うんすんかるた分室 参頁目

〜うんすんかるたに関して専門に研究している分室です〜


D『雍州府志』の「宇牟須牟加留多」

前節で「うんすんかるた」の元禄末成立説が資料的根拠に乏しい事に簡単に触れましたが、ここではこの問題に関連して、『雍州府志』の「宇牟須牟加留多」の記事ついて詳しく検討したいと思います。

貞享三年(1686)刊の『雍州府志』に「宇牟須牟加留多」の語が見られる事は既に紹介しましたが、元禄末成立説の立場では、この「宇牟須牟加留多」をどのように解釈しているのでしょうか。例えばゲーム研究家の松田道弘氏は次のように述べています。

 問題は『雍州府志』に、「カウ、ヒイキ、または宇牟須牟ウンスンという競技法があるが皆博戯にすぎない」という記述の宇牟須牟をどう解釈するかです。
 『雍州府志』の筆者の文脈では、カウ、ヒイキ、ウンスンは並列になっています。つまりこの三種の競技法は、同系列の似たりよったりのバクチにすぎない、と解釈するのがごく自然ではないでしょうか。もしウンスンカルタというよび名の競技法があって、その競技法がカウやヒイキと同系統の賭博であるとすれば、『雍州府志』の文章はごく自然に抵抗なくうけとることができるわけです。

『トランプものがたり』岩波書店 1979年

つまり、『雍州府志』に書かれている「宇牟須牟加留多」は、75枚の「うんすんかるた」の事ではなく、48枚の「江戸カルタ」を使用する競技法の名前であるという訳です。そのような読み方が妥当であるか、検討したいと思います。重複になりますが、原文を記しておきます。

『雍州府志』貞享三年(1686)
或又謂加宇又謂比伊幾或又謂宇牟須牟加留多其法有若干畢竟博奕之戯也

この文の直前には、「江戸カルタ」を使用する「讀(よみ)」「合(あわせ)」の二種の技法の簡単な説明が有り、「加宇」「比伊幾」「宇牟須牟加留多」の名前を上げて「其の法、若干有り」と有りますので、「宇牟須牟加留多」が技法名であるのは確かです。しかし、松田氏の言うように「この三種の競技法は、同系列の似たりよったりのバクチにすぎない、と解釈するのがごく自然」かというと、賛同しかねます。
 松田氏は、「カウ、ヒイキ、ウンスンは並列になっています」と言われますが、例えば、これが英文ならば、「A,B andC」と書くと確かにABCは並列です。しかしこれは日本語の文ですので、「或又謂A、又謂B、或又謂C」ならばAとBは並列と言えますが、Cは少し性格の違う物と取る方が自然ではないでしょうか。
 又、「カウやヒイキと同系統の賭博」というのはつまり、札の数を加算した合計の優劣によって賭け金を取り合うタイプの技法という事でしょうが、「畢竟博奕之戯也」の語句をこの三種の技法の説明と解するならば、確かにそのように取る事も可能です。しかし、『雍州府志』の「賀留多」の項全体を見て頂くと解りますが、この語句は前半部分、つまり48枚の「江戸カルタ」の説明部分の締めくくりに置かれており、後半部分では「歌かるた」についての説明をしています。つまり、この文全体の構成を考えると、「畢竟博奕之戯也」とは後半の「歌かるた」に対して、前半の「江戸カルタ」の記述全体を総括する意味を持つ語句であると考えた方が、より自然ではないでしょうか。詳しくは別項で述べますが、この時代には既に「江戸カルタ」は下品、「歌かるた」は上品というイメージが出来上がっています。特に『雍州府志』の著者のような識者にとっては「江戸カルタ」など、様々な種類や技法が有るにせよ、所詮全て「畢竟博奕之戯也」と切り捨ててしまっている訳です。
 ここで一つ思い出して頂きたいのは、『雍州府志』と同時代のもう一つの「うんすんかるた」の資料である『誹諧金剛砂』の発句です。

『誹諧金剛砂』延宝(1673-1681)末頃
春の日影ウンスンかるた暮しけり

ここに詠まれている「うんすんかるた」から、いわゆる賭博系技法をイメージ出来るでしょうか? あくまで感性の問題になってしまいますが、ごく一般的な文学的感性をお持ちの方なら、この句から、賭博系技法とは相入れないものを感じて頂けるのではないでしょうか。

以上、見てきたように「うんすんかるた」を「かう」等と同系統の賭博系技法とする解釈は、妥当性に欠けるというのが我々の結論です。しかし、賭博系技法とは言えないまでも、何れにせよ『雍州府志』に書かれている「うんすんかるた」は、48枚の「江戸カルタ」を使用する一技法名である事には変りないのではないかという疑問について、更に検討を進めねばなりません。

