江戸カルタに関する文献資料はどの位の点数が有るのかというと、既に総数千点を越える膨大な数の資料が確認されています。しかしその大部分は極めて短い、断片的なもの(勿論その断片中にも重要な情報が含まれていますが)であり、ある程度まとまった量の記述を含む資料はというと、恐らく百点にも満たないと思われます。中でもカルタその物を題材として一冊の本になっているものは極めて稀で、現存が確認されているものとしては僅か二点に過ぎません。その内の一点は当研究室内「よみ」分室でご紹介している『雨中徒然草』であり、そして残る一点が今回ご紹介する『歓遊桑話』なのです。しかし、この二書は今まで全く対照的な扱われ方をされて来ました。当研究室においても、『雨中徒然草』に関しては江戸カルタの研究資料として、特に「よみ」技法に関する第一級の資料と位置付けているのに対し、『歓遊桑話』に関しては今迄全く触れる事も有りませんでした。先ずはその辺の事情からお話ししましょう。
『歓遊桑話』という本の存在を知ったのは、もう随分と前の事になります。カルタ研究の古典的名著『うんすんかるた』の中で山口吉郎兵衞氏は次の様に紹介しています。尚、山口氏は書名を『歓遊棄話』としていますが、三文字目は「棄」ではなく、「桑」の異字体である「枽」が正解であるのは、本文内の記述(後述)から明らかです。
筆者蔵に「歓遊棄話」と題する書籍がある。著者は桑林軒、奥附はないが宝暦(1751-63)頃の版本と思われる。内容は天正カルタに関したもので珍本であるらしいが、文章も拙で全部殆ど数字一二三~九の陰陽五行コジツケ説の羅列に外ならず、カルタ研究には本稿に引用記事以外に参考の価値なき書である。山口吉郎兵衞著『うんすんかるた』 リーチ 1961年
と、まあ何ともトホホな言われ様で、僅か三カ所ほど短い引用をしてはいるものの、全体としては殆ど資料価値を認めていないのは明らかです。
ところで『歓遊桑話』は上記の山口氏家蔵本(氏のコレクションは兵庫県芦屋の滴翠美術館に所蔵されています。)の他にもう一冊、東京の大東急記念文庫にも収蔵されています。滴翠美術館本は一般には公開されていませんが、大東急記念文庫は正規の手続きを踏めば閲覧可能な筈です。原本を見ようと思えばいつでも見れる訳ですが、しかし仮に閲覧したとしても、当方如きの未熟な読解力の手に負える様な代物で無いのは明らかですし、山口氏による低評価の先入観もあって中々重い腰が上がらず、未だ原本未見のまま十数年が過ぎ去ってしまいました。
ああ、もしも翻刻が有ったならなあ・・・。
既に筋がバレバレかも知れませんが、実はその「もしも」が有ったのです!。しかも全文の完全な翻刻が!!。
件の翻刻が収められている論文はその名もズバリ『歓遊桑話』、昭和五十四年に東京堂出版から刊行された論文集『天明文学―資料と研究』(浜田義一郎編)に収録されています。著者は・・・佐藤要人氏!!!。まあそうでしょう、こんな酔狂な作業、つまり『歓遊桑話』を翻刻したいと考え、且つ実際にそれが可能な人物は誰かといえば、佐藤氏を置いて他には考えられません。尚、この論文を見つけたのは全くの偶然で、江橋崇先生の近著『花札』(ものと人間の文化史167 法政大学出版局 2014年)の中、しかも本文中ではなく注釈の中(P117)に発見しました。つまり江橋崇先生、佐藤要人先生という偉大な先学お二人に導かれて、半ば諦めていた『歓遊桑話』にたどり着く事が出来た訳で、今更ながら先学の有難さをつくづくと感じた次第です。
さて、最初に『歓遊桑話』に対する佐藤氏自身の評価、及び執筆の動機を窺える部分を一部引用しておきます。
『歓遊桑話』について
