江戸カルタメイン研究室 壱頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


@江戸カルタ概説

ようこそいらっしゃいました!こちらでは「カルタ」についてあまり詳しくご存じでない方向けに、簡単なガイダンスをさせて頂きます。しかし簡単にと言っても少々お時間がかかりますので、どうぞくつろいでお聞き下さい。
 あっ、煙草も構いませんよ!なにしろ当研究室のメンバーときたら超ヘビースモーカーばかりですから。
 申し遅れましたがわたくし、当研究室主任研究員のすだれじゅうと申します。まあ主任と言っても、研究員は室長と私の二人だけなんですがね・・・


最初に「カルタ」の伝来についてお話したいと思います。「カルタ」がいつ、どの様にして我が国に伝わり広まっていったのか詳しい事情を知るのは困難ですが、大雑把な言い方をすれば天文十二年(1543)に種子島にポルトガル船が漂着して以来、南蛮人との交流交易を通じて、いわゆる南蛮趣味の一つとして徐々に広まっていったものと思われます。おそらく最初は交易品としてではなく、船員たちの娯楽用に使用していた物を譲り受け、遊び方を習い覚えたのでしょうが、後には交易品としてまとまった数が輸入されたことでしょう。しかし当時の「舶来カルタ」はかなり高価な物であった筈で、誰もが簡単に手に入れられる物では無かったと考えられます。しかし舶来品を模倣し、時にはオリジナルより優れた物を作り出す能力にかけては今も昔も日本人の右に出る者は無く、恐らく「カルタ」に関しても早くから国産化が始まったのではないでしょうか。
 当研究室では、「舶来カルタ」を模倣して作られた「初期国産カルタ」からその系統を受け継ぎながらも、様々に変化しながら江戸時代を通じて(実際には細々とではありますが現代までも)作られ、遊ばれて来た「カルタ」を総称して「江戸カルタ」と呼びたいと思います。

わが国の歴史上「カルタ」が文献に現れるのは、長曾我部元親による慶長二年(1597)三月朔日付の式目に「博奕かるた諸勝負令停止」とあるのが最初のようです。この頃既に戦場での慰みに盛んに「カルタ」が遊ばれていたとすると高価な「舶来カルタ」ではなく、比較的安価で大量に流布可能な「国産カルタ」が既に存在していたと考えた方が良いでしょう。国産化の始まった正確な年代は特定しようがありませんが、おそらく短い文禄年間(1592-1596)を挟んだ前にあたる天正年間(1573-1592)頃ではないでしょうか。

ところで、大変幸運な事に初期の「カルタ」のデザインがどのような物であったのかは、神戸市立博物館に保管されている「カルタ版木重箱」によって、正確に知る事が出来ます。これは実際の「カルタ」の印刷に使用されたと思われる版木を組み立てて重箱に仕立てたもので、版木自体の年代は桃山から江戸初期の物と推定されます。
 一組の「カルタ」は4種の紋標(スーツ)と12の位(ランク)から成り、計48枚です。紋標は、棍棒(パウ又はハウ)、剣(イス)、貨幣(オウル)、聖杯(コップ又はコツフ)の4種。それぞれ、1に当たる札には竜の姿が描かれています。2から9までは、それぞれの数の紋標を配置し、10、11、12に当たる札には、それぞれ女従者、騎士、王の姿が描かれています。これらの特徴は、古いポルトガル系のカルタ(一般に ドラゴンカードと呼ぶ)に完全に合致します。

