今回考察の対象とするのは“笹屋カルタ”という、かなりピンポイントなテーマです。
最初に江戸時代のカルタ屋について概観します。ここで言うカルタ屋とはカルタ札の製造者、つまりメーカーを意味しますが、当時のカルタ屋としては“松葉屋”“布袋屋”そして今回取り上げる“笹屋”が有名です。というよりこの三者以外のカルタ屋に関しては資料が乏しく、殆ど実情が判っていません。
@松葉屋
松葉屋の資料上の初出は次のものです。
この文面だけからではカルタとの関連が判り辛いのですが、実際には挿絵にカルタの遊戯風景が描かれていますので、そちらをご覧頂けば一目瞭然でしょう。
次に、この時期の松葉屋の所在地が判る資料です。
松葉屋が、歌かるた所井上山城の別号と考えられる事に関しては『祢覚譚』の稿で触れていますので、そちらも併せてご参照下さい。
松葉屋の所在地が京都だったのは、まず間違い無いでしょう。
松葉屋カルタの登場する有名な文芸作品としては、井原西鶴の浮世草子『好色五人女』の名が挙げられます。
既に松葉屋の名が広く人口に膾炙していたものと考えられます。しかし、資料の総数は意外に少なく全部で10点にも満たず、しかも主に江戸初期に集中していますので、松葉屋の全盛期は江戸初期であったという印象を受けます。但し一番新しい資料は次の雑俳ですので、少なくとも江戸中期迄は存続していたものと考えられます。
A布袋屋
江戸初期から中期に掛けて、最も頻繁に登場するカルタ屋が布袋屋です。初出は松葉屋よりも少し早い延宝六年(1678)の誹諧です。
布袋屋の所在地を具体的に示す、一番古い資料は次のものです。
又、“布袋屋”の名前こそ出ていませんが、延宝六年(1678)刊の『京雀跡追』に次の記述が有り、五條橋通りの町並みを描いた挿絵にカルタ屋らしき店舗が確認出来ます(右図、クリックで拡大)。
この絵の右半分は扇屋。左側がカルタ屋です。店内の衝立に“かるたや”の文字、“太鼓二”の札の絵と共に“布袋和尚”らしき姿が描かれていますので、恐らくこれは“布袋屋”の店先の風景を描いたものだと考えられます。だとすれば、遅くとも延宝年間には京の五條橋通りに店を構えていた事になります。
元禄三年(1690)刊の『人倫訓蒙図彙』巻五「嘉留多師」の項の挿絵にも、暖簾の部分にカルタ札を持った僧形の人物が描かれていますが、明和六年(1769)刊の『絵本富貴種』のカルタ屋の看板の絵柄と比較すると、これも“布袋和尚”だと確認されます。これらの絵柄は全て布袋屋に関するものと考えられます。
井原西鶴も『好色五人女』の翌年の作品『懐硯』の中に布袋屋カルタを登場させています。
その後、布袋屋は数多くの資料・文芸作品に登場し、総数は20点余りに及びますので、布袋屋カルタが江戸初期から中期におけるトップブランドであったのは間違い無いと思われます。布袋屋に関する一番年代の新しい資料は、先程の『絵本富貴種』です。
松葉屋の名の出る最後の資料とほぼ時を同じくして、布袋屋の名も姿を消します・・・。
B笹屋
続いていよいよ問題の笹屋ですが、初出は貞享元年(1684)刊の『俳諧引導集』で、布袋屋・松葉屋と共にその名が挙げられています。
初出年としては布袋屋や松葉屋には少し後れるものの、かなり早い時期から名の知れたカルタ屋だったと考えて良いでしょう。
笹屋の名前の登場する資料はさほど多くは無く、全部で7点のみですので本稿の中で全てお示し致します。尚、笹屋に関しては松葉屋や布袋屋の様にその所在地を直接示す資料は見当たりません。
資料上で笹屋の名前が最後に確認されるのは文芸作品では無く、江戸の小間物問屋組合の記録『十組仲間控』の安永三年(1774)の記事です。これに関しては後述します。
