うんすんかるた分室 四頁目

〜うんすんかるたに関して専門に研究している分室です〜


F「うんすんかるた」の成立年代 後編

次に、技法の面からも考えてみましょう。「うんすんかるた」の技法はカードゲームの分類としては「トリックテイキングゲーム」の一種で、内容的にはヨーロッパの古典ゲーム「オンブル」に良く似ていると言われています。「オンブル」は十四世紀末から数世紀に渡って、スペインを中心に大流行した三人ゲームです。我が国へのカルタの伝来と共に伝えられたであろう幾つかの技法の中にオンブル系統の技法も含まれていて、「江戸カルタ」を使用する一技法として行われていたと考えて間違い無いでしょう。ここでは「うんすんかるた」の元になったこの「江戸カルタ」の技法を、便宜上「元技法」と呼んでおきます。

ところで『半日閑話』の「うんすんかるた打方」を見ると、三人で行なう場合を例として打方の説明をしています。しかし、実際に三人で行なうには「うんすんかるた」の75枚という枚数は少々多すぎるように感じられます。現在、人吉で行なわれている技法は「八人メリ」という八人で行なう方法が中心ですが、この場合各自の手札は九枚となります。これくらいの枚数が一番扱い易いのでは無いでしょうか。ただし、『半日閑話』の記述でも「三人にて打は」と断わっているので、実際には四人以上でも行われていたという事でしょうが、それを敢て三人の場合を例にしているのは、「元技法」がオンブルと同様の三人技法で有った事の名残だと思われます。

では、この「元技法」が実際に行われていた時代はいつ頃なのでしょうか。実は、この問題に関しても「ソウタ」が論証のキーワードと成ります。
 「江戸カルタ」では「ソウタ」の名称が延宝期の中頃までに消滅して「十」「坊主」「釈迦」等に変化した事は前節でご説明しましたが、では何故「うんすんかるた」では「ソウタ」のまま変化しなかったのでしょうか。「坊主」「釈迦」に関しては簡単です。「江戸カルタ」でこの語が使用されるのは、『雍州府志』に見られるように絵柄が「僧形」に変化した為です。しかし、「うんすんかるた」では「ソウタ」は女性像のままですので、まさか「坊主」「釈迦」等と呼ぶ訳にはいきません。
 では「十」はどうでしょうか。この名称は技法上の理由から来ています。「江戸カルタ」を代表する技法「よみ」ではこの札を数札の九の次、つまり十に該当する札として扱います。又、「かう」「きんご」等の技法ではこの札を十点と計算します。つまり、これらの技法では「ソウタ」を「十」と呼んで何等差し支え有りません。一方「うんすんかるた」では「ソウタ」は「スン」「ウン」に次いで三番目に強い札であり、九の上では有りませんので「十」と呼ぶ事は出来ません。この様な理由から、「うんすんかるた」では「ソウタ」の名称が使用され続けたのでしょう。

一方「江戸カルタ」に於て、延宝期迄に「ソウタ」の名称が消滅し、「十」という名称が定着したという事実は何を意味するのでしょうか。繰り返しになりますが、この時代以後の文献に頻出する「よみ」「かう」「きんご」の技法においては「ソウタ」を「十」と呼んでも何等差し支え有りません。しかし、「うんすんかるた」の「元技法」では「ソウタ」を「十」と呼ぶ事は出来ません。つまり、この時代には既に、「元技法」自体がほとんど行なわれなく成っていた可能性が高いと考えられるのです。

ところで、この「元技法」なる物が実際に存在した痕跡は有るのか、と疑問を持たれる方も多いでしょうから、資料を紹介しておきます。

仁勢物語にせものがたり寛永十五〜十七年(1638-1640)
をかし、女はあざ持つ、男はそうた持てり。早く打棄てたりけるを見て、勝ちこそは今はあだなれ是無くはそうたは四方に有らまじ物を
私可多咄しかたばなし万治二年(1659)序 寛文十一年(1671)刊
むかしむかし、遠国に外科有。さる者、あざとる薬を給ハれと云。外科、心えたとハいへ共、此薬をいかゝせんとあんしわつらひ、かるたの札のそうたとやらんいふものを、くろやきにして、天下一あさとる薬とじまんしてやつた。

