江戸カルタメイン研究室 十七頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


◎『絵本池の蛙』の挿絵に関する江橋氏の見解に対する批判

【1】江橋崇氏のサイト『日本かるた文化館』について

平成三十年の夏、我が国のカルタ研究史に残る大事件が起きました。江橋崇先生によるWebサイト『日本かるた文化館』の開設です。開設を心からお慶び申し上げます。
 『日本かるた文化館』は間違い無く我が国のカルタ関係サイトの決定版であり、カルタ全般を網羅する内容はまさに唯一無二のものと言って良いでしょう。このサイトが多くの方々に閲覧され、カルタに関心を持たれる方が少しでも増える事を切望してやみません。今まさに、長い間ほとんど陽の当たらない日陰の身であった我が国の“カルタ研究”に、一筋の希望の光が差した思いです。心から感謝申し上げます。

もう一点感謝申し上げたいのは、サイト内の随所に於いて拙サイト“江戸カルタ研究室”の内容に対して言及して下さっている点です。一介のアマチュア研究者である当方に対して、これ程多くの貴重なご批判を頂けるとは思ってもいませんでしたので、感激と恐怖に打ち震えております。これも、幸いにも先生がWebサイトという媒体を選ばれた事によって、論文や書籍の様に紙数や文字数を気にする必要が無くなった事の恩恵でしょう。今後も歯に衣着せぬご批判を頂ければ光栄に存じます。
 とは言え、当方も研究者の端くれとして、名指しで受けた批判に対しては真摯にお答えするのが義務であり、礼儀であると考えておりますので、拙サイトで順次再批判させて頂くつもりです。特に『絵本池の蛙』に関する問題は、当方からの問題提起に対して詳細にご批判下さったものですので、こちらも力の限り再批判させて頂きます。

【2】『絵本池の蛙』問題の経緯

江橋氏の論文は、サイト大目次の「2ー4 江戸中期の読みカルタ遊技」の項内の小目次「五 読み遊技の絵画史料、『繪本池の蛙』」に掲載されています。論文は四つの章に別れており、当方の記述も概ねこれに添って述べていきます。最初の章のタイトルは
「(一)宮武外骨がカルタ史研究に投じた好史料『繪本池の蛙』」です。

ここで江橋先生は、カルタ研究に於ける“絵画資料”利用の重要性、有用性をご自身の体験を交えながら述べられ、更に“絵画資料”に接する際のご自身の姿勢を明確に示されています。次の一文にその姿勢が良くまとめられているかと思いますので、サイトから引用させて頂きます。(尚、以降の緑字の部分で、特に出典の記述が無いものは、全て『日本かるた文化館』からの引用です。)

こうした研究の際に心がけていたのは、先入観なしに絵画その物を見ることである。所蔵者の付けた名称や、あるいは以前から伝来する名称などは一応判断の外に置いて、絵画そのものを見つめ、その絵画自身が語り出すのを待つ。こうした手法で過ごしてきた。

理念として、大変立派な態度だと思います。決して皮肉などでは有りません。私自身も含め、あらゆる研究者が心しておかねばならない至言だと思います。しかし、問題はそれを如何に具体的に実践していくかという点です。実際問題として自分の先入観を完全に捨てて対象に向き合うのは、何と困難な事か・・・。

私自身は絵画資料を見る時に少し違う視線を心掛けています。カルタ資料としての絵画資料(文献資料もそうですが)は、現物のカルタ遺物や版木等とは違い、それを描いた(書いた)人間というバイアスを通して表現されたものです。カルタ遊技図に関しても、それを描いた絵師の存在を無視する事は出来ません。
 特に江戸中期以降、『絵本池の蛙』の挿絵を描いた西川祐信等、当時の絵本や戯作の挿絵を描いた絵師は、今の感覚での画家や芸術家では有りません。狩野派の絵師の様にパトロンの庇護を受けていた訳では有りませんし、尾形光琳や伊藤若冲の様に、元々いいとこのボンボンの道楽でも有りません。彼等の立場は、出版業界の一部分を担う“画工”という職人の一人に過ぎません。彼等にとって“絵”とは生業(なりわい)であり、飯の種です。
 では作品の製作にあたって、彼等の目線は何処に向いていたのでしょうか。先ずは版元です。何せ、版元に気に入られねば仕事が貰えません。次に読者。絵の評判が悪くては、やはり次から仕事を貰えません。いかに人気絵師の西川祐信と言えども、基本的には同じであったろうと推測します。彼の目が向いていたのは同時代の人々であり、数百年後のカルタ研究者に向いていた筈は有りません。
 つまり、絵画資料を見る際には絵画その物をじっくりと観察する事も重要ですが、同時代の読者の目にどの様に映り、どの様に受け取られたかという視点を欠いた理解では片手落ちだと考えます。

以上が絵画資料に接する際の、当方の基本的立場である事を最初に申し上げておきます。

続いて江橋氏は、宮武外骨が『賭博史』で紹介した『絵本池の蛙』について触れた後、次の章「(二)『繪本池の蛙』の画像は合せカルタ遊技の場面」に入ります。

『絵本池の蛙』

以前当サイトに於て、江橋崇先生の著書『ものと人間の文化史173 かるた』(以下『かるた』と略させて頂きます。)の内容についての幾つかの疑問点を示しました。その一つが183ページに掲載の挿絵であり、何故かそこには右図から上部の文字部分

二子にこ/\と三子さんこにちかきよみがるた
青二あをにひねれバおかわ二なりけり

を削除した絵柄のみが示され、「「合せ」の遊技(『絵本池の蛙』延享四年)」という説明が記されています

今回気付いたのですが、当方では『絵本池の蛙』の刊年を『国書総目録』や『古典籍総合目録』に従って“延享二年”としていますが、江橋氏は“延享四年”とされています。“延享四年版『絵本池の蛙』”の存在は確認していません。恐らく江橋氏は、出典とした宮武外骨の『賭博史』の記述にそのまま従ったものと思われます。

この挿絵に対応する本文は、次の通りです。

 2「合セ」遊技の消失
江戸時代前期に「ヨミ」と人気を競っていた遊技法の「合セ」は、この時期になると人気を失い、消滅していった。「合セ」は四十八枚のカードを用いるトリック・テイキングの遊技であり、同種のものは世界各地にあり、ゲームとしては十分に興味深いものであるから、これが江戸時代中期の日本の社会で嫌われた理由はよく分らない。いずれにせよこの時期からこうしたトリック・テイキングの遊技が一部に例外はあるものの日本のカルタ遊技から消えたことは確かである。

江橋崇『かるた(ものと人間の文化史 173)』
法政大学出版局 2015年 p.183

この文は江戸中期の賭博系カルタの情況を示す文脈の中で、この時期の“よみ”技法の流行振りを紹介した直後に続くものです。

当方が問題視したのは、この記述と挿絵が一般の読者にどの様に理解されるかという点ですが、恐らく次の様な理解になるものと思われます。
 「ああ、“よみ”の全盛期と言われる江戸中期でも、少なくとも延享四年(1747)迄はトリックテイキングゲームとしての“合せ”が存在した事を示す証拠となる資料が有るのだな。」
 と、無批判に受け取るしか出来ない様に見事に構成されています。十分な情報を開示せず、読者をミスリードして行く手法は研究者、著作者として読者に対する背信行為ではないでしょうか。
 まあ、自説に都合の悪い事実にはあえて触れず、都合の良い資料のみによって自説を展開する“エセ論者”の類いは世にいくらでもいますが、まさか一流研究者である江橋先生の取るべき手法とは思われません。

そこで、件の挿絵を(あえてテキスト部分を削除して)「合せ」の遊技と断定的に掲載した真意を正すべく、不遜にも
 (まさか誤記ではあるまいが・・・)
と、茶化してしまった訳です。勿論、当方も江橋先生が何等かの根拠を持って、これを“合せ”だとして掲載されたのだとは思っていました。しかし当初はその論拠が全く示されていなかった為、とりあえず“カマ”をかけて見た訳ですが、今回の『日本かるた文化館』での発表によってハッキリしました。やはり誤記である訳は無く、確信犯でした。

まあ『かるた』には一冊の中に驚くべき量の情報が詰め込まれている訳で、限られたページ数に江橋氏の豊富な知識と論証の全てを詰め込む事など端から不可能な話ですので、或る程度内容の取捨選択はやむを得ません。内容を絞り込む上での江橋先生の御苦労はお察し致します。
 しかし、ここは端折っちゃ駄目な所でしょう。これを“合せ”の遊技とする論証の全てを記する事は無理にしても、せめて上部の狂歌ごと掲載し、“根拠を持って、合せの遊技図と考えられる”等とコメントを記載すれば、後は読者の方の問題ですので最低限の説明責任は果たせたと思われます。残念な気持ちが拭い切れませんが、今回、きっちりとご回答(しかも長文にして、細部に迄わたるご批判)を頂けた事には心から感謝申し上げます。

【3】江橋氏の“合せ”遊技図説を検証する

予めお断りしておきますが、ここからの文章では江橋先生に対してかなり過激、辛辣な表現や、皮肉を交えての批判に成ると思われます。先生ご本人のみならず、不愉快に感じられる方がいらっしゃるやも知れませんが、どうかご容赦下さい。それらの攻撃的な文章は、江橋先生の得意とされるところを真似させて頂いたものです。
 「それにしても大先輩に対して、余りにも失礼ではないか」というご批判に対しては、本稿の後半で改めて弁明させて頂きます。
 批判の姿勢としては、あくまでも是々非々の立場を取るつもりですが、バランス的には是々非々々々々々々々々々位になりそうですが、ご勘弁下さい。

それではいよいよ、江橋氏がこの絵を“トリックテイキングゲームとしての合せ”(以下、単に“合せ”と書いた場合、この“トリックテイキングゲームとしての合せ”を意味します。)遊技図だと断定した根拠を読んでいきましょう。

『繪本池の蛙』の当該のページでは、ページの上部に「二子(にこ)ゝゝと三子(さんこ)にちかきよみがるた 青二(あをに)ひねれば丸二(おかわ)なりけり」という狂歌があり、下部に、男二人、遊女らしい女二人で夜間にカルタ遊技を楽しむ場面が描かれている。

二人の女が何故遊女らしく見えるのかは不明ですが、本筋とは無関係ですのでスルーします。

場面は、右側の男が右手に四枚の札を持ち、女二人が右手ないし左手に五枚の札を持ち、そのうちの女一人がさらに一枚、「オウルの二」か「オウルの三」に見える札を右手に持って打とうとしている。この女は六枚持っていることになる。

