うんすんかるた分室 五頁目

〜うんすんかるたに関して専門に研究している分室です〜


H「うんすんかるた」の語源考 後編

前節で検討した新村出氏の「ウン・スンモ説」は、「うんすん」の語源を外来語(ポルトガル語)に求めたものですが、氏はもう一つの「うんすん」の存在についてはおそらく御存知では無かったのではないかと思われます。この、もう一つの「うんすん」について最初に指摘したのは尾佐竹猛氏だと思われます。

余輩は序でに愚説を提出せんに、現今行わるるカブ加留多の計算に二スン、三スン、四スン、五スンなどと呼んでおり、一はチンケ、またはチンコロなど別称があるが或いは一も固有の称呼であったので無いかと思い、調べておったところ、幸いカブの系統たるハンカンという主として名古屋方面に行わるる賭博の数の呼び方が右の古風であることが判った。すなわち一をウンスンと呼んでおる。これで分明となった。一をウンスンというから二、三、四みなスンを語尾につけるので、古くは一をウンスンと呼んだためにウンスン加留多というのはあたかも今日、八をオイチョ、九をカブといっておりこの数を決勝点とするからオイチョカブまたはカブという加留多の名称となっておるのと同じものである。

尾佐竹猛著『賭博と掏摸の研究』総葉社書店 大正十年

又、山口吉郎兵衞氏も『うんすんかるた』の中で同様の指摘をされています。

こゝに又ウンスン問題を混乱せしむる一件がある。それは現代カブの如き最賭博的カルタ技法で数をかぞうるに特殊の呼称があり、地方的に差異はあるようであるが、愛知県では

一をウンスン、或はウンケン、二を二ゾー、三ズン、四スン、五スン、六ケン、七ケン、八をオイチョー、九をカブ、十をブタ

と云うている。
(中略)
ウンスンなる語が一地方に限るとは雖も最も縁の遠き賭博技法に使われて今日まで残存しているのは偶然の暗合でなければ誠に不思議な現象で一応研究の必要がある。
(中略)
数語のウンスンは競技に実際使用せらるゝ言葉であるから、たとえば「カルタをやろうか」の代りに「ウンスンをやろうか」と云うように使われることは当然あり得ることで、此点から見れば天正カルタの異称として、又ウンスンの語源としては前述の概念的解釈によるものよりも一層簡単に役立つ訳である。

山口吉郎兵衞著『うんすんかるた』 リーチ 1961年

この様に述べ、「ウンスン」の語源として「前述の概念的解釈(具体的には「ウン・スンモ説」を指す)」よりも説明がつき易いと指摘しています。この説を「数語ウンスン説」と呼ぶ事にします。本節ではこの「数語ウンスン説」に対する検討が中心と成ります。

先ず第一に明らかにしておくべき点は、数語としての「ウンスン」が「うんすんかるた」の成立したと推定される時代において、既に使用されていたのかどうかという問題です。資料を見ていきましょう。

『けいせい請状うけじょう』元禄十四年(1701)
二文四文のかるたもまだるし。いざ三枚にしてをすまいか。是もよからふと。又取立て三枚。是そちは六寸。こちは五寸。なむさん先斗。二十五文のはらひじやとわたし。こんどは。そちは弐寸。こちは七寸。是もあたま斗とれる。こんな時はちつとはりをる。しはいやつじやと。五文取て。こんどは下女が方へかぶが入頓介が方へはうんすんが入しを見て。きもをつぶししが。せかぬかほしていふ様。そちはみやれ九寸じや。こちは是みや十一寸じや。二寸のかちじやと銭をとるに。下女のあどない。はあそふか。なむさんとぜにをやりしに。

