白我の父親の言葉であり、「私の記憶に有る中で、新しく出来た言葉が三つ有る」といった意味と思われますが、その内の二つが「やくざ」と「べらぼう」で共にカルタ技法「三枚」に由来する言葉だと述べています。本題である「やくざ」の検討の前に、ちょっと寄り道して「べらぼう」について見てみましょう。

「三枚」技法において最初が十の札、二枚目も十の札、このままでは合計二十の「ぶた」ですので当然もう一枚引きます。何の札が来ても現状より悪くなる事は無いので期待して見れば、何と三枚目も十の札。しかも皮肉な事に「よみ」や「めくり」では重要な札である「釈迦十」ですが、残念ながら「三枚」においては単なる十点札に過ぎませんので合計三十、結局「ぶた」のままです。「釈迦十」は別名「坊主」とも呼ばれますので正に「べらぼうめ!」と叫びたくなる気持ちは理解出来ます。
 しかし冷静に考えれば直ぐに、これでは全く「べらぼう」の語源の説明には成っていない事に気付きます。つまり元々「べらぼう」という言葉が存在していて初めて、上の様な状況において「べらぼうめ」という言葉が発せられるはずです。事実「べらぼう」は江戸初期の寛文から延宝頃(1661-1681)に実在した人物です。

『本朝世事談綺』享保十八年(1733)
鄙萎ベラボウ
寛文十二年の春、大坂道頓堀に、異形の人を見す。其貌醜き事たとふべきもなし。頭するどく尖、眼まん丸にあかく、頤猿のごとし

「べらぼう」は他にも井原西鶴の『日本永代蔵』(貞享五年(1688)刊)にも登場する等、それなりに知られた人物であった様です。

次に『牛馬問』の「やくざ」の方の記述を検討しましょう。確かに「べらぼう」に比べると語源説としての体裁は整ってはいますが、充分な説得力が有るかというとかなり疑問です。

最初の疑問は何故「八九三」の組み合わせなのか?という点です。「三枚」技法で合計数が十、二十、三十の「ぶた」になる三枚の札の組み合わせは、何も「八九三」に限ったものでは無く、全部で22通り有ります。「ぶた=役に立たない物=やくざ」ならば「八九三」で無くても、他の21通りの組み合わせのどれでも良いはずです。
 又、何故「八、九、三」の順番なのでしょうか。一説によると最初の二枚の手札が「八」と「九」の七点であった場合、比較的強い手である上に更にもう一枚引くと七点より低くなる可能性の方が高いので、普通は二枚で止めておくべき所を敢えて更なる高得点を狙って無謀にももう一枚引き、結果「三」の札を引いて「ぶた」になるという様な無茶な打ち方をする者という意味で「八九三」だとも言われます。一見もっともに感じられますが、「八九三」と同様に最初の二枚で七点になる組み合わせは他にも「一六三」「二五三」「三四三」「七十三」の4通り有りますので、やはり「八九三」でなければならない訳では有りません。例えば「三四三」で「さしみ」と読むのなどは如何でしょうか。冗談はさて置き、何れにせよ「八九三」でなければならない必然性は乏しいと言わざるを得ません。
 もう一つ検討すべき問題が有ります。そもそも「八九三」を「やくざ」と読めるのか、という点です。「八」を「や」、「九」を「く」と読むのは特に不自然では有りません。しかし「三」は通常は「さん」か「み」或いは「さ」ならば許容範囲ですが、「ざ」となると読めなくは無いがかなり無理をしているという印象を受けます。果たして「三」を「ざ」と読むケースは有るのでしょうか。結論から言えば、有ります。例えば「久三きゅうざ」、下男を意味する呼称です。主に江戸初期の上方で一般的に用いられている呼び方で、井原西鶴の浮世草紙等にもしばしば出て来ます。又、おそらく「久三」以外にも探せば幾つもの例が見つかるのでしょうが、あくまで「ざ」と読むのは例外的なもので有り、普通の読み方は「さん」又は「み」です。従って「八九三」を「やくさん」とか「やくみ」と読むならば自然ですが、「やくざ」となると無理に当てはめている感を否めません。では何故「やくざ」という不自然な読み方をしているのかというと、常識的に考えれば、これは元々「やくざ」という言葉が存在していたからだとしか考えられません。つまり「やくざ」の語が元々存在していたと考えない限り、「ぶた」に成る数多くの組み合わせの中からあえて「八九三」を選び、更に「八、九、三」の順に並べ、無理して「やくざ」と読ませるという一連の操作が生じる可能性は、完全にゼロとは言えませんが、ほとんど起こり得ないと思われます。

