今回ご紹介するのは『仕形十番切かるたづくしせりふ』と題する資料です。本資料は享保十五年(1730)正月に初演された歌舞伎『蔵開寳曽我』のせりふの一部を独立させた薄物正本で、中でも特にせりふ正本と分類される類のものです。「薄物」の名前の示す通り本文わずか二丁の短いものですが、文中には様々なカルタ用語、特に「よみ」技法の役名が多く折り込まれており、江戸カルタ研究における重要な資料のひとつだと言えます。しかし残念な事に未だ一度も翻刻がなされていない様なので、今回がんばって解読に挑戦して見ました。最初に全文の翻刻を掲載した後、登場するカルタ用語について順に解説をしていきます。
本資料を収蔵していた抱谷文庫は、元埼玉大学教授の大久保忠国氏が自らの専門領域である江戸期の芝居や音曲関係の版本、写本を中心として収集したコレクションに対して命名したもので、国文学研究資料館に依ってマイクロフィルム化されたものが今回の定本と成っています。氏の没後、本資料を含む約100点程が明治大学図書館の江戸文藝文庫に収蔵されて現在に至っています。
尚、本稿の最後に関係資料として、上田花月文庫収蔵の写本『かるたりふ』も併せて掲載しました。おそらくこちらも本邦初の翻刻かと思います。文章の構成順序や多少の語句の異同は有りますが、『仕形十番切かるたづくしせりふ』とほとんど同内容と言って良いでしょう。
追記
『蔵開寳曽我』は曽我兄弟による仇討ちを題材とした、いわゆる曽我狂言のひとつで、享保十五年(1730)の正月に中村座で初演された事が資料から判っています。その第二番目の演目が本資料『仕形十番切かるたづくしせりふ』で、ここでは二代目市川団十郎(1688-1758)演じる兄、曽我十郎祐成と初代荻野伊三郎(1703-1748)演じる弟、曽我五郎時致の二人による掛け合いによって物語が展開されています。以下の本文中、せりふの前に「たん」「だん」と有るのは市川団十郎のせりふ、「伊」と有るのは荻野伊三郎のせりふです。
前半の内容はカルタとは無関係ですので触れません。一丁目裏の末尾辺りから、台詞の中に様々なカルタ用語が折り込まれています。
団十郎「我等は拳をおっ固め。親の敵覚えたかと。目鼻の間をくらわせば。さだめてあざが出来申そう。是 あざばねの始也。」 伊三郎「あざが出来たがお笑止や。あら悲しやと声を上げ。色は青二の臨終際」 団「阿弥陀でいかずは南無釈迦十。釈迦の太鞁二どん/\と。」
最初に登場するカルタ用語はお馴染みの「あざ」で、体に出来る痣に掛けています。「あざ(パウの1)」に続いて「青二(パウの2)」「釈迦十(パウの10)」「太鞁二(オウルの2)」と札の特殊名称のオンパレードとなります。
「あざばね」は江戸カルタの「よみ」技法における「役」の名称のひとつで、古くは近松門左衛門の作品にも登場します。
「はね」役の内容に関しては『雨中徒然草』に次の様な記述が有ります。
「同じ絵、二枚づつ揃う」という文の意味をどう解釈するかは難しい問題です。「はね」役の内容の詳しい検討は、後日よみ分室において『雨中徒然草』の本文の解説の際に触れる予定ですので、ここでの深入りは避けたいと思います。とりあえず「はね」役の中で「あざ」を含むのが「あざばね」だとご理解下さい。「あざばね」以外にも本書の少し後の部分には「きりばね」も出てきますし、他にも「つんばね」「馬はね」等が様々な文献に見られます。
伊「打つや狩場の勢子鼓。一九、二十に仮屋を立て。」 団「和田、北条、畠山。何れも加番を据えられたり。」 伊「高絵の声の高提灯。扨、夜廻りの輩は。」 団「七坊引て火の用心。御用心とぞ触れにける。」 伊「今宵限りと兄弟は。かりたの庵に忍び入り。目と目をきっと見合わせて。」 団「憎し二くづしと思う祐経めを。容易く討たせてたび給へと。」 伊「心中に祈念して。」
