江戸カルタメイン研究室 十八頁目

~江戸カルタに関する総合的な研究室です~


◎『日本かるた文化館』に於ける“合せ”の問題(一)

引き続き『日本かるた文化館』に対する反論を述べさせて頂きます。
 今回は大目次2ー2 「江戸時代前期の合せカルタ遊技」を取り上げます。全体は三つの小目次に分かれておりますので、概ねその構成に沿って読んで行きましょう。

【1】“合せ”資料としての『仁勢物語』及びその他の資料に関する見解と、『鹿の巻筆』の解釈

小目次の最初の項目「一 カルタの遊技法「合せ」に言及する史料」は次の一文から始まります。

江戸時代初期の京都、大坂などには、「合せカルタ」という遊技法があった。だが、その存在を裏付ける史料は少ない。文献では、江戸時代初期の史料で、この遊技法であると特定されるものは未発見であり、寛永年間(1624~44)の末年に刊行された著者不明の『仁勢物語』がこれを扱った最古のものと推定される。

この後にご著書『ものと人間の文化史173 かるた』(以降『かるた』と略す)の『仁勢物語』の紹介(p.30)を再録されています。

『仁勢物語(にせものがたり)』(寛永十五~十七年頃)は、かれこれ十年以上前になりますが当サイトの“うんすんかるた分室”に於いて『私可多咄』(万治二年)と共に紹介した資料です。当サイトでは“合せ”の資料としてでは無く、“うんすんかるた”に関する資料として、江戸初期に“札の間に強弱関係が有る技法”つまりトリックテイキングゲームが存在した事を示す資料として取り上げたものです。

『仁勢物語』寛永十五~十七年(1638-1640)
をかし、女はあざ持つ、男はそうた持てり。早く打棄てたりけるを見て、勝ちこそは今はあだなれ是無くはそうたは四方に有らまじ物を

これを次の様に解釈しました。

女は“あざ”を持ち、男は“ソウタ”を持っている。男が“ソウタ”を早く打ち出したのを見て、女が言うには、これでもう“ソウタ”は何処にも無いので、あなたには勝ち目は有りませんよ

つまり、“ソウタ”は“あざ”より強いという強弱関係が有ったと解釈し、江戸初期にトリックテイキングゲームと考えられる技法が存在した根拠としました。尚、この名称不明の“トリックテイキングゲーム”技法に対して、後の“うんすんかるた”考案の元になった技法という意味で仮に“うんすんかるたの元技法”という名称を使用していましたが、その後カードゲーム研究家の黒宮公彦氏から“原ウンスン”という大変スッキリした名称をご教示頂きましたので、今後はこれを使わせて頂きます。

『仁勢物語』の解釈に関しては、江橋先生も基本的に当方と同様の理解をされている様です。但し先生の場合は“江戸初期、前期の「合せ」=トリックテイキングゲーム”という“仮説”を提唱されていますので、トリックテイキングゲームならば、即ち“合せ”の資料だという飛躍した結論に成ります。

こうしたストーリーだとすると、カルタの遊技で、「ハウの一」のカードである「アザ」は切り札だが、「ハウの十」、「ハウのソウタ」(別名「釈迦十」)も切り札で、「ソウタ」のほうが「アザ」よりも強いことになる。これはカルタ札の中で常に切り札になるのが「ハウの二」つまり当時の呼称で「青の二」と「釈迦十」「アザ」で、この順番で強弱がある「合セ」の遊技法である。「ヨミ」や「メクリ」ではこうはならない。「合セ」の遊技法が笑い話の種になっているのだから、江戸時代初期に「合セ」がごく普通に遊ばれていて、この話のおかしさが多くの人に伝わることを示している。

今は、根拠不明の“青二最強説”批判は繰り返しませんが、少なくともここには“合せ”などとは一言も書かれていません。勿論『私可多咄』も同じですが、にもかかわらず江橋先生はこれらについて『かるた』(p.84)でも“合せ”の資料として紹介されています。更に『軽口もらいゑくぼ』(元禄六年)の笑話をトリックテイキングゲームをモチーフにしたものだと解釈し、これも“合せ”の資料だとして掲載されました。勿論そこにも“合せ”の文字は有りません。
 実は『軽口もらいゑくぼ』の解釈に関しては『かるた』の出版以前に、江橋先生直々の私信にてお教え頂き、当方の見解を示せとご指示を頂いていたもので、熟考の末にトリックテイキング説を否定する論考を示しました。今回『日本かるた文化館』開設に当たって何等かの再批判が有るかと楽しみにしていたのですが・・・残念ながら今のところ無視の様です。
 又、今回『日本かるた文化館』に於いて『絵本池の蛙』の挿絵がトリックテイキングの場面だと解釈し、これも“合せ”の資料だとする論証を示されましたが、前稿にて批判済みです。(くどい様ですが、そこにも“合せ”の文字は有りません)。

更に江橋先生は今回、この後の『雍州府志』の読解中「③遊技法「合せ」の部分で唐突に一枚の絵画資料の話を持ち出されます。文脈上問題は無さそうなので、先にここで取り上げさせて頂きます。

かつて宮武外骨は、『賭博史』で、刊年不詳の『繪本鼠隠里』のあるページを紹介している。そこでは「かるたの絵どもぬけいでてたゝかふ」で「オウルのウマ」、「コップのキリ」、「イスのキリ」「ハウのソウタ」などがカルタ札から抜け出して合戦に及んでいる姿が滑稽に描かれている。これは二ページの続き絵で、宮武は右頁しか紹介していないが、左頁にはカルタ屋の「布袋屋」をもじった大きな布袋がいて、「布袋 かるたのたゝかいを見 ゐふ 銭なしのせうぶはおもしろふなひものじや」とある。これなども、合戦の場に兵を繰り出すように遊技の場に手札を繰り出して競い合う、合戦するという所作の合せカルタの遊技が念頭にある戯画である。読みカルタでは合戦にならずに「一」「二」「三」という列の長短を競う絵になってしまうし、めくりカルタでは競い合うではなく順番を待って収穫する絵になってしまう。「かるたのたたかひ」という語に最も似つかわしいのは合せカルタの遊技法である。

この絵が江橋先生にその様に「語りかけて」来たのでしょう。この資料の刊年は不明ですが、恐らく享保期以降のものでしょうか。
 まあ「合戦の場に兵を繰り出すように遊技の場に手札を繰り出して競い合う、合戦するという所作」という解釈も不可能では有りませんので、一つの解釈として認めても良いですし、これが“トリックテイキングゲームが念頭に有った”となら言えなくも有りません。しかし、江戸初期には確実に存在した“トリックテイキングゲーム”が、いつ頃迄存続したかという問題と、“合せ”が“トリックテイキングゲーム”であるかどうかは全く別次元の問題ですので、混同してはいけません。勿論『繪本鼠隠里』にも“合せ”の文字など出ていませんので、「合せカルタの遊技が念頭にある」という解釈は明らかに飛躍し過ぎでしょう。
 それと、左頁の詞書きを「かるたのたゝかいを見 ゐふ」と読むのは間違いだと思われます。“言う”は“いふ”とは書きますが“ゐふ”とは表記されません。先生が“ゐ”と読まれた字は“給”の略字で、正しくは「かるたのたゝかいを見給ふ」でしょう。

以上挙げた諸資料に共通しているのは、それがトリックテイキングゲームだと考えられるか、或いは単に江橋先生にはそう見える、という点です。しかし、百歩譲ってこれらの資料がトリックテイキングゲームの場面だとしても、それが“合せ”がトリックテイキングゲームである事を示す証拠には成らないという、根本的な問題を理解されていらっしゃるのでしょうか? これ程までに同じ手法を繰り返されるのを見せられると、そもそも江橋先生はトリックテイキングゲームだと考えられる記述や絵画の存在を示せば、それが“合せ”がトリックテイキングゲームである事の証明になると錯覚されているのでは無いかと危惧せずにはおられません。
 江橋先生の取られている論法は、『雍州府志』の“合せ”はトリックテイキングゲームであるというご自身の“仮説”が正しいという前提の基に“逆も又真なり”、その前後の時代にトリックテイキングゲームと思われる記述や絵画が有れば、それは“合せ”だと主張するものです。この様な論法は、当方の様な一般素人の目線から見ても到底納得のいくものでは有りません。

次に、江戸時代前期になると、貞享年間(1684~88)の『雍州府志』と『鹿の巻筆』がこの遊技法に言及した最も古い例である。このうち、黒川道祐著の『雍州府志』は、「合(アハセ)」と名称を特定し、カルタ札の「紋」を合せる遊技という説明が具体的であり、第一級の史料と思われる。

いよいよ『雍州府志』の登場ですが今は一旦保留して、もう一つの『鹿の巻筆(しかのまきふで)』(貞享三年)について少し検討しておきたいと思います。

『鹿の巻筆』は『雍州府志』とほぼ同時期の刊行です。笑話集ですので『雍州府志』とは全く性格の違う資料ですが、そこにはカルタに関係する笑話が四篇も収録されており、この時代のカルタの実態を知る上での貴重な資料であるのは間違い有りません。
 例えば、この中の一話「三人論議」には『雍州府志』にも登場する“よみ”“合せ”“かう”の三技法の名前が見られます。『雍州府志』が京都版であるのに対して『鹿の巻筆』は江戸版であるにも拘らず、両書に三技法が共通して登場し、しかも奇しくも記述の順序も一致している事から、この三技法は同時代の京都と江戸の両方で良く知られ、人気の有った技法のベスト3だったという推測も可能かと思われます。この様な点からも、『雍州府志』の検討に入る前に『鹿の巻筆』の「三人論議」について検討するのも意味の有る事と思います。

『鹿の巻筆』に関して江橋先生は、サイトの別の場所(大目次2ー3 江戸前期のきんごカルタ、かぶカルタ、まめカルタの遊技>三 九が勝数のかぶカルタ遊技>(二)かぶカルタ遊技の流行)で簡単に言及されているのみです。当方もこれ迄に色々と考えるところは有ったのですが、たいした内容では無いので公に発表せずにいましたが、丁度良い機会ですので“合せ”に関係する部分について、この場を借りて解釈を述べさせて頂きます。

『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
三人論議

(前略)
又三郎兵衛はかるたをすきて、よみの、あわせの、かうなどゝいふ事のみふかのぞみけり。
(中略)
自分じぶんには似合にあわずかるたわざ、ふつ/\とやめ給へ。かるたは博奕ばくちだい一なり。人のおもふ所もあり。なぐさみとはよもいわじ。さりとてはやめさせ給へ、與市どのと云。三郎兵衛きいて、かるたも後生ごしやうになるまじや。それかるたは人間の盛衰せいすい根本もと、されば佛法にいわんには、まづ四十八枚は弥陀みだの四十八ぐわんなり。一より九まで四とをりにて、四九三十六、地の三十六ゐんをひやうし、十、四枚は釈迦しやか弥陀みだ薬師やくし弥勒みろく佛、馬四枚は文殊もんじゅ普賢ふげん観音くわんをん勢至せいし、きり四枚は持國じこく毘沙門びしやもん廣目こうもく増長ぞうてう、さてまた、いす、こつぷ、はう、おうる四しなにさだめしは、須弥しゆみしうをかたどりたり、一は萬物ばんもつのはじめなれば、あざを天下にたつるなり。一よりきりまでの十二とさだめしかずは十二月をひやうしたり。されば、きりといひては何にてもすきをいだす。いきものゝ十二枚は十二因縁ゐんゑんなり。薬師やくしの十二神をもひやうし、心は人のなぐさみにして、よろづのやまいわすれ、氣をほうずるゆへなり。よみのかるたは壹枚のこり、がられぬ事八つのぜんありながら、壹つのあくにひかさるゝ心なり。九枚もつは九ほん浄土じやうど後生ごしやうに入ねなり。さるによつてかるたとなづく。米は是人をたすくる、そのいねのあとをかるたといふ。あわせにては人の善悪ぜんあくをしり、かうにては人の運否うんぷをしる。三枚まくは三くじの心なり。是もかやうに心得こゝろへば、いかで後生ごしやうにならずやといわれたり。
(後略)

掲載したのは『鹿の巻筆』巻一に載る一話「三人論議(さんにんろんぎ)」の一部分です。

この笑話を解釈をする上で最も重要な前提は、これが“笑話”であるという点だと考えます。あくまでも読んで笑ってもらう為の文章であり、読者に“謎解き”を求めるものでは有りません。笑話である為には当時の読者の知識の範囲内で、容易に意味が理解されうる単純さが求められます。とは言え、残念ながら現代の我々にとっては“謎解き”以外の何物でも有りませんが、せめて“当時の読者の視点”を意識して解釈していきたいと思います。

この笑話のテーマは、カルタの諸相全てを強引に“後生”に結び付けるという屁理屈によって生じるおかしみです。仏教の深い教義などとは無関係に、カルタのあらゆる側面が仏の御心に叶うもので有り、カルタを打つ事が“後生”に適う行為だとこじつける事によて、読者からの「それ、違うだろー!」という突っ込みを期待するものだと考えられます。
 話の大筋は、カルタ好きの三郎兵衛に対して友人が“「かるたは博奕の第一」であり、良く思わない人もいるのでお止めなさい”と忠告したのに対して、三郎兵衛は様々な仏教用語を駆使して仏法の諸相にこじつけて解釈し、最後に「かやうに心得ば、いかで後生にならずや」つまりカルタが“後生”に適う物だと強弁します。この後に友人からの反論が続くのですが、その部分は今回は省略させて頂きます。(一部、当サイト『笹屋カルタ考 前編』に掲載)
 先ずはカルタ札48枚を「弥陀の四十八願」になぞらえる等、カルタの様々な側面を仏教の教義に無理やり当てはめ、更に絵札を如来、菩薩、四天王等になぞらえます。それに続いて“よみ”“合せ”“かう”といったカルタ技法も仏法に沿うもので、全て“後生”に適うと言い放ちますが、勿論全てこじつけです。

今回は「讀のかるたは壹枚のこり」に始まる、後半の遊技法に関係する部分をじっくり検討したいと思います。話の構成は最初の“よみ”の部分が比較的長く、続いて「合せにては人の善悪をしり」「かうにては人の運否をしる」とワンセットにされています。続く「三枚まくは三くじの心なり」に関しては少々検討する必要が有ります。
 江戸カルタに“三枚”と呼ばれる技法が有りますが、技法の詳細は不明です。今のところ“かう”と良く似た技法だったか、或いは単に“かう”の別名だったのかも知れないと考えています。この部分の“三枚”も技法の事を言っている可能性も有りますが、前の二技法が「合せにては」「かうにては」という記述であるのに対して「三枚まく(撒く)は」としていますので、これは技法名では無く、ディールの際に一度に三枚づつ配る所作を言っていると考えておきたいと思います。「三くじ」は恐らく“御鬮(みくじ)”だろうと思われますが、だとすると「三枚まく」から「三くじ」とは、かなり強引なこじつけですね。

「かうにては人の運否をしる」は解り易いですよね。“かう”の勝敗はほぼ運のみで決まりますので、その勝敗は人事の及ぶ所では無く、仏の御心に従うしか無いと理解出来ます。問題はこれとセットになっている「合せにては人の善悪をしり」を、これと同タイプの技法の併記と見るか、異なったタイプの技法との対比と見るかという点です。
 これを対比だと見ると“合せ”技法の原理は“かう”の様に単なる偶然に左右されるものでは無く、人の知恵や行為によって結果が変えられるタイプのものだと解釈出来ます。そうすると“善悪”は札の強弱、或いは戦略の善し悪しを意味するものと捉えられますので、トリックテイキングゲームの原理に良く合致していると言えます。“後生”との関係が微妙な気もしますが、人が知恵を働かせたり、善い行いをする事が“後生”に叶う行為だと考えればあながち不自然では有りません。
 一方、“かう”と同タイプの技法の併記と見ればめくり系ゲームの原理に合致します。めくり系ゲームは“かう”と同様に偶然に支配される割合がかなり高く、その原理を極言すれば、自分の手番に於いて、“手札”や“山札からのめくり札”で“場札”を合せ取る事が出来るか否か、その繰り返しだと言えます。この場合の“善悪”は札を取れれば“善”、取れなければ“悪”であり、あくまでも結果の善し悪しを意味すると考えられます。これは人智・人事の及ばない領域であり、仏の慈悲にすがるしか無いという意味で“後生”に通じるという屁理屈に合っていると考えられます。

この様に「合せにては人の善悪をしり」の部分のみを見た場合には二通りの解釈が可能であり、どちらが優位とも言いきれません。こういう時の打開策として心掛けているのは“文章全体の文脈から部分を解釈する”という姿勢です。そこで直前の“よみ”に関する部分から読んでみましょう。

「讀のかるたは壹枚のこり、上がられぬ事八つの善ありながら、壹つの悪にひかさるゝ心なり。」

 いきなりの難題です。正確な解釈は自信が有りません。愚案ですが“よみ”で九枚の手札の内八枚まで出しながら最後の一枚がなかなか出せないでいる状態を、たとえ八つの善行を行っても、一つの悪心を捨て切れない為に“往生”出来ない(上がれない)でいる状態に重ね合わせているものと考えます。これを“よみ”の技法に当てはめると、手札を出せる事を“善し”、出せない事を“悪し”と表現していると考えられます。“よみ”は、全体としては高度な戦略が必要な技法だと考えていますが、最初の手札の善し悪しは運任せですし、最後の一枚の札が出せるか出せないか(つまり勝者と成れるか成れないか)もほぼ運任せであり、ひたすら仏の慈悲にすがるしか無いという意味で“後生”に通じるものと考えられます。
 注目すべきはここにも“善”“悪”の語が使われている点です。この笑話を読んだ当時の読者の視点から考えれば、これに続く「合せにては人の善悪をしり」の“善悪”も同様のニュアンスで解釈されるのが自然だと思われます。その様に考えれば“よみ”“合せ”“かう”といった当時流行のカルタ遊技は全て人智・人事の及ぶところのものでは無く、勝ち負けは仏の御心次第、仏の慈悲にすがるしか無いという意味で、“後生”に適うというこじつけ解釈で首尾一貫していると理解出来ます。

