江戸カルタメイン研究室 拾頁目

~江戸カルタに関する総合的な研究室です~


⑱-1 カルタ資料『歓遊桑話』について 解題編

江戸カルタに関する文献資料はどの位の点数が有るのかというと、既に総数千点を越える膨大な数の資料が確認されています。しかしその大部分は極めて短い、断片的なもの(勿論その断片中にも重要な情報が含まれていますが)であり、ある程度まとまった量の記述を含む資料はというと、恐らく百点にも満たないと思われます。中でもカルタその物を題材として一冊の本になっているものは極めて稀で、現存が確認されているものとしては僅か二点に過ぎません。その内の一点は当研究室内「よみ」分室でご紹介している『雨中徒然草』であり、そして残る一点が今回ご紹介する『歓遊桑話』なのです。しかし、この二書は今まで全く対照的な扱われ方をされて来ました。当研究室においても、『雨中徒然草』に関しては江戸カルタの研究資料として、特に「よみ」技法に関する第一級の資料と位置付けているのに対し、『歓遊桑話』に関しては今迄全く触れる事も有りませんでした。先ずはその辺の事情からお話ししましょう。

『歓遊桑話』という本の存在を知ったのは、もう随分と前の事になります。カルタ研究の古典的名著『うんすんかるた』の中で山口吉郎兵衞氏は次の様に紹介しています。尚、山口氏は書名を『歓遊棄話』としていますが、三文字目は「棄」ではなく、「桑」の異字体である「枽」が正解であるのは、本文内の記述(後述)から明らかです。

筆者蔵に「歓遊棄話」と題する書籍がある。著者は桑林軒、奥附はないが宝暦(1751-63)頃の版本と思われる。内容は天正カルタに関したもので珍本であるらしいが、文章も拙で全部殆ど数字一二三~九の陰陽五行コジツケ説の羅列に外ならず、カルタ研究には本稿に引用記事以外に参考の価値なき書である。

山口吉郎兵衞著『うんすんかるた』 リーチ 1961年

と、まあ何ともトホホな言われ様で、僅か三カ所ほど短い引用をしてはいるものの、全体としては殆ど資料価値を認めていないのは明らかです。

ところで『歓遊桑話』は上記の山口氏家蔵本(氏のコレクションは兵庫県芦屋の滴翠美術館に所蔵されています。)の他にもう一冊、東京の大東急記念文庫にも収蔵されています。滴翠美術館本は一般には公開されていませんが、大東急記念文庫は正規の手続きを踏めば閲覧可能な筈です。原本を見ようと思えばいつでも見れる訳ですが、しかし仮に閲覧したとしても、当方如きの未熟な読解力の手に負える様な代物で無いのは明らかですし、山口氏による低評価の先入観もあって中々重い腰が上がらず、未だ原本未見のまま十数年が過ぎ去ってしまいました。

ああ、もしも翻刻が有ったならなあ・・・。

既に筋がバレバレかも知れませんが、実はその「もしも」が有ったのです!。しかも全文の完全な翻刻が!!。

件の翻刻が収められている論文はその名もズバリ『歓遊桑話』、昭和五十四年に東京堂出版から刊行された論文集『天明文学―資料と研究』(浜田義一郎編)に収録されています。著者は・・・佐藤要人氏!!!。まあそうでしょう、こんな酔狂な作業、つまり『歓遊桑話』を翻刻したいと考え、且つ実際にそれが可能な人物は誰かといえば、佐藤氏を置いて他には考えられません。尚、この論文を見つけたのは全くの偶然で、江橋崇先生の近著『花札』(ものと人間の文化史167 法政大学出版局 2014年)の中、しかも本文中ではなく注釈の中(P117)に発見しました。つまり江橋崇先生、佐藤要人先生という偉大な先学お二人に導かれて、半ば諦めていた『歓遊桑話』にたどり着く事が出来た訳で、今更ながら先学の有難さをつくづくと感じた次第です。

さて、最初に『歓遊桑話』に対する佐藤氏自身の評価、及び執筆の動機を窺える部分を一部引用しておきます。

  『歓遊桑話』について
 今回、御紹介する『歓遊桑話』は、未翻刻のものではあるが、格別目新しいというものではない。同書は、大東急記念文庫にも一本を蔵しており、滴翠美術館蔵本中にも在るということは以前から判っていて、前述『うんすんかるた』にも、その書名だけは記されている。ただ本書の内容が抽象的であるため資料価値が乏しいとされ、やや冷淡に扱われてきた嫌いはあった。

ソフトな表現ですが、山口吉郎兵衞による「文章も拙で全部殆ど数字一二三~九の陰陽五行コジツケ説の羅列に外ならず、カルタ研究には本稿に引用記事以外に参考の価値なき書である。」という評価を念頭に置いていると考えて良いでしょう。実際本書は、山口吉郎兵衞氏によって初めて紹介されて以降現在に至る迄、カルタ資料として殆どまともに取り上げられていないというのが実状です。

 しかし、かるた資料の乏しい現状にあって、そのままに放置して置くことは何としても惜しい。この度、全文を発表することにした理由もそこにある。

正にその通り!!。くどい様ですが佐藤先生にはひたすら感謝。感謝。

 『歓遊桑話』の内容は、戯文ではないが、徹頭徹尾こじつけの荒誕な説が、全篇を蔽っている。しかし、かるたの由来や、かるたの千変万化の姿態を、天地の発生や、自然の運行に擬した比喩は、ひとり本書のみに限ったことではなかった。古くは、鹿野武左衛門の噺本『鹿の巻筆』(元禄5)にも綴られ、『雨中徒然草』(明和7)の敍文中にも見えるもので、そのパターンは洒落本『咲分論』(安永9)、黄表紙『開帳利益札遊合』(安永7)にも受けつがれており、それはそれなりに、一つの思考体系を持ったこじつけ解であることが分る。ただ、戯作の枉解物とは違って、大真面目であるだけにいささか救いがないとも云えるが、