以上の資料状況の分析から読み取れる事、及び疑問点を思い付くままに箇条書きします。
前述の如く、笹屋の所在地を直接示す資料は見当たりませんので、文芸資料等の記述から推測するしかありません。この件に関しては、江橋崇氏が『かるた』の中で次の様に述べられています。
貞享元年(1684)の中村西国『俳諧引導集』で俳諧の作法心得を説く際に、新しい物を付句する例として「今時のかるた屋、布袋屋、松葉屋、笹屋、是等の類」を例に挙げており、“笹屋”が“ほてい屋”“松葉屋”に並ぶ京都の有名店であったことが分る。正徳元年(1711)の雑俳本『新板花ばたけ』にも「薮入りは笹屋骨牌も一夜まで」とある。以前には“笹屋”は江戸のカルタ屋という理解があったが誤解である。江橋 崇『かるた(ものと人間の文化史 173)』(法政大学出版局 2015年 pp.104-105)
笹屋が江戸に有ったという説が最初に唱えられたのが、何時、誰によるものだったのかは判りませんが、比較的早いものとして山口格太郎氏による指摘を引用しておきます。
江戸にも「笹屋」とか「かぶと屋」とかいうかるた屋があったことが、貞享三年(1686)刊の『鹿の巻筆』卷一に見えるが山口格太郎「日本のかるた」濱口博章・山口格太郎共著『日本のかるた』収録
保育社カラーブックス282 昭和四十八年 p.125
私自身、今迄何の疑問も持たずに受け入れていましたが、さすが江橋先生のご指摘は慧眼と思われます。江橋氏は笹屋の所在地に関して「江戸のカルタ屋という理解があったが誤解である。」と、例によって一刀両断に切り捨てておられますが、小心者の当方としてはもう少し裏を取っておかないと安心出来ない為、江橋氏の問題提起に対して自分なりに考えておきたいと思います。
これ迄笹屋が江戸に有ったと考えられてきた根拠は、鹿野武左衛門作の噺本『鹿の巻筆』に有る次の記述に依ります。
アンダーラインの「家業(かぎや)」「笹や」「かぶとや」の部分が、それぞれ“鍵屋”“笹屋”“兜屋”というカルタ屋の屋号の地口と考えられます。一方、当時有名であったと考えられる“松葉屋”“布袋屋”といった京都のカルタ屋の名前が見られません。
作者の鹿野武左衛門は生まれは大阪ですが、話芸者・笑話作者として活躍した舞台は江戸であり、『鹿の巻筆』も江戸版です。従って笹屋を含む三軒は、当時江戸に有ったカルタ屋であろうという推測が成り立つ訳です。しかしこの事を以て、笹屋が江戸に有ったと確定する事は出来ません。
確かに『鹿の巻筆』は江戸版ですので、主たる読者と想定されるのは江戸在住の人達です。従って、地口に使われるカルタ屋の名前は、江戸の人々に良く知られたもので有る事が必要ですが、店自体が江戸に有る必要は必ずしも有りません。単に江戸で有名だったという事ならば 笹屋は勿論の事、鍵屋、兜屋といった店も又、京都や大阪に有った中小のカルタ屋だったとしても一向に構いません。この視点に立った時に答えねばならない疑問は、何故松葉屋や布袋屋といった有名店の名が出ていないのか? という点ですが、その前に笹屋の所在地問題に片を付けておきましょう。
江橋氏は『俳諧引導集』に「今時のかるた屋 布袋屋 松葉屋 笹屋」と列挙されている事を以て「「笹屋」が「ほてい屋」「松葉屋」に並ぶ京都の有名店であったことが分る。」と結論付けられています。これについて、もう少し詳しく考えておきましょう。
『俳諧引導集』の著者である中村西国は、晩年こそ江戸に下りましたがそれ迄活躍していた地は上方であり、『俳諧引導集』も上方版で間違い無いと考えられます。従って『俳諧引導集』の主たる読者として想定されるのも京都を中心とした上方の人々ですので、彼等にとって“布袋屋”“松葉屋”“笹屋”が良く知られた存在だったと考えて良いでしょう。