今回、御紹介する『歓遊桑話』は、未翻刻のものではあるが、格別目新しいというものではない。同書は、大東急記念文庫にも一本を蔵しており、滴翠美術館蔵本中にも在るということは以前から判っていて、前述『うんすんかるた』にも、その書名だけは記されている。ただ本書の内容が抽象的であるため資料価値が乏しいとされ、やや冷淡に扱われてきた嫌いはあった。
ソフトな表現ですが、山口吉郎兵衞による「文章も拙で全部殆ど数字一二三~九の陰陽五行コジツケ説の羅列に外ならず、カルタ研究には本稿に引用記事以外に参考の価値なき書である。」という評価を念頭に置いていると考えて良いでしょう。実際本書は、山口吉郎兵衞氏によって初めて紹介されて以降現在に至る迄、カルタ資料として殆どまともに取り上げられていないというのが実状です。
しかし、かるた資料の乏しい現状にあって、そのままに放置して置くことは何としても惜しい。この度、全文を発表することにした理由もそこにある。
正にその通り!!。くどい様ですが佐藤先生にはひたすら感謝。感謝。
『歓遊桑話』の内容は、戯文ではないが、徹頭徹尾こじつけの荒誕な説が、全篇を蔽っている。しかし、かるたの由来や、かるたの千変万化の姿態を、天地の発生や、自然の運行に擬した比喩は、ひとり本書のみに限ったことではなかった。古くは、鹿野武左衛門の噺本『鹿の巻筆』(元禄5)にも綴られ、『雨中徒然草』(明和7)の敍文中にも見えるもので、そのパターンは洒落本『咲分論』(安永9)、黄表紙『開帳利益札遊合』(安永7)にも受けつがれており、それはそれなりに、一つの思考体系を持ったこじつけ解であることが分る。ただ、戯作の枉解物とは違って、大真面目であるだけにいささか救いがないとも云えるが、
おや、佐藤先生も結構辛辣な評価を下されていますね。しかし、本当に著者の桑林軒は大真面目なのでしょうか?。洒落の気持ちは全く無かったのでしょうか?。正解は判りません。但し、もし仮に洒落のつもりだったのだとしたら、その目論見は完全な失敗に終わっている事は間違い有りません。
当時の風潮から云って、禁令の博奕具を隠蔽する方便としては、あるいは止むを得ないものだったのかも知れない。尤も、いくつかの貴重な記述がこの中に無いわけではない。
(後略)佐藤要人「歓遊桑話」
『天明文学―資料と研究』東京堂出版 昭和五十四年
何とも苦心のほどが窺われる回りくどい表現ですが、果たして「いくつかの貴重な記述がこの中に無いわけではない」という程度のものなのか、はたまた「いくつもの貴重な記述がこの中に有る」と声高らかに宣言出来るものなのか、その答えは願わくば本稿をご高覧の後、皆様方ご自身でご判断下さい。
次に書誌情報を確認しておきましょう。
歓遊桑話 全一冊(滴翠美術館蔵)
- 判形
- 美濃判半截二つ折り、横本。左右二〇・四㎝、天地一四・七㎝。
- 表紙
- 青表紙。赤色紙の細長い題簽、墨文字で「歓遊枽話 全」とある。
- 著者
- もとより戯名、敍文の末尾に桑林軒とあり、下に桑林、加留太亭の二つの印刻を捺す。
- 版元 刊年
- 共に不明であるが、あるいは上方板か。享保十五年の『白河燕談』が本文中に出て来るので、享保末年~宝暦間の出版と推定される。所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚で、元文・寛保頃の刊本かも知れない。
- 本文
- 敍文が一丁と少しあるが、丁数は敍文からの通し丁で、全部で十九丁あり、十九丁目が跋文になっている。
佐藤要人「歓遊桑話」
『天明文学―資料と研究』東京堂出版 昭和五十四年
参考までに大東急記念文庫本の書誌情報もご紹介しておきましょう。
- 加留太 一冊帙 四二・二五・三三二九
- 桑林軒著 自序 自跋(無署名) 袋綴 原表紙紺色 一四・四糎二〇・三糎 無邊字高一一・五糎前後 十二行 十九丁 原題簽無邊左肩一二・二糎二・七糎「歡遊桑話 全」 内題「加留太」 柱刻「(丁數)」「中川氏」
序