左の女が出そうとしている札の絵柄は不鮮明です。もしも祐信がこの札を鮮明に描いていてくれたら・・・と、愚痴っても仕様が無いので見えた侭を述べます。表面左上方に“オウル”らしき丸ぽい印、中央部にも何等かの印らしきものが見え、この配置からすれば手指の陰にもう一つ印が有ると推測されますので、恐らく“オウルの3”の札である可能性が高いと思われますが、確証は有りません。この絵からそれ以上のものを読み取るならば、それは恣意的なものと言わざるを得ません。
 “オウルの2”は当時の挿絵等にも度々登場する札で、一般的には“太鼓二”という別名で呼ばれる事が多い札です。その特徴的なデザインから、かなりの略図であっても比較的容易に識別可能です。二つの円形の印が上下に描かれ、印の一部が重なり合ったり完全に離れた形で描かれる事も有りますが、どちらかの印が左右に大きくずれる事は有りません。この絵を素直に見る限り、どう見ても私には“オウルの2”には見えないとしか言いようが有りません。
 何故江橋先生には“オウルの2”にも見えるのでしょうか? まさか上部の狂歌に“オウルの2”のもう一つの別名“丸(おかわ)二”と有るからではあるまいに。

もう一人の男は手札を畳んで重ねているので何枚であるのかは明言できないが、図像では四枚程度に描かれている。場には二枚、「ピン」と「青の二」が表を上にして出されている。右側の男の前に三、四枚の札が裏面を上にして積まれている。

 えー!? 右側の男の前の山札が「三、四枚の札」ですとー??
 一体どんだけ分厚いカルタを使ってるんだ!!!
 仮にこれが四枚だとしましょう。すると一面(一組)48枚の札を積み上げると、この絵の12倍の高さに成ります。オットット、気を付けないとすぐに崩れそうですね。
 私の目にはこれは少なくとも10枚以上、一面48枚の四分の一程度の描写に見えます。一体全体、何故江橋氏にはこれが「三、四枚の札」に見えたのか不思議でなりません。根拠は示されていませんので、多分純粋にそう「語りかけて」きたのでしょう。それにしても不可解です?

『絵本池の蛙』

ここで参考資料として、『絵本池の蛙』のもう一つのカルタ遊技図(同じく西川祐信画)を見て頂きましょう。こちらも江橋氏の『かるた』181ページに「「ヨミ」の遊技」として掲載されていますが、こちらも上部の狂歌が削除されています。

ならよみのにぎりのあざにまだ見れバ
はずゑのつゆあを三によつこり

ちなみに“ならよみ”は幾つかの資料に見られるもので、恐らく“よみ”のバリエーションだとは思いますが詳細は不明です。ここには6人の競技者が描かれ、全員が手に札を持っています。“よみ”の遊技図と見られる絵には通常3〜5人の競技者が描かれており、本図の様な6人は異例です(“ならよみ”と関係有るか?)。
 構成メンバーを見ると、若い娘二人、成年の男、前髪の少年は前の絵とほぼ同じです。そこに僧侶と尼(後家?)を加え、まさに老若男女聖俗打ち揃っての場面としています。人物の楽しげな表情や、一人が頭に手をやるポーズは両画に共通しています。行灯の横に見えている場札は“パウの4”と“オウルの3”に見えますが、何故か“パウの4”の方が下になっているのが気に掛ります。ちなみに、狂歌に出る“あざ”や“青三”だと確認出来る札は有りません。
 ところで、この絵の“オウルの3”らしき札と、前の絵の“オウルの3”に見える札とが良く似ている様に感じるのですが、如何でしょうか。

狂歌の意味もハッキリしません。“ならよみ”の意味を含めて色々と考えている所は有るのですが、いまだ妄想の域を出ませんので発表は控えさせて頂きます。

この絵に対する江橋氏の分析を見ましょう。

『繪本池の蛙』のもう一枚のカルタ遊技の図では、六人が参加して五人が五、六枚の手札を持ち、場札は畳まれて裏返しになっているものが数枚、表を見せているものが二枚以上で、行燈に隠れて残りが何枚かは良く見えない。その中で一人の女はすでに手札を多く出して勝利寸前であり、今は一枚を抱えて出す機会を狙っているという場面である。合計で四十枚程度は描かれているし、手札が一枚になっている者も描かれているのでこれは読みの遊技の場面と判断されるのであるが、

「これは読みの遊技の場面」で良いのですね。私にもそう見えますし、恐らく当時の読者の目にもそう映ったと考えて間違い無いでしょう。
 ところで「場札は畳まれて裏返しになっているものが数枚」とされていますが、「数枚」って何枚? この場札のストックを前の絵と比較すると、江橋氏が「三、四枚」と見るストックの描写と良く似ています。そりゃあ同じ作者ですからね。枚数は同程度か、むしろ若干少ない様にも見えますので分厚い札2〜3枚、多くて4枚でしょうか?
 江橋氏と同じく、私もこれは“よみ”の遊技図だと考えています。従ってこのストックは“よみ”遊技の際に取り除かれる“赤絵(イス)”に“死絵”を加えた12枚だと考えます。この時代には既に“よみ”遊技の際には“赤絵”を抜く習慣が有ったと考えています。

『奉納一万句集』享保頃(1716-1736)
 叩ク灰吹き/\
赤絵を抜ケバ私しも客ハ無イ
『一風評万句合』元文頃(1736-1741)
 けふも旦那がぢつと一日
赤絵をばぬけて九まいの四人詰メ

恐らく、当時の読者もこれは“よみ”の場面だと受け取ったでしょう。“よみ”だとすれば、山札は取り除けられた12枚だと目に映ったと想像されます。いや、それ以外に受け取りようは無かったでしょう。

『繪本池の蛙』の二種のカルタ遊技図は、同じ作者により同時に製作された物と考えられますので、両図には同一の描写法が用いられている筈です。従って、両図に描かれた山札は、共に12枚程度の普通の厚さのカルタ札だと考えます。

続きを見ましょう。話は最初の絵に戻ります。

この図像をどう解読するかであるが、まず目につくのは、描かれている札の数の少なさである。確認できるのは、手札が四人のものを合わせて十八、九枚、場札二枚、取り札三、四枚、合計二十四、五枚であり、一組四十八枚のカルタを使う遊技としては少なすぎる。紋標「イス」の札を除外して三十七枚で遊技しているとしても読みカルタの遊技場面としては少なすぎる。

たしかに少なすぎますね。先程の山札を12枚程度としても足りません。ここはご指摘の通りですのでスルー・・・かと思えば、アレ? 「取り札三、四枚」て何でしょう? どうやら江橋先生はこれがトリックテイキングゲームの場面であるという前提で解釈されている様ですね。成る程、山札は先入観を持たずに4枚に見えたのでは無く、トリックテイキングゲームの1トリックの取り札なので4枚に見えた訳ですね。納得。
 それにしてもまだ枚数がかなり足りませんが・・・。

ここで想定できるのは、見えていない二十枚が取り札として他の遊技者の手元に引き取られていて、それが人物像の陰にあるという事態である。

驚きです! 透視です!! 「先入観なしに絵画その物を見」て、「絵画そのものを見つめ、その絵画自身が語り出すのを待」てば、そこに全く描かれていない札の存在までも見えて来るらしい。いや、違うか。この絵が“合せ”だという前提で見れば、描かれてもいない“取り札”が見えてくる訳ですか。いやはや、何ともはや・・・・。

では江橋先生にお聞きします。画面に不足している20枚の取り札を、何故西川祐信は人物の陰に隠してしまったのでしょうか? それぞれの人物の前に描いておけば、これが“合せ”である事は一目瞭然なのに。(例えば、『日本かるた文化館』のトップページを飾る藤井永観文庫旧蔵の「カルタ遊び図」の様に。)
 西川祐信は読者に対して
「ほら、画面に隠された札の存在に気が付けば、ちゃんと“合せ”に見えるでしょう?」
 という“謎”を仕掛けたとでもいうのでしょうか。

繰り返しになりますが、祐信の目が向いているのは同時代の版元や読者の方であり、数百年後のカルタ研究者の方ではありません。祐信が自らの絵に、遠い未来の研究者によって解読される事を期待し、同時代の読者には気付かれ無い様な巧妙な暗号“ヒロノブ・コード”を隠した・・・訳は有りません。

 そして、いよいよ結論部分になります。

これを四人で合せカルタをしている場面と考えると、すでに六トリックが出されたゲーム中盤で、七トリック目、まだ一トリックしか得ていない右側の男が「ピン」を出し、女が切り札の「青の二」を出して勝負に出て、次の女が「オウルの二」を出して肩透かしをし、もう一人の男が何を出そうかと考慮中という瞬間を描いたものと考えて見ると、多少の札不足が見えるがおおむねは平仄が合う。だから私は、この絵は、同じページに「よみがるた」と書かれていても、実は「合せカルタ遊技」の勝負中盤の場面であると判断している。

アララ、いつの間にか“オウルの2”と断定しちゃってるし・・・

以上、江橋氏の主張を見て来ましたが、これに対する当方の見解を要約します。
 江橋氏によれば、これが「先入観なしに絵画その物を見」た結果だそうです。しかし私にはどうしても、江橋氏はこれがトリックテイキングゲームとしての「合せカルタ遊技」であるという結論ありきという、先入観に曇った目で見ている様に思えてなりません。その結果、場の山札は1トリックの取り札としか見えず、物理的に明らかに不自然である4枚程度に見えるという事態に陥り、更に、そこに無ければならないのに描かれていない20枚もの札を人物の陰に見い出すという離れ業に頼らねば為らず、それでも「多少の札不足が見えるがおおむねは平仄が合う。」と主張します。これが江橋先生のおっしゃる「先入観なしに絵画その物を見ること」なのでしょうか。

続いて、いよいよ当方からの指摘に対する江橋氏からの反論が始まります。

いずれにせよこれは「合せカルタ遊技」の一場面である。そこで私は、『ものと人間の文化史173 かるた』で、これを「『合せ』の遊技」の図として紹介した。こうすれば文献史学の人が文句をつけるだろうと予想していたが、早速、江戸カルタ研究室から批判された。

ハーイ。案の定、見事に釣られた江戸カルタ研究室デース!
 どうも江橋先生の手の平の上で踊らされている様な気もしますが・・・ここはメゲずに、横綱の胸をお借りするつもりで目一杯突っ張って行きましょう。
 それにしても江橋先生は、自らの行為が読者に対して不誠実なものだという認識は、全く持たれていない様ですね。
 ところで、私の方法が“文献史学”と分類されるのを初めて知りました。自分ではカルタに関する資料なら何でも集める“カルタおたく”だと思っていましたので。何れにせよ、当方の事を研究者の端くれとして認めて下さっている様で、大変光栄に思います。