「やくざ」の語源に関しては、カルタの「三枚」技法起源説以外にも様々な説が有ります。それらは「江戸カルタ」とは全く別の問題に成りますのでここでは触れませが、少なくとも「三枚」が語源では無い事ははっきりと指摘しておきたいと思います。しかしながら「やくざ」の語とカルタの「三枚」技法が全く無関係で有ったという訳では有りません。江戸時代のある時期以降、「やくざ」の語が「三枚」技法に深く関連付けて考えられていたという事もまた紛れも無い事実です。例えば、元々有った「やくざ」の語が「三枚」技法の「八九三」に結び付けられた事に因って「ぶた=役に立たない物」という意味合いを持つように成ったという可能性も考えられます。

最後は例によって江戸時代の文献資料に見られる「八九三」を紹介しておきましょう。

『なつこだち』享保七年(1722)
玉不磨無光 無光をば八九三ヤクザといふ

読み下し「玉 磨かざれば光無し 光無きをば八九三ヤクザと言う」
享保七年(1722)には既に「八九三」を「やくざ」と読ませていた事が判りますし、句意からは「やくざ=役に立たない物」という意味を持っていた事をうかがわせます。今のところこれが「八九三」に関する一番古い資料ですが、実際には『牛馬問』の記述を考えると著者の新井白我(1715-1792)の父親の年代、しかも比較的若いころの事と考えられますので大体元禄年間(1688-1704)頃迄遡れるでは無いでしょうか。

大塔宮曦鎧おおとうのみやあさひのよろい』享保八年(1723)
しらがまじりがまく歌流多。かはゝ川越播磨かはごへはりまノ守。六々八のひつはりぶた。先六はらのあたまをちよつる。次のかるたは八九三。是もめでたし鎌倉ぶた。こぎにしやんとかきこみし親は。二三四のぼり九寸がう

はっきりとカルタに関すると断定出来る資料に見られる「八九三」の記述です。ここで気になるのは「八九三」を「鎌倉ぶた」と呼んでいる点ですが、何故「鎌倉ぶた」なのかは良く分かりません。しかも何故「めでたし」なのでしょうか。同様に「六六八」を「ひつはり(ひっぱりか?)ぶた」と呼んでいますが、これも不明。最後の「二三四」の「のぼりがう」は分かり易いですね。2、3、4と順に来た三枚の札の合計は9の「かう」と成ります。「鎌倉ぶた」に関してはもう一つ資料が有ります。

『菜の花』享保十七年(1732)
高時の奢り長じて鎌倉[*]ブタ

[*]ここに青八、青九、青三と思われる絵が描かれています

高時とは、鎌倉幕府14代執権の北条高時(在位1316-1326)の事でしょう。「奢り長じて」「鎌倉ぶた」という文脈を見るとやはり「鎌倉ぶた」には否定的な意味合い、つまり「役に立たない物」という意味に通じるものを感じます。