ここで最初の問題点である“合せ”はめくり系かトリックテイキング系かという問に立ち返って考えましょう。この笑話は全体として、カルタの諸相は全て“後生に適う”ものだという結論をこじつける為の文章だと考えられます。そうすると、もしも“合せ”が札の善し悪し以上に競技者の技量、知恵が重きを為すトリックテイキング系の技法だとすると、“カルタは後生に適う”という全体のテーマに対してストレートに繋がらないという印象を受けます。一方、“手札”や“めくり札”の善し悪しという偶然性に依存する部分が多いめくり系の技法と考えた方が、全体の文脈として首尾一貫しており、理解し易い様に思われます。

ついでに“よみ”の残りの部分の解釈もお示ししておきましょう。
「九枚もつは九品の浄土、後生に入ねなり。」

 「九枚もつは九品の浄土」は、“よみ”の4人競技の場合に各自に配られる“手札”の枚数である「九枚」を、仏教の教義“九品浄土”にこじつけただけでしょう。続く「後生に入ねなり。」が難問です。
 「入ね」が一つの熟語だとすれば、読みは“いるね”か“いりね”のどちらかだと思われますが、どちらにしても思い当たる所は全く有りません。従ってこれは「入」と「ね」とに別けて考えるべきでしょう。「入」は動詞であり、恐らく“はいる”では無く“いる”と読むと思われます。
 動詞に続く“ね”は名詞か、助動詞の可能性が有ります。助動詞の場合は完了の助動詞“ぬ”の命令形(“死ね”とかです)、或いは打消の助動詞“ず”の仮定形(“武士は食わねど高楊枝”等です)が考えられますが、何れの場合も文章として不自然ですし意味も通じませんので“ね”は名詞だと考えられます。名詞だとした場合、幾つか候補が挙げられますが、読者が容易に理解出来るものと考えれば候補は絞られます。最も適当と思われるのは“根”でしょう。“根”には“元”“根本”といった意味が有ります。
 以上に基づいて「九枚もつは九品の浄土、後生に入ねなり。」を解釈すると、“よみ”の手札九枚は、九品の浄土に入る(=後生)為の根本に通じるものであるという意味に取れます。その様に理解すれば続く部分にストレートに繋がります。

「さるによつてかるたとなづく。米は是人をたすくる、その稲のあとをかるたといふ。」

 前文を受けて“そういう訳でカルタという名前が付いている”と主張します。何故かというと“入ね(いるね)”の音は“稲(いね)”に通じます。実った稲を刈り取った跡は“刈田(かるた・かりた)”であり、“かるた”という名称自体が、米の様に人を助けるもの、つまり後生に適うものであるという訳です。
 かなり無理やりなこじつけと思われるかも知れませんが、カルタを“かりた”“刈田”と結び付ける理解は決して突飛なものではありません。例えば正徳二年(1712)序『和漢三才図絵』では項目名の「樗蒲」(原本では“樗”の字は木偏では無く手偏です)に「かりた」という読みを振っています。他の参考資料も幾つかご紹介しておきましょう。

『阿波手集』寛文四年(1664)
 虫/\のよるハかる田のよそろ哉
 せい入て鹿をおふるのかる田哉
『置みやけ』享保十九年(1734)
慰(ナクサミ)にうつは面白かりた哉
 よくにかゝらはつんとよしなや
『歓遊桑話』江戸中期
早苗も秋のかぜに紅葉して、五穀成就して刈田を祝ふ賀儀の名にや。又正月ハ睦月とて七五三て、互に睦び会すの所謂なり。酒興の友とするかるたの翫楽笑悦を催し、目出度春也。
『守貞謾稿』江戸後期
カルタ
今、刈田ノ字ヲ付ス。

これらの資料から、“カルタ”と“刈田”を結び付ける理解は江戸初期から後期迄一貫して受け継がれている事が判ります。

この様に「三人論議」の内容は、カルタはその名称、札の構成、絵柄、遊技法に至る迄全て仏法に沿っており、“後生”に適うものだという屁理屈で首尾一貫しています。繰り返しに成りますが、この文脈全体から“合せ”を考えれば、“トリックテイキングゲーム”よりも“めくり系技法”と考えた方がどちらかと言えば無理無く理解出来る様に思われます。

これが一応の結論です。結論と言っても“どちらかと言えば~思われます。”といった程度のものであり、あくまでも“合せ=めくり系技法説”という立場から見た、一つの解釈に過ぎない事をお断りしておきます。この解釈自体が“こじつけ”だと感じられる方もいらっしゃると思いますし、きっと江橋先生ならば“合せ=トリッキングゲーム説”の立場から、もう少しマシな解釈をお示し下さるものと期待しております。
 以上、おそまつ君でした。あっ、間違えた。お粗末様でした。

さて、ここ迄は単なる“イントロ”に過ぎません。落語で言えば“まくら”、コース料理で言えば“前菜”の様なものです。いよいよ“メイン料理”を味わわせて頂きましょう。

公開年月日 2019/07/15


【2】『雍州府志』の読解への批判 前編

ここから小目次の二番目の項目「二 『雍州府志』巻七、「賀留多」の解読」に入ります。
 先ずは第一章「(一)『雍州府志』巻七、「賀留多」」から読み始めましょう。

まず議論の基本的な骨組みの問題であるが、対象となるのは、『雍州府志』の中の「賀留多」に関する三百六十三文字の漢文である。研究室はそのサイトの開設当時から長期間にわたって、私が、カルタ史に関する論文や著作で、ここに登場する「合(アハセ)」(以下、『雍州府志』などでの「合」に仮名を付して「合せ」と表記する)というカルタの遊技法を論証抜きにトリック・テイキング・ゲームであると証明した気になって述べていると十年以上繰り返し批判してきた。だが、私は、『雍州府志』の「合せ」の記述は、これを表記のままに素直に読めば明らかにトリック・テイキング・ゲームを説明しているものと理解して矛盾ないと指摘してきただけである。

「私は、『雍州府志』の「合せ」の記述は、これを表記のままに素直に読めば明らかにトリック・テイキング・ゲームを説明しているものと理解して矛盾ないと指摘してきただけである。」
とはまさにその通りです。失礼は承知の上で言わせて頂けば、たしかに江橋先生はそれだけしかしてきていません
 当方は先生のこのご主張に対して、当時の「合せ」の語感は“競い合わせ”が主たるものだったという、何等実証的な根拠も無い“推測”をほぼ唯一の論拠としているものだと批判し、先生の「理解」の「矛盾」点を指摘し、その「理解」に至る具体的、実証的な論証を示す様に求めて来ただけです。
 今回、その批判に対して漸く『雍州府志』の綿密な読み込みによって、「合せ」が“トリックテイキングゲーム”で有るという主張の根拠を明確に示して下さった事に感謝致します。しかし“合せ=トリックテイキングゲーム説”がいまだ“仮説”である事に変りは有りません。“仮説”の真偽、正誤は他者による検証によって定まるものですので、今度はこちらの番です。その論証が妥当なものであるのかをじっくりと検討させて頂きましょう。

この後、江橋先生は『雍州府志』の「賀留多」の項全文のテキストと現代語訳、更には丁寧な書誌学的解説を記されていますが、これらについては『日本かるた文化館』の当該ページを直接ご覧下さい。尚、拙サイト内のテキストと読み下し、及び画像は必要に応じて下のリンクからご参照下さい。
 ◆『雍州府志』「賀留多」の項全文のテキストと読み下し
 ◆『同書』当該箇所の画像

こうした私の読解に対して、研究室は、ネット上で、私の論証が不十分であると批判するとともに、『雍州府志』は「合せ」という遊技法の説明の箇所で、フィッシング・ゲームの一種である「めくりカルタ」の前身「プロトめくり」の遊技法を説明しているという積極的な読解を示した。したがって、ここでは、『雍州府志』の記述をトリック・テイキング・ゲームとして理解するのと、フィッシング・ゲームとして理解するのと、どちらの方が合理的な説明であるのかという比較検証になる。以下、該当箇所を文節ごとに解読していこう。

本来は“合せ=トリックテイキングゲーム説”と“合せ=めくり系ゲーム説”の「どちらの方が合理的な説明であるのかという比較検証」を望んでいるのですが、江橋先生は「『雍州府志』の記述をトリック・テイキング・ゲームとして理解するのと、フィッシング・ゲームとして理解するのと、どちらの方が合理的な説明であるのかという比較検証になる。」と、論点を矮小化されている感が有ります。まあ、これも重要な論点であるのは間違い有りませんので良しとしましょう。

この後、江橋先生は『雍州府志』の「賀留多」の項に対する徹底的な読み込みを展開されます。当方にとっては貴重なご批判満載の、まさに宝の山とも言うべき内容なのですが、一般の読者の方々には全く意味不明の展開に成っているのでは無いかと心配します。しかし当方には、そこ迄してでも敢て『雍州府志』の「賀留多」の項の徹底的な解釈を試みた江橋先生のお気持ちが痛いほど理解出来ます。これ迄の江橋先生の著述を読ませて頂いた限りでは、先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”にとっては『雍州府志』の「賀留多」の項こそが自説にとって唯一無二の依拠資料であり、他に有力な傍証と呼べるものは有りません。つまり何としてでも『雍州府志』を守りきるしか生き延びる道は無い訳です。

黒川道祐著の『雍州府志』は、「合(アハセ)」と名称を特定し、カルタ札の「紋」を合せる遊技という説明が具体的であり、第一級の史料と思われる。

ところが、この文献については、山口吉郎兵衛が『うんすんかるた』で、これは「めくりカルタ」の祖型の「プロトめくり」を指しており、「紋」を合わせるは「数」を合わせると書くべきところの誤記であるとする理解、すなわち誤記説を示した。それ以来、それが確立した通説として君臨していた。これに対して私は、昭和末年(1985~89)から平成年間初期(1989~98)にかけて、同書の記述を素直に読めば「紋」を合わせるトリック・テイキング・ゲームの説明として首尾一貫していて誤記ではないという説を提起した。その後、平成年間(1989~2019)にそこに介入したのがネット上の江戸カルタ研究室(以下、研究室)で、基本的には「めくりカルタ」の前身、「プロトめくり」の「数」を合わせる遊技法であるという誤記説に近い認識を示すとともに、『雍州府志』が「紋」を合わせると記述した場合の「紋」は紋標の意味ではなく、模様のような意味であり、「紋」を合わせるという表記は数の同じ札を合せるという語義であると解されるので誤記ではないと主張した。そこでは、『雍州府志』をどう理解するのかが、「合せ」という遊技法の発祥を解明する鍵となっている。ここでは、『雍州府志』の詳細な解読を示して、それを通じて「合せ」というカルタ遊技の実体を解明したい。

後の“めくり”や“てんしょ”誕生の元となった、“同位の札”を組み合わせて取るタイプの技法の総称として、「プロトめくり」はピッタリのネーミングと思われますので当方も使用させて頂きます。

当方の主張は概ねこれで合っていますが、「そこでは、『雍州府志』をどう理解するのかが、「合せ」という遊技法の発祥を解明する鍵となっている。」というのは少々解釈をねじ曲げられている様です。当方が提案している“合せ=めくり系技法説”は複数の資料を基に、複数の視点からの検証を積み上げた上に成り立っている仮説であり、『雍州府志』もその中の一資料に過ぎません。勿論この仮説には問題点が有ると承知していますし、完全に立証されているなどと主張するつもりは有りません。特に、当方の“合せ=めくり系技法説”にとっての最大の問題点と考えられるのが、『雍州府志』の「合せ」の記述を素直に読むと、“めくり系技法”というよりも寧ろ“トリックテイキングゲーム”に近い様に見えるという点であると自覚しています。この点に関してしっかりと説明出来なければ“合せ=めくり系技法説”は前に進む事が出来ません。つまり当方にとって『雍州府志』の解釈は“合せ”技法解明の“鍵”では無く、敢て言えば・・・“壁”ですかね。しかもかなり高い“壁”です。一方、江橋先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”にとっては『雍州府志』こそが根拠となる唯一の資料であり、まさに“鍵”です。

当方の主張の詳細については、当サイト内メイン研究室の『技法「あわせ」の研究再論』(19~22)をご参照下さい。そんなもん読んでる暇は無いとか、読んではみたけど脱線ばかりで意味が分らんという方はこちらの要約をご覧下さい。

続く「(二)「賀留多」第一文節、カルタ札の制作地、制作者、発祥の説明」及び「(三)「賀留多」第二文節、カルタ札の「紋標」と「紋標数」の説明」の二章に関しては大きな反論点は有りませんし、議論の本筋(以降“本筋”とは『雍州府志』の“合せ”は“めくり系”か“トリックテイキング”かをめぐる議論という意味だとご理解下さい。)から外れますので今は言及致しません。
 尚、江橋先生は“文節”の語を、言語学での一般的な定義では無く“段落”の意味で使用されている様です。勿論“文節”でも言わんとする意味は通じますが、後々混乱や誤解が生じると困りますので、当方の地の文中では“段落”を使用させて頂きます。

続いて「(四)「賀留多」第三文節、①カルタ札の配分法の説明」の章に入ります。

冒頭の一文は「其玩之法、其始三人或五人圍坐、其内一人左手取持賀留多、以裏面上下混雑、不見其畫配分而置各々之前、是謂切賀留多。」であり、二種類の遊技法に共通する遊技者数、ゲーム開始前の札の切り方、配分の仕方を説明し、その次に「讀(ヨミ)」という遊技法と「合(アハセ)」という二つの遊技法を紹介している。この第三文節は、後続する第四文節で「カウ」「ヒイキ」「うんすんカルタ」という遊技法を博奕の戯れとして切り捨て、第五文節で今度は逆に、カルタの札を使った「歌賀留多」の遊技法を詳述する流れに繋がっている。こうした記述の全体的な構造をしっかりと把握しておきたい。

おっしゃる通り「記述の全体的な構造をしっかりと把握」するのはとても大切な事だと思います。元の『雍州府志』「賀留多」の項は段落分けされていませんので、文の意味、内容を解釈する事によって記述のまとまりを判断せねばなりません。先生の示す第一と第二、及び第五の文節(段落)分けに異論は有りません。しかし第三、第四段落の区分には同意出来ませんので、当方の解釈をお示しします。

先ず「其玩之法」に始まるこの段落は、大きく言えば「賀留多」の遊技法を述べている部分ですので、「歌賀留多」の説明に入る直前の「畢竟博奕之戯也」迄を一つの段落と取る事も可能です。しかし内容を考えると、二つの部分に分けた方が理解し易いでしょう。当方の解釈では

其玩之法其始三人或五人圍坐其内一人左手取持賀留多以裏面上下混雑不見其畫配分而置各々之前是謂切賀留多其為戯謂打賀留多
これを玩ぶの法、その始め三人、或いは五人囲座し、その内一人、左手に賀留多を取り持ち、裏面をもって上下混雑して、その画を見ず配分して、各々の前に置く。これを賀留多を切るという。その戯を為すを賀留多を打つという。

ここ迄が「賀留多」の遊技法全般に関する競技開始時の手続き、及び用語の説明をした一つの段落と考えられ、これに続く「然後」から「畢竟博奕之戯也」迄が、個別の技法を説明している別の段落と考えます。

前半の段落に関して江橋先生は「二種類の遊技法に共通する遊技者数、ゲーム開始前の札の切り方、配分の仕方を説明」するものと解釈し、後に続く“よみ”“合せ”の二技法のみに対する説明だと主張されています。従って“よみ”“合せ”の技法説明の部分迄を一つのまとまり(第三文節)とされ、その解釈を前提として論を進められます。しかしその様に解釈する根拠は明確に示されてはいませんし、文面を素直に読む限りでは何故その様に読めるのかが全く理解出来ません。
 冒頭の「其玩之法」は前の段落を受けて「その(賀留多の)遊び方は・・・」という意味であるのは明白です。読者の立場から見れば、当然「賀留多」全般に関する説明である前段の続きだとしか受け取り様が有りません。これを何の説明も無く「後で述べる“よみ”“合せ”の遊び方は・・・」という意味に理解出来る筈は有りませんし、黒川道祐もその様に書いてはいません。

続いて競技の開始時、「三人或五人」の競技者が場を囲む様に陣取り、その内の一人が札を交ぜ(シャフル)、それを各自に分配(ディール)するという手順を記し(この部分に関しては、後で詳しく論じます)、「是謂切賀留多」(これを賀留多を切るという)と説明しています。
 現在“トランプを切る”という表現が一般的に使われているのと同様に、江戸時代には“カルタを切る”という表現が使われていました。勿論「切る」は“よみ”と“合せ”とに限って使われていた用語では有りません。用例を幾つかご紹介しておきます。

『湯たらひ』宝永三年(1706)
四五十両かるたのやうに切まぜる
『童の的 四篇』明和四年(1767)
あれか座頭か骨牌きる音
『川柳評万句合勝句刷 明六義4』明和六年(1769)
哥かるたちよき/\切てしかられる

余談になりますが、最後の句が面白いですね。
 『雍州府志』の記述では「切る」とは、一人がカルタを左手に持ち、裏向きのまま上下を混ぜ合わせると書かれてはいますが、今一つ具体的な方法がはっきりしません。江橋先生もこの部分を

