『祢覚譚』中のカルタに関係する記事は全てめくりと関係の深いもので、含まれる情報を要素に分けて列挙すると下記の6件になります。1から5迄は全て明和五年(1768)のめくり記事中に含まれるもので、6のみ安永八年(1779)の記事中からのものです。
この記事はめくりの流行開始時期を特定し、ひいてはめくりの誕生時期を推測する上で極めて重要な証言だと考えます。教養有る上級武士と思しき鳩翁自身が、めくりを打ったかどうかは定かでは有りませんが、少なくともめくりの流行が明和五年の時点で、特記すべき現象として彼の目に映ったのは紛れも無い事実です。
以前、当サイト「めくり分室」においてめくりの流行時期の問題を検討しましたが、その時の論旨を要約すると、共に明和七年(1770)刊の『辰巳の園』『けいせい扇富士』以後の多くの文芸作品(主に洒落本)中に、何等の説明も無しに「めくり」の語が頻出する事から、少なくとも明和七年迄にはめくりの流行が始まっていたと考え、『我衣』の記述をその傍証としました。
今は立場が逆転したと言えます。めくりの流行現象が文芸作品に反映されるまでのタイムラグを考慮すれば、同時代の証言である『祢覚譚』の明和五年の記述は、めくりの語が明和七年以後の文芸作品に頻出するという資料事実にも合致しています。明和五年をめくり流行の定点と捉えて良いでしょう。
単なるめくりの流行現象だけでは無く「鬼入」まで知っている所を見ると、やはり鳩翁自身めくりを打った経験が有ったのではないかという疑惑が湧きます。
「鬼札」入りのカルタを鬼入と呼ぶ事は、他の資料にも見られます。
これはめくりの流行期よりかなり後の資料ですが、同時代資料である『祢覚譚』の証言によって、流行当時から使われていた言葉だった事が明らかに成りました。めくりの流行が始まった後に「鬼札」が加えられたとしている点も両書で一致しているのですが、実は必ずしもそうとは言い切れない事を示す資料が有ります。繁雑に成り過ぎるのでここでは省かせて頂きますが、少なくとも鳩翁を含む当時の世間の人々の目には、その様に映っていた事は言えるでしょう。
「かるた御吟味」と、それに伴って「山城屋入牢」という二つの事項が書かれていますが、この様な事件が実際に有ったのでしょうか。これについては詳しく検討したいと思います。少々長くなりますが、お付き合い下さい。
江戸時代を通して賭博は御法度とされ厳しく取り締まられましたが、カルタを使用した賭博も例外では無く、取り締まりの対象になっています。処罰の軽重は時代によっても違いますが、主に賭け金の高下によって段階が有り、大まかに言えば正月の松の内に内輪で行われる様な少額の博奕はほぼお目こぼし状態と言って良く、一般的に賭け金が少額で常習性が少ない場合には比較的寛大な処分が下される傾向が有ります。他方、高額の賭け金や組織的、常習的なカルタ賭博に対してはかなりの厳罰が課されます。
しかしこれらは、あくまで賭博行為に対する処罰であって、カルタ札自体の売り買いや所持、金銭を賭けない競技に関しては、少なくとも寛政の改革以前には殆ど取り締まりの対象には成っていません。殆どと言うのは、唯一度だけめくり大流行の真っ只中である安永三年(1774)に、カルタを取り扱う問屋に対する厳しい吟味と処分が下された事件が有ったからです。この一件の事は大田南畝の『半日閑話』にも記録されています。
又『雨譚注万句合』で、安永四年(1775)の川柳點の勝句を引いて次の注釈を加えているのは、この一件を踏まえての事と思われます。
何れも「めくり」に対する禁制と捉えている様ですが、実際に取り締まられたのは「めくりを打った人」では無く、「めくり(札)を売った人」でした。しかも大手のカルタ問屋が狙い撃ちにされた様です。
『白木屋古今記録帳』(東京市史稿 産業25)と『十組仲間控』(東京市史稿 産業25ー141)を元に、この事件のあらましをご解説しましょう。
安永三年(1774)の十二月二十一日、江戸市中でカルタを取り扱っていた小間物問屋十一軒に南町奉行牧野大隅守の手下の者が訪れ、店のカルタ類を全て封印の上五人組に預け(証拠品の差し押さえです)、支配人に対して奉行所への同行を求めました。十一軒の内訳は、江戸の大手の織物・小間物問屋の組合である「三拾軒組」に属するものが白木屋を含む三軒。残りの八軒は組合には属さない中小の問屋ですが、カルタを多く取り扱っていた店であろうと思われます。
『白木屋古今記録帳』によると奉行側の言い分は
「博奕用候道具夥敷仕入賣買いたし候段不届之旨」
つまり、賭博に使う道具を大量(押収されたカルタは、白木屋分だけで4930面)に売り買いするのは不届きであるというもので、予てからカルタの商いを公然と認められていた彼等としては、トンデモナイ言い掛かりですが
「御呵之入牢被仰付奉驚入候。」
有無を言わせず、即刻入牢を申し渡されてビックリ仰天!!
関係者による必死の弁明と詫び入れによって、五日後の十二月二十六日には入牢が解かれ、身柄は家主預かりと成ります。その後、この一件は組合仲間や他のカルタ問屋も巻き込む形で翌年迄吟味が続けられ、安永四年(1775)四月二十三日に結審します。注目の判決は・・・
「先達て追々預置候輕板不殘御取上、三拾貫文ツヽ過料被仰付」(『十組仲間控』)
差し押さえていたカルタは全て没収の上、各自に三十貫文(現代の感覚では凡そ70~80万円位でしょうか)づつの罰金が課されました。
尚、この事件についての詳細については江橋崇氏の論文「かるた賭博と寛政の大弾圧」(『歴史と人物 136号』中央公論社 昭和五十七年)及び、江橋崇著『かるた』(ものと人間の文化史173 法政大学出版局 2015年 pp.198-199)に詳しいので、そちらをご参照下さい。
以上が安永三年の事件の顛末です。この唐突に見える取り締まりは、一体どの様な思惑を持って行われたのでしょうか。
当時の江戸は、空前のめくりブームの真只中にありました。「当世ハねこも。しやくしも。めくりの座。」(安永二年刊『千里の翅』)という情況であり、しかも多くは何がしかの金品を賭けていた事は百も承知で、奉行所としても苦々しく思っていたのは間違い無いでしょう。しかし、本腰を入れてめくりを取り締まろうとすれば、奉行所の業務がパンクするのは目に見えています。手をこまねいていた処、何処の誰かは知りませんが
「だったら、カルタが手に入らない様にすればイイんじゃね? 俺って天才?」
と思い付き、カルタの入手ルートを遮断する作戦に出ました。これが安永三年に起きた、奉行所によるカルタ問屋一斉摘発事件の真相(多分)です。
さて、この一件は江戸カルタ全般や、当時大流行中だっためくりに対してどの様な影響を与えたのでしょうか。結論から言えば、殆ど影響は無かったと言っても良いでしょう。流石に、本件吟味中の安永四年の正月には一時的にカルタ不足の状況が発生した様で、カルタ好きの大名、柳沢信鴻の日記に記録されています。
信鴻さんの口調は、何とも迷惑そうですね。しかし新品は売っていなくとも、使い古しでも何でもカルタ札さえ有れば全く問題有りません。当の柳沢信鴻がこの年の一月中にカルタを打った記録を、日記から抜き出して見ましょう。
元日に始まり、小正月迄を中心に合せて12日に及び、五日から十三日の間に至っては何と連夜の9連チャンです!!
公儀の御意向を憚って、しばらくカルタ遊びを自粛した気配は微塵も感じられません。大身の大名である柳沢信鴻にしてこの有り様ですから、況んや町衆供においてをや。
一件は問屋サイドの必死の弁明も空しく、一方的な敗北で幕を閉じました。奉行所サイドとしては、シテヤッタリという思いでほくそ笑んでいたかも知れませんが、そうは問屋が卸しませんでした。いや、「その後、大手の問屋はカルタを卸しませんでした」というのが正確かも知れません。
実際『白木屋古今記録帳』によれば、白木屋はこの事件後カルタ類一切の取り扱いから手を引きましたし、組合に属する大手の問屋もこれに追随したであろうと思われます。何しろ彼等はカルタなど扱わなくとも商売上大きな痛手は有りませんので、敢えて危ない橋を渡る必要は有りません。しかし、カルタを主力商品としていた零細の業者にとっては死活問題ですし、逆に大手の撤退は彼等にとってはまたとないビジネスチャンスでも有ります。何しろ需要は有るのですから、カルタさえ有れば飛ぶ様に売れた事でしょう。恐らくお上をあまり刺激しない形で商売を続けた筈です。実際管見では、その後安永・天明期を通してカルタの販売者が奉行所によって検挙された事例は次の一件のみです。
やはり性懲りも無く、カルタを売り捌いていた不届きな輩はいました。お咎めを受けた十兵衛さんは零細な商人と思われます。日付を見ますと奇しくも四月二十三日、問屋一斉検挙事件の結審した正にその当日ですので、奉行所もまだ張り切っていたのでしょう。恐らく見せしめとして、運悪く目を着けられてしまった十兵衛さんに下された処分は「急度叱(きっとしかり)」つまり厳重注意という比較的軽いものでした。その後は同様の事例は見当たりません。そもそも奉行所はそれ程ヒマでは有りません。
安永四年以後も、人々は何事も無かったかの様にカルタを打ち続け、めくり熱は一向に衰える気配を見せていません。資料事実から言えば、めくりブームの真のピークはこの後にある様に見えます。丁度この安永四年に新たな文芸分野として誕生した黄表紙には、格好の題材としてカルタ、主にめくりが数多く取り上げられており、正にめくり資料の宝庫と言って良いでしょう。この状況は寛政三年(1791)迄続きます。
フゥー、又々調子に乗って長々と語ってしまいましたが、漸く『祢覚譚』の話に戻ります。
『祢覚譚』に書かれた「かるた御吟味」と、それに伴う「山城屋入牢」の事件はいつ起きたのでしょうか。
この件に関して、江橋崇氏は『かるた』の中で『曳尾庵雑記』(早稲田大学図書館蔵の『我衣 巻一ノ二』の別本。内容はほぼ同じ)の記事として次の様に紹介されています。
寛政年間にはさすがに厳しく執行されたし、全国の各藩にも通達されて、各藩でも取締りが厳しくされた。カルタ制作、販売の禁止を象徴するように、カルタ問屋である「山城屋」の主人が入牢を申し渡されたりもした江橋 崇『かるた(ものと人間の文化史 173)』(法政大学出版局 2015年 p.206)
つまり、寛政の改革に伴う出来事と考えていらっしゃいますが、管見ではその様な事実を示す資料は未見です。しかも『祢覚譚』の前後の文脈からすると、この一件は明和五年から天明末年の間の出来事と捉えた方が自然に感じられます。つまり安永三年か? その通りです。
『白木屋古今記録帳』にはこの時に入牢した十一軒の問屋の名前が示されています。
「山城や甚兵衛・近江屋五郎兵衛・川内屋長兵衛・木屋九兵衛・鹿嶋や庄兵衛・鍵屋彦次郎・寺本九郎右衛門・岩附や喜兵衛・近江屋九兵衛・大橋小左衛門・手前方都合拾壹軒同様之御咎」
最後の「手前方」が白木屋の事で、木屋九兵衛と鍵屋彦次郎と共に三拾軒組の仲間であり、他の八軒は組合外の問屋です。一番最初の「山城や甚兵衛」が『祢覚譚』に書かれている山城屋である可能性が高いと思われます。しかし何故、『祢覚譚』には山城屋一軒のみが記されたのかという疑問が残ります。
実は著者鳩翁は他の問屋の存在を知っていたにも拘らず、何等かの理由で山城屋のみをピックアップして記録したとは考えにくく、世間の噂話に山城屋のみ実名を揚げて語られていたという事かと思われます。では何故それが山城屋だったのかというと、この時に検挙された十一軒の問屋の中で、カルタ問屋としての知名度が最も高かったのが山城屋だったのでは無いかと考えられます。
そもそもカルタ愛好家にとって、カルタ問屋とはどの様な存在なのでしょうか。
カルタの流通の最初にあるのは製造者です。カルタは製造者によってデザインに違いが有り、ブランド化されていましたが、特に有名なのが「松葉屋」「布袋屋」「笹屋」の三大ブランドで、多くの文献にも登場します。時代によっても違うでしょうが、恐らくこの三者によって江戸時代のカルタ市場のシェアの大部分が占められていたと思われます。これらの製造元の名前が文芸作品の中にも登場する事から考えて、製造元としてのカルタ屋の名前は或る程度人々に認識されていたと考えるのが自然でしょう。
完成したカルタは問屋によってまとめて買い取られ、小売商へと卸されます。カルタ愛好家にとって最も重要な問題は、何処で実際にカルタを手に入れられるかですので、取り敢えず問屋は飛ばして小売商の方を見ましょう。
この事件に関する記録によって、当時カルタが主に小間物屋によって販売されていた事が判明しました。小間物屋の形態には店舗を構えるものと行商が有りますが、恐らく行商の方が多かった様に思われます。
小間物屋の主力商品は簪(かんざし)や櫛(くし)といった女性向の小物類ですが、これも女性専用の或る商品も扱っていました。主な得意先は武家屋敷の奥女中方。周りに人気の無いのを確認して小声で「ちょうど鼈甲製の極上品が入ったのですが、ご覧になりますか?」と、荷物の底に隠しておいた例の物を取り出します。「ふぅ~ 手触りといい、反り具合といい、良さそうじゃのう~」という訳で商談成立です。何の事だか分りますよね? ヒントは要らないですよね?