さて、先ずは狂歌に“よみがるた”と書いて有るのに、絵の方は何故“合せ”なのか? という単純な疑問に対する答えを見ましょう。

研究室の批判は、同じ頁の上部の狂歌に「よみがるた」と書いてあるのに江橋はなぜ「合せカルタ」の遊技風景だというのか全く理解できないということである。「ただ、間違い無く言えるのは、これは『あわせ』では無く『よみ』の遊技風景を描いたものであるという事です。何故ならば…そこに『よみがるた』と書かれているから。本来ならばこれだけで理由として十分であり、余計な説明は不要な筈ですが、念の為に傍証も示しておきましょう。」ということである。「よみがるた」と書かれているから「読みカルタ」の遊技風景だというのである。こういう文献史学丸出しの批判に対して、「絵画史料は偏見を持たずに絵画そのものを見よ、それを理解できるまで見て、絵画が自らを語り始めたらそれに耳を傾けよ」という研究手法の私としては、「あんた何言ってんのよ」としか言いようがない。

又しても「絵画史料は偏見を持たずに絵画そのものを見よ、云々」である。最早このフレーズも空しく響いて来ます。
 当方が問題視したのは、文献史学だろうが何だろうが関係なく、一つの資料を自説に都合の良いように部分的に取捨選択して使用しようとするならば最低限の説明責任が伴い、ましてや本件の様にテキストと絵柄が食い違うと主張するならば、十分な説明が不可欠であるという点です。
 当初、江橋氏は説明責任を全く無視されました。今回漸く説明は為されたものの、到底納得のいくものでは有りませんでした。

さて、江橋氏にとっては絵柄が“合せ”であるというのは既に確定事項ですので、絵とテキストの内容との齟齬という問題を、どの様に説明しているかを見ていきます。その内容によっては「あんた何言ってんのよ」の言葉は、その侭お返しする事になるかもしれません。

この本の制作過程にどういう経緯があったのかは知らない。絵師の西川祐信が勘違いしたのか、彫師が勘違いしたのか、事情はいろいろと推測できるが、

はあ〜? 勘違いですか・・・。
 ちなみに“彫師”は、清書された一枚の版下の通りに版木を彫っていくのが仕事なので、勘違いなどしようが無いと思いますが。

カルタ関係の文献史料やかるた札の物品史料で、掲示されている書の文字と挿画が食い違っている例などいくらでもある。

江橋氏はこれに続いて、「かるた札の物品史料」としてお得意の歌かるた系の実例を3点挙げられていますが、「カルタ関係の文献史料」の例は挙げられていません。私もすぐには思い浮かびませんが、まあ有ってもおかしくは有りません。探せば多分有るでしょう。
 しかし、そんな一般論を言われてもねー。

絵を描く画工、文字を書く書家、木版に彫る彫師の仕事場が別々で、手から手に半完成品が渡って徐々に仕上げられてゆく江戸時代の生産様式ではどうしてもこういう事故が起こりやすい。

『繪本池の蛙』も、注文主が絵師の西川祐信に「読みカルタ遊びの絵を二枚お願いします」と依頼し、その時注文主としては「読みカルタ遊技」の図像二枚を頼んだつもりであったのに、西川が気を利かせて、「読みカルタ札」を使った遊技の絵画を二枚なら一枚は「読みカルタ遊技」の図像でもう一枚は「合せカルタ遊技」の図像にしようと考えて描いて、大家の作品なので描き直せとも言えなくてそのまま用いられたと考えても一向に不思議ではない。西川の絵画を引き継いだ書家が同じ頁の下部の図像をしっかり確認しないままに上部に狂歌を書いたのかもしれない。

・・・えーと。私も屁理屈については少々自信を持っているのですが、まだまだ江橋先生の足元にも及ばない様です。てか、これって屁理屈以前ですよね?

尚、この文中で使い分けている“「読みカルタ遊技」の図像”と“「読みカルタ札」を使った遊技の絵画”という表現の違いは、後に出る論証の伏線ですので、詳しくはそこで触れます。

私も江戸時代の出版事情についてさほど詳しい訳では有りませんので、常識的に考えるしかありません。
 ここでの江橋氏の見解は、依頼主である版元の注文内容を誤解した画工の西川祐信が、版元に確認もせず、余計な「気を利かせて」“よみ”“合せ”の二種類の技法を描き分けて提出した。版元は人気絵師である祐信との力関係から、書き直しを命じる事が出来なかったとしても「一向に不思議ではない」。たしかに西川祐信は当時のNo.1の画工だったと思いますが、版元に対してそんなに強い立場にあったのでしょうか?
 或いはテキスト部分の担当者(作者である赤松堂東鶴の自筆か、筆工によるのかは分りませんが)のいいかげんなやっつけ仕事で齟齬が生じた「のかもしれない」、しかも校正者もうっかり見落としてしまった様です。
 たしかに、この様な事態も可能性として絶対無いとは言えません。しかしこの様な関係者一同による不注意、忖度、怠慢という想像を論拠として認めてしまえば、もはや何でも有り状態であり議論にさえ成りません。これでは江橋先生が毛嫌いする、『雍州府志』の“合”に対する単純誤記説論者とたいして変わらないのではないでしょうか?

以上、江橋氏の“合せ”説が、「作品を素直に見」という言葉とは裏腹に、自信の先入観に囚われた極めて恣意的、非論理的なものであるかを十分に示せたと考えますが、もう一点、重大な問題点を指摘しておきます。『絵本池の蛙』が刊行された同時期に、トリックテイキングゲームとしての“合せ”技法が行われていた形跡が殆ど見当たらないという点です。
 この点は、勿論江橋氏自身もお気付きで結び近くの部分で次の様に書かれています。

文献史学にも意味が全くないわけではない。この絵画の場合でも、それが合せカルタの遊技図だとすると、『繪本池の蛙』刊行の延享四年(1747)という遅い時期まで、こんな古風な遊技法を、いったいどこの遊郭で遊び続けていたのだろうかという実体的な疑問が残る。あるいは、私が知らないだけで、江戸時代中期(1704〜89)になっても古風な合せカルタの遊技があちこちでまだ続いていたのだろうか。これは私が自身に突き付けている未解明の問題点である。

又しても、何故舞台を「遊郭」に限定されているのでしょうか? そんなに「遊郭」やら「遊女」がお好きなのでしょうか? まあ、私もまんざら嫌いではありませんが。

それはさて置き、こんな重要な問題を“今後の課題”的に軽く流されては困ります。この問題に対する合理的な説明無くしては、“合せ”説は成立し得ません。

この頃の資料状況を確認しておきましょう。
 享保末年(1736)から、“てんしょ”“めくり”の登場を目前に控えた宝暦末年(1764)迄の約30年間の資料を見ると、カルタの技法に関するものとしては、“かう”と“きんご”に関するものが合せて十数点見られる位で、残る膨大な量の資料の殆どは“よみ”に関するものです。“合せ”に関するものは次の一点のみです。

『華頂百談』延享五年(1748)
女まじりに。よミの。あハせのとて。二月三月迄毎夜まいやあそび。

私自身もこの時期に、細々ではあるが“合せ”という名称の技法が存続していたと考えます。但し、江橋氏が主張する様なトリックテイキングゲームでは無く、後の“てんしょ”や“めくり”の原型となったマッチングゲームタイプのルールだと考えています。

何れにせよ、この時期のカルタ遊技法の主流は“よみ”であるのは明白です。人々の関心は“よみ”にあり、実際に遊ばれていた殆どは“よみ”であったろう事は資料事実が如実に物語っています。
 西川祐信本人が“合せ”の遊技法を知っていた可能性は否定出来ません。しかし、もしも知っていたとしても、何故彼は極少数のマニアックな“合せ”プレイヤーに向けて“合せ遊技図”を描く必要が有ったのでしょうか。そんな事をしてどんな得が有るというのでしょうか。
 再び“当時の読者の目にどう映ったか”という視点で見ましょう。大部分の読者にすれば、彼等が普段目にし、彼等自身が遊んでいたのは“よみ”です。“よみがるた”に関する狂歌と、“よみ”の一場面と見える挿絵を見て、それを“合せ”と受け取ったり、その様な意図で絵師の祐信や版元が出版したとは到底考えられません。
 江橋先生としてはこれを、江戸初期の“合せ”はトリックテイキングゲームであった、という自説の正当性を示す最後期の資料として印象付けたかったのでしょうがとても無理な話しですし、それならそれで最初から真正面から主張して頂きたかったと思います。

【4】江橋氏からの反論に答える

続いて、当方が“傍証”として挙げた論点に対する批判となります。この“傍証”には未熟な点が多々有り、今読み返して見るとお恥ずかしいばかりですが、今でも全く的外れなものでは無いと思っています。

研究室もこの不自然さには気が付いたのか、私を批判する「傍証」では、これらは「よみ」の競技開始時の描写で理に適っていると説明する。それならば、場に二枚しかないことの説明はつくが、開始時であるとすると、三十七枚のカルタ札での遊技とすれば遊技者各人は手札を最低でも九枚か八枚持っていないと数が合わない。四十八枚のカルタ札での遊技とすれば遊技開始時は十一、二枚である。この絵画の遊技者は、私には手札を一人五枚持っていると見えるのだが、同じ絵が研究室にはなぜ、遊技開始時の手札の数、一人九枚だとか十二枚だとかに見えるのだろうか。不思議なことである。

「研究室にはなぜ、遊技開始時の手札の数、一人九枚だとか十二枚だとかに見えるのだろうか」って?、そんな事は一言も言っていませんが。どう見ても五枚程度でしょう。とは言え当時、手札の枚数の問題など全く思い至っていなかったのは事実ですあり、お恥ずかしい限りです。
 ご指摘の通り「“よみ”の競技開始時の描写としては理に適っています。」という発言は事実に合っておらず不適切でした。実際には理に適ってはいませんので、撤回させて頂くと共に、深くお詫び申し上げます(政治家みたいですね)。

江橋先生の高笑いが聞こえて来そうです。悔しいので、ここは得意の屁理屈を駆使してでも自分を正当化しておかねばなりませんね。

そもそもこの絵が、実際の場面を忠実に再現している事を前提に、理詰めに分析しようとした事自体が間違いでした。今は、西川祐信を含め当時の画工による挿絵には厳密さはさして求められず、読者にそれらしく見えればそれで良しという大雑把なものであり、版元も読者も同じ様な態度で接していたものと考えています。
 『繪本池の蛙』の絵に戻れば、祐信が取った方法は“省略”です。本来ならば8〜9枚有るべき手札を、5〜6枚程に“省略”したという訳です。そもそも9枚以上の手札を持った遊技図など見た記憶が有りません。だって描くのが面倒ですよね。版本の場合は彫師も一苦労です。多少省略しても“よみ”っぽく見えればそれで良しと考えました。そこで、四人のプレイヤーに数枚の手札を持たせ、競技に使用しない“赤絵”の山を描き、場に1、2、3の順に出される札を描けば、誰もが“よみ”の場面だと受け取ってくれると考え、その様に描きました。この程度の“省略”で版元も読者も文句は言うまい。多少間違っていてもいいじゃないか。人間だもの。

