江戸カルタ「よみ」分室 壱頁目

〜江戸カルタ技法「よみ」に関する研究室です〜


「よみ」打ち方の研究【壱】
  「よみ」の基本ルールに関する考察

「江戸カルタ」には様々な技法が存在しますが、最も長い期間にわたって、多くの人々に親しまれていたのは「よみ(読み)」技法だと言って良いでしょう。当分室ではこの「よみ」技法に関する様々な問題を検討し、その実態を解明していきたいと考えています。

先ず最初に取り上げるテーマは「よみ」技法の基本的なルールの解明です。「よみ」のルールに言及した資料は幾つか有りますが、最も古いものは例の『雍州府志』に記された次の記述です。

『雍州府志』貞享三年(1686)
人々所得之札數一二三次第早拂盡所持之フタ是為勝是謂ヨミ

読み下すと「人々得る所のこの札、一、二、三の次第を數え、持つ所のこの札を早く拂盡す、是を勝と為す、是を讀と謂う」と成ります。次に少し時代を下ると『教訓世諦鑑』にも良く似た記述が見られます。

『教訓世諦鑑』宝永八年(1711)
さて又九まひ六まひのかずを以て一二三四乃至ないし九十、むま、きりと、よんで勝負しやうぶをなすを、これをバ、よみと云ふ。

両書とも記述が簡潔過ぎてはっきりしませんが、どうやら手札を一、二、三と数上がりに場に出していき、最初に札を出し切った者が勝者と成るという事のようです。
 「よみ」技法に関して最も詳しいのは、寛政年間成立の賭博方法の調査報告書である『博奕仕方』の「よみ仕方」の項でしょう。

『博奕仕方』寛政七年(1795)ヵ
銘々手に持候札を一二三四五六と順に手に持候札打仕廻候方勝に相成申候、
譬は一二と手より下し、三ノ札無之候得は次のものえ相廻し三四と順にて打五ノ札無之候又次のものに廻し次のもの親の手にも五ノ札無之候得は三四と打候ものゝ方え戻り八九十と手札打切候得ば上り申候事

簡潔な内容ながら、ここから幾つかの重要な情報が読み取れます。最初のプレイヤー(親)は数上がりに連続した札を持っていれば、何枚でも続けて出す事が出来ます。仮に手札が一から九までの連続した札ならば、一度に全部の札を出し切る事さえ可能に成りますが、出せる札が無ければパスと成り、札を出す権利は次のプレイヤーに移ります。上の例では一二と二枚出して次のプレイヤーに回しています。次のプレイヤー(胴二)はその札を持っていれば出します。更に連続した札が有れば出す事が出来ますが、もしも最初の札を持っていなければ一枚も出せずにパスと成ります。上の例では三四と二枚出し、五の札をパスし次のプレイヤー(胴三)に権利が移ります。しかし、もしこのプレイヤー(胴三)も次のプレイヤー(大引)も、更には最初のプレイヤー(親)も五の札を持っていない場合、つまりある数の札を四人全員が出せない手詰まりの場合にはどうするのでしょうか。上の例を見ると札を出す権利は最初に五をパスした胴二に戻り、八の札から九十と続けて出しています。つまりこの様な場合には最初にパスしたプレイヤーが任意の札を出せると考えられます。ただし、理由は後述しますが、全く自由に好きな札を出せる訳ではなく、パスした札よりも大きな数の札を出さねばならないという制限が有ったのでは無いかと推測しています。

『当世武野俗談』宝暦七年(1757)
或人おりつに向ひ其元かるた上手と申候得ども凡かるたは繪付次第にて下手も上手も入まじきかたとへ上手にても馬が十にもなるまじといひければおりつ答て
(中略)
たとへば二三打て次へ四とやる其四なくて返るかへざれば馬を打てきりとやる四の替りに馬をはなすは馬を四にも打なり

このケースでは四の札をパスし、自分に戻って来た時に馬切と出しています。

『川柳評万句合勝句刷 宝十梅3』宝暦十年(1760)
馬留メてきり打拂ふ下手のよみ

四人全員がパスするケースは勿論誰もその札を持っていない場合に起きますが、もうひとつ誰かがその札を持っているにもかかわらず、作戦としてわざと出さない場合にも起こり得ます。「よみ」技法では「出せる札を持っていたら必ず出さなければいけない」というルールは無かったのではないでしょうか。出せる札を持っていながら戦略的にパスするケースが有り、これを「留める」と言ったようです。例えば手札に「馬」が一枚有り、残りの二枚が既に場に出されている場合、この「馬」を出さないで、つまり「馬」を留めれば残りの全員がパスするのは明白です。では何故「馬」を留めて「切」を打ち払うのが「下手」な手なのでしょうか。又、『当世武野俗談』の「四」の札を留めて「馬」「切」と打つのが何故「上手」な手なのでしょう。この答えをご説明する為には実はもうひとつ別の重要なルールについて確認しておく必要が有ります。

出し札の数が順に上がって行き、最高位の「切」迄来るとどうするのでしょうか。これには、@一の札を出す、A好きな札を出せる、と二つの可能性が考えられます。幾つかの資料を元に検討して見ましょう。

咲顔福の門えがおふくのかど』享保十七年(1732)
あのおしごろの乞食こじきが、五うちからかるたの素虫すむしして見せるハ、どふしたこゝろじやな。ハテ あれハつんともらひがなふて、むしがかぶるほどにくれよといふ事であろ。イヤイヤきりのないむしじやほどに、たすけてくれといふ事じや。

「切の無い虫」という表現は様々な作品に登場します。

咲分五人娘さきわけごにんむすめ』享保二十年(1735)
今のきつい心をまきなをして。切のない虫持たと思ふて。おたすけなされてやらしやれとすきの道にてかるたによそへてわびけれど。
世間娘気質せけんむすめかたぎ』享保二年(1717)
むかし玄宗皇帝げんそうくわうてい時代じだいには。万民ばんみん女子をもほくることをたつとみ。男の子がむまれるは切のなひかるたに虫持むしもつた心地して。人のおたすけを待てゐるばかりぞかし

最後はズバリ簡潔に

『蘭石ら評一枚摺』宝暦三・五年頃(1753-1755)
切なしのひんぽどつらきものはなし

手札に「虫(ぴん)」を持っていて、しかも「切」の札が無い場合が「切の無い虫」です。それが何故それ程辛く、人の助けを乞わなければならない状況なのでしょうか。

『俗なぞ(仮題)』宝暦頃(1751-1764)ヵ
かるたうつナアニ
ゑびずるの木ととく
心はきらねバむしがされぬ
今歳笑ことしわらい』安永七年(1778)
 いかのぼり
アレ若殿様わかとのさま。御らふじませ。いろ/\な凧があかりました。ヲヽあの嶋たこハ何まひてあろふ。ハイ、廿四五まひで御座りませふ。こちらハはんにや奴凧やつこたこ、四ツ谷とんびにだるまたこ。アノずつとうへに、よくのしているのハ何たこじや。ハイあれハ下々しも/\て、はるの内たのしミます、かるたと申ものゝうちにひんと申のが御ざります。その一凧ひんたこと見へます。ウヽ、きりがなふてよくあがつた

つまり「切」の札を持っていないと「虫(ぴん)」の札を出す事が出来ない、或いは出すのが極めて難しいという事です。もしも「よみ」のルールが「切」の次には必ず「一」の札を出すというものならば、全ての数の札を出せる機会は完全に均等に成りますのでこのような状況は起こり得ません。一方、「切」の後には好きな札を出せるというルールならば、自分で「切」を出さない限り「一」の札を出すチャンスは有りません。まさに「切の無い虫」とは絶望的な状況と言えます。ちなみに「虫」程では無いにせよ、「二」「三」といった小さな数の札もまた出しにくい札だと言えます。

軽口御前男かるくちごぜんおとこ』元禄十六年(1703)
 昔を今によみがるた
今といふいま、赤裸にうちなされ、そで乞のかしまだち。ある門口かどぐちにたちより、かるたの二を貳まいならべていたりければ、旦那だんな見て、「久三、あの非人は何をするぞ」「あれはたすけてくれいと申事で御座ります」「しからばなんでもとらせい」。久三やがて、むし一まいに銭壹文そへて非人貳を壹まい庭へすてゝ、「これでうかみました」。

ところで度々出て来る「お助け」「助けて」という語が気になります。「虫」や「二」の札を持った手の悪い競技者が開き直り気味に「この手ではお手上げなので、なにとぞお助けを」と泣き落としに出るといった単なる座興的なものなのか、或いは手札を公開し「お助け」を宣言する事によって何等かの救済措置が取られるといったルール上の取り決めが存在した可能性も考えられますが、詳細は不明です。