誤解しないで下さい。何も好き好んで下ネタに走っている訳では有りません(嫌いじゃ有りませんが)。この張形(あ、言っちゃった)の販売方法が、そのままカルタに応用出来ると思うんです。特にカルタに対する禁制が厳しい時期には、余り大っぴらにカルタを売りさばくのには危険が伴います。荷物の奥にカルタを忍ばせて置き、勝手知ったるお得意先にはそれと無くカルタの話題に触れながら「ところで旦那、例の物有りますぜ」という感じで売りさばいていたのでは無いでしょうか。まあ、単なる想像ですが。
一方、製造元と小売業者の間にあるカルタ問屋となると、カルタの使用者にとっては言わばドウデモイイ存在であり、その名前など知らなくて当然でしょう。山城屋のみでも名前が語られているのが、逆に不思議な位です。
ここで、入牢した十一軒の名前のリスト↑をもう一度ご覧下さい。最後が白木屋なのは当然として、何故山城屋が最初なのでしょうか。勿論あいうえお順でも、いろは順でも有りません。又、三拾軒組に属する大手の問屋である木屋と鍵屋が中間辺りですので、一般的な商売の規模や知名度とも関係無さそうです。順番に特別な意味など無いのでしょうか。勿論そうかも知れません。
しかし、もしも何等かの意味が有るのだとしたら、唯一考えられる可能性としてはカルタ問屋としての商売の規模と知名度です。入牢した十一軒の問屋の全てがカルタを扱っていたのは事実ですが、扱い量は店の規模と比例する訳では有りません。もしも、ことカルタの扱い量に関しては山城屋がトップで有り、江戸のカルタ問屋を代表する存在、筆頭格と目されていたとすれば吟味対象者リストの筆頭に挙げられていても不思議では有りません。
仮に江戸のカルタ問屋の中で山城屋が代表的な存在であったのだとしたら、本来カルタ問屋などには無関心な世間一般も山城屋の名前くらいは知っていたかも知れません。巷の噂話に「カルタ問屋に奉行所の手入れが入ったてよ。あの山城屋も入牢になったそうな。」と囁かれるのを耳にした鳩翁によって、山城屋にとっては極めて不名誉な入牢という事実が後世に伝えられる事となりました。不運にも入牢という汚名を一手に引き受けてしまった山城屋に対して、他の十軒の問屋は感謝しつつも密かにほくそ笑んでいた事でしょう。勇気を出して「#Me Too」などと名乗り出た者などいた筈も有りません。
もう一点、山城屋が特別な存在だった可能性を匂わせる鍵が有ります。「山城」という屋号です。
カルタの世界で「山城」というと、真っ先に思い浮かぶのは京都のカルタ屋「井上山城」の事です。
山口吉郎兵衛氏は『うんすんかるた』(リーチ 昭和三十六年)の中で、この井上山城は先述の老舗カルタ製造元「松葉屋」の別号だという説を唱えられています。『うんすんかるた』に松葉屋カルタの古版木の複製が二種収録されていますが、共にオウルの2の札の上部に「松葉屋」、下部に「山城」の文字が書かれています。
又、同書にも引用されている『集古』に、当時の好事家の収集品の記録が有ります。
ウンスウ加留多の板形 元禄頃 一枚
京からす丸通五条下ル上大坂町井上山城の銘あり『集古』癸亥(大正十二年)第四号 集古會
ここで言う「ウンスウ加留多」は当時の慣例からすると、所謂75枚のうんすんかるたの事では無く、48枚系のカルタを指している可能性が高いと思われます。何れにせよ井上山城が歌かるた類のみでは無く、賭博系カルタの製造にも携わっていたのは間違い無いと考えられ、「井上山城」=「松葉屋」説の信憑性は高いと思われます。
仮に「山城」が松葉屋の別号であったとすると、入牢した山城屋とも何等かの関係が有った可能性が有ります。もしも江戸の山城屋が京都の松葉屋の系列であったならば、例えば松葉屋カルタの江戸での販売権を山城屋が独占していた可能性も考えられ、江戸のカルタ業界の中心的な立場にあったとしてもおかしくは有りません。おかしくは有りませんが・・・もしそうだったにしても、実は松葉屋カルタが代表的なブランドだったのは、比較的江戸の早い時期だった印象が有り、めくり全盛時には寧ろ笹屋カルタがトップのシェアを占めていたと思しき証拠が有りますので(この件に関しては、後日別稿にて詳述予定)、あまり説得力は有りませんね。
最後は少し弱気に成ってしまいました。実際、もしも「山城屋が江戸を代表するカルタ問屋だった事を示す、具体的な証拠は有るのか?」と問われたならば、「そんなもんありゃしません。悪しからず。」とお答えするしかありません。まあ、一つの仮説としてお楽しみ頂けたら十分です。
おや? いつの間にか「鬼入」が無くなっている事まで気付いていらっしゃいますよ。
「たしか前に打った時には鬼札ってのが有ったけど、最近は無いんだね。日記に書いておこう。」
やはり鳩翁さん、時々めくりを打っていたに違いない。
「此時」とは山城屋の入牢を指しますので、安永三年の事に成ります。めくりの「鬼札」が登場する文芸作品の年代毎の分布を見ますと、明和八年(1771)から安永二年(1773)の間に6点見られ、安永三年(1774)から安永五年(1776)は何故か0点。安永六年(1777)から再び多く見られ、天明四年(1784)迄に14点が確認出来ます。その後天明五年(1785)以降は稀になり、合せて数点が確認出来る程度です。
安永三年からの空白の三年間に、何等かの形で山城屋入牢事件の影響が有った可能性も否定出来ません。この間一時的に「鬼札」が姿を消したとすると、鳩翁の目には山城屋の一件の後に「鬼入何となく止む」と映ったとも考えられますが、何分にも全体の資料数が少ない為、確定的な事は何も言えません。しかし少なくとも、この安永三年の時点で「鬼札」が完全に消滅した訳では無いのはその後の資料事実の示す所です。
「鬼札」をめぐる緒問題については近々(本当か?)考察を発表する予定ですので、それ迄もう少々お待ち下さい。
「米久離」の使用例については以前にも紹介しましたが、再掲載いたします。
「女久離」の使用例も見つかりましたので、併せて紹介致します。
めくりに対するこれらの表記が、それぞれの著者による勝手な当て字などでは無く、当時の人々によって広く認識されていたもので有った事が『祢覚譚』の記事から確認出来ます。尤も、逆にこれらの著作に見られた表記を人々が面白がり、世間に広まって行ったという方向も考えられますが。
「すべた」がめくりから出たという事に関しては、他の考証随筆類にも同様の認識が示されています。
明和九年(1772)は既にめくりの流行期にあり、この時迄にカルタ用語としての「すべた」が生み出されていて、それをスベタゴマの名称に転用したという説明に矛盾は有りません。
現代の辞典で「すべた」の意味を見ると、次の様に記されています。
スベタ
(ポルトガル espadaから。元来はカルタ用語で、「剣」の意)
①めくりカルタで、点にならないつまらない札。
②とりえのないつまらない者。賤しい者。
③顔かたちの醜い女。また、女、特に娼婦を卑しめていう語。
〔語誌〕(1)もと、遊具トランプの四種の文様の一つからと見られる。四種のうち最も価値の低いものとされたと見え、それが②③の意に転用された。③は特に外形面の非難が強く、行動や精神面での軽はずみへの非難を示す「蓮葉」と対照的に使用された。『日本国語大辞典 第二版』小学館 2000-2002年
この様に『嬉遊笑覧』と認識を同じくしており、「すべた」は元々めくり或いはカルタ用語であり、後に人に対する蔑称へと転用されていったという過程は、紛れも無い事実の様に思われます・・・が、ちょっと待って下さい。その様に断定するには少し都合の悪い資料が有るのです。
管見では「すべた」の初出は次の雑俳です。
句意不明ですが、カルタ用語という印象は余り受けません。少なくともこの時期には、まだ「めくり」は誕生していなかったと思われます。
明和三年は、めくりの誕生時期としては上限ギリギリの線かと思いますが、少なくともまだ流行という程の状況では無かったと考えられます。
これも句意は不明瞭ですが、この「すべた」はカルタ用語とは解し難く、人に対する語と受け取るのが自然に感じられます。
これらの資料の存在から、「すべた」をカルタ用語起源と断定するには今少し慎重な態度をとるべきだと考えます。僅かな資料ではありますが、「すべた」の語がめくり或いはカルタ用語として使用される以前から存在していた可能性は高いと考えます。但し「すべた」の語が頻出するのは、めくり流行後の明和末以降であるのは事実ですので、鳩翁を含めた当時の人々が「すべた」をめくりから生まれた言葉だと認識していたのも紛れも無い事実でしょう。
ついでに「すべた」の語源について考えます。
前掲『日本国語大辞典 第二版』ではポルトガル語の「espada」を語源としていますが、実はこの「espada語源説」は他にも『角川古語大辭典』『広辞苑』前田勇編『江戸語大辞典』等を始めとして、殆どの辞典類に採用されています。
この「espada語源説」を最初に唱えられたのは、『広辞苑』の編者である国語学者の新村出氏であろうと思われます。
スベタといふ卑俗語も又カルタ用語のイスパダの轉で日本語の素下手といふ様な連想も手つだつて、あゝいふ意味に轉じていつたのだ。新村出「賀留多の傳來と流行」『南蠻更紗』収録
改造社 大正十三年 p.113
「espada」以外に語源を求める説も紹介しておきましょう。
「スベタ」という言葉は、一時新村出博士が剣の札のespadaの転訛だとされ、これに従っている人も多いが、実際に剣(イス)の札には点の入る札もあるので、楳垣実氏も「素札」の転訛であろうという説を立てておられる。山口格太郎「日本のかるた」濱口博章・山口格太郎共著『日本のかるた』収録
保育社カラーブックス282 昭和四十八年 pp.132-133
スベタ この語は天正ガルタの用語であることから、(ポルトガル語)espadaが原語だと説かれてきた。しかし天正ガルタのスペイド札には「イス」という名が使われていたので、この語こそespadaの借用だと考えられる。スベタと呼ばれた札はすべて0点札で、全部で22枚もあり、スペイドの札の中には1枚もない。だから、espadaとは無関係で、「素ふだ」「尻べた」の意の「素べた」だと考えるのが穏当かと思われる楳垣実編『増補 外来語辞典』 東京堂出版 昭和四十一年
山口氏は、楳垣氏の説を「素札」が訛って「すべた」に成ったと理解されている様なので、取り敢えずこれを「素札語源説」と呼ぶ事にします。しかし楳垣氏の説をよく読むと「素札」の「素」と、「尻べた」とか「頬っぺた」等の、特に意味を持たない接尾語の「べた」が組み合わさったものとお考えの様ですので、これを「素+べた語源説」としておきます。
「espada語源説」に関しては楳垣氏による批判でほぼ尽くされていると思いますが、少し補足します。
「espada」を表す「伊須波多(イスパダ?)」は、文献上では貞享三年(1686)刊の『雍州府志』等に「イス」の語源として記されていますが、カルタ用語として使用された事を示す資料は残されていません。カルタ渡来当初の早い時期には「イスパダ」が使用されていた可能性は高いと思われますが、これに替わる「イス」の語の起源は古く、資料上では万治二~四年(1659-1661)成立の『東海道名所記』が初出です。少なくともそれ以前に「イス」の語が広まっていた、裏を返せば「イスパダ」の語が使われなくなっていたのは確実です。「すべた」の初出が宝暦二年(1752)の『雪こかし』ですので、そこには凡そ100年の隔りが存在しますので、「espada(イスパダ)」が訛って「すべた」に成るという過程は、まず起こり得ないでしょう。
次に「素札語源説」を検討しましょう。
「素札」の語は、例えば『江戸語大辞典』では「①めくりカルタで、数にならぬ札。四十八枚中、二十四枚ある。素札(すふだ)」と、「すべた」の語義の説明のなかで用いられており、『広辞苑』等にも同様の記述が有ります。「素札」は正にカルタ用語としての「すべた」の意味そのものに合致していますので、これを語源と考えるのは大変魅力的なアイデアに見えますが、この説が成立する為には「すべた」が元々カルタ用語として誕生したものである必要が有ります。しかし既にお示しした通り、カルタ用語としての「すべた」に先立って人を指す用法の「すべた」が存在した可能性が有ります。その場合には「素札語源説」は根本的に成立し得ません。
もう一つ別の観点から考えて見ましょう。当方、言語学やら国語学やらには全くズブの素人の感覚から言わせて貰えば、果して「スフダ」が「スベタ」に転訛するものなのでしょうか。そもそも「スフダ」という語自体がさほど発音しにくい語とは思われませんので、転訛すべく必然性を感じません。
「スフダ」と「スベタ」とに共通するのは頭の「ス」のみであり、中間が「フ→ヘ→ベ」と変化するのと並行して末尾が「ダ→タ」と変化する必要が有ります。果してこの様な複雑な転訛が起こり得るものなのでしょうか。自分の不勉強を棚に上げて言わせて頂けば、「素札語源説」は感覚的に受け入れ難く感じられるのですが、如何でしょうか。
「素+べた語源説」に関してはこれを具体的に否定する術が有りません。と言うのは、何故「素」と「べた」が結合したのか、その理由が示されていないからです。従って可能性としては否定出来ないものの、他に同じ様な過程で生まれたと考えられる言葉も思い浮かびませんし、余り有り得そうには思われません。
以上、既存の語源説の中には納得のいくものは有りませんでしたので、それに代わるアイデアを幾つかお示ししたいと思います。
前掲、新村出氏の「賀留多の傳來と流行」(『南蠻更紗』)からの引用の中に「日本語の素下手といふ様な連想も手つだつて」と有りますが、この「素下手」こそが「すべた」の語源なのでは無いでしょうか。「素下手」を「素」と「下手」に分けて意味を調べると、それぞれ次の様な語義が見られます。
す【素】二①多く人を表す語に付いて、平凡である、みすぼらしいなど軽べつの意を添える。
へた【下手】③身分が卑しいこと。また、性質や行状のよくないこと。また、そのさまや人『日本国語大辞典 第二版』小学館 2000-2002年
この様に、共に人に対する軽蔑的な意味合いを持つ事が分ります。「素――」の用例としては「素寒貧(すかんぴん)」「素浪人」等が挙げられます。「――下手」の例としては「口下手」「話し下手」等が思い浮かびますが、共に「――べた」と濁音で発音される点にご注意下さい。「素+下手」も「す+べた」と濁るのが自然な音便かと思われます。