左手に全部のカルタ札を持って、裏面を上にして右手でよくかき混ぜて

と、無難な解釈に止められていますが、左手に持った札を右手でかき混ぜるというのが具体的にどの様な動作なのか、イメージ出来ません。ここは少し想像力を働かせて大胆に考えて見ましょう。
 我が国では花札やトランプを「切る」際には伝統的に“ヒンズーシャフル”という技法が用いられます(欧米では“オーバーハンドシャフル”が主流)。ならば江戸時代もそうだったであろうと推測されますが、「ちよき/\」という描写はまさに“ヒンズーシャフル”にピッタリだという印象を受けます(まあ、印象に過ぎませんが)。前の句の「骨牌きる音」からも、「切る」が音の出る所作であったのは間違い無いでしょう。
 では何故「哥かるた」を「ちよき/\」切ったら叱られたのでしょうか。確信は有りませんが、江戸カルタ(48枚系カルタ)と歌かるたとでは、札の混ぜ方の作法に違いが有ったのではないかと考えられます。様々な資料から推測すると、江戸時代を通して歌かるたは上品な遊戯と認識され、江戸カルタは下品なものという理解が一般的であったのは間違い無いでしょう。「ちよき/\」切る(ヒンズーシャフル)という行為は江戸カルタと強く結び付いた下品、不調法な所作だという認識が有り、上品な歌かるたの場にはそぐわないと考えられていたと思われます。歌かるたの混ぜ方は想像するしか有りませんが、例えば下に置いた札を両手で静かに掻き混ぜるといった方法が考えられます。
 句解としては、武家か上級の商家でしょうか、家中の女衆上下が揃って歌かるたを遊ぶ場面でしょう。普段から江戸カルタに慣れ親しんでいる下女がいつもの癖で歌かるたを「ちよき/\」切って、女主人に不調法だと咎められるといった場面が想像されます。

話を戻しましょう。ここでの黒川道祐の記述では“シャフル”と“ディール”との両方を併せて「切る」と言う、という意味に受け取れます。しかし上の用例を見る限り「切る」は“シャフル”のみを指す様に受け取れますので、この記述には少々違和感を覚えます。この点について江橋先生は次の様に解釈されています。

なお、黒川道祐は、ゲーム開始にあたってカルタ札を交ぜることと配分することを合わせて「これをカルタを切ると言う。」と説明している。「切る」には一塊の物を切断して分配するという語義があるから、一組のカルタ札を配分する動作の言葉としてはこれで良い。

「切る」に「一塊の物を切断して分配するという語義がある」とは全く知りませんでした。「語義がある」と断定されるからには先生ご自身の想像では無く、何等かの根拠を持ってのご発言の様ですので、慌てて各種の辞典類を調べて見ましたが、残念ながらその様な語義を載せたものは見当たりません。『日本国語大辞典 第二版』には「切る」の語義が34種掲載されていますが、そこにも漏れているほど極めて特殊な語義であるにもかかわらず、江橋先生はその根拠となる出典、用例を示されていません。よって不確かな根拠に基づく「一組のカルタ札を配分する動作の言葉としてはこれで良い」という解釈を採る事は出来ません。
 とは言え、実際のところ“シャフル”と“ディール”とは多くの場合一連の動作と成りますので、これを併せて「切る」と表現するのは間違っていると迄は言い切れませんし、当時は実際にその様に認識されていた可能性も否定出来ません。しかしここは、続く「其為戯謂打賀留多」との関連で考えた方が良いと思われます。
 「是謂切賀留多」と「其為戯謂打賀留多」との表現が似ているのは偶然とは考えられません。著者の黒川道祐が意識的に用いた対句表現だと考えて間違い無いでしょう。対句表現は、離れているよりも連続している方が効果が強まりますので、黒川道祐としては文脈上での厳密さを多少犠牲にしてでもこの対句を生かしたかったが為に、本来「以裏面上下混雑」の後に来るべき「是謂切賀留多」を後に回して「其為戯謂打賀留多」の前に持って来た為に、少々不自然な文型に成ってしまったのでは無いかと想像します。

ちなみに、この“カルタを打つ”の語も、カルタ用語として江戸初期から見られるものです。用例を幾つかお示しします。

『獣の歌合』寛永頃(1624-1644)
きみはうつ/\かるたをうつがわれはらうさいにてかみがうつ

(技法不明)

『浮世物語』寛文初年頃(1661-)
もみ賽重迦烏のたてもの、銭の中に銀をまじへ、銀のしたに金をしきつゝ、たてゝはとられ、つみてはとられ、夜ごとにより合てうつほどに、負る事かぎりなし、

(かう)

『うたゝね』元禄七年(1694)
船頭のよみ打つ顔の隙さうに

(よみ)

『開帳利益札遊合』安永七年(1778)
さしにうつのをふうふになぞらへ手にもつてめくるハ国をわかつにたとへたり三つに打のを天地人のさんさいなり

(めくり)

この様に“カルタを打つ”という表現は江戸時代を通して見られるものです。しかも様々な技法に共通して用いられる用語であり、決して“よみ”“合せ”に限られるものでは無いのは明らかです。従って、この「其為戯謂打賀留多」迄は“賀留多”の技法全般に関する説明であると考えるべきでしょう。

以上見てきた様に、この段落は「賀留多」全般の特徴を述べた前段を引き継ぐ「其玩之法」に始まるもので有り、「賀留多」遊技全般に共通して用いられる用語を説明する「是謂切賀留多」「其為戯謂打賀留多」に終わるものです。つまり全体として、カルタ遊技全般についての説明だと解釈するのが自然な読解であり、“よみ”“合せ”に限った説明と読む事は出来ません。もしも本当に黒川道祐がこの部分を、この後で説明する“よみ”と“合せ”とに限定した遊技法の説明として書いたのだとしたら、一流の著述家としては全く稚拙な文章だと評価せざるを得ません。著者の意図が伝わらない文の好例として、よく有る『文章の書き方』という類いの本で“悪文”の見本として使われても文句は言えないでしょう。黒川道祐がその程度の稚拙な著述者で有ったと考えるのは失礼でしょう。
 現代の研究者の視点で、あれこれと奇抜な解釈を試みるのは勝手ですが、少なくとも当時の読者の視点で見れば“よみ”と“合せ”とに限った遊技法の説明と理解するのは不可能であり、「賀留多」全般の説明であるとしか読み取り様が有りません。この先を読み進めるに当たって、この点をしっかりと心に留めておいて下さい。

この後江橋先生はかなりの長文で「トリック・テイキング・ゲーム」の説明をされ、その後半で次の様に述べられています。

カルタが日本に伝来した十六世紀の後半、十七世紀の前半の世界では、このトリック・テイキング・ゲームが大流行していて、三人で遊技する「オンブル(レネガド)」は世界で最も人気のある遊技法であった。しかし、トリック・テイキング・ゲームでは、遊技する参加者の数は三人に固定されるようになる以前は、四人ないし五人で行う遊技法もある。六人以上が参加する遊技法は知られていない。今日熊本県人吉市に伝承しているうんすんカルタでは「六人メリ」や「八人メリ」の遊技法があるが、これは使用するカルタ札の一組の枚数が多い(うんすんカルタは七十五枚)場合の遊技法であり、一組四十八枚のカルタでは六人以上では遊技がしにくい。

本当に「一組四十八枚のカルタでは六人以上では遊技がしにくい」のでしょうか? 私はカードゲーム全般や実際のプレイには疎いので、とやかく言う資格は有りませんが、例えば後に日本独自に発展したトリックテイキングゲームである「ナポレオン」や「ツー・テン・ジャック」等では(52枚ではありますが)六人迄は普通に許容範囲だと思われます。又、四十八枚のカルタで六人競技、手札各八枚のトリックテイキングゲームの存在を想定すると、それが必ずしも「遊技がしにくい」ものとも思えないのですが、如何でしょうか?
 まあ、江橋先生も厳密に考証された上での発言では無く、単に“トリックテイキングゲームは一般的に三人から五人で競技するものだ”という事を印象付けようと意図されたものと想像されます。その意図は後の方で明確に成ります。

一方、山口が指摘した「紋標数」の同じものを合わせ取る「めくりカルタ」では、札は「場六、手七」で配分される。場に展開される場札が六枚、参加者に配分される手札が三人の遊技者の各人に七枚ずつである。残りの二十一枚は裏面を上にして場に積まれる。
(中略)
三人の参加者が各々七枚、三人合計で二十一枚を出し、その度に山札を一枚めくるのである。山札は二十一枚、これに最初の場札六枚を加えると全部で四十八枚になり、一組のカルタを余すところなく使うことになる。この構成は、十八世紀、江戸時代中期の「めくりカルタ」から二十一世紀、現代の「花札」まで変化していない。

ちょっと待って下さい。これではまるで、江戸中期から現代に至る迄の“めくり系技法”は全て同じ形式だったと、読者に誤解を与えてしまいそうな文章ですし、寧ろ読者に誤った認識を植え付けようとする意図さえ感じられます。
 たしかに江戸時代中期に登場した“めくり”や、現代の花札の中心技法である“八八”や“花合わせ”等は原則として“四十八枚使用”“三人競技”“場六、手七”です。しかし、近現代に伝わる花札や地方札を使用する“めくり系技法”の中にも、いくらでも例外が有るのは調べれば簡単に分る事ですし、先生ご自身がご存じ無い筈は有りません。なのに何故、この様な不正確な主張をなされるのでしょうか?
 江戸時代のカルタ技法に限っても、“めくり”と類似した技法と考えられ、ほぼ同時代に上方で流行した“てんしょ”に関しては“四十八枚使用”“三人競技”“場六、手七”とは断定出来ません。

『にんげんいつしやう教訓身上道中記』江戸後期
かるた山天正寺
此所四十五まいの札所なり
『浦島物語』天明頃(1781-1789)
天正は近年の時花(はやり)出(で)にして、あさ金六を尤(もつとも)尊ぶ。一面の勝負三人も合せ四人も樂み、

ましてや江戸前期の「プロトめくり」が「十八世紀、江戸時代中期の「めくりカルタ」」や「二十一世紀、現代の「花札」」と全く同じ形式だったという証拠は有りません。まあ絶対に無いとは言えませんが、常識的に考えて可能性は極めて低いでしょう。

『雍州府志』の文章の読解に戻ろう。まず、最初の一文、「其玩之法、其始三人或五人圍坐、其内一人左手取持賀留多、以裏面上下混雑、不見其畫配分而置各々之前、是謂切賀留多。」である。これは極めて明快で、カルタは最少三人、最多五人で囲んで座って遊ぶ遊技であり、一人が左手に全部のカルタ札を持って、裏面を上にして右手でよくかき混ぜて、表面の図像を見ないで各人の膝の前に配分するというのである。これは次に述べる「読み」と「合せ」に共通する、遊技への参加者の数、ゲーム開始前の札の扱い方の説明である。

ここに、参加する人の数は三人から五人と記されている。のちの時代には、二人で行うカルタの遊技法も開発されたが、日本のカルタの遊技法は伝統的にこの人数が基本である。

「三人或五人」を文字通りに解釈すれば“三人か、或いは五人”のどちらかで遊技されるという様にも読めますが、現実的な解釈としては、先生のおっしゃる通り“最少三人、最多五人”の人数で遊技されるという解釈が妥当だと思われますし、「日本のカルタの遊技法は伝統的にこの人数が基本である」というご指摘にも同意します。しかし江戸時代のカルタ技法が例外無く三人から五人だったとは言えません。参考迄に“例外”をご紹介しておきましょう。
 例えば『仁勢物語』の挿絵(“原ウンスン”か?)には二人が描かれています。この絵が写実的な描写だとは言い切れませんが、これに対応する本文も二人競技として理解出来ます。又、『絵本池の蛙』の挿絵の一枚では六人による“よみ”(“ならよみ”か?)の場面が描かれています。
 又、“かう”や“きんご”系の技法ならば六人以上でも遊技可能だと考えられます。江橋先生も後の部分で

博奕系のカルタの遊技法では、参加者の数も三人から五人に限定されない。

と、書かれている様に、確かに原理的には可能でしょう。しかし、実際に“かう”系技法の資料を調べてみると、意外にも六人以上と確認出来る遊技図や文献資料は見当たりません。勿論、実際には六人以上での遊技や、二人による“差し”の勝負も有ったであろうと思われますが、それは例外的なものであり、多くの場合は“三人から五人”で遊技されていたと想定しても良いと思われます。
 『雍州府志』の「三人或五人」の記述に関して言えば、黒川道祐自身が見聞し、認識していた範囲でのカルタ遊技(“よみ”“合せ”“かう”“ひいき”“うんすんかるた”)が“(概ね)三人から五人”で競技されていたのを、そのまま記録したものと理解して問題は無いと考えられます。
 ところが・・・

ただし、「めくりカルタ」の場合は、四人以上が参加する場合はカルタ札を配分されたメンバーの中で、手札があまり有力でないと判断した者は「抜ける」「降りる」「寝る」「見(けん)に回る」などと宣言して配分された札を場に戻して山札とし、残る三人のメンバーが参加する。一方、『雍州府志』の説明では何の限定もないのだから、これは三人でも、四人でも、五人でも参加できるタイプの遊技を想定した文章である。

これ迄江橋先生は、「三人或五人」を「これは極めて明快で、カルタは最少三人、最多五人で囲んで座って遊ぶ遊技であり」「ここに、参加する人の数は三人から五人と記されている」と解釈をされていました。ところが、この「極めて明快」な読解が、いつの間にか「三人でも、四人でも、五人でも参加できるタイプの遊技を想定した文章である」と微妙に変えられています。これでは全く意味が異なってしまいます。
 確かに「三人或五人」を単独で見れば、その様な解釈も不可能では有りません。しかし全体の文脈の中で見れば何とも奇妙な読解であり、何等かの意図が無ければその様に読むのは不可能でしょう。では何故江橋先生は突然、ご自身の説明内でも矛盾している「三人でも、四人でも、五人でも参加できるタイプの遊技を想定した文章である」という奇妙な読解を持ち出されてきたのでしょうか?

これを、三人から五人の間であれば何人でも遊技できる「読み」と、必ず三人で遊技する「めくりカルタ」タイプのフィッシング・ゲームの遊技法の異なった札の配分方法を一緒にして説明していると理解することは困難である。誤記説は早くもこの単純明快な札の配布法に関する文章で説明困難に陥る。果せるかな山口吉郎兵衛はこの文章を無視して説明を回避している。後続した誤記説の論者も皆が同様に素通りしている。

「皆が同様に素通りしている」理由は明白です。この部分を素直に読む限り、「賀留多」は三人から五人の間で競技されるものだと、何の問題も無く理解出来るからです。近世文学のエキスパートである佐藤要人先生にせよ、当方の様なズブの素人にせよ、又は当時の読者にせよ、江橋先生の様な奇妙な読解が可能だなどとは考えもしませんので、そりゃ素通りしますわな。

ここ迄の江橋先生の論法を整理しましょう。

  1. この部分は“よみ”と“合せ”との「二種類の遊技法に共通する遊技者数、ゲーム開始前の札の切り方、配分の仕方を説明」したものである。
  2. 「三人或五人」は「三人でも、四人でも、五人でも参加できるタイプの遊技」という意味であり、“よみ”はその条件に合っている。
  3. 「プロトめくり」は「必ず三人で遊技する」技法なので、条件に合わない。よって「合せ」は「プロトめくり」では無い。
  4. 更に先生ご自身はハッキリとは書かれていませんが、「合せ」は「プロトめくり」では無い事を示す事で、「三人でも、四人でも、五人でも参加できるタイプの遊技」である“トリックテイキングゲーム”だと主張されたいのだと思われます。前にトリックテイキングゲームに関する説明の中で、“トリックテイキングゲームは一般的に三人から五人で競技するものだ”という事を印象付けようとしたと思しき記述が有ったのを覚えていらっしゃいますでしょうか? あれはここへの伏線であろうと想像されます。まあ想像ですので、違っていたらゴメンナサイ。

1と2については批判済みです。まあ、これらは解釈上での見解の相違だとも言えますが、3に関しては明らかな事実誤認に基づくものです。

江橋先生は前に「この構成は、十八世紀、江戸時代中期の「めくりカルタ」から二十一世紀、現代の「花札」まで変化していない」と、江戸中期から現代に至る迄“めくり系技法”は悉く三人遊技であるかの様な認識を示され、それからの類推で、十七世紀に「プロトめくり」が存在したならば、それも又、必ず三人遊技であった筈だとお考えの様です。先生は例によって何等の資料的根拠も示さずに、江戸中期の“めくり”が三人遊技であると断定されていますが、それが明らかに誤認である事を、具体的な資料を根拠にお示ししましょう。
 先ず、“めくり”に関しては最も信頼の置ける資料と考えられる『博奕仕方』の「めくり博奕仕方」を見てみましょう。

『博奕仕方』寛政七年(1795)
博奕手合両人より五人に限申候
但五人に候得ば一人ツヽ順に休を入、残四人え七枚ツヽかるた之裏之方を見せ、銘々蒔配り、外にかるた六枚其席之真中え模様を見せ候て蒔、四人之内一人悪敷札の者相休、三人にて手合に成打候事も有之又は両人にて打候事も三人共に不承知に候得ば蒔直し申候

競技者の人数は二人から五人に限ると、ハッキリと書かれています。但し五人の場合には最初から一人は競技に参加しませんので、実質は二人から四人での競技と言って良いでしょう。更に「四人之内一人悪敷札の者相休、三人にて手合に成打候事も有之」という事ですので、四人の内で手札の悪い者が一人“休む(寝る)”と宣言して勝負を下りて、三人で競技する事も有るとされます。しかし、“必ず一人が休み”三人で競技するという訳ではなく、四人とも勝負になると判断し、誰も“休む”と宣言しない場合には四人で競技されると読み取れます。更に「又は両人にて打候事も」と有りますので、二人が“休む”と宣言しても、残る二人で競技は成立する様です。但し「三人共に不承知に候得ば蒔直し申候」三人が“休む”と宣言するば残りは一人ですので、当然競技は不成立と成り“蒔直し”と成ります。つまり“めくり”は二人、三人、四人の何れでも成立する技法という事に成ります。