以上長々と述べて来ましたが、結論として「よみ」のルールでは「切」の後には好きな札を出せると考えて良いでしょう。実はこの事をズバリ表している資料が有ります。

『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
されば、きりといひては何にてもすきをいだす。

続いて、説明を保留していた「よみ」のルールに関するもうひとつの問題について考えてみたいと思います。少し前の所で、ある数の札を誰も持っていないか、又は持っていても敢えて出さない「留め」の作戦を取り、パスが四人続いた場合の次の手に関して「全く自由に好きな札を出せる訳ではなく、パスした札よりも大きな数の札を出さねばならないという制限が有ったのでは無いかと推測しています。」と書きました。そう考えるには幾つかの理由が有ります。

この問題を保留していた理由は、「切の無い虫」の問題を理解しておいて頂く必要が有ったからです。もしもルールが「自由に好きな札を出せる」ならば当然「虫」を出しても良い事に成ります。そうすると手に「切」を持っていなくても「虫」を出すチャンスが大幅に増す事に成りますので、「切の無い虫」が必死に「お助け」を願うような絶体絶命の状況とは言えなくなってしまいます。
 又、「よみ」技法の基本原理は昇順、数上がりに札を出して行くというのが原則です。唯一「切」迄至った場合にのみ低い数に移れるとするのが自然だと思われます。更に情況証拠として既出の「留め」に関する文献資料の記述を確認して見ましょう。 

『博奕仕方』寛政七年(1795)ヵ
譬は一二と手より下し、三ノ札無之候得は次のものえ相廻し三四と順にて打五ノ札無之候又次のものに廻し次のもの親の手にも五ノ札無之候得は三四と打候ものゝ方え戻り八九十と手札打切候得ば上り申候事
『当世武野俗談』宝暦七年(1757)
たとへば二三打て次へ四とやる其四なくて返るかへざれば馬を打てきりとやる四の替りに馬をはなすは馬を四にも打なり
『川柳評万句合勝句刷 宝十梅3』宝暦十年(1760)
馬留メてきり打拂ふ下手のよみ

『博奕仕方』では「五」を留めて次に「八」を出しています。同様に『当世武野俗談』では「四」を留めて「馬」、『川柳評万句合』では「馬」を留めて「切」と全て留めた札より上の数の札を出しています。これらの理由から「パスした札よりも大きな数の札を出さねばならない」というルールを支持したいと考えます。ただしこのルールでは、もしも留めた札よりも大きな数の札を持っていない場合にどうするかという問題が残ります。確証は有りませんが、次の競技者に札を出す権利が移ると考えておきます。

ここでもうひとつ、保留していた問題の回答を示しておきましょう。『川柳評万句合』の「馬留メてきり打拂ふ下手のよみ」。何故これが下手な手なのかを考えてみましょう。手札が「馬」「切」の外に例えば「五」のような孤立した札である場合、「馬」を留めるメリットは全く有りません。普通に「馬」「切」と出せば次に「五」を出して三枚打ち切る事が出来ます。しかし「馬」を留めてパスが一巡し、ここで「切」を出し続いて「五」を出しても手元に「馬」が残ってしまいます。全く下手な手と言わざるを得ません。
 次に『当世武野俗談』の例を見てみましょう。手札は「二」「三」「四」「馬」「切」の五枚で、残りの二枚の「四」は既に場に出されています。ここで普通に「二」「三」「四」の三枚を続けて出してしまうと続く札が有りませんので、手番は次の競技者に移ってしまいます。しかし「二」「三」の二枚を出し、「四」を留めて自分の手番に戻った時に「馬」「切」と出せば次に残った「四」を出して五枚全てを一度に打ち切る事が出来ます。まさに「上手」の手と言えます。

今回検討する、「よみ」のルールに関する最後の問題は、親の初手、最初の一枚目の札の出し方の規則についてです。ここでも@必ず「一」の札から出す、A好きな札を出せる、と二つの可能性が考えられます。『雍州府志』『教訓世諦鑑』『博奕仕方』の記述を見ますと何れも「一」の札から打ち始めていますので、最初は必ず「一」から打ち始めなければならない様にも見えます。この場合、もし親の手に「一」の札が無ければ次のプレイヤーに打ち始めの権利が移る事に成ります。勿論この様なルールでも特に不都合は無く、ゲームとして成り立ちます。しかし実際のルールは、Aの好きな札を出せるというもので有ったと考えて良いと思います。根拠となる資料をご紹介しましょう。

『雨中徒然草』明和七年ヵ(1770)
一九  二十 三馬 四切
 一より九迄揃有を一九と云
 二より十迄揃を二十と云
 三より馬迄揃を三馬と云
 四より切迄揃を四切と云

一八の切 二九の切
 おやて打きり
 一より八迄揃イ切あれ一八の切と云
 二九の切も同し心なり

『雨中徒然草』については次章以降で詳細に検討していきますが、一言で言えば「よみ」技法の「役」についての手引き書です。「一八の切」「二九の切」の説明として「親で打ち切り」と有るのにご注意下さい。「親の打ち切り」という言葉は様々な文献に登場しますが、親が初手で九枚の手札を一度に出し切る事を意味しています。

「一より八迄揃い、切有れ(ば)一八の切と云う。二九の切も同じ心なり。」

 もしも必ず「一」から出すというルールならば「一八の切」の場合、「一」から「八」迄一度に出せますが「切」一枚が残ってしまいますし、「二九の切」に至っては一枚も出す事が出来ません。一方、任意の札から出せるというルールを取れば、共に先ず「切」を出し、続いて残りの八枚を一度に出す事が出来ます。つまり「親で打ち切り」が成立する訳です。

「一九」「二十」「三馬」「四切」は数の連続した九枚の手札で、何れも多くの資料に登場するお馴染の役です。任意の札から出せるというルールを採用すれば全て「親で打ち切り」が可能な手と成ります。一方、必ず「一」から出すというルールに従えば、この中で「一九」のみが一度に札を打ち切れる手と成ります。と言うよりも、あらゆる手札の組み合わせの中で唯一「一九」の場合にのみ「親で打ち切り」が可能と成る訳です。そうすると「親で打ち切り」という現象の発生確率は極めて低いものに成るはずです。しかし資料事実としては「親で打ち切り」は様々な作品にかなり頻繁に登場しますし、最強特別な手であるはずの「一九」のみを、格別に重要視していたような事を示す資料も特に見当たりません。

もうひとつ『雨中徒然草』本文から別の例を見てみましょう。

『雨中徒然草』明和七年ヵ(1770)
五くるま
 [コップのぴん]一
 [釈迦十]   五
 [青馬]    三
 [青切]    三
 [青二]    五
 [太皷二]   四
 [青三]    三
 [あざ]    あつかい
五六七八九十馬切と八まへ揃て右にしるし置く八まへの内ひんでとまれハ一役十ハ五やく切馬三とたん/\とくらいをつけて取なり

「五六七八九十馬切と八枚揃て、右に記し置く八枚の内、ぴんで止れば一役、十は五役、切、馬、三と段々と位を付けて取なり」

 「五車」役とは「五」から「切」迄の連続した八枚ともう一枚は何の札でも良く、「五」から「切」迄を出し、最後に残りの一枚を出す事により「親で打ち切り」と成る訳です。この最後の一枚の札の種類によって役点が決められています。この中で「一(ぴん)」で打ち止めの場合も定められていますので、たとえ手に「一」の札を持っていてもそれを出さずに、別の任意の札を出して良い事が明らかです。

最後にこれまで検討してきた「よみ」のルールを整理しておきましょう。

【「よみ」の推定基本ルール】

ルールの中にやたらと「任意」という言葉が出て来るのにお気付きでしょう。実はこの任意性こそが「よみ」技法の醍醐味では無いかと思われます。例えばルールを少し変えてみましょう。

試しにこの様なルールでゲームをシュミレートしてみて下さい。ほとんどの手が強制的と成り、機械的に進行するのみで全く面白味の無いゲームに成る事がお解り頂けると思います。そこには技術や作戦の入り込む余地がほとんど無く、手札の善し悪しのみが勝敗の分かれ目と成ります。しかし実際の「よみ」技法は、ルールに適度な任意性を織り込む事により、作戦や駆け引きを必要とするかなり高度な、そして面白い技法で有ったと断言出来ます。この点、今まで多少誤解されていた感が有り、例えば山口格太郎氏は次の様に書いています。