おや、佐藤先生も結構辛辣な評価を下されていますね。しかし、本当に著者の桑林軒は大真面目なのでしょうか?。洒落の気持ちは全く無かったのでしょうか?。正解は判りません。但し、もし仮に洒落のつもりだったのだとしたら、その目論見は完全な失敗に終わっている事は間違い有りません。

当時の風潮から云って、禁令の博奕具を隠蔽する方便としては、あるいは止むを得ないものだったのかも知れない。尤も、いくつかの貴重な記述がこの中に無いわけではない。
(後略)

佐藤要人「歓遊桑話」
『天明文学―資料と研究』東京堂出版 昭和五十四年

何とも苦心のほどが窺われる回りくどい表現ですが、果たして「いくつかの貴重な記述がこの中に無いわけではない」という程度のものなのか、はたまた「いくつもの貴重な記述がこの中に有る」と声高らかに宣言出来るものなのか、その答えは願わくば本稿をご高覧の後、皆様方ご自身でご判断下さい。

次に書誌情報を確認しておきましょう。

  歓遊桑話 全一冊(滴翠美術館蔵)

判形
美濃判半截二つ折り、横本。左右二〇・四㎝、天地一四・七㎝。
表紙
青表紙。赤色紙の細長い題簽、墨文字で「歓遊枽話 全」とある。
著者
もとより戯名、敍文の末尾に桑林軒とあり、下に桑林、加留太亭の二つの印刻を捺す。
版元 刊年
共に不明であるが、あるいは上方板か。享保十五年の『白河燕談』が本文中に出て来るので、享保末年~宝暦間の出版と推定される。所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚で、元文・寛保頃の刊本かも知れない。
本文
敍文が一丁と少しあるが、丁数は敍文からの通し丁で、全部で十九丁あり、十九丁目が跋文になっている。

佐藤要人「歓遊桑話」
『天明文学―資料と研究』東京堂出版 昭和五十四年

参考までに大東急記念文庫本の書誌情報もご紹介しておきましょう。

加留太 一冊帙  四二・二五・三三二九
桑林軒著 自序 自跋(無署名) 袋綴 原表紙紺色 一四・四糎二〇・三糎 無邊字高一一・五糎前後 十二行 十九丁 原題簽無邊左肩一二・二糎二・七糎「歡遊桑話 全」 内題「加留太」 柱刻「(丁數)」「中川氏」
 序
  桑林軒謹選誌(印「桑林」「加留太亭」)
(天正カルタの由來、各札の數・印についての陰陽の理にこぢつけた説明、「珍曲加留太風流」の仕方等―但し打ち方の説明はなし―を述べる、和漢三才圖會を引用する箇所あり、享保頃の刊か)

大東急記念文庫編 『大東急記念文庫貴重書解題』
大東急記念文庫 1956年

両本の書誌内容に明らかな差異は無く、寸法に僅かな差が有るものの計測の誤差と考えられる範囲ですので、恐らく両本は同版、同刷と考えて良いでしょう。そう断言する理由は単純明解で、本書が増刷される程の評判を呼んだとは思われませんし、ましてや重版される程売れたとは到底考えられないという一点に尽きます。そこで、二つの書誌情報を併せる事によって『歓遊桑話』の姿がかなり具体的に見えてきます。

  1. 外観
     本の寸法は縦14.4~14.7㎝、横20.3~20.4㎝の横長(横本)。表紙の色は恐らく紺色で、滴翠美術館本の青表紙というのは退色によって若干色が薄く成っている可能性も有ります。左上の位置に長さ12.2㎝・幅2.7㎝の赤色紙の題簽有り。
  2. 外題
     題簽に書かれている書名は「歓遊桑話 全」「歡遊桑話 全」「歓遊枽話 全」「歡遊枽話 全」の何れかと思われますが、恐らく「歡遊枽話 全」の可能性が高いと思います。