この「素+下手語源説」には資料的裏付けが有ります。江戸期の資料では「すべた」は殆ど仮名で表記されるのですが、漢字表記されている僅かな例の一つが「素下手」です。
奇しくも共に安永二年の刊です。もう一つ、ほぼ同時期に「素下手」とよく似た「数下手」という表記が見られます。
「数+下手語源説」です。こちらの方がめくり用語としての「すべた」の意味に良く合っている様に感じられますが、「数」を「す」と読ませるのは少し強引な気もします。恐らく「すべた」の語がめくりに取り入れられ、広まった後に創作された当て字である可能性が高い様に思われます。
最後にもう一つアイデアをお示ししておきます。ネタ元は尾佐竹猛氏が『賭博と掏摸の研究』(大正十年)の中で、享保頃の『加役書留』(原本不明)の記述として紹介されているものです。
盗之詞、一、おいてう市と言は不残不取、一色を残して盗来るをおいてうと言、其内之一番と言ふものには市と言
一、ぶたと言は盗に入一色もとらざるを言、すめしたとも言。尾佐竹猛『賭博と掏摸の研究』 大正十年
盗人仲間内の隠語という事ですが、これらがカルタ技法「かう」から出ているのは明らかです。9点の「かう」に対して、1点少ない8点が「おいてう(おいちょう)」ですので、品物を一点だけ残すという意味に通じます。一つも取らないのが「ぶた」つまり0点ですので、めくり用語としての「すべた」意味に合致します。「ぶた」に接頭語として「素」が結合した、「素ぶた語源説」が考えられます。
又、「ぶた」と同義とされる「すめした」と「すべた」の間には、音的にも僅かながら共通する部分も有りますので、何等かの繋がりが有ると考えても強ち荒唐無稽な話では無いでしょう。一応「すめした語源説」として提示しておきますが、残念ながら傍証は全く有りません。
以上、「すべた」の語源について色々と見て来ました。少なくとも「espada語源説」は成り立たないと考えますが、他の説はどれも帯に短し襷に長しという感じで、決定打は有りません。その中で敢て一つだけ選ぶとすれば、①意味が合致する事、②音が共通する事、③文献上の裏付けが有る事から「素下手語源説」が一番マシかと思うのですが、如何でしょうか。
《追記その壱》
「数+下手語源説」に関して「“数”を“す”と読ませるのは少し強引な気もします。」と書きましたが、その後気を付けて見ていると“数”を“す”と読む例を複数見かけました。例えば「数寄屋」等もそうです。「数」を「す」と読む事自体はさほど不自然では無い様です。
《追記その弐》
或る日、古い研究ノートを眺めていたところ、次のメモ書きが目に留まりました。
“「日葡辞書」ソーブツ(惣物)~スベタモノ”
いつ頃書いたものか(少なくとも10年以上前ですが)、ネタ元は何処だったか、全く記憶に有りません。慌てて図書館で調べてみますと、次の記載が有りました。
Sobut. ソゥブッ(惣物)Subeta mono.(惣べた物)すなわち、奉公人の粗末な着物。『邦訳日葡辞書』岩波書店 1980年
念の為、原本である1603年の刊本の写真版(『日葡辞書』勉誠社 1973年)を確認すると、確かに「Subeta mono.」と有ります。「惣物」の意味は「奉公人の粗末な着物」、つまり所謂“仕着せ”“四季施”の事で、その同義語が(或いは他の語で言い換えれば)「すべたもの」だという事です。
大変な事に成りました。今迄「すべた」の語の初出を宝暦二年(1752)『雪こかし』だとしていましたが、何と一気に150年も遡った慶長八年(1603)の記述です。従って実際にはそれよりも前、つまり江戸時代が始まる以前から「すべた」の語が使われていた事が判明しました!!! そしてどうやら“つまらない物”という意味合いが、「すべた」の最も古い語義だった可能性が高まったと言えます。
これで「すべた」が「めくり」の用語から出たという説は完全に否定されました。まだ、何等かのカルタ用語が起源である可能性は残されてはいるにせよ、かなり低いと考えて良いでしょう。何しろ、明らかにカルタに関連する語として「すべた」が登場するのは、少なくとも170年以上も後の事ですから。これにより「すべた」の語源として「espada語源説」「素札語源説」「数+下手語源説」に関しては、成立がかなり危うくなったと言えるでしょう。
代りに検討せねばならないのは、「惣物(そうぶつ)」が「すべた」の直接の語源ではないかという「惣物語源説」です。「そうぶつ」と「すべた」・・・似ていると言えば似ている様な・・・いや、やっぱり余り似て無いかなー。「そうぶつ」が訛って「すべた」に変化するかというと微妙ですね。でも「S-B-T-」という音の組み合わせは、偶然にしては出来過ぎている気もしますし。或いは「そうぶつ」の隠語として、無理やり捻くり出した造語か?
まあ、「すべた」に関しては、今後新たな資料が見つかりそうな気もしますし、今は結論を保留させて頂きます。
ところで『日葡辞書』の「すべたもの」について、改めて各種の辞典・辞書類を見直してみたのですが、どこにも 見当たりませんでした。一体全体何処で見つけたのでしょうかね?
本稿では【1】【2】において謎の写本『祢覚譚』を紹介し、それが松平鳩翁が自身の見聞を記した自筆本である事、及び加藤曳尾庵著『我衣』の「巻一ノ二」のネタ元である事を示しました。
【3】では『祢覚譚』の成立過程を検討しましたが、実は正直なところ内容にあまり自信は有りません。しかも、もし正しかったにせよ大して重要な問題では有りませんので、読み飛ばして頂いても一向に差し支え有りません。(今頃言うな!!)
【4】では『祢覚譚』の記事を他の資料と比較検討する事により、その内容が或る程度信頼の置けるもので有る事を示しました。尚、途中に挿入された与太話の類の事は一刻も早く忘れて下さい。
【5】では無理やりカルタ研究としての体裁を取り繕いました。例によって話が拡散しまくっていますが、「山城屋入牢」の件と「すべた」の件については特に力を入れています。本文中にも書きましたが、実は並行して「笹屋カルタについて」「鬼札考」も考えていたのですが、余りにも長く成りそうなので本稿からは外し、別稿にて発表させて頂く事としました。
これらを踏まえて、最後にカルタ資料としての『祢覚譚』の持つ意義を検討したいと思います。
先ず心しておくべき事は、例えば明和六年の彗星出現を明和五年と誤認したケースの様に、『祢覚譚』の記事を無批判に100%信用してはならないという点です。尤もこれは、あらゆる資料に対して等しく求められる姿勢ですし、寧ろ著者の自筆による同時代の記録という点において、比較的信頼性の高い方と考えても良いでしょう。
更に、記録された内容はあくまで、著者である松平鳩翁(恐らく江戸在住の、比較的上級の武士階級に属すると思われる)というフィルターを通したものである事に注意する必要が有ります。
カルタに関する記事に限っても、これらの点に留意して慎重に扱わねばならないのは言う迄も有りませんが、その上で評価を下すとすれば、めくりの流行期をリアルタイムで経験した同時代人の証言として、極めて重要な資料であると考えます。
以上で本稿「新発見資料か?『祢覚譚』について」の本編を終わらせて頂きます。
「ちょっと待った~ 本編は終わりって・・・まさか?」
はい、残念ながら悪い予感は当たりです。次回は、いよいよ満を持して「おまけ」へと突入致します。内容はズバリ「『祢覚譚』の著者、松平鳩翁とは一体誰なのか」という問題です。
以下の文章中には“江戸カルタ”に関係する事項は全く含まれておりません。カルタに興味、関心をお持ちで閲覧されている読者様にとっては無用の長物、時間の無駄以外の何物でも有りません。悪い事は言いませんので、下のリンク↓から次のページへ抜ける事をお勧めします。
《次ページへの抜け道》
・・・それでも読むとおっしゃるのならばもう止めませんけど、後悔しても知りませんからね。
①プロローグ
『祢覚譚』についての探求の最後のテーマは、著者の松平鳩翁とは一体誰なのかという問題です。今回は説明を分り易くする為に対話形式で進めて行こうと思うんですけど、誰か相手をしてくれる人はいないかな~ オーイ そこの君ぃ~。
「へ? あたしですか?」
おや? 君は何時ぞやの人。実は相方を探してるんだけど、手伝ってくれる?
「よござんす。他ならぬ旦那の頼みとあっちゃ、ここは一肌脱がせて頂きやしょう!」
(何か不安だなー。まあ、しょうがないか)それじゃあ相方、宜しく頼むね。えーと・・名前は?
「決まってませんけど。」
あら。それじゃあ決めとこうかね。えーと、私“すだれ十”の相方として真っ先に思い浮かぶ名前といえば・・・
「釈迦十!!」
・・・ですが、何かそっちの方が偉そうなので却下します。あっ、そうだ。“かっぱ十”にしましょう。
「絶対イヤです。」
えー ダメ? じゃあ名前は後回しにして、コンビ名を決めようかと・・
「御無用!」
しょうが無いなー。じゃあ本題に入る事にしましょうか、かっぱ十君!
「キャー ヤメテー」
②松平鳩翁の人物像
図書館には色々な分野、時代の人名辞典の類が並べられていますが、多分松平鳩翁の名の記載された物は有りません。勿論ネットで検索しても無駄です。身も蓋も無い言い方に成りますが、つまり松平鳩翁は歴史上に名を残す様な功績の有った人物では無かったのは確実です。しかし諦めるのは早すぎます。“鳩翁”というのは号であり、しかも高齢になってから使用されたものと考えられます。松平鳩翁とは言わば世を忍ぶ仮の姿、本名の松平○○として何等かの行跡が残されている可能性も有ります。
「あのー、ちょっといいですか? 今更なんですけど“鳩翁”の読み方は“きゅうおう”でいいんでしょうか? 会話となると読み方が分らないと不便なもんで。」
ご尤も。確信は有りませんが、それでいいと思います。
『祢覚譚』には鳩翁自身の個人情報に係わる事項は記されていませんので、重要参考人である加藤曳尾庵による随筆、『我衣』の中から手掛かりを探すしか有りません。本稿でも幾つかプロファイリングを試みましたが、覚えています?
「えーと、先ず二人の交流があった文化十年頃にはかなりの高齢だった事は確かです。」
だよね。
「江戸在住の武士であり、しかも幕臣だったのは動かし難いでしょう。」
そうそう。
「かなりの蔵書を持ち、自宅に御書庫を設けている位ですので教養の有る、しかも経済力も有る人物でしょう。更に自宅に大黒屋光太夫を招いて話を聞くなど、ある程度以上の身分でなくては不可能でしょう。しかし曳尾庵との交流の様子から見ると、大名クラスと考えるのはちょっと難しい。そうすると、少なくとも中級以上の旗本という線が妥当では無いでしょうか。」
素晴らしい! 完璧だ!! さすがは我が相方として見込んだかっぱ十君だけの事は有る。(ヨイショっと)
「いやー それ程でも・・(シマッタ! うっかり名前を認めちまった)て言うか、たまたま通り掛かっただけだった様な気もしますが。」
松平鳩翁の人物像が少し見えて来ました。しかし残念ながらこれまでの情報から読み取れるのはここ迄です。そこで一旦鳩翁の事は忘れて、別の突破口を探す事にしましょう。
『我衣』には松平鳩翁とほぼ同じ時期に、もう一人松平姓を名乗る気になる人物が登場します。彼の名は松平斧吉。
③曳尾庵と松平斧吉
松平斧吉の名が最初に登場するのは次の記事です。
この時曳尾庵は訳有って、彼の医術の師である山本永春院の小川町の医塾に単身寄宿し、医塾の手伝いの様な仕事をしていた様です。文化十一年二月二十六日、曳尾庵は小川町の師君の塾を引き払い、裏猿楽町の津見又兵衛殿の屋敷内の二間を借りて引っ越しました。小川町錦小路の北外れから東北に通じる道沿いが“表猿楽町”で、更に裏道に入った小路沿いが“裏猿楽町”です(現東京都千代田区猿楽町一・二丁目周辺)。
「首尾能く」と言っているので、この転居が曳尾庵にとって大変喜ばしい出来事だったのは間違い有りません。この転居先を世話してくれたのが“松平斧吉公”でした。
「名前に『公』を付けているので、やっぱり身分の高い人ですね。ところで訳が有って単身寄宿って、一体どうしたの?」
よくぞ聞いてくれました。実はそれには聞くも涙、語るも涙の物語りが有るんです。前年の文化十年三月の事、『我衣』に曳尾庵自身によって事の顛末が記されています。
「我等勝手向不如意」つまり金欠状態ですね。余談ですがこの“勝手向不如意”とか“手元不如意”とかの言い方って好きですね。個人的には未来に残したい美しい日本語に推薦したいと思います。で、町中は家賃も高い上に何かと物入りも多く、毎月質屋で借りて何とか凌いでいる状態だと愚痴っています。更に泣きっ面に蜂、預けてあった妻の着物と自身の腰刀が火事で燃えちゃいました。
「悲惨だー。でも預けていた下谷丸一ってのは多分質屋ですよね? もしも着物や刀が自宅で燃えてしまったら全てがパーですけど、質草ならば幾らかの金額を受け取っている訳ですから、まあ不幸中の幸いとも言えますね。」
その通りですね。 但し、その金額では元の質草と同等の品を買い直すのは無理ですから、やはり痛手は痛手です。
この窮地に際して曳尾庵は或る決断を下します。今迄住んでいた三河町の自宅を売り払い、自身は恩師に泣きついて単身医塾に寄宿、当時同居していた妻と末子の亀五郎はそれぞれ別の親戚に預かってもらう事に成りました。
「キャー それって一家離散という事じゃ・・・」
まあ、そういう事ですよね。幸い翌年の二月には松平斧吉の世話によって、裏猿楽町の二間の借家での親子三人水入らずの生活に戻る事が出来ました。
「ある君」とは恐らく松平斧吉の事でしょう。家来を遣わして、自分が世話した新居に何か不便は無いかと様子を伺わせています。面倒見のいい人ですね。又、二人の交友関係の深さを感じさせますね。
「いい話やね~」
④松平斧吉に係わる人脈
さて、いよいよ核心に迫って行きますよ。次の記事をご覧下さい。
浅草天文台は、当時浅草に有った幕府天文方の観測所です。勿論誰もが自由に見学出来た筈は無く、それなりの人物が、それなりのルートで申し込む必要が有ったと考えられます。今回の天文台見学ツアーの場合、実質的な主催者は斧吉君であり、東儀隼人之介を介して頼んだものでしょう。
「あのー ちょっとすみません。」
はい?