桑林軒謹選誌(印「桑林」「加留太亭」)
(天正カルタの由來、各札の數・印についての陰陽の理にこぢつけた説明、「珍曲加留太風流」の仕方等―但し打ち方の説明はなし―を述べる、和漢三才圖會を引用する箇所あり、享保頃の刊か)大東急記念文庫編 『大東急記念文庫貴重書解題』
大東急記念文庫 1956年
両本の書誌内容に明らかな差異は無く、寸法に僅かな差が有るものの計測の誤差と考えられる範囲ですので、恐らく両本は同版、同刷と考えて良いでしょう。そう断言する理由は単純明解で、本書が増刷される程の評判を呼んだとは思われませんし、ましてや重版される程売れたとは到底考えられないという一点に尽きます。そこで、二つの書誌情報を併せる事によって『歓遊桑話』の姿がかなり具体的に見えてきます。
推定年代で最も古いのが大東急記念文庫の享保(1716-1736)頃で、逆に新しいのが山口吉郎兵衞氏の宝暦(1751-1764)頃ですが、共に推定の具体的な根拠を示していません。唯一、佐藤要人氏のみ根拠を示して推定年代を絞り込んでおられます。先ず、『白河燕談』の版本が刊行された享保十五年(1730)を本書刊行の上限とし、大まかに宝暦年間を下限に設定した上で、更に「所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚」である事から享保年間に続く元文・寛保(1736-1744)頃に成立した可能性を示唆しています。これは上限である享保十五年の直後とは言えないものの、それ程大きくは下らない年代という事でしょうが、いかにも本職の学者らしい慎重かつ無難な推定という印象を受けます。しかし、この結論は論理的に不十分だと言わざるを得ません。何故ならば上限の享保十五年から享保末年迄の期間を推定刊年の候補から省いているにもかかわらず、その理由が全く示されていないというからです。まあ佐藤先生のことですから、恐らく様々な書誌情報等から判断して、享保末頃まで遡るのはちょっと難しいと考えられたのかも知れません。しかし、この点に関しては大東急記念文庫の解題が享保頃の刊行と推定している事からも、必ずしも専門家が見れば一目瞭然という様な事では無さそうですので、少々検討を加えておく必要が有りそうです。以下、本書の刊年に関して四つの側面から私見を述べさせて頂きます。
- 山口吉郎兵衞『うんすんかるた』
奥附はないが宝暦(1751-63)頃の版本と思われる。- 大東急記念文庫『大東急記念文庫貴重書解題』
享保頃の刊か- 佐藤要人『歓遊桑話』
享保十五年の『白河燕談』が本文中に出て来るので、享保末年~宝暦間の出版と推定される。所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚で、元文・寛保頃の刊本かも知れない。
【1】紋標の図柄
先ず最初に、佐藤要人氏が指摘された「所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚」という問題について補足説明をしておきましょう。本文16丁表から16丁裏にかけて掲載されている、本書中で唯一の図版が右図です。江戸カルタの紋標の図柄は、元となったポルトガル系のカルタの図柄をかなり忠実に写した初期国産カルタの具象的な図柄から、時代が下るに従って次第に簡略化された図案的なものへと変化しています。図柄の簡略化は、恐らく廉価な普及品から始まり、転換はゆっくりしたものであったろうと思われますが、その時期は大まかに言うと元禄期頃に始まり、享保期頃にかけて徐々に進んでいったと考えています。詳しくは別の機会に検討したいと考えていますので、ここでは概略のみをお示します。