次に“めくり”の遊技図と考えられる絵画資料を確認すると、“めくり”遊技の場に参加していると見られる人数は殆どが三人から五人(確認済みの例外は『夜野中狐物』の六人)です。その内、今の回の競技に参加している(=手札を持っている)と思われるのは、殆どの場合三人です。二人での競技らしき図は見当たりません。四人での競技と思われる図は『金平異国遶(きんぴらいこくめぐり)』安永八年(1779)『夜野中狐物(よのなかこんなもの』安永九年(1780)との二例が有るのみです。尤も、挿絵としての遊技図の場合、標準的な三人遊技の場面が多く選ばれたであろうと考えれば、実際の遊技では四人や二人の場面もそこそこ頻繁に有った可能性も否定出来ません。この様な資料状況から、“めくり”は三人競技が標準的ではあるものの、少なくとも四人競技が有ったのは確実であり、恐らく二人競技の場合も有ったと考えて間違い無いでしょう。
 この様に、安永から天明頃の“めくり”ブームの絶頂期に於てでさえ「必ず三人で遊技する」と断定するのは明らかに間違いです。更に前述の通り、“めくり”とほぼ同時期に上方(つまり『雍州府志』と同地域)で流行した“てんしょ”も又、三人遊技に限定されるものでは有りません。この様な資料状況を全く無視して、『雍州府志』の「合せ」が“めくり系技法”であるならば、それが「必ず三人で遊技する」技法だと推測するのは余りにも乱暴過ぎます。百歩譲って“めくり”や“めくり系技法”が“主に”三人遊技である事は認めるとしても、それのみを根拠として江戸前期の「プロトめくり」が「必ず三人で遊技する」と推測する事自体が全く非論理的だと言わざるを得ません。

ここで誤記説が言うように、もし十七世紀、江戸時代前期に後の時代の「めくりカルタ」の前身、「プロトめくり」が実在していて、黒川道祐はそれを説明しようとしていたのだとしよう。そうすると、札の配分の仕方では「プロトめくり」は「めくりカルタ」と同様であったと推測されるから、場札は図像が分かるように表面を上にして配るという手順があったはずである。そうだとすると、黒川は、「ゲーム開始時に「読み」ではすべての札を配分してしまうが、「合せ」では「場六、手七」で、手札は裏面が上、場札は表面が上で配分するのである」と、「読み」と「合せ」では配分の方法が異なることを説明したはずである。

又しても「札の配分の仕方では「プロトめくり」は「めくりカルタ」と同様であったと推測されるから」ですか・・・
 極めて根拠の弱い「推測」に過ぎません。そもそも今議論しているのは「めくりカルタ」についてでは無く「プロトめくり」についてです。黒川道祐は彼の知る、当時“合せ”と呼ばれていた技法の事を書いただけであり、百年近く後に流行する“めくり”という“三人競技”“場六、手七”の技法の事など知る由も有りません。「プロトめくり」は、それが実際に存在したのかさえ確認されていない概念に過ぎず、“同位の札を組み合わせる”という基本原理以外は、何枚の札を使い、何人で競技されたか、更には“場札”や“山札”が有ったのかもさえ全く白紙の状態であり、寧ろ何の先入観も持たずに向き合うべきであろうと考えます。
 勿論「プロトめくり」は「めくりカルタ」と同様であったと“仮定”して資料を解釈するのは自由ですし、その結果“仮定”と記述内容との間に整合性が有れば、その“仮定”の妥当性は高まると考えて良いでしょう。しかし逆に記述と辻褄が合わないと感じるならば、“仮定”の方が間違っている可能性を疑ってみるという姿勢も必要では無いでしょうかね?

尚、ここで江橋先生の論法について一言申し上げさせて頂きます。本来文献資料の内容を検討する際には“そこに書かれている事”をどの様に解釈するかが基本であるのはご理解頂けると思います。しかし先生は“そこに書かれていない事”を根拠にする論法がお好きな様で、ここ以外にも繰り返し使われています。その種の論法を100%否定はしませんが、相当丁寧な論証無くしては説得力の有るものには成らないと考えます。

だが、黒川は、カルタでは裏面を上にしてすべての札を配分して始めると書いており、そこには遊技法の「読み」と「合せ」による違いは記載されていない。そして、それに続けて、すべての札を配分して始めることに疑問のない遊技法である「読み」の説明に入り、その先で配分法の違いに触れることのないままに「合せ」の説明に続けている。こうした文章の構造であるので、これは「読み」と「合せ」で札の配分が同じことを意味している。これを、札の配分方法が異なることを暗黙の前提にして説明した文章であるとは到底読み取れない。この記述だけでも「合せ」が「プロトめくり」の遊技法の説明だと理解することは困難である。山口吉郎兵衛に始まる誤記説はこの部分も素通りである。

又しても江橋先生は語句の意味の恣意的な読み替えをされています。
「すべての札を配分して始めると書いており、」
 原文には「すべての札を」とは書かれていませんが、江橋先生は「配分」を“全ての札を配りきる事”と解釈されて論じられている様です。『雍州府志』をざっと見た所では他に「配分」の用例は見当たりませんでしたので、黒川道祐が「配分」の語をどの様な意味で使用したのかは不明ですが、一般的な語釈を『日本国語大辞典 第二版』で見ましょう。

はい-ぶん【配分】〔名〕くばりわけること。分割してくばること。わりあててくばること。分配。

この語釈に従えば「配分」は決して“全てを配りきる”という意味に限定されるものでは有りません。例えば「プロトめくり」は各プレイヤーに対して決められた枚数を配分し、残りを山札とし、場札が無い状態から開始するというルールも想定出来ます。或いは、仮に全ての札を配りきるとしても、場札も山札も無しにプレイを開始する方法も有り得ます。いずれにせよ「配分」を全ての札を配りきるという意味だとする恣意的な解釈に基づいて、これが「プロトめくり」では無い証拠だとする論法は成り立ちません。ここに書かれているのは、「賀留多」競技では最初に各競技者に等しく何枚かの札が裏向きに配られるという事だけです。

尚、トリックテイキングゲーム系の技法では、競技開始時に全ての札を“配りきる”(端数の札は別にして)タイプと“配りきらない”タイプとが有り、特にヨーロッパの古い技法ではどちらかというと後者の方が主流だった印象を受けます。専門外ですので、あくまでも印象に過ぎませんが、少なくとも我が国へ伝来したと考えられる“オンブル”系の技法は“配りきらない”タイプで有った可能性が高いと考えられます。
 この点について江橋先生は・・・

なお、今日に伝わるトリック・テイキング・ゲーム系の遊技法に、遊技の開始時には各人に四、五枚に限定して裏面を上にして札を配分して遊技を始め、途中で同じく裏面を上にして札を追加配分するルールのものがある。『雍州府志』の「合せ」がそういうタイプの遊技法であるならその旨を書き残したであろう。ゲーム開始時の配分枚数について何の限定も書かれていないので、トリック・テイキング・ゲームの中でもゲーム開始時の配分枚数を限定するこういうタイプの遊技法ではなさそうである。

と、さらりと述べるのみです。しかし、あくまでも『雍州府志』の記述が“全てを配りきる”だと主張し、尚且つ「合せ」が“オンブル”系の技法が元になった“トリックテイキングゲーム”だと主張されるのであれば、この点に関してしっかり説明して頂きたいものです。まあ、“我が国で独自に変化したのだろう”と言われればそれ迄ですが。

次に、配分される札の表裏の問題がある。「プロトめくり」の配分法であれば、当然に「七枚を裏面を上にして手札として各々の前に置き、六枚を模様が分かるように表面を上にして場に晒して場札とする」と書かれなければならない。ところが『雍州府志』は札の表面の図像を見ないですべての札で裏面を上にして配分するという札の配布方法だけを書いている。「読み」の遊技法での配分方法とトリック・テイキング・ゲーム系の「合せ」の遊技法での配分法が同じものであると説明しているのであり、これをまるで配分法が異なる「プロトめくり」タイプのフィッシング・ゲームの遊技法まで念頭に置いた記述であるとは読めない。誤記説はこれも無視である。

ここでも先生は“そこに書かれていない事”を根拠に批判をされています。
 「「プロトめくり」の配分法であれば、当然に「七枚を裏面を上にして手札として各々の前に置き、六枚を模様が分かるように表面を上にして場に晒して場札とする」と書かれなければならない。」
 はあ? 「当然に」ですか? 黒川道祐が書いているのは当時行われていた“合せ”と呼ばれるカルタ遊技の説明であり、百年近く後の“めくり”の遊技法など彼の与り知る所では有りません。“めくり”の遊技法がそこに書かれていないのは「当然」の事です。
 とは言え、当時から行われていた“かう”に関しては、当時の遊技図を見ても一部の札を表向きに配っていた可能性が高いと考えられますので、それについての記述も無いのはたしかに不自然に感じられます。この点について私案をお示し致します。
 江橋先生が『かるた』(p.121)で紹介されている、48枚系のカルタは基本的に「裏配りのゲーム」(加藤秀俊による)であるのに対して、日本式の“歌かるた”や“絵合わせかるた”は「表配りのゲーム」であるという卓見に従えば、黒川道祐はここで後半に述べる「歌賀留多」が基本的に“表配りのゲーム”であるのに対して、前半の48枚の渡来系「賀留多」は基本的に“裏配りのゲーム”であるという事を説明したかったのでは無いかと考えます。
 当方はこの部分を「賀留多」の遊技法全般に関する説明だと解釈しています。勿論、技法によって札の配り方に違いは有ったでしょうが、黒川道祐自身が個々の技法の詳細をどこまで認識していたかは不明ですし、もしも詳しく認識していたとしても、それを事細かに記述しようという意志が有ったとは思えません。そもそも彼は「賀留多」遊技の“指南書”を書こうとした訳では有りませんし、ましてや未来の研究者の為に、彼の知る限りの知識を記録しておこうなどと考えた筈も有りません。彼が書いたのは、京都の特産品の一つである「賀留多」に関する、当時の読者に向けた“概説”です。つまり「賀留多」全般に関する大まかな説明ですので、各技法に共通する一般的な特徴を述べる事で十分に目的は果たせられます。
 黒川道祐の記述は簡潔で、意味の取りにくい部分も有りますが、それを現代の視点から見て不正確だと非難するのはお門違いでしょう。彼が知らなかった事に関しては書きようが有りませんし、あくまでも自分が“知っている範囲”で、自分が“書きたかった事”を書いたに過ぎません。彼が“書かなかった”事をいくら詮索しても、それは推測の域を出るものでは有りません。

このように、第三文節の文章は、最初の一文ですでに、ここでは「プロトめくり」タイプの遊技法は扱わないことが明確に示されているのである。私は、誤記説がこの文章の読解を示さずに、後続する文章中での「紋」という表記は「數」の誤記であるという一点だけで自説を構築していることに基本的な不満があった。その疑問は今でも継続している。私の読んだ限りでは、この札の配布に関する説明の段落ですでに「プロトめくり」だとする説は破綻していると思われる。この部分の合理的な説明抜きに先に進むことには意味がない。

ここ迄の江橋先生の主張は、この部分を“よみ”と“合せ”に限定される説明だとする不自然な理解を前提とし、更に「三人或五人」「配分」といった語句を恣意的に解釈し、「プロトめくり」は後の「めくりカルタ」と殆ど同じ技法であるという何の根拠も無い(しかも常識的に考えて有り得無いであろう)仮定を根拠として、『雍州府志』の記述に合わないので「プロトめくり」では無いと結論付けるという、全く的外れな論証であると言わざるを得ません。「破綻」しているのは一体どちらでしょうか。
 で、当方としては一応「合理的な説明」をしたつもりですので、先に進ませて頂いても宜しいでしょうかね?

公開年月日 2019/07/15

《追記》「プロトめくり」と“めくり系技法”の定義
 今更なのですが、重大なミスに気付きましたので少々追加説明をさせて頂きます。それは本稿中で使用いている「プロトめくり」と“めくり系技法”の語の意味を明確に定義せずに使っていたという点です。「プロトめくり」に関しては、「後の“めくり”や“てんしょ”誕生の元となった、“同位の札”を組み合わせて取るタイプの技法の総称として、「プロトめくり」はピッタリのネーミングと思われます」と、ごく大雑把に示したのみでした。

当方は、江橋先生が示された「プロトめくり」の語を、大体次の様な意味で使用しています。

明和年間に基本的なルールと名称が確立され、その後大流行した“めくり”の元となったと考えられる、“めくり”と同一の基本原理に基づく技法

“同一の基本原理”を具体的に言うと“同ランクのカルタ札を組み合わせる(ペアーにする)事によって取得するタイプの技法”という事です。その際“めくり”という技法名の由来となったであろう、“山札をめくる”という動作は必須条件ではありませんし、勿論競技者の人数や札の配分法といった技法のディテールが“めくり”と同一である必要は有りません。

又、当方が以前から使用している“めくり系技法”の語もこれと似た意味ですが、「プロトめくり」が“めくり”の登場以前に存在した技法に限定される用語であるのに対し、“めくり系技法”は“めくり”とほぼ同時代に流行した“てんしょ”や、“めくり”以降に成立したであろう、近現代に伝えられる(地方札や花札を使用する)同一原理に基づく緒技法をも含むものであり、一般的には“マッチングゲーム”と呼ばれる分類に近いものです。又、広義には江戸カルタに限定せず、“絵合わせかるた”や“歌かるた”等、一対になる札(ペアー)を組み合わせて取る遊技法や、更にはカルタ札という形態に限らず、例えば“貝覆い”の様に一対と認識される物を合せ取るタイプの遊技も“めくり系技法”に含んで良いでしょう。

一方、江橋先生はここ迄にも

札の配分の仕方では「プロトめくり」は「めくりカルタ」と同様であったと推測される

或いは

「プロトめくり」の配分法であれば、当然に「七枚を裏面を上にして手札として各々の前に置き、六枚を模様が分かるように表面を上にして場に晒して場札とすると書かれなければならない。

などと書かれている事からも明らかな様に、「プロトめくり」の語を基本的に“めくり”と(ほぼ)同じ技法(プロトめくり=めくり、或いはプロトめくり≒めくり)と定義して使用されているのだという事に思い至りました。
 江橋先生が何故その様に定義されたのかを考えると、先生が度々引用されている、所謂“誤記説”の大本である山口吉郎兵衛氏の記述が念頭に有ったものと想像されます。

合せ、記載簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合せる意味であろう。「其紋之同じき者を合す」とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じきものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代って大いに流行した。現代の「花合せカルタ」は此技法を伝えている。

山口吉郎兵衛『うんすんかるた』
リーチ 1961年

「此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代って大いに流行した。」を文字通りに取れば、「此技法」が後年「メクリカルタ」という名称に変わって流行した、つまり名称こそ異なっているものの、『雍州府志』の「合せ」と“めくり”とは同じものだと言っている様にも読み取れます。
 まあ、その様な想定自体は可能でしょう。しかし常識的に考えれば山口吉郎兵衛氏や、“誤記説”を継承された佐藤要人氏も、『雍州府志』の「合せ」が後の“めくり”と全く同じ技法だったと考えていたとは思えません。『雍州府志』の刊行から“めくり”の流行迄にはおよそ80年の隔たりが有りますので、その間に技法内容の大きな改良点も無いままに継承された後、名称のみが変わって突如大ブレイクしたと考えるのは余り現実的では無いと思われます。

一方、江橋先生は“誤記説”の主張は、『雍州府志』の「合せ」は“めくりと同じ技法”だという意味に捉え、これを「プロトめくり」と呼んだものと考えられます。だとすれば、たしかに『雍州府志』の「合せ」記述内容と、後の“めくり”の内容との間に齟齬が生じるので、「合せ」は「プロトめくり」では無いという論理展開は一応は理にかなっています。「全く的外れな論証」という発言は適切では有りませんでしたので、深くお詫びして撤回させて頂きます。

そもそも当方と江橋先生とでは「プロトめくり」の語を違う意味で使用していたのですから、道理で議論が噛み合わなかった筈です。結局、江橋先生の目が向けられていたのは山口吉郎兵衛氏に始まる古典的な“誤記説”に対してであり、当方の“合せ=めくり系技法説”など端から相手にされていない事にも気付かずに、逆にトンチンカンな反論を繰り広げていたのですから、何ともお恥ずかしい限りです。どうも頭に血が昇り過ぎていてこの点に思い至らず、てっきり当方の説に対してご批判を頂いているものと思い込んでいたのですから、全く愚かな思い上がり、自意識過剰と言われても仕方有りません。尚、誤解の無い様に言っておきますが、この件に関して何らかの指摘や圧力が有った訳では無く、全く自主的な反省です。

とは言え、江橋先生の「プロトめくり」批判が、当方の“合せ=めくり系技法説”に対する合理的な批判には全く成っていないという事実に全く変わりは有りません。もしも江橋先生が当方の説の内容をちゃんとご理解下さっているならば、一体何で今更、古典的な“誤記説”に対する批判で充分とお考えになったのでしょうか? 当方の論証などは、敢て批判するにも値しない程度のものと判断されたのだとしたら、何とも残念でなりません。

公開年月日 2019/12/30


【3】『雍州府志』の読解への批判 後編

続いて“よみ”に関する部分「(五)「賀留多」第三文節、②遊技法「読み」の説明」に進みましょう。

『雍州府志』の記述は、次に遊技の方法に進む。そこでは、「読み」と「合せ」が紹介されている。読みではすべての札を配分した後、「其為戯謂打賀留多、然後人々所得之札數一二三次第早拂盡所持之札是為勝、是謂讀(ヨミ)、倭俗毎事筭之謂讀。」である。「その遊技をすることをカルタを打つと言う。(札を配分した)然る後に参加している人々が手元に得た札を、一二三の次第に数えて所持する札を早く払い尽くした者が勝ちとなる。これを読みと言う。倭俗にいつもこれを(声を出して)算えることを読むと言う」である。

江橋先生の読解では、この部分は独立した文節(段落)では無く、前からの続きなのですが、敢えて区切るとしたらこの部分だとという事なのでしょう。それにしても「其為戯謂打賀留多」の前で区切って読むのは、やっぱり不自然じゃないですかね?
 先生は「是謂切賀留多」は前の文章の続きであるが、「其為戯謂打賀留多」は後に続く「読み」と「合せ」との二技法に対する説明であると解釈されているのでそういう事に成るのでしょうが、前にも書いた様に対句関係をぶった切る読解はかなり乱暴に感じられます。「然後(しかるのち)」が新たな段落の始まりだと考えた方が自然だと思われます。
 しかし先生があくまでも、原文を「素直に読めば」そう読み取れるとおっしゃるならば、当方としては「ああ、そうですか」とお答えするしか有りません。