最後にもう一つ「八九三」に関する資料をご紹介しておきます。

和田合戦女舞鶴わだかっせんおんなまいづる』享保二十一年(1736)
エヽらつちもない八九三のまぶたに出合ふて。勧進くわんじん帳をぼうつた。

これも意味を掴みにくいのですが、ここでは「八九三」を「まぶた」と言っています。推測に過ぎませんが「まぶた」は「真ぶた」では無いでしょうか。

以上、幾つかの資料を見て来ましたが、謎の解明というよりかえって謎が深まるばかりという感じがします。「江戸カルタ」はまだまだ解らない事だらけです。

公開年月日 2008/07/02


L江戸のカードマジック

昨今、巷ではちょっとしたマジックブームといった感が有り、テレビでもしばしばマジックを題材にした特番が組まれたりしています。又、大型書店の実用書コーナーを覗いて見ると、初心者向けの入門書から上級者向けの超マニアックな内容の物に至る迄、実に様々なマジック関連の書籍が並べられています。

江戸時代の我が国でもマジックは大変人気の有る芸能のひとつでした。見世物小屋や大道では大掛かりな仕掛けを使ったマジック、例えば「釜抜け」や「葛籠抜け」といった人間の脱出現象や、何と生きた馬を口から呑み込む「馬呑術」といった、今でいうイリュージョンの様な演目が人気を博していた記録が残されています。又、江戸の手品ブームのもうひとつの側面として、数多くの手品伝授本(手品の種明かし本)が刊行された点が挙げられます。手品伝授本の刊行は、元禄十年(1697)刊の『神仙戯術』に始まり幕末迄に五十点以上が確認されていますが、この事実から我が国では、十八世紀初頭頃には既に同時代の欧米諸国に先んじて、アマチュアを主体とした「趣味としての手品」が確立していた事を示していると言えるでしょう。

本章ではこれらの手品伝授本に記されたカードマジックの中から、「江戸カルタ」を使用する手品を四種ご紹介しています。この他に「歌かるた」を使用する手品の記述が三種有りますが、「江戸カルタ」使用に限定すれば、この四種が確認されている全てです。

『続たはふれ草』享保十四年(1729)
  うつむけてあるかるたを。を見ずになにといふ事をしるじゆつ
かるたをとりうつむけながらどこなりとも。まんなか無念無想むねんむそうゆびにて突出つきいだし。一まい人ぬかせ。ぬきたる人。繪をよく見てのち。もちたる人の見ぬやうにふせながらかるたの上へかさねるを。きりまぜ人にもきりまぜさせてうけ取扨あをむけよりて一まいぬきたまふハこれなりとよりて出すなり。このじゆつはじめに上のをよく見しりをきてうつむけもち。どこなりとも人に一まいぬかせ。さきの人を見てのち。うつむけながら。手前てまへの。もちたるかるたのうへへのせるなり。其時そのとき切まぜるふりをして。かの人の見てをきたるかるたの上へ。わがはじめに上のを見しりをきたる。かるたのかさなるやうにして。扨きりまぜ人にもきりまぜさせてうけとり。あをむけてよりて見て。はじめわが見しりをきたるゑのうへまいが。人の見てをきたるかるたとしれるなりずいぶんと切まぜたるも二枚大かた一所にあるものなり

以下意訳。

  裏向きのカルタを絵を見ずに何かを知る術
カルタ一組を裏向けにもち、客に中程の札を一枚自由に引かせる。客は絵柄を見た後、演者に見えないよう裏向きに一組の上に置かせる。演者はカルタを切り交ぜ、更に客にも切らせた後受け取る。カルタを表向け、「選んだ札はこれですね」と一枚抜き出して示す。
 この術は、最初に一組の底の札を密かに見て覚えておく。一組を裏向けに持ち、客に好きな所から一枚抜かせ、絵柄を覚えさせてから一組の上に裏向けに置かせる。これを切り交ぜながら、演者が最初に覚えておいた札が客の選んだ札の上に来るようにする。更に客に渡し切らせた後に受け取り、表を向けて広げれば、演者の覚えておいた札の上の札が客の選んだ札である。ずいぶんと切り交ぜても、大概二枚は一緒になっているものである。