初期江戸カルタの図柄は、最初期の貴重な現物や模写、残された版木等の遺物からその姿を窺い知る事が可能で、それらは当サイトの「カルタ資料展示室」内「江戸カルタ資料展示室 常設展示」でご覧頂けます。又、具象的な絵柄の例は、江戸初期のものと思われる漆器の蒔絵や陶器等のデザインに数多く残されており、それらについても「カルタ資料展示室」内、「江戸カルタ美術館 その壱」以下のページでご覧頂けます。しかし、残念ながらこれらの器物資料の多くはその製作年代を正確に特定するのは困難である為、そこに描かれているタイプのカルタ札が実際に使用されていた年代を推定するのには不向きと言わざるを得ません。その点文献資料、特に成立年代が明らかな資料の記述を検討する事は、札のデザインの変遷を考える上で有効な手段で有ると考えられます。
一例として紋標「イス」の図柄に関して見ると、江戸初期のカルタに関する重要な資料である『雍州府志』では
【2】「加留太」の表記
奇妙な事に、本書中では「カルタ」の語に対して様々な表記法が採られています。『白河燕談』『和漢三才図絵』の引用部分を除く地の文のみで見ると、最も多いのが「加留太」の20回、以下多い順に「加留多」の5回、「加類多」3回、「可留多」「かるた」の2回、そして「骨牌」1回と実に六種類の表記法が使われています。一冊の本の中で、しかもその主題である語句に対してこれ程多様な表記が用いられるのは異常と言わざるを得ません。その原因としては、恐らく本書を書くにあたって利用した様々な資料群での表記法が、そのままの形で残されている事に因るのでは無いかと想像されます。
ここで「カルタ」の表記法について、江戸時代全体で見た場合にどの様な傾向が有るのかを確認しておきましょう。大雑把な傾向を見る為、江戸カルタアーカイブ収録の資料群から主な表記法とそれを使用している資料数を抽出比較すると、最も多いのが平仮名による「かるた」の500点弱で、圧倒的多数を占めています。片仮名の「カルタ」になるとぐっと減って40点強ですが、仮名表記を合計すると優に500点を越えています。一方、漢字による表記は種々合わせて100点余りといったところですが、内訳を見ますと「骨牌」が最多の69点と過半数を占めています。次いで「加留多」の18点、「賀留多」の11点あたり迄が主だった所で、後は少数派と言って良いでしょう。例外として「歌留多」の表記は江戸時代全期を通して多用されていますが、多くは百人一首等の歌かるた系のカルタを特定して使用されているもので、稀に江戸カルタを指していると見られるケースも有るには有りますが、やはり少数派と考えて良いでしょう。
さて、ここで注目したいのは『歓遊桑話』の本文中で、20回と最も多く使用されている「加留太」の表記です。恐らくこの筆者にとってはこの「加留太」が最も標準的な表記だと意識されていたと考えられますが、江戸期全体での使用例から見ますと明らかに少数派に属すもので、管見では本書を含めて4点しか見当たりません。文献上の初出は
【3】「珍曲加留太風流」
大東急記念文庫の解題でも触れられていましたが、「珍曲加留太風流」と題する一文が本文の終り近い部分に掲載されています。その内容はというと、実はカルタを使った手品の種明かし、つまりカードマジックの解説なのです。内容については本文の解説の中で紹介するとして、ここではカードマジックを取り上げたという事の意味を考えたいと思います。
ほぼ全編が難解、と云うか意味不明な文章の羅列である『歓遊桑話』の中で、この部分のみは比較的読み易い平易な文章となっており、ちょっと奇妙な印象を受けます。あたかもここ迄苦労して読み進んで来た読者に対して、ちょっと息抜きをして貰おうとしてるかの様です。一種の読者サービスですかね。著者自信、さすがに内容が堅過ぎるという自覚が有り、少し砕けた内容を交える事によって読者の受けを狙おうと考えたのかも知れません。或いは、版元からの意向であった可能性も考えられます。近く刊行予定の『歓遊桑話』の草稿(この段階では「珍曲加留太風流」は無かったとして)を読んだ版元は、一抹の不安を感じたかも知れません。いや、寧ろ確信だったかも知れません。このままでは売れそうも無いと。そこで何か読者の関心を引く内容を加えられないかと、思案の末に選ばれたのがカルタの手品だったのでは無いでしょうか。