おっと、間違い無く江橋先生からは(恐らく他の方々からも)文句が来そうですね。“よみ”説は“省略”などという姑息な屁理屈を使って必死に正当性を主張していると。“合せ”説ならば絵を素直に見て矛盾は無いではないかと。ここ迄、江橋先生の批判パターンに関してはかなり勉強させて頂いたので、この様な批判を予想します(違っていたらゴメンナサイ)。
 “合せ”説の矛盾点は散々述べてきたので一々繰り返しませんが、“合せ”説にしても最終的に数枚の不足が有る事を告白されていますし、そもそもかなりの枚数の札を描かず、人物の陰に隠すという大掛りな“省略”を前提としている事を指摘させて頂きます。
 “省略”は決して冗談で言っている訳では有りませんし、本気で屁理屈だと思っている訳でも有りません。江戸時代の絵本や戯作の挿絵には当然有ってしかるべき手法だと考えます。そもそも一枚の絵画資料(特にこの手の挿絵類の場合)が完全に現実通りに描かれていて、理詰めで分析可能だと考えるのは無理が有ると思われます。

次に、一人の男の前にある三、四枚の札の塊である。研究室は、「傍証」としてこれを「よみ」を打つ際に不要な紋標「イス」のカード、「赤絵札」だと説明する。赤絵札という言葉はほとんど見かけない。普通は「落絵」、「死絵」等である。江戸時代には、カルタ札で「絵」というときは、ソウタやウマやキリのような人物像を意味するのではなく、「札」そのものを意味する。したがって、「絵札」という表現は「札札」と言っていることになるので成立しない。この点、トランプの札を「絵札」と「数札」に分けて呼んでいる近代社会の用語法とは異なる。「赤絵札」は紋標「イス」の札という意味なら「赤絵」で良いのではなかろうか。

はい? “赤絵札”は“赤絵(イス)の札”の事ですし、“死絵”や“落絵”とは全く別のものですけど? 勿論“赤絵”でも一向に構いません。で、それが何か問題でも?
 ご指摘の通り“赤絵札”という表現は江戸時代には稀でした。管見では『博奕仕方(風聞書)』の「よみ仕方」の項に「めくりかるた四十八枚ノ内赤繪札十貳枚を除」とあるのが唯一の使用例です。ところで『日本かるた文化館』の中の『博奕仕方(風聞書)』を紹介している部分で、江橋先生ご自身が地の文の中で“赤絵札”の語を使用されているのはお気付きで?

ところで、江戸時代にはカルタの“絵”とは“札”そのものを意味するという見解には、正直に言ってかなりドキッとさせられました。何故ならば、これは江戸カルタ研究の根底にも関わる問題だからです。たしかに“死絵”“落絵”などの用語は“絵=札”と考えた方が理解し易いかも知れませんね。勿論“絵”が現代の用法の“絵札”の意味で無いのは言う迄も有りませんが、今迄私は漠然と“カルタの絵柄”というイメージで捉えていました。又しても江橋先生に感謝です。
 ここでは根拠が示されていませんが、サイトの別の場所を見ると、『雨中徒然草』中での“絵”の用法を根拠とされている様です。『雨中徒然草』の“絵”と“ゑ”の用例をザット見直した所、たしかに殆どが“札”と置き換えても理解出来そうです。しかし、やはり多くは“絵柄”と解釈しても不自然では無さそうですし、中には“絵柄”と解した方が良さそうな例も有ります。勿論、他のカルタ資料でも全てが“札”として理解可能では無さそうですが、この問題に関してはもう少し時間を掛けて検討し、『雨中徒然草』についての部分で述べさせて頂こうと思っています。

それはさておき、この絵画でのこの札の塊は、私には「合せカルタ遊技」での一トリックの四枚の札だと思われるが、同じ頁を見て、どうして絵画が語り掛けてくるものがこんなに違うのか驚く。私には、画面には三、四枚の札しか見えない。この札の塊を、不要なので取り除くとき生じる十一枚の赤絵札と、元々三十七枚を四人に均等に配ると余る一枚の落絵、合計で十二枚の札の塊だと見ることはとてもできない。三、四枚と十一、二枚ではまるで違う。西川祐信の絵画はそのようには語りかけて来ない。

又しても「西川祐信の絵画はそのようには語りかけて来ない。」ですか・・・
 残念ながら私は、いくら耳を傾けてもその語りかけとやらをキャッチする感受性を持ち合せてはいない様です。仕方が無いので自分なりの方法として、絵をしっかりと観察、分析し、作者の意図を考え、更に当時の読者がどの様に受け取ったかを想像します。その結果、もしも何等かのアイデアが浮かべば、それを同時代の膨大な文献資料と照らし合わせて検証するという方法を取るしか有りません。
 とは言え、当方もそこそこの数の絵画資料を集めてはいるのですが、それを十分に生かしきれていないという点は痛感いたします。今後の課題として意識していきたいと思います。

研究室は、「傍証」として、これは読みカルタの場面で、女が「オウルの三」の札を出そうとしていて、場に「ピン」と「二」があるのだから「一」「二」「三」の順で出されていて競技開始時の描写として理に適っているという。だが、研究室が頼りにしている同頁上部の狂歌では、「青二」をひねったら「丸二」になったと書いてある。「丸二」つまり「オウルの二」は、その図像が排便器具の「おまる」を上から見たところに似ているので「おまる」と呼ばれ、さらにその俗称の「おかわ」と呼ばれるようになった。上部の狂歌の「丸二」に「おかわ」というルビが付く理由である。

“おかわ”“おまる”に関しては事実誤認が有ると思われます。“おまる”の文献上の初出は江戸後期、あの式亭三馬の『浮世風呂 二下』文化七年(1810)の様です。
 一方“おかわ”は『犬百人一首』寛文九年(1669)の初出、『大坂独吟集』延宝三年(1675)、『西鶴大矢数』延宝九年(1681)等、その後も多くの使用例が見られます。“おまる”の使用例にかなり先行しており、従って“おまる”→“おかわ”という順序は考えられません。更に、『絵本池の蛙』の刊行された時代には“おまる”の語は恐らくまだ使用されていなかったか、あっても一般的ではなかったと思われます。少なくともカルタ札に対して“おまる”と呼んだ例は全く見当たりません。
 ちなみにこの誤認は、後述の山路閑古による論文「めくりかるた考(三)」中の記述を鵜呑みにした為と思われます。

細かい事ですがもう一点。江橋氏は“丸二”の二文字に対して“おかわ”とルビが付くと捉えられていますが(これも山路閑古の解釈をそのまま採られたか?)、私は“おかわ”は“丸”一文字に付いているルビであり、従って“丸二”の読みは“おかわに”であろうと考えています。
 カルタ用語としての“おかわ”の使用例は四点確認していますが、『絵本池の蛙』を除く他の三点は全て“おかわのに”であり、“おかわ”のみで“オウルの2(太鼓二)”を意味したと見られる例は見当たりません。

『軽口頓作』宝永六年(1709)
わるいぞや・尻の下からおかわの二
           (かるたの丸き二也)
『若恵比須』享保十七年(1732)
ひねり出す釈迦の尻からお側の

(注:文中の■の部分には“太鼓二”の絵が描かれています。)

『象の鼻』明和七年(1770)
六八の屁へつゞいておかハの二

『絵本池の蛙』の場合は“おかわのに”では韻律上座りが悪い為“おかわに”(これでも字余りですが)と読ませたものと推測します。“丸二”は恐らく“青二”と表記を統一する為に選んだのでしょう。但し、そのままだと字数の関係で“まるに”と読まれてしまう可能性が高いので、“丸”に“おかわ”とルビを振ったと考えられます。
 まあ、この件に関しては江橋氏の解釈の方が正しい可能性も有りますが、何れにせよ本筋とは殆ど関係有りません。

だからこの札は、研究室の立場からすると、絶対に「オウルの二」でないと困る。「オウルの三」では「おまる」に似ていないので「おかわ」にならず、狂歌が成立せず、理に適わない。これを「オウルの三」と見ちゃ、折角の文献史学が台無しでしょうよ。ちなみに、私の合せカルタ遊技説からすると、もう最強の「青の二」で切られた後のこのトリックの敗戦処理だから、「オウルの二」でも「オウルの三」でも理に適っており、説明に苦しむことはない。

どうも、この辺りからトンチンカンな内容の批判が増えて来る様に感じます。
 「研究室の立場からすると、絶対に「オウルの二」でないと困る。」エッ? 何で困るの?
 「「オウルの三」では・・・・狂歌が成立せず、理に適わない。これを「オウルの三」と見ちゃ、折角の文献史学が台無しでしょうよ。」。
 私のような素人は、その文献史学とやらがどの様な研究手法をとるものなのか詳しくは存じ上げていませんが、文献のみを絶対視して自分の目と心を偽ってでも“オウルの2に見えもなくはない”とか“オウルの2の描き間違いに違いない”とか主張せねばならないのでしょうか?
 そもそも当方はこの絵を“よみ”の競技開始時の場面だと考えていますので、むしろ“オウルの2”だと困ってしまうんですけどね。

江橋氏は“合せ”だとすると「最強の「青の二」で切られた後のこのトリックの敗戦処理だから、「オウルの二」でも「オウルの三」でも理に適っており、説明に苦しむことはない。」と強弁されていますが、何かお忘れではありませんか? 以前から主張されている“青二最強切り札説”についての説明です。以前も散々指摘させて頂きましたが、“合せ”に於いて“青二”が常に最強の切り札(その次に“釈迦十”“あざ”“一般の切り札”の順序だそうです)であると主張する根拠の説明が全く為されていません。今回もお答え頂けなかった様です。
 “青二最強切り札説”と書きましたが、根拠が無いので厳密に言えば“説”では無く、単なる“アイデア”に過ぎません。その様な根拠不明のアイデアを基に、自説の正当性を強弁されても全く説得力が有りません。

研究室は、「傍証」の最後で、この絵画を合せカルタの遊技と考えると、右側の男の一人勝ちで不自然だと言い、その男がやけに嬉しそうだという。この絵画が研究室にはこう語りかけているのか。