当時、松葉屋と布袋屋が京都に有ったのは確実ですし、資料状況から見て、少なくとも京都において有名な存在で有った事は疑いようが有りません。従って、笹屋も又京都の有名店だったと考えるのが自然です。しかしこれでは『鹿の巻筆』の問題と同じ事であり、江戸に有った笹屋製のカルタが京都で人気を博していたという可能性も100%無いとは言えません。しかし貞享元年(1684)という時代における京都と江戸との関係を考えれば、文化的、技術的等あらゆる面で京都が優位であった事は疑いようが有りません。ましてやカルタという京都の伝統工芸品において、江戸製品が広く受け入れられた可能性は限りなく0%に近いと思われます。
この様に『俳諧引導集』の示す論証はかなり強力なものと考えられますが、この一点をもって『鹿の巻筆』の示す「笹屋江戸店説」を完全に覆すのは少々強引でしょう。傍証を探って見ましょう。
江橋氏はも一点、笹屋の登場する雑俳を引用されています。
しかし、何故この文脈の中でこれを引用されたのかが解りません。と言うのも本書は江戸版だからです。
笹屋が登場する雑俳が他にも有りますのでご紹介しておきます。
ちなみに、この二点もまた江戸版です。つまりこれらの雑俳は、どちらかというと「笹屋江戸店説」の方に有利な資料だと言えますが、かといって笹屋の所在地が京都だった事を否定するものでも有りません。確実に言えるのは、この時期の江戸に於て“笹屋カルタ”がかなり有名な存在だったであろうという点です。
文芸作品の中に手掛りを求めるならば、最も強力な傍証と思われるのは次に挙げる、その名も『都見物左衛門(みやこけんぶつざえもん)』です。勿論“都”とは京都の事です。
ここにも“布袋屋”と並べて“笹屋”が登場しています。まさか“笹屋京都支店”では無いでしょう。
更に、全く別の視点から考えて見ます。
江戸時代の初期から中期に掛けて、カルタ製造の中心地が京都であったのは疑い様が有りません。又、大阪にも古くからカルタ屋が存在した事が判明しています。
何れにせよ上方がカルタ製造の中心地であったのは間違い有りません。これに対し、江戸後期の状況を窺い知れる記述が意外な所から見つかりました。
安永天明期のめくりブームを支えた、恐らく膨大な数に上るであろうカルタ札の主な供給源は、やはり上方であった様です。更に具体的な例をお示し致します。
以前『祢覚譚』について書いた時に触れた、安永三年(1774)に起きた、江戸のカルタ問屋に対する吟味・入牢事件に関する、問屋組合側の記録です。
この記録から、当時の大手問屋の扱っていた主力商品は笹屋カルタ(笹屋讀かるた)であり、奉行所が摘発のメインターゲットと考えていたのも笹屋カルタだったと推測出来ます。この中に「白木屋彦太郎」の名が有りますので、白木屋が没収されたカルタ(何と4930面)も又、その全て、或いは大部分が笹屋のカルタだった可能性が高いと考えられます。
この件に関して、江橋崇氏は『かるた』の中で次の様に述べられています。
白木屋で没収された約五千組のカルタはすべて「笹屋よみカルタ」であった。「メクリ」流行期の江戸で「笹屋カルタ」が優勢であった一つの傍証である。江橋 崇『かるた(ものと人間の文化史 173)』(法政大学出版局 2015年 p.105)
しかし、白木屋側の記録では没収されたのが全て「笹屋よみカルタ」だったと、直接書かれている訳では有りません(読み落しでしたらゴメンナサイ)。あくまでも『十組仲間控』の内容との関連から類推されるものですが、恐らく妥当な推測であると考えます。