ここで行われているのは「かう(カブ)」系技法の「三枚」ですが、数語としての「うんすん」の他に「弐寸、五寸、六寸、七寸」更には「かぶ(九寸)」まで見えます。蛇足ながら、咄の落ちは「うんすん」を「十一寸」と言い換えて「かぶ(九寸)」より上だと主張し、無知な下女から銭を巻き上げるという訳です。この資料から「うんすん」が間違いなく「一点」を表す数語として使用されていた事が確認出来ます。「うんすん」は近松門左衛門作の浄瑠璃本にも登場します。少々長くなりますが、「三枚」及び「よみ」技法の用語が多く登場する重要な資料なので引用しておきます。

大織冠だいしょくかん』正徳三年(1713)
一まいひねつてひたいにあてかのばくていにとびいれば。そろをわきから二くすじ(くずし)の。三馬あざがけしのぎつゝ火をくはつくはつとかき立て。加番見れ共青もなくあがりもしらぬひらよみに。そも三まいはいさしらず取ゑんことはけなし也。かくてかうの場に至りて。座中を見れば銭高は。三百文のごくどうが。此玉をおこして夜食をたかせつけめには。八むしなみゐたり。其外なかめ二めおりのがれがたしや我命。さすがをんあいの手みそのくせぞかなしき。あの親の札にこそ。二三四やあるらん七二大名やおはすらん。去にても此まゝに。ぶたてはてなん無念さよと涙ぐみて立しが。又思ひ切て手を合せ。なむや四と五にくはんをんしやかさま三まい坊主の。くげんをたすけてたび給へとて。大悲の利剣を親にうちて。うんすんをふため飛おれば。跡さきしやんとぞをしたりける其ひまにお玉をぬすみとつて。にげんとすればかく人をつかくかねてたくみしことなれば。又ひらよみにまきなをし。五したに打きりつんばねあざばねにぎりのそろでぞ勝たりけり。

更に時代を少し遡ってみましょう。

好色大神楽こうしょくだいかぐら』貞享五年(1688)
さてこそお大みやう。おつとうんどんりく。ありや七二小僧こぞう。ひつかり八々のかみなり三。かなしやぶたうんすん

時代的には「宇牟須牟加留多」の記述の見られる『雍州府志』貞享三年(1686)刊にほぼ重なって来ます。ここまでの資料では「うんすん」がカブ系統の技法の一点を表す数語として使用されているのが明らかですが、この先は少々解釈が必要と成って来ます。

新竹斎しんちくさい』貞享四年(1687)
卒爾そつじながらそれがしうんすん町の者で御ざるといへバ、筍斎いはしもはてず、うむすんハ、目ひとつ、神田の人かといふ。

「うんすん町の者」が何故「神田の人」かと言うと、「うむすんハ、目ひとつ」つまりこの「目ひとつ」とは「一点」と同じ様な意味です。『大織冠』に見られた「うんすんをふため飛おれば」というのも同様で、現代でも「サイコロの目」と呼ぶのと同様の用法です。一方「かんだ」には片目の不自由な人という意味が有りますので、同じく目がひとつという訳です。次の句も全く同じ趣向です。

花笠はながさ』宝永二年(1705)
あはれなる・目はウンスンジヤチンバ馬

最後はいよいよ延宝期迄遡って見ましょう。

太夫桜たゆうざくら』延宝八年(1680)
花は根から平家のウンスンこと/\く

句意は次のように解釈出来ます。「ウンスン(1点)」は「ぶた(0点)」の次に弱い手です。「平家のウンスン」とは身分の低い者や若少の者を指すものと考えられます。「花は根から」とは物事は根源からという意味ですので、平家の後々の再興、報復の可能性を断つ為にこのような者までも悉く抹殺するという意味と考えられます。

カブ系技法の数語としての「ウンスン」に関する明確な資料はここまでですが、もう一点更に古い資料が有ります。数語としての「ウンスン」との関係は明確では有りませんが、可能性としては有り得ると思われます。

百物語ひゃくものがたり』万治二年(1659)
又一人すゝミ出て、そこのき給へ、あんじ出したるとて、いふをきけば、ちやんうんすんとて三くし食けるこそ、又なきをかしき事なれ。