『雍州府志』の「賀留多」の項全体を見ると、「宇牟須牟加留多」の記述に関して、特異な点が二つ有る事に気付きます。

一つは、文中の五種の技法名の中で、「宇牟須牟加留多」以外の四種が「讀(よみ)」「合(あわせ)」「加宇(かう)」「比伊幾(ひいき)」と、比較的単純な名称なのに対して、「宇牟須牟加留多」のみ、全体の表記の統一性から見て不自然に感じられます。つまり、技法名が「宇牟須牟」ならば、特に違和感が無いのですが、敢て「宇牟須牟加留多」と書くのは、何らかの特殊な事情が有る為と考えられます。
 『雍州府志』の中で「宇牟須牟加留多」以外に「○○カルタ」という形で書かれているのは「箔賀留多」「歌賀留多」の二カ所です。「箔賀留多」は金銀箔を使用した高級仕様のカルタの事で、札の内容は普通のカルタと同じですが、仕様の違いを表す為に特別な呼び名が必要な訳です。「歌賀留多」はお馴染みの「百人一首」の事で、札の仕様も技法も全く別種の物ですので、当然、固有の名称が必要になります。だとすれば、同じく「○○カルタ」という形の「宇牟須牟加留多」も、普通のカルタと異なる仕様、及び技法のカルタであると考た方が自然です。これは技法をも含めての名称ですので『雍州府志』の「其法有若干」という記述と矛盾するものではありません。

二つ目の特異点は、「宇牟須牟加留多」の「加」の文字です。当時「カルタ」を漢字で表記する場合、「加留多」「賀留多」「加留太」「嘉留多」「骨牌」等、様々な字が当てられています。『雍州府志』の場合、全体で「カルタ」の語はタイトルを含めて九カ所出て来ますが、「宇牟須牟加留多」の部分のみ「加留多」の字を使用し、他は全て「賀留多」と表記しています。つまり、筆者の基本的な表記法が「賀留多」であったか、又は主に参考とした資料の表記法が「賀留多」であったと考えられます。何故「宇牟須牟加留多」のみ、「加留多」と表記しているのでしょうか。一つの文章内で異なった表記を併用している例は、他の文献にも見られますが、『雍州府志』の資料性格を考えると、単に筆者の気まぐれ、或は不注意で一カ所だけ表記法を変えているとは考えられません。
 この様な不統一が生じた原因は、筆者が「宇牟須牟加留多」と書かれた文字を、実際に目にしていた為としか考られません。もしも筆者が「うんすんかるた」に関する情報を耳で聞いて書いたものであれば、他の部分との統一性を守る為に「宇牟須牟賀留多」としていた筈です。しかも、『雍州府志』に引用する際に、全体の統一性を崩してまでも元表記を守った事を考えると、既に「宇牟須牟加留多」という名称が、ある程度定着していたとも考えられます。この「宇牟須牟加留多」の元資料がどの様な物なのかは判りませんが、少なくとも『雍州府志』成立以前に既に「うんすんかるた」に関する文献が存在したか、或は想像を逞しくすれば「うんすんかるた」の現物一組を収めた箱に「宇牟須牟加留多」と書かれていたのかも知れません。

余談になりますが、「江戸カルタ」の一組を数える際の数称は、「組」ではなく「めん」が正式であり、カルタ一面、二面と数えます。「うんすんかるた」の場合も、おそらく「一面」が正式と思われますが、あまり馴染みの無い呼び方なので、「一組」の語を使用させて頂きます。

本題に戻りますが、本節では『雍州府志』に書かれている「宇牟須牟加留多」について詳細に検討いたしました。その結果、これを「江戸カルタ」を使用する一技法名とするのは誤りであり、「別種のカルタ」として存在していた可能性が高い、いうのが我々の結論です。「別種のカルタ」とはつまり、我々の知るところの75枚からなる「うんすんかるた」の事であり、『雍州府志』並びに『誹諧金剛砂』に見られるように、遅くとも延宝期(1673-168)の終わり頃迄には成立していたと考られます。

次節では「うんすんかるた」の延宝以前成立説を別の角度から検証いたします。

公開年月日 2007/04/08


E「うんすんかるた」の成立年代 前編

「うんすんかるた」の札の構成については、本分室の最初で解説済みですが、簡単におさらいしておきましょう。「江戸カルタ」の48枚に紋標「グル」を加え、更に数標「1」の札、及び絵札「すん」「うん」を加えれば75枚の「うんすんかるた」の出来上がりです。逆に「うんすんかるた」からこれらの札を抜けば、そこに残るのは「うんすんかるた」の元となった「江戸カルタ」の姿であると言えます。もちろん、この48枚を使用して全ての「江戸カルタ」の技法を行なう事が可能ですし、実際、そのように使用されていたのかも知れません。ただし、この48枚を良く見ると、我々の知っている「江戸カルタ」とは僅かな違いが有ります。それは「ソウタ」の存在です。

