江戸カルタメイン研究室 五頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


G「江戸カルタ」の様々な技法(三)
「せい」「せり馬」「万貫」「青二」「られん」「てんしょ」その他

江戸中期には実に様々な「江戸カルタ」の技法が存在していたようです。しかし、そのほとんどは技法名こそ記録されているものの、その内容は全く解っていません。本節ではそれら謎の技法の数々をご紹介致しますが、その前に次の一文をご覧下さい。

渡世身持談義とせいみもちだんぎ』享保二十年(1735)
左の方には青二高名寺かうみやうしの万九上人とかうしてられんの衣にきんしの袈裟をかけ。鹿しゝつのの四粒の数珠を右の手に持。左の手には金銀のこまをたづさへ。三枚坊主ぼうずなゝ坊の御弟子でしをつれて出現しゆつげんし。先酒事をはじめ数盃すはいをかたふけ。岩井勾当こうとう三味さみをひかせ。しばらくけうじて後。栄塞和尚ゑいさいおしやうのいへるは。我せいの国よりせり馬にのつ此土このどに渡り。どうをたてかわを取上んと。あまねく世界せかいのならずものゝ衆生等をすゝめ四十八枚の札をまきひろめ。釈迦しやかあざの有がたい道をまいてみせ。

カルタやサイコロ賭博の用語を織り込んだ趣向である事はお気付きと思いますが、実はこの中に「江戸カルタ」の技法名が幾つか隠れているのがお解りでしょうか。答えは後程お教えするとして、技法名の確認ができる資料を順番に見ていきましょう。

拾椎雑話しゅうすいざつわ』宝暦七年(1757)序
宝永正徳の間、せいといふかるた多くはやり、此打かた上手下手の有ものにて殊の外面白く、年々好む事さかんに成、老若男女僧俗、昼夜寒暑の弁へなく翫ひ、余り長したる故役所より制せられて相止、元文の頃より一変して青二九と云かるた遊ひ密にあり。

この資料から「せい」「青二九」の二種類の技法名が解ります。「青二九」に関してはこの資料以外には見当たりませんが、後出の「青二」と関係が有るのかも知れません。「せい」の方は他の資料からも確認出来ます。

歌枕棣棠花合戦うたまくらやまぶきかっせん』延享三年(1746)
扨札物ハ手めが上手、三枚一切せいせり馬られん万ぐわん金五ハおろか、下ぬきあざぬきくら事なら

お馴染みの技法「三枚」と「金五(きんご)」の間に聞き馴れない名前が幾つも出ていますが、「せい」も技法名と確認されていますので残る「一切」「せり馬」「られん」「万ぐわん(まんがん)」も「江戸カルタ」の技法名と考えて間違い無いでしょう。「せり馬」「まんがん」に関しては、次の資料をご覧下さい。

天満宮菜種御供てんまんぐうなたねのごくう』安永六年(1777)
是 マア ひ立て見せう 札事といや あわせまんぐわん 読金五 かるたの吹へは綺麗きれいにやるは
正夢後悔玉まさゆめこうかいだま』宝暦十一年(1761)
近所の若ひ物と小ばくちをうちならひ五文天上のきんじがまだるく金五せり馬万貫青二かるた一通りも過

ここで又、芋づる式に新たな技法名候補として「きんじ」と「青二」が出て来ます。この「青二」は札の名称としての「青札の二」を指すのではなく、「江戸カルタ」の技法名と考えた方が良いようです。

傾城阿波の鳴門けいせいあわのなると』明和五年(1768)
コレてこつるとふのはの。れこさの事じやわいのこなたも粋方すいほうの女房なら。ちつと天正てんしよでも覚へそうな物じやがなア。今の世界せかい青二引カぬ者と。お染久松語らぬ者は疫病やくびやうを受ケ取ルといの。