「“斧吉君”の読みは“おのきちくん”でいいんでしょうか?」
はい? “君”の読みが“きみ”か“くん”か迷いますが、多分“おのきちくん”だと思いますけど。何か?
「あのですねー、勿論“君”が敬称だという事は知ってますよ。頭では理解しているんですけどね・・・“斧吉君”と言うと、どうしても変なイメージが浮かんじゃうんですよ。」
へー、どんなイメージ?
「ニキビ面の中坊! ルックス的にはイマイチだけど陽気なお調子者で、女子にもそこそこ人気が有る。」
???
「憧れていた娘に思い切って告白したものの“斧吉君てイイ人なんだけどー、彼氏にはちょっと無理~、ずっと友達でいようね!”みたいな感じ?」
・・・
「何か言ってよ~ ここツッコム所でしょ~。」
ツッコムって、別に漫才じゃ無いんだから。
「へ? 違ったの? 相方って言うからあたしゃてっきり・・・。」
話を戻しましょう。この日の天文台見学ツアーの参加者は曳尾庵の他に小林金次郎、佐藤榮吉、山木玄良、日野や正作、それと案内役の東儀隼人之介の6人でした。
「ちょっとタンマ。この文章だとこの日当番の東儀隼人之介は天文台で一行を出迎えた様に読めるんですけど。そうすると連れ立って行ったのは5人の筈ですよね。なのに6人て、もう一人は誰? 座敷童子?」
はい、確かに私も同じ疑問を抱きましたが、東儀隼人之介も同道したと考えて良いと思います。彼の役目は夜の天体観測、つまり夜勤です。一行が天文台に向かったのは夕方の「七ツ時過」で、日没前のまだ明るい時間ですので、天文台に詰めていてもまだ仕事に成りません。恐らく東儀隼人之介の出勤時間に合わせて待ち合わせたのだと思います。ここは曳尾庵の文章がまずかった事にしておきましょう。
この日のメンバーは全員が松平斧吉と何等かの関係のある人物と思われますが、6人の立場はかなりバラエティーに富んでいます。一人ずつ見て行きましょう。
上のエピソードの主人公である医師三輪俊長が仕えているのは「三絃堀大久保侯」ですが、三絃堀は普通は三味線堀と書かれる地域です。文化十三年当時の烏山藩の藩主は大久保忠成で、江戸上屋敷は浅草下谷三味線堀に有りました(『文化武鑑』による)。他に該当する人物は見当たりませんので「三絃堀大久保侯」とは烏山藩主大久保忠成の事で間違い有りません。よって三輪俊長は烏山藩の藩医、「其藩中」佐藤榮吉郎も烏山藩士という事に成ります。たまたま同時期の烏山藩江戸詰藩士の中に良く似た名前の者が二人いて、共に松平斧吉や曳尾庵と交友が有った可能性も無くは有りませんが、あまり現実的とは思えません。二人は同一人物の可能性が高いと考えられます。
あっ、あと実際に名前を変えていた可能性も有ります。当時の人は結構頻繁に改名していましたから。
⑤一ノ宮村と松平家
相模国高座郡一ノ宮村の歴史を知る為の、格好の郷土資料が有りました。
「おっと、やっぱり“松平”が出ましたね。」
本書の成立した天保十二年(1841)当時の知行者の名前が松平主膳だという事、元禄十一年(1698)に先祖の(松平)長三郎忠和が拝領した事が判明しました。又、一之宮村の全域が松平氏の知行地だった訳では無く、森氏の知行地と御料(幕府の直轄地)も有った事が判ります。
松平主膳については後回しにして、この地を拝領した松平長三郎忠和の線から追って行く事にしましょう。
江戸時代の幕臣について調べる時に最も重要な資料は『寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)です。掲載対象は寛政期における御目見得以上の幕臣、つまり大名と旗本に限られますが、各家の系図と人物の事績が纏められています。
松平忠和は知行取りですので身分は大名か旗本であり、何れにせよ『寛政譜』に載っている筈です。探して見ると案の定有りました。彼の載る家系図をお示ししますが、繁雑になるので歴代の当主のみを抜き出し、本名と別称を記しました。
四代目当主に松平忠和の名が有り、通称として長三郎を称していた事が確認出来ます。この系図の正体が一番上に書いてあります。
「えーと、清和源氏の流れを汲む源義家から出ている訳ですね。松平・・・深溝 (ふこうず)!! あっ、前に出ていました。佐藤榮吉郎の主君、烏山藩主大久保忠成の出自が深溝松平家でしたね。あれですか?」
あちらが本家でこちらは分家という関係に有ります。『寛政譜』によると初代当主の松平忠貞は、深溝松平本家の四代目当主松平主殿助家忠の二男に当たります。「慶長八年めされて東照宮につかへ奉る。」つまり江戸幕府開府当初から徳川家康に仕えていたという名門です。『寛政譜』には深溝松平の分家が全部で七家載っていますが、その一番最初に記されているのがこの松平忠貞に始まる系統であり、初代当主の名を採って深溝松平忠貞家と呼びます。以後、特に断りの無く松平家と言う場合は深溝松平忠貞家を指します。
「又々関係者間の不思議な繋がりが見つかりましたね。何だかワクワクして来ました。でも逆に話が上手く出来過ぎている気もするので気を付けないといけませんね。ここは眉にツバを付けてと・・・ペロッ チョイチョイ。」
では松平家の四代目当主、松平長三郎忠和に話を戻します。『寛政譜』に載る彼の事績を見ましょう。
彼の代に大きな知行地替えが有り、その後は知行地替えの記録は有りませんので幕末迄そのまま続いた様です。元禄十年(1697)に相模国大住郡と高座郡、下野国芳賀郡の三ヶ所に采地(知行地の事)を賜り、更に宝永四年(1707)には他所からの移動で下野国都賀郡と芳賀郡に知行地を賜っています。芳賀郡には以前からの拝領地も有りますので、芳賀郡内に複数の知行地を有していた事に成ります。
「ちょっとタンマ! 疑問が二点有ります。先ず一点目ですが、相模国高座郡内に知行地を拝領しているのは間違い無いにせよ、一之宮村の名は出ていませんよね。彼が拝領したのが一之宮村だった事を示す資料は有るんですか?
もう一点、ここでは相模国高座郡の拝領を元禄十年としているのに対して、『新編相模国風土記稿』では元禄十一年の事としています。これを同一の事項とする根拠は?」
あなた、意外と疑り深いんですね。
「“旨い話にゃ気を付けろ”が親父の遺言なもんで。」
(親父さんとやら、旨い儲け話に騙されて痛い目にあった事があるのかしら。)
順繰りに片付けましょう。先ずは次の資料をご覧下さい。出典は『旧高旧領取調帳 関東編』(木村礎校訂 東京堂出版 1995年)明治十年頃成立の資料ですが記載されたデータは幕末時のもので、各村毎に知行者と石高が記されています。
相模国高座郡 一之宮村 松平�吉知行 476.9459石
相模国大住郡 落幡村 松平�吉知行 181.3567石
下野国都賀郡 薗部村 松平�吉知行 254.1820石
下野国芳賀郡 上大曾村 松平�吉知行 258.3346石
下野国芳賀郡 大和田村 松平�吉知行 335.5980石
下野国芳賀郡 小貫村 松平�吉知行 190.8100石
一番上が相模国高座郡一之宮村ですので、幕末時の一之宮村の知行者、つまり松平家の当主が松平�吉だった事が判明します。彼の名前から探した知行地が上の六ヶ所です。
相模国高座郡と大住郡、下野国都賀郡と芳賀郡、しかも芳賀郡には複数の知行地と、松平忠和の拝領の記録と完全に一致しています。よって元禄十年に忠和が相模国高座郡で拝領したのは一之宮村で間違い有りません。これで最初の疑問に対する答えが出ましたが如何でしょうか。
「うーん、何か悔しいんすけど、認めざるを得ませんね。」
ちなみに相模国高座郡と大住郡、下野国芳賀郡の三ヶ所には例の烏山藩の飛地も有ります。これは偶然でしょうが、松平家と烏山藩大久保家の間には、領地支配上の交流関係も有った可能性も有ります。
次の問題は一之宮村の拝領年が、『寛政譜』と『新編相模国風土記稿』とで一年食い違っている点でしたね。これはかなり難しい問題ですが、何とか説明して見せましょう。
次に示す資料は『旧高旧領取調帳』と同時期の明治二年一月、一之宮村の名主から松平�吉宛に出された『年貢皆済目録』の文書、つまり前年度分の年貢を残らず納めましたという証明書です。(出典『寒川町史』)
辰御年貢皆済目録
松平�吉上知
相模国高座郡
高四百七拾六石九斗四升五合九勺 一之宮村
一 米七拾三石五斗三升四合 本途・延米・口米共
内 米三石 米納
米七拾石五斗三升四合 石代
代永四百七拾貫弐百弐拾六文七分
但藤沢宿辰十月十五日
上中下米平均直段
金壱両ニ付米壱斗
(中略)
右者去る辰御収納本税・雑税其外書面之通令皆済ニ付、一紙目録相渡もの也
明治二己巳年正月 井関斎右衛門(印)
右村
名主
総石高は「高四百七拾六石九斗四升五合九勺」で『旧高旧領取調帳』の476.9459石と一致していますね。
「あのー つまらない質問かも知れませんが、やたらと数字が細かくないですか。小数点以下四桁目だと“勺”ですけど、米一勺というとほんのひと握り、いや、ひと摘まみの量ですよね。そこ迄厳密に量っていたんでしょうか?」
変ですよねー。私も最初不思議に思ったのですが、理由に思い当たりましたのでご説明致しましょう。
年貢といえば基本的には米ですが、実際問題として大量の米俵を荷車に積んで納めに行くのは大変ですし、貰った方も始末に困ります。古い時代はいざ知らず、次第に現物の米の代りに現金で納める方法に変わっていきました。この文書にも年貢の内訳が細かく書かれていますが、一部抜き書きした部分(五行目以下)をご覧下さい。“米三石 米納”と有るのが現物の米を納めた分で、松平家で食用として消費する分です。残りは時の米相場によってお金に換算した額を銀で納めています。実際には年貢の大部分は銀で納めているのですが、建前上年貢は米ですので銀納分も再度相場によって米の量に換算して報告されます。それが“高四百七拾六石九斗四升五合九勺(476.9459石)”という訳で、不自然な端数は換算の際に生じたものと考えられます。
と、いう事で宜しければ続きに行かせて頂きます。えーと、松平忠和が一之宮村を拝領した年に一年の食い違いが有る問題でしたね。
「お願いしまーす。」
もう一度『年貢皆済目録』文書をご覧下さい。一行目に“辰御年貢皆済目録”と有りますが、この“辰”は辰年の事で慶応四年=明治元年(1868)に当たります。一方、文書の最後に書かれた日付は明治二年の一月ですので前年度分の年貢を翌年の一月に納めていた事が判ります。これが一般的な制度だったのかは不勉強にして知りませんが、少なくとも一之宮村においては、昔から毎年一月が前年分の“年貢の納め時”だったとしましょう。
松平忠和が一之宮村を拝領したのが元禄十年の事だったのは間違い無いでしょう。同時に一之宮村サイドに対しても領主の交替は知らされたと考えられますが、領民の立場からすると領主の交替とはそれ程重大な事件だとは言えません。領主自らが知行地を訪れるような習慣も有りませんので、大部分の領民が自分の殿様の顔を知らないのが普通だったと言われています。実質的には年貢を差し出す相手が替わるだけの話です。
『新編相模国風土記稿』が編纂された天保十二年(1841)頃といえば、松平忠和が一之宮村を拝領した元禄十年(1697)から150年近く後の事です。この編纂事業の為には村に保管されている古い文書類を引っ張り出す事になりますが、必ず残されていそうなのが『年貢皆済目録』の類いかと思われます。そこに初めて松平忠和の名前が登場するのは元禄十一年一月に作成されたもので有り、前年元禄十年作成の文書には前領主の名前が宛て先とし記されています。つまり一之宮村の領民側の視点に立てば、松平忠和が新領主として認識されたのが元禄十一年からだったとしても不自然では有りません。よね?