ところで、あくまで勝手な想像ですが、文章全体から受ける印象を元に著者桑林軒先生の人物像を思い描くならば、どうもガチガチの堅物、融通のきかない学者肌というイメージがしてなりません。そう、当時からしばしばオチョクリの対象とされていた「典型的な儒者タイプ」の人物です。「珍曲加留太風流」が載せられるに至った経緯を想像するに、売らんが為に手品などという云わば色物を載せるなど以っての外と、頑に拒む桑林軒先生に対して、何としてでも少しは売れて貰わねば困ると、あの手この手を使って必死になだめすかす版元サイドという構図が思い浮かびます。双方ギリギリの攻防の末、最後には桑林軒先生も渋々ながら受け入れざるを得なかったのでしょうか、目出度く「珍曲加留太風流」の採用と成りました。結果は・・・版元の思惑は見事に外れ、やっぱり売れませんでしたとさ。
おっと失礼、妄想を膨らますのはこの位にして、現実に戻る事にしましょう。重要な問題は「珍曲加留太風流」という手品が載せられるに至った経緯では無く、それが載せられたという事実の持つ意味です。その為には、カードマジックの種明かしという内容が不特定の読者の関心を引くであろうと想定される事、或いはカードマジックに限らず、一般的に手品の種明かしという内容が読者に歓迎されるであろうと想定される様な時代的、社会的背景が有る事が必要です。もっと平たく言えば、そもそも素人の趣味としての手品というジャンルが存在し、尚且つ流行していたかという事です。勿論、それが絶対必要条件という訳では有りませんが、この様な条件が充たされている状況に有るならば、著者或いは版元が「珍曲加留太風流」を載せるに至った心理過程が容易に了解し得るのでは無いでしょうか。つまり、最近巷で流行している手品に便乗すれば少しは売れるかも・・・という思惑です。
江戸時代に手品、しかも素人による趣味としての手品と云うと意外に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、実は江戸時代も中期以降には手品が広く人気を博していた事が確認されており、これらのアマチュア・マジッシャンの需要に応えるべく数多くの伝授本、現在で言う手品の教則本が刊行されています。現存するものだけでも幕末迄に総数50種以上を数えますが、その中でも特に目を引くのが享保十年から十四年に掛けて刊行された一連の伝授本です。この時期には『万世秘事枕』『珍術さんげ袋』『続さんげ袋』『和国知恵較』『唐土秘事の海』『珍曲たはふれ草』『仙曲続たはふれ草』等の伝授本、並びに手品関連本が刊行されており、五年間という短期間にこれ程立て続けに刊行されているのは、江戸時代を通して見ても後にも先にもこの時期だけです。しかもこれらの中には内容的に非常に優れたものが多く含まれており、まさにこの五年間が質量共に伝授本刊行のピークであり、同時に江戸時代における素人手品趣味の最初の、そして恐らく最大のブームで有った事が窺われます。ちなみにこれらの伝授本には「カルタ」を使った手品、つまりカード・マジックも数種類取り上げられています。
伝授本刊行を巡るその後の状況を見ておくと、不思議な事に享保十五年(1730)を境に急激に刊行数が減少しており、しかも内容的にもあまり見るべきものが有りません。急激な大ブームは、往々にして急速に冷め易いのは世の常です。しかし、この現象は単に流行が自然に下火になっただけなのでしょうか。時は八代将軍吉宗による享保の改革の真っ只中ですので、改革絡みの何等かの外的要因(改革の一環として出版物の統制有り)が影響したのか、その辺の事情は憶測の域を出るものでは有りません。