     「おいおい、そんな事は一度現物を見て来れば一発だろーが!!」
     というツッコミはごもっともです。もしこれが正式な学術論文であれば、現物の確認という基本的な手続きを怠る事が許されないのは当然の事です。しかしこれは論文などという大袈裟なものでは無く、言わば一好事家の脳内遊戯とでも思って頂き、何卒お目こぼしの上、少々お付き合い下さいませ。
  3. 内題
     佐藤氏は内題に関して言及されていませんが、大東急記念文庫では2丁オモテ、本文の頭にある「加留太」を内題としています。しかしこれは、続く『白河燕談』の引用部分の項目名であり、引用の一部と考えた方が良い様に思われます。
  4. 本文
     本体部分の形態は、当時の和本で最も一般的な袋綴じ形式です。袋綴じといっても、切り開くと中から楽しい絵が現れる訳ではありませんので誤解の無いように。本文は序文、跋文を含めて全部で19丁ですので、現代風に言えば38ページ分に当たります。各ページには枠は無く文字のみの構成で、1ページにつき12行、1行の長さはおおよそ11.5㎝前後の様です。袋綴じの折り目部分にある柱刻には丁数と共に「中川氏」と有ります。
  5. 著者
     序文末尾にある「桑林軒」を著者名としますが、如何なる人物かは全く不明です。恐らく、柱刻に有る「中川氏」という姓が著者の正体に関する唯一の具体的な手掛かりなのでしょうが、如何せんあまりに平凡な姓ゆえ、今後余程の偶然による幸運な発見でも無い限りは、作者の特定は不可能でしょう。文章を読む限りは、そこそこの知識、教養を持った人物であろうと思われますが、果たしてその内容が正確なものなのか、或いは怪しげなものなのか、残念ながら当方浅学にしてその判断を下すだけの知識も能力も持ち合わせておりません。又、山口吉郎兵衞氏が言うように「文章も拙」なのかについても評価を下しかねます。悪しからず。
  6. 刊年
     これも不明ですが、幾つかの推測が為されています。
    • 山口吉郎兵衞『うんすんかるた』
      奥附はないが宝暦(1751-63)頃の版本と思われる。
    • 大東急記念文庫『大東急記念文庫貴重書解題』
      享保頃の刊か
    • 佐藤要人『歓遊桑話』
      享保十五年の『白河燕談』が本文中に出て来るので、享保末年~宝暦間の出版と推定される。所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚で、元文・寛保頃の刊本かも知れない。
     推定年代で最も古いのが大東急記念文庫の享保(1716-1736)頃で、逆に新しいのが山口吉郎兵衞氏の宝暦(1751-1764)頃ですが、共に推定の具体的な根拠を示していません。唯一、佐藤要人氏のみ根拠を示して推定年代を絞り込んでおられます。先ず、『白河燕談』の版本が刊行された享保十五年(1730)を本書刊行の上限とし、大まかに宝暦年間を下限に設定した上で、更に「所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚」である事から享保年間に続く元文・寛保(1736-1744)頃に成立した可能性を示唆しています。これは上限である享保十五年の直後とは言えないものの、それ程大きくは下らない年代という事でしょうが、いかにも本職の学者らしい慎重かつ無難な推定という印象を受けます。しかし、この結論は論理的に不十分だと言わざるを得ません。何故ならば上限の享保十五年から享保末年迄の期間を推定刊年の候補から省いているにもかかわらず、その理由が全く示されていないというからです。まあ佐藤先生のことですから、恐らく様々な書誌情報等から判断して、享保末頃まで遡るのはちょっと難しいと考えられたのかも知れません。しかし、この点に関しては大東急記念文庫の解題が享保頃の刊行と推定している事からも、必ずしも専門家が見れば一目瞭然という様な事では無さそうですので、少々検討を加えておく必要が有りそうです。以下、本書の刊年に関して四つの側面から私見を述べさせて頂きます。

    『歓遊桑話』カルタ図版

    【1】紋標の図柄
     先ず最初に、佐藤要人氏が指摘された「所収のかるた図案から見ると、古代天正かるたの面影が濃厚」という問題について補足説明をしておきましょう。本文16丁表から16丁裏にかけて掲載されている、本書中で唯一の図版が右図です。江戸カルタの紋標の図柄は、元となったポルトガル系のカルタの図柄をかなり忠実に写した初期国産カルタの具象的な図柄から、時代が下るに従って次第に簡略化された図案的なものへと変化しています。図柄の簡略化は、恐らく廉価な普及品から始まり、転換はゆっくりしたものであったろうと思われますが、その時期は大まかに言うと元禄期頃に始まり、享保期頃にかけて徐々に進んでいったと考えています。詳しくは別の機会に検討したいと考えていますので、ここでは概略のみをお示します。

     初期江戸カルタの図柄は、最初期の貴重な現物や模写、残された版木等の遺物からその姿を窺い知る事が可能で、それらは当サイトの「カルタ資料展示室」内「江戸カルタ資料展示室 常設展示」でご覧頂けます。又、具象的な絵柄の例は、江戸初期のものと思われる漆器の蒔絵や陶器等のデザインに数多く残されており、それらについても「カルタ資料展示室」内、「江戸カルタ美術館 その壱」以下のページでご覧頂けます。しかし、残念ながらこれらの器物資料の多くはその製作年代を正確に特定するのは困難である為、そこに描かれているタイプのカルタ札が実際に使用されていた年代を推定するのには不向きと言わざるを得ません。その点文献資料、特に成立年代が明らかな資料の記述を検討する事は、札のデザインの変遷を考える上で有効な手段で有ると考えられます。
     一例として紋標「イス」の図柄に関して見ると、江戸初期のカルタに関する重要な資料である『雍州府志』では

    『雍州府志』貞享三年(1686)
    「この紋の形、剱に似たり。」と有ります。これに対し、半世紀近く後の『白河燕談』では
    『白河燕談』享保十五年(1730)
    ニシテナス
    「朱にして罫を為す」と有る様に、初期には具象的な「剱」の絵柄だったものが、後には赤色の「罫(線)」に変化した事が分かります。実際の絵柄で見ると最初期の国産カルタの版木の「イス」や、こちら等は一見して『雍州府志』の言う「剱」の絵柄だと了解出来ます。一方、こちらの重箱の下から二段目の左端の札(イスの7)を見ると、頭の部分に剱の柄の名残と思しき形が見えますが、刀身に当たる部分は『白河燕談』が言う様な赤色の太線で表現されています。
     次にこれらの中間の資料を確認しておきましょう。正徳二年(1712)序『和漢三才図絵』の記述では
    『和漢三才図絵』正徳二年(1712)序
    青色巴宇赤色伊須圓形於留半圓骨扶之四品
     「青色(巴宇と名づく)、赤色(伊須と名づく)、円形(於留と名づく)、半円(骨扶と名づく)の四品」とされており、記述が簡潔過ぎて具体的な絵柄のイメージは浮かんで来ませんが、少なくとも具象的な絵柄というよりも、既にかなり図案化されたものであった様に読み取れます。
     これらの記述を併せ見ると、図柄の簡略化の流れは享保期以前、恐らくは元禄期頃から既に始まっており、享保末期迄にはかなり進んでいたと想定し得ると考えられます。その上で改めて『歓遊桑話』のカルタ図版を観察すると、「イス」の札には明らかに「剱」だと認識出来る絵柄が描かれていますし、説明にも「青龍頭寳釼」と示されています。又、他の絵柄も比較的具象的に描かれており、かなり古いタイプの札、佐藤要人先生の言葉を借りれば「古代天正かるたの面影が濃厚」だと言えそうです。この点を踏まえて佐藤先生は「享保末年~宝暦間の出版と推定」から「元文・寛保頃の刊本かも知れない」と絞り込まれた訳ですが、勿論この一点を持って寛保以降の刊行を否定出来無いのは言うまでも有りません。同時に、享保年間中に刊行された可能性を除外すべき根拠も有りません。つまり、刊年の更なる絞り込みには別の視点、指標の検討が不可欠な訳で、以下はその可能性を探る試みです。