その様に受け取られましたか? このくだりは、もしもこの絵をトリックテイキングゲームと見た場合(勿論、人物に隠れた取り札など想定しません)、この男の一人勝ちという特異な情況となる事を“皮肉った”つもりだったのですが、文章の拙さ故に誤解させたとしたらお詫び申し上げます。

私の知る限りでは、この男の前頭部に手を当てる仕草は、まずかった、失敗したという表現に見える。おでこに手をあてて喜ぶ人がいないとはいえないが、普通は失敗者を表現している。他の邸内遊楽図でのカルタ遊びの場面でも同じようなおどけたポーズの男がいることがある。そしてこの図像では、男は第七トリックで「ピン」を出したのにすぐに「青の二」で切られて取られてしまい、こりゃ失敗だったわ、しくじったわ、と後悔している。笑っているように見えるのは嬉しいからではなく、おどけた苦笑いである。私にはこう語りかけている。

これが「おどけたポーズ」であるという認識には同意します。ご指摘の通り、同様のポーズは邸内遊楽図以外でも、『絵本池の蛙』に近い時代のカルタ遊技図にもよく見られます。
『相そう』『御伽新二重謎』『絵本日の出舞鶴』等)
 又、『絵本池の蛙』のもう一枚の挿絵の僧形の人物もこのポーズです。では、こちらの“よみ”の遊技図が、江橋先生にはどの様な局面で、どの様な心理状態を現していると「語りかけている」のかを説明して頂きたい。同時に描かれた二枚の絵で、一枚は局面を正確に描写し、その瞬間の心理状態を的確に描いていると分析し、もう一枚では分析不能というのでは説得力が有りません。
 尚、この僧侶の絵を見ると、道才カルタの「是にこりよ道才坊」の札や、南部絵暦の「半夏生」の絵柄が思い浮かびます。つまりこのポーズは、おどけた仕草を表す当時の定型的な表現法だと考えられます。

これが「傍証」で述べているように「読みカルタ遊技」の開始直後の描写であり、「一」「二」「三」と打ち出されているさまは通常の展開であり、自然に受け止められるというなら、一人が一枚ずつしか出さない全くぬるい読みカルタ遊技の始まりで、自然過ぎてどこにも洒落も見立てもしゃれももじりもない退屈な絵になってしまう。そういう魅力のない平凡な絵画をなぜ出版したのか、

厳密に言えば、必ずしも「一人が一枚ずつ」とは限らず、手前の少年が“1、2”を出し、彼も、続く二人も“3”を持っていなくて、左の娘が出そうとしているとも考えられますが、そんな事はどうでもよろしい。何れにせよ“よみ”の遊技開始直後の場面として「通常の展開であり、自然に受け止められ」ます。これを「ぬるい」と感じるのはご自由ですが、ではもしも江橋先生が“よみ”の遊技開始数手後の場面を描くとしたら、どの様な「洒落、見立て、しゃれ、もじり」の利いた「ぬる」く無いシーンを描かれるのでしょうか?
 尚、「魅力のない平凡な絵画をなぜ出版したのか、」というご質問に対しては、この絵が版元の意に適ったものであり、「魅力のない平凡な絵画」だとは思わなかったからでしょうとお答えします。

「傍証」がいうぬるいがまだ失敗とはいえない段階の、遊技開始直後の場面だとすると、右側の男はなぜ自嘲気味の笑いを浮かべているのか。さっぱりその趣旨が分からなくなる。読みカルタ遊技説ではこの笑い顔はどう理解されるのだろうか。

まあ、あまり深い意味は無いと思います。あえて言うなら、他の人物達の表情とも相俟って、場の和やかな雰囲気を表す定型表現です。
 更に少し深読みするならば、“よみ”遊技であっても処罰の対象となる様な“高額の金銭を賭けた”真剣勝負の場面では無く、多少は金銭を賭けていたとしても“慰み”として見逃される様な、軽い“よみ”の場面を描くという意図が有ったのではないでしょうか。老若男女聖俗打ち交じり、楽しげな表情を描き、一人には定型表現であるおどけたポーズを取らせる事で画面に動きを持たせたものと考えます。

【5】「よみがるた」はカルタ札の事?

この後、「(三)狂歌が言う「よみかるた」は札のことか遊技法のことか」と題された新たな章に入り、江橋氏の主張も新たな角度へと変化していきます。

そして、そもそもの出発点に戻るが、ここにある狂歌の二子(にこ)ゝゝと三子(さんこ)にちかきよみがるた 青二(あをに)ひねれば丸二(おかわ)なりけり」という言葉をどう理解するのか。研究室は狂歌の説明では「ご機嫌顔で『青二』を打ったところ、なんと『太鼓二(紋標オウルの二)』が出て来た…?」と書いている。他方で、図像の説明では、「又、左の女性が今まさに打ち出そうとしている札は『オウルの3』の様に見えます。これらは『よみ』の競技開始時の描写としては理に適っています。」となっている。

そうなんですよ。当方の乏しい知識と読解力ではいまだに理解不能です。トホホ・・・
 「競技開始時の描写としては理に適っています。」に関しては訂正済みです。

狂歌の解釈と図像の解釈が矛盾しており、女性が出している札が「オウルの二」であったり、「オウルの三」であったりしている。なんじゃこれは。

はあ? ですからー「狂歌の解釈」なんて出来ていませんし、「女性が出している札が「オウルの二」」だなんて一言も言っていませんからー。
なんじゃこれは。

もしかして江橋先生は、狂歌には“丸二”と書かれているのに、下の絵にその札が描かれていないのはおかしい、とおっしゃりたいのでしょうか? しかし私は祐信が描いたのは、あくまで“よみ”遊技中の一場面であり、狂歌の内容を忠実に描写したものとは考えません。何故ならば、『絵本池の蛙』のもう一枚の遊技図の狂歌に“あざ”や“青三”が出ますが、挿絵の方にはどう見ても描かれていませんので。

この頁の上部の狂歌は、「二子(にこ)ゝゝと三子(さんこ)にちかきよみがるた」といっているが、ここに言う「よみがるた」は何を指すのであろうか。研究室は、何の証明も示すことなく、これを「読みカルタ」遊技だとしているが、そうすると何を言っているのか、何がおかしいのかさっぱり分からなくなるので、「意味は良く解りませんが」と狂歌の内容の説明を放棄している。ここに落とし穴がある。もしかしたらこれは「よみがるた」札を意味しているのかもしれない。「よみがるた」札を使った「よみ」ではないカルタ遊技での可笑しさを表現しているのかもしれない。それなら「意味は良く解ります」と言えたかもしれない。

ついに来ました。思いもしなっかった角度からの攻撃です。狂歌の“よみがるた”は“よみ”技法の事では無く、“カルタ札の事”ではないか、という指摘です。うーん・・・たしかに“よみがるた”はカルタ札そのものを指す場合が有りますね。成る程、狂歌の“よみがるた”は“よみがるた札”の事であり、下部の挿絵は“よみがるた札”を使って遊ばれている“合せ”の場面だという訳ですね。
 実は、江橋氏はここ迄にも“よみがるた=よみがるた札”という解釈をちらつかせていましたが、詳しい説明が無かった為あえてこちらも深く触れませんでしたが、やっと趣旨が判明しました。ここに来て、満を持していたかの様にこれを持ち出してきたのは、これが“よみ”説に止めを刺す“決め球”になるとでも思われたのでしょうか。
 「研究室は、何の証明も示すことなく、これを「読みカルタ」遊技だとしている」というご批判を頂いていますので、逆に江橋氏が“よみがるた”は技法名では無く、カルタ札の事だという証明をご拝聴致しましょう。

繰り返すが、原文の狂歌は「二子(にこ)ゝゝと三(さん)子(こ)にちかきよみがるた」である、二個、三個という言葉と一つの狂歌になっているのであるから、これは「よみがるた」というカルタ札のことを言っていると理解する方が自然である。二個の読みカルタ札、三個の読みカルタ札はありうるが、二個の読みカルタ遊技、三個の読みカルタ遊技というものはなかなか想像できない。

オーット。インコース高め、胸元を鋭く突く豪速球に思わずのけ反ってしまいましたが、果してストライクゾーンに入っているのでしょうか?

どうやらトンデモナイ“ボール球”だった様です。先ず“二子、三子”を“二個、三個”の意だとする根拠が全く不明ですし、そもそもカルタ札を“二個、三個”とは数えません。「二個の読みカルタ札、三個の読みカルタ札はありうる」って? 私には「なかなか想像できない。」
 私は今迄の人生でカルタ札やトランプのカードを一個、二個と数える方にお目にかかった事は只の一度も有りません。勿論、江戸時代の文献にも見られませんし、今後見つかるとも到底思えません。これがカルタ一面(一組)の事ならば、“個”と数えられなくも有りませんが、勿論その様な例も知りませんし、その場合、歌の意味がますます解らなく成る様な気がします。

ちなみに前にも書きましたが、私は“三子(さんこ)”は“よみ”の役の“三光(さんこう)”に掛けているのではないかという気がしています。そうすると“にこにこ”や“ちかき”の語がスムーズに繋がる様に思えるのですが・・・確証は有りません。それに何故“子”なのかも説明出来ません。

さて、野球ならば胸元の直球の次は、アウトコース低めに落とす球がセオリーですが、どう来るか・・・。

カルタ札と理解すれば、狂歌全体も、カルタ札の「青の二」を出したら「オウルの二」、別名「お丸」あるいは「おかわ」になったということで、一応無理なく理解ができる。

ゴメンナサーイ、私のあまり出来の良く無い頭脳では、おっしゃっている事の意味が全く理解できませーん。“よみ”は「カルタ札」を使って行うものですので“青二”も“おかわ二”も当然「カルタ札」の事です。それが、狂歌の“よみがるた”が“よみがるた札”である根拠になるとでもおっしゃりたいのでしょうか? それでどの様に「無理なく理解」されたのでしょうか?? 何方かお判りの方がいらっしゃったら教えて下さーい。

何だかよく判らない魔球が来ましたが、思いっきりストライクゾーンを外れている為、余裕を持って見送る事が出来ました。

研究室はもっぱら文献史学であるから、この点についてはこれまでさぞかし文献史学としての鋭利な言葉の解析を加え、秀逸な研究成果があり、ここで「読みがるた」というのは、「読みカルタ」札を意味するのではなく、「読みカルタ」遊技を意味することが自明になったので、もはや何の説明も要しない。無条件にこれを「読みがるた」遊技と読み解いた。こんなことまで説明を要するとする必要性は認めないというのであろう。

当方が“カルタ”の語、或いは“よみカルタ”“めくりカルタ”等に関して、それが遊技法を指すのか、札そのものを指すのかの検討の重要性に思い至ったのはつい近年の事です。正直に申し上げて、この時点では頭の片隅にすら有りませんでした。そんな事は百もお見通しであろうに、先生もお人が悪い。
 それにしてもさすが江橋先生、皮肉たっぷりの文章にも一日の長が有りますね。私も先生を見倣ってもっと精進せねば・・・。

狂歌を読み解く過程で、もしかしたらこの狂歌の「よみがるた」はカルタ札のことを言い、この狂歌は「よみがるた」札を使った「合せカルタ」遊技の可笑しさを詠んだものではないのか、という思いに至らなかったのだろうか。

はい、思い至りませんでした。ところで「「よみがるた」札を使った「合せカルタ」遊技の可笑しさ」って、一体どこが「可笑し」いんですか?