その後、宝暦末頃から明和・安永・天明にかけて、再び優れた内容の伝授本の刊行が散見されますが、享保期の様に集中的な刊行はもはや見られません。更に、伝授本の刊行は幕末から明治に掛けても脈々と続いて行きますが、本稿の論旨とは直接関係が無いので省かせて頂きます。勿論、伝授本の刊行状況のみから江戸期の手品の流行の様子を全て把握出来るものでは無いのは言うまでも有りません。しかしながら、需要の無い所に供給は無いとすれば、多くの伝授本が集中的に刊行された享保十年から十四年に掛けての時期に、素人手品趣味ブームと呼べる様な現象が有ったと考えて間違い無いでしょう。そして『歓遊桑話』の中で一見奇妙な印象を受ける「珍曲加留太風流」を採り上げた背景には、この手品ブームへの便乗という思惑が有ったのでは無いかと考えますが、如何でしょうか。
併せて注目したいのは、タイトルに付けられた「珍曲」の語です。現代において英語の「マジック」を指して一般的に用いられている「手品」「奇術」という名称は、共に江戸時代から使用されていた古い呼称ですが、広く用いられる様になったのは共に比較的近年の事の様です。江戸期には「品玉」「手妻」といった呼び方が比較的多く見られますが、他にも「珍術」「仙曲」「秘事」等、様々な呼称が使われており、件の「珍曲」も又その中の一つです。但し、この「珍曲」という名称はかなり少数派の部類に属しており、手品伝授本の書名に使用されている例を『図説・日本の手品』(平岩白風著 青蛙房 昭和四十五年)の参考文献リストから拾うと、幕末近い弘化(1844-1848)頃刊の『ざしき手づま珍曲秘伝』と享保十四年(1729)以前刊の『珍曲たはふれ草』の二種のみです。注目すべきは後者の『珍曲たはふれ草』です。本書は掲載内容の充実度から見て、数多く刊行されている江戸期の手品伝授本の中でも五本の指に入る良書と言って間違いないでしょう。当時から評価が高かったと見えて寛政七年(1795)には再版本が刊行されていますし、更には本書の続編として『仙曲続たはふれ草』が享保十四年(1729)に刊行されている事から考えても、正編である『珍曲たはふれ草』が結構売れたであろう事、少なくともかなり評判が良かったのであろう事は間違い無いと思われます。因みに『珍曲たはふれ草』の刊年は不明なのですが、続編である『仙曲続たはふれ草』が享保十四年刊ですので、当然それ以前の刊行という事になります。普通、続編の刊行は正編が評判を呼び、その人気の冷めやらない内に、急ぎ行われるものと考えられますので、恐らくは一両年以内の事、つまり享保十二~十三年の刊行と考えるのが妥当でしょう。もっとも実際の刊行自体はもっと古かった可能性は有りますが、少なくとも続編『仙曲続たはふれ草』が刊行された享保十四年の直前の時期に、正編である『珍曲たはふれ草』が広く人気を博していたであろう事は疑い得ません。
さて、ここで事実関係を整理すると次の様になります。
①『歓遊桑話』本文中に「珍曲加留太風流」と題する一節が有り、この「珍曲」とは「手品」「奇術」を表す呼称である。
②「珍曲」という表現は江戸期を通じて一般的なものでは無く、寧ろかなりマイナーな部類に属する。
③「珍曲」を使用している稀な例として手品伝授本『珍曲たはふれ草』が有り、享保十二~十四年頃に人気を博し、ある程度の数の人々の耳目に触れていたであろうと思われる。
「珍曲加留太風流」という名称が『歓遊桑話』の著者桑林軒の考案によるものか、或は他からの流用なのかは判りませんが、少なくとも「珍曲」の語を使用する為には著者自信が「珍曲」の語の意味を理解しており、尚且つ読者にも正しく認識されると想定される事が最低限の条件となります。そして『珍曲たはふれ草』が人気を博していたであろう享保十二~十四年頃という一時期が、この条件を満たしていたと考え得る最有力候補として挙げられる訳です。