「よみかるた」はあたかも我々が子供の時覚えたトランプの「ダウト」の技法に似ている。とにかく江戸時代の人々が興じたかるたと、明治以後に日本に入って来たトランプとは同一起源であるから似た遊戯法があっても当然であろう。芭蕉の元禄五年(1692)二月十八日付曲水宛の書簡にも「ひとへに少年のよみがるたにひとし」とあるように、最も簡単で、子供でもできる技法であったと思われる。

『日本のかるた』保育社刊 1973年

確かに「よみ」のルール自体は簡単で子供でも理解出来ます。しかしルールが簡単な事と、ゲームが単純な事とはイコールでは有りません。芭蕉の文脈では、熟考もせずにただ淡々と進めていく様子を「子供の打つよみかるた」の様だと比喩しているもので、逆に言えば本来の「よみかるた」は作戦と技術のいるものであり、子供では「上手に」打つのは難しいという事を表しています。重ねて強調しておきます。「よみ」技法のルール自体は簡単なものですが、決して単純なゲームでは有りません。上手にプレイする為には戦略や駆け引きを必要とする、高度な、しかも面白いゲームです。そうで無ければ長きに渡って「江戸カルタ」の中心技法として遊び継がれる事は不可能で有ったに違い有りません。

公開年月日 2009/03/25


「よみ」打ち方の研究【弐】
  特殊ルール@「あざ立て」考

もしも48枚のカルタ札の中で人気ナンバーワンを選ぶとしたら、間違いなく「あざ(パウの1)」が選ばれる事でしょう。江戸期の文献に登場する回数を見ると「あざ」の断トツ一位の座は揺ぎ無く、完全に他の札を圧倒しています。ちなみに二位以下を挙げるとすれば、かなり離れて「釈迦十(パウの10)」次いで「太鼓二(オウルの2)」あたりに成りますでしょうか。

『鷄合』享保九年(1724)
あざ様がござらにやにぎり火が消る

この様に「あざ」を特別視する傾向は、江戸後期に大ブームと成った「めくり」技法の登場以前、つまり江戸カルタの中心技法が「よみ」であった時代において特に顕著に見られますが、それには理由が有ります。一つには「あざ」が「三光」「下三」といった重要な役の構成札と成っている点が挙げられますが、もう一つ、より重大な理由が指摘出来ます。「よみ」技法では「あざ」には他の札には無い特殊な使用法が有りました。それが今回のテーマである「あざ立て」と呼ばれる特殊ルールです。しかし残念ながら「あざ立て」がどの様な一手で有ったかを示す直接的、具体的な資料は存在していません。従って例のごとく断片的な資料を組み合わせる事でその実体に迫って行こうと思います

「あざ立て」がどれ程強力な一手と考えられていたかと云うと

『雲皷評万句合』元文二年(1737)
あざをたてねハまけに成よミ

ここまで言い切るのはちょっとオーバーな気もしますが、少なくとも自分の手札に「あざ」が有ると無いとでは勝負を優位に進める上でかなり大きな差が有ると考えて良いでしょう。従って札が配られての最初の関心事は「あざ」が自分に来て居るかどうかです。

『川柳評万句合勝句刷 安六智5』安永六年(1777)
あざがいつたかにこにことさぐるなり

しかしあからさまに嬉しそうな表情をすると「あざ」が来た事がばれてしまい、周りから警戒されてしまいますので気を付けましょう。「よみ」でもやはりポーカーフェイスが重要です。

『俳諧 塗笠』元禄十年(1697)
笑ひけり・アサニギッたのがしれるヨメ

白熱した競技が進行し、いよいよ「あざ立て」が実行されると場には一瞬にして緊迫した空気が流れます。

『忍び笠』享保八年(1723)
 此次になんであらふと思召
あざをひねりて座中さはがす

「あざ立て」が決定打となり、勝利が確定するとつい大喜びしたくなるのが人情でしょうが、あまり度が過ぎると他のプレイヤーの反感を買うことに成りますので気を付けましょう。

『川柳評万句合勝句刷 明五梅3』明和五年(1768)
娵のよミきのとくそうにあざを立テ

「娵」は今は殆ど使用されない字ですが「嫁」と同字です。ちなみに古川柳特有の取り決めで「嫁」は慎み深く聡明と類型化されていますので、内心では「ヤッター」と叫びつつも決して表には出さず、申し訳無さそうに「あざ」を立てる訳です。

さて、「あざ立て」による劇的な勝利の余韻に浸る間も無く次の勝負の用意が始まりますが、そんな折りに有りがちなシーンをひとつ。

『川柳評万句合勝句刷 明二梅3』明和二年(1765)
又こいと内義ハあざの口をすい

「口吸い」は口づけ、接吻の事です。何故かテレビや映画の時代劇ではキスシーンというものがあまり出て来ませんのでイメージしにくいかも知れませんが、実際には「口吸い」は愛情表現として普通に行われていた行為です。「あざ」は元々は龍の絵柄ですが次第に簡略化され、江戸後期にはかなり崩れたデザインに成っていたと考えられています。それでも本句の作られた明和期のカルタでは、龍の口の部分を認識出来る程度には原型が残されていたのでしょう。

ところで「あざ」の口を吸おうが吸うまいが、再び「あざ」が自分の手に入る確率は四人競技の場合で25%、平均すれば四回に一回は自分の手に「あざ」が入って来るはずです。しかし実際には計算通りに行かないのが勝負というもの、時には理論上の確率を遥かに越えた頻度で「あざ」が配られる事も有ります。これを世間では「ツキ」と呼びます。この「ツキ」が自分に味方してくれる時は良いのですが、逆に「ツキ」に見放されると悲惨です。

『うつわの水』安永二年(1773)
づぶぐさり宵からあざを見ぬと言

これまで見て頂いた資料から「あざ立て」が大変に強力な一手で有り、誰もが自らの手札に「あざ」が入る事を願っていた事を感じ取って頂けたかと思います。ただし「あざ立て」が常に、如何なる場面でも強力な手に成ったかと云うと必ずしもそうでは無かった様です。「あざ立て」は或る特定の局面で機械的に発生する様な性質のものでは無く、あくまで競技者の意志によって任意の場面で発動させるもので有った様です。従って「あざ立て」を如何に効果的な場面で使用出来るか否かが勝敗を左右する大きなポイントだと言えます。もしも競技の当事者がその様な局面に気が付かない場合、外野から助言をしたくなるのも人情でしょう。

『とはず口』元文四年(1739)
うしろから・あざ立ちやといふあを二さい

逆に、まだ勝負の山場とは言えない様な場面で早々と「あざ立て」を使ってしまうと、これも一言意見をはさみたく成ります。

『削かけ』正徳三年(1713)
あたら事・また手があろあざはまちや

「何てこった。まだ他に打つ手が有るだろう。あざ立てはもうちょっと待ちなさい。」という事に成り

『川柳評万句合勝句刷 明五鶴3』明和五年(1768)
らちも無ィ所へ内義ハあざをたて

と手厳しい批評を受ける事と成ります。かといって慎重に成り過ぎて「あざ」を出し渋ったあげく、伝家の宝刀である「あざ立て」を使う前に他の競技者に上がられてしまっては元も子も有りません。せっかく「あざ」を手に持ちながら、「あざ立て」を使うチャンスの無いままに負けてしまう悔しさは容易に想像出来ます。次の句に出て来る「あざの持ちぐさり」は江戸時代に広く使用された慣用句で「あざの持ち殺し」とも言います。現在使われる「宝の持ち腐れ」と同じ様な意味だと思って頂けば良いでしょう。

『丹水評前句付集』享保頃(1716-1736)
 かこひこそすれ/\
二十越娘はアザの持ぐさり

「あざ」が自分の手札に入るのは非常に喜ばしい事であるのは勿論ですが、その反面「あざ立て」をどのタイミングで、どの様に使うかに頭を悩ますという贅沢な問題を抱える事にも成ります。次にご紹介する句は、この様な状況を詠んだものと思われます。