江戸も中期以降になると「カルタ」の絵柄も次第に簡略化される傾向にあり、それに伴い紋標の呼び方にも変化が現れます。「パウ」「イス」はそれぞれ青い線、赤い線で表され、単に「あお」「あか」と呼ばれるようになります。「オウル」「コップ」に至っては次第にその区別も取り払われ、まとめて「がす(かす)」とか「すべた」と呼ばれるようになります。
 位(ランク)を表す呼び方は、2から9まではその数で呼びます(青二あおに赤八あかはち、すべたの、等)。10に当たる札は、初期にはポルトガル語と同じ「ソウタ(sota)」と呼ばれていましたが、やがて単に「じゅう」と呼ばれるようになりました。又、絵柄も初期の女性像から僧侶の姿に変化した為「坊主」と呼ばれることも有ります。尚、特別に「青の十」の事を「釈迦十しゃかじゅう」と呼びます。12の札は、初期の呼び名ははっきりと確認されていませんが、同じくポルトガル語の「レイ(rei)」が使用されていたらしき痕跡が有ります。延宝期(1673-1681)以降には「きり」と呼ばれています。11の札の古い呼び名を示す資料は見当たりませんが、同様にポルトガル語の「カバーロ(cavallo)」か、それに近い呼び名であったろうと考えられます。延宝期以降は「うま」と呼ばれています。1の札は初期、中期には「虫」又は「つん」、安永(1772-1781)前後からは「ぴん」と呼ばれます。「青の一」だけは初期から一貫して「あざ」と呼びます。また、オウルの二の札も重要な札で「太鼓二たいこに」と呼び、「すべた」には含めません。「あざ」「釈迦十」「太鼓二」の三つは多く登場しますので、ぜひ記憶しておいて下さい。

次に、「江戸カルタ」の主な遊戯法を幾つか紹介いたしましょう。
 最も代表的な技法は「よみ(読み)」と呼ばれるものです。カルタ一組から「赤二(海老二えびにとも呼ぶ)」以外の赤札を除いた三十七枚を使用し、四人の競技者に九枚づつ手札として配ります。残り一枚は「死絵しにえ」と呼び、伏せたままにしておき競技中には使用されませんが、競技終了後の点数計算の際には勝者の手札に加えられます。
 最初のプレーヤーを「おや」と呼び、手札から一枚、表向きに場に晒します。例えば「一」の札を出した場合、ひとつ多い数「二」を持っていれば続けて出すことができ、同様に連続した数が有れば何枚でも出せます。出せる札がない場合は右隣のプレーヤー(胴二どうにと呼ぶ)が同様に札を出していきます。以下、三人目(胴三どうさん)四人目(大引おおびき)と進み「親」に戻ります。こうして最初に全ての手札を出し切った者が勝者と成ります。
 点数は「上がり点」に「役点」を加えて計算されます。「役点」とは手札の中に数枚の特定の札が揃っていたり、手札の全体か一部がある条件を満たしている場合に成立する「役」によって得られる得点で、「役」の種類によって得点が決められています。その際「死絵」も「役」の構成札に加えることが出来ます。「役」には数多くの種類が有りますが、例えば「あざ」「青二」「釈迦十」の三枚が揃った場合、江戸初期には「三光さんこう」、後には「団十郎だんじゅうろう」と呼ばれる「役」になります。

もう一つ重要な技法としては「めくり」が有ります。「めくり」は明和期(1764-1772)の中頃に登場し、安永、天明(1781-1789)のいわゆる田沼時代に大ブームを巻き起こしました。この頃の黄表紙、洒落本、噺本等の文芸作品にも数多く登場し、「よみ」に代わってカルタ技法の代表格となった感があります。
 「めくり」は三人で競技しますので「胴三」は無く「親」「胴二」「大引」のみとなります。カルタ一組四十八枚(時に「鬼札おにふだ」と呼ばれる一枚を加える事も有り)を使用し、各人に手札として七枚づつ配り、場札として六枚を表向けに晒し、残りは山札として裏向きに積んでおきます。競技は「親」から開始します。手札の中に場札と同じ数(ランク)の札が有ればそれを出し、場札と合わせて取る事が出来ます。同じ数が無い場合は任意の一枚を場に表向けに捨て、以後この札も場札となります。次に山札の一番上の札をめくり、場に同じ数の札が有れば二枚合わせて取る事が出来ますが、無ければその札も場札に加えられます。続いて「胴二」「大引」の順に同じ手順を繰り返し、七順で一勝負(番個ばんこと呼ぶ)が終了します。
 お気付きかも知れませんが、これは現代の花札で行われる「花合わせ」や「八八」の技法とほぼ同じです。点数計算も花札と同様に、札固有の点数の合計に「役点」を加えて計算されます。「めくり」では「青札」「赤札」の全てと「太鼓二」にそれぞれ固有の点数があり、その他は無点(すべた)です。主な役は次の六種です。

