百聞は一見にしかずと言いますので、何はともあれ実物を御覧下さい。
この写真は九州国立博物館に収蔵されている江戸初期の「うんすんかるた」で、現存する「うんすんかるた」の中でも最も初期の物と考えられます。
通常の「江戸カルタ」が四種紋、各十二枚の四十八枚で一組なのに対して、「うんすんかるた」は五種紋、各十五枚の七十五枚で構成されています。紋標に関しては「江戸カルタ」と同じ「パウ(又は花)」「イス(又は劔)」「オウル」「コップ」の四種の他に、「グル(又はクル)」と呼ばれる巴模様が加えられた五種となっています。2から9までの数札は「江戸カルタ」と同様ですが、新たに各紋標を一つだけ大きく描いた1の数標の札が加えられ、「江戸カルタ」で1の位にあたる龍の絵柄の札は「ロバイ(又はロハイ、虫)」と呼ばれる独立した絵札として扱われます。他の絵札としては「そうた」「馬」「切(又はこし)」の三種は「江戸カルタ」とほぼ同じです。この他に「うんすんかるた」独特の絵札として「うん」「すん」の二種が有ります。「うん」には大黒、恵比須、布袋、福禄寿、達磨の五人の福神が描かれ、「すん」には黒冠の唐人風人物が描かれています。
「うんすんかるた」が文献に登場するのは延宝(1673-1681)末頃成立と推定される誹諧書『誹諧金剛砂』が最初でしょうか。
もう一点、ほぼ同時代の誹諧に「うんすんかるた」に関係が有ると思われるものを見つけましたのでご紹介しておきましょう。
原本を良く見ると「ウンニ」の「ニ」は他の文字よりひとまわり小さく書かれているのが分かります。つまりこれは漢数字の「二」ではなく片仮名の「ニ」、つまり助詞の「に」だと思われます。「寸ン」の「ン」はいわゆる捨て仮名で、「寸」は「スン」と読んで下さいという意味です。つまり「ウンに寸 続け入りして谷細し」というわけで、正確な句意はつかめませんが「うんすんかるた」の上位札である「うん」と「すん」を詠み込んだ句である可能性が高いと考えられます。
年代のハッキリした文献では貞享三年(1686)刊の『雍州府志』巻七 土産門下、賀留多の項に次のような記載が有ります。
これら三点の資料から考えると、遅くとも延宝末頃迄には「うんすんかるた」が成立していたと考えるのがごく自然では無いでしょうか。ところが「うんすんかるた」の成立時期に関しては諸説が有り、必ずしも延宝以前成立説が認められている訳では有りません。色々な文献やサイトを見てみると、「うんすんかるた」の成立時期を元禄(1688-1704)末頃とする説が主流と言うか、むしろ定説と化している感が有ります。この件については別項で詳しく検討致しますが、当研究室では延宝以前成立の立場を採っています。
江戸時代の「うんすんかるた」を知る上で最も重要な資料は、何と言っても江戸後期を代表する文化人、大田南畝の『半日閑話』巻八に載る「うんすんかるた打方」という一文を置いて他に有りません。ここには当時の「うんすんかるた」に関して札の構成及び名称、打ち方が詳しく書かれています。次章ではこの資料をご紹介いたします。
本書は成立の過程、年代等不明な点が多いのですが、明和五年(1768)以降の江戸の市井の見聞を集めた物で内容は非常に多岐にわたっています。多くの写本が伝存しており、国会図書館本を底本とした翻刻が『大田南畝全集 十一』(岩波書店 1988)に収められています。しかし本書中の「うんすんかるた打方」の内容を詳しく検討すると明らかに誤写と考えられる箇所が多く、又そのままでは意味が通じない部分が多々見られます。従って本書の記述をもってしてうんすんかるた研究の基礎資料とするのは適切でないと言わざるを得ません。念の為に刈谷図書館本も参照しましたが同様でした。
しかし、幸運な事に「うんすんかるた打方」は江戸後期の文化文政期(1804-1830)、既に他書に引用されて残されていました。山崎美成による『博戯犀照』(『続燕石十種 一』国書刊行会 1908年 及び同復刻版 中央公論社 1980年 に翻刻収録)と『耽奇漫録』(『続随筆文学選集 五』続随筆文学選集刊行会 1928年 に翻刻収録)の二書に、若干構成を変えているものの『半日閑話』中の「うんすんかるた打方」とほぼ同内容の文が収録されています。三書の内容を比較すると『博戯犀照』『耽奇漫録』の記述の方が「うんすんかるた打方」の本来の内容に近いのは明らかです。従って当研究室で使用する基礎資料としては『博戯犀照』に収録の「うんすんかるた打方」を採用する事としました。ただし、翻刻では読み易くする為に仮名使いや句読点を変更している部分が有りますので、なるべく元の形をお伝え出来るよう国会図書館本を底本として翻刻し直してみました。尚、比較に用いた『半日閑話』、『耽奇漫録』についても国会図書館本を使用しました。
尚、本文中で( )で括られた部分は『半日閑話』に存在し、『博戯犀照』で欠けている文です。
注釈
最後に文中に見える用語の幾つかについて、もう少し詳しく検討しておきましょう。
最初に注釈(1)で触れた「そした」の問題を確認しておきましょう。上記注釈において「そした」は「そうた」の間違いと断定しましたが、皆様の中にはこの時代に「そうた」に代って「そした」の語が一時的に使用されていた可能性を否定していいのか、と疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。我々がこれを否定する根拠はちゃんと本文中に示されています。「うんすんかるた打方」は大きく分けて前半の作者自身によって書かれた部分と、後半の「古き書付」の内容を転記した部分の二つから成っています。作者は両部分の札の名称の違いについて注釈を加えています。つまり「ろはい(虫と云ものか)」「こし(きりと云もの)」二か所です。一方、「すん」「うん」「むま(馬)」の三か所については両部分の名称が一致している為、当然注釈は有りません。もしも本文が元々「そした」であったなら、当然(そうたと云もの)等と記しているはずです。従って「すん」「うん」「むま(馬)」と同じく、元々両方とも「そうた」であったものが筆写のある段階で「そした」に誤写されたと考えられます。
次に「こし」について見てみましょう。「江戸カルタ」ではこの札は通常「切」と呼ばれ、「こし」の使用例は殆ど見当たりません。しかし、今のところ只一点のみですが「江戸カルタ」に於てもこの「こし」の語が使用されていたらしい痕跡を見つけました。
本書中、他の部分には「かう」についての記述も有り、作者が「かう」の技法を熟知していたのは間違いありません。さて、この狂歌ですが「かう」の技法と照らし合せると意味が理解できます。「法の師」とは僧侶、つまり「坊主」であり「江戸カルタ」の10の札の異称です。「馬」はそのものずばり、11の札。そして「輿=切」が12の札。ただし「かう」に於ては、この三枚の札は全て十点として計算されるので合計三十点、つまり「ぶた」になります。この様に十点札が三枚揃うのを「三枚坊主」と呼びますので、「密蔵院」を「三ツ僧院」と呼び変えている訳です。
次に「花」ですが、これも「江戸カルタ」で使用されていた痕跡が有ります。
「いきもの」とは生き物、つまり人か動物の描かれている札「切」「馬」「十」「虫」の事。「青物」とは青札つまり「パウ」の事。ここでは数札のみに限定してはいますが、「パウ(青)」を「花」と呼んでいた事が判ります。