    【2】「加留太」の表記
     奇妙な事に、本書中では「カルタ」の語に対して様々な表記法が採られています。『白河燕談』『和漢三才図絵』の引用部分を除く地の文のみで見ると、最も多いのが「加留太」の20回、以下多い順に「加留多」の5回、「加類多」3回、「可留多」「かるた」の2回、そして「骨牌」1回と実に六種類の表記法が使われています。一冊の本の中で、しかもその主題である語句に対してこれ程多様な表記が用いられるのは異常と言わざるを得ません。その原因としては、恐らく本書を書くにあたって利用した様々な資料群での表記法が、そのままの形で残されている事に因るのでは無いかと想像されます。

     ここで「カルタ」の表記法について、江戸時代全体で見た場合にどの様な傾向が有るのかを確認しておきましょう。大雑把な傾向を見る為、江戸カルタアーカイブ収録の資料群から主な表記法とそれを使用している資料数を抽出比較すると、最も多いのが平仮名による「かるた」の500点弱で、圧倒的多数を占めています。片仮名の「カルタ」になるとぐっと減って40点強ですが、仮名表記を合計すると優に500点を越えています。一方、漢字による表記は種々合わせて100点余りといったところですが、内訳を見ますと「骨牌」が最多の69点と過半数を占めています。次いで「加留多」の18点、「賀留多」の11点あたり迄が主だった所で、後は少数派と言って良いでしょう。例外として「歌留多」の表記は江戸時代全期を通して多用されていますが、多くは百人一首等の歌かるた系のカルタを特定して使用されているもので、稀に江戸カルタを指していると見られるケースも有るには有りますが、やはり少数派と考えて良いでしょう。

     さて、ここで注目したいのは『歓遊桑話』の本文中で、20回と最も多く使用されている「加留太」の表記です。恐らくこの筆者にとってはこの「加留太」が最も標準的な表記だと意識されていたと考えられますが、江戸期全体での使用例から見ますと明らかに少数派に属すもので、管見では本書を含めて4点しか見当たりません。文献上の初出は

    『色道大鏡 巻第七』延宝六年(1678)
     加留太
    かるたは、異狄より渡りたれば、その根源をしらず、ばう、いす、おうる、こつぷ、などいふ名目も弁へ知りがたし、上品にはあらねど、わさ/\したる物なれば、時により、傾国の内でも難なし、一座のさびしき時は、興ともなるなり、竹箆(しつぺい)がけなどいふも、一きはをかしく聞え侍る、
     本文中では「かるた」を使用していますが、表題に「加留太」が見えます。続いては、ほぼ同時期の誹諧書から
    『誹諧坂東太郎』延宝七年(1679)序
    加留太の釈迦坊主揃や涅槃講
     三点目は一気に約半世紀時代が下りまして、享保十五年(1730)刊の『白河燕談』。そして刊年不明の『歓遊桑話』、以上の四点で全てです。特徴的なのは、他の「かるた」「骨牌」「加留多」等の表記が江戸のかなり初期から末期迄長きに渡って使われ続けているのに対して、「加留太」は江戸初期の限られた一時期のみにしか見られない点です。しかも極めて稀にしか使用されない特殊な表記法で有り、確認出来る使用例の最下限が享保十五年です。従って、この「加留太」の表記を使用している『歓遊桑話』の成立時期も享保年間中か、少なくともそれを大きく下らない時期と考えるのが最も自然な理解かと考えます。

    【3】「珍曲加留太風流」
     大東急記念文庫の解題でも触れられていましたが、「珍曲加留太風流」と題する一文が本文の終り近い部分に掲載されています。その内容はというと、実はカルタを使った手品の種明かし、つまりカードマジックの解説なのです。内容については本文の解説の中で紹介するとして、ここではカードマジックを取り上げたという事の意味を考えたいと思います。