客に任意に選ばせたカードを当てるという現象はカードマジックの王道とも言えるもので、今までに数多くの方法が考案されています。中でもこの方法のように演者が密かに覚えておいた札(キーカードと呼ぶ)を目印にして、客の選んだ札を捜し出す方法は基本中の基本と言っても良いでしょう。ここで紹介されているのはその中でもごく単純な方法ではありますが、現象の不思議さを増すちょっとした工夫が加えられています。それは客の選んだ札を当てる前に、演者のみならず客自身にもカルタを切り交ぜさせるという演出です。そうする事により、あらかじめキーカードについて知識を持っている客をも不思議がらせる事が出来る訳です。

ところでこの文中には「(カルタを)切まぜる」という表現が何度も繰り返し出て来ます。現代では単に「切る」と言う事の方が多いですが、これは所謂「シャッフル(shuffle)」を意味するものと考えられます。現代でも通常トランプや花札等のカードゲームをする際、新たな回に入る前に一組をよく切る事から始まりますが、同様に「江戸カルタ」の競技の際にも札を切るという事が行われていたと考えておそらく間違い無いでしょう。もっとも『続たはふれ草』の記述はカルタ手品であり実際のカルタ競技では有りませんが、少なくとも江戸中期には既に「カルタを切る」という行為が存在しており、更にその行為を「切る」と言い表していたという事が確認出来ます。

この「シャッフル」と似た行為に「カット(cut)」というものが有ります。日本ではあまり馴染みの無い言葉ですので簡単にご説明致しますと、一組の札を任意の場所でふたつに分け、上半分と下半分を入れ替えるという行為で、シャッフルと違って何度繰り返しても全体の並び順は変りません。通常配り手が札をシャッフルした後、他の誰かの手に依って一度、或いは複数回カットしてから札が配られます。こうする事により、札を配る際に不正の入り込む余地が無い事を証明するという意味合いが有りますので、ギャンブルや真剣な勝負の際にはカットが欠かせません。

それでは次にこの「カット」に関する資料を見てみましょう。寛保三年(1743)刊の『勘者御伽双紙』には江戸カルタを使った手品が全部で三種類紹介されていますが、その中のひとつです。

勘者御伽双紙かんじゃおとぎそうし』寛保三年(1743)
  かるた四十八まいにてよそろにならふる事
先はじめに一二三四五六七八九十馬きり一二三四五六七八九十馬きりとかくのことく次第に四拾八枚なからかさね扨上を人の手にまかせきらせてその上へ残るかるたをのせるなりかくのことくする事何へんにてもくるしからす扨三間に四間に図のごとくならふるに何にても皆うつふせにしてはじめのかるたを一の所にをきそれより書付のことく次第に十二枚ならへ又最初さいしよのところへもとりて前のことくならふる也かくのことくすること四度にて皆同しもの四枚つゝそろふなりたゝし右のきりやうなかをぬききりまぜてハあはぬとしるへし
  カルタ四十八枚を四枚揃いに並べる事
事前にカルタ一組を一二三四五六七八九十馬切の順に四回重ねておく。客に一組の上から好きな所で分けさせ、残りの札をその上に置く(注・カットと呼ばれるもので、一組の並び順は変わらない)。同じ事を何遍繰り返しても構わない。これを図のように三枚×四枚に並べるが、札は全て裏向きに、最初のカルタを一の所に置き、続けて表示のように順に十二枚ならべる。又、最初の位置に戻り同様に並べる。これを四回繰り返せば、全て同じ札が四枚づつ揃う。但し、一組の中程を引き抜く切り方(注・シャッフル)では揃わなくなるので注意。

この手品の様にトランプ一組をあらかじめ何等かの法則に従ってセットしておく手品も、実に色々な方法が考案されています。この手のトリックではセットされた一組を客に何度かカットしてもらう事により、全体の並び順は全く変らないにもかかわらず、客自身の手に依って全体を混ぜ合わせたような錯覚を与える事が出来ます。この手品もこの原理を上手く利用してはいますが、手品としてはあまり面白味の有るものとは思えません。しかしこれを「江戸カルタ」に関する資料として見ると、実は大変興味深いものなのです。それが今検討中の「切る」の問題です。