『生鱸』宝永元年(1704)
 たてかねにけり/\
あざコミのかるたハ結句ケツク打まよふ

前句の「たてかねにけり」が作戦を立てられないと云う意味と、「あざ」を立てられないと云う意味の二重に取れるあたりがなかなか秀逸です。

この辺で、ここ迄にご紹介した一連の資料から浮かび上がって来た「あざ立て」の特徴について確認しておきましょう。

これらの点を踏まえて更に具体的な内容を検討していきます。先ず上記の二点目について考えて見ましょう。「よみ」技法の基本的なルールは、場に直前に出された札より一つ上の数の札を出すというのが原則です。「あざ」は本来数標1に属する札ですが、「あざ」以外の数標1の札が「虫」や「つん」等と呼ばれるのに対して明確に区別されています。「虫」は既述の「切の無い虫」の通言の通り、打ち出せるチャンスが少ない為に「あざ」とは逆に厄介物扱いされています。「あざ」が「よみ」技法の原則に反して何時でも打ち出せるという事は、別の言い方をすれば「あざ」は全ての数の札の代用に成れるという事を意味します。それを証明する資料をご覧下さい。

当世武野俗談とうせいぶやぞくだん』宝暦七年(1757)
下手は海馬アザを二にも三にも打せ上手は海馬アザはあざに打釋迦は十のかはりに打ず釋迦の塲にて打事なり

ここで「二にも三にも」と言っているのはあくまで例として挙げているだけで有り、勿論その他の数としても打てると考えるのが自然でしょう。尚、この資料については本稿の後半でもう一度検討します。

『十能都鳥狂詩』元禄十三年(1700)
軽板かるたあざといふあり。いちよりじうまてにつかはずといふ事なし。
(中略)
役者やくしやあさといはんもむへならすや。野夫やほかたはらより卒然ひよつなんしていはく。けにつゝめとも一むしの。よりあまれる三まいもの。四の五のと六つかしく。七つ八つ九重こゝのえの。十のころまてつとめられしかとも。むまにならぬはこりや歩道かちみちにあらさるや。それこそそっりや七三しちさんの。あはせてみれは十能しうのうの。たけをはしらてひねり見て。むまあしとの落書らくかきにも。いひけされぬは御手柄おんてからさてきりにいたりてはとふじやといふ。きりにいたりてそう座中さちうのこらすおくる逢坂あふさかの。せきのひかしへくたられし。これ此人このひとの一まいきり。さうようさまへのおいとまこひとしかいふ
真成曲輪錦さねもりくるわのにしき』享保二十年(1735)
しうかるたあざ一から十迄うたがひの起請文きしやうもん

これらの記述は「あざ」が他の数の札の代用に成る事を暗示している様に思われますが、気になるのは「一から十まで」と限定されている点です。この問題を検討しましょう。

『十能都鳥狂詩』の「かるたにあざという有り。一より十迄に使わずという事なし」並びに『真成曲輪錦』の「かるたあざ一から十迄」という記述を文字通りに解釈すれば、「あざ」は「一」から「十」迄の札の代りに成るが、十一、十二に相当する「馬」「切」の二枚の代りには成らないという事に成ります。しかしこの様に中途半端に限定的な規定には何となく違和感を感じますし、そうすべき合理的な理由も思い浮かびません。「あざ立て」が強力な一手で有るという大前提から考えても、やはり「あざ」は全ての札の代りに成る万能札だと考える方がより自然だと思われます。

平安城細石へいあんじょうさざれいし』正徳二年(1712)
かるたのあざは万のふの。新小判とぞもてはやす是日の本の宝なれ。

実際『十能都鳥狂詩』の後半部分では「一」から「切」までの全ての札を文中に織り込んでいます。これを見ても「あざ」は「一」から「切」迄の全ての札に代れると考えた方が良いのでは無いでしょうか。では「一から(より)十まで」という記述が間違いなのかというと、そういう訳では無いと思います。考えてみれば「一から十まで」というのは「最初から最後まで」とか「全て」という意味で使用される通言で有り、例えば「その件については一から十まで知り尽くしている」という風に現在でも一般的に使われている言い回しです。つまり「一から十まで」という記述は、カルタの「一」の札から「十」の札までを限定している訳では無く、むしろ「一」から「切」までの全ての札を指していると考えられます。

次に検討するのは「あざ立て」に続く次の一手に関する問題です。もっとも厳密には「あざ」に続く一手までを含めた一連の手順をもって「あざ立て」と呼ぶべきなのかも知れません。これには幾つかの可能性が考えられますので検討してみましょう。

この場合、「あざ立て」の場面が低い数であればある程次の一手の選択肢が多くかなり強力な手と成り、逆に場が高い数の時に行使すると選択肢が狭まり、それだけ「あざ立て」効力が弱まる事に成ります。従ってどのタイミングで「あざ」を立てるのが最も効果的か、競技者の洞察力が問われる事に成ります。これらは繰り返し述べて来た「あざ立て」の特徴に合致していますので、D案も有力な候補と考えて良いでしょう。

一方、C案の方が取り得る選択肢がより多く、より自由度の高い強力な手で有る事は間違い有りません。この案では「あざ」に続けて好きな札を出せますので、場の数が低いか高いかは「あざ立て」の有効性とは無関係だと感じられますが、良く考えてみるとそうとも言い切れません。
 「よみ」技法の基本ルールでは常に場の数より上の数の札を出す事が義務付けられており、唯一「切」に達した場合のみ低い数に戻る事が可能です。もしも例外的に「あざ立て」によって、出せるチャンスが少ない低い数の札を出せるとすれば、特に手札に「切」を持っていない場合には戦略的にかなり強力な手段と成ります。しかし、もしも場の数が「一」や「ニ」といった低い数の時に「あざ立て」を使うと当然次はそれより高い数の札を出す事に成りますが、良く考えて見るとその札はあえて「あざ立て」を使わなくても、自然な競技の流れの中で出せるチャンスが充分に有る札です。つまり比較的高い数の場面で行使する方が「あざ立て」の特性をより有効に活用出来るという訳です。

C案とD案のどちらがより適切なのかを判断する一つの材料が浮かび上がってきました。あくまでも原則としてですが、D案では場の数がなるべく低い場面で「あざ立て」を使う方が明らかに効力が有り、一方C案では比較的高い数の場で「あざ立て」を使うのが効果的で有り、低い数で使うのは得策では無いと言えます。勿論これはあくまでも原則で有り、個々の局面においての最善手とは無関係ですが、一応この原則を元に資料事実と照し合せて見ましょう。

廣原海わだつうみ 十八篇』元禄十三年(1700)
 惜さうな皃/\
四車の内からアザを二に立て

前句の「皃」は「顔」の異字体です。又「四車」は「よみ」技法の役名の一つであり、詳しくは別の機会に論じる予定ですが「一九」「二十」「三馬」「四切」の四つの役の総称ではないかと考えています。

『誹諧蝉の下』寛延四年(1751)
二に立つアザと成りし囲われ

「囲われ」は一般的には「お妾」「二号さん」の事ですが、古川柳では多くの場合、僧侶(ほとんどの宗派では妻帯が禁じられています)の外妾を指して使われます。

『俳諧 清書帳』享保十年頃(1725)
 そろり/\と冷て来る也 呼屋の娘二に立る蠣

「呼屋」はあまり聞き馴れない言葉ですが『近世上方語辞典』に拠りますと

官許の遊廓で、囲(かこい)女郎を呼び迎える青楼をいい、太夫・天神は呼ぶことを許されない。芸妓は呼べる。また一般の岡場所(上方で島という)では、茶屋を呼屋ともいう。

と有り、上方特有の制度で格式の高い太夫や天神を呼ぶのを「揚屋」、ワンランク下の囲女郎を呼ぶのが「呼屋」と区別していた様です。

三句に共通するのが「二に立てるあざ」という言い回しですが、先ず「二に」「あざを立てる」という語の具体的な意味を検討しておきましょう。これには二通りの解釈が成り立ちます。

資料が少ない為に断定は出来ませんが、おそらく後者の案の方が有力かと思います。「あざ」を「二」の代りとして使うのは、実質的には最も低い数での「あざ立て」の行使だと言えます。何故なら「一」の代りとしての「あざ立て」というのは、おそらく禁止はされていないでしょうが極めて非現実的な選択だからです。「一」を出せるのは場の数が「切」の場面ですが、基本ルールではこの場面で自由に好きな札を出せると想定していますので、ここで大切な「あざ」を使うのは全く勿体ない一手だと言えます。従って「あざ」を「二」として使うという事は最も低い数での「あざ立て」の行使という点で意味が有りますが、「三」として使うのでは中途半端な感が否めません。

