うんすんかるた分室 弐頁目

〜うんすんかるたに関して専門に研究している分室です〜


B人吉地方の「うんすんかるた」について

「うんすんかるた」を研究するに当たって最大の幸運は、日本で唯一、熊本県の人吉地方にのみ奇跡的に「うんすんかるた」の技法が伝承され、現存している事でしょう。昭和四十年には、熊本県の無形民俗文化財の指定を受けています。しかし、昭和初頭までは周辺地域を含め盛んに競技されていた「うんすんかるた」ですが、昭和中頃には競技人口の減少、伝承者の高齢化から一時は絶滅の危機に瀕している状況であったようです。近年地元の方々の懸命の努力により次第に競技人口も増加し、年に一度競技大会が開催されるまでに至ったようで、誠に喜ばしい限りです。

人吉の「うんすんかるた」の競技法は、カードゲームの分類上では「トリックテーキングゲーム」に含まれます。「コントラクト・ブリッジ」や「ナポレオン」といったゲームをご存じの方は理解し易いかと思います。又、ゲームの構造がヨーロッパの古いカードゲーム「オンブル」に類似している点は古くから指摘されるところです。競技法の詳細を書くと長くなりますので、ここでは省略させて頂きます。競技法の詳細についてはWebサイト上に幾つか紹介されていますので、興味がお有りの方は「ボードウォーク・コミュニティー」のサイト内の、「うんすんカルタ」のページや、「Nagoya EJF Game うんすんかるた」のページ等をご参照下さい。
 尚、より詳しく知りたい方は下記の参考文献をご参照下さい。

人吉地方の「うんすんかるた」に関する参考資料

人吉の「うんすんかるた」は、江戸期の「うんすんかるた」及び「江戸カルタ」を研究する上で大変重要な生きた資料と言えます。中でも最も驚かされるのは、現在も使用されている用語の中に大変古い形のものがそのまま保存されている事です。人吉の技法では通常「江戸カルタ」で「切」「馬」と呼ばれている札を「レイ」「カバ」と呼んでいます。「レイ」はポルトガル語の「rei」そのまま、「カバ」は「cavallo」の略と考えられます。メイン研究室でも述べているように、「レイ」については「江戸カルタ」でも初期に使用されていたらしき痕跡は有りますが、「カバ」に関しては全く痕跡すら見当たりません。又、「うんすんかるた打方」にもこの語は見られません。この事実一つを取っても「うんすんかるた」が人吉に伝存している事の重要性がご理解いただけるかと思います。

人吉地方に「うんすんかるた」が伝わった年代については、諸説があります。

  1. 寛永二十年(1643)京都の鷲尾大納言隆量の二女千姫が、相良21代頼寛に嫁した時
  2. 寛文九年(1669)22代相良頼喬の後室に、京都の鷲尾大納言隆尚の娘が迎えられた時、その嫁入道具の中にあった。
  3. 明和六年(1769)備前池田家から相良家に入り、31代を継いだ長寛公が伝えた。

もしも1の説が正しいならば、江戸初期の寛永年間(三代将軍家光の時代)既に「うんすんかるた」が成立していた事に成ります。一方、「うんすんかるた」の成立を元禄末頃とする立場からは1、2、の説は到底成り立ち得ません。しかし3の明和六年(1769)といえば『半日閑話』の「うんすんかるた打方」が書かれたと推定される時代と同時期に当ります。両者の内容の差異を考えると、3の明和期伝搬説には少々無理があるように思われます。ただし、仮にこの中のどれかの説がたとえ史実であったとしても、今日それを立証するのは新たな資料の発見でもない限りは不可能でしょう。