「上を人の手にまかせ切らせて、その上へ残るかるたを乗せる也。かくの如くする事、何遍にても苦しからず。」

この記述内容は正に「カット」そのものです。又「右の切りよう、中を抜き切り交ぜては合わぬと知るべし」という記述を見ると、「切る(カット)」と前記の『続たはふれ草』にも見られた「切り交ぜる(シャッフル)」とを明確に区別して使用しているように見えます。それでは実際の「江戸カルタ」の競技の際にもこの「切る(カット)」という行為が行なわれていたのでしょうか。それを示す資料をご紹介します。

関取千両幟せきとりせんりょうのぼり』明和四年(1767)初演
イヤはせにおいては、我等われらきついすいほうなれど、ふだてはいかぬ。 (中略) 「アレまだいな、お才様さいさまわざぢやない、とがはおまへぢやわいな。」「そりや何故なぜに。」「ハテまへらしやんしたぢやないかいな。」「エヽイなにをわしが何時いつつて。」「ハテいまほどまへつたふだ科人とがにん矢張やつはりまへうらんだがよいわいな。」

意味とすれば、「合せ(カルタ)は大得意だけど、こう悪い札ばかり来てはどうしようもない。」と愚痴るのに対し、「あなたが切ったのだから悪い札が来るのは自分のせい、自分を恨みなさい。」といった所でしょう。この場合の「切る」は「シャッフル(切り交ぜ)」では無く「カット」の方と考えられます。カットに因って各自に配られる札が入れ替わりますので、良い手札が他の人(お才様)に渡り、悪い手札が自分の所へ来てしまった訳です。この『関取千両幟』の記述と前記『勘者御伽双紙』によって「江戸カルタ」の競技に際し「カット」が行なわれていた事が推測出来ます。

話をカルタ手品に戻して最後の資料をご紹介しましょう。引き続いて『勘者御伽双紙』からで、ひとつの項目にふたつの手品が紹介されています。

勘者御伽双紙かんじゃおとぎそうし』寛保三年(1743)
  かるたのうらなひの事
かるた四十八枚を切まじへていづく成共あけて見てたとへハ七ならハ七八九十馬切と切迄かそへてうつふせにするなり其ミえたる七はかりにてのこりハ何にてもかまハすにかそへこむなり又次に九ならハ九十馬切と切まてかそへてうつふせにする也又次に三ならハ三四五六七八九十馬切と切まてかそへて以上三所にうつふせにしてをき其餘るふだを此方へうけ取てうつぶせにしたる目ハ合て十九目有へしといふなり但馬と切とハかぞはじむる時十にたつるなり
 法曰あまる札数の内いつにても九枚引て残る札数を答とす
  カルタ占いの事
カルタ四十八枚を切交ぜた後、どの札でも良いので一枚表向ける。それが例えば七ならば、七八九十馬切と切迄数えながら一枚づつ札を出し、裏返しておく。表向けた七以外は絵柄に関係なく数えるだけで有る。同様に一枚開け、九ならば九十馬切と切迄数えてうつ伏せにする。次に三ならば三四五六七八九十馬切と切迄数えて、以上三つの山をうつ伏せにしておき残りの札を受け取る。演者は「最初に表向けた三枚(注・七、九、三の三枚)の合計は十九ですね」と言い当てる。但し、馬と切の札は数を十として数え始める。
 法(注・著者である中根法舳の事)曰く、残りの札の枚数から九を引いた数が答えです。
又かるた十枚はかり何にてもきやくわたして此内にていつれに成共心をつけて其心付の絵上ゑうへより何枚目といふ事を心におぼえ口にいはずして此方へかさねたるまゝにてうけ取残るところのかるたの上にふせながらのせてあるひ懐中くわいちう或ハうしろにてきやくの見さるやうにかのかさなりたる惣札を左の手にもち右の手を以て第一枚より次第に一枚つゝぎやくにかさねかへす事前に渡したる札数より二三枚も四五枚もおほくかさねかへして心其おほき分を覚居おほえゐて其残る左の札の上へのせて扨客の眼前がんせんへ左の手から出してうへの一枚を右の手にてすて札とてふせなからおとしていふやう其方心付のを前方心覚の何枚めと申さるゝかずより三枚めに出しミせて申といふて扨客の心付の絵ハ何枚めなること只今問時たとへハ五枚目と答ふ其時初おとしたるふだハのけて一二三四五とおとして此五枚めより三枚めをあけてミする也たとへバ三枚おほくかへす時かさねかへして左のことし