カルタ技法のもうひとつの大きなグループとしては、賭博系の技法があげられます。江戸時代の代表的な賭博と言えば、何といってもサイコロ二つを使用する「丁半」バクチでしょう。実際、江戸時代に単に「バクチ」と言うと一般的にはこの「丁半」を意味するようです。「丁半」に次ぐナンバーツーの位置に在るのがカルタを使用する「かう」という技法で、歴史も古く寛文(1661-1673)頃刊の仮名草子『浮世物語』に既に記述が見えます。
 競技者は二枚、又は三枚の札を受け取り、札の数を合計します。合計が10以上の場合は10の位は無視し、1の位のみを比較して勝敗を決めます。最も強いのは9でこれを「かう」と呼び、次いで8が強く「おいちょう」と呼びます。以下、7から2まではその数に「すん」をつけ「七寸」「六寸」等と呼び、1の場合には少し変わって「うんすん」と呼びます。最も弱いのは0で「ぶた」と呼びます。各自の点数を比較し高位の者が勝ちとなります。これは現代の花札で行われる「追丁カブ」や、カジノゲームの「バカラ」と同じ原理です。
 「かう」の詳しい競技法は解っていませんが、断片的な記述や挿絵などを見ると、一人が「親(どう)」に成り複数の「子」と勝負する形式が多いようです。「子」はそれぞれ任意の金額を掛け金として張り、「親」の手と比較して勝った者は同額の金を得、負けた者は掛け金をを没収される訳です。又、別の方法として競技者全員の手を比べ、最も高位の者を勝者とする方法も有ったようです。この場合は全員が同額を張り、勝者が全額を取ったのでしょう。

もうひとつ「きんご」についても簡単にご紹介しておきましょう。これも古い技法で、延宝期(1673-1681)には既に行われていた形跡が有ります。「かう」と同様に札の数を合計していきますが、10の位を除く事はせず、合計15点を最高とします。四枚目以降も札を請求出来ますが、合計15を超えてしまうと「ばれ」と言って負けになります。カジノゲームのブラックジャックの最高点21点を15点にしたものと考えて頂けば良いでしょう。

江戸カルタには他にも幾つかの技法が有りますが、それらについては研究室内でご紹介していこうと思います。又、「よみ」「めくり」「かう」「きんご」についても研究室内でより詳しく検討していきます。

次に「カルタ」自体の呼称について整理しておきたいと思います。まずお断りしておきますが「江戸カルタ」という呼称は、当研究室の研究対象である「江戸時代に使用された48枚系のカルタ」を指す造語であり、一般的なものではありません。江戸時代においては単に「カルタ」と言うとほとんどの場合はこの48枚系の「カルタ」の事を指します。百人一首等の和歌を記した物は「歌かるた」と呼んではっきり区別しています。表記は仮名書きが最も多く、平仮名、片仮名ともに用いられますが、当研究室内では引用の場合を除いて「カルタ」に統一しています。これは単に元々は外来語であったという事を意識しての事です。漢字で表記する場合は「骨牌」の字を当てる事が最も多く、他には「加留多」「加留太」「賀留多」「歌留多」等が多く見られます。
 初期(桃山〜江戸初期)の国産カルタの事を指して、一般的には「天正カルタ」と呼ぶ事が多いのですが、当研究室においてはこの語は使用いたしません。何故なら「天正カルタ」という語はこの時代の文献には全く登場せず、江戸後期になって初めて現れる上、全く別の意味が有るのではないかと考えているからです。詳しくは研究室内で検討していきたいと思いますが、将来的な混乱を避ける為にも「天正カルタ」は使用せず、単に「初期国産カルタ」と呼びたいと思います。