「きんじ(きんし)」については今一つハッキリしないのですが、次の資料が有ります。

諸国落首咄しょこくらくしゅばなし』元禄十一年(1698)
つけめしてこぎにほんとかきとられ
 金糸きんしが銭は三文もなし

「られん」については次の資料が有ります。

浪華獅子なにわじし』明和七年(1770)
天所先生著
羅連 青金吾 輯
馬飼 讀長班 校

ここまで来ると、最初に紹介した『渡世身持談義』の一文に織り込まれた技法名が解るかと思います。答えは「青二」「られん」「きんし」「せい」「せり馬」の五つでした。

渡世身持談義とせいみもちだんぎ』享保二十年(1735)
左の方には青二高名寺かうみやうしの万九上人とかうしてられんの衣にきんしの袈裟をかけ。
(中略)
栄塞和尚ゑいさいおしやうのいへるは。我せいの国よりせり馬のつ此土このどに渡り。どうをたてかわを取上んと。あまねく世界せかいのならずものゝ衆生等をすゝめ四十八枚の札をまきひろめ。釈迦しやかあざの有がたい道をまいてみせ。

次に、先程の『浪華獅子』に戻りますが、気になる点が一つ有ります。「長班」と有るのはおそらく「ちょうはん」と読み、長半又は丁半、つまり偶数奇数の事と考えて良いでしょう。長半と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、サイコロ二個を使う賭博でしょう。しかし他の語を見ると「金吾」「讀」「羅連」はカルタの技法名、「青」は青札の青、「馬飼」の馬はこれもカルタの用語です。或いはこれらも技法名である可能性も有ります。ちなみに「天所先生」の「天所てんしょ」ですが、後述の如くこれも「江戸カルタ」の技法名と考えられます。その中にあって、「長班」のみサイコロ賭博というのは不自然ですので、当然、この「長班」もカルタの技法名ではないかという疑問が涌いて来ます。実際にそれを裏付けると思われる資料が有りますので、ご覧下さい。

教訓世諦鑑きょうくんせたいかがみ』宝永八年(1711)
哥留多かるたと云へる、かず四十八枚あるものをもつて、勝負しやうぶしなをわかつに、はんのかずに、三五七九と、あたるをかちとし、二四六八を、みなまけとす。是ハ哥留多かるたまいをもつて、其てうはんとのしるしを見る。こゝにおいて、かう、おいてう、など云へる、色々のあり、

最後の部分を見ると「かう」の技法の様でもありますが、ここに書かれている「かう」「おいてう(おいちょう)」は、単に9、8の数を表す符牒として使用されているとも考えられます。この技法こそ、「江戸カルタ」を使用する「長半」と呼ぶにふさわしい物だと思われます。

次に、『傾城阿波の鳴門』及び『浪華獅子』に見られた「てんしょ」について考えてみましょう。次の資料をご覧下さい。

正夢後悔記まさゆめこうかいき』宝暦十一年以降(1761-)ヵ
近所の若ひ物と小ばくちをうちならひ五文天上のきんじがまだるく金五せり馬万貫てんしよ先かるた一通りも過

本書は先に紹介した『正夢後悔玉』の異本にあたる物で、少し後の成立と考えられています。内容はほとんど同一なのですが、若干の異同が見られます。両書の引用部分を比べて頂ければお気付きでしょうが、『正夢後悔玉』の「青二」の所が『正夢後悔記』では「てんしょ」に書き換えられていますので、この「てんしょ」も又、他の語と同様に技法名であると考えて良いでしょう。ここでもう一つ「てんしょ」の資料をご紹介しておきます。

間似合早粋まにあいはやずい』明和六年ヵ(1769)
イヤそれよりはおなことざとうのすもふてんしよがはやるによつて半めくらじやと云て当りました

難解な文なので、分かりやすく書き直しますと

女子おなご座頭ざとう相撲すもう、「てんしょ」が流行はやるによって「半めくら」じゃ

 という事に成ります。女子と座頭(江戸時代の盲人の位の一つ、お馴染み「座頭市」の座頭です)の相撲とは、遊里の酒席での少々艶っぽい余興とお考え下さい。片方が盲人なので「半めくら」という訳ですが、実はこの「半めくら」というのも又「江戸カルタ」の技法名の一つなのです。「半めくら」については次節で解説致しますので、ここでは取り敢えず「てんしょ」が明和五年(1768)頃には流行していたという記述にご留意下さい。