「一九」「二十」は少し後に出て来る「三馬」「四切」と組を成す役で、手札の九枚がそれぞれ「一から九」「二から十」「三から馬」「四から切」の連続した札の場合です。いずれも多くの作品に登場しますが、古くは17世紀末の資料にも見られます。
もうひとつ、四種全てが揃ったものをご紹介します。
余談となりますが、「一九」「三馬」が江戸後期を代表する二人の戯作者、十返舎一九と式亭三馬の名前の由来と成ったという怪しげな説が有る事を付け加えておきましょう。
「高絵」の「絵」は「死絵」「白絵」等と同じ用法で、カルタの絵柄の事です。江戸カルタでは良い手札が来る事を「絵が付く」という言い回しをします。「高絵」とは得点の高い手、つまりとても良い手を意味すると考えられます。
「カルタ」を「かりた」と表記している例は幾つも見られます。例えば『和漢三才図絵』(正徳二年序)ではカルタの項の表題が、正に「かりた」と書かれています。その他の用例を二点ご紹介しておきます。
「七坊」「二くづし」は共に「よみ」技法の役名です。これらの役についての解説、及び用例は『雨中徒然草』の本文の解説の際に触れる予定ですので、今回は省略させて頂きます。
団「日頃念ずる江の嶋の。弁天、護国寺、鑓踊り。」
「弁天」「護国寺」「鑓踊り」も全て「よみ」の役名です。もしかするとこの部分に見覚えの有る方がいらしゃるかも知れません。実は、安永八年(1779)刊の洒落本『蚊不食呪咀曾我』にこれと良く似た一節が有る事が知られています。
『蚊不食呪咀曾我』はその書名からも分かる通り、曽我兄弟の仇討ちの物語りを題材とし、カルタや他の様々な賭博用語を取り入れたパロディーといった性格の洒落本です。刊行された安永八年といえば、安永から天明にかけての「めくり」大ブームの真只中といえる時期です。そこに突然「よみ」の役名の登場、しかも何れもどちらかと言うとマイナーな役名です。何と無く違和感を抱いていたのですが、今回その元ネタが判明した事は大きな成果でした。この言い回しはおそらく当時の人々にとって、歌舞伎のせりふとして耳慣れたフレーズだったのでしょう。
ただし、細かな点に成りますが『仕形十番切』と『蚊不食呪咀曾我』とでは役名の順序が食い違っています。後出の『かるたせりふ』の該当箇所を含めて比較して見ましょう。
オリジナルの『仕形十番切』では「弁天、護国寺、やりおどり」の順なのに対して、およそ50年後の二資料では共に「護国寺、弁天、やりおどり」と成っているの見ると、おそらく安永天明期には実際にこの順序で口伝されていたと考えて良いでしょう。語呂的にはどちらでも大差無いのですが、直前の文句との繋がりに於いて『かるたせりふ』ではオリジナルに忠実なあまり重大な問題が生じています。
ここに出て来る「江の嶋」は現在の神奈川県藤沢市の江の島で、現在でも有数の観光地です。中心である江島神社は江戸時代には弁財天が祀られており、江の島弁天と呼ばれて人々に広く親しまれ、特に江戸の住人にとっては短期の観光旅行先として最も身近な場所のひとつでした。従って本来「日頃念ずる江の嶋の」の直後には「弁天」が来なければならないのですが、『かるたせりふ』ではオリジナルの「日頃念ずる江の嶋の」の後に当時の口伝に従い「護国寺、弁天」と繋げた為に何とも落ち着かない事態と成ってしまいました。その点『蚊不食呪咀曾我』では「江の嶋」を使用せずに「神にとつてハかるた明神」として無理無く「護国寺」に繋げています。