何れにせよ少なくとも延宝期末までには、つまり「うんすんかるた」が文献上に登場する『誹諧金剛砂』『雍州府志』が成立したのと同時代には「数語ウンスン」が使用されていたのは確実です。従って当時の人々が「うんすんかるた」の名称の「うんすん」の語からイメージするのは第一に「数語ウンスン」で有ったはずです。更にもし「うんすんかるた」の成立した時代に既に「数語ウンスン」が一般的に使われていた事が確認されれば、これは「ウン・スンモ説」にとっては致命的な状況と成ります。何故なら既にカルタ用語としての「数語ウンスン」が存在してるのに、敢てポルトガル語を捻くり回して全く同じ「ウンスン」なる名称を創り出す。この様な状況はまず有り得ないでしょう。
 この様に見てみると、「うんすんかるた」の語源としては、確定的では有りませんが「ウン最強技法」としての「ウン・スンモ説」よりもカブ系技法の数語を起源とする「数語ウンスン説」の方に分が有るのでは無いでしょうか。

次に問題と成るのは、そもそも「ウンスン」とは何か。つまり「ウンスン」自体の語源です。「ウン・スンモ説」の他に『南蛮更紗』の中で新村氏が示した「ウンの複数形ウンス Ums」というのも一つの語源説と言って良いでしょう。その他、外来語起源の語源として松田道弘氏が興味深い説を示しています。

私はウンスンという名の、カブ系統の賭博が、カルタ輸入当時に行われたのだと思います。愛知県では賭博のカブ用語で一のことをウンスンといい、キンゴという賭博でも十一のことをウンスンといいます。ちょうどカブというゲームで合計点が九でも十九でもカブというように、一のことも十一のこともウンスンと呼んだのです。一または十一が特別の役目を持つカ ード・ゲーム(たとえば――これはあくまでもたとえばですが、合計数が十一以上にならないと勝負ができないカルタ)といった意味でウンスンカルタといったのだと思います。スペイン語の十一がオンセ(once)で音が似通っているということもあります。ウンスンカルタはオンセ・カルタかもしれないのです。

松田道弘『トランプものがたり』岩波書店 1979年

これも「数語ウンスン説」の一種と言って良いでしょう。「ウンスンという名の、カブ系統の賭博が、カルタ輸入当時に行われたのだと思います。」というのは『雍州府志』の「宇牟須牟加留多」をカウやヒイキと「同系列の似たりよったりのバクチにすぎない」とする解釈に基づくものです。その前提の上に「たとえばですが、合計数が十一以上にならないと勝負ができないカルタ」を仮定しています。当研究室ではこの前提に関して『雍州府志』の「宇牟須牟加留多」の検討の中で、既に松田氏説に対する考察を加えておりますので、ここでは更なる検討は控えさせて頂きます。
 更に松田氏は「ウンスン」の語源として「スペイン語の十一、オンセ(once)」という大変興味深い説を提出しています。この「スペイン語once説」及び新村氏の「ウンの複数形ウンス Ums」は共に「ウンスン」を一語として捉えている訳ですが、この場合先ず「ウンスン」の語が成立し、他の「二寸」「三寸」等の語はその後に「ウンスン」の語尾「スン」を借りて作られた事に成ります。この様な成立過程は決して不自然という訳では有りませんが、それよりも「ウンスン」を「ウン」と「スン」の合成語と考える方がより自然に感じられます。根拠と成るのは数詞「ケン」の存在です。前述の山口氏の引用に

一をウンスン、或はウンケン、二を二ゾー、三ズン、四スン、五スン、六ケン、七ケン、八をオイチョー、九をカブ、十をブタ

と有るように「スン」の他に「ウンケン」「六ケン」「七ケン」の呼称が有ります。実はこの「ケン」も歴史が古く、江戸初期に使用例が見つかります。メイン研究室と重複しますが、二点の資料を紹介しておきます。