     ほぼ全編が難解、と云うか意味不明な文章の羅列である『歓遊桑話』の中で、この部分のみは比較的読み易い平易な文章となっており、ちょっと奇妙な印象を受けます。あたかもここ迄苦労して読み進んで来た読者に対して、ちょっと息抜きをして貰おうとしてるかの様です。一種の読者サービスですかね。著者自信、さすがに内容が堅過ぎるという自覚が有り、少し砕けた内容を交える事によって読者の受けを狙おうと考えたのかも知れません。或いは、版元からの意向であった可能性も考えられます。近く刊行予定の『歓遊桑話』の草稿(この段階では「珍曲加留太風流」は無かったとして)を読んだ版元は、一抹の不安を感じたかも知れません。いや、寧ろ確信だったかも知れません。このままでは売れそうも無いと。そこで何か読者の関心を引く内容を加えられないかと、思案の末に選ばれたのがカルタの手品だったのでは無いでしょうか。
     ところで、あくまで勝手な想像ですが、文章全体から受ける印象を元に著者桑林軒先生の人物像を思い描くならば、どうもガチガチの堅物、融通のきかない学者肌というイメージがしてなりません。そう、当時からしばしばオチョクリの対象とされていた「典型的な儒者タイプ」の人物です。「珍曲加留太風流」が載せられるに至った経緯を想像するに、売らんが為に手品などという云わば色物を載せるなど以っての外と、頑に拒む桑林軒先生に対して、何としてでも少しは売れて貰わねば困ると、あの手この手を使って必死になだめすかす版元サイドという構図が思い浮かびます。双方ギリギリの攻防の末、最後には桑林軒先生も渋々ながら受け入れざるを得なかったのでしょうか、目出度く「珍曲加留太風流」の採用と成りました。結果は・・・版元の思惑は見事に外れ、やっぱり売れませんでしたとさ。
     おっと失礼、妄想を膨らますのはこの位にして、現実に戻る事にしましょう。重要な問題は「珍曲加留太風流」という手品が載せられるに至った経緯では無く、それが載せられたという事実の持つ意味です。その為には、カードマジックの種明かしという内容が不特定の読者の関心を引くであろうと想定される事、或いはカードマジックに限らず、一般的に手品の種明かしという内容が読者に歓迎されるであろうと想定される様な時代的、社会的背景が有る事が必要です。もっと平たく言えば、そもそも素人の趣味としての手品というジャンルが存在し、尚且つ流行していたかという事です。勿論、それが絶対必要条件という訳では有りませんが、この様な条件が充たされている状況に有るならば、著者或いは版元が「珍曲加留太風流」を載せるに至った心理過程が容易に了解し得るのでは無いでしょうか。つまり、最近巷で流行している手品に便乗すれば少しは売れるかも・・・という思惑です。

     江戸時代に手品、しかも素人による趣味としての手品と云うと意外に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、実は江戸時代も中期以降には手品が広く人気を博していた事が確認されており、これらのアマチュア・マジッシャンの需要に応えるべく数多くの伝授本、現在で言う手品の教則本が刊行されています。現存するものだけでも幕末迄に総数50種以上を数えますが、その中でも特に目を引くのが享保十年から十四年に掛けて刊行された一連の伝授本です。この時期には『万世秘事枕』『珍術さんげ袋』『続さんげ袋』『和国知恵較』『唐土秘事の海』『珍曲たはふれ草』『仙曲続たはふれ草』等の伝授本、並びに手品関連本が刊行されており、五年間という短期間にこれ程立て続けに刊行されているのは、江戸時代を通して見ても後にも先にもこの時期だけです。しかもこれらの中には内容的に非常に優れたものが多く含まれており、まさにこの五年間が質量共に伝授本刊行のピークであり、同時に江戸時代における素人手品趣味の最初の、そして恐らく最大のブームで有った事が窺われます。ちなみにこれらの伝授本には「カルタ」を使った手品、つまりカード・マジックも数種類取り上げられています。
     伝授本刊行を巡るその後の状況を見ておくと、不思議な事に享保十五年(1730)を境に急激に刊行数が減少しており、しかも内容的にもあまり見るべきものが有りません。急激な大ブームは、往々にして急速に冷め易いのは世の常です。しかし、この現象は単に流行が自然に下火になっただけなのでしょうか。時は八代将軍吉宗による享保の改革の真っ只中ですので、改革絡みの何等かの外的要因(改革の一環として出版物の統制有り)が影響したのか、その辺の事情は憶測の域を出るものでは有りません。
     その後、宝暦末頃から明和・安永・天明にかけて、再び優れた内容の伝授本の刊行が散見されますが、享保期の様に集中的な刊行はもはや見られません。更に、伝授本の刊行は幕末から明治に掛けても脈々と続いて行きますが、本稿の論旨とは直接関係が無いので省かせて頂きます。勿論、伝授本の刊行状況のみから江戸期の手品の流行の様子を全て把握出来るものでは無いのは言うまでも有りません。しかしながら、需要の無い所に供給は無いとすれば、多くの伝授本が集中的に刊行された享保十年から十四年に掛けての時期に、素人手品趣味ブームと呼べる様な現象が有ったと考えて間違い無いでしょう。そして『歓遊桑話』の中で一見奇妙な印象を受ける「珍曲加留太風流」を採り上げた背景には、この手品ブームへの便乗という思惑が有ったのでは無いかと考えますが、如何でしょうか。