では、白木屋が在庫していた大量の笹屋カルタは、何処で作られた物だったのでしょうか。白木屋の江戸店では事件の発生直後、京都の本店に緊急連絡を送っています。
京都の本店に対して、博奕に使用する(と、イチャモンを付けられそうな)品(つまりカルタ)は、決して江戸店へ出荷しないで下さいという緊急連絡です。つまり、白木屋の江戸店に大量に保管されていた笹屋カルタは、京都から送られて来た製品であった訳です。
もうこの位で十分でしょう。結論として笹屋は京都に有ったと考えて間違いは無さそうです。
最後に『鹿の巻筆』の問題に関する宿題の答えを示しておきます。ここから先はかなり想像が混って来る事は御了承下さい。
『鹿の巻筆』の成立した貞享三年(1686)頃の江戸は、都市機能の整備が進み、人口も増加し、人々の生活も多少は娯楽を楽しむ余裕が生まれていたでしょう。カルタは比較的手頃な娯楽として人気を博していたと思われます。
当時の江戸は京都と比べれば、まだまだ発展途上の地方都市に過ぎません。未熟な地場産業だけでは膨大な人口による需要に答えるのは困難であり、生活必需品であれ嗜好品であれ、上方からの“下りもの”に多くを依存していました。恐らくカルタも又しかり。当時既に江戸のカルタメーカーが誕生していた可能性も有りますが、それだけで江戸の膨大な需要を満たしきれていたとは考えられず、かなりの量を上方からの“下りもの”に頼らずを得なかったと思われます。しかし“下りもの”は上等品、高級品の代名詞で有り、最大の問題は値段です。
ここで当時のカルタの値段について考えて見ましょう。少し時代は下りますが、カルタの値段を知る格好の資料が有ります。
布袋屋カルタ一面の値段は「一匁二分」ですが、これは京都での値段である事にご注意下さい。恐らく京都のカルタ屋は店頭での直売も行っていたと考えられますので、「一匁二分」は布袋屋のメーカー直売価格です。
これを江戸で販売するとするならば、間に問屋、小売商を通す事になり、かなりの中間マージンが掛かります。更に運送コスト、商品の破損によるロス等を考慮すれば、江戸での小売値は「二匁」程度と考えるのが妥当かと思われます。当時の金銀の公定交換レートは金一両=銀五十匁で、金一両を現代の8万円と換算して計算すると、「二匁」は3千200円と成ります。これが江戸でのカルタ一面の小売価格です。
驚く程高い訳では有りませんが、現代のトランプや花札の標準的な価格と比べると少し割高です。カルタはあくまでも消耗品ですので、消費者としては少しでも安いに越した事は有りません。
舞台は京都に移ります。カルタの三大メーカーである布袋屋、松葉屋、笹屋にとって、急激な発展を遂げつつある新興都市江戸は、実に魅力的な市場に見えたであろう事は想像に難くありません。しかし江戸進出に対する動機付けには微妙な温度差が有ったかも知れません。先に述べた様に、布袋屋と松葉屋は既に京都において確固たる経営基盤を築いていました。対して笹屋は、そこそこの知名度は有ったものの所詮はNo.3の立場。京都における競争力には限界が有りました。そこで笹屋が選んだ成長戦略は販路の拡大です(多分)。江戸進出、及び江戸で大きなシェアーを勝ち取る事は自社の存続を賭けた至上命令でした(多分)。
笹屋はカルタの品質においては布袋屋や松葉屋に決して引けを取らない自信が有りましたが、ネームバリューの点では太刀打ち出来ません。そこで経営戦略会議で出された結論は・・・出来る限り価格を抑える事、つまり薄利多売戦略です。
舞台は江戸に替わります。今や江戸のカルタショップ(架空です)には各種のカルタが並んでいます。
「頼もう〜」
これはこれはお武家様、今日はどんなご用向きで?