「うーん。何か屁理屈っぽい気もしますが・・・まあ一応説明にはなっていますので、ここは武士の情けで見逃してあげましょう。
一応これで元禄十年に一之宮村を拝領した松平忠和、天保年間時点の知行者である松平主膳、幕末の松平鍈吉の三人が、深溝松平忠貞家という一本の系図の上で繋がった訳ですね。」
その通りです。これで松平鳩翁と斧吉に対する捜査網がかなり狭まって来ました。両者共に松平家の当主か、或いは前当主、次期当主候補の何れかの立場にあった人物と推定されますので、家系図から該当者を特定出来そうです。特に鳩翁の場合はおおまかな年齢が推測可能なので、先ず彼から探って見ましょう。
⑥松平鳩翁の正体(答えは下の方)
『寛政譜』に載る深溝松平忠貞家当主の系図の最後は第九代当主の松平忠朋(通称、惣兵衛)です。彼の事績を見ましょう。
家督を継いだのは安永四年九月七日です。有り難い事にこの時の年齢が26歳だと判りますので、寛延三年(1750)の生まれになります。そうすると、文化十年(1813)時点の年齢は64歳であり“翁”の付く号を名乗るのに適切な年齢ですので、彼こそが松平鳩翁本人である可能性が高いと考えられます。そこで彼に関して詳しく調べる事にしましょう。
安永四年九月七日に家督を相続し、同年閏十二月十八日に初めて将軍徳川家治に拝謁。翌安永五年一月二十六日、御小姓組に出仕。天明四年一月十一日御使番。同年十二月十六日には布衣を許されます。ここ迄は順調に出世を遂げていたと言えるのですがその四年後、彼は職務の上でちょっとしたシクジリをやらかしてしまいます。事の顛末を『徳川実紀』の記述から拾って見ましょう。
天明八年四月一日に「兩番の士十六人御繼統により。國々巡見として遣はさる」この十六人の中に“松平惣兵衛忠朋”の名前が見えます。つまり公務による地方視察に派遣された訳です。次に彼の名前が出るのは同年八月十五日で「國々巡視はてゝ歸謁す。」とあり、“松平惣兵衛忠明”と記されているのですが“朋”の間違いでしょう。
十日後の八月二十五日、「この日使番松平惣兵衛忠明檢視の地にしていかゞの聞えあり。かつ家人等に使令行屆ざるをもて。小普請に入られ御前をとゞめらる。」
記述を総合すると、この地方出張の間に、視察に同行した家臣達の行動に問題が有った様です。恐らく立場を利用して、過剰な接待や付け届けを強要したのでは無いかと想像されます。忠朋は家臣等に対する監督不行き届きを咎められ、役を解かれて小普請入りを命じられ、将軍への拝謁を止められてしまいました。
「ああ、例の小普請入りですね! これで彼も旗本退屈男の仲間入りです。」
ところで“小普請”と“寄合”の違いは覚えていますか。松平忠朋は1500石取りの旗本で布衣を許されていますので、無役となった場合には“寄合入り”する資格が有ります。しかし無役となった原因が自身の失態に有りますので懲戒的に“小普請入り”とされた訳です。
「ありゃー、可哀相に。でも結局は許して貰えた様で良かったですね。」
は? 何の事? あっ、そうか! そう思っちゃいますよねー。
“務をゆるされ”の“ゆるされ”は漢字で書けば“許され”では無く“免され”で罷免の免の意、つまり懲戒免職処分を受けた訳です。
「なるほど、勉強に成ります。」
松平忠朋のその後に関しては断片的な記録が幾つか見つかりますが、どうやら最後迄小普請のままだった様です。
年齢の“未50”ですが、本書成立の寛政十一年(1799)未年に数え年で50歳という意味です。逆算すると寛延三年(1750)生まれという事になり、『寛政譜』の安永四年に26歳という記述と一致します。
通称の松平惣兵衛のみが記されている資料も有りますが、禄高 1,500石と有りますので忠朋の事で間違い有りません。
彼の没年は不明ですが、仮に『干城録』の成立した天保六年(1835)に存命だったとすれば86歳に成ります。さすがにこれは難しいかも知れませんが、記録を総合すると、少なくとも78歳に当たる文政十年(1827)に近い時期迄は当主の座にいたと考えられます。
彼の屋敷の所在地に関しては“柳原元誓願寺前”と“小川町神保小路”との二か所が書かれていますが、屋敷替えが有ったのか、或いは彼クラスの旗本ならば同時に二か所の屋敷を拝領していた可能性も有ります。
注目して頂きたいのは“小川町神保小路”の方です。文化元年(1804)の『懐中道しるべ』と文政十年(1827)の『国字分名集』とに書かれていますので、この間松平忠朋は“小川町神保小路”に住んでいた可能性が高いと考えられます。
ところで“小川町”に見覚えは有りませんか?
「有りまーす。曳尾庵の一家離散事件の時に彼が居候していた師匠の塾が小川町でしたね!!」
そうです。曳尾庵が小川町に居たのは文化十年(1813)から翌年に掛けてですが、彼が松平鳩翁と面識を持ったのはこの時期だと考えられます。そして同じ時期に松平忠朋も又小川町に住んでいた、つまり同じ町内に住むご近所同士だった訳です。
「おおー、重大な接点が見つかりましたね。これでもう間違い無いでしょう。松平鳩翁は松平忠朋に決定!!!」
まあ、そう慌てなさんな。彼が有力候補であるのは間違い有りませんが、他に候補となる人物がいないかを確認しておく必要が有ります。
松平家で忠朋と年代的に最も近いと思われるのは彼の前の当主、第八代当主の松平(長三郎)忠直です。
「こいつ二度結婚している様ですが、二度とも人の女を横取りしているトンデモナイ野郎ですね。やっぱりドロドロとして来ました。まあ、かく言うあたしも若い頃には色々と有りましたがね。聞きたい?」
あなたの武勇伝を聞いてる暇は有りませんし、そもそも根本的に勘違いしています。この場合の“女”は“娘”という意味です。まあ、初めて見たらドキッとしますよね。
「あら、そうでしたか。」
例えば現代の週刊誌に“人気アイドルの某に女が”とあれば恋人や愛人発覚の事に成ります。しかし江戸時代の瓦版にあれば、彼に娘がいたという意味に成ります。何れにせよスクープには違い有りませんが。
という訳で、決してドロドロしている訳では有りませんが、人間関係が複雑なのは確かです。
松平忠朋は忠直の養子となって家督を継いでいますが、実は忠直は忠朋の実の兄なのです。『寛政譜』によれば忠直の実子は、恐らく最初の妻との間に女子が一人いるのみで、嫡男たる男子はいませんでした。そこで実弟の忠朋を養子として家を継がせた訳です。
忠直・忠朋兄弟の父である松平家七代当主松平忠頼は六代当主松平忠晴の養子で、元は深溝松平忠貞家の始祖松平忠貞の弟松平忠治に始まる更なる分家の三代当主松平忠郷の子です。母は深溝松平忠貞家の四代当主松平忠和の弟松平高久の娘なのですが、実の兄である六代当主松平忠晴の養女となった後に七代当主忠頼の妻となり・・・
「キャー! ヤメテー!! 頭がグシャグシャになるー。」
ですよねー、私もです。まあ、当時の武家が御家の存続の為にいかに苦労していたかが分りますね。
話を戻しましょう。松平家の家系で忠朋と同世代の人物は、実兄であり義父である忠直只一人のみなのですが、彼は寛政元年に没していますので鳩翁では有り得ません。従って今度こそ結論を出しても良いでしょう。
松平鳩翁の正体は松平惣兵衛忠朋である!
「おー、見事に解明しましたねー。素晴らしい! あんたが大将!!」
あのー、せっかくお褒め頂いたのに恐縮なのですが、実は正直に言うと松平鳩翁は松平忠朋だと考えた人が既にいたんです。
松平斧吉
不祥。本巻末の天文台見学の条によれば、相州一ノ宮を領していたことがわかる。相模風土記によれば編纂当時の領主は松平主膳で、同地は元禄十一年先祖長三郎忠和が賜ったとある。諸家譜によると忠和は千五百石を領した。寛政譜当時の当主は忠和から五代後の忠朋で安永四年二十六歳で家督している。天明四年御使番となり布衣を許されたが、同八年巡見使として不行届があって小普請入りを命ぜられた。その子は長男次男とも若死したため、織田信直の三男忠温を娘の養子に迎えた。この人は家譜には通称を八十八としてあるが、これが斧吉であろう。鳩翁と斧吉は父子或いは一族のように想像されるが、もし忠温の父ならば、忠朋が鳩翁となる。文化十二年六十五歳で、年齢的にはふさわしいといえよう。しばらく推定を記しておくこととする。『我衣』「日本庶民生活史料集成 第十五巻都市風俗」
三一書房 1971年 (鈴木棠三による補注より pp.300-301)
「なーんだ、鳩翁と斧吉が親子と考えるのも、斧吉の知行地である相州一ノ宮をヒントにするのも、ここからのパクリじゃ無いですか。つまり最初から“松平忠朋ありき”だった訳ですね。
こんな重要な文書を隠蔽しておくのは許し難い行為です。先程の“あんたが大将”発言は修正します。
“あんたは首相!!!”」
(注:平成三十年四月時点の時事ネタです。)
おっと、あまりアブナイ発言は慎んで下さいね。炎上でもしたら大変ですので。
「大丈夫です! 炎上する程の人数が見ている訳無いじゃないですか。ボヤすら無いと断言出来ます!!」
それもそうね。
「ところで松平斧吉の正体も判っている様ですね。鈴木棠三によれば惣兵衛(忠朋)の娘の婿養子、織田信直の三男忠温(通称八十八)が斧吉だという事ですね。」
そうです。ただし鈴木氏は松平忠温が斧吉だと推定される具体的な根拠を示されていません。補注という限られた状況では止むを得ないとは思いますが、結論から言えばこれは間違いであると考えます。但し、その論証の前に一つ片付けておかねばならない問題が有ります。
これ迄に松平鳩翁と松平斧吉とが同一人物である可能性を示唆していましたが、鳩翁の正体が松平忠朋だと判明した今となってはこれは成り立ちません。『寛政譜』によれば忠朋の別名として孫太郎(恐らく幼名)と惣兵衛が挙げられており、他の記録からも通称として松平惣兵衛が広く知られていた事が判ります。更に晩年には鳩翁という年相応の号を使用しています。これに並行して斧吉という通称も使用し、更には曳尾庵が『我衣』でこれらを混用していたという可能性は先ず有り得ません。従って斧吉は忠朋より後の世代から探さねばなりません。
尚、以後松平忠朋の事は親しみを込めて通称の“惣兵衛”で呼ばせて頂きます。
⑦松平斧吉は忠温(八十八)か?
『寛政譜』の松平家の系譜は、松平忠温を含む惣兵衛の子供の代で終わっています。惣兵衛の子供は男子が三人と女子が三人です。
実子の男子は次男の忠久のみですが早世した様です。他の二人は養子で、娘婿という形を取っています。
最初に嫡子の立場に有った忠堯の実父は、深溝松平本家11代当主である松平忠恕です。という事は何と又々登場、烏山藩主大久保忠成の実の、しかも同腹の弟に当たります。この関係からも松平惣兵衛と大久保忠成とが、如何に密接な間柄だったかが窺い知れます。
忠堯は天明七年(1787)、無事に将軍家斉に初御目見得を果たしますが、惜しくも寛政二年(1790)17歳の若さで世を去ります。これは松平家にとっては緊急事態です。
この時点で惣兵衛には嫡子がいなく成りました。もしも突然彼の身にもしもの事が有ると、松平家はどう成ってしまうのでしょうか。この様な事態の救済措置として末期養子というのが有りまして、生前に養子縁組が為されていたと見做して跡目相続を認める制度です。大名家の場合は殆どが認められた様ですが、旗本家の場合は認められない事が有り、最悪の場合には御家断絶となりますので、惣兵衛としては一刻も早く次の養子を探す必要が有ります。そこで白羽の矢が立てられたのが織田信直の三男忠温(八十八)だった訳です。
忠温の出自が織田家と聞いて想像された方もいらっしゃるかも知れませんが、実はご想像の通りあの織田信長の子孫で、信長の七男信高から明治維新迄存続した超名門です。ちなみにフィギアスケーターの織田信成氏はこの家系の末裔だと称しています。
忠温が松平家に入った時期は不明ですが、御家断絶のリスクを避ける意味では、忠堯が亡くなった直後の寛政二年(1790)か、翌年位の可能性が高いと考えられます。
その時点での忠温の年齢も不明ですが、松平家サイドとしては17歳以上であるのがベストです。と言うのは、末期養子の制度は当主が17歳未満の場合には認められない為、もしも惣兵衛が急逝し、跡目を継いだ忠温も又17歳未満で急逝したりすると、いよいよ御家断絶が現実のものと成るからです。もう少し下迄は許容範囲と思われますが、婿養子という形式を取っていますので15歳前後が下限と思われます。
年齢の上限も推定可能です。『寛政譜』で織田家の系図を見ると、忠温には長孺(ながつぐ)という兄がおり、長孺は寛政七年(1795)に家督を継いだ時の年齢が27歳だった事が判ります。普通弟は兄より1~2歳は年下と考えるのが自然でしょうが、数え年では兄と弟が全く同年齢になる場合も有り得ます。
総合しますと、忠温は松平家に寛政二年(1790)頃、15~22歳位の年齢で入ったと推測されます。だとすると文化十年(1813)頃(曳尾庵が鳩翁や斧吉と知り合ったと推定される年)には38~45歳位だった事に成ります。ちなみに父の惣兵衛(鳩翁)は64歳でしたね。
ここ迄は宜しいでしょうか?