この後も、江橋先生はここの文章に対して詳細な分析をされ、さすが示唆に富む指摘が目白押しです。例えば“筭”と“算”とは本来別字だというご指摘はとても勉強になりました。当方はてっきり“算”の旧字だとばかり思い込んでいましたので、お恥ずかしい限りです。
 その他にも色々と分析されています。「読み」の基本的な遊技方法を含め、その大部分に反論は有りませんし、本筋と無関係な点には一々申し上げる余裕は有りませんので、重要と思われる点に絞って意見を述べさせて頂きます。

もう一つここで指摘しておきたいのは、『雍州府志』の記述に欠けている「役」である。日本のカルタ遊技法には、そのゲームの勝敗に関わる「役」という決まりがある。
(中略)
『雍州府志』の読みの説明には、「役」は全く登場せず、そういうものが存在する匂いも感じられない。だが、手役と上がり役はゲームの勝敗を左右する重要な決まりであり、これをまったく無視しているのは黒川の記載ミスであると判断することができる。そうすると、これは重大な誤りで、「賀留多」に関する記述全体の信頼性にも影響する深刻なものということになる。

何をおっしゃいますか!? 又しても、『雍州府志』に“役”に関する記述が無いという“そこに書かれていない事”に対する指摘です。厳密には“そこに書かれていない、という事”に基づく立論と言った方が的確でしょうか。
 もしも“そこに書かれている事”が、信頼のおける他の資料と明らかに矛盾しているのであれば、「記述全体の信頼性にも影響する深刻なもの」と言えるでしょうが、“そこに書かれていない事”を以て難癖を付けられたのでは黒川道祐もたまったものでは無いでしょう。もしも彼がこれを読んだならば“役について書かなくてなにが悪い!!!”と、さぞや立腹された事でしょう。

「手役と上がり役はゲームの勝敗を左右する重要な決まりであり、」と断言してしまうあたりが、如何にも江橋先生らしい所です。たしかに“役”を取り入れる事によって“よみ”は、それ以前よりスリリングで面白い技法になり、長期にわたって人気技法で有り続けた大きな要因であったと考えられます。しかし“よみ”の場合に限っても、“役”無しでも何の問題も無く競技は成立しますし、それなりに楽しめるであろうと思います。“役”がゲームの勝敗を左右するかどうかは、“上り点”と“役点”との設定バランスの問題に過ぎません。私見ですが、寧ろ偶然によるところが多い“役”無しの方が、プレイヤーの技術の差が勝敗に反映され易く、熟練したプレイヤーにとってはより楽しめる様に思われます。

だが、他方で、『雍州府志』記述の当時には、読みの遊技では手役や上り役の極まりがまだ未発達で、それは元禄年間以降のカルタブームの中で生まれて育った新しいルールであり、だから『雍州府志』での手役の不記載は、手役が不在であった当時の読みの遊技法を正しく説明しているものであると判断することもできる。私は黒川道祐を信頼して後者であると考えたいが、両説の是非は、十七世紀、江戸時代前期に読みを扱った文献史料に手役が登場しているのかいないのかで決まる。そして実際に手役に触れた文献史料が何点か確認されるので、残念だが黒川の書き漏らしということになるであろう。この点については、後によみ骨牌の発祥を扱う際に再考する。

「実際に手役に触れた文献史料が何点か確認される」というのは、当サイトで公開している以下の資料等を指しているものと思われます。

『阿波手集』寛文四年(1664)
虫/\のよるハかる田のよそろ哉

“四揃”

『両吟一日千句』延宝七年(1679)
あしの若葉も五こうあかりしや

“五光”か?

『難波鉦』延宝八年(1680)
まづ/\此中はうちつゞき、今に初ぬことながら、まい日/\四車とうけたまわりました。さて/\めでたふぞんじます。 (中略) 四車とハ三むま一九のことあがるといふ心。こなたさまのはやらしやるをいふ。

“四車”“三馬”“一九”

又、『当世軽口咄揃』(延宝七年)や『鹿の巻筆』(貞享三年)によって、“二崩し”(二の札の三枚揃い)という、その回の競技を無効にする働きをする特殊な“役”が既に存在した事も確認されます。

これらの資料によって『雍州府志』の成立以前から、“よみ”に“役”が取り入れられていたと考える十分な根拠が有ると考えられます。しかし“役の不記載”を、黒川道祐の「記載ミス」「書き漏らし」とする捉え方には同意しかねます。彼が“よみ”技法の“役”について多少の知識は持っていたとしても、それを敢えて書く必要を感じていなかった為だとも考えられます。
 くどい様ですが、そもそも重要なのはそこに“書かれていない事”では無く“書かれている事”だと考えます。彼の持っている全知識の中で、何を選んで書き留め、何を省くかを決めるのは彼自身であり、そこに“書かれている事”こそが彼が“書きたかった事”に他なりません。では、黒川道祐が“書いている事(書きたかった事)”は何かを考えましょう。

彼は先ず「人々所得之札數一二三次第早拂盡所持之札是為勝」と“よみ”技法の骨格、基本原理を極めて簡潔ながら的確に説明し、続いて「是謂讀」と、その技法名「讀(ヨミ)」を示し、最後に「倭俗毎事筭之謂讀」と、技法名の由来を記しています。この一連の文で、彼が一番書きたかった事とは何でしょうか。想像するに、最後の「倭俗毎事筭之謂讀」の部分だったのでは無いでしょうか。
 前半の技法の説明が極めて簡単なのは、そもそも彼には技法の詳細を説明しようという意図など無かったからだと考えられます。“よみ”技法の詳細(“役”を含めて)に関しては、彼自身よりも当時の平均的読者の方が熟知しているであろう事は、百も承知だったかも知れません。これに対して最後の「讀(ヨミ)」という名称の由来が「我が国の慣習で“数える”事を“読む”と言うからだ」という説明は、黒川道祐自身の考証によって得られた知見であり、恐らく当時の読者にはハッキリと認識されていなかった知識であろうと想像されます。考証家としての彼が伝えたかったのは、まさにこの部分であり、技法の説明はそれへの単なる導入部に過ぎないと考えれば、技法の説明が簡単過ぎたり“役”の説明が無いのも納得がいきます。
 まあ、強力な根拠が有る訳では無く、あくまでもこの様な解釈も可能だという一案に過ぎませんが、如何でしょうか。

ここで少々脱線になりますが、「元禄年間以降のカルタブーム」というのが引っ掛かります。これは言わば“江戸カルタ史観”に係わる重要な問題なので、ここで取り上げさせて頂きます。果たして江戸時代の元禄期(1688-1704)に「カルタブーム」と呼べる様な社会現象が有ったのでしょうか? どの様な根拠に基づいておっしゃっているのでしょうか?
 これが例えば、江戸時代中期の江戸で“めくりブーム”と呼べる様な現象が有った事を示す資料根拠ならば容易にお示し出来ます。先ずは“めくり”の流行ぶりに触れた証言を同時代の記録、笑話、日記、戯作から幾つか拾ってみましょう。

『祢覚譚』
 明和五年
○めくりと云物時行
『千里の翅』安永二年(1773)
当世ハねこも。しやくしも。めくりの座。
『宴遊日記』安永期
安永四年正月
此頃めくり甚長し色々の骨牌作り出すゆへ御禁制に成、
『百安楚飛』安永八年(1779)
ちかきころめくりとやらんいふ物時行はやりて。ひと/\゛の心をなやます。むしもころさぬやうな隠居いんきよ。又ハの中を能思よくおもはなれたる後室ごけあるひハ子飼こがいより年ひさしくつとめ。女におどけ口いはれてもかほをあかめるやうな。世けんしらずの奉公人ほうこうにんも。このめくりに一寸ちよつとを出して

又、情況証拠として安永二年(1773)を境に“めくり”に関する資料数が急増するという資料事実からも、安永初年頃の江戸で“めくりブーム”と呼べる大流行が確かに有ったであろうと断言出来ます。
 資料点数を大雑把に見ると、先ず『祢覚譚』によって“めくり”の流行が始まったと考えられる明和五年(1768)から、安永元年(1772)迄の五年間で確認出来る資料は8点です。これが翌安永二年(1773)から安永六年(1777)迄の五年間では一気に30点に急増し、更に安永七年(1778)からの五年間では44点に達し、この頃がピークと思われます。その後寛政三年(1791)迄は、ほぼ同様のレベルで推移しますが、寛政四年(1792)に突如0点になり、その後の五年間でも幕府側の調査資料である寛政七年(1795)の『博奕仕方』の1点のみしか確認されません。勿論、この資料の激減という状況は“めくりブーム”が突然収束したという訳では無く、松平定信の寛政改革の一環としての賭博取り締まりの強化、出版物の規制強化を受けての著作者や版元の自主規制によるものであるのは明白ですが、その辺の事情はまた別稿で。
 この様に、この時期(所謂“田沼時代”とほぼ重なります)の諸資料の記述内容という質的な面からも、資料点数という量的な面からも、“めくりブーム”と呼んでも良い様な一種の社会現象が有ったと判断して間違い無いでしょう。

一方、元禄期に「カルタブーム」と呼べる様な急激な流行が起きた事を直接的に示す資料は寡聞にして思い当たりません。
 勿論、元禄期にカルタ関係資料が数多く見出せるのは事実であり、特に文芸作品の分野では、当時のビッグネームである井原西鶴の浮世草子や、近松門左衛門の浄瑠璃本にもカルタ遊 技・カルタ用語がしばしば取り上げられています。これら元禄期頃のカルタ関係資料の質や量の充実具合を見れば、この時期にカルタが“大いに流行していた”のは間違い無いでしょう。しかし資料の点数に関してはこの時期に急激に増加したという訳では有りません。
 確認されているカルタ関係資料の点数に注目しますと、延宝三年(1675)を分岐点として明らかに増加しており、その後元禄期に掛けて微増というのが大まかな状況です。元禄期の“微増”も、出版物全体数の増加という事情を考慮すれば無視して良い程度のものと考えられます。又、奇しくも資料数が急増し始めた延宝三年(1675)刊の『遠碧軒記』で、黒川道祐が「今世に流布のかるた」と書いている事からも、少なくともこの時期からカルタがある程度流行していたと認識されていたと考えられます。
 これらの事から、仮に江戸前期に「カルタブーム」と呼べる様な社会現象が有ったとするならば、その始まりは延宝初年頃だと思われます。或いは、世間でカルタが流行し始めてから、それが文芸作品に反映される迄に多少のタイムラグが有ったであろう事を考慮すれば、寛文末ぐらい迄遡れるかも知れません。貞享年間成立の『雍州府志』や『鹿の巻筆』からも、この時期(上方でも、江戸でも)既にカルタの流行と呼べる状況にあったと考えられ、元禄期に於けるカルタの流行はその延長線上にあるに過ぎないと考えた方が良いと考えます。

話を戻しましょう。

この後、いよいよ最大の問題点である「合せ」の部分に入ります。「(六)「賀留多」第三文節、③遊技法「合せ」の説明」を読んで行きましょう。

一方、「合せ」に関する「又互所得之札、合其紋之同者、其紋無相同者為負、是謂合(アハセ)、言合其紋之義也。」という記述はこう読める。「また、互いに得たところの札でその紋の同じものを合せ、その紋と相同じものがなければ負けとする。これを合せと言う。言うこころはその紋を合せるとの語義である」。各人が、配分された札の中で、「紋標」の同じものを「互いに‥‥合せ」、同じ「紋標」の札が手中になくて合わせられない者は負けであると書かれている。

この部分の構成は、先ず「互所得之札合其紋之同者其紋無相同者為負」と遊技法の基本原理を説明し、次にその技法の名称「是謂合」を示し、最後に「言合其紋之義也」と技法名の由来を説明するという、“よみ”の説明部分と同じ形式を取っています。従って、ここでも黒川道祐が一番重視したのは、自身の考証による知見である最後の「言う心は、その紋を合せるの義なり」の部分だと考えれば、遊技法の説明が極めて簡潔なのもうなずけます。
 しかし、返す返すも残念なのは、“よみ”の技法説明が簡潔ながらも明解であるのに対して、“合せ”の技法説明が不明瞭である点です。その為にこの後、延々と議論が続く事となります。

上に検討した読みの遊技法では「人々」が手札を「払う」という所作が説明されており、一度に何枚かまとめて場に捨てるのが普通で、極端には手札の「紋標数」が「一」から「八」のように「紋標数」の順に一枚ずつ揃っていて一度にすべてを「算え」て捨て切って勝つこともあり、参加者が一枚ずつ順番に打つという所作ではないので、単に「人々」と表現されている。一方、「合せ」の場合は、手札を一枚ずつ出して強弱を競い合い戦う遊技法であることをはっきりさせるように人々が「互い」に同じ「紋」の札を「合わせる」と書かれている。黒川が、この辺りでも相当に気を使って表現に変化を持たせていることが理解できる。『雍州府志』がいう「合せ」は「互い」に所作する遊技法であり、一方、順番に自分一人で手札を出して場札を釣り取る「プロトめくり」の遊技法では、順次に一人で動作する「取り番」という手順であって、「互いに」と表現されるような他のメンバーと交錯する所作はない。だから、「合せ」に関するこの文章を「プロトめくり」の遊技法の説明だと理解すると、「合せる」だけであれば何とか対応できるとしても、「互いに‥‥合せる」というこの書の表記だと説明ができなくなる。

江橋先生は「互いに」の語句を根拠に、この記述は「プロトめくり」つまり“めくり”と同類の技法の説明では有り得ないと主張されます。では「互いに」とはどの様な意味でしょうか。『雍州府志 巻七』「土産門下(服器部)“紙衣”の項に次の用例を見つけました。

賓客相對互交語而不酒食素咄
「賓客と相対し、互いに語を交えて、酒食を饗せざるを素咄という」

この一例だけでは黒川道祐自身の「互いに」の用法を推し量るのは難しいので、こういう時は小まめに辞書を引いて調べましょう。『日本国語大辞典 第二版』によりますと

たがいに ①二人以上あるいは二つ以上のものが、同一の対象に対して同じような事をするさま。また、同じ状態にあるさま。双方とも。それぞれ。たがえに。

この一般的な語釈によれば、「互いに」は先生のおっしゃる様な「他のメンバーと交錯する所作」という意味に限定されるものでは無く、“それぞれのメンバーが同じ所作をする”という意味です。この語釈に従ってカルタ遊技に当てはめれば、二人以上の競技者が順番に、それぞれ同様の所作を取るという意味に解せられ、この部分の文が“めくり”タイプの技法の所作の説明としても、何等不自然なものでは無いと理解出来ます。
 たしかに“よみ”の様に、一人の競技者が何枚もの札を続けて出したり、逆に一枚も出せずにパスする事も有る様な技法の場合には、“それぞれのメンバーが同じ所作をする”という意味の「互いに」とは言いにくいかも知れません。しかし“めくり系技法”と“トリックテイキングゲーム”とは、どちらも競技者が順番に同じ所作を繰り返して進行するという点に於いて「互いに」の語義に合致します。よって、「互いに」は「他のメンバーと交錯する所作」だという個人的な印象による語釈に基づいて、“合せ”は“めくり系技法”では無く“トリックテイキングゲーム”だという論法は成り立ちません。

『雍州府志』で不思議なのは、「互いに得た所の札でその紋の同じものを合せ」というのに、その結果がどうなるのかを書き漏らしているところである。
(中略)
同じ「紋標」の札を持っていないので他の「紋標」の札を打った者は、「紋標数」の高低に拘わらずそのトリックでは負けになると書いているだけである。

『雍州府志』の“合せ”遊技法に関する記述が、同書に載る他の遊技法“よみ”“歌賀留多”“貝合”の記述と比較して明快さを欠く点については同感であり、以前当サイト内メイン研究室 十一頁目『技法「あわせ」の研究再論 前編』の中で次の様に書きました。

これらと比較すると「あわせ」の説明は明快さに欠く印象を受けます。競技の手順は不明瞭ですし、勝利条件を明示しない替りに「その紋相同じきもの無き、負けと為す。」と云う、言わば下位ルールを記すのも不規則に感じられます。その理由を推測するならば、著者は「あわせ」の正確なルールを知らずに、曖昧な伝聞を基にして書いたので無いかという疑念を抱かずにはおれません。

この点に関しては現在も、黒川道祐が“合せ”について正確に把握していなかった為、この様に色々な解釈が出来る曖昧な記述に成らざるを得なかったと考えるのが最も穏当かと考えます。
 もしかしたら当時の読者はこれを読んで、その意味する所を自然に理解出来たのかもしれませんが、現代の我々の知識ではこれを一義的に解釈するのは難しいでしょう。しかし、この部分の記述がたとえ曖昧なものだとしても、少なくともそこには黒川道祐自身の認識が反映されている筈ですので、それを読み解く努力はするべきでしょう。先ずは江橋先生の解釈を読ませて頂きましょう。

ただ、「その紋と相同じものがなければ負けとする」という記述はいかにもトリック・テイキング・ゲームの説明である。この文章は、一見すると特定の「紋標」の札が手中になければゲームそのものが負けになると書いたように読めるが、それではゲームが成立しない。もし仮に、最初に配られた手札の中に「オウル」の「紋標」のカードは一枚もなかったとして、出親が「オウル」の「紋標」から始めたら、最初のトリックで合せる札がないので負けになり、即座にゲームが終わりになってしまう。これは遊技法として不合理に過ぎるのであり、ここは、同じ「紋標」の合せ打つ札がなければ他の「紋標」の札を出すが、これは最弱で、そのトリックは負けになると書いたものと理解される。

