江戸カルタメイン研究室 六頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


I「てんしょ」「天正カルタ」について 前編

最初に「天正カルタ」という名称の意味を整理しておきましょう。前節でも触れたように、現代では通常「天正カルタ」という名称は、安土桃山時代から江戸時代初期の国産のカルタを指して使用されています(当研究室では、これを指して単に「初期国産カルタ」と呼ぶ事にしています)。しかし、その当時においては「天正カルタ」の語は全く使用されておらず、呼び名としては単に「カルタ」のみです。文献上に「天正カルタ」の名称が見られるのは、前節でご紹介した寛政元年(1789)の『新版咄会御祓川』が初出のようです。

一説には天正年間(1573-1592)に作られた為「天正カルタ」と呼ぶとも言われますが、そのような事実を直接示す資料は存在しません。しかし、実際にカルタの国産化が始まった時代を推測するとなると、やはり天正年間あたりの可能性が高いとは考えられます。この事が「天正カルタ」の語が定着するに至った、最大の要因であると考えて間違い無いでしょう。

「天正カルタ」の語源に関しては、山崎美成の『博戯犀照』に別の説が記されています。

博戯犀照はくぎさいしょう文化文政頃(1804-1830)
天正かるた
これハ今も世にある所の四十八枚のかるた也天正としも云よしハ初まりの一枚にことに見事に彩色てその札に天正金入極上仕入の八字あり故に世に目して天正かるたといへり此かるたに昔し今の打やう異なりむかしハよみといひてこの戯をなし後にハめくりといへり
(後略)

この説の正否は定かでは有りませんが、少なくとも元号の「天正」と結び付けては考えられてはいません。ちなみに当書では、「かるた」の項を「うんすんかるた」と「天正かるた」の二つに分け、75枚の物を「うんすんかるた」、48枚の物を「天正かるた」としています。つまり当研究室で言うところの「江戸カルタ」を総称して「天正かるた」と呼んでいる訳です。当時、この様な認識が一般的で有ったのかどうかはハッキリしませんが、少なくとも明治以降の研究者に与えた影響は大きかったようです。つまり48枚系のカルタの総称を「天正かるた」と考え、その系統を受け継ぐ「読みかるた」、「めくりかるた」等の登場以前の物を区別して特に「天正かるた」と呼ぶように成った、この様な流れで有ったようです。

それでは、この「天正カルタ」なる語をどう扱うべきでしょうか。単なる言葉の定義の問題に過ぎないし、今や完全に定着している感の有る「天正カルタ」を、わざわざ別の呼び方に変える必要は無いとお考えの方も多いと思われますが、当研究室が「天正カルタ」の名称を使用せず、「初期国産カルタ」と呼んでいるのにはそれなりの理由が有ります。くどいようですが、江戸初期から中期までも「天正カルタ」という言葉は存在しませんでした。しかも江戸後期に登場する「天正カルタ」には、全く別の意味が有ったと考えられるのです。「天正カルタ」に全く別の二つの意味が有っては不都合ですので、「初期国産カルタ」と「天正カルタ」はハッキリと区別して使用されるべきだと考えます。

それでは本来の「天正カルタ」とは一体何なのか、さっそく検討に入りたいと思います。

先に「天正カルタ」の名称の登場は寛政期以降である事を示しましたが、「天正」又は「てんしょう」単独での例を探してみると、最も早い使用例としては近松半二作の浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』(明和五年初演)に次の記述が見られます。既出ですが再掲いたします。

傾城阿波の鳴門けいせいあわのなると』明和五年(1768)
コレてこつるとふのはの。れこさの事じやわいのこなたも粋方すいほうの女房なら。ちつと天正てんしよでも覚へそうな物じやがなア。今の世界せかいに青二引カぬ者と。お染久松語らぬ者は疫病やくびやうを受ケ取ルといの。