漸く江橋氏の論理の全貌が理解出来たと思いますので、自分なり要約させて頂きます。

  1. 狂歌の“よみがるた”とは技法名では無く、“よみがるた札”の事である。
  2. 西川祐信は版元からの依頼を、“よみがるた札”を使った遊技図を二種類と理解した。
  3. 祐信は一枚には当時大流行の“よみ”の遊技場面を描いたが、もう一枚は“よみがるた札”を使った“合せ”の場面を描いた。従って、上部の狂歌と下部の挿絵との間に齟齬は生じていない。
  4. 挿絵を素直にみれば、3〜4枚にしか見えない山札は“合せ”の1トリックの取り札、4枚という事になる。
  5. 画面に不足している20枚程度の札は、既に終わっている5トリック分の取り札20枚が、何れかの人物の陰に隠れていると解釈すれば辻褄が合う。
  6. 今進行中のトリックは、“青二最強切り札説”に従えば無理なく理解出来る。
  7. この絵を先入観を持たずに素直に見れば、その様に語りかけて来る。

以上、全てに対して既に批判し尽くしたと思いますが・・・

もし上部の狂歌の「よみがるた」がカルタ札を指すとしたら、それを「読みカルタ」遊技を指すという前提で構築してきた研究室の議論は誤った前提から構築された立論ということになり、その前提から、その基礎から、その全体からして全面的に崩壊してしまう。だから、研究室には、その学説の生き残りをかけて、「よみがるた」が「読みカルタ」札を決して意味しないことを説明してもらわないと困る。

困ると言われましてもねー・・・
 何とも奇妙な論法です。たしかに当方は“よみがるた”を技法名と解釈して論を進めてきました。それに対して江橋氏は、これは“よみがるた札”の事であると指摘されました。そこでその根拠を検討した結果、全く現実味の無い空論である事を指摘しました。よって、“よみがるた”が技法名であるという前提を変更する必要性は有りません。
 又、もしも本当に“よみがるた札”の事だったとして、更に当時の人々も“よみがるた札”と理解したとしても、殆どの人は“よみがるた札”を使った、お馴染みの“よみ”遊技図だと理解した事でしょう。当時、有ったとしても超マイナーな“合せ”の場面だと理解した人がどれ程いたでしょうか? 西川祐信はそれを承知の上で敢て“合せ”の図を描いたとすれば、一体何の為でしょうか?
 最早祐信本人に聞くしか知る術は有りません。

逆に、江橋氏の“合せ”説にとっては“よみがるた”が技法名では無く、カルタ札の事で無ければ絶対に困ります。カルタ札の事であるから“よみがるた札”を使用した“合せ遊技の図”と解釈すれば、狂歌と挿絵との間に齟齬は無いという論理だと理解していますが、もしも“よみがるた”が“よみがるた遊技”の事だとすると、その齟齬を解消する為には関係者の勘違いや忖度などという苦しい言い訳に逃れるしかありませんから。
 江橋氏には、「その学説の生き残りをかけて」“よみがるた”とは“カルタ札”の事であり、“よみ遊技”を決して意味しないという事を示す、もう少し納得のゆく根拠を示して頂きたいものです。

現状での研究室の主張を整理してみよう。上部の狂歌中での「よみがるた」は、この言葉には一般的には「読みカルタ」札と「読みカルタ」遊技の二義があり、ここでは一読すると「読みカルタ」札と解する方が素直であるが、それでも研究室にとっては「読みカルタ」遊技である。なぜならば、同頁の下部に「読みカルタ」遊技の絵があるからだ。では、なぜ一見「合せカルタ」遊技の場面に見える下部の絵が研究室にとっては「読みカルタ」遊技の場面の絵なのか。それは、同頁の上部に「読みカルタ」遊技という狂歌があるからだ。なぜ「読みカルタ」遊技法という狂歌なのか。下部に「読みカルタ」遊技法の絵があるからだ。なぜ「読みカルタ」遊技法の絵なのか。上部に「読みカルタ」遊技法という言葉があるからだ。このぐるぐる巡りでは何事も説明できていない。これは循環論法になっていないかと危惧する。

冗長で回りくどい当方の文章を「整理」して下さるのは大変助かります。但し、論旨を全く理解せずにやられたのでは大変に迷惑です。何処をどう読んだら、この様な「整理」になるのでしょうか。ここ迄くると、最早拙文を誤解されているのでは無く、意図的に曲解されているのではないかと「危惧する。」

やはり人様に頼るのはいけませんね。この論争の発端となった、前稿時点での当方の拙い主張を整理しましょう。
 江橋氏が『絵本池の蛙』の挿絵のみを採り上げ、それを“合せ”遊技図として掲載した事に対して

  1. 上部の狂歌に“よみがるた”とあるのだから、“よみ”遊技図と理解するのが自然である。但し、狂歌の意味は不明の為、解釈は保留した。
  2. 挿絵には“よみ”の標準人数である四人の競技者が描かれ、四人競技の時に取り除かれる“赤絵”と見られる山札が有る。更に、場には1、2、3の順に出されつつあると見える札が確認出来る。
  3. これらの点から、この絵が“よみ”の遊技開始時の描写として自然であると結論付け、「当時の人々にとっても、この図は“よみ”の風景に見えたに違いないと思う」とした。(この時点では手札の枚数の不自然さには思い至りませんでした。)
  4. 一方、これを“合せ”と見た場合(当然、山札が4枚程度に見えたり、画面に隠された20枚の札の存在など想像もしませんでしたので)、右の男の一人勝ちという特殊な情況の描写となる事の不自然さを指摘した。

まあ、ざっとこんな感じで良いでしょうか。
 つまり1は仮説の提示であり、2、3がそれに対する検証、4は対案に対する批判です。

で、一体これの何処が「循環論法」になっていると言うのでしょうか???

本章の最後は、次の文で締めくくられています。

研究室は、「傍論」の締め括りとして、この狂歌は「この図は正に文字通り『よみ』の遊戯図だと理解するのが自然だと思われるのですが」という。私としては、そうか、「文字通り」ねえ、最後まで気が付かないで、文字が自分の思い付いた通りの意味だと思っていたのだな、と微妙に残念な気持ちで見ている。だが、この点にこれ以上触れるのは、文献史学の内部に踏み込んでの論理的な批判になりそうなので言及を控えよう。ご自由にお考えいただきたい。

この一文に関しては、ここ迄読んで下さった読者の皆様がどの様にお考えになるかという事が全てです。ただ私としては「文献史学の内部に踏み込んでの論理的な批判」とやらを、是非ご拝聴したいと熱望しております。

【6】山路閑古の「めくりかるた考」

この後、最終章「(四)山路閑古の研究に学ぶ」に入ります。これで当方へのご批判も一段落かと思いきや、山路閑古の話しが出るのは少し先の事で、しばらくはこれ迄と同じ様なお説教が続きます。もうしばらくお付き合い願います。

私が言いたいのは、史料の文字情報を信頼しきって歴史をそこから構築する文献史学も結構だけど、史料の記載を丸のみに信じてそれが史実だとするのではなく、絵画史料、物品史料、そして残されているカルタ札そのものをよく見て、その語るところを虚心坦懐、偏見抜きに聴くべきである、ということである。

何処かで見たような文章ですが、今迄とは少し違っています。これ迄は「絵画史料」のみについて言われていたのですが、ここでは併せて「物品史料、そして残されているカルタ札」にも言及している点です。

あえて言う迄も有りませんが、現存しているカルタ札の遺物や、物品史料の代表格のカルタの版木に関する江橋先生のご研究は真に素晴らしいものであり、他の追従を全く許しません。この分野に関しては当方など全くの勉強不足、力不足で出る幕も無く、一方的に勉強させて頂いているだけです。
 カルタの絵柄の詳細な分析のみならず、札のサイズ、版木の配列等迄も詳細に検討し、そこから従来の定説を覆す斬新な説を提出されています。当方など思いも及ばなかった視点も多く、その殆どが十分に納得のいくものです(今のところ)。「そのものをよく見て、その語るところを虚心坦懐、偏見抜きに聴くべきである」とは、その様な姿勢であろうと得心します。

しかしどうしても納得がいかないのは、カルタ札や版木の様な当時の侭の姿を伝える物品史料と、人の手というファクターを通して描かれた絵画史料とを、同じ方法論で解釈するのが妥当なのかという点です。実際、先生ご自身が物品史料に対して取られている手法と、絵画史料の分析に用いていらっしゃる手法とが、かなり違っている様に見えてならないのですが。

『繪本池の蛙』の絵画も、素直に見れば、遊技者の膝下にある裏面を上にした札の塊が、三、四枚の描写なのに十二枚の落絵の塊に見えることはないだろうし、江戸時代初期以来、読みカルタの遊技場面の図像では場に散らされた札の枚数は六、七枚、多くの場合に、遊技参加者の数よりも多く描かれているのに、この図に限って四人参加しているのに二枚しか描かれていないものを、同じ読みカルタ遊技の場面と思うこともなかったであろうし、

ご指摘の通り“よみ”の遊技図の殆どは競技の中盤を描いたものです。しかし、他に同種の例が無い事をもって、これが“よみ”である蓋然性は低いという推測は可能にしても、“よみ”では無いと断定する論法は論理的ではありません。とは言え、ここから先はこちらも論理性は一旦横に置いて想像力に頼るしかありません。
 もしも祐信が“よみ”の遊技図一枚の依頼を受けたならば、恐らく従来通りの競技中盤の無難な場面を描いたことでしょう。しかし今回は同時に二枚の注文です。何とか二枚の絵に変化をつけたいと考えました。一枚は“よみ”の基本形である4人の競技者ですが、今迄あまり描かれていなかった遊技開始直後の場面を取り上げ、もう一枚には僧侶と尼を加え、まさに老若男女聖俗打ち揃っての賑かな構成とし、競技が少し進行した場面の描写にしました。
 まあ、“想像”に過ぎません。しかし、二枚の内の一枚に“合せ”の遊技図を描いたという江橋氏の“想像”よりは、少しは現実味が有る気がしますが、如何でしょうか。