江戸時代を通して多く用いられる語に「よみカルタ」が有ります。これには「よみ」技法を意味する場合と、「よみ」に使用する札、つまり「カルタ」自体を意味する場合が有ります。特に「歌かるた」等と明確に区別する場合などにこう呼ぶようです。
 これと似たものに「めくりカルタ」が有ります。現代の辞典やカルタの解説等の多くはこの語を「めくり」技法、又はそれに使用する札と解説していますが、江戸時代の文献を詳しく調べて見ますと若干の疑問が残ります。確かに「めくりカルタ」の語は少なからず登場しますが、その多くは御触書(法令)や御仕置例(判例、裁判記録)といった言わば公文書とも呼べるもので、その他には一部の随筆(大田南畝著『半日閑話』等)に見られるぐらいです。一方「めくり」の流行していた時代の黄表紙、洒落本、噺本、等の文芸作品にはこの語はほとんど見当たらず、技法を指す場合には単に「めくり」と呼び、使用する札の事は「めくり札」又は「めくりの札」と呼んでいたようです。些細なこだわりですが、当研究室においても「めくりカルタ」の語の使用は極力避けています。

          

近年における近世(江戸時代)研究の進展には目覚ましい物が有ります。様々な分野で次々と新しい研究、見解が発表され従来の江戸観を大きく塗り替えつつ有ると言えますが、その中において、残念ながら「江戸カルタ」に関する研究は大きく立ち遅れていると言わざるを得ません。
 当研究室は主に、江戸時代に書かれた様々な文献の中から「カルタ」に関する資料を探しだし、その実態を明らかにする事を目的としています。調査する程に「カルタ」に関する資料数の多さに驚かされると同時に、いかに「カルタ」が当時の江戸の人々にとって身近な存在で有ったかを思い知らされます。当研究室では現在千点を越す資料を公開していますが、残念ながらその大部分は断片的なものであり、ある程度まとまった内容を持つ資料と呼べるものはせいぜい数十点程度ではないでしょうか。しかし、個々の資料は断片的なものであっても、例えばジグソーパズルのように個々のピースの関連を考え、組み合わせていく事によって次第に全体像が見えて来るのではないでしょうか。気の遠くなるような地道な作業に成りそうですが、少しずつでも研究の成果を発表していきますので宜しくお付き合い下さい。

公開年月日 2007/02/18


A『博奕仕方』のカルタ技法

今回取り上げるのは、江戸カルタを研究する上で最も重要な文献である『博奕仕方』についてです。本書には江戸時代に行われていた十七種の賭博の方法が解説されており、その中には「めくり」「よみ」「きんご」の三種のカルタ技法が含まれています。特に「めくり」についてはかなり詳細に記されており、当時の技法をかなり正確に知る事が出来ます。
 ここでは先ず、内容のご紹介の前に、本書の資料性格について検討しておきたいと思います。

『博奕仕方』は写本の形で数冊が伝存していたようですが、残念な事に現在の所在は全て不明です。しかし、翻刻書によってその内容をうかがい知る事が出来ます。

@『賭博と掏摸の研究』尾佐竹猛著(大正十年刊)
本文中にバラバラに引用されているが、大部分の翻刻有り。(家蔵本。以下、尾佐竹本と呼ぶ。)

A『賭博史』宮武(廃姓)外骨著(大正十二年刊)
最も参考になった資料として本書の名をあげている。明確な引用は無いが、明らかに本書を参照していると思われる部分が見受けられる。(帝大法学部蔵本。便宜上、宮武本と呼ぶ。)