『正夢後悔記』に戻って、「青二」が「てんしょ」と書き換えられた理由について考えますと、第一に「青二」技法の衰退が原因として考えられます。つまり技法名としての「青二」が読者に理解されにくく成った為、よりポピュラーな「てんしょ」に置き換えられたと考えると自然に受け止められます。この場合「青二」と「てんしょ」とは別の技法であると考えられます。しかし、少々引っ掛かるのは、この場合は単に「青二」の語を削除すれば事足りる訳で、わざわざ他の技法名をもって差し替える必要性は無いとも言えます。
 別の可能性として「青二」と「てんしょ」とは元々同一の技法であり、名称のみが変化したという事も考えられます。既出の『傾城阿波の鳴門』でも「青二」と「てんしょ」がセットで出て来ていますし、更に注目すべきは、ここに見られる「青二を引く」という表現です。前節で「きんご」に関して「引く」という表現が多く用いられる点を指摘しましたが、実は「きんご」以外で「引く」という表現が使用されているのは「青二」と「てんしょ」に限られるようなのです。偶然として片付けるには、あまりに奇妙な一致と言わざるを得ません。「てんしょ」の方の「引く」の使用例としては次の資料が有ります。

風流裸人形ふうりゅうはだかにんぎょう』安永七八年(1778-1779)
[くに]てんしょひきんか
[小とみ]文かいてしもふてから
[くに]まあゑいわいな

しかし、これとても小さな情況証拠に過ぎませんので、結論は今のところ保留とさせて頂きます。「てんしょ」に関しては更に検討が必要な問題が多く有りますので、詳しくは別稿に譲らせて頂くこととし、最後に一つ、これまでと逆に技法の内容は解っていて、名称の解らない技法をご紹介して本節を締めくくらせて頂きます。

『ツンベルグ日本紀行』安永四年(1775)
 日本人はカルタ遊は余り好きでない。それにこれは政府から厳禁されてゐるのである。時に船中でカルタ遊をすることもあるが、陸では決してしない。
 日本人のカルタは縦二プース横一プースある。紙製で一面は黒く、一面にはごたごたした色が塗ってある。カルタの数は五十枚で、これを数組の山に分け、この上に銭をのせる。遊ぶ人は一人一人カルタを一枚抜いて、これを裏返しにして、一番美しい模様のものが勝つのである。
 この賭博は見らるゝ如くかなり欧羅巴のプチ・パケ(Petits Paquets)に似てゐる。

Carl Peter Thunberg(1743-1828)は安永年間にオランダ長崎商館に勤務したスウェーデンの医師ですが、彼の記したカルタの技法、これは一体何なのでしょうか?
「一番美しい模様のものが勝つ」などという技法が本当に存在したのでしょうか??
 時代的には「めくり」全盛の頃なのですが・・・

公開年月日 2007/06/16

最終更新日 2007/06/30


H「江戸カルタ」の様々な技法(四)
「めくり」「半めくら」

いよいよ、長い「江戸カルタ」の歴史の中で最後の、そして最大の煌めきとも言うべき「めくり」について見てみましょう。「江戸カルタ」にはこれまでも様々な技法の流行、衰退が有ったと考えられますが、大ブームと呼べるものは安永・天明期(1772-1789)の「めくり」ブームを置いて外には有りません。もっとも「めくり」技法の基本的な原理は、江戸初期から存在した「あわせ」技法を継承した物と考えられる点は既にご紹介した通りです。(技法「あわせ」の研究 後編 参照)
 この「あわせ」技法が明和期(1764-1772)の中頃、「めくり」の名称を冠して後、程なく大ブレークした感が有ります。この「めくり」ブームが自然発生的なものなのか、或いは何等かの人為的な要因が存在したかは不明です。全くの憶測に過ぎませんが、「めくり」の登場とほぼ時期を同じくして「ぴん」「すべた」といった新たなカルタ用語が使用され始めている点等を考え併せると、ブームの「仕掛け人」的な人物や集団が存在した可能性も否定出来ません。

「めくり」の誕生時期については「あわせ」についてのページの中で『大の記山寺』に「明和年中」と有るのをご紹介しました。それでは実際にこの時代の文芸作品に「めくり」がどの様に登場いているのか、初期の資料を幾つか見てみましょう。