「はい、イメージと違って斧吉君は結構いいオッサンでした。」
それは斧吉が忠温ならばの話ですけどね。忠温は元々松平家の家督を継ぐ者として婿養子入りした訳ですよね。なのに義父の惣兵衛はなかなか家督を譲ってくれず、言うならば飼い殺し状態です。本来ならばもっと早く家督を譲っていておかしく無いと思うのですが、実際には忠温が松平家の当主と成ったらしき記録は見当たらないのみならず、忠温の名前自体『寛政譜』以降には全く見当たりません。
もう少し後迄見ても状況に変化は有りません。前に示した様に惣兵衛の名は文政十年(1827)頃成立の複数の資料に、松平家の当主として記されていますので少なくともそれに近い時期、少なくとも文政年間に至る迄は惣兵衛が当主であったのは間違い有りません。仮に文政七年(1824)迄出仕していたとすると年齢は75歳という高齢であり、忠温の方も既に49~56歳という事に成ります。
勿論当主でなくとも出仕は可能ですので、記録には残されていなくとも忠温が既に出仕していた可能性は有ります。その場合、今度は忠温の子供、つまり惣兵衛の孫が可哀想な立場になります。幕臣の場合親子が同時に出仕する事は可能ですが、三代同時の出仕は認められません。忠温の年齢を考えると既に出仕可能な年齢に達している嫡男がいた可能性が高いと考えられますが、彼がいかに優秀であろうと惣兵衛が引退しない限り出仕が叶わず、いたずらに歳を重ねていく事に成ります。孫からすれば、何とも迷惑なじいさんですね。
江戸時代の武士には定年制は無く、建て前上は一生の御奉公です。年齢や健康上の理由で致仕(退職)を願い出て認められれば晴れてお役御免となりますが、人物が有能であればある程致仕が許されず、老体に鞭打ってボロボロに成る迄御奉公を続けねばならない因果な商売です。しかし惣兵衛の場合はというと、言っちゃ悪いですが万年小普請の身ですのでその心配は有りません。そもそも彼は仕事人間というタイプでは無く、どちらかというと趣味人タイプと思われますので、何故さっさと家督を譲って悠々自適の生活を選ばなかったかが不思議な位です。
「成る程。慥に不自然ですね。何故でしょう?」
恐らく、本来家督を譲る然るべきタイミングの時期に、譲るべき相手がいなかったのだと思います。本来のタイミングとは、惣兵衛と忠温の年齢を考えれば寛政後期から文化初頭頃と考えられますが、この時点で惣兵衛の元に忠温はいなかったのでは無いでしょうか。
「はっ? 忠温も死んじゃったって事?」
或いは何等かの理由で廃嫡された可能性も有りますが、亡くなったと考える方が自然でしょう。何れにせよ文化十年頃、いいオッサンになった通称斧吉こと松平忠温が家督も譲られずブラブラしていたと考えるよりは、余程現実的に思われますが如何でしょうか。
「成る程、そう考えれば忠温が松平斧吉だとするのは無理がありますね。彼の線は却下しましょう。だとしても疑問が残ります。惣兵衛としては一刻も早く次の養子を見付けなければいけない筈ですよね。惣兵衛自信いい歳なんだし、いつポックリ逝っても大丈夫な様に。やっぱり養子の来手がいなかったんでしょうねえ。」
というと?
「えーと・・・大きな声では言えませんがね、惣兵衛さんのところって男子が実子も養子もみんな早死にしてるじゃ無いですか。いくら遺産目当てと言っても、なんかイヤだなー。」
何を申すか! この臆病者めが!! おぬしそれでも武士か!!!
「あたしゃ武士じゃありませんけど。」
いや、そういう設定で考えて下さい。あなたはれっきとした武士で、家格としては深溝松平忠貞家と同程度の旗本の三男坊です。
「何故三男坊?」
跡継ぎである長男は家にとって大切な存在です。次男は長男にもしもの事が有った時の補欠の意味で、そこそこ大切にされます。これが三男以下になると悲惨なもので・・・あっ、でもずば抜けて優秀だったり、何か一芸に秀でていれば仕官の可能性も有りますが、そういうの何か有りますか?
「自慢じゃ有りませんが、何も有りませーん。」
だと思いました。残念ながらあなたの一生は決定です。所謂“部屋住み”というやつで、仕事にも就けず、当然収入も無く、ほんの小遣い程度を貰ってただブラブラしているだけの厄介者です。まあ、気楽な身分ではありますが、家族や世間はそういうのを普通“ごくつぶし”と呼びます。勿論一生結婚など出来ません。
「キャー ヤメテー 恐過ぎるー」
そこに家禄1500石というかなり大身の旗本家への婿養子の話が舞い込みました。さあ、どうする?
「行きます行きます。すぐにでも行きますとも。あっ、でも一応お嫁さんの姿を一度拝見してから最終的なご返事をさせて下さい。」
⑧では松平斧吉の正体は?
そういう訳で武家の三男坊以下にとって、1500石取りの旗本家への養子入りというのはかなりのビッグチャンスですので、探せばいくらでも候補者がいた様に思われます。他家から養子を迎える場合には、出来れば17歳以上が望ましいのは説明しましたね。その場合には条件さえ整えばなるべく早く家督を譲ってやらねば相手が可哀想ですし、早く出仕した方が将来的な出世の可能性も広がります。
しかし実際にはこの後のかなり長い期間、惣兵衛自身かなり高齢になる迄婿取りや養子取り、及び家督相続が為された形跡は有りません。という事は、この時期の惣兵衛の頭には他家から家督を譲るに相応しい年齢の養子を迎える気が無かったのだと思えるのです。
「何故でしょうかね?」
そこで思いついたアイデアをお聞き下さい。もしも惣兵衛に自分の近親者、血の繋がる者の中に跡を継がせたい男子がいたとしたらどでしょうか。但しその者がまだ幼少の身だったとします。例えば惣兵衛が晩年に男子をもうけたとしましょう。
「おや、鳩翁のじいさん。中々隅に置けないですな。」
あくまで仮定の話ですからね。
「まあ、出来る事ならば自分と血の繋がった者に跡を継がせたいと思うのが人情でしょう。
豊臣秀吉が晩年に出来た実子(諸説有りますが)秀頼に跡を継がせたいばかりに、跡取りとして既に関白の地位に有った甥の豊臣秀次に無理なイチャモンをつけて切腹に追い込み、更には一族の者を女や子供に至るまで皆殺しにした例も有りますしね。」
まあそれは極端な例ですが、惣兵衛にしても出来れば幼くとも我が子に跡を継がせたいと思うのが人情でしょう。実子で無くとも孫や甥くらいの血の繋がりの濃い者ならば、その範疇に入るでしょうか。この場合には逆に、リスク回避の面から家督の相続はなるべく遅く、少なくとも当人が17歳に成る迄は待つのが得策と成ります。その為には惣兵衛は老体に鞭打ってでも出仕を続けねばなりません。まあ、元々これといった仕事が有る訳では有りませんがね。
「ナルホド! それならば一応辻褄は合いますね。まあ、アイデアとしては中々面白いとは思いますが、実際に該当する人物はいるんですか?」
一応、当ては有ります。該当する人物としては、松平惣兵衛の次に松平家の家督を継いだ人物が一番可能性が高いですよね。そこから探って見ましょう。
寛政期以後の幕臣に関しては『寛政譜』の様な系統立った資料が無い為、断片的な記録を拾い集めて考えねば成りません。
松平惣兵衛以降に松平家の当主に成った人物で、最初に名前が出るのは『新編相模国風土記稿』に載っていた松平主繕です。
松平主繕の名前が載る最も古い資料は、一之宮村の村方文書です。(『寒川町史』による)
これにより、遅くとも文政八年(1825)には当主と成っていた事が判明します。惣兵衛は文政十年に近い時期迄当主の座にあったと考えられますので、当主交代の時期は文政七~八年頃と考えられます。惣兵衛の生前に家督を相続したのか、死去に伴う跡目相続だったのかは不明ですが、少なくとも彼が惣兵衛の次の当主、深溝松平忠貞家の第十代当主であったと考えて間違い無いでしょう。
その後の彼の経歴を安政五年(1858)成立の『柳営補任』(東京大学出版会 1970)他の資料から拾いましょう。
一覧すると、全て同一人物に間違い無いのですが、主繕の他にいくつも名前が使われているのが分ります。本名(諱)は“忠篤”又は“忠雄”、何れかが間違いか、実際に改名したのかは不明です。“主繕”と“大膳”はどちらも官名に基く呼び呼称ですが、恐らく大膳の方は間違いでしょう。“求馬(もとめ)”は通称で、松平忠朋が通称の惣兵衛で通っていた様に、彼も通称の求馬で通っていた様に見受けられますので、以後呼び名を“松平求馬”で統一致します。
「一応聞いておきたいのですが、彼は“松平斧吉”の候補でも有るんですよね? いくら何でも名前が多過ぎませんか? そもそも彼が“斧吉”を名乗っていた形跡は有るんですか?」
残念ながら有りません。但し“求馬”の通称が最初に登場するのは天保六年(1835)ですので、それ以前の若い時期に“斧吉”を名乗っていた可能性は有ります。
松平求馬の経歴を見ると、家督相続当初は無役の小普請からのスタートでしたが、文政九年(1826)に中奥番に就いて以降は小十人頭、西丸目付と順調に出世を遂げています。ところが天保十三年(1842)、先代の惣兵衛と同様に彼も又シクジリを犯してしまった様です。『柳営補任』の「菅谷清八郎病気一件」の内容は不明ですが、「御役柄(職務上)」「不念之事(ゆきとどかないこと・落度)」が有り、これによって「御役御免(免職処分)」及び「差扣(将軍への御目見得停止)」の処分を受けてしまいます。但し 『徳川実紀』によれば、惣兵衛の様に小普請入りでは無く「寄合に入り」と有りますので、求馬が既に布衣を許されている事と、比較的軽いお咎めだった事が分ります。
ついでに求馬以後の当主、第十一代松平剛之助忠貫と第十二代松平�吉について見ておきましょう。
彼も養子でした。実父は石河土佐守、松平求馬は養父に当たります。家督を継いだのが弘化四年(1847)ですが、養父求馬の死去に伴う跡目相続だった可能性も有ります。その後中奥御番、御使番と勤め、慶応元年(1865)には将軍家茂の上洛及び第2次長州征討に同道して上方へ上り、翌慶応二年(1866)に大坂にて客死を遂げています。
この後に剛之助の跡を継ぎ、江戸時代最後の当主となったのが『旧高旧領取調帳 関東編』に出ていた松平�吉です。�吉が家督を継いだ翌々年の慶応四年(1868)ついに江戸幕府は崩壊し、家康による江戸開府以来続いた深溝松平忠貞家の江戸時代も終わり、明治維新を迎える事になります。
以上で資料は出し尽くしましたので、いよいよ内容の検討に入りましょう。
話を戻しますと、惣兵衛の取った不可思議な行動を説明する為に、彼は未だ幼少の血縁者、例えば実子、孫、甥等を跡継ぎにしたかったので無いかと考えたんでしたね。その有力候補と目されるのは次の当主松平求馬なのですが、彼と惣兵衛がどの様な間柄なのかというのが問題と成る訳です。ところで求馬の父親の名前が既に出ていたのですけど気付きましたか?