うんすんかるた

実はこの「ソウタ」こそが、「うんすんかるた」の成立年代を解き明かす上での「鍵」であり、重要参考人なのです。まず最初に検討するのは、「ソウタ」の絵柄についてです。
 「うんすんかるた」では「ソウタ」はほとんどの場合女性像として描かれています。写真は江戸中期の典型的な「うんすんかるた」で絵札のみの画像ですが、左から三列目が「ソウタ」です。ただし「うんすんかるた」の中には、既出の九州国立博物館蔵の物のように「ソウタ」が男性像に成っている物も有りますが、例外的と言って良いでしょう。(もっとも、この「ソウタ」も顔は男性ですが、服装や体型は女性的です。)

一方、初期の「江戸カルタ」でも「ソウタ」が女性像であった事は、神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」の絵柄等から確認出来ますし、文献上からも、次の二つの資料によって知る事が出来ます。

『東海道名所記』万治二〜四年(1659-1661)
柿かたびら赤まへだれのしづ
 かるたのいすのそうた人かも
『やぶれはゝき』延宝五年(1677)
つゝましき袋をもつて立すかた
 君ハこつふのそうたさま也

これが『雍州府志』の時代になると

『雍州府志』貞享三年(1686)
第十畫法師之形是表僧形者也

と、僧形に変わっている事が解ります。この女性像から僧形への変化の時期がいつ頃なのか、正確には解りませんが、下記の資料等から遅くとも延宝中期以前の事と推定されます。(詳しくは「メイン研究室」をご参照下さい。)

『誹諧当世男』延宝四年(1676)序
三途川質に置てや流すらん
 あはせかるたの釈迦もむなしき
『類字名所狂歌集』延宝四年(1676)
くらまにはかるたのぼうず多して
 山におふるの木をそ打きる
『江戸広小路』延宝六年(1678)序
 かけ銭や伊勢の神垣さればこそ
三枚坊主いむといふなり
 冨士を軒端の銭見せの先
箱入のかるたの釈迦の御来迎

この事から、「うんすんかるた」の絵柄は、少なくとも延宝(1673-1681)中期以前の古いタイプの「江戸カルタ」を元にしていると考えて良いでしょう。

更に、「ソウタ」の絵柄に限らず、一部の「うんすんかるた」(例えば九州国立博物館蔵の「うんすんかるた」)と初期の「江戸カルタ」(神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」等)の絵柄を比較してみると、その類似性に驚かされます。例えば

他にも人物や竜の姿勢や服装の特徴等、細かな点まで非常に良く似ています。是非、ご自身で比較してみて下さい。数多くの共通点が見つかる筈です。
 もっとも、これらの絵柄の比較のみから直ちに、「うんすんかるた」の成立時期は延宝期以前である、と決論を下す事は出来ません。何故なら、仮に「うんすんかるた」という新しいカルタを考案する人の立場に立ってみれば、現行のカルタとの差別化、高級化を図るために、あえて古めかしいデザインを取り入れるという可能性は、十分に有り得ると思われるからです。従って、絵柄の検討からは「うんすんかるた」の成立が、延宝期以前であった可能性が高いと指摘するに留めます。

次に、「ソウタ」という名称について考えてみましょう。「うんすんかるた」では『半日閑話』等に見られる通り、「ソウタ」の名称が使用され続けています。これは本文、及び「古き書付」の引用部分共に共通しており、「うんすんかるた」では「ソウタ」の名称が伝統的に使用され続けたと見て良いでしょう。
 一方、「メイン研究室」で御紹介している通り、「江戸カルタ」において「ソウタ」の名称が使用されていたのは、江戸初期から延宝期までの事で、それ以後の文献には文芸作品のみならず、考証書や随筆等のカルタ記事にも見当たりません。延宝期中頃からは「ソウタ」は「十」「坊主」「釈迦」等と呼ばれるように成っています。この事実も又、「うんすんかるた」の成立時期が「ソウタ」の名称が消滅する前の延宝期以前であった可能性が高い事を示唆しています。もっとも、絵柄の問題と同様に、あえて「ソウタ」という古い名称を探し出して来た可能性も無くは有りません。しかし、絵柄の問題と比べると、あえてそこまでする利点が有るとは思われません。

又、人吉の「うんすんかるた」では「ソウタ」のみならず「レイ」「カバ」といった名称が現代までも受け継がれています。「レイ」に関しても「メイン研究室」でご紹介している通り、江戸初期にのみ記録が見られますが、「カバ」に至っては全く記録が確認されていません。「江戸カルタ」において「ソウタ」「レイ」「カバ」の名称が全て使用されていたいたのはいつ頃迄なのかは解りませんが、少なくとも延宝期以前、実際には更に古い時代まで考慮する必要が有るかも知れません。

次節に続く

公開年月日 2007/04/25


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