つまり一回のトリックに於いて、リードされた札と同じスーツの札を持っていなければ「そのトリックは負けになる」という意味ですね。トリックテイキングの立場からの解釈としては一応理に適っていると評価出来ます。実を言うと、以前当方も“合せ”はトリックテイキングゲームだと考えていた時期が有り、その当時は私もこれと全く同じ解釈をしていました。

「めくりカルタ」系の遊技だと、場札の「紋標数」と同じ「紋標数」の手札がなければその「取り番」ではうまく釣り取れないというだけの話であり、その場合は手札を一枚場に投げ出してゲームは次の人の「取り番」になって続行されるのであってゲームが「負け」という結論に一気に飛ぶことにはならないのだから、合致する紋標の札がなければその瞬間に負けになると言っているこの文章はいったい何を説明しているのか、「プロトめくり」説では、この「負け」もまた理解不能で説明不可能になってしまう。

「理解不能で説明不可能」とは考えません。「プロトめくり(めくり系技法)」説の立場からの解釈を、何と二種類もお示ししましょう。

  1. 話を単純化する為に、“山札”は使用しないで“手札”と“場札”のみで行うルールとして説明します。各プレーヤーには自分の手番に於いて二種類の結果が有ります。“手札”の中に“場札”の一枚と合致する札が有れば、これにより“場札”を取得出来ますので一回の手番に於いての“勝ち”と言えます。逆に合せ取れる札が一枚も無ければ、“手札”から一枚捨てるという損失のみの結果と成ります。これを“負け”と表現しても不自然では有りません。
     “山札”を考慮すると多少ややこしくは成りますが、基本的には同じ事です。“手札”にも“山札からのめくり札”にも“場札”と合致する札が無ければ、この手番での“完敗”だと言えます。
  2. もう一つの観点として、この部分を“合せ”技法全体に対する説明だと解釈すれば、競技に於いて“場札”を合せ取れる札を持っていなければ、最終的に競技に“負け”る事に成ります。まあ、最後迄一枚も取れないという事はまず無いでしょうが、合せ取れる札の少ない方が結果的に“負け”に成ると解釈すれば不自然では有りません。

とは言ってみたものの、解釈を二種類示し、「不自然では有りません」と控えめに言っている事からもお気付きでしょうが、どちらも確信を持って主張出来る様なものでは有りません。残念ながらこの部分の解釈に限って言えば、(悔しいですが)江橋先生の解釈の方がスマートであると認めざるを得ません。

私は、この部分での黒川道祐の省略は、同じ「紋」の札を合せ打ちすると書いたときに、「合せ」という言葉には「紋標数」の多寡を競い合せをする、合戦をするという意味合いを帯びさせたので、「合せ打つ」と書けばもう「紋標数」の多い札を打った者がそのトリックの勝者になることはわざわざ書かなくても自明のことであり、説明がくどくなるのを避けて省略して、敗者についての記述に移ったのであろうと忖度した。その根底には、黒川と同時代の人々が「合せ」という遊技法の言葉を同様に「同じ紋標の札の間での紋標数の多寡での競い合い、合戦」という語感で理解していた事情があったのだろうとも忖度した。研究室はこの忖度が気に入らないのであろう、百万言を費やして「合せ」という黒川の表記は単に同類のものを合せるという意味に留まると言ってきた。

おっしゃる通り全く気に入りませんね。恐らく先生は軽い気持ちで執筆当時の流行語であった“忖度”を使用されたのであろうし、まさか学術論文の中では“忖度”の語を使用される事は無いとは思いますがね。
 まあ、作者の心中をおしはかって行間を読み取るという方法は、一つの研究手法としては認めても良いと思いますし、研究の出発点とは成り得るでしょう。しかし少なくともそれのみでは論証には成りません。その“忖度”の正当性を実証的に説明出来なければ、それは検証不可能な“恣意的な解釈”でしか有りません。当方としては『雍州府志』文中の用語法の分析という、再検証可能な方法に基づいて「百万言を費やして」論証を重ねて来ましたので、この様な“忖度”など到底認められません。

ところで、又しても江橋先生は“原文の改変”という手法を取られています。原文には「合せ打つ」などとは書かれていません。ご自身が原文の「合」の意味を「合せ打つ」と解釈されるのはご自由ですが、あたかも元からそう書かれているかの様な記述によって文意をねじ曲げるのは、読者に対して不誠実な態度だと言わざるを得ません。

せっかくの数年に及ぶ熱弁に水を差すようで申し訳ないが、ここで私の忖度を度外視して、研究室の言うように「合せ」を単に「合せ打つ」という動作を説明するだけの意味に理解してみよう。こう理解すれば黒川道祐は、この部分の言葉では札の強弱については何も述べていないことになる。「合せ」は単にカルタの札を「合せ打ち」するというだけの意味で使われていて、打たれた札を競い合わせて戦い、「各人によって打たれた同じ紋標の札の中で紋標数が最も位高きものをそのトリックの勝者とする」というような説明はまるまる抜けていると考えることになる。

呆れてものも言えません・・・が、やはり言わなければいけませんね。
 「研究室の言うように「合せ」を単に「合せ打つ」という動作を説明するだけの意味に理解してみよう」ですと? 当方は「合せ」は「合せ打つ」という意味だなどとは一言も言っていませんから。どこをどの様に読めばそう成るのかは分かりませんが、当方は「合せ」は「組み合わせ」の意味だと繰り返し言ってきたのですが?
 又、「黒川道祐は、この部分の言葉では札の強弱については何も述べていないことになる。」とか、「打たれた札を競い合わせて戦い、「各人によって打たれた同じ紋標の札の中で紋標数が最も位高きものをそのトリックの勝者とする」というような説明はまるまる抜けていると考えることになる。」って、そもそもそんな事は一言も“書かれていません”が、江橋先生の立場からの読解によれば「抜けている」という事になる様です。
 「黒川道祐は、この部分の言葉では札の強弱については何も述べていないことになる。」・・・はいその通り、黒川道祐はそんな事は一言も述べていません。

江橋先生は、当方が「百万言を費やして」示した、『雍州府志』文中の「合」は“競い合わせ”では無く“組み合わせ”の意味であるという論証の内容を正しく理解して下さっているのでしょうか? この論点の詳細は本編をご参照頂きたいと思いますが、念の為に概略を説明しておきます。

  1. 『雍州府志』全体を調べた結果、「合」の文字が都合138回登場し、その内「賀留多」の項の6回を除いた132回の意味を検討した。その内一箇所が“競い合わせ”の意味と解され、一箇所が解釈不能、残る130箇所は全て“組み合わせ”の意味と解釈される事を示した。
  2. 従って当時の読者にとって『雍州府志』内の「合」の文字は、基本的に“組み合わせ”の意味と受け取られた筈である。もしも“競い合わせ”の意に受け取って欲しいのであれば、何等かの説明がなければならないが、黒川道祐はその様に記述してはいない。
  3. よって「賀留多」の項の「合」の文字も、当時の読者には当然“組み合わせ”の意味に取られた筈であるし、黒川道祐自身もそれで良しとしたと考えられる。
  4. 更に、カルタ技法の“合せ”の前後に位置する“貝合”と“歌賀留多”の遊戯法の説明内の「合」が共に、明らかに“組み合わせ”の意味である事から、その間に位置する“合せ”のみが何の説明も無く“競い合わせ”の意味に読み取られる事は不可能だと指摘した。

つまり、『雍州府志』という大著の一部分である「互所得之札合其紋之同者其紋無相同者為負」の「合」は、全体の用語法から見ると“組み合わせ”の意味にしか取り得ず、これを“競い合わせ”の意味だと解する事は不可能であり、「いかにもトリック・テイキング・ゲームの説明である」とする江橋先生の主張を全面的に否定するものです。

私はそれでも一向にかまわない。あるいは、京都の町で人々がこの遊技法を「合せ」と呼んだのは単に同類を合わせるという意味で、「紋標数」で競い合わせるという意味までは共通に了解されてはいなかったと言っても良い。これも一向にかまわない。「合せ」という言葉の競い合い、合戦の含意が少し薄められたように感じるだけの違いであり、このことでこの箇所での『雍州府志』の文章全体を検討して「合せ」をトリック・テイキング・ゲームであると判断する私の理解はまったく揺らがない。

え? あのー、これって一応は当方の論証を理解して下さった上で、さほど強力な論証とは認められず、ご自身の読解の正当性を揺るがすものでは無いという事で宜しいんでしょうかね? 当方としては江橋説の最も重要な根拠を完全否定したつもりだったのですが、先生的には単に自説が「少し薄められたように感じるだけの違い」と感じられた様です。ここは全力で否定すべき所でしょうよ。これを完全否定出来なければ、先生の説は根本的に成り立たないと思うのですが、中途半端に認めてスルーしてしまって良いのでしょうか?
 又、当時の読者である「京都の町で人々が」“合せ”の語感を“同類を組み合わせるという意味”に解していた筈であり、“競い合わせるという意味”には解し得ないという当方の主張に対して、「これも一向にかまわない」ってどういう事でしょうか? まさか『雍州府志』の書かれた同時代の読者の認識がどうであれ、あくまでも「この箇所での『雍州府志』の文章全体を検討」した、ご自身の読解の方が正しいとでもお考えなのでしょうか?

大事なのは、江戸時代前期の京都に人々に「合せ」と呼ばれるカルタの遊技法があり、「読み」と並ぶ勢いだったという史実を黒川が説明していることであり、その意味することを第三文節の文章全体を解読して理解することである。私はこれをトリック・テイキング・ゲームの説明だと理解した。これをフィッシング・ゲームの説明だと理解することは私にはできない。

さすがにブレませんねー。当方が『雍州府志』全編の文章全体を検討した結果に基づいて批判しているのに対して、それに真正面から答える事無く、あくまでも「この箇所での『雍州府志』の文章全体を検討して」、更に範囲を縮小して「第三文節の文章全体を解読して理解すること」が「大事」なのだと主張されます。
 続きを見ましょう。

もう一点、ここで指摘しておきたいのは『雍州府志』の「合せ」の記述にも「役」の記載がないことである。「合せ」の場合は、「読み」と異なって最初に配分された札の「手役」という概念はない。また、トリックごとに獲得した札の特定の組み合わせを「出来役」とすることもない。あるのは、特定の札を最後の得点計算の際に高得点に数える「役札」である。四十八枚の札の中で、特定の札、例えば「ハウの二」、「ハウのソウタ」別名「釈迦十」、「ハウの一」別名「アザピン」ないし「アザ」等に毎回高得点を与える場合と、切り札になった「紋標」の札へのボーナスとして普通よりも高得点を認める場合とがある。「役札」に高得点を与えることは、「合せ」の遊技に不可欠の決まりではないし、黒川がそれを無視したのは、貞享年間(1684~88)には「合せ」のルールがまだそうしてゲームの射幸性を高めるまでには至ってなかったからだと理解しておきたいところであるが、これに触れる同時代の文献史料の存在は無視できないから、これもまた黒川の記載ミスと判断される。

又しても“そこに書かれていない”「役」と「役札」とを持ち出されます。「役」は分りますが、「役札」とは江戸カルタでは余り聞き馴れない用語です(多分、江戸期での使用例は無いと思われますが・・・)。他に適当な語も思い浮かばないのでそのまま使わせて頂きます。
 江橋先生によれば“合せ(トリックテイキングゲーム)”では「役札」が設定される事が有り、それには①“釈迦十”“あざ”“青二”等の特定の札に、常に高得点が与えられる場合と、②その回の切り札スーツの札に高得点が与えられる場合との二種類が有るそうです。大変興味深い指摘なのですが、残念ながら又してもお得意の資料根拠を示さない主張です。何故そんな事をされるんでしょうかね? 根拠不明、出典不明の主張は学問的には全く無意味、無価値なものに成る事は重々ご承知な筈なのですが、カルタに関しては別なのでしょうか? そこで余計なお節介でしょうが、先生に成り代わってこの件を検討させて頂きます。

とは言ったものの、いくら考えても②の「切り札になった「紋標」の札へのボーナスとして普通よりも高得点を認める場合」というのが、どの様な資料根拠によるものなのかが全く思い当たりません。江橋先生には是非その根拠となる資料をお教え頂きたいと切に望みます。(もしかして、世界のトリックテイキングゲームの中には、その様なものが有るって事?)
 一方、①の方については思い当たる節が有ります。以前当サイトに於いて、江戸中期のカルタ遊技に“釈迦十”“あざ”“青二”の札が“固有の点数”を持つ技法が有った事をうかがわせる資料として、『軽口もらいゑくぼ』元禄六年ヵ(1693)、『軽口あられ酒』宝永二年(1705)、『商人軍配団』正徳二年ヵ(1712)、『役者金化粧』享保四年(1719)、『須磨都源平躑躅』享保十五年(1730)を紹介しました。各札の点数は資料によって異同は有りますが、“釈迦十”が100点であるのは全てに共通しています。先生はこれらの事を「役札」とおっしゃっている様です。
 この五資料の内、『軽口あられ酒』にははっきりと“合せ”のという遊技名が書かれています。

『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
しやかハきわめが百文なり。あわせも百にたつ。なんぢ五十にねきること、三ごく一の此しや伽を、あをにゝするかといわれたり。

よって、特定の札(“釈迦十”“あざ”“青二”)が固有の点数を持つという共通点が有り、しかも年代的にも近いこの五資料は、全て“合せ”の資料であると推定されます。この点に関しては、当方と江橋先生の認識は一致していると思われますが、当方はこれらの資料から、“合せ”技法では少なくとも一部の札が“固有の点数を持つ”事に注目し、“合せ=めくり系技法説”を裏付ける傍証として解釈しました。ここで再度簡単に説明させて頂きます。

  1. 江戸中期(元禄から享保頃)に“合せ”と呼ばれた技法では、一部の札が固有の点数を持っていたと推測される。
  2. 江戸カルタの技法で、札に固有の点数を持つ事が確認出来る技法は、この“合せ”の他には、後の“めくり”“てんしょ”のみである。従って“合せ”は、後の“めくり”や“てんしょ”と同類の技法、或いはその原型であった可能性が高い。
  3. 一方、我が国に伝来したと考えられる“オンブル”系のトリックテイキングゲームには、この様な“札に固有の点数を持つ”タイプの存在は知られていない。更に、我が国に伝来したトリックテイキングゲームの後継と考えられる“うんすんかるた”にも“札に固有の点数を持つ”技法は見られない。従って、少なくとも“札に固有の点数を持つ”技法である“合せ”が、トリックテイキングゲームであるとは考えにくい。

一方、江橋先生の見解では先ず最初に、江戸初期から中期の文献に見られる“合せ”は全て“トリックテイキングゲーム”で有るという大前提がありますので、必然的に“トリックテイキングゲーム”には「役札」が有ったとされたというのが事の真相かと思われます。
 まあ、もしも仮に『雍州府志』の「合せ」に「役札」の記載が有ったならば、一応整合性は保たれはします。しかし、その場合でも単に“合せ”には「役札」が有った事を補強するだけの話しに過ぎず、論理的に“合せ=トリックテイキングゲーム説”の傍証に成る訳ではありません。残念ながら『雍州府志』には「役札」の記載が有りませんので、単に「黒川の記載ミスと判断される」として処理されます。

続いては“役”の不記載の問題です。

この「役」に関する記述の不在は、「合せ」がフィッシング・ゲームであるとする「プロトめくり」説の見解からすると、トリック・テイキング・ゲームだと見る見解よりもはるかに深刻に見過ごすことのできない不十分な記述、致命的な欠缺となる。

又しても“そこに書かれていない事”に基づく立論です。しかも それが「合せ」が「プロトめくり」では無い決定的な証拠と成るらしい。先生のおっしゃる「プロトめくり」が“めくり”と同形式の技法という意味ならば、そもそも当方はその様な技法が江戸初期、『雍州府志』の時代に存在したなどと考えてはおりませんが。
 “役”の不記載は、当時の“合せ”(“めくり系技法”にせよ“トリックテイキング”にせよ)にはそもそも“役”というものが無かったか、或いは黒川道祐が“役”の存在を知らなかったからか、更にもしも知っていたとしてもそれを書く必要性を感じなかったか、如何様にも解釈出来ます。では、江橋先生が「深刻に見過ごすことのできない不十分な記述、致命的な欠缺」だと考える根拠を読ませて頂きましょう。

フィッシング・ゲームでは、うまく札を釣り上げて「でき役」を作ることがゲームの主たる目的であり、「でき役」がうまくできなかった場合に、補助的に釣り取った札に付いている点数の多寡で勝敗を決める。

これには驚きました!
 又しても江橋先生は、全く根拠を示す事無く“フィッシング・ゲーム”(めくり系技法)では“役作りが主たる目的”“札の点数は補助的”だと主張されます。これが全く資料事実に反する、先生ご自身の思い込みに過ぎないという事を“フィッシング・ゲーム”の代表格である“めくり”を例に検証しましょう。幸運にも“めくり”は『博奕仕方』の「めくり博奕仕方」によって技法の全体像がかなり詳しく判明しています。

「めくり博奕仕方」では、先ず最初に“めくり”に使用するカルタ札の構成、名称、それぞれの札の点数が示され、続いて技法の概略を説明した後、技法の勝利条件として次の様に書かれています。

『博奕仕方』寛政七年(1795)
前書のかるたの内上ノ札を合せ候て多く取候者勝候儀に御座候、譬は六十の六、五十の五、釈伽十、馬きり抔取候得ば其数多く相成候に付勝にて御座候

「前に書いたカルタの内の“上の札”を、多く合せ取った者が勝ちなります。例えば“60点の六(青六)”“50点の五(青五)”“釈伽十”“馬”“切”等を取れば点数が多くなるので勝ちです。」てな感じですかね。
 この記述から、取った札の“固有の点数”の合計を競い合うのが「ゲームの主たる目的」であるのは一目瞭然です。“役”に関しては少し後に次の様に書かれています。