伊「おんどり上がり、はね上がり。虚空にひらめく太刀風に。側にふしたる吉備津宮。」 団「大藤内が仕合は。三々揃のそばつゆに。ころりと死絵に成りにけり。」 伊「後陣、俄にわかの事なれば。すわ、夜討ちこそ入たれと。」 団「三馬、四切にしんとうして。上を五下へぞ返しける」
「三々揃」も「よみ」の役名ですが、本資料と『雨中徒然草』以外には見られない珍しいものなので少し解説しておきましょう。そもそも「よみ」には「揃」という役が有り、「三々揃」はその特殊な型です。
ここで言う「同じ絵」とは「同じ数」の事です。従って九枚の手札の内に同じ数の札が三枚揃っている状態が「揃」と成り、更に「揃」が三組揃うと「三々揃」と成る訳です。
「死絵」に関しては「よみ分室」の『雨中徒然草』を読む(二)の中で詳しく解説していますので、そちらをご参照下さい。
「五下」に関しても少し言及しておきましょう。『雨中徒然草』には次の様に書かれています。
つまり手札の九枚が全て五より下の数の場合に役が成立します。しかし実は、もう一つ「五下」というカルタ用語が存在します。
こちらは「役」では無く、ルールに関するものです。「よみ」技法に於いて打ち上がりの最後に出す札が五より下の札で有った場合に適用され、決められた得点を得られるという取り決めです。次の用例はこちらの「五下」の様です。
『仕形十番切』とは成立年代的にも近く、こちらの「五下」である可能性も有ります。しかし、少し後に出て来る「八上」との関係を考えると、やはりここは役名としての「五下」の方だと考えた方が良いと思われます。「八上」は手札九枚が全て八より上の札の場合に成立します。
つまり「五下」が五より下の札で構成されるのに対し、逆に八より上の札で構成されるのが「八上」であり、一対を成す役だと言えます。従って「五下」「八上」をセットで考えれば、共に「よみ」の役名であると考えた方が自然です。
伊「元より兄弟花揃の。小太刀、大太刀、白絵の長刀。真っ向二つに甲の八上。九いきもつかせず薙ぎ立て/\ 当たるものをば幸に。」
「花揃」「九いき」もおそらく役名だと思われます。「花揃」は良く知られた役だったらしく、他にも多くの資料にも登場しますので幾つかご紹介しておきます。
ところが不思議な事に、この「花揃」は『雨中徒然草』には出て来ません。先程「おそらく役名だと思われます。」と書いたのはその為です。それでは「花揃」がどの様な役なのかを考えて見ましょう。
先ず「花」というのは江戸カルタでしばしば使われる用語で、青札(パウ)を指す別称です。「揃」は通常「よみ」技法では同じ数の札が三枚揃った、いわゆる「揃役」を指すのですが、「花揃」の場合は一般的な意味での揃っている状態として使われているのでは無いでしょうか。つまり「花揃」とは九枚の手札が全て青札の場合と推測出来ます。
ところで『雨中徒然草』には、これと同じ内容の「九花」という役が出ています。
ここでは「花」の定義を「青札(パウ)」の中で「あざ」「釈迦十」「青馬」「青切」の四枚の生き物札(この後で解説します)以外に限定しています。しかしこれでは「花」に当たる札は「青二」から「青九」迄の全部で八枚しか有りませんので、「九花」にせよ「花揃」にせよ成立不可能な幻の役と成ってしまいます。この矛盾を解消し、「九花」役を成立させる為に先ず考えられるのは、いわゆるワイルドカードの役割をする札の存在です。この問題について佐藤要人氏は『江戸めくり加留多資料集解説』の中で、「海老二(イスの2)」札をこの様な働きをする「化け札」では無いかと推測されています。しかし「海老二」の働きについて『雨中徒然草』本文中には何等具体的に書かれてはいませんし、裏付けと成る様な他資料が存在する訳でも有りませんので、これはあくまでひとつの仮説と言わざるを得ません。又、仮にこの説を取るとしても「九花」が成立する為には手札の九枚に「青二」から「青九」迄の八枚と「海老二」の全てが揃う事が必要で、確立的に極めて低いと言うか、現実的にはほとんど発生しない役なのでは無いかという疑問が残ります。