『私可多咄』の方は解りやすいと思いますので説明は省きますが、『仁勢物語』の方は少々解りにくいかと思いますので、簡単に意訳しておきます。

女は「あざ」を持ち、男は「ソウタ」を持っている。男が「ソウタ」を早く打ち出したのを見て、女が言うには「これでもう『ソウタ』は何処にも無いので、あなたには勝ち目は有りませんよ」

 上記、江戸初期の二つの資料に共通するのは、「ソウタ」と「あざ」の間に強弱の差が有り、両資料共に「ソウタ」が「あざ」に優るとしている点です。札の間に強弱の順があるというのは「トリックテイキングゲーム」の特徴です。
 更に「うんすんかるた」と比較して見ましょう。『半日閑話』の「うんすんかるた打方」でははっきり解りませんが、人吉の「うんすんかるた」では「あざ」は常に切り札であり、大変強力な札ですが最強では有りません。切り札の「スン」「ウン」「ソウタ」に次ぐ四番目に位置します。ここから「うんすんかるた」特有の札である「スン」「ウン」を除くとどう成るでしょうか。つまり、「元技法」における順位を復元すると、「ソウタ」が最強、次が「あざ」という事に成ります。この一致は偶然とは考えられません。上記、二資料は「元技法」の存在を裏付ける物と考えて良いでしょう。

ここまでを整理すると次のように成ります。

  1. 我が国へのカルタ伝来と同時期に、オンブル系統の技法が伝えられ、江戸初期には「江戸カルタ」の技法として行なわれていた。
  2. その技法を踏襲、拡大する形で「うんすんかるた」が創り出された。
  3. 元となった技法は延宝期迄に衰退、もしくは消滅していた。

つまり、技法の面から見ても「うんすんかるた」の成立が、「元技法」の消滅以前、つまり延宝期以前である事を示しています。

前節から「うんすんかるた」の成立年代について絵柄、名称、技法の面から検討して来ました。それぞれを個別に見れば確定的な論証とは言えませんが、全ては一つの結論、つまり延宝期以前の成立を示唆しています。そして、全ての論証において「ソウタ」が重要な役割を果しているのがお解り頂けたと思います。今後、これらの論証をまとめて「ソウタの論証」と呼びたいと思います。

公開年月日 2007/04/30


G「うんすんかるた」の語源考 前編

「うんすんかるた」の「うんすん」という名称は何処から来ているのでしょうか。例えばウィキペディア(Wikipedia)の「うんすんカルタ」の項を見ると

「うん」は1、「すん」は、最高を表し

と書かれています。おそらく「うんすんかるた」について書かれた他の記述のどれを見ても、ほぼ同じ内容が書かれている筈です。つまり、これが「うんすん」の語源の定説に成っていると言って良いでしょう。これを松田道弘氏(『トランプものがたり』 岩波書店 1979年)に倣って「ウン・スンモ説」と呼ぶ事にします。この説の出典は明らかです。

ウンスンの語義はよくわからない。南蛮歌留多の考証は、村上博士も夙に意を注ぎ、その要略は日本外来語辞典などにも出てゐるが、ウンは葡語の一の義たることは、直にわかるけれども、スンの方は確説を見出し得ぬ。予輩が仮に一説を出せば、葡語のスンモ又スンマ Summo,Summa の語の下略ではなからうかと思ふ。スンモは最高とか最上とかいふ意味であるから他の札の上に位する最上の札が一の数即ウンであつたか、又は僧形たる法王の形であつたかは知らぬがとにかくさういふカルタの用語から来たのではないかと思ふ。英語のオールマィティとかスューペリオルとかの語に当るスンモとウンを結びつけて、日本の遊戯仲間が勝手にさう呼んだもので、恐らくは外国伝来の一定の通用語から取つたのではなからう。予輩は別に他の案としてウンの複数形たるウンス Ums と関係はなからうかとも考へて見たが畢竟葡語の慣例や術語を知り、且その技に熟した上でなければ確定は出来ぬ。