以上「珍曲加留太風流」を廻って、素人手品趣味の流行した時期の問題、「珍曲」の語が無理無く受け入れられられた時期の問題、この二つの観点からその年代を推測した結果、享保十二~十四年頃という、極めて限定された一時期が有力候補として浮かび上がりました。
これ迄見てきた様に、様々な状況証拠は『歓遊桑話』の成立時期を享保期とするのが妥当である事を示している様に見えるのみならず、もしも本書中に享保十五年刊の『白河燕談』の引用が無かったならば、それ以前の刊行説をぶち上げたい欲求に駆られてしまう程です。少なくとも『歓遊桑話』の成立過程という意味では、その素材と成った資料、見聞、伝聞等に享保中期以前の知識が多く利用されており、内容に反映されているのは間違いなく、遅くとも享保十三~十四年頃には執筆が進行していた可能性が高いと考えられます。この事からも『歓遊桑話』の刊行自体は享保十五年以降で有るにせよ、それを大きく下るとは考えにくいと思われます。
この辺でひとまず結論を出しておきましょう。
【4】『白河燕談』引用の意味
ところで、著者桑林軒が享保十五年以前に刊行前の写本を見た、或いは草稿段階の『白河燕談』に接していた可能性はどうか・・・絶対に無いとは言えませんが、さすがにそれを持ち出すのは反則技かと思います。『歓遊桑話』の刊年を推定する上で唯一の具体的な手掛かりとして、やはり『白河燕談』の刊年である享保十五年を確実な定点と考えるべきでしょう。その前提の上で『歓遊桑話』の刊年を推定をするという作業は、言い換えれば『白河燕談』と『歓遊桑話』との間の距離を測る作業と言っても良いでしょう。
『歓遊桑話』の中での『白河燕談』の引用の扱われ方を見ると、一種奇妙な印象を受けます。引用は二か所有りますが、先ずは序文の後、いきなり本文の冒頭に「加留太」と題する項目(ほぼ原文通りですが、一部異同、省略有り)が引用されており、そこにはカルタ全般に関する説明、つまりカルタの来歴や札の構成、名称等が概説されています。もう一か所は本文の終わり近くで、直接カルタには関係の無い内容ながら、比較的長い文章が引用されていますが、先ず問題となるのは前者、冒頭の引用の方です。参考までに『白河燕談』の原本から当該部分の翻刻、及び読み下しを掲載しておきます。
客問う。本邦の賤民、加留太と号して勝負を愽戯す。載籍に見ること有りや。ところで、『歓遊桑話』の本文中で出典が明記された引用としては他にもう一点、正徳二年(1712)序『和漢三才図絵』からの文章が長文掲載されており、ここにもカルタの来歴、構成等の概略が示された文章が含まれています。その部分を、こちらも原本からの翻刻と読み下しを掲載しておきます。
答えて曰く。これ、もと蛮語なれば唐書に載ること無し。蛮人は総て画図を呼んで加留太と称す。しかるに今 玩ぶ所のものは、かの国の楽遊の具なり。この中、凡そ四品有り。朱にして罫を為すものをイスと号す(農耕の名なり)。圜形にして彩色有るはオオルと号す(商売の名なり)青色にして罫を為すものはパウと号す(官吏の義なり)。朱にして並び丸なるはコツフと号す(酒器なり)。また、「十」「馬」「切」と呼ぶものは皆、蛮人の形なり。日本に「釋迦の十」と称するものは、かの土の神形なり。言う心は凡そ、国豊かに、民安く、農耕して賦を得、商人は估買し、吏は政道を明らかにし、飲酒快楽するの祝言なりと。知らんと要せば更に尋ねよ。また唐人愽奕の片札は画く所の模様、皆これに異るなり。