もうひとつ考えられるのは、「花」とは元々「青札(パウ)」の12枚全てを言うのでは無いかという問題です。「青札(パウ)」の紋標は元々は木製の棍棒の絵柄なのですが、古いカルタには一緒に小さな花らしき絵柄が描かれている物(例えばこれやこれ等)が見られ、これが「花」の語源であると考えられます。又、後には紋標が「花」そのものに成ったうんすんかるた迄もが作られました。花の絵柄は数札のみに描かれている訳では有りません。つまり本来「花」とは「パウ」「青」の別称で有り、12枚全てを指す紋標名であると考えても良いでしょう。これならば「九花」や「花揃」はかなり低い確立では有るものの、稀にはお目にかかれる程度の「役」には成ります。
次に「九いき」ですが、実はこの役名も『雨中徒然草』には出ていないのですが、良く似たものが見られます。
「十」「馬」「切」の札には全て人間が描かれています。「ぴん」「虫」は数標1の札で元々は龍の姿が描かれていましたが、後には何だか得体の知れない生物と成ってしまいました。これらが生き物札で、手札の中に生き物札が八枚有れば「八生」、全てが生き物札ならば「惣生」と成る訳ですが、全てというのは九枚の事ですので「九生」と呼んでも良いはずです。実際には「惣生」と「九生」の両方の呼び方が併用されていたのでは無いでしょうか。
ちなみに生き物札が七枚揃った「七房」が、前の方に出て来た「七坊」に該当するものと思われますが、この件については『雨中徒然草』の解説の方で詳しく検討したいと思います。
続きを読み進めましょう。
団「きり切ってつん/\十番切。たいらくの平馬、こつふの馬。絵上は逃げは、逃げ次第。」 伊「女、童に目な掛けそ。刃向かう奴等らはひん/\と。虫にも等しきへろ/\武者。」 団「ここにつき出し。」 伊「かしこにきりばね。」
最初に出て来る「きり」は勿論数標12を意味する「切」に掛けています。次の「つん」は数標1の札、最後の方の「虫」も数標1の札の異称ですが、問題なのは「ひん」です。「ぴん」も又数標1の札の呼称で、江戸後期には「つん」に代わって一般的に用いられましたが、この時代に既に使用されていたという確証は有りません。確認済みの最も古い例が次の資料です。
ちなみに「ひんぽど」は原本の表記通りで、誤記では有りません。正しくは「ぴんほど」で原本の誤刻には違いないのですが、実は江戸時代の表記法では「濁点(゛)」「半濁点(゜)」の使用法が実にいい加減なのです。濁点や半濁点を付けるべき所に付けない事は珍しくも有りませんし、本来付けてはいけない所に平気で付けているケースもしばしば見られます。その無頓着さ加減に最初はかなり戸惑いますが、じきに慣れますので御安心下さい。
遅くとも宝暦年間(1751-1764)初期には「ぴん」の語が使用されていたの確実です。しかし、それ以前となるとはっきりしませんが、疑わしいと思われる資料が有ります。