続山井ぞくやまのい』寛文七年(1667)
七夕は今宵あふるの二けん
江戸十歌仙えどじっかせん』延宝六年(1678)
先爰にパウの二けんの杉高し

更に「ウンケン」に関しては次の資料が有ります。

『当世口まね笑』延宝九年(1681)
ばくちうちが聞て、我等もおなし事じや。かるたにあびらうんけんや三まいぼうろんが入たてば、程なうはだかにかいなりまする。

「あびらうんけん」は密教の真言「阿毘羅吽欠蘇婆訶(あびらうんけんそわか)」に掛けている訳ですが、「うんけん」は1点を意味していると考えられます。「三まいぼうろん」は普通「三枚坊主」と呼ぶ事が多いですが10点札3枚、つまり0点(ブタ)の事で、「はだかになる」とはつまりスッテンテン、一文無しに成るということです。この資料で「(あびら)うんけん」が1点を表す数語として使用されているのは間違い有りません。「(あびら)うんけん」に関してはもう一つ気になる資料が有りますので紹介しておきます。

『あぶらかす』寛永二十年(1643)
ばくち打皆後手に引しばり
 手を握りてはあびらうんけん

カルタに関係するものか断定は出来ませんが、「ばくち打」「握り」はカルタの縁語ですのでカルタを連想させるものである可能性は高いと思われます。もしそうであれば「江戸カルタ」に関する資料としては極初期のものの一つと成ります。

この様に見て来ますと「ウンスン」「ウンケン」共に実質的に「一」を意味しているのは「ウン」で有り、数詞として「スン」「ケン」を付けていると考えるべきでしょう。つまり数語「ウンスン」とは「ウン+スン」であり、「ウン」はポルトガル語に由来するものと考えて間違いないでしょう。それでは「スン」とは何か、これが次の問題となります。「スン」には通常「寸」の字があてられます。先ずは先人の見解から見てみましょう。

これにつきまた愚説を出せば、朝鮮では一親等、二親等というべき所を一寸二寸というておるから、単純にこの呼称を真似て呼んだのでは無いかとの非学術的妄断もして見たいような気もする。

尾佐竹猛著『賭博と掏摸の研究』総葉社書店 大正十年

スンは本来カルタ用語で時代も古く、根源は恐らく馬の寸法を量るに四尺以上は、一寸二寸と称することから出ているのではあるまいか。

山口吉郎兵衞著『うんすんかるた』 リーチ 1961年

両者共に根拠となる資料は示されておらず、仮説以前の思いつきの域を出るものでは有りません。

我々はこの問題をもっと単純に考えています。つまり「寸」とは長さを表す単位としての「寸(一寸=約3cm)」を流用したに過ぎないと思うのです。そのように考えるに至ったのは「寸」と併せて使用される数詞「ケン」との関係からです。江戸期の資料では「ケン」に漢字を充てた資料が無い為断定は出来ませんが、おそらく「ケン」は「間」ではないかと思うのです。近現代の花札を使用する「めくり」系技法に「六百間(ろっぴゃくけん)」というのが有ります。この技法で「間(けん)」とは「点」を意味し、先に六百間、つまり600点を取った者が勝者となります。この「間」は数詞「ケン」が起源で有る可能性が高いと思われます。「間」もまた長さの単位(一間=182cm弱)です。つまり「スン(寸)」「ケン(間)」共に、誰にでも馴染み深い長さの単位として理解可能な言葉なのです。この様な言葉は通常自然発生的に生まれるもので、あえて「朝鮮での親等」「馬の寸法」等といった特殊な用法を持ち出す必要は無いと思われます。当時の「江戸カルタ」の技法の中でも、特にカブ系統といった賭博系技法の中心的担い手だったのは、いわゆる庶民階層と言われる人々と考えて良いでしょう。中でも特に大工等の職人階層が中心的存在であったとも想像されますが、彼等にとっては最も馴染みの深い数詞である長さの単位、「寸」「間」が使われたのでは無いでしょうか。