「シッ、声が高い。実は我が殿が最近下々に流行のカルタとやらをご所望されておるのだが、そのカルタとやらには色々と種類が有るのか?」
はい、お武家様にはこちらの松葉屋カルタが宜しいかと存じます。京下りの最高級品で御座います。
「左様か。ふむ、松葉屋カルタなら耳にした事が有るぞ。これならば殿もご満足であろう。一つ貰おう。」
毎度有り難う御座います。代銀二匁になります。
「結構するのだな。ツケには成らぬか?」
成りません。
「それではいたしかたない。ところで外聞も有るゆえ、この儀はくれぐれも内密に頼むぞ。」
勿論で御座います。万が一お殿様にご迷惑が係りそうな時には、内部文書を改ざんしてでもお守り致しますのでご心配無く。
「ごめんよー 亭主は居るかい?」
おや、これは棟梁、お久し振りに御座いますな。
「おう、ここんとこ大きな普請が続いて忙しかったもんでな。ところがこの雨だ。仕事になりゃしねえってんで若い者を集めてカルタでも打とうって事に成ったんだが、今のが大分傷んじまってるんで一つ新調しようって訳だ。」
たしか旦那は布袋屋カルタをお使いでしたね。同じ物で宜しいですか?
「それなんだが、何でも最近は色々と種類が有るっていうじゃねーか。何かお薦めは有るかい?」
それではこの笹屋カルタは如何でしょう。京ではちょっとは名の知れたカルタ屋で御座います。
「どれどれ、おっ、中々出来も良いじゃねーか。いくらだい?」
思い切り勉強させて頂いて、一匁五分になります。
「そりゃあお買い得だ。気に入った、これからは笹屋カルタを贔屓にするぜ。二面貰っていこう。」
毎度有り難う御座います。
「おーい、おやじは居るかい?」
おや、八っつぁんに熊さんじゃないかい。何の用だい?
「何の用だいじゃねーだろ。お客様に決まってらーな。カルタは有るかい?」
うちはカルタショップですから。で、どんなのをお探しで?
「安いやつ!! 質流れでも構わねーけど。」
そんな物は置いてませんよ。じゃあこの辺のはどーだい。どちらも一匁ポッキリだ。
「そりゃ安いな!! どれどれ・・うーん、作りはちゃちだがどうせすぐ駄目になっちまうもんだ。この兜屋カルタを一つ貰おうか。」
「じゃあ俺はこっちの鍵屋カルタとやらを頼む。ところで、どんな訳有りでこんなに安いんだい?」
私も詳しくは知らないんだがね、何でも上方の零細カルタ屋だとか、京下りの職人が江戸で開いた店だとか噂されてるよ。
「ふーん、まあ安けりゃどーでもいいんだけどね。ところで熊公、ちょっと小腹が空かねーか? 大分予算が浮いた事だし、帰りに蕎麦で小半(こなから・酒二合五尺の事)ばかりやらかそうじゃねーか。」
「合点承知之助。」
おやおや、全くお前さん達ときたら真っ昼間から・・・まあ好きにおし。ところで何時も言うようだが、決してバクチはならんよ。
この様な具合に江戸でのカルタシェアーの棲み分けが生じました。ブランド志向・高級志向の強い富裕者層は松葉屋カルタや布袋屋カルタを選びましたが、それは江戸の人口のほんの一握りにしか過ぎません。
多少の見栄は有るものの、しっかりとした経済観念も兼ね備えている中間層が妥協点として選んだのは笹屋カルタでした。一方、見栄っ張りではあるものの、兎にも角にも先立つものが無い八っつぁんや熊さんが選んだのは、得体の知れない兜屋カルタ・鍵屋カルタでした。つまり江戸の人口の大多数を占める、中下層の人々に選ばれたのが笹屋・兜屋・鍵屋のカルタだった訳です(という事にしといて下さい)。
これで『鹿の巻筆』に布袋屋、松葉屋の名前が登場しない理由がハッキリしました・・・なんてね。
さて、妄想はこの位にして現実に目を向ける事にしましょう。事実関係を整理すると
これらの資料事実から浮かび上がって来るのは、あくまで江戸という地域に限れば、江戸時代初期から一貫して“笹屋カルタ”がカルタ需要の中心を占めていたのでは無いかという考えです。これは妄想では無く、仮説です。