ここで注目して頂きたいのは、「天正」に「てんしょ」とルビが振られている点です。元来「てんしょ」と「天正」は同じ物と考えられて来ましたが、この記述はその根拠になると考えて良いでしょう。又、他の資料を見ても「てんしょ」の方が比較的早い時代に多く見られる事から、おそらくは「てんしょ」が本来の名称で有り、後に「てんしょう」に変化し、「天正」の字が充てられたと考えて良いでしょう。「てんしょ」「天正」に関しては、既にいくつかの資料をご紹介しています。(『正夢後悔記』『間似合早粋』『浪華獅子』『風流裸人形』『そそう尽し』)ここでもう少し「天正」に関する資料をご紹介しておきましょう。

東海道七里艇梁とうかいどうしちりのわたし』安永四年(1775)
錫杖しやくじやう振立ふりたてて、高らかにこそ聞えける、夫天文の、天はてんてん天しやうの天、文は文無の空財布あきざいふ
枕童児抜差万遍玉茎まくらどうじぬきさしまんべんたまぐき』安永五年(1776)
此春相借家あいしやくやの小息子、てんしやうむべ山の手なぐさミの折節、女房に手をさいたかさゝぬか、無証拠ながら物いゝとなり
時代織室町錦繍じだいおりむろまちにしき』安永十年(1781)
小遣銭こづかひぜになんぼでも、とみふだ福引ふくびきとに仕揚しあげて仕舞しまひ、女子をなごたてら手先てさきうごいて、天せうと言へばめしより好で人一番ひといちばん、モヽヽ愛憎あいそもこそもきたに依つて、あいつがまめつんは突貫つきとほさぬが、此方様こなさんへの心中しんちゆうじやはいの
(中略)
娼妓やまで有ろが、藝子げいこで有ろが、お家様いへさんでも娘でも、いま世界せかい天正てんしやう夜移やうつかゆさへかぬはいのう
千字文せんじもん』安永末〜天明初年
テンセウビリガケのヲサナ遊ひが用に立て。檜舞台の所作事と変じ。博席によつて大にタクラレ。後には中々遊ひ所ではなく鉄火の地獄のくるしみをうけ。

これまでに紹介した資料には、不思議な共通点が有ります。まず第一に気付くのは、ほとんどの資料が明和の中頃から安永天明期に出版、あるいは成立したと考えられている点です。これは「めくり」の登場、流行期にほぼ重なります。更に各資料の成立について詳しく調べると、これまたほとんどの資料が、版元が上方(主に大阪、京都)であったり、作者が上方の人物である等、いわゆる上方版と考えられる点があげられます。この事は同時に、これらの作品の主な読者が上方の人達で有った事をも意味します。更にこれらの文献に見られる「てんしょ」「天正」に関して、その意味、内容に関しての説明的な記述が全く存在しません。従って現代の我々がこれらの文章を読んでも、そもそも「てんしょ」「天正」とは一体何なのかがさっぱり解らない訳ですが、逆にこの事実からは当時の主に上方の読者にとっては「てんしょ」「天正」が、あえて説明する必要の無い、良く知られた存在だったという事が推測されます。

一方、数は少ないですが江戸版の作品の中にも「天正」が登場する物が幾つか有りますので、それらについて見てみましょう。

当世繁栄通宝とうせいはんえいつうほう』天明元年(1781)
きんふくりんのくらおいた馬ハ青馬とへんじてもふせんの上へのぼり天正むせうにしやうぶをあらそひそれ天正めくりハ天地の利をひやうしまつ持たる札はこれ則天なりめくるハ陰陽いんやう和合黒札にまくハこんとんいまたわからざるかたちなり二人さしでうつのハ夫婦にたとへ手に持ッてめくるハ國をわかつ三人ミつにうつのハ天地人の三才なり七まいツヽまくは七ようはぐん場札六まいハ六氣をわかつはしめてん石ハ高きにありばんことなりて座中の目じるしとすこれ北極星なり相手のてん石はわりかへしの中に入りてミへすこれ南極星なりかつたるまへにハ碁石の須彌山あり金札の日輪あり白石の月輪あり石の白黒は晝夜にたとへ四人は東西南北五人は則木火土金水の五行なり一より十二まてハこれ月のかすなり鬼を添るハ壬也かく天地の利にかないたれハとてミなあてじまいなりミたりにうつべからす