さて、ここにご紹介した三点の資料の他には「○に立てるあざ」という様な表現で、「二」以外の具体的な数字を挙げて使用いる例は見当たりません。おそらく「二に立てるあざ」が一種の慣用句として使われていたのだと思われます。つまり前にご紹介した「切の無い虫」が危機的、絶望的な状況を意味して使われるのと同様に、「二に立てるあざ」も特定の意味を持って使用されていたのだと思います。では具体的にはどの様な意味を持っていたのでしょうか。手懸りとなる三句は共に超難句で正確な句意を掴みかねますが、とにかく検討して見ましょう。

最大の手懸りは一句目です。「四車」という強力な役を持ちながら「あざ」を「二」に立てる。これに対して前句は「惜しそうな顔」です。更に二句目の「呼屋の娘」、三句目の「囲われ」の語句、これらから受ける印象はどちらかと言うと否定的、消極的なものであり、「勿体ない」というニュアンスに近いのでは無いでしょうか。あくまでも印象の問題ですので、「そうは思わない」と否定されれば反論する術は有りませんが、おそらく多くの方に同調して頂けるのでは無いかと思います。残念ながらとても論証と呼べる様な代物では有りませんが、C案を支持する一つの根拠と言えます。

ここで前に予告していた『当世武野俗談』の内容を再度検討したいと思います。

下手は「あざ」を「二」にも「三」にも打たせ、上手は「あざ」は「あざ」に打ち、「釈迦」は「十」の代りに打たず、「釈迦」の場にて打つ事なり。

実はこの一文の解釈にはかなり悩まされました。特に難解なのが「あざはあざに打ち」という部分で、最初は「あざ」を「一」として使う事と考えました。さすが名人、「あざ立て」の威力に頼らず「あざ」を普通の「一」の札として使えば良い、それでこそ真の名人であるとでも言うのでしょうか。しかし、よくよく考えてみればこれはあまりにも無謀な戦略では無いでしょうか。前章の「留め」についての部分で引用した様に、おりつさんが述べているのはあくまで実践的な技術論なのに、突然ここで無謀な精神論を持ち出すのは不可解です。やはりここもストレートに上手な打ち方を述べていると考えた方が良いでしょう。
 もう一度引用文を読み直して見ると、問題の前半部は後半部の「釈迦は十の代りに打たず、釈迦の場にて打つ事なり。」とで一対を成している事に気付きます。「釈迦」は「釈迦十(パウの10)」と同義ですので数標としては10に属する札ですが、その「釈迦」を「十」の代りに打たずに「釈迦の場」にて打てと述べています。「釈迦の場」とは本来「釈迦」を打つべき場面、最も「釈迦」を有効に使える場面といった意味でしょう。同様に「あざはあざに打ち」も「あざはあざ(の場)に打ち」という意味で、「あざ」を最も効果的な場面で使えと言っているのでは無いでしょうか。ここ迄思い至れば「下手はあざを二にも三にも打たせ」の部分も含めて全体の意味が明白に成ります。前に述べた様に「あざ」を「一」として使うのは全く無駄な選択ですので、実戦では「二」が実質的に最小の選択で有り、次いで「三」と成ります。おりつさんが言いたかったのは、下手な競技者は「あざ」を「二」や「三」といった低い数の場面で使ってしまうが、上手な競技者は「あざ」を最大限効果的に使える場面で「あざ」を打つものだという事だと思います。お気付きかも知れませんが、実はここでもC案が間接的に支持された訳です。

ようやく「あざ立て」の正体についての一つの結論が見えて来ました。勿論、限られた資料から導き出された一つの仮説に過ぎませんが、要約すれば「あざ立て」とは自分の手番の時、場の数に関係なく「あざ」を出す事が出来、続いて任意の手札を出す事が出来る一連の手順です。「あざ立て」は上手く使えば、もしも「あざ」を持っていなければ上がりには程遠い手であっても、一手で勝利を決定付ける事が可能な非常に強力な手であると言えます。

最後に、おまけとして関連事項について幾つか触れておきます。

実はあえて触れずにいたのですが、アレ??と思われた方もいらっしゃったかも知れません。先程の「釈迦は十の代りに打たず、釈迦の場にて打つ事なり。」の部分です。これを素直に読む限り「釈迦(釈迦十)」には「あざ」と同様に特殊な打ち方が存在し、少なくとも「十」以外の場面で打つ事が可能で有ったと考えざるを得ません。明確では有りませんが、例えば次の資料もその様な可能性を示しています。

『へらず口』享保十九年(1734)
もどかしひ・シヤ迦であがりじやはんどく殿

今まで見て来た「あざ立て」に関する句と良く似た印象を受けます。確かに「釈迦十」は「あざ」に次ぐ人気を誇る札ですので、何等かの特殊な効力を付加されていたとしてもおかしくは有りません。しかし逆に不思議な事には、上記の二点以外にそれらしき事を匂わせる様な資料が全く見当たらないのです。この問題については新たな資料が見つかる迄は取り敢ず保留とさせて頂きます。

最後に「あざ立て」と良く似た「あざがけ」につて検討しておきましょう。「あざがけ」は近松門左衛門の代表作の一つ『大織冠』に登場する事で良く知られています。

大織冠だいしょくかん』正徳三年(1713)
一まいひねつてひたいにあてかのばくていにとびいれば。そろをわきから二くすじの。三馬あざがけしのぎつゝ火をくはつくはつとかき立て。加番見れ共青もなくあがりもしらぬひらよみに。

もう一例はさらに古い江戸初期の笑話中に見られます。

徒然御伽草つれづれおとぎぐさ』寛文十二年(1672)
  火事くわじいとはぬかるたずき
かるたのよみすきなるひと毎晩まいばんてあひをきはめうちけるに、此者このものあざがけをすきて、百文ひやくもん百文ひやくもんづつかくる。霜月しもつきころ或夜あるよ大風おほかぜ世間せけんさわがしかりしに、それにもかまはず、よみをうつ。其夜そのよあざがけ仕合しあはせあしく、まけるにかゝつてる。やう/\あざにとりあたり、すでぜにをとらんとするとき向側むかひがはよりいでて、「それ火事くわじよ」といふほどに、女房にようぼう子供こどもあわてふためき、「それ穴蔵あなぐら道具たうぐれよ」と穴蔵あなぐらくちをとるに、亭主ていしゆくちもとへんできたり、「まづこのあざをさきれよ」というた。

従来「あざがけ」は「あざ立て」の古称だと考えられており、おそらくそれで良いと思いますが、何事にも理由を述べるのが当研究室の流儀です。この件についても決定的な証拠は見当たりませんので、例によって情況証拠を幾つか挙ておきます。
 第一には単純に語感が良く似ている点。第二には年代的に僅かに重なるものの、「あざがけ」の使用が江戸初期に限られ、以降「あざ立て」のみが使用されている点。第三に『徒然御伽草』での「あざがけ」の使われ方が「あざ立て」と矛盾しない点、つまり「あざがけ」の代りに「あざ立て」を当てはめて読んでも全く違和感が有りません。これらの理由から「あざがけ」は「あざ立て」の古称であると取り敢ず判断しますが、これとて新たに決定的資料が発見されれば簡単に覆される性質のものに過ぎません。

【「あざ立て」の推定ルール】

公開年月日 2010/11/03


「よみ」打ち方の研究【参】
  特殊ルールA「崩し」考

続きまして「よみ」技法のもう一つの重要な特殊ルールで有る「崩し」について検討しておきましょう。先ず次の雑俳をご覧下さい。

『鷄合』享保九年(1724)
お身持がそれでは御家が二が三枚

この句は本稿のテーマである「崩し」に関する知識無くしては解釈不可能で有り、現代の読者にとっては超難句なのですが、裏返せば当時の大部分の読者が「崩し」を知っている事を前提として作られている訳です。句意は「二が三枚」の意味さえ解れば自ずから理解されますので敢えてここでは触れず、本稿の最後でもう一度見て頂こうと思います。

「崩し」の内容に関する直接的な資料としては、幸いな事に『雨中徒然草』の中に記載が有りますので先ずはご覧下さい。

くつし
二くつし
 しらなれハ あつかい
 九まへの内に二三まへあれハ二くつし也尤生もの有てもよし
馬くつし
 同し心なり尤切有てハくすしにならす
白馬くつし
 馬三まへにひん一まへ

(27オ)

ひんくつし
 おやてになし
 ひん三まへ有れハくつし
五まへくつし
 弐まへつゝ弐色と外一枚
 是ハ四人目のゆるし
大引馬ひん
 馬二まへひん二まへなり
まちかい
 馬ひんのうち二まへと一まへ有を云
十ひん
 十三まへひん一まへ也
二まい/\
 ひん二まへに二弐まへにても
二なし三三まへ是ハ二くつし有ゆへねられす