  ○ ○ ○ @ A B C D E F G H I
  | | | | | | | |
 捨札 一 二 三 四 五 | |
               | | |
               一 二 三 とかぞふれハ五枚目の札にあたる也

 右くりかへす時二枚おほけれハ二枚め三枚おほけれハ三枚めといふなり
又、カルタ十枚程を客に渡し、その内の好きな一枚を選ばせる。その札が上から(注・表向けの状態で上から)何枚目かを口には出さずに覚えておいてもらい、重ねたまま受け取り残りの札の上に裏向けに乗せる。演者はその一組を懐中なり背後等で客に見えないように左手に持ち、上から一枚づつ順序が逆になるように右手に取っていく。その際最初に客に渡した枚数より二三枚から四五枚多く数え、何枚多く数えたかを覚えておき、左手の札の上に戻して客の前に出す。右手で上の一枚を取り「捨て札」と裏向きに置き、「あなたの選んだ札を、先程覚えてもらった枚数目から数えて三枚目に出してみせます」と言う。ここで客に、選んだ札は何枚目だったかを尋ね、例えば五枚目ならば最初の一枚を除き次の札から一二三四五と数えて捨て、更にその五枚目の札から数えて三枚目の札を開けて見せる。例えば三枚多く数えた場合は次のようになる。

(図略)
一 二 三 と数えれば五枚目の札に当たる。

この手品を繰り返し行う場合、二枚多く数えた時は「二枚目」、三枚多く数えた時は「三枚目」と言えば良い。

紹介されているふたつの手品は共に数理マジックという分類になるでしょうか。現代でも似た様な原理に基づく手品が数多く存在します。又これらの手品の様に、特別な技法を使わずに、決められた手順通りに行なえば自然に成立する類の手品を「セルフワーキングトリック」と呼びます。ところでタイトルの「カルタ占い」ですが、一般的に使われる意味での占いでは無く、カルタの当てものとでも言うような意味です。ちなみに現代のトランプの使用法としてはゲーム、手品、占いの三つが主ですが、この中で占いに関しては、「江戸カルタ」を使用して行なわれた事を示す資料は今のところ未発見です。

ところで今回ご紹介した四種のカルタ手品はいずれも特に難しい技法を必要とせず、誰でも簡単に出来る、言わば初心者向きの手品ばかりです。一方現代のカードマジックは、客の秘密裏に行なわれる様々な技法を駆使する事により、正に奇跡とも思われる様な現象を生み出す迄に進歩しています。では江戸時代のカルタ手品はその様な技法を使用しない、ごく単純なものばかりだったのかと言うと、おそらくそんな事は無かったろうと思われるのです。例えば次の様な江戸初期の資料が有ります。

浮世物語うきよものがたり』寛文初年頃(1661)
今は迦烏追重かうをひてうといふ事をして、人の前にまきわたす繪を、こなたより推してしる事、通力あるがごとくなる上手の鍛煉あるもの、世におほくなりけるほどに、これに出あひて立あしもなくうちまけて、一夜のうちに乞食になる人おほし、