ここでは「天正」の文字に「めくり」とルビが振られています。つまり「天正」と「めくり」は同じ物だと見なされている訳です。次の資料もこれを裏付けています。

笑の種蒔わらいのたねまき』天明九年(1789)
病気見立
道楽とうらくもの、しきりに虫をやミ、医者をよぶ。医者、脉を見て、此病ハ有り来りの虫と違ひ、ぞく天正と申やまひなるが、誠は四十八めくりと申やまひなりといへば、女房道理で、かぶるかぶるといゝやす

この様に江戸版の資料では、上方版と反対に「天正」の意味を説明するような記述内容に成っています。これは江戸の読者にとっては「天正」という技法があまり知られていなかった為、その意味を説明する必要が有ったからだと考えられます。そしてその内容としては、「天正」と「めくり」を同じ物であると説明しているようです。
 更に、次の資料からは「天正」と「めくり」の、より詳しい関係が明らかに成ります。

記原情語きげんじょうご』安永十年(1781)
専世もつはらよに時行はやるめくりはせいといふ物より出てもとは上方のもの也それをあづまにてつくなをせしあく七嶋といふ書の四の口に須藤吾すどうごがいわくせいぼん屋をしてもとるとはめくりのてらをするといふ事也かつ又かるたをつくれる人は坂の上の田村麻呂が父従三位左京大夫けん右衛士うゑいしとく苅田麻呂かるたまろ也かる田まろつくるゆへかるたといふ金は与右ヱ門か女房かさねか兄金五郎はしめし也

つまり、元々は上方で行われていた技法である「天正」が江戸に伝わり、さらに改良され「めくり」と呼ばれて流行したという訳です。この説は、これまで見てきた資料状況とも辻褄が合っているように思われます。第一に「てんしょ」「天正」に関する文献が、「めくり」の文献と時代的にほぼ重なって登場している点。第二に「てんしょ」「天正」の文献の多くが上方版であり、しかもその内容についての説明が無く、逆に数少ない江戸版の文献が説明的な内容に成っている点。共に合理的に説明が付くのでは無いでしょうか。

当研究室では既に、「めくり」技法が「あわせ」技法を元に成立した事を論証してきました。しかし、どうやら「あわせ」から直接「めくり」が作られたのでは無く、最初に上方で「てんしょ」或いは「天正」という名前の技法として成立、流行し、程なく江戸に伝わり改良され、「めくり」という名称で大流行したと考えるのが妥当かと思われます。しかも資料状況から見ると、「めくり」の流行期と同時期にも上方では「てんしょ」「天正」が一般的に行なわれていたと考えて良いでしょう。

公開年月日 2007/08/13


J「てんしょ」「天正カルタ」について 後編

引き続き「てんしょ」「天正」技法の内容、及び「天正カルタ」の意味に関して検討したいと思います。前節で論証したように「てんしょ」「天正」は「めくり」と同系統の技法であるとすると、一つの有力な候補の名を挙げる事が出来ます。『間似合早粋』や『新版咄会御祓川』に見られる「半めくら」がそれです。わずかな資料ではありますが、その記述内容からは「半めくら」が「めくり」と良く似た技法であり、しかも「てんしょ」「天正」と密接な関係に有る事が伺い知れます。ただし、「半めくら」と「てんしょ」が具体的にどの様な関係に有るのかというと、例えば「半めくら」とは「てんしょ」「天正」の別名、つまり全く同一の物と考えて良いのか、或いは一つのバリエーションと考えるべき物なのかは、既知の江戸期の資料のみから推定するのは極めて困難です。そこで、別のアプローチから見てみる事にしましょう。