辰巳の園たつみのその』明和七年(1770)
はやくしまふたら、めくりをうとふ。

おいらも、すそつぎの丁子やで、めくりを打て、六七百まけて、夫からおもての春岡はるおかで、こまが有からまわしたら、半分斗まけはかへつた。

これが「めくり」の初出かと思われます。

両国栞りょうごくのしおり』明和八年ヵ(1771)
▲まためくり
▲いんにやアヲおもしろくでもねいつもの事よ
▲ちよつきりか
ヲヽサしばなげにきれに八百とられた
『よるのすかかき』明和末年頃ヵ(1772)
こと歌骨牌うたかるたはむべにして上品しやうひんめくり声色こはいろ身振みふりして下品げひ

これらの資料を見ると、「めくり」は何等かの説明的な記述も無しに文中に置かれています。つまり、明和期の終わり頃には既に「めくり」は読者達にとって良く知られた存在で有ったと考えて良いでしょう。裏付けとなる資料を一つ紹介しておきます。

我衣わがころも天明頃(1781-1789)
めくりと云物、後には鬼を加へ、鬼入といふ。其後かるた御吟味有之。八町堀山城屋と云かるた問屋入牢。此時鬼入何となく止す。此節皆人の噺に、めくりは米久離にかよひ、又女久離にも通ず。何れにしても米穀高値にして、夫婦離散の前表也といふ。果して段々天氣不順、米穀次第に高値に成り、終には飢饉に及ぶ。天明七年未の頃は小賣百文に三合に迄成たり。此比めくり大に行わる。

この書は市井の出来事について、ほぼ年代順に記述されていますが、この一文は明和五年(1768)と七年(1770)の間に置かれていますので、文末の「此比めくり大に行わる」は明和五年頃の事と考えて良いでしょう。ただし、この「此比めくり大に行わる」というのは、直前に書かれた天明七年(1787)末の状況と読み取れなくも有りません。確かにこの時代(天明七年頃)に「めくり」が流行していたのは間違い有りません。しかし、天明七年というのは正に当書の執筆中の時期であり、その時期における「めくり」の流行というのは周知の事実と言うべきものです。しかも、多くの資料状況から「めくり」の大流行は遅くとも安永元年(1772)頃には始まっていると考えられますので、敢てここで流行を記録すべき必然性は無いと思われます。やはり「めくりの流行」を天明七年の説明と見るのは無理が有ります。従って、明和五年頃迄に「めくりの流行」は始まっており、明和七年以降の文芸作品への登場に繋がっていると考えるのが自然だと考えます。

『我衣』中に見られる「米久離」という記述ですが、これについては他の資料からも確認出来ます。

無量談むりょうだん』明和八年(1771)
博奕ばくち文字もじはひろしともあまねくともよみ釈尊しやくそんの御ちゝ米久離めくりわうより初り其後加賀国かゞのくに熊坂くまさか長半てうはん四国しこく盲人もうじん少暮一ちよぼいちを中こうの開山とす此ころなをも此道のすたらん事をなげ地蔵ぢぞうたの鬼幽霊おにゆうれいを入て凡夫ぼんぶまよひをてらし給ふ仏たちすき給ひしにや末代まつだい尺迦十しやかぢう尊形そんぎやうのこし給ふ
猿の人真似さるのひとまね』明和九年(1772)
貧亭子ひんていしとやらいふものせがれにのんがらの数下手郎すべたらうといへるものあり
(中略)
米久離めくりすけといふ座持芸者ざもちげいしやおりふし隣座敷となりざしきをつとめてたりしが

ところで、ここまで見てきた初期の「めくり」文献のほとんどは、洒落本(主に遊里での遊びの様子を題材にした戯作作品)に分類されるものです。もしかすると「めくり」ブームの発信源、震源地は吉原や深川といった遊里だったのかも知れません。

『我衣』中の「鬼を加へ」というのは、いわゆる「鬼札」の事でトランプのジョーカーの様な物です。もっとも西洋でジョーカーが出現するのは大分後の事ですので、世界に先駆けての発明と言えます。『博奕仕方』にはこの「鬼札」に関する記述が有りませんが、「めくり」ではこの「鬼札」及び「幽霊札」と呼ばれる札も使用する場合が有ったようなのですが、『無量談』 の記述を見ると、この頃には既に使用されていたと考えて良いでしょう。