新村出著「賀留多の伝来と流行」『南蛮更紗』改造社 大正十三年

新村出氏は、かの『広辞苑』の編者でもある著名な国語学者ですが、いみじくも氏自身が「予輩が仮に一説を出せば」と断わっているように、これはあくまで一仮説に過ぎません。実際、氏自身もうひとつの説として「ウンの複数形たるウンス Ums」という可能性を提示した上で「確定は出来ぬ」と明言されています。不思議な事に「ウンス Ums」説の方は、その後検討された形跡が全く見当たりません。一方「ウン・スンモ説」の方は、現在定説としての地位を確たるものにしていると言って良いでしょう。

それでは新村出氏によって提出された仮説、「ウン・スンモ説」はその後、どの様な検証を経て定説として認められるに至ったのでしょうか。実は不思議な事にと言うか、残念な事にと言うか、はたまた呆れた事にと言うべきか、検証らしい検証と呼べるものは、今までにほとんど為されていないと言わざるを得ないのが実状のようです。唯一この仮説に対して、原則支持の立場から論証を試みているのが山口吉郎兵衞氏です。氏は「うんすん」の語源について幾つかの角度から検討を試みていますが、ここではその内「ウン・スンモ説」に絞って見てみましょう。

ウンスンの語源に関してはウンはポ国語では「一」、スンはスンムで「最高、最上」を意味するもので、一かウンという札を最強とするによるのであろうかと云う仮説(新村出氏「南蛮更紗」、大正十五年刊)はウンスンカルタの技法に全く適合している。
 問題はウンスンカルタの創案せられた時代を斯の如く適切なる訳語を充て得る位のポ国語通がいた頃まで上げなければならぬことである。

山口吉郎兵衞著『うんすんかるた』 リーチ 1961年

つまり「ウン・スンモ説」を支持する理由として、「ウン最強」という語義が「ウンスンカルタの技法に全く適合している」点を指摘しています。ただし「ウンスン」語源をポルトガル語を元にした造語と考えた場合、その成立時期はポルトガル語に精通した人物が存在していた時代でなければならない、と問題提起している訳です。山口氏は「うんすんかるた」の成立を貞享初年(1684)頃と推定しているので、次のように論証を続けています。

貞享初年頃の案出とする筆者の推定に随えば、天正十五年天主教の禁止以来百年以上も経過している。此頃にポ国語通が残存していた可能性は先づないとせなければならぬが、しかし「ウン最強、ウンスン説」は或程度成立出来ると筆者は考える。即ちウンスン技法以前に、前期寛永時代の「毛吹草」付合「位」にカルタ遊のあることから、何か札に強弱の順位をつけた技法が行われて居り、或はそれが「ウン最強」技法に当るものかも知れぬからである。

山口吉郎兵衞『同書』

つまり、造語「ウンスン」が貞享初年頃に作られた可能性は少ない(ただし実際には天正十五年(1587)の天主教(キリスト教)の禁止以後もポルトガル人との交流は継続しており、完全に接触が断たれるのは寛永十三年(1636)のポルトガル人278人のマカオへの追放のあたりかと思われますので、貞享初年迄の期間は約五十年程短縮されます。)が、「ウンスン」の語自体は75枚の「うんすんかるた」成立に先立って江戸初期から存在していたと考えられ、「ウン最強、ウンスン説」は成立し得るとしています。根拠として紹介している『毛吹草』の記載は次のような内容です。