     併せて注目したいのは、タイトルに付けられた「珍曲」の語です。現代において英語の「マジック」を指して一般的に用いられている「手品」「奇術」という名称は、共に江戸時代から使用されていた古い呼称ですが、広く用いられる様になったのは共に比較的近年の事の様です。江戸期には「品玉」「手妻」といった呼び方が比較的多く見られますが、他にも「珍術」「仙曲」「秘事」等、様々な呼称が使われており、件の「珍曲」も又その中の一つです。但し、この「珍曲」という名称はかなり少数派の部類に属しており、手品伝授本の書名に使用されている例を『図説・日本の手品』(平岩白風著 青蛙房 昭和四十五年)の参考文献リストから拾うと、幕末近い弘化(1844-1848)頃刊の『ざしき手づま珍曲秘伝』と享保十四年(1729)以前刊の『珍曲たはふれ草』の二種のみです。注目すべきは後者の『珍曲たはふれ草』です。本書は掲載内容の充実度から見て、数多く刊行されている江戸期の手品伝授本の中でも五本の指に入る良書と言って間違いないでしょう。当時から評価が高かったと見えて寛政七年(1795)には再版本が刊行されていますし、更には本書の続編として『仙曲続たはふれ草』が享保十四年(1729)に刊行されている事から考えても、正編である『珍曲たはふれ草』が結構売れたであろう事、少なくともかなり評判が良かったのであろう事は間違い無いと思われます。因みに『珍曲たはふれ草』の刊年は不明なのですが、続編である『仙曲続たはふれ草』が享保十四年刊ですので、当然それ以前の刊行という事になります。普通、続編の刊行は正編が評判を呼び、その人気の冷めやらない内に、急ぎ行われるものと考えられますので、恐らくは一両年以内の事、つまり享保十二~十三年の刊行と考えるのが妥当でしょう。もっとも実際の刊行自体はもっと古かった可能性は有りますが、少なくとも続編『仙曲続たはふれ草』が刊行された享保十四年の直前の時期に、正編である『珍曲たはふれ草』が広く人気を博していたであろう事は疑い得ません。
     さて、ここで事実関係を整理すると次の様になります。
    ①『歓遊桑話』本文中に「珍曲加留太風流」と題する一節が有り、この「珍曲」とは「手品」「奇術」を表す呼称である。
    ②「珍曲」という表現は江戸期を通じて一般的なものでは無く、寧ろかなりマイナーな部類に属する。
    ③「珍曲」を使用している稀な例として手品伝授本『珍曲たはふれ草』が有り、享保十二~十四年頃に人気を博し、ある程度の数の人々の耳目に触れていたであろうと思われる。
     「珍曲加留太風流」という名称が『歓遊桑話』の著者桑林軒の考案によるものか、或は他からの流用なのかは判りませんが、少なくとも「珍曲」の語を使用する為には著者自信が「珍曲」の語の意味を理解しており、尚且つ読者にも正しく認識されると想定される事が最低限の条件となります。そして『珍曲たはふれ草』が人気を博していたであろう享保十二~十四年頃という一時期が、この条件を満たしていたと考え得る最有力候補として挙げられる訳です。

     以上「珍曲加留太風流」を廻って、素人手品趣味の流行した時期の問題、「珍曲」の語が無理無く受け入れられられた時期の問題、この二つの観点からその年代を推測した結果、享保十二~十四年頃という、極めて限定された一時期が有力候補として浮かび上がりました。

     これ迄見てきた様に、様々な状況証拠は『歓遊桑話』の成立時期を享保期とするのが妥当である事を示している様に見えるのみならず、もしも本書中に享保十五年刊の『白河燕談』の引用が無かったならば、それ以前の刊行説をぶち上げたい欲求に駆られてしまう程です。少なくとも『歓遊桑話』の成立過程という意味では、その素材と成った資料、見聞、伝聞等に享保中期以前の知識が多く利用されており、内容に反映されているのは間違いなく、遅くとも享保十三~十四年頃には執筆が進行していた可能性が高いと考えられます。この事からも『歓遊桑話』の刊行自体は享保十五年以降で有るにせよ、それを大きく下るとは考えにくいと思われます。

     この辺でひとまず結論を出しておきましょう。

     『歓遊桑話』の刊年 仮説その壱
    享保十五年(1730)を大きくは下らない時期。遅くとも享保年間中と考えるのが妥当かと思われる。
     決定的な証拠こそ無いものの、幾つかの情況証拠を積み重ねて行くと、これが最も合理的な結論だと考えます。勿論、説得力不足なのは重々承知しておりますが、何と無くでもそんな気に成って頂けたとしたらこちらの思う壺です。

     ところで、上記で「ひとまず結論」「仮説その壱」としているのにお気付きでしょうか。そう、この話にはまだ続きが有ります。そして「仮説その弐」が有るのです。

    公開年月日 2015/05/07

    【4】『白河燕談』引用の意味
     ところで、著者桑林軒が享保十五年以前に刊行前の写本を見た、或いは草稿段階の『白河燕談』に接していた可能性はどうか・・・絶対に無いとは言えませんが、さすがにそれを持ち出すのは反則技かと思います。『歓遊桑話』の刊年を推定する上で唯一の具体的な手掛かりとして、やはり『白河燕談』の刊年である享保十五年を確実な定点と考えるべきでしょう。その前提の上で『歓遊桑話』の刊年を推定をするという作業は、言い換えれば『白河燕談』と『歓遊桑話』との間の距離を測る作業と言っても良いでしょう。

     『歓遊桑話』の中での『白河燕談』の引用の扱われ方を見ると、一種奇妙な印象を受けます。引用は二か所有りますが、先ずは序文の後、いきなり本文の冒頭に「加留太」と題する項目(ほぼ原文通りですが、一部異同、省略有り)が引用されており、そこにはカルタ全般に関する説明、つまりカルタの来歴や札の構成、名称等が概説されています。もう一か所は本文の終わり近くで、直接カルタには関係の無い内容ながら、比較的長い文章が引用されていますが、先ず問題となるのは前者、冒頭の引用の方です。参考までに『白河燕談』の原本から当該部分の翻刻、及び読み下しを掲載しておきます。