按ずるに、樗蒲はその製、古今同じからず。今用いる所のもの、もと南蛮より出づ。厚紙を用い、これを作る。外黒く、内白くして画文有り。青色(巴宇と名づく)、赤色(伊須と名づく)、円形(於留と名づく)、半円(骨扶と名づく)の四品、各十二共に四十八枚。その画、一は則ち虫の形(豆牟と名づく)、二より九に至る迄、数目を画くなり。十は則ち僧形(即ち十と名づく)、十一は騎馬(即ち牟末と名づく)、十二は武将に似(岐利と名づく)、その名目また蛮語。この様に、ほぼ似通った性格を持つ二つの文章が引用されている訳ですが、ここで疑問に思うのは、何故に似通った二つの文章を引用したのか、する必要性が有ったのか、という点です。
凡そ樗蒲は賤民喜んでこれを弄ぶ。貴家に嘗つてこれを用いず。総て博塞を好むは、初めは一二銭の賭けもの、後には金銀を出し、これが為に衣服資財一時に放下して、盗賊多くはこれより出づ。
最終的に2と3のどちらが選択されたかは、完成した『歓遊桑話』の内容から推測出来ます。『歓遊桑話』本文中において『白河燕談』からの引用は、十分にこなれた形で利用されているとは言い難く、寧ろ前にも述べた通り、まるで取って付けた様な不自然な引用に終わっている印象を受けます。つまり、著者及び版元が選んだのは2の選択肢で、原稿の修正を最小限に留める事で刊行迄のスケジュールを守る、というもので有ったと推測されます。
ここで、もう一度論証(以下、「論証」を「妄想」と読み替えて頂いて結構です。)を整理しておきましょう。
さて、いよいよ結論を出すべき時が来た様です。「大幅な修正が困難な程に短かい」とは、具体的にはどの程度の期間なのでしょうか。非常に難しい問題ですが、あえて数字を挙げるとすれば、享保十五年の『白河燕談』刊行から後れる事、せいぜい数か月以内か、最長でも半年程度を限度と考えるのが妥当でしょうか。よって・・・
はいはい、分ってますとも!かなり苦しいのは百も承知の上です。そもそも論証(妄想)の前提条件からして、例えば『和漢三才図絵』と『白河燕談』と二つの引用が内容的にカブっているのは「不自然である」、或いは『白河燕談』の引用のされ方が「不自然である」といった、極めて主観的な事実認定に基づいている事からして問題です。従って、そこから導き出される推論(これも「妄想」に読み替え可)にも又「了解可能である」「推測される」「考えられる」等、如何にも自信無さげな言い回しに頼らざるを得ないのは、そもそも自信など無いからに外なりません(オイオイ、開き直ってどうする)。
心優しい読者様の中には「論証の脆弱さを十分自覚していながら、敢えて無謀とも言える結論を断言しちゃっていいんですか?」と心配して下さる方がいらっしゃるかも知れませんが、ためらわず「これでいいのだ!」と言わせて頂きます。では、何故「これでいい」と言い切れるのかをご説明しましょう。
という訳で、提出者自身からして全く確信を持てない仮説ではあるものの、それが将来的に否定されないであろう事を確信しているという、何ともややこしい状況に陥っている訳です。
しかし将来、決定的な新資料の発見という幸運が絶対に無いとは言い切れません。あくまで幸運の女神が微笑んでくれればの話ですが、当研究室に対しては過去にも幾度となく微笑んでくれている様な気もしますので、希望だけは持ち続ける事にしましょう。そして、もしも幸運にも新資料の発見によって『歓遊桑話』の刊年判明が現実の事となり、そして、もしももしも当方の仮説が当たっていたとしたら、実に喜ばしい事であるのは勿論ですが、例え見事に外れていたとしても(恐らく外れていますが)、決して悲嘆に暮れる事は有りません。寧ろ、悦んで愚説を即刻破棄すると同時に、我が両手を天に向けて高く差し上げましょう。このポーズは「お手上げ」でも「降参」でも有りません。勿論「万歳」です。
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『勘者御伽双紙(かんじゃおとぎそうし)』寛保三年(1743)