『毛吹草』寛永十五年(1638)序
くらゐ さぎ 絹の機きぬのはた 加留多かるた 中将棊馬ちうしやうぎ

当研究室では「うんすんかるた」の成立時期に関しては、延宝以前とする立場を取っていますので、貞享初年説の山口氏とは見解を異にしています。しかし、その成立過程に関しては先行する「元技法」の存在を想定していますので、それが「ウン最強」技法で有るかは別にして「札に強弱の順位をつけた技法」が存在したとする見解には賛同出来ます。上記『毛吹草』以外にも、前節でご紹介した『仁勢物語』『私可多咄』は「ソウタ」と「アザ」の間に強弱の関係が有った事を示唆しています。ただし、これらの資料はあくまで「札に強弱の差が有る技法」の存在を示すもので有って、「ウン最強技法」の存在を裏付けるものでは有りません。

続いて山口氏は、別の角度からの検討を試みています。

ウン最強的カルタ及技法を肯定すべき資料は尚未だ不足しているが、一と共に十二をも強札とするらしきものは既述の如く文献にも見え、それらしき実物の俤もみられ得るのである。スンムの原意最高は数値にも充てられるのであるから最高数標十二に充て、一と十二を紋標によって最強とし、これを並べてウンスンムと称したかとも解せられるが、
(中略)
葵紋を一と十二の裏面にのみつけたようなカルタは世界の何処にも見られぬ一種特別の国産カルタで、これこそウンスンとか何とか、特殊名をつける必要があったのであろうが、

山口吉郎兵衞『同書』

「一と共に十二をも強札とするらしきもの」という記述について説明しておきますと、「それらしき実物の俤」とは『うなゐの友』に掲載されているカルタの模写の事と思われます。又、「文献にも見え」というのは次の資料を指します。

小春紀行こはるきこう』文化二年(1805)
深見氏の家に、古き加留多の札をもてりとて、携へ来りて示す。其中の一枚を乞得てかへれり。そのかるたの表に踞状の人あり。キリと云紙牌也。背に金箔の御紋ありて、下に三池貞次とあり。その紙牌の背に、ことごとく御紋有にはあらず。たゞ一ノ紙牌とキリの紙牌にのみ御紋ありて、二三四より九十馬までは、三池貞次とのみ有り。これは古へ御陣中に翫び給へる紙牌なりといひ伝へり。按に黒川道佑が雍州府志土産門加留多六条坊門製之、其良物称三池、以金銀箔飾之者謂箔賀留多云々。

ここでは「ウン・スンモ」を「ウン最強」の意味ではなく、「ウン」を一の札を指し、「スンモ」を最高位の意味で「キリ」の札を指すと解釈しています。これは「第二のウン・スンモ説」と言って良いでしょう。

続いて山口氏は、資料的裏付けの乏しい事は十分に承知の上で、自説を次のようにまとめています。

思うに天正カルタに最初ウンスンと称せられたウン最強技法があり、オンブルの影響を受けて葵紋附式技法に発展したが矢張りウンスンと称せられて居り、この技法を知っていた者が貞享頃にそれを応用して七十五枚のウンスンカルタを案出したのではあるまいか。

山口吉郎兵衞『同書』

以上が山口氏による「ウン・スンモ説」の検討の概略です。そしてこれが、氏の没後半世紀以上の時を経た現在までも、「ウン・スンモ説」に関する唯一の真剣な検討であると言わざるを得ないのが現状です。内容的には「ウン・スンモ説」が成立し得るという傍証には成りますが、「ウン・スンモ説」の妥当性を立証するような性格のものでは有りません。つまり新村出氏によって提出された仮説「ウン・スンモ説」は、今も一仮説に過ぎないとするのが公正な立場では無いでしょうか。

それでは改めて仮説「ウン・スンモ説」について、当研究室なりに検討を加えたいと思います。

山口吉郎兵衞氏は「ウン・スンモ説」を支持する理由として「一かウンという札を最強とするによるのであろうかと云う仮説はウンスンカルタの技法に全く適合している。」としていますが、果してそうでしょうか。