       加留太 カルタ
    客問本邦賤民号シテ加留太勝負リヤコト載籍
    日是蠻語ナレハルコト唐書蠻人ンテ畫圖加留太ルニ今所ノハ國樂遊ナリ中凡四品ニシテナスノヲ伊寸イス農耕ノ名也クワンニシテ彩色アルハ遠々留ヲヽル商賣ノ名也青色ニシテノハ巴゜宇ハウ官吏ノ義也ニシテナルハ者号乞浮コツフ酒器也ジフムマキリノハ皆蠻人之形也日本スル釋迦ジフノハ之神形ナリ也凡心ハ國豊カニ民安農耕ヘシテ商人估買カニシ政道飲酒快樂スルノ之祝言ナリト也矣要セハント又唐人愽奕片札模様モヨウ所畫皆ナリレニ
    客問う。本邦の賤民、加留太と号して勝負を愽戯す。載籍に見ること有りや。
    答えて曰く。これ、もと蛮語なれば唐書に載ること無し。蛮人は総て画図を呼んで加留太と称す。しかるに今 玩ぶ所のものは、かの国の楽遊の具なり。この中、凡そ四品有り。朱にして罫を為すものをイスと号す(農耕の名なり)。圜形にして彩色有るはオオルと号す(商売の名なり)青色にして罫を為すものはパウと号す(官吏の義なり)。朱にして並び丸なるはコツフと号す(酒器なり)。また、「十」「馬」「切」と呼ぶものは皆、蛮人の形なり。日本に「釋迦の十」と称するものは、かの土の神形なり。言う心は凡そ、国豊かに、民安く、農耕して賦を得、商人は估買し、吏は政道を明らかにし、飲酒快楽するの祝言なりと。知らんと要せば更に尋ねよ。また唐人愽奕の片札は画く所の模様、皆これに異るなり。
     ところで、『歓遊桑話』の本文中で出典が明記された引用としては他にもう一点、正徳二年(1712)序『和漢三才図絵』からの文章が長文掲載されており、ここにもカルタの来歴、構成等の概略が示された文章が含まれています。その部分を、こちらも原本からの翻刻と読み下しを掲載しておきます。
       樗蒲かりた
    △按樗蒲其製古今不今所用者本出於南蠻ヨリ矣用厚紙之外黒内白シテ而有畫文青色巴宇赤色伊須圓形於留半圓骨扶之四品各十二共四十八枚其畫一則蟲豆牟ヨリル迄數目也十則僧形即名十一騎馬即名牟末十二武将岐利其名目亦蠻語矣
    樗蒲賤民喜之貴家之総博塞者初一二銭カケモノニハ金銀メニ衣服資財一時放下シテ而盗賊多クハ於此ヨリ
    按ずるに、樗蒲はその製、古今同じからず。今用いる所のもの、もと南蛮より出づ。厚紙を用い、これを作る。外黒く、内白くして画文有り。青色(巴宇と名づく)、赤色(伊須と名づく)、円形(於留と名づく)、半円(骨扶と名づく)の四品、各十二共に四十八枚。その画、一は則ち虫の形(豆牟と名づく)、二より九に至る迄、数目を画くなり。十は則ち僧形(即ち十と名づく)、十一は騎馬(即ち牟末と名づく)、十二は武将に似(岐利と名づく)、その名目また蛮語。
    凡そ樗蒲は賤民喜んでこれを弄ぶ。貴家に嘗つてこれを用いず。総て博塞を好むは、初めは一二銭の賭けもの、後には金銀を出し、これが為に衣服資財一時に放下して、盗賊多くはこれより出づ。
     この様に、ほぼ似通った性格を持つ二つの文章が引用されている訳ですが、ここで疑問に思うのは、何故に似通った二つの文章を引用したのか、する必要性が有ったのか、という点です。
     ところで、二つの引用の内容自体は似通ってはいるものの、引用元である両資料の性格には、決定的と言っても良い程の差異が存在します。『和漢三才図絵』は江戸時代を代表する百科事典とも言うべき重要な文献であり、恐らく江戸時代の知識層で知らない者はいなかったであろうと思われる部類の、言わば第一級の資料であるのに対して、『白河燕談』の方はというと、その刊行当時においてどれ程の数の読者に読まれ、どの様に評価されていたのか自体が不明です。今日に至るまで全体の翻刻が為されていないという事実を見ても、その評価は推して知るべしでしょう。もとより正確な比較など不可能なのですが、敢えて比較するならば、両者の間には「月」と「すっぽん」と例えても言い過ぎでは無い程の差が有ると思われます。しかし、誤解しないで頂きたいのは、決して『白河燕談』の資料価値が低いという意味では無く、あくまでも当時における知名度、他への引用の頻度等の尺度で比較するならば、両書に対する評価には雲泥の差が有るという事で、要するに『和漢三才図絵』が、他の類書とは全くレベルの違う別格の存在で有るという事に過ぎません。

     ところで、本書『歓遊桑話』は言わば、カルタに関する専門書です。従って本書の読者としては、或る程度カルタに関する予備知識を持っている人々を想定していると考えられますが、念の為カルタの基礎知識として札の構成や名称、当時の基本認識等を示しておこうという態度は納得出来ます。その場合、自らの文章で書き記すのも一つの方法ですが、内容に客観性を持たせる意味でも、他の権威有る資料から引用するのも有効な方法でしょう。しかしその為ならば、彼の『和漢三才図絵』からの引用だけでも充分に目的を果せていると思われますが、何故『白河燕談』からの引用をも載せる必要が有ったのでしょうか。
     さて、ここで質問です。享保十五年(1730)刊の『白河燕談』の方が、正徳二年(1712)序『和漢三才図絵』よりも、明らかに優れていると考えられる点が有りますが、お気付きでしょうか?。そう、『白河燕談』は『和漢三才図絵』よりも二十年近くも新しい資料なのです。おおよそ「情報」と呼ばれる類いのものにとって、「新しさ」は極めて重要な価値の一つです。恐らく『白河燕談』の記事は、その時点におけるカルタに関する最新情報だったのではないでしょうか。テーマに関係する最もフレッシュな話題を盛り込む事によって読者を引き付けようとする手法は、今日でもごく普通に用いられるテクニックであり、桑林軒も又その様に考えた可能性は十分に有ります。もしそうだとすれば、著者が『白河燕談』の内容を知り、その引用を企てたのは、その刊行からさほど隔たってない時期でなければなりません。さもなくば最新情報としての引用の意味が無くなります。

     あっ!! もしかしてこれも版元の陰謀では?