別名「テンショ札」とも呼ばれる地方札「伊勢@A」及びこの札を使用する「テンショ」という技法については既に簡単に紹介済みですが、ここでは江戸期の「てんしょ」「天正」との関係について、より詳しく検討して見ましょう。先ず最初に地方札「伊勢」の概要を、『最後の読みカルタ(改訂増補最終版)』(山口泰彦著 帝国コンサルタント 2004年刊)を参考にご紹介致します。

テンショ札(伊勢)と花札
 『テンショ札』は、滋賀、岐阜、三重、奈良、愛知県方面を主な使用地とする地方札で、製造者は『伊勢』と呼称する。また、使用者は『金吾の札』とも呼んだらしい。平成8年6月に飛騨を訪れた時、その生存を嗅ぎ取ったことは先に述べた通りである。『東海のシーラカンス』の異名の通り、広範囲に特有の技法を多種持ち、他の地方札を圧倒している。読み系技法に『ショッショ(ヒヨコ)』『イスリ』がある。
 札の名称及び貫目(貫数)は次の通りである。

「パオ」「イス」「オウル」「コツ」
(1)ドロピン15アカピン5ガスピン1ガスピン1
(2)青二10赤二1太鼓二10ガス二
ネブリの二
1
(3)青ザン3赤ザン1ガスザン1ガスザン1
(4)青四4赤四1ガス四1ガス四1
(5)青五5赤五1ガス五1ガス五1
(6)青六1赤六1豆六10ガス六1
(7)青七7赤七1ガス七1ガス七1
(8)青八8赤八1ガス八1ガス八1
(9)青九9赤九1ガス九1ガス九1
(10)青十10赤十
スルメ十
10ガス十1ガス十1
(11)青馬11赤馬1ガス馬1ガス馬1
(12)青ギリ12赤ギリ1ガスギリ1ガスギリ1
95253012
合計162

「テンショ札」という名称や技法名としての「テンショ」の存在をみても、この「テンショ札(伊勢)」が江戸期の「てんしょ」と深い繋がりが有るのは明白ですが、更に幾つかの点で両者の共通点が見いだされます。先ず上の表をご覧下さい。ここには「テンショ札(伊勢)」における各札の名称と点数が示されています。これを『博奕仕方』の「めくり札」に関する記述と名称、点数を比較してみると、全体的には良く似ていると言って良いでしょう。しかし、特に数標六の4枚の扱いに於いては、両者の間に大きな違いが見られます。「テンショ札(伊勢)」では「オウルの6」にあたる札が「豆六」と呼ばれ高点札に成っており、「青六」は青札の中で唯一1点と最低点と成っています。一方、「めくり札」では「青六」は60点と全ての札の中で最高点であり、逆に「豆六」に該当する札は「すべた(0点)」として扱われています。この点は江戸期の「てんしょ」「天正」に関する資料と一致しています。つまり『新版咄会御祓川』で「豆六」を高点札としている点、『そそう尽しヵ』で「青六」よりも「豆六」を重要視していると見られる点です。こうして見ると「テンショ札(伊勢)」が江戸期の「てんしょ」「天正」から札の名称、点数体系を直接受け継いでいると考えて間違いないでしょう。

教訓身上道中記

次に江戸期の「てんしょ」「天正」と「テンショ札(伊勢)」の関係を別の角度から見てみましょう。右の資料をご覧下さい。

にんげんいつしやう教訓身上道中記きょうくんみのうえどうちゅうき』刊年不明(江戸後期)
かるた山天正
此所四十五まいの札所なり

この「札」が、いわゆる「お寺の御札」と「カルタの札」を掛けているのは明白です。問題は「四十五まい」という記述です。何故、本来48枚である筈の「天正カルタ」が45枚と書かれているのか、実はこの問題を解く鍵も「テンショ札(伊勢)」に有るのです。