(27ウ×28オ)

ここには全部で九種類の「崩し」が紹介されていますが、実際の所『雨中徒然草』以外の文献に見られるのは殆どが最初の二つ、「二崩し」「馬崩し」に限られています。おそらく江戸初期から共通して行われていた「崩し」はこの二種のみで有り、その他の七種は江戸後期になって「よみ」の役が多様化、複雑化していった中で生まれたローカルルールでは無いかと考えられます。従いまして「白馬くつし」以下の七つについては『雨中徒然草』の解説の方で取り上げる事とし、今回は「二崩し」「馬崩し」の二点に絞って検討いたします。

先ず「二崩し」ですが、その成立条件は「九まへの内に二三まへあれハ二くつし也」と有り、つまり最初に配られた手札九枚の内に「二」の札が三枚有れば「二崩し」に成る訳です。前後に書かれている「しらなれハ あつかい」「尤生もの有てもよし」については説明が長く成りますので、これも詳論は『雨中徒然草』の解説に譲る事とさせて頂き、ここでは簡単にご説明しておきます。先ず前者「しらなれハ あつかい」は、九枚の手札の内三枚の「二」を除く残り六枚の札が全て数札(「一」「十」「馬」「切」の四種の絵札以外の札)の場合に、予め定められたボーナス点を与えられる事、後者「尤生もの有てもよし」は、残り六枚に絵札が含まれている場合で、得点は与えられないものの「二崩し」自体は成立する事を説明している様です。

次に「馬崩し」については「同し心なり」と有りますので「二崩し」と同様に「馬」の札が三枚揃った場合に成立すると考えられます。続く「尤切有てハくすしにならす」は、「馬」が三枚揃っていても同時に「切」を持っていると「崩し」に成らないという事です。この規定も初期から一貫して存在していたものかは疑問で、おそらく後の時代に追加されたローカルルールかと思われます。ただし単なる思いつきによる規定という訳では無く、それなりに合理的な理由が有るのですが、それについては本稿の終りの方で説明いたします。

「よみ」技法では手札に同じ数の札が三枚揃っている状態を「そろ」と呼び、「二崩し」「馬崩し」もこの「揃役」に含まれます。

『俳諧 登梯子のぼりはしご』宝永二年(1705)
 さまの上にもさまを付けり
二のそろはつぶしかないとしぼらるゝ
大福寿覚帳だいふくじゅおぼえちょう』宝永八年(1711)
 うけつながしつ/\
こたつにも馬のそろ程あしがある

「揃役」に関しては『雨中徒然草』の中にも記述が有ります。


 [青三]    三
 [青九]    同
 [青馬]    同
 [青二]    同
 [釈迦十]   同
 同しゑ九まへの内三まへあれハそろ也

「同じ絵、九枚の内三枚あれば揃なり」は先程の「二崩し」に対する説明と良く似ています。[青三][青九]等の部分は、実際にはその札の絵が描かれているのですが、その中に[青二][青馬]も含まれている点にご注意下さい。つまり「二」「馬」の札の三枚揃いは「崩し」で有ると同時に「揃役」でも有る訳です。この事実は「崩し」の行使が強制では無く、任意で有った事を意味するのですが、この件に関しては後で詳しく検討致します。

さて、『雨中徒然草』の記述によって「二崩し」「馬崩し」の成立する条件については確認出来ましたが、残念な事に「崩し」が成立したその後にどうなるのかが書かれていません。おそらく『雨中徒然草』の読者にとってそれは言わずもがなの常識だったのでしょうが、ここから先は他の諸々の資料を元に、自力で解明していくしか無い様です。

「崩し」に関係すると思われる確認済みの最古の資料は次の誹諧です。

『大坂独吟集』延宝三年(1675)
逢坂山なしくづしにやくづすらん
 かるたのまんをくるよしもがな

本句の場合は少し曖昧ですが、四年後の延宝七年以降からは明確に「崩し」と確認出来る資料が多出しますので、おそらく本句も「崩し」を詠んだものと考えて良いでしょう。続いての資料からは「二崩し」の存在がはっきりと確認出来ます。

『当世軽口咄揃』延宝七年(1679)
御鬮ミくじに二が三おなじやうに出たてないか。中/\。それなれば、何ほとおやが打きりたくと二くつしにするほとに、うちきる事ハならぬそといふた。
『阿蘭陀丸二番船』延宝八年(1680)
吉備キビ公がヨミおほせたはコトハリ
 聖武天皇二くづしの跡

「馬崩し」に関しても僅かに遅れるものの、ほぼ同時期に初出します。

『枝珊瑚珠』元禄三年(1690)
(前略)
わたくしか所には馬が三疋御座りますと伝。それはいかなととへは、親祖おやち、つね/\かるた打なからも、むまか三ひきあらは、かならすくすせといわれましたとゆふた。

これらの資料から「二崩し」「馬崩し」の意味するものが、既に江戸時代初期と区分される時代から一般庶民に広く知れ渡っていたと断定出来ます。例えば『当世軽口咄揃』に見られる笑話ですが、現代の日本人でこれを読んでクスリとでも笑える人間がはたして何人いるのでしょうか。一方、当時の読者であり「崩し」を熟知した江戸庶民、つまり町人階層を中心として武士階級の一部、及び裏長屋住みの町衆の一部をも含んだ江戸の幅広い中間層にとってはかなり受けが良かったと見えて、その後同想、類似の笑話が『鹿の巻筆』(貞享三年)、『初音草噺大鑑』(元禄十一年)、『露休置土産』(宝永四年)等に再出されています。更に同じアイデアをそのまま借用した次の様な雑俳まで作られています。

『廣原海 三篇』元禄十一年(1698)
二の三度出る御鬮は二崩し歟

これら中から、最も現代語に近く理解し易いと思われる『露休置土産』に収められた作品をご紹介しましょう。

『露休置土産』宝永四年(1707)
或所あるところに、ばくちずきなる息子むすこあり。たびたびゐけんすれ共聞ず。毎夜まいよかるたうちに行けるを、親人おやじ見付、やがてわきさしをひねくり、をのれを打きらんといふを、ほうほうにげ、せんかたなくて清水きよミづ観音くわんおんへ参、一心にきせいし、扨みくじをとりて、親人まことに打切うちきり給ふならハ、二をたべ。もし又おどしのためならハ三を下されよと信心しんじんをこらし、みくじをふれハ三度ながら二が出ける。是ハぜひなき事かなと、なミだながらに下向げかうせんとせし所に、有がたや観世音くわんぜおん八旬はちしゆんあまりのかくじんけんじ、つげてのたまハく、なんじ、なげく事なかれ。二が三度迄出れハ二くずしなれハ、親の打切ハかなハぬぞ。よろこべ/\。

内容を要約しますと、とあるカルタ賭博好きの息子に対し、それを知った親父は自らの手で切り捨てんと激怒します。息子は親の本心を知る為に清水観世音に詣で、親父が本気で切り捨てようと考えているならば「二」の御鬮を、単なる脅しの為ならば「三」の御鬮をと誓願し鬮を引いた処、三度続けて「二」の鬮が出ます。これは本気に間違いないと打ちひしがれる息子の前に観世音現れ出て告げた言葉が咄しの落ちと成ります。

 「汝、嘆く事なかれ。二が三度迄出れば二崩しなれば、親の打ち切りは叶わぬぞ。喜べ/\。」

「親の(で)打ち切り」は既出ですが、親が初手で九枚の手札を一度に出し切る事を意味するカルタ用語です。通常、親に「一九」「二十」「三馬」「四切」等の手が揃っていた場合、親は一手で全ての札を出しきって上がりと成る為、他の競技者には対抗する手段が有りません。しかし「二崩し」が成立すると「親の打ち切り」を阻止出来る様です。更に、より具体的な内容について次の資料がヒントを与えてくれます。

『露新軽口はなし』元禄十一年(1698)
 はや口にてゑとき
(前略)
是が法然の二くずしの舎利。御おがミあれと、イキをもつかずに申されけれバ、皆人々、にくずしならバ、此開帳巻直セといふた。

「巻直し」は通常「蒔直し」の字が充てられる事が多いのですが、文献にもしばしば登場するカルタ用語です。そもそも「蒔く」とは、競技の始めに札を各競技者、又は場札として場に配る事を言います。

『博奕仕方』寛政七年ヵ(1795)
博奕手合両人より五人に限申候
但五人に候得ば一人ツヽ順に休を入、残四人え七枚ツヽかるた之裏之方を見せ、銘々蒔配り、外にかるた六枚其席之真中え模様を見せ候て
『川柳評万句合勝句刷 安元義7』安永元年(1772)
はあさまがまくと死ニ絵か又たりす