B『続法制史の研究』三浦周行著(大正十四年刊)
全体の翻刻有り。(家蔵本。三浦本と呼ぶ。)

C『未刊随筆百種』三田村鳶魚編(昭和二年刊)
『博奕仕方風聞書』の書名で、奥書を一部欠くもののほぼ全体の翻刻有り。(林若樹氏蔵本。便宜上、三田村本と呼ぶ。)

 以上、少くとも四種の写本が存在した事が確認されています。また、本書は天保十年編の『鞠吏記則』第三十冊目「雑、処雑方及博方上記」に収録されており、こちらは、一橋大学の合九冊本、東京大学の二冊本と抄本の三種が伝存しています。 

『博奕仕方』という書名に関して、お断りしておく事が有ります。実はこの書の名称として、一般的には『博奕仕方風聞書』という書名が使用される事が多く、国書総目録でも『博奕仕方風聞書』で記載されています。しかし、『博奕仕方風聞書』となっているのは三田村本のみで、他の三本では単に『博奕仕方』となっています。当研究室では、『博奕仕方』を正式名称と考え、採用しています。

本書の成立年については、三浦本の奥書に「卯 九月」と有り、尾佐竹本に朱書きで「寛政七卯年九月六日北方臨時廻書上之写」と有る事から、寛政七年(1795)成立と推測されます。

 追記
本書の成立年に関しては、調査の結果寛政七年と確定する事が出来ました。詳しくは別稿「『博奕仕方』の成立年を確定する」をご覧下さい。

作成者は北町奉行所の臨時廻六名、三浦本の奥書に名が記されています。

豊田安太夫
 岡田幸次郎
 片山門左衛門
 小西安右衛門
 橋本佐平治
 鈴木新七

一種の司法資料として町奉行所に提出された物と思われます。

『博奕仕方』には「めくり」「よみ」「きんご」の三種の江戸カルタ技法が記されています。以下、全文を『未刊随筆百種』(三田村本)より原文のまま転載致します。ただし、一部の旧漢字は現代の物に直してあります。尚、他本との重要な異同については、注釈をご参照下さい。