公開年月日 2007/02/18


C「うんすんかるた」の通説を見直す

うんすんかるた
天正かるたから派生したかるたの一種。宇牟須牟骨牌とも書く。16世紀後半ポルトガル伝来のカルタを模して作られた天正かるたは、江戸時代庶民に広まり賭博に使われたため、幕府は禁令を出した。しかしその効果はなく、禁令が繰り返される中で、元禄の終りころ〈うんすんかるた〉が考案され、これが幕府の公認するところとなった。
(中略)
この公認かるたも結局は寛政改革の際、他のかるた類とともに禁止された。
(後略)

上の文は『平凡社 世界大百科事典』(1988年刊)の「うんすんかるた」の項からの抜粋ですが、おおよそこの様な見解が「うんすんかるた」の歴史についての通説になっていると言って良いでしょう。執筆者はかるた収集家の村井省三氏です。内容的には村井氏独自の見解と言うよりも、村井氏と同じく、同人「日本かるた社」のメンバーである山口格太郎氏の影響を強く受けているように思われます。山口氏は「うんすんかるた」の成立時期、及び成立の契機に関して次のように記しています。

幕府はそれまでにも度々禁令を出していたが、元禄十五年(1702)には特別の「博徒考察」という取締官をも新設して厳重に製造販売を取り締まったので、今までの「天正かるた」は表向き姿を消してこれに代わって登場したのが七十五枚から成る「うんすんかるた」である。

「日本人とかるた」『月間文化財 136』第一法規 1975年1月

幕府でもただ禁令ばかりで取締っていても埒があかないので、これを禁じるかたわら、公認の今でいえば文部省推薦の別のかるたを考案させたと思われる。上から考案させたのか、下から健全娯楽として考案してきたのかわからないが、
(中略)
いわゆる「ウンスンカルタ」が誕生する。この切換の時期は様々な資料から考えると、元禄の終りか宝永の初め(十八世紀初頭)と推定される。

『日本のかるた』保育社刊 1973年

山口氏の言う”様々な資料”なるものが、具体的にどのような資料を指すのかは不明です。残念ながら我々は、今だ「うんすんかるた」が”元禄の終りか宝永の初め”に誕生した事を示唆する資料を一点も見い出しておりません。又、「うんすんかるた」を”幕府公認のかるた”とする根拠も全く不明です。我々の知る限りでは江戸幕府が「うんすんかるた」を公認した、というような事実を示す資料は一点も有りません。或は、江戸期に作られた、しかも高級仕様の「うんすんかるた」が数多く現存しているという事実から類推して、幕府が公認していたと考られているのかもしれません。しかしこの事実からは幕府が「うんすんかるた」を少なくとも禁止はしていなかったのではないか、とは言えますが、公認していたという表現は適切とは思えません。

次に、山口氏が「うんすんかるた」成立の契機として重要視する「博徒考察」に関してですが、これによって取締りの対象となるのは「カルタ」を使用した賭博行為であって「カルタ札」自体を取締った訳では有りません。「カルタ札」自体が取締りの対象となるのは、江戸後期の安永年間以降の事で、寛政の改革による徹底した取締りが行われる迄は、江戸の人々のカルタ愛好熱が下火に成った時期すら特に見あたりません。ましてや「江戸カルタ」が山口氏の言うように”表向き姿を消して”、というような状況は無かったと言って良いと思われます。
 「博徒考察」が設置された後の数年(元禄末から宝永頃)に限って見ても、この時期に「江戸カルタ」に関する文献資料の数が目立って減少している訳でも有りません。内容的に見ても、例えば「カルタ」を罪悪視したり、コソコソと隠れて「カルタ」を打つというような否定的な描写が増えたという事も有りません。「江戸カルタ」に関して言えば、「博徒考察」の設置、及び取締り強化の影響力はそれ程大きな物では無かったというのが正直な印象です。