「へい、抜かりは有りませんぜ。『天保十三年武鑑』に松平求馬の父親の名前が“長三郎”と書いて有りますし、『江戸幕臣人名事典(多聞櫓文書)』に松平剛之助に関して「養祖父松平長三郎死小普請 養父松平求馬死寄合」と書いて有りました。でも先代当主松平忠朋の通称は“惣兵衛”ですよね? “長三郎”とも呼ばれた形跡は有るんですか?」
全く有りません。従って少なくとも惣兵衛晩年の実子の線は消えたと考えて良いでしょう。
「求馬の実父の名が長三郎だったとしても、義父という形でも惣兵衛、忠朋の名前が記されていないのも不思議なんですけど。」
その件については後で説明しましょう。何れにせよ、これで残るは孫か甥の線、つまり惣兵衛の子供の子供か、惣兵衛の兄弟の子供かですね。先ずは甥の線から検討しましょう。
『寛政譜』によりますと惣兵衛には兄と妹がいます。妹の方は他家に嫁いでいますので除外されますので、残るは惣兵衛の実兄であり義父でもある松平忠直です。惣兵衛にとって忠直は、本来ならば当主に成れる立場に無い自分に家督を譲ってくれた恩人です。忠直の子供ならば惣兵衛にとっては実の甥であると同時に義理の弟にも当たりますので、忠直の恩義に報いる為にその子を跡継ぎにしたいと考えても不思議では有りません。
「でも『寛政譜』を見る限り忠直に実子はいません。そもそも実子がいなかったから惣兵衛を養子にしたんですよね?」
たしかにその時点ではいませんでしたので、弟の惣兵衛(忠朋)を養子にして家督を譲りました。従って、考えられるのはその後に男子を授かった可能性、つまり忠直晩年の子供です。
「また出ました! 晩年の子!!」
もう一度『寛政譜』の松平忠直の事跡をご覧下さい。
寛政元年(1789)53歳で没していますので、逆算すると元文二年(1737)生まれと成ります。明和元年(1764)28歳で家督を継いでいますが、僅か十年後の安永三年(1774)38歳の若さで役を辞し、翌年には惣兵衛(忠朋)に家督を譲りさっさと隠居生活に入って“退山”と号しています。
「随分と早い隠居ですね。病気でも患っていたんでしょうか?」
一番有りそうな理由としては、やはり病気でしょうね。しかし実際には役を辞してから十五年も生存していますし、次期は不明ですが後妻を娶っていますので、何等かの病気が有ったにせよそれ程深刻なものでは無かった様です。寧ろ彼は元々仕事が性に合わず、病気を表向きの理由にしてさっさと隠居を決め込み、後は退山を名乗って趣味の世界に耽っていたのかも知れません。彼の年齢からに見ても、隠居後に子供をもうけていたとしても不思議では有りません。
「しかも後妻が若くて美人だったりしたら、大いに有りそうですね。でもちょっと待って下さい! まだ惣兵衛の孫の線を検討していませんね。今度は僭越ながらあたしに考えさせて下さい。」
どうぞ。
「もしも惣兵衛に男子の孫がいたとしたら、甥の場合以上に自分の跡継ぎにしたいという気持ちは強いでしょうね。当然年齢は幼いので、少なくとも出仕が可能になる年齢までは何とか自分が頑張ろうという気持ちは理解できます。問題は誰の子かという点です。
『寛政譜』によると惣兵衛には養子二人と実子一人の、三人の男子がいました。長男に当たるのは養子の忠堯で、17歳で没していますが、年齢的には子供をもうけていてもおかしくは有りません。しかし残念ながら彼の通称は“織之助”であり“長三郎”の名は有りませんので求馬の父親とするのは無理でしょう。三男に当たる養子の忠温、通称“八十八”も同じ理由で除外されます。
残るは次男に当たる実子の忠久ですが、彼の通称を見ると“直次郎 長三郎”と有ります。“父に先だちて死す”と記されていますが、いつ頃、何歳で死んだのかは分かりません。彼が生前に男子をもうけていた可能性は否定出来ません。彼こそ求馬の父親の長三郎に間違い有りません!」
でも、忠久に子供がいたという記録は何処にも有りませんし、そもそも彼が結婚していたという形跡すら有りません。今度は例の“晩年の子供”の手口は使えませんからね。
「勿論承知の上です。最初のキーワードは“若気の過ち”です。かく言うあたしも若い頃には色々と・・・」
それは結構ですので続きをお願いします。
「恐らく結婚したくても許されなかったのでしょう。相手の女は多分町人の娘です。部屋住みの身とはいえ、大身の旗本の息子とは所詮結ばれない運命に有りました。二つ目のキーワードは“身分違いの恋”です。
しかし結婚などしていようがいまいが、若い男と女がする事をすれば、出来ちゃう時は出来ちゃうものです。後で大変痛い目を見ますので旦那も気を付けて下さいね。」
人の心配は結構ですから、あなた自身の生き方を深く反省した方が良さそうですね。
「或る日の事です。赤ん坊を抱いた若い娘が小川町のとある武家屋敷を訪ねて来ました。屋敷の主の名は松平惣兵衛忠朋。当時の惣兵衛は仕事上のしくじりの為に小普請に貶められ、出世の夢は完全に断たれた上に、将来を嘱望した婿養子には次々に先立たれ、唯一の実子男子である忠久(長三郎)までも若くして亡くすという不幸の連続でした。立て続く不運にすっかり自暴自棄となり、酒浸りの荒んだ日々を送っていた惣兵衛の前に現れた娘と赤ん坊の正体とは?」
大体想像はつきますが、まあ続けて下さい。
「娘の口から驚愕の事実が語られます。“この子は長三郎様の忘れ形見、つまり惣兵衛様の孫です。”俄かには信じ難い惣兵衛でしたが、“いや待てよ、あいつならやりかねないかも・・・”」
長三郎は結構ヤンチャだったか。
「もしかしたら同じ様な前科が有ったのかも知れません。」
「赤ん坊の顔を見た惣兵衛は確信します。そこには紛う事無い長三郎の面影が色濃く見て取れました。“この子はまさしく長三郎の子、我が孫に間違い無い。”すぐさま惣兵衛はその子を自分の元で育てる事を決意しました。赤ん坊は斧吉(後の求馬)と名付けられ、母親である町娘も斧吉の乳母として屋敷に奉公する事となりました。」
「その日を境に惣兵衛の荒んだ生活は一変します。“この子が我が跡継ぎとして一人前に成る迄は、何としてもわしが頑張るしか無い。先ずは規則正しい生活を心掛けて早寝早起き、毎日の運動も欠かさずに健康に気を付けよう。酒も金輪際きっぱりと・・・いや、適量に抑えて休肝日も作ろう。”“じゃが、いくら体は丈夫でも頭がボケてしまっては元も子も無い。そうじゃ、文章を書くのが脳トレに良いと聞いた事が有るぞ。わしも一冊、物してやるぞ。”
こうしてすっかり目を覚ました惣兵衛は、予てから書き貯めて来た日記を整理・編集して一書にまとめる作業を始めました。これが『祢覚譚』の誕生秘話です。これでどう?」
・・・まあ、話としては面白いですよ。面白いですけど、どうかなー・・・。
「あれ? 駄目ですか? じゃあこうしましょう。実はこれは惣兵衛と町娘の二人が示し合わせてでっち上げた芝居だったのです。赤ん坊(斧吉)の本当の父親は実は惣兵衛でした。たしかに斧吉は長三郎に似てはいますが、良く見ると惣兵衛の方がそっくりだったりして。娘は斧吉の乳母としての奉公の他に、夜は惣兵衛に別のご奉公をしていた訳です。二人の関係はやがて奥方の知る処となり修羅場が・・・。
どうでしょう。これならば将来ドラマ化された時に、高視聴率は間違い無いかと。」
いや、そういう問題では有りませんので。
残念ながら惣兵衛の次男、長三郎忠久が斧吉(求馬)の父親とするのは、やはり難しいと思われます。
第一に忠久の年齢の問題が有ります。『寛政譜』によると彼は惣兵衛の次男に当たり、養子である忠堯が長男として扱われています。この間の事情を推測すれば、惣兵衛が38歳の天明七年(1787)頃、それ迄男子に恵まれなっかた彼は忠堯を婿養子に迎え、その後に忠久を授かったものと考えられます。忠久の生年を仮に天明七年として、『寛政譜』の記述内容のぎりぎり最下限を寛政十年(1798)としても12歳(満11歳)迄に亡くなっていますので、いかにマセガキでも子作りは無理でしょう。但し、当時の系図や年齢・生年の記録は必ずしも正確なものでは無く、特に武家の場合には様々な事情によって虚偽の届けを出すことが、半ば公然と行われていました。忠久の実際の年齢がもう少し高かった可能性が100%無かったとも言い切れませんので、もう一つ決定的な証拠をお示ししましょう。
松平求馬の養子、第十一代当主である松平剛之助に関して『江戸幕臣人名事典(多聞櫓文書)』に「養祖父松平長三郎死小普請 養父松平求馬死寄合」という記述が有ります。これは剛之助の養祖父(養父求馬の父)の名は松平長三郎である事。長三郎は既に死亡しており、最終職歴が小普請だったという事を意味します。小普請だったという事は、長三郎がたとえ短期間でも出仕していなければ成りませんが、その可能性は有るのでしょうか。
彼の義兄に当たる忠堯が嫡男として初めて将軍御目見えを果たした天明七年から、寛政二年に没する迄の間は、忠堯を差し置いて忠久が出仕する事は有り得ません。又、その後の数年の間に出仕を果たしていたとしたら、それが『寛政譜』に記載されないのは不自然です。つまり彼が一度でも出仕したとは考えられず、小普請入りはしていません。よって忠久は求馬の父の“長三郎”では有り得ません。
「成る程・・・。ではもう一人の“長三郎”候補である松平忠直の方はどうでしたっけ?」
彼は安永三年五月四日に書院番の役を辞し、翌安永四年九月七日に致仕して家督を惣兵衛(忠朋)に譲っていますので、その間は小普請入りしていた事になり、最終職歴は小普請です。
「うーん、何か悔しいですが、忠直が求馬の父親だと認めざるを得ない様ですね。でもそれで全ての辻褄が合うんでしょうか?」
仮に松平長三郎忠直の最晩年、寛政元年(1789)に男子が誕生したという事にしましょう。彼が後の松平求馬、幼名が“斧吉”だった事にして話を進めます。
この時点では惣兵衛にすれば、跡継ぎである婿養子の忠堯が存命中でしたので、斧吉は単なる甥という存在に過ぎません。しかし翌年には忠堯を亡くし、前後して実子の忠久も早世したと考えられます。更にその後、婿養子に迎えた忠温(八十八)までも早くに亡くしたものと推測しました。ここに及んで惣兵衛は斧吉を跡取りとする決心を固めたのでは無いでしょうか。忠温の逝去が寛政五~十年頃だとすると、この時斧吉は数えで5~10歳位ですので、もう暫くは惣兵衛さんに頑張ってもらわなくては成りません。
数年の年月が過ぎ斧吉も無事に元服を迎え、出仕可能な年齢に達しましたが、惣兵衛はまだ完全に安心は出来ません。次なる願いは何でしょうか?
「そうですね~。斧吉の嫁取り? あとは嫡子となる男子を授かれば、やっと一安心といった所でしょうか。」
その通りです。斧吉の嫁取りに関して惣兵衛には秘策が有りました。
「秘策ですと? まあ、お聞かせ願いましょうか。」
『寛政譜』によると惣兵衛には女子が三人いますが、末娘について「中嶋門之丞正通が養女となり、のち忠朋がもとにかへる。」と書かれています。この意味を考えて見ましょう。
彼女が中嶋家の養女となった時期は不明ですが、少なくとも言えるのは、その時点で彼女は松平家にとって必ずしも必要な存在では無かったという事です。彼女には上に二人姉がいて、長姉は松平家の跡取りとして忠堯を婿に迎えていました。しかも、忠堯の身に万が一事が有ったとしても、予備と成る次姉が控えていました(実際、忠堯の没後に忠温を次姉の婿に迎えています)。つまりこの時期には松平家の将来は安泰に見えていました。時期としては天明七年(1787)から寛政二年(1790)の間です。その間に三女が生まれた場合、強く乞われる所が有れば養女に出したとしても不思議では有りません。そうだとすると彼女の年齢は・・・
「あっ! 求馬とほぼ同世代になりますね!!」
これで彼女が養家の中嶋家から松平家に戻った理由が理解出来ます。彼女自身に余程の問題でも無ければ先方から返される事は無いでしょうから、惣兵衛の方から望んでの事であろうと思われますが、目的は明らかでしょう。求馬を三女の娘婿として迎える為です。三女の生年も寛政元年(1789)という事にすれば、二人が15~17歳の頃、享和三年(1803)から文化二年(1805)頃の可能性が高いと思われます。
求馬(斧吉)が惣兵衛の三女の婿に成ったとすると、求馬から見ると惣兵衛は“舅”に当たりますので、彼の名が求馬の“義父”として記されていなかった事も説明出来ます。
「う~ん。一応は理に叶っているとは思いますが・・・どうも話がうまく出来過ぎている様な気が・・・。」
漸く松平家に平穏な日々が訪れました。『我衣』と曳尾庵と交流を持った文化十年(1813)に鳩翁(惣兵衛)64歳、斧吉(後の求馬)25歳位。後は三女と斧吉との間に嫡子たる男子が生まれれば一安心なのですが、残念ながら叶わなかった様で、次期は不明ですが次の当主と成る剛之助を養子に迎えています。これで漸く御家存続のメドが立ち、惣兵衛も安心して隠居する事が出来る様に成りました。
文政七年(1824)頃に家督は惣兵衛(忠朋)から斧吉(求馬)に譲られています。この相続が、惣兵衛が波乱に満ちた天寿を全うした事による跡目相続だったならば享年75歳、この時斧吉36歳位です。
家督を継いだ斧吉はやがて通称を求馬と改め、弘化四年(1847)に養子の剛之助に家督を譲る迄の20年以上に渉って松平家の当主を勤めました。もしも家督の相続が彼の死去に伴うものであったとすれば、享年59歳前後となります。
以上が“松平斧吉=松平求馬=松平長三郎忠直の子=松平惣兵衛忠朋(鳩翁)の甥”という仮定に基づいた松平家のファミリーヒストリーです。どう?
「お見事! 色々と辻褄が合っちゃってますねー。あなたって話をでっち上げる事にかけては天才的ですね!」
(褒められたのか? けなされたのか?)
まあかなり強引な論証も含まれていますが、松平鳩翁の正体が松平惣兵衛忠朋であるという結論は、ほぼ間違い無いと思っています。松平斧吉=松平求馬の方はあまり自信が有りません。当たっている確立は・・・せいぜい50%位かな。
「何れにせよ漸く全ての謎が解けました。これでやっと終わりですね。お疲れ様でした!!」
ええ、今日のところはこの辺で終わりにしましょう。
「(ゲッ、まだ有るの?)」
続きは明日でいいですか? 明日はお暇?
「ええ、まあ・・・」
では明日午前10時に、集合場所はJR中央線の東中野駅の西口改札を出た辺りで。
「???」
終了時間は未定なので、お弁当と飲み物は持参して下さい。あと、おやつは300円までとします。
「子供の遠足か!」
いいえ、大人の遠足です。
「へ? 大人の? てえと、あんな所やこんな所や色々と楽しい所へ?」
多分あなたの想像している様な所では有りません。まあ、少なくとも子供はあまり行きたがらない所だとは思いますが、場所は行ってのお楽しみという事で。
「まあ、いいか。最後に一つだけ質問していいですか?」
どうぞ。
「バナナはおやつに入りますか?」
⑨エピローグ
という訳でやってまいりました。何と当サイト初のフィールドワークです。彼は来てるかな? あっ、いたいた“おーい、かっぱ十くーん、こっちこっち。”
「あっ、旦那。お願いですからこんな人込みの中で、かっぱ呼ばわりは勘弁して下さいよー。」
失礼失礼。では早速まいりましょう。駅前の風情の有る商店街を抜けて大通りに出ます。早稲田通りですね。
「おや? 何だコリャ? 通りの向こう側はお寺だらけじゃ無いですか! これだけ並んでいると壮観ですね。一体何軒有るんでしょうか。」
今日の目的地は少し奥まった所に有る曹洞宗萬昌院功運寺(中野区上高田4ー14ー1)というお寺です。
「へっ? 行き先がお寺ですか? まあ、そんな辛気臭い遠足が子供向きじゃ無いのは間違い有りませんね。おや? ここみたいですね。一見、何の変哲も無いお寺に見えますけど・・・。あれ、旦那? 何処に行くんですか? そっちは墓地ですよー。」
そう。今日の目的地はこの墓地です。
「へ? それじゃあ増々子供は嫌がりますね。てか、あたしも嫌ですよー。」
何? こんな真っ昼間でもお墓は苦手ですか?