めくり(1)博奕仕方
 かるた四拾八枚
  但一より十二迄有之銘々四枚ツゝ四拾八枚に相成申候
   内一より十迄は通例之数に唱、十一を馬と唱、十二をきりと唱申候、
壹の四枚の内
壹枚をあざと唱金泥にて彩色、此札数五十に相成、四枚之内上ノ札に御座候
内壹枚ハぴんと唱、数十に相成申候
内貳枚すべたと唱、数に成不申候
貳の四枚の内
太鼓二と唱、太鼓の形を畫、金泥等にて彩色数五十に相成申候
内壹枚は青貳と唱、青く彩色、数五十に相成申候、此貳枚は四枚の内、壹札に御座候
内一枚は海老貳と唱、ゑびを赤く畫、数十に相成申候
内一枚は唇之二と唱、唇之形に畫、数に成不申候
三の四枚の内
青三と唱、青く彩色、数五十に相成申候、四枚之内、上ノ札に御座候
内一枚は赤三と唱、赤く畫、数十に相成申候
内貳枚はすべたの三と唱、数に成不申候
四の四枚の内
青四と唱、青く彩色、数五十ニ相成申候、四枚之内、上ノ札に御座候
内一枚赤四と唱、赤く畫、数十に相成申候
内ニ枚すべたの四と唱、数に入不申候
五の四枚の内
青五と唱、青く畫、数五十ニ相成四枚ノ内、上ノ札に御座候
内一枚は赤五と唱、数十に相成申候
内ニ枚はすべたの五と唱、数に入不申候
六の四枚の内
青六と唱、金泥等にて彩色、数六十に相成、四枚之内、上ノ札に御座候
内一枚は赤六と唱、数十に相成申候
内ニ枚はすべたの六と唱、数に入不申候
七の四枚の内
青七と唱へ、数二十に相成申候
内一枚赤七と唱、数十に相成申候
内ニ枚はすべたの七と唱数に入不申候
八の四枚の内
青八と唱、数二十に相成申候
内一枚赤八と唱、数十に相成申候
内ニ枚はすべたと唱、数に入不申候
九の四枚の内
青九と唱、数五十に相成申候、四枚ノ内、上ノ札に御座候
内一枚赤九と唱、数十に相成申候
内ニ枚すべたと唱、数に入不申候
十の四枚の内
釈伽十と唱、数五十に相成申候、四枚ノ内、上の札に御座候
内一枚をすだれ十と唱、数十に相成申候
内ニ枚すべたと唱、数に入不申候
十一の数にて 馬
青馬と唱、金泥等にて彩色、数五十に相成申候、四ノ内、上ノ札に御座候
内一枚はトウ之馬と唱、数十に相成申候
内ニ枚すべたと唱、数に入不申候
十二の数にて きり
青きりと唱、金泥等にて彩色、数五十に相成申候、四枚之内上ノ札に御座候
内一枚はトウノきりと唱、数十に相成申候
内ニ枚すべたと唱、数に入不申候
博奕手合両人より五人に限申候
但五人に候得ば一人ツヽ順に休を入、残四人え七枚ツヽかるた之裏之方を見せ、銘々蒔配り、外にかるた六枚其席之真中え模様を見せ候て蒔、四人之内一人悪敷札の者相休、三人にて手合に成打候事も有之又は両人にて打候事も三人共に不承知に候得ば蒔直し申候
四人え七枚ツヽ配り、場え六枚蒔、残リ札十四枚有之、四人之内一人休の者札七枚を残、札十四枚と一所にいたし重ね置、かるた裏之方を出し伏置申候
打方は手に持候一と場之一と合せ候て取、右伏有之候札、壹枚めくり、場の札に合せ候て一の札同様に取候仕法に御座候
前書のかるたの内上ノ札を合せ候て多く取候者勝候儀に御座候、譬は六十の六、五十の五、釈伽十、馬きり抔取候得ば其数多く相成候に付勝にて御座候
銭の取遣り候定め次第にて、譬ば数十を壹文と定め候得ば五十の札壹枚にて銭五文に相成申候、数十を百文と定め候得ば五十之札壹枚にて銭五百文に相成申候
右之通に銭高は定メ次第にて大造の勝負有之候儀に御座候
手合三人の節、親胴貳大引と申事御座候、親と申候事は勝候者親にて外え札蒔渡候、親之次を胴貳と申、其次を大引と唱申候、三人の内にて勝候者親に相成申候
壹番毎に銭にて勝負いたし候者有之又は取遣り捗取不申候に付こまと名付、碁石等にていたし候得は黒白にて銭の高下を定め譬は白石一つにて十文或は五十文と相定め段々打候て番数を定め五十番にて先ツ其勝負を洗ひ、碁石の数を改め其節銭之取遣り仕候儀に御座候
外に役物と唱、其場の定め次第にて勝負仕候、右役物左之通に御座候
     青貳 釈伽十 あざ
     此三枚を取候得は團十郎(2)と唱申候
     あざ 青貳 同三
     此三枚を取り候得は下モ三と唱申候
     青七 同八 同九
     此三枚取候得は仲蔵と唱申候
     青きり 青馬 釈伽十
     此三枚取候得は上ミ三と唱申候
     赤七 同八 同九
     此三枚取候得は赤蔵(3)と唱申候
     あざ 海老二 釈伽十
     此三枚取候得は海老蔵(4)と唱申候
但一体の数に負候ても前書の役のものを取候得ば其役の物の銭高極め次第にて夫丈の銭受取申候、負候上にての相手に右之役物をとられ候得ば負の上の負に相成又一体に勝候上役物を取候得ば勝の上の勝に相成申候
打初め候時点をかけると申事御座候、此点と申は手合可到と存候札に候得ば銭壹文其場え投出し、其次の者も相手に可相成と存候札に候得ば是も銭一文投申候、其次の者も同様に存候得ば銭一文投出し申候、、此訳は相手に相成可申と申す証拠に銭を投候事を点を掛ると申候
 但右銭は三人の時は三文、両人の時は貳文にて両人にて五十番打続候得ば百四文に相成五十両(5)を五ツ度いたし候ハヽ五百文余に相成申候
碁石一ツ拾文に定め候得ば右之点の度々三人に候得ば三拾文両人に候得ば貳十文にて五十番打続候へは一貫文余に相成、五ツ度も仕候得ば五貫文余に相成申候、右之銭は博奕の宿仕候もの緒雑用に請取候儀に御座候