続いて、その後の「うんすんかるた」について、前掲書(「日本人とかるた」『月間文化財 136』)から更に引用します。

ところでこのうんすんかるたであるが、確かに一時は流行し、殊に後期かるたの流行期ともいうべき明和安永の田沼執政時代にはよく行われていた。たとえば「万句合せ」安永六年梅ノ二にも「百二十五枚おほいをしまはせる」とあって、これは初め上品な百人一首で遊んでいたのをやめていよいよ本番のうんすんかるたにしようということで、200枚(百人一首の札数)−125枚=75枚(うんすんかるたの札数)とまるで算術である。
(中略)
これだけ流行した「めくり」や「かぶ」などの博奕かるた(もちろん安永にも禁令は出ている)も、また公認されていたはずの「うんすんかるた」も松平定信(楽翁)の寛政改革によって全面的に禁止されてしまった。

上記「万句合せ」の記述は、実は完全な誤謬です。当該句は、

『川柳評万句合勝句刷 安五梅2』安永五年(1776)
百五十二まひ多ィをしまわせる

が正しく、従って200枚−152枚=48枚(「江戸カルタ」の札数)というのが正解であり、「うんすんかるた」とは全く無関係です。それでは他にどんな資料が有るのかというと、実際にはこの頃(明和安永期)「うんすんかるた」が文献に見られるのは、既に紹介した『半日閑話』の「うんすんかるた打方」が明和期の見聞と考られる他には、宝暦頃刊の『歓遊桑話かんゆうそうわ』、明和期の『雨中徒然草うちゅうつれづれぐさ』『彩画職人部類(いろえしょくにんぶるい)』に次の記述がが有るくらいではないでしょうか。

『歓遊桑話』宝暦(1751-1764)頃
唐渡の加留太はウンスムとて七十五枚有しかも一准大也然るを和朝之規則に合せ其理を縮め桑数とす桑の畫たるや四十八因茲ヨツテコレニ名付けて桑札ともいひへし
『雨中徒然草』明和六年(1769)
異国いこくにて此名をうんすんと云
『彩画職人部類』明和七年(1770)
又 加宇カウ 宇牟須牟ウンスン なといふあり
 すへて南蠻国のことはなり

「うんすんかるた」は、この時代に流行した様々な文芸作品、黄表紙、洒落本、咄本、川柳等にはほとんど登場しません。にもかかわらず「うんすんかるた」が明和安永期に流行し、寛政の改革で禁止されたと信じられているのは何故でしょうか。出典は明白です。

『耽奇漫録』文政七年(1824)
明和安永の頃大に流行寛政のころ厳しく停止仰出され此札売買ならぬことになりぬ
耽奇漫録

問題はこの文が、何について説明しているものなのか、という点ですが、『耽奇漫録』の唯一の翻刻である「続随筆文学選集5」(続随筆文学選集刊行会 1928年)では、この文の上に「うんすんかるた」と大書きされています。当然この文章は「うんすんかるた」の事を述べていると理解されます。ところが驚くべき事に『耽奇漫録』の原本(国会図書館本)を見ると、同じ場所には「うんすんかるた」では無く、大きく「めくりかるた」と書かれているのです(画像参照)。何のことは無い、この文は「うんすんかるた」では無く「めくりかるた」の説明であり、明和安永頃に大流行し寛政の改革で札の売買までも禁止されたという、既に我々が良く知っている、「めくり」についての歴史的事実を述べた物に過ぎなかったのです。

最後にもう一度、「うんすんかるた」の実態を整理してみましょう。「うんすんかるた」の成立を元禄末頃とする説は根拠に乏しく、再検討が必要と思われます。又、成立の契機として「博徒考察」の設置によって「江戸カルタ」に対する取締りが厳しくなり、言わば地下に潜った代わりに「うんすんかるた」が作られたとするのも資料事実に反します。「うんすんかるた」が明和安永期に流行した形跡は、特に見当たりません。幕府は「うんすんかるた」を公認などしていませんし、寛政の改革の際、特に名指しで禁止したという事実は有りません。幕府は「うんすんかるた」に対して無関心で有ったように見えます。つまり、敢て取り上げる程の存在では無かったのだと思われます。

公開年月日 2007/03/31

最終更新日 2007/10/24


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