その不適合さをカバーしようとして遊技開始直後の場面だと見るから、今度は各人の手札の数が少なすぎて理屈に合わなくなる。結局は、この図の作者は適当な枚数しか描かなかったのであってリアリティに欠けるのはやむを得ないというまとめになってしまう。西川祐信に失礼な話である。

「この図の作者は適当な枚数しか描かなかったのであってリアリティに欠けるのはやむを得ないというまとめになってしまう。」という批判に対しては、概ねその通りで良いとお答えしましょう。但し、「適当な枚数」とは“いいかげんな枚数”では無く“絵画表現として妥当な枚数”という意味であり、結果的に若干厳密性に欠けているのは、或る程度やむを得ないという意味です。

それにしても「西川祐信に失礼」というのは、ちょっと聞き捨てなりませんね。私は、もしも「好きな浮世絵師の名前を一人挙げよ」と言われたら、迷わず西川祐信の名を挙げます。春信でも歌麿でも写楽でも北斎でも有りません。恥ずかしながら“芸術的センス”などという高尚な感性を全く持ち合せていない為、評価基準として当時の風俗を知る上で良質な資料価値を持つという意味で、迷わず祐信の名を挙げます。勿論、彼の柔らかさ溢れる画風も大好きです。
 彼の絵が「リアリティに欠ける」手抜きだとは思っていません。寧ろ、当時の絵師に求められる水準を遥かに越えた“良い仕事”をしていると思っていますし、当時No.1の評価を受けていたで有ろう事も頷けます。
 一方、江橋先生は祐信に関して、版元の依頼を誤解し、独りよがりに作業を進める粗忽者と考えたり、版元でさえ勘違いの指摘を躊躇させる様な、高圧的な“パワハラおやじ”まがいと想定したり、“よみ”の開始直後の図としては「ぬるい」「退屈な絵」と酷評したり、余程失礼じゃないですかね。

上部に「よみがるた」と書いてあるからこれは読みカルタ遊技の場面だとか、宮武外骨がカルタ遊技の図と紹介しているのだから読みカルタ遊技の場面なのだとか、いつもいい加減なことを言う江橋が合せカルタ遊技の場面というから酷評して文字通り読みカルタ遊技の場面であると教えてやろうなどとか、周辺情報に振り回されて絵画を見るのではなく、素直に見ることが大事なのである。

「宮武外骨が云々」て、これは一体どこのどなたに対する発言なのでしょうか? これではまるで、当方がこの様に主張していると誤解される方がいるかも知れません。大変迷惑です。
 「酷評」? 当方は評論家では有りませんので、江橋氏の著述に対して“論評”したり、“評価”を下しているつもりは有りません。あくまでも内容に対する批判です。

「それにしても、大先輩に対する批判なのだから、もう少し書き様が有るだろう。」「よっぽど江橋先生の事を嫌っているのか?」と勘ぐられる方がいらっしゃるとしたら、完全な誤解です。先生に対して個人的に含むところなど全く有りません。ハッキリと申し上げておきましょう。江橋崇先生を尊敬していると。

考えて見て下さい。カルタ類全般にわたる膨大な研究実績、カルタの普及活動における計り知れない貢献。当方の専門である江戸カルタに限っても、もしも江橋先生の存在が無かったら、今日の研究レベルがどんなに惨憺たる状況に止まっていたであろうかと思うとゾットします。更に、今回の『日本かるた文化館』の開設も、我が国のカルタ研究にとって大きな希望の光だと言えましょう。今後多くの方が閲覧に訪れ、少しでもカルタに関心を持つ方が増える事を期待します。(ついでに拙サイトを覗きに来られる方が増えるのも期待しています。)

「ならば尚更、こんな無礼な態度を取るのか?」といぶかるならば、“弱い犬ほどよく吠える”と受け取って頂きたいと思います。
 なにせ江橋先生と当方では、知識、実力、実績、どれをとっても雲泥の差が有ります。例えて言えば“横綱”と“平幕”、“ビートルズ”と“ずーとるび”位の差です。本来ならば当方の様な浅学の素人の批判など完全に無視されても文句の言える筋合では有りません。更にカルタ類全般を研究対象とする江橋先生としては、当方の様な偏狭な分野にそうそう付き合ってはいられないのは当然です。
 これらの事情を全て了解した上で、あえて過激な態度を取る確信犯とお考え下さい。力の限りキャンキャンと吠えまくり、「この野郎だけは、黙ってのさばらせておく訳にはいかない」と、先生の闘争本能に火を点ける事が出来れば、こちらの思う壷です。

そして漸く山路閑古の登場です。

もう一つ、私は、文献史学の人にも謙虚さが必要だと思う。文献史料を謙虚に読むことが望まれるのであるが、あわせて、文献史料に関する先人の研究業績も謙虚に学ぶ必要がある。そのことを伝えるために、一例を紹介しておく。
私は、ここまで、『繪本池の蛙』に関する先行研究は存在せず、一人で奮闘してきたように書いてきたが、実は、ここまでは議論が複雑になることを恐れて伏せておいたが、『繪本池の蛙』に正面から対峙して研究した先人がいる。古川柳研究者として高名な山路閑古、本名萩原時夫である。ここで山路の研究を紹介することで、文献史学にも尊敬するべき先人がいることを示し、後学の者への道の教えとさせていただこう。

江橋氏が本章に於て山路閑古の論文を採り上げた所以です。

文献史学にとって「文献史料に関する先人の研究業績」こそ最も重要な財産であり、それを学ばずしては成り立ち得ません。又、全ての“新説”は、先人達が積み上げて来た無数の“旧説”の屍の上に立っていると言っても良いでしょう。
 尤も「先人の研究業績」に関しての当方の知識は、全く不十分なものである事は重々自覚しております。今回全く未知の資料である山路閑古の論文「めくりかるた考(1)〜(4)(『古川柳』第一巻第四号〜第九号、日本古川柳学会、昭和二十二年)をご紹介頂けた事に心から感謝申し上げます。
 山路閑古は著名な古川柳の研究者であり(山路閑古の人物に関しての詳細は『日本かるた文化館』の当該ページをご覧下さい。)、度々目にしていたお名前ですが、まさかカルタに関する詳細な論文を残されていたとは思ってもいませんでした。早速読ませて頂いた感想については、ほぼ共感出来るものとして江橋先生のお言葉を拝借させて頂きます。

今日の研究水準から見れば問題だらけの、まさに『うんすんかるた』登場以前のレベルであるが、それにも関わらず大事なのは、文献史料に接する際の研究者の姿勢についてゆるぎなく教えてくれていることである。
(中略)
偏見も先入観も持たずに古川柳の作品に接し、カルタの文献史料に接する山路の研究姿勢には今日でもなお学ぶべき面がある。
敗戦後の社会的な混乱の中で何かと研究環境の不備、不足も多かったであろう中で、(一)から(四)までの連載で述べた気迫、先人の業績を素直に読み謙虚に活用する姿は、一読して感動的であった。

まさに同感であり、カルタ研究史上『うんすんかるた』に先行する非常に貴重な資料であると考えます。未読の方には是非一読をお勧めします。

【7】山路閑古「めくりかるた考」への批判

ではいよいよ、「めくりかるた考」の中で『絵本池の蛙』に関して触れた部分を読んで行きましょう。

 この二子、三子といふのは、賽ころの數から來たもので、「五雑俎」に「其用有五子四子三子之異、視クラブレバ古法彌簡矣」などゝある、それからかういふ文字を用ゐてゐる。二個三個と同じ事である。
 古の狂歌の意味は、にこ/\と三個にならんばかりの上機嫌は――二個が三個になるかと思はれるばかり、にこ/\笑つたと云ふ洒落である――前の番の者が場札をめくり起して「青二」が出た瞬間、次の者が、待ち構へてゐたやうに「丸二」を合せて、一擧百點をせしめたからであると云ふのである。「二」と「二」と合せて獲るのは、「花札」で「梅」と「梅」と合せるのと同じである。
 こゝに「丸二」に「おかは」と振假名がしてあるが、「おかは」は虎子で、「おまる」とも稍する。「丸二」の異名は「おまる」で、「おまる」から「おかは」へ異名が移行したものと考へられる。

山路閑古「めくりかるた考(三)」
『古川柳』第一巻第八号 昭和二十二年 p.7

“おまる”“おかわ”に関する認識の誤りは、既に指摘済みです。

 『五雑俎』を根拠として、“子”が賽ころの数え方に由来するという説は興味深いのですが、何故それがカルタに関する狂歌に用いられたのかという必然性が不明ですし、他にカルタに対して“子”を用いた用例も示されていませんので、にわかには承服しかねます。

  狂歌の解釈に関しては・・・うーん難しい。
 先ず前半ですが“子”は“個”と同義として、二個の物が三個に増える嬉しさ(?)と、“にこにこ”という笑顔を表す表現を、“にこ”という同音を用いた単なる洒落だという事で良いのでしょうかね。彼の解釈では“子”は“個”と同義という事ではありますが、少なくともそれがカルタ札の枚数を示す数詞であると迄は主張してはいない様です。

後半の解釈では“青二”と“丸二”とを合わせ取る、つまり“めくり”や“花札”と類似のゲームと認識されている事が判ります。この“よみかるた”は“めくり”と類似の技法であるという認識については、後でまとめて説明します。
 山路閑古は狂歌中の“ひねる”の語を“めくる”と同義と解釈されている様です。カルタを“ひねる”という表現は江戸初期から中期にかけて散見しますが、“めくり”の全盛期である安永、天明期以降には見られません。従って、少なくとも札を“めくる”という意味とは思われません。確証は有りませんが、手札から札を場に出すという行為か、或いは、より一般的な“カルタを打つ”という語のニュアンスに近いのでは無いか、という印象を持っています。

続いて論文では挿絵の分析に入ります。

右の繪本の挿畫を見ると「場」には「青二」が置かれてあり、一人の女が「太鼓二」の札を出して合せようとしてゐるところが描かれてゐる。この繪で見ても、「青二」はいかにも「芋洗ひ棒」のやうな形をしてゐる。

山路閑古「めくりかるた考(三)」 (承前)

先に後半部分の説明をしましょう。
 山路閑古は論文の別の場所で“青二”の絵柄について次の様に書いています。

『青二』は、次の例句を見れば、青二本棒のぶつ違ひで、帝政露西亞の旗のやうな、顕著な圖柄であつたらしい。

山路閑古「めくりかるた考(二)」
『古川柳』第一巻第七号 昭和二十二年 p.8

何とも時代を感じさせますね。この当時は“ぶっちがい(X状)”を説明するのに“帝政露西亞(ロシア)”の国旗の様な構図というのが理解され易かったみたいですね。
 これに続いて古川柳から次の二句を紹介しています。