ブラックジャックやカブ系ゲーム等では、カウンティングと言って今迄に使用済みのカードを記憶しておく事により、終盤のゲームを有利にする事が可能です。つまり残っている札が分かっていれば、もう一枚引くかどうかを考える際に確率的に最善の選択が可能になる訳です。しかしあくまで確率的に有利という程度ですから、長い勝負ではある程度の差は出るでしょうが「通力あるがごとく」という程強力なものでは有りません。従って常識的に考えればやはり「イカサマ」、つまり何等かのトリックを使っている可能性が高いでしょう。「イカサマ」はこの時代には「手目」とか「下抜き」と呼ばれていますが、これについて次の資料の記述はかなり具体的です。ちなみに、ここで既に例の「切り交ぜ」の語が見られます。

ゑ入えいりぬれほとけ』寛文十一年(1671)
一 下ぬきにあいたるとは何としたる事なるやかるたをうち候にあなたこなたときりませ候内にしたにあるよきふだを人のミぬやうにぬいてとり其ふだにてうちかち申ゆへ下ぬきにあいたるとハ人にたまされたるを申成

一 手目とは何としたる事なるや是もかるたより出たることばなりかるたをきりませ候に手のうちにてぢゆうにふたをいたしわか所へよきふたをとり申ゆへ手の内に目のある同前なりとて何事にもたまされたる事を手めにあふたると申侍へる成

「下抜き」「手目」共に「江戸カルタ」のイカサマ手口から出た言葉で有り、その内容は正に現代カードマジックの技法に通じるものと言えます。それぞれカードマジック用語に置き換えるとすれば、「下抜き」はその物ズバリ「ボトムスチール」という技法が有りますし、抜き取った札を手のひらに隠し持つ「パーム」技法も存在したはずです。「手目」の説明内容を見ると、これは「コントロール」という技法に該当します。

おそらく元々これらの技法はプロの博徒達によって考案され、彼らの間で重要秘密として守られていたのでしょうが、本書刊行の寛文年間には既に一般にも知られる事と成っていた様です。だとすれば、恐らく当時の人々もこれらの技法がカルタ手品に応用可能な事に気付いていたに違い有りませんし、実際に演じられていた可能性も高いと思われます。にも拘らず、その種のカルタ手品の記録が文献上に全く見当たらない事にも又、それなりの理由が考えられます。

想像してみて下さい。種も仕掛けも無い一組のカルタを自在に操り、絵柄は全てお見通し、あたかも通力の有るが如くに不思議な現象を起こす人物。プロの手品師であるなら未だしも、もし彼があなたのカルタ仲間だとしたら、その様な相手とカルタの勝負、特にお金を賭けての真剣勝負をしたいと思いますか。一方、彼にしてみてもカルタの勝負で勝てば勝つ程、きっとイカサマに違いないと痛くも無い腹を探られるのは目に見えています。又その様な技法を使ったカルタ手品を伝授本に載せたら一体どうなるでしょうか。これらの技法はカルタのイカサマにも応用出来るものですので、手品の伝授にかこつけてイカサマ技法を伝授している物と受け取られかねません。元々カルタ賭博自体が原則御法度ですが、中でも手目賭博は重大犯罪です。決して大袈裟では無く、イカサマ手口の伝授という嫌疑で、お上からのお咎めをも覚悟せねばならないという事態にも成りかねません。この様な当時の状況を考えれば、特にカルタ手品に関して言えば、特殊な技法を用いない極めて初歩的な手品のみを伝授せざるを得なかった、というのが実情だったのでは無いでしょうか。

最後に、江戸のカルタ手品を題材にした雑俳をひとつご紹介して、本稿を締めくくらせて頂きます。

『誹諧[ケイ] 四編』安永五年(1776)
懺悔にとかるたの手妻して見せて

江戸時代の手品に関する参考文献

公開年月日 2008/10/15

最終更新日 2009/01/17


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