「テンショ札(伊勢)」には、48枚の札から数縹6のカス札3枚を除いた45枚で行なう技法が幾つか存在しています。先ずは既にご紹介済みの、その名もズバリ「テンショ」です。しかし、何故45枚なのかというと、45枚でなければならない必然性はハッキリしません。「テンショ」は二人競技のめくり系の技法ですが、各自が「手札6枚」「固有の山札9枚」を持ち「場札に9枚」撒きますので6枚の札が残る事になります。これは「死絵」と呼ばれ競技には使用されません。仮に48枚の札で同じように競技したとしても、「死絵」の枚数が9枚になる以外には特に影響は有りません。

ところでこの「テンショ」技法の形式を、「固有の山札」という共通した特徴を持つと考えられる『新版咄会御祓川』の「半めくら」に当てはめてみるとどう成るでしょう。手札、山札に関しては 「半めくら」の内容についての検討の中で、各自に「手札6枚」「固有の山札6枚」と推定しました。場札の枚数に関しては記述が無いので、「テンショ」に倣って「場札に9枚」としておきましょう。「半めくら」の競技人数は不明ですが、仮にめくり技法の基本人数である「三人」としましょう。すると、使用する札の合計は(6枚+6枚)×3人+9枚=45枚と成ります。つまりこの「仮想半めくら技法」のシュミレーションでは45枚を使用する必然性が有ると言える訳です。これは単なる偶然なのでしょうか。

「テンショ札(伊勢)」には「テンショ」以外にも45枚の札を使用して行なわれる技法の存在が、幾つか確認されています。読み系技法の「ショッショ(ヒヨコ)」、かう(カブ)系技法の「ハンカン(半貫)」、きんご系技法の「四一(金吾、ドサリ)」等です。これにめくり系技法の「テンショ」を加えますと「江戸カルタ」の主な技法全般にわたっている事に驚かされます。しかし、これらの技法の場合も「テンショ」と同様に、特に45枚で行なう必然性が有るようには思われません。これら一連の45枚使用技法は、ルール上の必要性からでは無く、45枚使用という形式上の伝統、つまり江戸期の『教訓身上道中記』に記された「天正」の「四十五まい」の系統を受け継ぐものと考えて良いでしょう。そしてその45枚系統の大元と成ったのは、もしかすると前述の「仮想半めくら技法」なのかも知れません。何れにせよ現代に伝わる「テンショ札(伊勢)」が、江戸期の「てんしょ」「天正」と密接な関係に有るのは間違い無いでしょう。むしろ直系の子孫と呼んでも良いのかも知れません。

ところで、この「テンショ札」という呼び名は、江戸後期の資料に既に見られます。

忠義墳盟約大石ちゅうぎづかちかいのおおいし』寛政九年(1797)
次は仲居なかゐが五六両。片手かたてひろけたてんしよ札よいあげ手とはどふであろ。それは只今法度はつとなり。
(中略)
片手かたてに小判八九両。讀骨牌よみがるたとはどふであろ。それも合せの嵌句はめくなり。さりとはふるいなら古い。

それでは「てんしょ札」とは一体何か。それは「てんしょ」に使用する札という意味に外なりません。これは「めくり」「きんご」に使用する札を、それぞれ「めくり札」「きんご札」と呼ぶのと全く同じ用法です。

咲分論さきわけろん』安永(1772-1781)頃
下部しもべのもてあそぶふるきめくり札を取出し散々さんざんうちちらし
『あふ夜』宝暦元年(1751)
淀塘はるかに引しきん五札

又、「めくり札」「きんご札」は「めくりカルタ」「きんごカルタ」と呼ばれる事も有ります。前者が主に戯作や川柳といった文芸作品で一般的に使用されるのに対し、後者は御触書や御仕置例といった公文書や随筆等の特殊なケースに使用される事を考えると、「○○札」が日常的な呼び方であり、一方「○○カルタ」は少々改まった呼び方と言えるではないかと考えられます。