外に役物と唱、其場の定め次第にて勝負仕候

これを先入観無しに読めば“役”はオプションルールであり、採り入れるかどうかはその時の同意によるとも読み取れます。しかし安永末から天明期の“めくり”資料に“役”が頻出する状況を考えれば、殆どの場合に採用されていたと考えた方が良さそうです。「其場の定め次第」とは“役”の点数設定の事と解釈した方が良いかも知れません。
 この後“団十郎”“下三”“仲蔵”“上三”“赤蔵”“海老蔵”の順に、所謂“六大役”の説明が有り、続いて次の様に書かれています。

但一体の数に負候ても前書の役のものを取候得ば其役の物の銭高極め次第にて夫丈の銭受取申候、負候上にての相手に右之役物をとられ候得ば負の上の負に相成又一体に勝候上役物を取候得ば勝の上の勝に相成申候

「本来の点数では負けていても“役”が出来れば、取り決められた金額を受け取れます。(取り札の点数で)負けている上に、相手に“役”を取られると“負けの上の負け”に成ります。又、点数で勝っている上に“役”を取れば“勝ちの上の勝ち”に成ります。」といった意味でしょう。この記述からも、あくまでも札の点数が主であり、“役”は補助的なものであると認識されていた事は疑う余地は有りません。これを読んで“役作りが主たる目的”“札の点数は補助的”と解釈する事は、普通の読解力が有るならば100%有り得ません。
 但し、『博奕仕方』の成立した寛政七年(1795)は“めくりブーム”の衰退期(衰退では無く、潜伏しただけかも知れませんが)に当たる時期です。安永から天明に掛けてのブーム絶頂期の姿を正確に反映していない可能性が有りますので、その時期の“役”についての検討も必要でしょう。この点に関しては、文芸資料の分析からある程度推測する事が可能です。

“めくり”が文芸資料に登場するのは、今のところ共に明和七年(1770)刊の『けいせい扇富士』『辰巳の園』が初出ですが、その後は安永から天明頃の“めくりブーム”も有って夥しい数の資料が確認出来ます。しかし不思議な事に、ブーム初期(安永八年以前)のものには“めくりの役”と断定出来る記述は見当たりません。はっきりと確認出来るものしては安永九年(1780)が初出で、しかも一度に3点が確認されています。

『玉菊燈籠弁』安永九年(1780)
役者でいわゞゑび蔵かめくりなら仲蔵むべ山ならば文屋のやすひてといふ人だが

“仲蔵”

『夜野中狐物』安永九年(1780)
此ばんこも仲そうを三ツくつた とんたしよがわるい

“仲蔵”

『大通俗一騎夜行』安永九年(1780)
近年きんねん仲赤なかあかやくが出来てわれ/\がをや真赤まつかな鬼の目をめくり出して

“仲赤”(“仲蔵”と“赤蔵”の事)

これ以降は“めくりの役”に関する記述が、毎年コンスタントに見られます。この様な資料状況と、『大通俗一騎夜行』の「近年は仲赤の厄が出来て」という記述を見ると、恐らく安永初年頃の“めくりブーム”初期の頃にはまだ“役”が取り入れられていなかったか、もしも有ったとしてもさほど重要視されてはおらず、安永中期以降に広く取り入れられたと考えるのが妥当かと思われます。この事からも江橋先生の主張する“フィッシング・ゲーム”では“役作りが主たる目的”だという認識が、少なくとも十八世紀後期に大流行した“めくり”には当てはまらないのは明白でしょう。
 又、“めくり”とほぼ同時代に上方で流行した“てんしょ”も“フィッシング・ゲーム”(めくり系技法)だと考えられますが、資料数自体が少ないという点はあるにせよ、少なくとも“てんしょ”に“役”が有ったという事を明白に示す資料は見当たりません。“てんしょ”に関して、江橋先生は以前次の様に書かれています。

上方発祥の「テンショウ」が江戸で「メクリ」になったのは確実である。一方、「テンショウ」と「武蔵野」の関係は、両者が共に上方の発祥であり、「テンショウ」は獲得したカードの点数の多寡を争い、「武蔵野」は獲得したカードの組合せによる「役」の成否を争うという重大な相違点はあるものの、フィッシング・ゲームという構造それ自体は共通しているので関係があると思われるが、

江橋崇『かるた(ものと人間の文化史 173)』
法政大学出版局 2015年(p.190)

つまり「フィッシング・ゲーム」である「テンショウ」は“役作りが主たる目的”では無く、「獲得したカードの点数の多寡を争」うゲームである事を認めていらっしゃった筈なのですが・・・

この様に、江戸時代の“めくり系技法(先生の言うフィッシング・ゲーム)”は“役作りが主たる目的”であるという主張が、全く根拠に乏しいものであるのは明白です。
 一方、近現代に継承、記録された花札や地方札の“めくり系技法”を見ると、“役作りが主たる目的”である技法が多く見られるのは事実です。まさか江橋先生は十九~二十世紀の技法の印象を基に、十七世紀に“めくり系技法”が存在したならば、それも“役作りが主たる目的”の技法であった筈であるとお考えになったのでしょうか。

フィッシング・ゲームは、どういう「でき役」つくりを目指すのかが遊技の一番重要な戦略であるから、その遊技法を説明する際に「でき役」に触れないのは、主役の説明がない芝居の解説、メイン・ディッシュの記載がない料理店の献立のようなものであり、遊技の基本的な目的を書き漏らしていてあまりに軽率である。黒川のように信頼できる著述家がこういうミスを犯すとは考えにくい。

誤った前提や思い込みを基に幾ら推論を重ねても、誤った結論しか導き出されません。

「合せ」をフィッシング・ゲームと理解するのであれば、黒川はこの「役の書き漏らし」という重大なミスを犯したと認めることになるのであり、黒川をこれ程に軽率な著者と考える誤記説には私だけでなく他にも異論が多かろう。

勿論、黒川道祐の「重大なミス」などでは無く、江橋先生の誤解に過ぎません。黒川道祐が当時の第一級の知識人であり、優れた著述者であるのは間違い無く、決して「記載ミス」や「書き漏らし」を幾つもやらかす「軽率な著者」などである筈がありません。

“そこに書かれていない事”に基づく立論は充分に慎重であって頂きたいと思いますが、それは一旦置いておくとしても、「役札」及び「役」に関する記述の不在に対する江橋先生の主張は、論理の整合性が破綻していると言わざるを得ません。
 江橋先生にとっては「合せ」が“トリックテイキングゲーム”である事は疑い様の無い既定事実であり、大前提です。その上で“トリックテイキングゲーム”であるならば当然有る筈と考える「役札」の記述が無いのは「黒川の記載ミスと判断される」として、著者に責任を押し付けて辻褄を合せます。
 一方、“めくり系技法”ならば当然有る筈と考える「役」に関する記述の不在は「記載ミス」「書き漏らし」などでは無く、「合せ」が“めくり系技法”では無い事を示す決定的な証拠となるらしい。何ともはや自由自在な読解ですね。

結局のところ、『雍州府志』の「合せ」の記述は曖昧過ぎている為、この部分のみを単独で(或いは「賀留多」の項のみの読解で)解釈しようとしても、それが“トリックテイキングゲーム”か“めくり系技法”か、或いは“どちらでも無い第三の技法”なのか、何れとも確定出来ないというのが当方の立場です。その上で『雍州府志』全体での「合」や「紋」の用字法の分析結果、及び他の関連資料群との整合性を総合的に判断して“めくり系技法である蓋然性が高い”というのが現時点での当方の結論です。

続いて「(七)「賀留多」第四文節、カルタ札を用いる博奕遊技法の説明」になります。この部分は今の議論の本筋とは関係が薄く、当方への直接的な批判も有りません。又、個々の技法についての私自身の考えもまとめきれていない部分が多いのですが、この部分全体の意味について江橋先生の解釈と異なる点に関しての当方の考えを述べさて頂きます。

黒川は第四文節でさらに別の遊技法の説明に進み、「或又謂加宇、又謂比伊幾、或又謂宇牟須牟加留多、其法有若干畢竟博奕之戯也。」と書いた。「あるいはまたかうと言い、またひいきと言う。あるいはまたうんすんカルタと言う。その遊技法が若干あるが、ひっきょう、博奕の戯である」と読む。「かう」と「ひいき」が一つの「或」で括られ、次にもう一つの「或」で「うんすんカルタ」が説明されているので、「かう」「ひいき」はほぼ同類、「うんすんカルタ」は少し違う種類という区別をつけているように見える。いずれについても遊技法の内容の具体的な説明はまったくない。黒川は博奕色が強い遊技法は嫌っていて説明を面倒がっているのか、あるいはこの世界に足を踏み入れたことがなくて単に知らないだけなのか、「その遊技法が若干ある」という言葉以上の説明を拒否している。

江橋先生は、この部分を独立した一つの文節(段落)だと解釈されます。それは、ここに書かれている「加宇(かう)」「比伊幾(ひいき)」「宇牟須牟加留多(うんすんかるた)」の三技法は、前段の「讀」「合」とは性質の違う、いずれも「博奕色が強い遊技法」であるというお考えに拠る様です。

ここで一応「博奕色が強い遊技法」の意味を定義しておくと、①勝敗が競技者の技術よりも、偶然に左右される部分が大きい。②ルールが比較的単純であり、誰でもすぐに参加出来る。③一回の勝負の掛け金が高騰し易い。④一回の勝負時間が短く、短時間で多額の勝ち負けが生じ易い。といった特徴が考えられ、これらの条件に当てはまる部分が多い程“博奕色が強い”技法だと言って良いと考えられます。
 江戸カルタの技法としては“かう”“きんご”等の“アディングゲーム系”の技法が、最もこの条件に当てはまると思われます。

博奕系のカルタの遊技法では、参加者の数も三人から五人に限定されない。遊技に際しての札の配分の方法も異なる。つまりそれは、第三文節冒頭の、カルタの参加者数、ゲーム開始時のカルタ札の扱い方に関する説明の範囲外の遊技である。
(中略)
黒川は、「カウ」「ヒイキ」「うんすんカルタ」の遊技を、たまたまカルタ札を使うけれどもカルタの遊技ではなく、骰子賭博のような博奕の一種と見ていたようである。カルタ遊技として認めないのであるから、参加者数、札の配り方、遊技の進行、勝ち負けの決定法などについては全く説明する気がなさそうである。

つまり黒川道祐は「讀」と「合」とが「賀留多」を代表する遊技法であり、「加宇」「比伊幾」「宇牟須牟加留多」は「たまたまカルタ札を使うけれどもカルタの遊技ではなく」詳しく説明するに値しない、単なるバクチの類に過ぎないものと考え、技法名だけを示して「畢竟博奕之戯也」とバッサリと切り捨てているものだとお考えの様です。つまり、これら三技法が「博奕色が強い遊技法」である事を前提にしている訳ですが、果たしてその様に言い切れるでしょうか?

「加宇」「比伊幾」「宇牟須牟加留多」が賭博系の技法であろうという認識は江橋先生のみならず、これ迄のほぼ全てのカルタ研究者が認めている“定説”と言っても良いでしょう。今はそれらについての詳論は省きますが、珍しく江橋先生迄もが認めている“定説”ですので、反論の余地など全く無さそうに見えます。しかし、そこは根っからのヒネクレ者であり、しかもアマチュア研究者という自由な立場にある者として、あえて反論させて頂きます。

先ず、「加宇(かう)」が江戸期の資料に頻出する賭博系技法“かう(かぶ)”の事であるのは間違い無かろうと思われます。“かう”の基本原理は、2~3枚の手札の数標を加算し、合計数の一の位が“九”を最高として勝敗を争うものと考えられます。これが「博奕色が強い遊技法」に該当するものであるのも間違い無いでしょう。

しかし「比伊幾(読みは“ひいき”と考えて良いでしょう)」は、今のところ『雍州府志』以外の資料には全く見られない、孤立した技法名です。単に「加宇」と併記されているからという情況証拠のみで「加宇」と類似の賭博系技法であろうと推定したり、“ひいき”という音の類似を根拠に、現代の“引きカブ”と類似の技法だと推定するのは根拠として弱いと感じます。賭博系技法である可能性は否定出来ませんが(正直に言うと、私も賭博系技法である可能性が高いと思っているのですが)、厳密には“技法内容未詳”として扱うべきであろうと考えます。

更に「宇牟須牟加留多(うんすんかるた)」に関しては、「宇牟須牟(うんすん)」の語だけを切り取って、それが江戸期や近現代の“かう”系の技法で“1点”或いは“11点”を表す語として使われている事を根拠として、「宇牟須牟加留多」が賭博系技法だと推定するのは余りにも乱暴過ぎると考えます。「比伊幾」とは違って「宇牟須牟加留多」についてはそこそこの数の資料が残されていますが、“うんすんかるた”という賭博系技法が存在した事をうかがわせる資料など全く有りません。江戸期の資料に見られるのは全て75枚構成の、所謂“うんすんかるた”に関するものに限られます。従って、この「宇牟須牟加留多」も、75枚の“うんすんかるた”との関連性を第一に考えるべきであろうと思います。
 尚“うんすんかるた”の成立時期を元禄期中頃とする、論理的な根拠の無い“定説”を基に『雍州府志』の「宇牟須牟加留多」と“うんすんかるた”とは無関係だと考えるのは全く本末転倒だと考えます。まあ、“うんすんかるた”について言いたい事は山ほど有るのですが、ここで語り始めるとどうにも収集のつかない事態に陥るのは目に見えていますので、今は一点だけ資料を示します。刊年はハッキリしませんが、『雍州府志』と同時期か、少し前の成立と推定されているものです。

『誹諧 金剛砂』延宝末年(1681)頃
 永日
春の日影ウンスンかるた暮しけり

この句から受ける和やかな印象からは、賭博系技法とは相容れないものを感じずにはいられません。

この様に「加宇」「比伊幾」「宇牟須牟加留多」の三技法が共に「博奕色が強い遊技法」であったという仮定には、さほど強い根拠が有るものとは思えません。

次に、仮にこれら三技法が「博奕色が強い遊技法」だったとしても、その「博奕色」の強さが「讀」や「合」とは明確に区別される様なものだったのかを考えましょう。
 当時の人々のカルタ全般に対する認識を推測するのは容易な事では有りませんが、当方の印象としては多かれ少なかれ何がしかの金銭を賭けて遊ぶ、賭博的性格を持つ遊戯だという認識が有ったという印象を持っています。但し、技法によって博奕色の強い弱いの差が有ったであろう事は下記の資料から窺えます。

『懐硯』貞享四年(1687)
巻一
いのれときかぬかるた大明神みやうじんの事
(前略)
舟人が櫓米櫃ろまいひつより、布袋ほてい屋かるたの十馬八九のたらぬ取あつめ物を出しけれは、小者とも壱文二文によみて程なく、跡先あとさきに四五文つゝ置て、手もとせわしく勝負しやうふしける。清兵衛下人、越中よりめしつれたる男、百さしみなになして鬢鏡びんかゞみ八分に即座そくざに賣て是もうちこめば、律義りちぎものにて上してうろたへたるかほつきおかしく、取かへしてとらすとて清兵衛立かゝりてんがうにするうちに銭八百まけになれは、是切といふ所へ播磨はりまの長らうすゝみ出、後生ごしやう大事にひねりけれは、九品の浄土しやうどかふとて、しゆのこらすから取れは、ひたものに置かけつゐまめ板一歩せんさくに成、長老六七両も勝たまへは近江の布屋さし出、長崎のひと大氣にかゝり、三番まきに付目取て、山のごとく置立しに、次第につのりて千両はかり小判、あなたこなたの手にわたれは船頭せんとう古御器ふるごき出しててらをうたせけるに是さへ金子十両にあまりぬ。
(中略)
かりにもせまじきももは博奕ばくちわざ家をうしなひ身をすつるのひとつ是ぞ。前ぶたに三つがあかるにしてからせましき物ぞ。
『昼夜用心記』宝永四年(1707)
をのぞけばはじめは一せんせんがけのかるた。律儀りちぎに。十馬切をなたよみに。伊勢いせみあげとはあかい二塗箸ぬりばしの見たて。うしろから見物けんぶつものにこれは七か九かとふもまだるく。次第しだい功者こうしや入かはり。合せになり。三まいになり。

これらに見られる様に、最初は少額賭けの“よみ”に始まったカルタ遊技が、次第に“かう”や“三枚”といった本格的なバクチへとエスカレートしていく描写を考えれば、“よみ”よりも“かう”や“三枚”の方がより「博奕色が強い遊技法」であった事を疑う余地は有りません。しかし同時に、たとえ少額であるにせよ“よみ”でも金銭が賭けられていた事も間違い有りません。
 念の為もう一点、『雍州府志』と同時代の資料を示します。

『椀久一世の物語』貞享二年(1685)
札あまりに讀みうちかゝつて、其座立つ事を惜む。夜もすがら仕合せよく勝て、三百文。さもしや、せまじき事なり。

一晩中“よみ”を打ち続け、運よく勝ったとしてもせいぜい儲けは三百文(今の感覚では五千円から一万円の間かな)程度のみみっちい賭博だからお止めなさい、という事でしょう。

これらの資料から、当時の“よみ”では例え小額であるにせよ、又必ずとは言えないまでも、日常的に金銭が賭けられていたものと考えられます。だとすれば、黒川道祐もその様な状況を承知していたであろうと考えるのが自然でしょう。
 又、『鹿の巻筆』では“よみ”“合せ”“かう”の三種の技法を併記した上で“「かるたは博奕の第一」であり、良く思わない人もいるのでお止めなさい”と断じていますので、同時代の江戸に於いても同様の認識で有ったと考えられます。

『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
三郎兵衛はかるたをすきて、よみの、あわせの、かうなどゝいふ事のみふかのぞみけり。
(中略)
自分じぶんには似合にあわずかるたわざ、ふつ/\とやめ給へ。かるたは博奕ばくちだい一なり。人のおもふ所もあり。なぐさみとはよもいわじ。さりとてはやめさせ給へ、與市どのと云。