「実はあたし、昔から霊感が強い方でしてね。色々と見えちゃったりするんですよ~。」
(霊感?)ほー、それは頼もしいですなー。それじゃあ今日はその霊感とやらを十分に発揮して頂きたいものです。ふふふ・・。
「あー、馬鹿にしてますね。」
では本日のミッションを説明しましょう。今回の調査の中で松平惣兵衛忠朋等、深溝松平忠貞家の菩提寺が「牛込万昌院」という寺だという情報を掴んだですよ。更に調べたところ、ここに辿り着いた訳です。万(萬)昌院の開山は天正二年(1574)で、その後江戸府内で何箇所か移転した後、大正11年にこの場所に移り、昭和23年に同じ曹洞宗の功運寺と合併して今日に至っています。
そういう訳でこの墓地に松平家のお墓が有るかも知れないんです。
「有るかも・・・って事は、無いかもって事?」
まあ、見つかったら儲け物って感じです。
「何か今一テンション上がらないな~ それにオヤジが二人でお墓でウロウロしてると不審者に見られませんかね?」
「まあ、あなたの方は“怪しい人”に見えなくも無いですがね。でも心配は御無用。実はこの墓地には結構有名な人物のお墓が沢山有るんですよ。一番有名なのは・・・吉良上野介義央かな?
「へ? 吉良上野介って、あの忠臣蔵の吉良ですか?」
そうです。
「へー、以外ですね。赤穂四十七士の墓所が有る高輪の泉岳寺が、今や超有名な観光スポットに成っている一方で、可哀相な被害者である吉良上野介はこんな辺鄙な場所でひっそり眠っていたとはねー。まあ、上野介は人気が無いですからねー。(何か、強い恨みの念を感じる・・・)」
他にも江戸初期の有名な旗本奴の水野十郎左衛門とか、江戸後期の浮世絵師歌川豊国とか、新しい所では女流作家林芙美子のお墓も有りますので、単なる歴史好きのオヤジの振りをしていれば怪しまれませんから。
では早速調査を始めましょうか。私は手前か見て行きますので、あなたは奥の方からお願いしますね。
えーと。これじゃ無いし・・・これも違うと・・・。
「旦那ぁ~ ちょっと来て貰えますかー。」
早っ!! まさかねー。はーい、今行きますよ~。
「いえね。誰かに・・・というか何かに呼び止められた様な気がしましてね。これ、違いますかね?」
・・・・・・間違い無いですね・・・これです。
正面には「松平家先祖代々の墓」と書いて有ります。上の屋根みたいな形の所に彫られている紋は「丸に七本骨開扇」で、正しく深溝松平分忠貞家の家紋です。すぐ左隣にもう一つ同形の墓石が立っていて、こちらには「松平家第十六代以後之墓」と書かれていますね。
「なかなか立派な墓石ですねー。高さは優に2メートルを越えています。でも、何と言うか・・・ちょっと薄汚いような・・・随分と長いこと手入れがされていない様な感じがしすが、誰もお参りに来ていないんでしょうかね? ねえ旦那・・・旦那? どうかしましたか?」
・・・おっと失礼。何か想像と大分違っていたもんで、ちょっと頭を整理していました。
おや? 右の墓石は側面に何か彫られていますね。読んで見ましょう。
先ず右側面から見ましょう。
「明治四十一年九月合葬 松平勉」
施主の松平勉がこの時点での松平家当主と考えて良いでしょう。明治41年(1908)に先祖代々の墓を合葬した、つまりそれ以前は複数の墓石が有ったという事になります。この墓地でも回りを見て貰えば分りますが、大名や大身の旗本クラスの墓所では、一つの墓域内に複数の墓石が並んでいるのが普通です。松平家の墓もその様に想像していたもので、ちょっと戸惑ってしまいました。
次に左側面を見ましょう。
「実相院励学勉道居士 昭和丗四年十一月十六日 松平勉」
「寂相院恵室貞邦大姉 松平くに」
松平勉の没年が昭和34年(1959)だった事が判ります。享年は不明ですが、平均的な寿命から推測すれば明治中頃以降の生まれでは無いかと思われます。そうすると、この墓を建てた明治41年(1908)の時点では、まだ10代から、せいぜい30歳前後位の若さだった事に成りますね。
「つまらない事ですけど、彼の戒名は面白いですね。何か凄い勉強家みたいなイメージがします。」
そうですね。もしかしたら学者とか教育者だったのかも知れませんね。何れにせよ大変な勉強家だったと思われます。
もう一人書かれている“松平くに”さんは奥様でしょうかね。恐らく松平勉の埋葬の時に一緒に彫ったのでしょうが、その後も没年が彫られていません。
「今もご存命とか?」
いくら何でもそれは有り得ませんので、何等かの理由でここには葬られなかった様です。
さて、不思議なのは左側の墓石です。右の墓石とほぼ同形で同じ様な汚れ方をしていますので、ほぼ同時期に建てられた様に見えます。刻まれている文字は正面の「松平家第十六代以後之墓」のみですね。施主の名前も記されていない事から、やはりこちらも松平勉によって同時に建てられた可能性が高いでしょう。松平勉自身は“松平家先祖代々の墓”に葬られていますので、恐らく彼が松平家第十五代当主であり、彼以後の子孫の為に用意したのが“松平家第十六代以後之墓”であろうと思われます。しかしこちらには誰かが葬られた痕跡が有りません。
「そもそも“第十六代以後之墓”って変わってませんか?こういうのってよく有るんでしょうかねえ。」
さあー、どうなんでしょう?。自分を含まない子孫の墓石を建てておくって、あまり聞いた事が無いですね。
気になるのは昭和34年に松平勉が亡くなった後、“松平くに”や“第十六代以後”が此処に葬られた形跡が無い事と、墓所のかなり荒れた印象です。何が言いたいか解りますか?
「あっ! 松平家は絶滅したと!!」
“絶滅”の使い方が間違っていますし、もしかしたら今も何処かに、松平家のご子孫の方がご健在かも知れません。しかし少なくとも、代々家名を受け継ぎ、祖先の菩提を祀り続けるという概念としての“家”という意味での“深溝松平忠貞家”は、松平勉を最後に途絶えてしまった可能性は有ります。
最後の謎は、何故明治41年という時点で、若き当主である松平勉が、先祖の合葬墓と子孫の墓を建立したのかという問題です。まあ、本当のところは本人に聞かなければ判りませんけどね。ちょっとあなた、聞いて貰えませんかね?
「では、ちょっと松平勉の霊を降ろして・・・って、あたしゃ“イタコ”じゃあ無いんでそれは無理です。」
ありゃー、残念。それでは我々が想像力を巡らすしか有りませんね。
ところで江戸時代の武士身分は、明治維新後にはどう成ったかご存知ですか?
「たしか、大名以上は華族、それ以下の大部分は士族、最下級の武士は平民に組み込まれたんでしたっけ。」
その通りです。江戸時代に旗本だった松平家は、維新後には士族に成りました。当初士族には旧禄高に応じた家禄が支給されました。以前よりかなり少ない金額ですが、元が1500石の松平家は比較的恵まれていた方でしょう。しかし明治政府は、明治六年十二月に“家禄奉還”の制度を布告し、明治9年を最後に士族に対する家禄の支給は完全に廃止されます。つまり、この時点において松平家の一切の収入源が絶たれたという事です。
ところで“士族”という言葉から、どんな事を思い浮かべますか?
「えーとー。例えば“士族の商法”とか“不平士族”“没落士族”・・・何かネガティブなイメージが強いですねえ。」
そうですね。大部分の士族が没落の道を歩んだのは歴史的事実です。
明治期の松平家の様子については全く資料が有りませんので、あくまで想像する事しか出来ません。家禄廃止以降の松平家は、どの様に生計を立てていたのでしょうか。
運良く新政府での何等かの官職に就ければ御の字ですが、旧幕臣にとっては非常に狭き門です。かと言って、手に何の職も持たず、プライドだけはやたらと高い彼等の様な輩にとっては、一般の企業への就労も容易な事では無かったでしょう。ましてや平民のボスに仕えるサラリーマンに身をやつす事など、元知行1500石の殿様としてのプライドが許さなかった事でしょう。
幸い松平家は、家禄廃止当初にはそこそこの資産を持っていたと想像されます。その資産を運用したり、自ら事業を起こす事も可能です。しかしそこは“士族の商法”と言うか、松平家の場合はむしろ“殿様の商法”ですので、果たして上手くいったものやら。
更に気になる事が有ります。松平勉は第十五代当主と推測しましたが、維新時の当主の松平�吉は第十二代ですので、その間の短期間に二代の当主がいた事に成ります。明治41年時点で松平勉が若くして当主に就いていますので、先代(第十四代)当主は比較的若くして亡くなったと考えられますし、計算上、第十三代もさほど長命では無かった筈です。つまり松平家は、一家の大黒柱たる当主を次々に若くして失いながら、この激動の時代を乗り切らねばならなかった訳です。
この様な状況において、松平家の経済状態が次第に逼迫していった可能性は否めません。その様子を目の当たりにして育った若き日の松平勉は、自らが勉学に励む事によって、新しい時代を乗り切って行こうと堅く心に誓いましたとさ。
「おや? 又しても上手く話をまとめちゃいましたね!」
でしょー。我ながら腕を上げたもんです。
「自慢かい!」
まあ、そういう訳で、松平家の方々には大変申し訳ありませが、見事没落した事にして話を進めさせて頂きます。
で、合葬墓の件に戻る訳ですが、もう詳しい説明はいりませんよね?
「ええ。先祖代々の幾つもの墓石が並んだ広い墓所を維持しきれなく成った、という事ですね。」
将来的な維持費(お布施)の問題は大きいでしょうね。又、この萬昌院は何度か移転をしていますが、その際には墓所の広さに応じて相応の費用負担を求められるでしょう。想像になりますが、その様なタイミングで彼が苦渋の決断を下したのかも知れません。
「でも彼は、それなりに立派な二つの墓を建てているのですから、それ程家計が逼迫していたと考えなくてもいいんじゃ無いですかね。まあ、分相応にしたという程度で。」
そうだといいんですけどね。子孫の墓まで建てちゃった事に、何か強い決意を感じます。
更に彼は、数年前から身辺整理を始めていた様です。合葬墓建立の二年前、明治39年に或る物を処分しています。
「処分? 明治39年って?・・・アー あれかー 思い出しましたよー。『祢覚譚』ですね。たしか蔵書印の一つに日付らしき文字が有り、古書店の文淵堂が買い取った日付だと推測したんですよね?」
良くぞ覚えていて下さいました。遠ーーーい昔に張っておいた伏線が、漸く繋がってスッキリしました。
これも想像になりますが、この時に売却された書籍は『祢覚譚』だけでは無かったでしょう。松平鳩翁の蔵書である「松鳩文庫」及び他の祖先の集めた書籍を含め、松平家の書庫に収められていた蔵書の大部分が売却されたのだと思います。但し、この当時は江戸時代の古書など大した金額には成らなかったと思うんですよ。にも拘わらず大量の蔵書を処分する決心をしたのは何故でしょうか? もしもあなたが大量の蔵書をお持ちだとして(多分持っていないでしょうけど)
、処分を考えるとしたらどの様なタイミングでしょうか?
「我が家には大量のマンガ週刊誌が収蔵されていますが、あれって結構嵩張るんですよね。かと言って整理するのも面倒臭いので、つい積みっぱなしにしています。まあ、処分を考えるとしたら・・・例えば引っ越し・・・とか?」
そうですねえ。しかも今迄よりもかなり狭い家に引っ越すとしたら尚更ですよね。松平家は、この時期迄は旗本時代に拝領した屋敷に住んでいた可能性が高いと思われます。大身の旗本家としての格式に沿った、それなりのお屋敷だった筈ですが、この屋敷も維持していくのが困難となり、転居を余儀無くされたのかも知れません。その際、蔵書を処分すると同時に、その他の先祖伝来の品々も併せて処分されたかも知れません。
明治40年前後の頃、十五代当主松平勉は幾つかの決断を下し、それを実行に移しました。その決断の要因の少なくとも一つが、松平家の経済的な問題に有ったと思われます。但し、それがかなり逼迫した状況に有ったのか、或いは余力を残した上で将来を見越した選択で有ったのかは判りません。何れにせよ彼がこの時期に、由緒有る深溝松平忠貞家の歴史に一つの区切りを付けようと考えたで有ろう事は間違い無さそうです。
その後の松平家に関しては、昭和34年に十五代当主の松平勉氏が亡くなられたという事が知れるのみで、これを最後に深溝松平忠貞家の痕跡は歴史から消滅してしまいます。まあ、もしも萬昌院に松平家に関する過去帳でも残っていたら、また違った事実が判明するかも知れませんが、我々の仕事としてはこの位で十分でしょう。
「何だか切なくなってしまいました・・・」
まあ、最後にこんな事を言うのもなんですが、殆どが想像によるものですからね。真実は全く違ったものかも知れませんから。もしかしたら、これを読んだ松平家のご子孫の方から“勝手に松平家を消滅させるんじゃねー!!”とお叱りを受けるかも知れません。そうなったら嬉しいじゃ無いですか。
さて、これで本当にお仕舞です。最後に松平家のお墓に手を合せて解散としましょう。
「なーむー」
何処のどなた様かは存ぜぬが、有り難い事じゃ。
まあ、今更我が一族の事など忘れ去られても致し方ない事じゃが・・・唯一の心残りは拙者が書き残した書物の事じゃ。
どうやら今も何処かの図書館の奥深くに仕舞い込まれているらしいが、拙者の生きた証しである『祢覚譚』だけでも陽の当たる場所に出して欲しいものじゃ。
おーい、そこのお主らー、ひとつ頼まれてもらえんかのー!
『へ? あたし達ですかー? て、もしかして鳩翁さん?』
「おや? 旦那にも聞こえましたか?」