『俗耳皷吹』天明八年(1788)
鬼娘のみせものありし時
 きみをめくりの、鬼のみせものメクリカルタの札に鬼あり。
『半日閑話』江戸後期
安永三年甲午
此節、町々めくりのかるた御制禁つよし
松濤棹筆しょうとうとうひつ』江戸後期
源孝世子(朱書「治休」)はしめて御入国(朱書「安永元壬辰四月十六日御着城」)のとし、五月十八日の馬のトウといふに、町家の者とも此君をなくさめ奉らむとて、さまざまの趣向をして馬のだしといふものを作りて御覧に入れ候。世子ハ御下屋敷の御物見にて御覧せさせ玉ひしか、ある町より馬のダシにキンゴといふカルタ二枚を大きくこしらへ、さて御覧所ニてハ、カルタの勝負をする処をなしけれバ、世子あれハ何をするものそと近侍の臣にとハせ玉ひけれハ、近侍の臣あれハ貴人の御覧すへきものにあらすと申せしかハ、とかうのことハの玉ハずして、御手水との玉ひて其座を立せ玉ひて御覧せさせ玉はす、又其業をせしものもとがめ給ハさりけり。其御進退の図にあたらせ玉ひし事、見参らせ聞つたへ参らせて、ありかたき君徳を賞歎し奉らぬハなかりしよし。稚き比、きゝてよく覚へ居りしと五味所左衛門語れり。所左衛門ハ其比十才斗にておさな心にても、かのキンゴの馬のダシハよく見覚へたりしと語れり。
御触書おふれがき寛政三年辛亥年』寛政三年(1791)
  奈良屋ニ去戌年年番名主被申渡
 きんこかるた
 よみかるた
 めくりかるた
右三品実は博奕ニ相用候かるたニ相違無之候ハヽ、其段被申聞候事
  亥正月

このように見て来ますと、いよいよ「天正カルタ」という名称の意味がハッキリして来るかと思います。最後にもう一度整理しておきましょう。つまり本来の「天正カルタ」とは「てんしょ札」の別称、或いはその改まった呼び方であり、「てんしょ=天正」技法に使用するカルタという意味に他ならないというのが当研究室の立場です。

ただし、当然の事ながら「天正カルタ」が「てんしょ=天正」技法のみに使用されたという訳ではありません。「めくり札」が決して「めくり」技法のみに使用された訳では無く、「よみ」「かう」「きんご」といった技法にも使用されたのと同様に、当然「てんしょ札」「天正カルタ」も様々な技法に使用されたであろうと考えられます。この事は、直系の子孫とも言うべき「テンショ札(伊勢)」に伝わる多種多様な技法の存在を見ても、疑いようが有りません。そういった意味では、山崎美成が『博戯犀照』で「天正かるた」を四十八枚系のカルタの総称とした記述は、あながち間違いとは言えないかも知れませんが、本来の「天正カルタ」は時代的、地域的に、より限定的な名称であったと考えられます。つまり、時代は江戸後期、地域はおそらく上方中心と考えて良いでしょう。くどいようですが、「天正カルタ」は断じて初期の国産カルタを意味する名称では有りません。

「てんしょ」「天正」に関しては資料数も少なく、同時代の「めくり」の大ブームの陰に隠れて見過ごされていた感が有ります。しかし、この問題は単なる一技法の問題に止まらず、江戸カルタ史を考える上で大変重要な問題を孕んでいる可能性が見えて来ました。明和、安永、天明期の「江戸カルタ」の状況を考えると、少々大袈裟な表現になりますが、江戸を中心とした「めくり文化圏」と上方を中心とした「てんしょ、天正文化圏」が併存していたのでは無いか、という問題提起をもって本節を締めくくらせて頂きます。

公開年月日 2007/09/08

最終更新日 2007/10/24


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