この「鬼札」「幽霊札」の使用不使用の問題に限らず、一言で「めくり」と言っても唯一の統一ルールが存在した訳では無く、時代、或いは地域によるルールのバリエーションは存在しました。前節で簡単に触れた「半めくら」も「めくり」のバリエーションの一つと考えられますが、幸運な事に、技法の内容を推測出来る資料が残されています。

『新版咄会御祓川おはらいがわ』寛政元年(1789)
座外 春の雨

さるお大名、いつころよりかお氣すぼれ、弓馬のお慰もなければ一家中の心遣ひ、何がなと思へど、茶湯ちやのゆかうなどは愈々お氣の障り、亂舞音曲も「度々は騒がしい」との御意、家中いろいろ評議の上、珍らしきお慰ありと御前へ出「サテ殿様には未だ御存じ游ばされぬ一と品、コレハ下々しもじもに慰みまする、天正てんしやうがるたと申しまして、マヅ半目くらと申すが手に六枚持ち、下に六枚、中の札とあはして勝負を爭ひます、尤も札の高下はマヅあざが突通し五万、だいぎりさゝうま、釋迦の十、其外あを二、まめ六、是が凡三万二万と、悉く申しあげければ、殿こし召され「如何さま面白き事ならん、しかし勝負とあらば、家老共とも評議の上の事さ」「イヤお慰の義で御座りますれば、はばかりながら夫には及びますまい」「いやいやおほよそ札高ふだたか十四五万もあれば、おれが知行とは釣り合はぬ」

ここで使用する札を「天正がるた」と呼んでいます。現代では通常「天正カルタ」という名称は、安土桃山時代から江戸時代初期の国産のカルタを指して使用されています。しかし、実際にはこの名称はその時代にはもちろん、江戸中期までの文献には全く出現しません。文献上に見られるのはおそらくこの資料が初出ではないでしょうか。「天正」「てんしょう」のみで見ても安永期以降の出現のようです。この「天正がるた」は、前節で既出の『間似合早粋』の「てんしょ」に相当しています。

間似合早粋まにあいはやずい』明和六年ヵ(1769)
イヤそれよりはおなことざとうのすもふてんしよがはやるによつて半めくらじやと云て当りました

「天正カルタ」「てんしょ」「てんしょう」の問題は別稿にて検討する予定ですので、ここでの深入りは避け、次に札の点数について見てみましょう。

最高点は「あざ」の五万点、「だいぎり」「さゝ馬」は不明ですがおそらくそれぞれ「青切」「青馬」を指すのではないかと思われます。その他「釈迦十」「青二」「豆六」がそれぞれ二万点から三万点と成っています。『博奕仕方』やその他の資料と比較すると、この万単位の点数は少々奇異な感じも受けますが、あくまで単位の問題ですので、実際の競技には何の不都合も有りません。
 ここで注意を引くのは「豆六」(「オウル」の6の札)が高点札に加えられている点です。「豆六」は『博奕仕方』の記述によれば無点札、つまり「すべた」の扱いですので明らかに別の点数体系で有る事が分かります。この様に「豆六」を重用する点数体系は「てんしょ」「てんしょう」系の技法と密接な関係が有るようです。

そそう尽しヵ』刊年不明(安永以降ヵ)
かんうちくすりぐいに鹿ろくをくへといふことじやがあを六よりハまめ六ほうきゝかよからふ

ひとりてんしやうさしやる

次に、いよいよ「半めくら」技法の内容の検討に入りますが、その前に標準的な「めくり」技法の内容を整理しておきましょう。「鬼札」「幽霊札」入れない場合、使用する札は48枚で通常三人での競技となります。手札は各自に七枚ずつ、場札に六枚のいわゆる「手七場六」で残り二十一枚が山札となります。
 それでは「半めくら」の説明を見てみましょう。技法の説明部分は「手に六枚持ち、下に六枚、中の札と合して勝負を爭ひます」という事ですが、簡潔過ぎてハッキリとした内容は断定出来ませんが、二通りの解釈が可能かと思われます。