「うんすんかるた」の語源に関する最後の問題は、何故「うんすんかるた」に「うんすん」という名前が付けられたのかという事です。この難問に対して我々は明解な回答を持っている訳では有りませんが、想像力を駆使して一つのアイデアを紹介したいと思います。先人方の言い回しを拝借して言い表せば、
”予輩が仮に一説を出せば(新村出氏)”
「うんすんかるた」とは「うんすんの札」の有るかるたという意味
”では無いかとの非学術的妄断もして見たいような気もする。(尾佐竹猛氏)”
という事です。ここで言う「うんすんの札」とはカルタの「数標1の札」を指します。「うんすん」とは元々は点数「1点」を意味していますが、同時に「数標1の札」自体をも「うんすん」と呼んだのでは無いかと考えます。直接裏付けと成る資料は有りませんが、傍証として数詞「ケン」を使った例として『続山井』『江戸十歌仙』が有り、ここでは「二ケン」がそれぞれ「あふるの二」「パウの二」の札を指して使用されています。同様に「スン」の場合でも、例えば「イスの1」の札を「イスのうんすん」と呼ぶような用法が有ったのでは無いでしょうか。

ところで「うんすんかるた」と「江戸カルタ」を明確に区別するデザイン上の違いが三つ有ります。一つ目は紋標「ぐる」が有る事。二つ目に絵札「うん」と「すん」の札が有る事。三つ目に「数標1の札」が有る事です。例えば蒔絵等にカルタの絵柄が描かれている場合、この三点の内のどれかが有ればそれは「うんすんかるた」であると判断出来ます。
 この三つの中で、最もデザイン的にインパクトが強いのはどれでしょうか。「ぐる」紋は他の四つの紋標と比較して特に際立った印象は感じられません。「うん」に描かれた福神は確かに内容的には印象的ですが、絵札全体の中でデザイン的には突出した物とは言えません。ちなみに「うん」「すん」という、いかにも取ってつけた様な名称の由来は何でしょうか。単純に考えれば文字通り「取ってつけた」もの、つまり75枚の「うんすんかるた」成立の最終段階において「うんすんかるた」の名称から取ってつけたと考えるのが自然では無いでしょうか。逆に「うん」「すん」の札が有るから「うんすんかるた」と呼ばれたという論理の立て方は、不可能では無いでしょうがあまり現実的だとは思えません。
 最後に「数標1の札」です。あくまで主観的な問題ですが、札の中心に大きく描かれた紋標は視覚的にかなり強烈な印象を受けます。この「数標1の札」こそが「うんすんの札」で有り、この「うんすんの札」を含んだカルタを「うんすんかるた」と呼んだのでは無いでしょうか。

前節からの考察を整理してみましょう。先ず我々は「うんすんかるた」の語源の定説である「ウン・スンモ説」について検討した結果、「ウン・スンモ説」自体十分な検証を受けておらず強力に支持する根拠にも乏しい事を示し、従って「ウン・スンモ説」をもって定説とは認め得ず、一仮説に過ぎないと位置付けました。
 次に「数語ウンスン説」を検討した結果、カブ系統技法の数語「ウンスン」が江戸初期から使用されている事を示し、数語「ウンスン」が「うんすんかるた」の直接的な語源である可能性が高いと考えました。更に「ウンスン」が「1」を表す「ウン」と長さの単位「寸」の組み合わせである事を示しました。
 最後に「うんすんかるた」の語源として「うんすん」とは「数標1の札」をも意味し、それを含んだカルタを「うんすんかるた」と呼んだという新説(珍説?)を提示し、本稿を締めくくらせて頂きます。

公開年月日 2007/10/14


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