一回の勝負が終了し、次の勝負の為に再度札を蒔く行為が「蒔き直し」です。狭義には勝負が何等かの理由で正常に開始又は終了が出来なかった場合、つまりイレギュラーが発生した場合にその回の勝負を無勝負とし、新たな勝負の為に再度札を配るケースを「蒔き直し」と表現する事が多い様です。これにも色々なケースが有ります。

『博奕仕方』寛政七年ヵ(1795)
四人之内一人悪敷札の者相休、三人にて手合に成打候事も有之又は両人にて打候事も三人共に不承知に候得ば蒔直し申候

勝負に先立ち、各競技者は自分の手札を確認した上でその回の勝負に参加するか否かを表明します。又は「見ずてん」といって手札を見ずに参加表明をする事も可能です。これは「めくり」の場合ですが「よみ」やその他の技法でも同様の手続きが採用されたと考えて良いでしょう。「めくり」技法では通常三人による競技が基本ですが、最低二人の競技者がその回の勝負への参加を表明すればゲームが開始されます。しかし参加希望者が一人しかいない場合には競技不可能ですので、当然その回の勝負は不成立と成り「蒔き直し」と成る訳です。

寓骨牌むだかるた』天明七年(1787)
だん十郎ゑびぞうハあざまるのたちをとりかへし いつたいのかるたをかぞへてミれバおゝひきかちとなりけれども きりと六のふたかミへぬゆへ まつこのかるたハまきなをしにする

このケースでは競技の終了後、得点計算の段に成って札の不足というイレギュラーが発覚し、その回は無勝負として「蒔き直し」とされます。

花東頼朝公御入はなのおえどよりともこうおんいり』寛政元年(1789)
「またのハ大引にて赤蔵ぎなり 赤九のうへにあるをなめていたとじぶくりをいひけんくわになる

「そんならまきなをし/\

このケースは競技の開始前、或いは競技中に競技者Aに不正行為の疑いが有ると競技者Bからクレームが出された場合です。参加者による協議の結果、明らかに不正が疑われる場合には競技者Aに対して何等かのペナルティーが与えられ、逆に不正の疑いは無く全くの言い掛かりだと判断された場合には競技者Bのクレームは却下されます。しかし白黒どちらとも判断がつかない場合、公平を期する為にその回を無勝負「蒔き直し」として事態を収拾します。

この様に「蒔き直し」は通常、競技中に発生した何等かのイレギュラーに際してその回を無勝負とするものですが、『露新軽口はなし』に見られる「蒔き直し」は、これらとは性格が違う様で、「二崩し」が成立すると強制的に「蒔き直し」に出来ると解せられます。つまり「崩す」とは、その回を無勝負として強制的に終わらせる事を意味すると考えられます。

さて、ようやく「崩し」の具体的な内容が明白に成って来ましたので『露休置土産』等に見られたあの小咄の落ちも、今や容易にご理解頂けるかと思います。つまり二の御鬮三枚を「二崩し」に見立て、「二崩し」ならば蒔き直しと成るので親が打ち切る事は出来ない、という訳です。

続いての検討課題は手札に「崩し」が揃っている場合に、それを宣言する事は強制なのか、それとも任意なのかという問題です。この質問の答えは既に示しておきましたが、『雨中徒然草』で「二崩し」「馬崩し」が同時に「揃」役としても記載されていた事を思い出して下さい。この事から「崩し」の行使はあくまで任意で有り、宣言せずに打って出た場合には「揃」役として扱われると考えるのが自然でしょう。更に他の資料からも見てみましょう。

『御伽新二重謎』刊年不明(江戸中期〜後期)
はもトかけて二ぞろにあざいりトとく
心はくずしにもなります

はもと掛けて二揃にぞろにあざ入りと解く。心は崩しにも成ります。」鱧の崩しとは崩し蒲鉾という料理法の略です。鱧には色々な料理法が有りますが、崩し蒲鉾の材料にも成ります。「二揃」は「二崩し」に成りますが、「崩しにも成ります」という表現は崩しに成らない場合も有る事が前提と成ります。つまり「崩し」の行使は義務では無く任意で有る事が確認されます。

このケースの様に「二」の札三枚と合わせて、「よみ」技法において最も重要な札である「あざ」をも持っている場合などでは、「崩し」を宣言して蒔き直しにはせずに勝負に打って出たいと思う事も有るでしょう。勿論「あざ」を持っていない場合でも、敢えて「崩し」を宣言せずに打って出る事も認められていた筈です。そうした場合にどの様な結果に成ったかを見てみましょう。

『誹諧馬だらい』元禄十三年(1700)
いたはしや・まだ二つく(ママ)しをもつてゐる

「まだ二崩しを持っている」というのですから、「二崩し」を持っていながらそれを行使せずに競技が進んでいるのは明らかです。この「まだ」とはどの時点かといえば、普通は競技の進行中に持ち札の内容を明かす事は有り得ませんので競技の終了時、つまり他の誰かが札を打ち切った時点だと考えられます。もしも「二崩し」を宣言していれば無勝負に成っていたのに、結局二の札を一枚も出せないままに惨敗という結果では確かに「いたわしや」という表現がピッタリです。

ここでもう一つ重要な問題を検討しておきましょう。「崩し」の宣言は競技のどの時点で為されるのかという点です。先ず「崩し」の宣言が競技中いつでも可能だとは考えにくいと思われます。何故ならもしそれが可能で有るならば、本句の様に「二崩し」を持ったまま競技終了といった事態は、全く起こり得ない訳では有りませんが普通ならば容易に回避出来る筈です。繰り返し登場する例の「二崩しならば親の打ち切りは無い」というテーマを考えても、おそらく「崩し」は各自に札が配られた時点で直ちに宣言せねばならないと考えるのが妥当では無いでしょうか。そして「崩し」を宣言する者がいなければ競技が開始され、親が初手を打ち出す事に成ると考えられます。例えば次の雑俳をご覧下さい。

『誹諧住吉おどり』元禄九年(1696)
揃うたぞ・二くづしなくば銭をつけ

この句の情況としては親にとても良い手、例えば一手で打ち切りの手や高得点での勝利が確定的な手が揃い、誰も「崩し」を持っていなければこの勝負は貰ったぞ、という勝利宣言といったところでしょうか。もしもここで誰かが「崩し」を宣言すると、今度は彼が一躍ヒーローと成ります。

『新雪みどり』享保十四年(1729)
してやつた・花ゾロちらす馬崩し

「花揃」に関しては別の場所で詳しく検討していますが、九枚の手札が全て青札の場合だと考えています。「花揃」は高い得点が得られるのに加え、同じ数の札がダブっていない為、比較的容易に全ての札を打ち切る事が出来る強力な役です。これを「馬崩し」によって見事に阻止し、蒔き直しに持ち込めば正に「してやったり」の気分でしょう。

最初に「二崩し」「馬崩し」を宣言せずにひとたび競技が開始されれば「崩し」の権利は失われ、それらは「二揃」「馬揃」の役として扱われる事に成ります。最終的に上がり勝てば揃役の役点も加算されますので何も問題は有りませんが、先程の「いたわしや・まだ二崩しを持っている」の様に負けてしまった場合には「崩し」を行使しなかった事を後悔する事に成ります。

『川柳評万句合勝句刷 明三智4』明和四年(1767)
二くづしを打て内義ハ寝つかれす

句意は「二崩し」を行使せずに打って出たのが裏目に出て結局負けに成り、その夜その時の事が思い出され、悔しさの余り中々寝付けずにいるという状況でしょう。打って出た本人が悔しがるのは自業自得かも知れませんが、勝者以外の他の競技者にとっても同じく失点と成りますので「何で崩さなかったんだ」と文句の一つも言いたく成るのが人情でしょう。これも相手が内義の場合は胸の内に仕舞っておくかも知れませんが、相手が「ばあさま」だと遠慮が有りません。

『川柳評万句合勝句刷 安二宮3』安永二年(1773)
ばあさまハくずしを打てしかられる

ところで前の句の内義の場合は、自らの意志で敢えて「崩し」を宣言せずに勝負に出たというイメージが有るのに対し、こちらのばあさまはどうもウッカリ見落としていたのでは無いかと感じられるのですが、いかがでしょうか。