つまり“よみ”も“合せ”も“かう”も程度の差こそあれ、所詮は賭博行為に過ぎないというのが当時の人々の認識であり、それを黒川道祐は「畢竟博奕之戯也」と総括したものと考えます。江橋先生が主張する様に“よみ”や“合せ”は正統的なカルタ遊技であるが、“かう”等は「たまたまカルタ札を使」いはするが、カルタ遊技とは言えない単なるバクチだと、当時の人々が明確に区別していたとは思えません。勿論、黒川道祐個人の認識では明確に区別されていた可能性は否定出来ませんが、単なる憶測に過ぎません。
 では何故「加宇」「比伊幾」「宇牟須牟加留多」では技法名を示すのみで内容の説明が無いのか? という疑問に対しては、残念ながら明快な回答を示すのは難しいと白状するしかありません。敢てお答えするならば、単に彼がこれらの技法の詳細を知らなかったからとも考えられますし、或いは、多少は承知していたにせよ、当時の平均的な読者が既に知っているであろう範囲以上の情報を持っていなかった為に、敢えて書く必要を感じなかったとも考えられます。又、当時流行していたカルタ技法の第一が“よみ”であり、次いで“合せ”であったので、この二つに関しては詳しく説明し、その他の技法はそれ程広く行われていなかった為に説明を省いただけかも知れません。勿論、江橋先生の様に黒川道祐自身がバクチを毛嫌いしている為に「説明を拒否している」と解釈する事も可能でしょうが、全て憶測の域を出るものでは有りません。

当方の解釈を整理しておきますと、この部分は「賀留多」を使用する、「讀」「合」「加宇」「比伊幾」「宇牟須牟加留多」の五種類の技法を述べた一つの段落であり、「畢竟博奕之戯也」はこの五技法に対する総括的評価であると考えます。或いは「戯」の語を“技法”の意味に限定せず、広く“遊戯”の意に取れば、後に続く「歌賀留多」の部分に対して、冒頭からここ迄の記述全体を“賀留多はしょせん賭博の遊びである”と総括したとも解釈出来ます。

最後の段落「(八)「賀留多」第五文節、カルタ札を応用する「歌かるた」の説明」に入りますが、「歌かるた」に関しては当方は全くの門外漢であり、その内容は勉強にこそなれ、反論出来る様な知識は有りませんが、次の一文だけは看過する事は出来ません。

研究室は黒川がここで「歌賀留多」として述べたのは「おなじみの百人一首」と解する。百人一首は上の句札百枚、下の句札百枚、合計二百枚一組であり、『雍州府志』が述べているのは上の句札五十枚、下の句札五十枚、合計百枚一組だから、別種の「歌賀留多」である。既成の概念に囚われると眼前の「カルタの札百枚、半ば五十の札に‥‥。また半ば五十枚に‥‥。」という文章の明快な意味でさえ頭に入らなくなって「おなじみの百人一首」と読まれてしまうのであるから怖い。

本当に「怖い」
 どうやら江橋先生は、人の文章をロクに確認もせずに批判されている様です。

「おなじみの百人一首」云々のくだりは、当サイト内『うんすんかるた分室 参頁目』に発表した⑤『雍州府志』の「宇牟須牟加留多」(2007年公開)の文中の記述です。ご指摘の通り全く未熟な読解であり、お恥ずかしい限りです。それにしても先生がこんな古い記述迄も読んで下さっていたとは光栄です。
 とは言え、当方も少しづつ勉強を積み重ねておりますので『メイン研究室 十二頁目』の⑲-3 技法「あわせ」の研究再論  後編①の内【3】『雍州府志』の「合」とは?(二)(2016年公開)の中で、次の様に書いています。

江戸中期以降になると「歌かるた」と言えば、ほぼ「百人一首歌かるた」の事を指す様に成りますが、この記述は百人一首では有りません。採られている和歌は五十首で、それを上の句・下の句に分けて札に記し、上の句の札五十枚を場に同心円状に並べますが、この時、中央に札一枚分を置けるスペースを空けておきます。
 競技法も現在の百人一首と異なります。歌を詠み上げるのでは無く、真ん中のスペースに下の句の札を一枚出す事により競技がスタートします。

これが当方の現時点での認識です。この記述は江橋先生の学説に対して直接批判した論考の中の一部分であり、そもそも今の論争の元になった論考ですので、先生がお読みになっていない筈は無いのですが、これを読んで「研究室は黒川がここで「歌賀留多」として述べたのは「おなじみの百人一首」と解する。」と理解する事は普通の読解力が有れば100%有り得ません。かと言って、まさか江橋先生がこの記述を承知の上で故意に無視し、過去の記述を基に人を貶める様な事をする方だとは到底思えません。だとすれば、この部分をうっかり読み飛ばされたか、或いは失念されたのでしょう。
 私にしても“うっかり”や“失念”は往々にして有る事(特に最近はとみに多い)ですし、当方の散漫な文章にも責任の一端は有るでしょう。しかし、いかに格下の相手に対してとはいえ、少なくとも細心の注意を払って最新の主張を確認の上で批判して頂きたいものです。この件に関しては厳重に抗議させて頂きます

いよいよ結びの章「(九)『雍州府志』カルタの総合的な読解」に入ります。「総合的な読解」とやらを読ませて頂きましょう。

『雍州府志』の文章を全体として、また同時にここまでに見たように細部にわたって検討すれば、「合せ」は①江戸時代前期(1652~1704)の京都に、六条坊門(五条橋通)で制作されていた木版カルタを用いる、当時の人々から「合せ」と呼ばれた遊技法があり、②それは三人でも四人でも五人でも遊べる遊技法で、参加者は囲んで座り、③ゲームの開始時には一人がすべての札を手に持ってよく切ってから裏面を上にして各人に配分し、④それから各人が(トリックごとに一枚ずつ)同じ「紋標」の札を互いに合せ打ちし、⑤(最強の「紋標数」の札を合わせ打った者がそのトリックの勝者で、同じ「紋標」の札でも弱い「紋標数」の札を合わせた者は負けで)、⑥ましてその「紋標」の札がないので他の「紋標」の札を打った者は文句なく敗者であり、⑦(勝者がそのトリックで打たれたすべての札を獲得して自分の膝元に引き寄せ)、⑧(各人に配分した札の枚数分の回数だけトリックを重ねて打ち合い)、⑨(全部の札を打ち終わったら各人が獲得した札の得点を所定の方法で計算し)、⑩(得点が多いものがゲームの勝者になる)という遊技であるということになる。それがトリック・テイキング・ゲームを指しているという判断は揺らぐことがない。

ここで①から⑩までの記述には、『雍州府志』に該当する記述がないので私の推測で補った部分(カッコで括ってある)がある。

何と、これが「総合的な読解」だそうです。「『雍州府志』に該当する記述がないので私の推測で補った部分(カッコで括ってある)がある」って、後半は殆ど(カッコで括ってある)推測じゃ無いですか!!
 失礼ながら最初はジョークなのかと思いましたが、どうやら江橋先生は真剣にこれで良いとお考えの様です。先生ご自身が正直におっしゃている様に多くの部分は「推測」に過ぎず、“そこに書かれていない”事に対する“資料的根拠の不明な憶測”や“語句の恣意的な解釈”に基づく誤読です。

カルタの遊技法の説明は、名産品を紹介する書物の中では脱線の余談なのであり、黒川の説明が多少端折った文章になっているのは不思議ではない。黒川に対しては、よくぞここまで記録を残してくださったという感謝の気持ちはあるが、欠けている部分のあることを責める気持ちは全くない。

いみじくも江橋先生ご自身が「カルタの遊技法の説明は、名産品を紹介する書物の中では脱線の余談なのであり」と指摘されている通り、そもそもここの文章は“カルタの遊技法を正確に伝えようという意図の基に書かれたものでは無い”という認識を前提として解釈すべきだと考えます。ここの文章のみを根掘り葉掘り徹底的に読み込めば全てが明確になるかの様な主張には同意しかねます。又、「多少端折った文章になっている」という表現から、先生は『雍州府志』の記述を尊重するというよりも、ご自分の考えた完成像を基準として『雍州府志』を解釈されているのは明らかです。

当方も先生と同じく、『雍州府志』がカルタ研究に無くてはならない第一級の資料であると考えますし、これを残して下さった黒川道祐に対する「よくぞここまで記録を残してくださったという感謝の気持ち」には全面的に賛同致します。しかし『雍州府志』に対する江橋先生の研究姿勢を見ると、ご自身の知見や自説を絶対的な基準として記述内容を解釈し、それに合わない部分は黒川道祐の「記載ミス」「書き漏らし」と切り捨て、それを自説によって補えば「それがトリック・テイキング・ゲームを指しているという判断は揺らぐことがない。」とされます。これが資料を「素直に読む」という事なのでしょうかね? しかも「欠けている部分のあることを責める気持ちは全くない。」ってどんだけ上から目線なの! 真に『雍州府志』及び黒川道祐をリスペクトしている者の発言とは到底思えません。

『雍州府志』のこの箇所は、あらゆる文章、あらゆる言葉で「合せ」というトリック・テイキング・ゲーム系の遊技法を説明しているものであると理解されるのである。黒川の記述はトリック・テイキング・ゲームと理解して齟齬がなく、明快である。『雍州府志』にこれと別の理解をすることは不可能ではないのかもしれないが、そう主張するには、少なくとも同書に書かれている文字、言葉については、私がここで実例を示して見せたように、一語の洩れもなくその立場から合理的に説明する必要がある

これは当方に向けられた言葉だと理解して良いでしょうかね。
 申し訳有りませんが「一語の洩れもなく」「説明する必要がある」とは思えません。当方が「必要」だと考えた部分に関してはこれまでに「合理的に説明」して来たつもりですし、今回触れなかった部分については今のところ先生の読解に反論は有りませんので、それで十分だと考えています。更に言わせてもらえば、江橋先生が自信を持って示された「実例」が、ご自身の思われているほど「合理的に説明する」事に成功しているとは思えません

すべての札を図像が分からないように裏面を上にして配分するという文章や、人々が「互いに」合わせるという文章の検討がない。これらの漏れも、黒川の記載は簡単過ぎる、誤記だということになってしまうのだろうか。あるいは、「プロトめくり」であるとすれば当然に書かれていなければならない「出来役」などの遊技法の肝心の部分の記述がない。これも誤記、遺漏だというのだろうか。これでは黒川がかわいそうすぎる。

全て説明済みですね。これらは黒川道祐の「誤記、遺漏」では無く、江橋先生の誤認、誤解だというのが当方の主張です。

今後、ネット上での情報の利用が増すであろうと予想される中で、江戸時代の古典的な基本文献史料に関して、十分な解読の作業抜きになされた独断的な解釈が第三者に利用可能な状態にあり続けるとすれば、将来の研究者の世界に混乱を持ち込む危険性を増大させる。山口吉郎兵衛の説明不十分な誤記説がその後のカルタ史研究にどれほどの影響を与えてしまったのかという悪しき先例を考えれば、誤情報はなるべく早くにそれへの批判によって中和される必要があることはよく分かるであろう。その際に自分の解読が合理的であるという説明、立証の責任は誤記を唱える側にあるのであり、素直に読む側にあるものではない。それを取り違えてはいけない。

「素直に読む側」というのは江橋先生ご自身の事で、「誤記を唱える側」とは当方の事を念頭に置かれているのでしょうか?(当方は“誤記”などと唱えてはいませんが・・・)
 この部分の趣旨に関しては概ね同意致します。私も「十分な解読の作業抜きになされた独断的な解釈」は「なるべく早くにそれへの批判によって中和される必要がある」と思います。しかもそれが、その分野の権威者と考えられている人物による「独断的な解釈」ならば尚更の事「悪しき先例」とならない様、僭越ながら徹底的に批判させて頂きました。尚、文中の「自分の解読が合理的であるという説明、立証の責任」に関しては、立場に関係無く、全ての研究者に課される義務だと考えます。

私としてはむしろ、従来、学界の全体が山口の指摘に従い、江戸時代中期(1704~89)、十八世紀以降の「合せカルタ」「めくりカルタ」に関する文献史料を並べて、江戸時代前期(1652~1704)、十七世紀の「合せ」というカルタ遊技が十八世紀の「合せカルタ」、後の「めくりカルタ」と同じ種類の遊技であるとしてきた研究手法が、歴史を語る上でいかがであろうかという疑問を提出したつもりである。

この部分は「従来」の「学界の全体」に対する批判であって、直接当方に向けられたものではありませんが、たしかに古典的な“誤記説”が資料的根拠に乏しいのは事実ですので、江橋先生のご指摘はごもっともです。しかし、そもそも十七世紀のカルタ資料は絶対数自体が少なく、有っても断片的なものが殆どです。従来の研究(当方も含めて)で十八世紀の資料の利用比率が高く成っているのはいたしかた有りません。
 とは言え、当方は既に延宝六年(1678)刊の『色道大鏡』の新解釈によって、『雍州府志』以前から“めくり系技法”が存在した可能性を指摘していますし、今回『雍州府志』と同時期の『鹿の巻筆』の(ショボイ)読解からも当時の“合せ”が“めくり系技法”であると解釈し得る事を示しました。又、『雍州府志』より少し後の資料にはなりますが、少なくとも江橋先生が“合せ”技法の内容が“トリックテイキングゲーム”から“めくり系技法”に変化したとされる享保期(1716-1736)以前の資料群、十七世紀末から十八世紀初頭の『軽口もらいゑくぼ』元禄六年ヵ(1693)、『軽口あられ酒』宝永二年(1705)、『昼夜用心記』宝永四年(1707)等を根拠として、当時の“合せ”が一貫して“めくり系技法”であったと考えられる事を示す等、出来る限り同時代の資料を根拠として示す努力はしている積りです。

十八世紀、江戸時代中期(1704~89)に上方で使われていた「合せ」というフィッシング・ゲームの遊技法が江戸で流行し始めた「めくり」という遊技法の前身であるということを根拠にして、十七世紀の江戸時代前期(1652~1704)に京都にあった『雍州府志』の同名の「合せ」もフィッシング・ゲームの「プロトめくり」であるとするのは、歴史研究としては乱暴すぎる話である。

直接名指しこそされてはいませんが、内容から当方を念頭に置いての批判だと考えて間違い無いでしょう。そうだとすれば、やはり江橋先生は正しく理解されていない様ですね。
 たしかに当方の“合せ=めくり系技法説”は、十八世紀の文献である『教訓世諦鑑』『大の記山寺』『江府風俗志』等の記述に基づいて、“合せ”が“めくり”の前身であるという仮説を立てたものです。しかし決してそれを「根拠にして」『雍州府志』の「合せ」が“めくり系技法”だと主張している訳ではありません。あくまでも『雍州府志』全体の「合」の用法の分析という再検証可能な方法によって、それが“トリックテイキングゲーム”では有り得ず、“めくり系技法”だと考えるべきである事を示しました。よって、十七~十八世紀の“合せ”は一貫して“めくり系技法”だと考えるべきだと主張するものです。

 むしろ十七世紀の“合せ”は“トリックテイキングゲーム”であり、十八世紀の“合せ”は“めくり系技法”であると、同じ名称でありながら全く違う種類の遊技であると主張する江橋先生の方こそ、厳密にして充分な説明を果たす責任が有ると考えます。

江戸時代前期(1652~1704)の「合せ」が「プロトめくり」だというのであれば、その時期に「プロトめくり」の遊技法が実在したことを示す同時代の史料を出して説明するべきであろう。

ですからー、その様な「同時代」の決定的な超一級「史料」が簡単に見つかるならば誰も苦労はしませんて。
 それが見つからないので止むを得ず、有りと有らゆる雑多な資料を寄せ集めて、何とかもっともらしい筋書きをでっち上げる事に四苦八苦しているのですから。

「同時代の史料を出して説明するべきであろう」とおっしゃるのでしたら、江橋先生ご自身が率先して自説を裏付ける「同時代の史料」を示して頂きたいものです。いや、同時代で無くても結構ですので、“合せ=トリックテイキングゲーム説”の傍証となる資料を示して頂きたい。
 勿論先生ご自身はそれを示しているつもりなのでしょうが、既に指摘してきた様に、今迄に“合せ=トリックテイキングゲーム説”の傍証のつもりで採り上げられているらしき全ての資料(十七世紀のものも、十八世紀のものも含めて)は

このどちらかであり、そもそも論理的に“合せ”が“トリックテイキングゲーム”である事を示す根拠には成っていません。つまり、江橋先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”には傍証と認められる様なものは無く、単に「合」には“競い合わせ”という語彙が有るという事実と、『雍州府志』「賀留多」の項を熟読すれば、そこでの「合」は“競い合わせ”の意味であるという独断的な解釈のみによって成り立っている様に見えます。是非、ご自身の“仮説”を裏付ける説得力の有る他資料の提示と、それに基づく論証もしっかり示して頂きたいと思います。

ここ迄、江橋先生による『雍州府志』の読解に対する当方の見解を長々と述べて来ました。勿論『雍州府志』を徹底的に読み込むのはとても意義の有る事だとは思いますし、先生の読解が当方にとっても大変勉強になったのも事実です。しかし残念ながら、それが“合せ=トリックテイキングゲーム説”を立証するに足るものとは思えませんでしたので、無礼は重々承知の上で徹底的に批判させて頂きました。願わくは、当方の拙い批判に対する容赦の無い再批判を頂ければ幸いです。それが妥当と認められるものであるならば、当然の事ながら自説を修正する事にやぶさかでは有りません。
 又、もしも幸運にも江戸前期の“合せ”の実像を明確に示す文献が発見され、それによって江橋先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”が正しいと立証されるならば、喜んで自説を取り下げるつもりです。しかしその様な資料が見つかっていない現状に於いて、当方としては今現在利用可能な全ての関連資料を総動員して、少しでも真実に迫るという方法が最善だと考えます。これが絶対的に正しい方法論だなどと主張する気は有りませんが、少なくとも如何に一級の資料といえども単一の資料の一部分の記述のみに固執する手法よりは余程実り多いものと考えます。

公開年月日 2019/12/30


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