今回の『仕形十番切かるたづくしせりふ』も併せて考えると、正徳(1711-1716)から享保(1716-1736)の頃、既に「ぴん」の語が使用されていた可能性も否定出来ないと思われます。しかし何れの資料も決定的証拠とは言い難く、今の時点で結論を出す事は出来ません。今後、決定的な証拠を偶然に発見する幸運に恵まれるか(経験上、以外と有るものです)、或は地道に情況証拠を積み重ねていけるか(経験上、こちらの可能性の方が高いです)が今後の課題と成ります。
「こつふの馬」も大変重要な情報です。「こつふ(コップ)」は初期江戸カルタの四つの紋標名である「パウ」「イス」「オウル」「コップ」のひとつで、元はポルトガル語です。紋標には聖杯が描かれていますが、言葉としては普段私達が使っている「コップ」と同じです。これらの名称の使用例については以前まとめて紹介してありますが、その後新たな資料がいくつか見つかっていますので、この機会に「コップ」に関するものをご紹介しておきます。
更に今回『仕形十番切』にも「コップ」が見い出された事により、少なくとも享保十五年(1730)時点の江戸において、カルタの紋標名としての「コップ」が一般に知られていた事を確認出来たのは大きな収穫でした。歌舞伎のせりふに使用されるという事は、少なくとも不特定の観衆の大部分に意味が通じるという事が前提とされますので、当時の一般大衆にとって「コップの馬」という言葉は耳慣れたもので有ったと考えて良いでしょう。
団「友切丸の。」 伊「太刀の柄を。」 団「にぎりがきいたぞ。」 伊「きいたか。」 たん「きいたぞ。」 伊「きいたか。」 たん「きいたぞ万九じや/\。ついに左衛門祐経を。」 伊「歩みの板に切り付けんと。」 団「心祝いの五月の狩場。」 伊「建久四年五月闇。」 団「蚊に喰われじと口先で。親の敵を打ち切りかるた。」
「にぎり」はカルタ用語というよりも、むしろカルタそのものを指す一種の隠語だと言えます。これと似た表現として「よむ」「めくる」がそれぞれ「よみを打つ」「めくりを打つ」を意味しますが、同様に「にぎる」のみで「カルタを打つ」という意味で受け止められます。数多くの用例が見られますが、川柳雑俳の中から幾つかご紹介します。
最後の川柳はちょっと分かりにくいかも知れませんので、解説しておきましょう。
「奥家老 握る、詰めるは負けてやり」
「負けてやり」というのですから勝ち負けの有る勝負事に成りますので、「握る」はカルタ、「詰める」は将棋を表すと思い当たります。奥様(或いは奥女中か)の慰みにカルタや将棋のお相手する奥家老が、勝負にちょっと手心を加えて相手を勝たせている、といった意味でしょう。更に深読みすれば、「つめる」は「つねる」と同義であり、「(手を)握る」「(尻を)つねる」という江戸時代の代表的な求愛行為を連想させる効果を狙っているのかも知れません。
さて、この辺で『仕形十番切』に戻りましょう。最後の方の「蚊に喰われじ」は江戸期の作品にしばしば見られる言い回しで、通常「蚊に喰われぬ咒」とか単に「蚊の咒」等と呼ばれます。これは主にカルタ、広くは賭博行為全般を指す隠語で、ようするに夜寝ていると蚊に喰われてしまいますが、寝ずに賭博に興じていれば蚊に喰われないで済むという洒落です。
ここで「蚊の咒」の出て来る資料を幾つかご紹介しましょう。年代の古いものとしては次の資料が有ります。
その後、宝暦(1751-1764)明和(1764-1772)安永(1772-1781)の頃が流行のピークだと見えて「蚊の咒」を題材とした雑俳が数多く見い出せます。
『雨中徒然草』の序文にも登場します。
その他、前出の安永八年(1779)刊の洒落本『蚊不食呪咀曾我』や天明二年(1782)刊の黄表紙『教訓蚊之咒』の様に作品のタイトルにも使用されています。
最後に安永期の川柳をもうひとつ。
お解りでしょうか?