これらの資料を見ると「崩し」の行使は強制では無く、あくまで任意では有るものの、多くの場合は行使するのが得策であると考えられていた様に感じられます。前に引用した『枝珊瑚珠』の小咄しの落ち、「親父、常々かるた打ちながらも、馬が三匹有らば、必ず崩せと言われました」も同じ考えです。では何故原則として崩すのが得策なのかを考えて見ましょう。

「よみ」技法のルール上、同じ数の札を三枚持っているのは極めて不利な手だと言えます。「よみ」では自分の手札を一番早く打ち切った者が勝者と成りますが、同じ数の札三枚を出す為には原則として(「あざ立て」等を考慮しない場合)最低でも三回は自分に番が巡って来る必要が有ります。実際には運良く三回の手番で三枚全てを処理出来るのは稀で、多くの場合は四回から五回ぐらいは必要になるかと思われます。一方、同じ数の札を全く含まない手札の場合、特に全ての札が連続している「一九」「二十」「三馬」「四切」等のケースでは一手で打ち切りと成りますし、それ以外の組み合せの場合でも二回か三回程度の手番での打ち切りのケースも多いのでは無いでしょうか。つまり手札に「揃(同じ数の札三枚)」が有ると勝負の開始時点で既にハンディーを負っている訳ですので、もしもルールとして勝負を避けられるので有れば当然そうするのが得策です。要するに「崩し」というルールの本質とは「揃」を含む不利な手札に対する救済措置で有ると考えられます。

では次に、何故12種類有る「揃」の中で「二揃」と「馬揃」にのみ「崩し」という特権が与えられたのかを考えて見ましょう。気が付くのは「二」が下から二番目の数、「馬」が上から二番目の数の札で有るという点です。先ずは「二崩し」から検討致しましょう。

既に「切の無い虫」についての検討の中で「一」の札が出すチャンスの少ない、処理の困難な厄介な札である事を説明しました。「一」が中々出せないという事は、当然の事ながらそれに続く「二」の札も出しにくい事に成ります。これを題材とした小咄と雑俳を見て頂きましょう。

『軽口御前男』元禄十六年(1703)
 昔を今によみがるた
今といふいま、赤裸にうちなされ、そで乞のかしまだち。ある門口かどぐちにたちより、かるたの二を貳まいならべていたりければ、旦那だんな見て、「久三、あの非人は何をするぞ」「あれはたすけてくれいと申事で御座ります」「しからばなんでもとらせい」。久三やがて、むし一まいに銭壹文そへて非人貳を壹まい庭へすてゝ、「これでうかみました」。
『俳諧 登梯子』宝永二年(1705)
よい嫁子・荷か多イなりケかるた

嫁入り道具の「」が多いのは良い嫁ですが、(よみ)かるたでは「」が多いのは不利で負けになるという意味です。

この様に厄介な札である「二」を三枚も持っているのは、かなり不利な状況で有ると言わざるを得ません。それに対する救済措置ルールが「二崩し」です。しかし何故、更に処理が困難な筈の「一」の札三枚では無く「二」の札なのか、答えは簡単です。「一」が三枚有るという事は、その内の一枚は「あざ」という事に成ります。この場合には「あざ立て」を使って「一」の札一枚を容易に処理する事が出来ますので、さほど不利な手とは言えません。特に親の場合には「一」「あざ」「一」の順に三枚を一度に出す事も可能ですので、逆にかなり有利な手だと言っても良く、従って「一」三枚に対して「崩し」という特権を与える必然性は有りません。よって「二」が三枚の「二崩し」という事に落ち着く訳です。

次に「馬崩し」について考えて見ましょう。実は「切」「馬」といった高い方の数の札も又、場に出すまでに相対的に時間がかかる傾向があると考えられます。時間がかかるという事はその間に他の競技者が先に打ち切り、結果として負けとなる可能性が高い事を意味します。理由をご説明しましょう。

親の第一手としては、明らかに有利な手が他に有れば別ですが、通常は「一」の札を持っていればそれを最初に出してしまうのが得策です。「一」が無い場合には「二」「三」といった比較的低い数の札を処理しようとするでしょう。そこから順次、数手を要してようやく「馬」「切」に達します。同様に自分の手番で「切」を打った競技者も「一」や他の低い札から処理しようとしますので、再び高い数に到達するの迄に数手を要します。従って高い数の札が多いとそれらを全て出し切るのにはかなりの手番が掛かる事に成り、不利な手札だと言わざるを得ません。しかし「切」が三枚有る場合はさほど不利な手で無い事は明らかです。「よみ」の推定基本ルールに従えば、一度自分の手番で「切」を出した場合には続けて残りの二枚の「切」を出し、更に任意の一枚を出す事が可能ですので決して不利な手札では無く、寧ろ有利な手札だと言って良いでしょう。そうしますと数が高いが為の不利益が最も大きいのは「馬」の三枚揃いだという事に成りますので、これに対して「馬崩し」という救済ルールが特権として与えられると考えられます。

ここで本稿の最初の方で予告した問題について検討しましょう。『雨中徒然草』の「馬崩し」の項目で「尤切有リてハくすしにならす(もっとも切有りては崩しにならず)」と書かれていた事を思い出して下さい。つまり「馬」が三枚揃っていても同時に「切」を持っている場合には「馬崩し」には成らないという事ですが、その様な規定が作られた理由を考えて見ましょう。手札に「馬」三枚と「切」を持っている場合、自分の手番で「馬」が出せる場面では続けて「切」を出し、更にもう一枚「馬」を出す事が出来ます。つまり「馬」二枚を一手で処分出来ますので実質的には「馬」を二枚しか持っていないのと同じです。「馬」二枚ではそれ程不利な手札とは言えませんので、不利な手札に対する救済措置という「崩し」本来の意味から外れてしまいます。よって「切」が有ると「馬崩し」を認めないとする規定にはそれなりに合理性が有ると言えます。

「切」を伴わない「馬揃」には全て「馬崩し」を行使する権利が有ると考えられますが、勿論これも強制では無く「二崩し」と同じく任意で有ると考えられます。

『川柳評万句合勝句刷 明元信5』
馬くすしを出女房のすはらしさ

「馬崩しを出る女房の素晴らしさ」これを文字通りに取れば、「馬崩し」を行使せずに果敢にも勝負に打って出るアッパレな女房といったところですが、実はこの句にはもう一つ裏の意味が有りそうなのです。少々寄り道と成りますがご容赦下さい。もう一つ同想の雑俳をご覧下さい。

『湯たらひ』宝永三年(1706)
 かへらぬ事をくどふおつしやる
が来たりや内義の馬で崩す也

両句の主役が何故「女房」や「内義」なのかがヒントと成ります。実は「馬」には女性の月経という意味が有り、江戸時代にはごく一般的な用法でした。「女房」「内義」に「馬」とくれば、真っ先に連想されるのはこちらの意味と考えて良いでしょう。そうすると二句目の「内義の馬」で崩されてしまうのは房事と連想されます。そして一句目の「馬崩しを出る女房」の裏の意味とは「月経による房事の拒絶を解いた女房」という事に成り、お預けを喰らっていた亭主にとっては正に「素晴らしい」事です。この様に性的な内容の句をバレ句と言い、古川柳では主要なテーマの一つです。

脱線ついでにもう少しだけ寄り道をさせて頂きます。勿論、寄り道と言っても「馬崩し」に関係する雑俳です。

『花の兄』享保十三年頃(1728)
人もおし美女の丙は午くづし
『俳諧和合楽』享保十五年(1730)
かるたやの娘は丙午くづし

二つの句は作られた時代も極めて近く、同じアイデアに基いています。両句のアイデアの元と成っているのは丙午ひのえうま生まれの女は夫を食い殺すという俗信です。ここで「馬崩し」になぞらえて崩されるものとは何か、答えは丙午生まれの美女や娘の縁談だと考えて良いでしょう。

最後に、本稿の一番始めにご紹介した句をもう一度見て頂きましょう。

『鷄合』享保九年(1724)
お身持がそれでは御家が二が三枚

今は直ちに句意に思い至られた方も多いかと思いますが、蛇足ながら一応解説しておきましょう。つまり当時の読者にとっては「二が三枚」と有れば真っ先に「よみ」技法の「二崩し」が連想され、「お身持がそれでは御家が崩れます」と読み直す事によって本句は成立します。「御家」と有りますので武家の事と考えた方が良いと思われますので、情景としては道楽三昧の殿様に対する御家老からの進言、或いは放蕩に耽る惣領息子に対する母親からの苦言といった場面でしょうか。

【「崩し」の推定ルール】

公開年月日 2011/01/03


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