先ず「一」の札について見れば、「うんすんかるた」技法において「一」の札が最強で無い事は明らかです。「一」の札は「オウル」「コップ」「グル」の数札の中では一番強い札ですが、とても最強とは言えません。では「うんすんかるた」成立以前に存在したであろう「元技法」で「一」の札が最強であった可能性はどうでしょうか。これは有り得ると思われます。何故なら、おそらく「元技法」と共通の起源を持つと推定される「オンブル」においては「スペードのA」が常に最強の札として扱われているからです。同様に「江戸カルタ」の場合は「あざ」(クラブのAに該当する)が最強の札で有ったかも知れません。しかしこれは、あくまで推測に過ぎませんし、『仁勢物語』『私可多咄』を見ると「ソウタ」が「あざ」よりも強い札であったと解釈出来ますので、やはり「一の札最強技法」の存在は根拠に乏しいと言わざるを得ません。

それでは「うん」の札の方はどうでしょうか。ここで言う「うん」は75枚の「うんすんかるた」の中の「うん」の札、つまり大黒、恵比寿、布袋、福禄寿、達磨の描かれた札を指していると考えて間違い無いでしょう。山口氏が「うんすんかるた」技法で「うん」の札を最強と考えていたとすれば無理も無い事です。何故なら、氏の存命中にはまだ人吉地方の「うんすんかるた」技法の存在が一般に知られておらず、利用出来た資料といえば『半日閑話』の「うんすんかるた打方」一点に限られていたと考えて良いでしょう。『半日閑話』の本文では「うん」を第一としています。しかし、幾つかの根拠から元々の「うんすんかるた」技法では「すん」の札が最強で有ったと考えられます。
 第一に『半日閑話』の「うんすんかるた打方」中の「古き書付」部分の記述で、すん、うん、そうたの順としている事。年代的に古いのですから、当然こちらが本来の形と考えてられます。第二に人吉の「うんすんかるた」で「すん」が最強とされている事。人吉の技法は使用されている用語を見ても、相当に古い用語が伝承されています。同様に技法内容に関しても、古い形式を継承していると考えて良いでしょう。第三に「すんくんかるた」版木の内容が挙げられます。「すんくんかるた」は「うんすんかるた」の拡大版とも呼べるもので、紋標「矢印」を追加して6紋標とし、更に「くん」と呼ぶ絵札を増やして各紋標16枚とし、「パウのロバイ」の札をもう一枚追加した計97枚から成っています。江戸中期以前と推定される「すんくんかるた」の版木(滴翠美術館蔵)には次のような文面が彫られています。

『すんくんかるた版木』江戸中期以前
すんくんかるた
一 うちやうはうんすんかるたのことくなり矢はゐすとおなし事なりうんすんとうちあかるをうんすんくんとあかるなりうんはさひわいすんはしんかなりくんは君子なりきみとうちあかりおさむる也
  下立売通
    車や町の角
      きやうしや
         四郎兵衛

読み易く書き直しますと「ひとつ 打ちようは、うんすんかるたのごとく也。矢はイスと同じ事也。うん、すん、と打ち上がるを、うん、すん、くん、と上がる也。うんはさいわい、すんは臣下しんか也。くんは君子くんし也。きみと打ち上がり、おさむる也。」という事でしょうか。つまり、「うんすんかるた」では、うん、すん、と打ち上がるのと同様に「すんくんかるた」では、うん、すん、くん、と打ち上がるというのですから「うんすんかるた」の最強札はやはり「すん」という事に成ります。
 「一」と同様、「うん」もまた最強の札では有りませんでした。つまり、山口氏が「ウン・スンモ説」を支持する理由として挙げた「一かウンという札を最強とするによるのであろうかと云う仮説はウンスンカルタの技法に全く適合している。」という前提それ自体が、実は非常に危ういもので有ると言わざるを得ません。

新村出氏によって提出され、山口吉郎兵衞氏に支持され、いつの間にか定説化されて来た「ウン・スンモ説」ですが、当研究室としての評価はあくまで「うんすん」の語源についての一仮説という扱いに過ぎず、その妥当性についてはどちらかと言うと否定的ですが、決してこれを全面的に否定するものでは有りません。最後に、あまり強力なものでは有りませんが「ウン・スンモ説」を支持する立場の資料をご紹介致します。