右之通に御座候めくりの大筋は手に持候札と場に有之候上之札を合せ候て取候事を専一にいたし勝負仕候儀に御座候


よみ仕方
 かるた三拾七枚
めくりかるた四十八枚ノ内赤繪札十貳枚を除
手合四人一人え九枚ツヽ蒔附置、残り札を死繪と唱、除置候事
銘々手に持候札を一二三四五六と順に手に持候札打仕廻候方勝に相成申候、
譬は一二と手より下し、三ノ札無之候得は次のものえ相廻し三四と次にて(6)打五ノ札無之候又次のものに廻し次のもの親の手にて(7)五ノ札無之候得は三四と打候ものゝ方え戻り八九十と手札打切候得ば上り申候事
勝負銭取遣り之定め五下と唱、五より下之札にて打限り勝候ものは何文ツヽ取候事、五より上ノ札を(8)六にて上り候得ば六文、七にて上り候得は七文取,右に准じ取遣仕候事


きんご仕方
 かるた四拾枚
  馬きりの札八枚は入不申候
 此札不残青く畫、めくり札とは別に御座候
手合何人にても一人え一枚ツヽ蒔渡置、残札裏之方を見せ其席の真中を場と唱申候、場に差置順々に手の札と場之札と一枚ツヽ引合、数十五に相成候得ば勝に相成候事
手に四之札持居候て場に伏置有之札之内にて七の札六の札と貳枚取候得ば十五より数多相成候、此分はばれと申、其ものは休其次にても右様に候得は休、残両人にて致勝負候事
役札左之通
     壹之札 四之札
     此札は四ひんと唱申候
     九之札 壹之札
     此札は九ひんと唱申候
右之札を取候得ば十五の札に不構に勝と定め最初銘々より金銭何程と定め掛置候を引取候事

注釈

(1)三浦本では全て「メグリ」と書かれている。
(2)宮武本では「青蔵」。『博戯犀照』に「青ぞう」の記載が有るが、めくり流行期の安永天明期の文献には見られず。
(3)三浦本、尾佐竹本では「赤花」。これも安永天明期の文献には見られず。「蔵」のくずし字を「花」と誤写したのではないか。
(4)宮武本では「エビ」。
(5)三浦本、尾佐竹本では「五十番」。三田村本の「五十両」は誤写、又は誤植と考えて良いだろう。尚、昭和五十一年刊の再版本では「五十番」に修正されている。
(6)三浦本、尾佐竹本では「順にて」。どちらでも意味は通じるが、前後の文脈からは「次にて」の方が適切と思われる。
(7)三浦本、尾佐竹本では「親の手にも」。
(8)三浦本、尾佐竹本では「上ノ札は」。(7)(8)については、三田村本が間違いであろう。

以上、「めくり」「よみ」「きんご」の三種の技法の詳細については改めて検討したいと思いますが、「めくり仕方」の文中には江戸カルタ全般に関連する事項が幾つか書かれていますので、次章からはそれらについて検討いたします。

公開年月日 2007/02/18

最終更新日 2013/08/17


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