「娵」は「嫁」と同義、「哥」は「歌」の事です。もうひとつ、この句を解釈する上で知っておかなければならないのは、古川柳独特の幾つかの決まり事です。
例えば句の中に「信濃」と有れば多くは信濃男を意味します。当時、深い雪に閉ざされた冬季には信州(今の長野県)から多くの者が江戸へ出稼ぎに来ました。彼等の事を「信濃者」或いは単に「信濃」と呼び、古川柳では大変な大食漢だとされていました。同様に「相模」と有れば「相模女」「相模下女」を意味し、こちらはとても好色、淫乱だという事に成っています。これらが古川柳独特の決まり事です。それぞれの例句をご紹介しておきましょう。先ず「信濃」から二句。
続いて「相模」の方も二句。
同様に「嫁」に関しても幾つかの決まり事が有ります。先ず思い浮かぶのは琴の名人である事。そして歌カルタが得意とされています。
この決まり事を知っていれば例句の意味は難無く解けます。つまり「蚊に喰われぬ咒」とは賭博ですので本来「江戸カルタ」が使用されるものですが、「嫁」の場合は得意とする「歌カルタ」でするだろうという「うがち」です。
次に、本稿最後の重要なテーマとなる「万九」について検討したいと思います。実は「万九」という語句は以前から気になっていました。
これら二つの資料に見られる「万九」がカルタ用語で有り、おそらく江戸カルタの技法名か、又は「よみ」技法の役名であろうと目星を付けていました。しかし情報不足の為、これといった進展が無かったのですが、今回『仕形十番切かるたづくしせりふ』『かるたせりふ』に「万九」を発見出来たのは大きな収穫でした。しかも『かるたせりふ』の該当箇所「とも切丸のたちのつか きりがきいたかきいたぞまんくちや/\」から「まんく」と読むと確認出来た事も重要です。
更に最近になって「万九」に関する新たな資料を発見しました。
この資料も『仕形十番切』と同様に、様々な「よみ」の役名が織り込まれています。ざっと抜き出して見ますと、登場順に「三馬」「二くづし」「四切」「天地」「七坊」「五むし」(おそらく「毛なし」も)「花ぞろ」といった所で、これらと一緒に登場する「万九」も当然「よみ」の役名だと考えるべきでしょう。しかし実際にどの様な役で有ったのかを示す具体的な資料は存在しまませんので、既存の資料群から内容を推測するしか有りません。
先ず最初に「万九」役の大まかな特徴について考えて見ましょう。「是では万九にしてやられう」「万九はたい衆を一ひねり。」「万九上人と号して」「あつはれ万九のやうなよいむことつて」 「きいたぞ万九じや/\。」これらの記述から「万九」は価値の高い、強力な役で有る様な印象を受けます。「よみ」技法において強力な役とは、ひとつには役の成立する確率が低く、もしも成立した場合には極めて高い得点が得られる場合と、その役が手の内に有れば容易に打ち上がれる、つまり勝利に直結し易い場合が考えられます。「万九」に関する記述からは特に後者に近い印象を受けます。
次に「万九」という名称からヒントを探して見ましょう。『雨中徒然草』を見ると役名に数字が付くものが多く有ります。「団十郎」や「きく五郎」といった固有名詞や普通名詞を除けば、数字の使用は大きく二つの意味に分けられます。ひとつは「五光」「九花」「七坊」等、枚数を表す数字であり、もひとつは「一九」「三馬」「五下」「八上」等、札の数標を表す場合です。「万九」の「九」に関して言えば、もしも前者の枚数を表す数字と考えるならば「万(意味は後述)」が九枚揃った役という事に成りますが、その場合他の役名に準じるならば「万九」では無く「九万」と呼ぶのが自然です。従ってこの「九」は後者の数標を表す「九」だと考えた方が妥当でしょう。では「万」の方は何を意味するのでしょうか。答えは次の句に有りました。