第一の解釈ですが、先ず「手に六枚持ち」というのは手札六枚と考えて間違い無いでしょう。「下に六枚」というのを場札六枚ととると、「中の札」は山札という事になります。つまり「手六場六」で、あとは「めくり」と同様にプレイすると考えると最後に三枚残る事に成ります。標準の「めくり」と比べると一見不合理に見えますが、ゲームのルールというものは何も全てが合理的であるとは限りませんし、その必要性も有りません。しかし、この解釈に問題が無い訳では有りません。「めくり」系の技法の基本原理は手札と山札を「場札に合わせて」取るというものですが、「中の札」が山札だとすると「中の札と合して勝負を爭ひます」という文章は少々不自然に感じられます。そこで、もう一つ別の解釈も検討して見ましょう。

手札六枚は同じですが、「中の札」が場札を指すと考えるとどうでしょうか。この場合、「下に六枚」を「各自が下に六枚持つ」と考えられないでしょうか。つまり各自が自分専用の山札を持つ訳です。そうすると、実質的には各自が十二枚の札を所有する訳ですが、その内半分の六枚が手札で、当然絵柄を見る事が出来ます。残り半分の六枚が場札で、おそらく裏向きに伏せられ、どのような絵柄か分らないと考えられます。この様な状態は正に「半めくら」という名称にピッタリ合致していると言えないでしょうか。そして手札、山札を中の札(場札)と合わせると考えると「手に六枚持ち、下に六枚、中の札と合して勝負を爭ひます」という文が自然に受け取れると思われます。

それでは、この様な形式の技法が存在した可能性を支持する資料は有るのでしょうか。結論から言いますと、有ります。抜粋して引用しておきます。(注1)

(前略)
親は、花札の中から桐の素札三枚を抜き、残り四十五枚をよくつゝいて、場に先づ三枚を浮かし、次に場の或部分へ、三枚宛四組を四角に四ヶ所伏せて列べるのである。次に又三枚を場に浮かし、更に三枚宛を右の四組の上に加へ、最後に又三枚を場に浮かし、同時に右の四組の内の二組(普通は斜に相対せる二組)へ三枚宛追加へるのである。即ち、場には九枚を撒き、別に六枚宛二組と九枚宛二組とを分けるのであって、各自は其内の六枚と九枚との各一組を引き、六枚の方を手札として手に持ち、九枚の方を「床絵トコヱ」として下に伏せ、その以外のものは「死絵シニヱ」として場から除け置き、それから勝負に移るのである。
 勝負は先づ親の方から、最初に手札一枚を捨て、或は「床札」を一枚起し、場札と其絵を合せる上、合ふ札は手元に取り置き、親から子、子から親と交互に、之を繰返し、最後に場に残った札は、「死絵シニヱ」として除け、各自の「取リ札」を計算して、勝負を決するのである。
(後略)

司法資料第121号『賭博に関する調査』 司法省調査課 昭和二年

競技人数や使用枚数等の違いは有りますが、技法の基本的な構造が一致しているのがご理解頂けるかと思われます。そして、この技法の名称は何と「テンショ」と言います。又、ここでは花札を使用する方法が記録されていますが、本来は「伊勢」と呼ばれる地方札(注2)を使用する技法で有ったようです。ただし「伊勢」という名称はカルタの製造者側が使用する商品名であり、実際の使用者(主に東海地方で使用)の間では主に「テンショ札」と呼ばれていたようです。

またしても「てんしょ」の登場です。これまでも度々出て来た「てんしょ」ですが、詳論は保留してきました。しかし、いよいよ真正面から取り組むべき時期が来たようですが、長く成りましたので次節での検討をお約束し、本節を締めくくらせて頂きます。


(1)これ以外に同様の「固有の山札」を持つ技法に関して、江戸カルタ掲示板にて、たけるべ様より「大分臼杵のバカ花」「奈良大仏前の花札」の二点をご教示頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。
(2)地方札に関しては、詳しくは『最後の読みカルタ(改訂増補最終版)』(山口泰彦著 帝国コンサルタント 2004年刊)やウェブサイト『ギャラリー 花札』をご参照下さい。

公開年月日 2007/07/08

最終更新日 2007/08/13


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