「ウン・スンモ説」の最大の弱点は「ウン」の方はカルタ用語として理解可能なのに対して、「スンモ」の方には裏付けと成るような資料がほとんど見当たらない事に有ると考えられます。これを裏返せば、もしもカルタ用語としての「スンモ」の使用例、あるいは関連を示唆する資料が発見出来れば、一気に「ウン・スンモ説」の妥当性が増す事に成るのではないでしょうか。しかし、残念ながら未だそのような資料の発見には至っておりません。ただし、そのものズバリのカルタ用語では無くても、江戸初期に於いて「スンモ」の語が「最高、最上」の意味で使用されていた事が確認されれば、「ウン・スンモ説」に対する強力な傍証と成るのでは無いでしょうか。

とりあえず各種の辞典で「スンモ」を調べても、残念ながらそれらしい用例は見当たりません。念のため「スンマ」を見てみましょう。新村出氏は元々「葡語のスンモ又スンマ Summo,Summa の語の下略ではなからうか」と述べています。すると「スンマ」には「角前髪(男児の髪形のひとつ)」又は「丁稚」という意味がある事が判りました。しかし「丁稚」では「最高、最上」どころかまるで掛け離れた意味合いに成ってしまいます。断念しかけていたある日、次の資料が目に留まりました。

これは伊勢店とは別であるが戦友に上村甚三郎と云って、白木屋に勤めて居たものがあった。惜しい事に旅順で戦死をしたが、此者の話に、丁稚から手代になる間に、スンマと云う階級があって、これが丁稚を監督する、某の日には丁稚を円座低頭させて置きスンマはこれに甲某は何月何日しかじかの行為があった、乙某は何月何日かくかくの過失があったと云って帯芯おびしんで背中をくらわすと語った。

三村清三郎著「伊勢店」『日本及日本人』大正六年一号
(芳賀登編『江戸のくらし』柏書房 1981年刊 所収)

白木屋は江戸初期の寛文二年(1662)創業の老舗ですが、ここでは「スンマ」が単なる丁稚では無く、丁稚の中の最高位という意味で使用されていた事が判ります。改めて色々と探してみると、これを裏付ける資料が有りました。

スンマ【角前[髪]】職業語。丁稚頭。丁稚を終えて、スンマになり、丁稚の監督指導に当たる。1年ほどして、「若い人」(手代)になる。語源は角前髪とされるが、「寸間(ちょっとの間)」かと言う話者も。

中井幸比古著『京都府方言辞典』和泉書院 2002年刊

「スンマ」とは丁稚一般を指すのでは無く、丁稚の上に立つ者を表す呼称で有る可能性が高く成りました。だとすると語源を「角前髪すみまえがみ」の転訛とする説も不自然に感じられますし、「寸間すんま」もちょっと無理が感じられます。日本語起源の語源が確定出来ない以上、外来語起源で有る可能性も考慮する必要が有ります。つまり江戸初期にポルトガル語源の「スンマ、又はスンモ」が「最高、最上」意味で認識されており、それが丁稚の最高位を指す語としても使用されたのがこの「スンマ」であり、その原意は忘れ去られながらも、「スンマ」という名称のみは近代まで継承されたのでは無いでしょうか。ここに、ささやかではありますが「スンモ、スンマ」が江戸初期において、「最高、最上」の意味を有していた可能性を示す資料として報告させて頂きます。
 ただし言うまでもない事ですが、この資料は到底「ウン・スンモ説」を強力に支持し、裏付けるというような性格のものでは無く、ほんの一傍証に過ぎません。「ウン・スンモ説」は、今後も慎重な検討が必要とされる一仮説であるとする立場に変わりは有りません。

本節では「うんすんかるた」の語源として「ウン・スンモ説」に関して検討して来ました。次節ではその他の語源説について検討致します。

公開年月日 2007/09/30


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