「パウ(青札)の1」を指す「あざ」を表す漢字表記は実に様々有り、いずれ別稿にてまとめるつもりですが「万」もそのひとつでした。この用例は今のところこの一点のみですが、かと言って全くのこじつけという訳では無く、それなりの根拠が有ります。「あざ」の漢字表記として代表的なものは「蠣」と、虫偏に萬(PC上では表示されない文字なのですが、つまり「虫萬」という字です。)の二つですが、これらに次いで「蛎」の字もかなり見られます。「萬」の略字が「万」ですので「蠣」を略したのが「蛎」と成ります。同様に「虫萬」を略すと「虫万」と成り、これには次の使用例が有ります。
更にここから虫偏をも省略したのが「万」と成る訳です。それでは、いよいよ「万」イコール「あざ」で有るという仮説の元に「万九」の実体に迫って行きましょう。
数有る「よみ」の役の中に「万九」と良く似た役名が有ります。感のいい方はお気付きかも知れませんが、それは本稿にも登場済みのお馴染み「一九」です。「一九」は手札が一から九迄の連続した九枚からなるもので、もしも親手に有れば一手で全ての札を打ち切る事が可能な、極めて強力な役だと考えられます。では「一九」の「一」を「万(あざ)」置き換えて見ましょう。手札九枚の内の一枚が「あざ」、残りが二から九迄の連続した札と成る訳ですが、この場合普通の「一九」とどの様な違いが有るのかを考えてみましょう。
「あざ」は「よみ」技法において最も重要視される札です。ひとつには数多くの役の構成札に成っている事も有りますが、それ以上に重要なのは「あざ立て」という特殊な使用法の存在です。
「あざ立て」に関しては「よみ」分室の方で詳しくまとめる予定ですので、今回は簡単に解説しておきます。「よみ」技法の基本的なルールは、場の台札よりひとつ大きな数字の札を出すというものですが、「あざ立て」の場合おそらく台札の数字に関係無くいつでも「あざ」を出す事が出来、更に続けて任意の札を出す事が出来ると考えられます。この「あざ立て」というルールをご理解頂ければ、「一九」と「万九」の違いに関しても容易にお解り頂けると思います。
先ず「一九」の場合、親の手に有れば初手の一手で全ての札を打ち切る事が可能です。しかし、他の三人の手に有った場合には一度に打ち切りには成らないばかりでは無く、いわゆる「切の無い虫(「よみ」分室内『@「よみ」打ち方の研究』の該当箇所参照)」の状態ですので寧ろ上がりにくい手札だと言えます。
一方「万九」の場合には、親手に有れば一度に打ち切りなのは勿論の事、子の手に有る場合でも一度に打ち切る事が出来ます。つまり、いかなる数字で自分に手番が廻って来ても先ず「あざ立て」を行い、続いて残りの2から9迄の札を連続して出す事が出来ます。ただし、「万九」以外でも「あざ立て」を使用する事によって、一度に全ての札を打ち切る事が可能な手札の組み合わせは多数有ります。しかし少なくとも「役」である以上は、札の組み合わせが何らかの条件や規則性に沿ったものでなければなりません。唯一「万九」のみがその様な「役」としての体裁を備えているものと言えます。しかも誰の手に有ったとしても、ひとたび手番が廻って来た瞬間に勝利確定という、正に「よみ」技法最強の「役」だと言って良いでしょう。
最後に関連資料として、上田花月文庫収蔵の写本『かるたせりふ』全文の翻刻を掲載致します。末尾に記されている通り天明三年(1783)の成立、『蔵開寳曽我』の初演の享保十五年(1730)からは実に53年が経過しています。本資料と『仕形十番切かるたづくしせりふ』を比較しますと、文章の前後関係や細かな語句の異同は有るものの、殆ど同じ内容と言って良いでしょう。実際の所、それぞれの資料の解読困難部分を、他方の該当箇所から推測する事によって解読出来た部分が多々有りました。筆者の中曽根某なる人物の素性も、又どの様な経緯で書かれたのかも不明ですが、奇跡的にも散逸する事無く両書揃って現代に伝えられた幸運に感謝するほか有りません。