『川柳評万句合勝句刷 宝十一宮2』宝暦十一年(1761)
芋洗ふ棒ハ青二の立チすかた
『川柳評万句合勝句刷 宝十三松3』宝暦十三年(1763)
太鞁二のばちを青二ハふつちかひ

山路閑古はこれらの句から、“青二”の絵柄は青色の二本の線がぶっちがいになったものと考え、『絵本池の蛙』の挿絵の中にそれらしき札を見い出したという訳です。

問題となるのは前半部分、女が出そうとしている札を“太鼓二”と断定している点です。論文の別の箇所の記述から、彼が“太鼓二”の絵柄をかなり正確に把握しているのは間違い有りません。では“オウルの3”に関してはどうだったのでしょうか。
 実は彼自身はカルタの現物を一度も見た事が有りませんでした。にもかかわらず果敢にも、諸種の文献や絵画情報を元に四十八枚の絵柄の復元を試み「めくりかるた一覽圖」として論文中に掲載されています。結果的にその内容が間違いだらけなのは止むを得ません。
 その図中の“オウルの3”(彼は“オウル”と“コップ”とを取り違えている為“コップの3”と記載)を見ると、丸印を縦一列に並べたものと想定されているのが分ります。もしも彼が、実際の“オウルの3”の印は斜めに配置されていると正しく認識されていたとしたら、『絵本池の蛙』の挿絵も少し違って見えたかも知れません。
 いずれにせよ、全く躊躇無く“太鼓二”と断定された理由は明白です。上部の狂歌に“青二”“丸二(太鼓二)”と書かれているので、挿絵に描かれているのもそれらの札だと考え、更に“よみかるた”は“めくり”と類似の技法であるという認識を裏付けるものと考えた、という経緯で間違い無いでしょう。

続いて『絵本池の蛙』のもう一枚のカルタ遊技図について触れていますが、そちらに関しては挿絵自体についての分析は有りません。狂歌の解釈に一部見るべき点は有りますが、今は触れません。
 続きです。

當時は「めくりかるた」といふ言葉はなく、すべて「よみかるた」であつた譯である。けれども札の名稱も、役の構成も、打ち方も「めくりかるた」と少しも變らないやうに思はれる。よつて兩者は名稱は變つてゐても、内容は殆ど變つてゐないものと考へてよいかと思ふ。

山路閑古「めくりかるた考(三)」 (承前)

彼の論証自体は論理的なものです。山路閑古は“札の名稱”“役の構成”“打ち方”の三点を検討しています。

  1. 「札の名稱」
    『博奕仕方(風聞書)』や、“めくり”を描いた黄表紙等の文芸資料に見られる“あざ”“釈迦十”“太鼓二”等の札の固有名称が“よみかるた”の時代と共通している。
  2. 「役の構成」
    同じく『博奕仕方(風聞書)』や黄表紙等に見られる“団十郎”“上三”“下三”等の“めくり”の役も又“よみかるた”の時代から共通して見られる。
  3. 「打ち方」
    恐らく『絵本池の蛙』の挿絵を“青二”“太鼓二”を合せ取る場面と理解された為、“めくり”と同類の技法とする判断材料としたと思われます。

山路閑古の“よみかるた”に対する認識の全体像を「めくりかるた考」から拾って見ましょう。

享保の頃には「よみかるた」が流行し、明和に入つて「めくりかるた」の流行となり、天保當時「花かるた」が全盛を來したと考へてよいかと思ふ。さうして名稍や「札」の形式は多少變つても、勝負の仕方は三者大體同じやうなものであつたのである。殊に「よみ」と「めくり」とは、「札」も技法も殆ど區別せられない。
 この「よみ」「めくり」「花」の一系統の「かるた」に對して、もう一種「よみかるた」と稍するものがある。これは明かにこのから派生した別種のもので、やり方も大變違ふし同じく「よみかるた」と呼ばれてゐるが從來の「よみ」とは全く違ふ。これを假に、「第二よみかるた」と名づけて區別することにしよう。「第二よみかるた」については、又後に述べるが、これはほんの童幼向きの遊びで、一般には使用せられず、從つて文藝作品にもあまり現はれて來ないものである。

山路閑古「めくりかるた考(一)」p.3

第二「よみかるた」は、前期「よみかるた」が成立すると殆ど同時に發生したものらしく、貞享の頃にはすでに存在した例も見られる。
(中略)
 しかし、後代の第二「よみかるた」は、「めくりかるた」の札から、何枚かを省いて行ふのであるから、「めくりかるた」の傍索と考えへてよく、唯技法が古風であると云ふのに過ぎない。
(中略)
 第二「よみかるた」が「めくりかるた」と同一の「札」を以て行はれ、同じ系統のものであると見られるのは、例の「博奕仕方風聞書」の記事による。
 「かるた三十七枚、めくりかるた四十八枚ノ内、赤繪札十二枚を除き、手合四人え九枚ツヽ蒔附置、残り札を死繪と唱、除置候事 」
(中略)
 「古川柳」に見える「よみかるた」は、大方「めくりかるた」に属するもので、この第二「よみかるた」とは全然内容を異にする。

  女よみおぢなさるなとしやかをうち(既出)
  よみの見物すい口でこれからさ(既出)

 などの例を見ても、右の技法を以てする第二「よみ」とは全く違ふものだと云ふことが明瞭であり、又「よみ」と稍しても「めくり」と全く内容が同じだといふことも察せられよう。

山路閑古「めくりかるた考(四)」pp.10-11

つまり、今我々が認識している“よみ”は、山路閑古の認識では「第二よみかるた」とでも呼ぶべきものであり、その起源は古いものの所詮子供の遊びであり、文芸資料等にはあまり取り上げられていない!! 江戸中期の文献に頻出する“よみ”は、後の“めくり”と類似の技法であった!!! という事です。

現代の我々の目から見れば“よみかるた”と“めくりかるた”とは殆ど同じものだという山路閑古の認識は、大変奇異に感じられます。しかしこれは当時の乏しい資料状況の中で得られた限られた情報に基づいて、論理的に導き出された結論です。『絵本池の蛙』の狂歌と挿絵の解釈は、この様な認識に基づいて為されたものと理解出来ます。

これに対し、江橋先生は次の様に総括されています。

山路は『繪本池の蛙』の図像を素直に見て、それが読みカルタの遊技の場面ではないことを知った。それならばこれは何というカルタ遊技の場面なのか。山路は、持てる知識を総動員して、これはほとんどめくりカルタ遊技であるが、当時はまだそれは考案されていなかった時期なのだから、読みカルタと言うことになり、そうすると、読みカルタの遊技法は案外めくりカルタのそれに近かったのだろうか、という、なんとも締まらない結論に至っている。「読みカルタ」遊技では場札をめくるなどという展開は全く存在しないのであるから、山路の理解によってもこれが「読みカルタ」遊技の場面ではないことは明らかであるのに、「めくりカルタ」は誕生以前だし、「合せカルタ」遊技を知らない山路には適切な遊技法が思い浮かばないので、無理やり、「めくりカルタ」に案外近い、めくる札がある「読みカルタ」遊技という訳の分からない説明に帰してしまっている。これを後学者が笑うことはいくらでもできる。だが私はそうはしない。

江橋先生は山路閑古の論証を我田引水的に、自分の都合のいいように解釈していると思えてなりません。

「山路は『繪本池の蛙』の図像を素直に見て、それが読みカルタの遊技の場面ではないことを知った。」
「山路の理解によってもこれが「読みカルタ」遊技の場面ではないことは明らかである」

 どの様に読んだらこの様な理解になるのでしょうか。山路閑古は、上部の狂歌にある“よみがるた”は「読みカルタの遊技の場面」であるという前提で考証しています(少なくとも“よみがるた”がカルタ札の事などとは考えてもいません。)。従って、当然挿絵も「読みカルタの遊技の場面」であると考え、その上で当時の限られた文献資料から得られた知見とを併せ見て、“よみかるた”は“めくりかるた”と類似の技法だと結論付けました。勿論この解釈を笑ったりはしません。寧ろ、江橋先生の強引な解釈の方が笑えます。

江橋氏の論文は次の一文によって締め括られています。

私は、もし、山路に直接に接する機会があれば、お互いに、素直に、そして謙虚に、自分の抱える疑問を述べて、議論をしてみたかったと思う。「合せカルタ」の遊技法について教えれば、山路とは意外と簡単に共通の理解に達することができたのではないかと思う逆に、私の抱える疑問点についても議論の中から鮮明な歴史像が得られたのではなかろうか。絵画そのものを素直に見るところから研究を始める点で志を共にしている山路は、私にとって敬愛する先人の一人であり、同志である。研究室も、文献史料を文字通りに眺めるのではなく、これを機会に文字通りではなく画像通りに理解する先人の仕事ぶりから謙虚に学ぶ手法を身に着けてほしいと思う。

「絵画そのものを素直に見るところから研究を始める点で志を共にしている山路は、私にとって敬愛する先人の一人であり、同志である。」ですと?
  当方の認識では山路閑古はバリバリの文献史学者です。彼の研究の拠って立つ所は古川柳を中心とした文献資料であるのは言う迄もありません。
 この一文を読んで、改めて「めくりかるた考」を読み直して見ましたが、直接絵画資料の分析を記しているのは、前掲『絵本池の蛙』の挿絵の一枚に関する部分、この一カ所のみです。他にも絵画資料を研究の材料に使用している事を窺わせる記述は有りますが、具体的に分析しているのは、この僅か数行の記述が全てです。しかも、“よみ”が“めくり”と同類の技法であるという誤った認識に基づいて挿絵を解釈していると理解されます。たしかにこの時代に於いて、僅か数行とはいえ絵画資料の分析を試みた事は、先駆者という意味で大いに評価されて良いでしょう。しかしそれ以上のものとは思えません。

私には山路閑古が「絵画そのものを素直に見るところから研究を始める」という研究態度を採っている様には思えませんし、ましてや山路閑古自身がその様に意識していたとは到底考えられません。江橋先生が“同士”とお考えになるのは自由ですが、山路先生の方はもしかしたら当惑なさるのでは?

江橋先生のおっしゃる「文字通りではなく画像通りに理解する先人の仕事ぶりから謙虚に学ぶ」の“先人”とは山路閑古の事を言っているのでしょうか? それとも江橋先生ご自身の事でしょうかね?

公開年月日 2019/04/20


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