     新刊書籍に関する最新情報を、最も早く知り得る立場にいるのは誰か・・・そう、版元です。『白河燕談』のカルタ記事に関する情報をキャッチした版元が、その引用を著者に提案(強要?)したのかも知れません。だとすれば動機は何か?。好意的に解釈すれば、『歓遊桑話』の内容をより充実したものにしたい(本音としては、何とか売れるものにしたいという事ですが)という思いからとも考えられますが、実は別の実利的な思惑が有ったのかも知れません。『白河燕談』を引用するという事は、或る意味『白河燕談』の宣伝とも成り得る行為です。そして『白河燕談』を宣伝する事によって最も利益を得る人物は一体誰か?・・・そう、『白河燕談』の版元です。もしも『歓遊桑話』が『白河燕談』と同じ版元から刊行されたのだとしたら「最も得をする人物=犯人」と成り、図式的には一番スッキリしますが、これでは余りにも出来過ぎの感は拭えません。或いは同一の版元では無いにせよ、何等かの繋がりを持つ版元同士であれば、何かしらの交換条件を交したり、貸しを作っておく事によって将来何かしらの見返りを期待出来る訳で、版元の関与を疑わせるに足るに十分な動機が有ると考えられます。

     さて、『白河燕談』の引用が著者自身のアイデアなのか、或いは版元による何等かの介入が有ったのか、そしてその目的が純粋に最新情報の提供なのか、はたまた宣伝の意図を持ったものであったのか、実際のところは今更知る術も有りません。しかし、何れにせよ『白河燕談』刊行から『歓遊桑話』刊行迄の期間は短ければ短い程望ましいと言えます。何故ならば、最新情報という意味合いでは、その間隔が長くなる分だけ情報としての新鮮さという価値が下がっていく事に成りますし、又、宣伝の意図が有った場合も同様で、最も宣伝活動を必要とし、且つその効果が期待され、実際に最も宣伝に力が入れられるのは、今も昔も出版直後の時期であろうと思われます。何れの場合にせよ、『歓遊桑話』の刊行が『白河燕談』の刊行からさほど遠くない時期であったのならば、一見不自然な、類似した二種類の引用の共存という現象に対して一応の説明がつく訳です。
     では、二書間の刊行間隔が「さほど遠くない時期」とは、具体的にはどの位の期間を想定すれば良いのでしょうか。今日的な感覚でいうと、せいぜい出版から一年以内と言いたいところですが、当時の時代環境を考慮すればもう少し幅を持たせ、二年から三年以内と考えた方が良いのかも知れません。
     以上、かなり強引な論証である事は承知の上ですが、『白河燕談』と『歓遊桑話』との距離がかなり狭まって来たところで、一応の結論として、お約束していました「仮説その弐」を発表させて頂きます。
     『歓遊桑話』の刊年 仮説その弐
    『白河燕談』が刊行された享保十五年(1730)からせいぜい三年以内。つまり同年から十八年頃迄と考えられる。
     もしかすると上記「一応の結論として」という言い回しを見て、イヤ~な予感を抱かれた方がいらっしゃるかも知れませんが、ゴメンナサイ。残念ながら悪い予感は的中しています。更に暴走は続きますが、次の「仮説その参」で本当に最後となりますので、あと少しご辛抱下さい。

     続いての論証(・・・いや、既に「論証」と呼べる範疇を大きく逸脱している事は分かっていますって。「推理」と言えば聞こえは良いですが、まあ、世間一般ではこういうのを「妄想」と呼ぶのかも知れません)の前提となるのは、『白河燕談』からの引用が置かれている位置に対する、漠然とした違和感です。本書に引かれた二つの引用の内『和漢三才図絵』の方は本文中の然るべき位置に置かれているのに対し、『白河燕談』の方は本文の冒頭に置かれています。しかし、何故冒頭なのでしょうか?。
     今日的な感覚を持ってすれば、いきなり本文の冒頭にこの種の引用が置かれていた場合、その後は当然その引用の内容に沿った形で論を展開して行くか、或いはそれを批判する形で自らの論を展開していくという流れを期待します。しかし『歓遊桑話』においてはそのどちらの展開も見せず、言わば引用されっぱなし、まるで取って付けた様に挿入されている印象を受けます。これは何を意味しているのかを考えると、正に文字通り「取って付けた」のでないか、つまり、後から無理に付け加えられたのでは無いかという疑念が湧いて来るのです。
     『白河燕談』からの引用は本文の冒頭と、本文の終わり近くの二か所に有り、共に本文全体の構成に大きな影響を与えない位置に置かれています。これが単なる偶然では無く、そうせざるを得なかった為だとすれば、どの様な状況だったのかを想像して見ましょう。

     時は享保十五年、殊意癡著『白河燕談』と題する一書が刊行され、そこには「加留太」と題する一文が含まれていました。一方同じ頃、桑林軒と号する人物が、後に『歓遊桑話』と題して刊行される事となる、「カルタ」をテーマとした一書を執筆中でした。そこに至る迄に如何なる経緯が有ったのかは今は問いませんが、『白河燕談』の内容は桑林軒先生の知る所となり、その一部を自著に引用すべきとの結論に達する事と成りました。さて、問題はこの時点で『歓遊桑話』の執筆がどの程度まで進んでいたのかという点です。
     一般的に言って、あるテーマに関して比較的まとまった分量を持つ文章を書こうとする場合、最低限の準備段階が必要でしょう。テーマが決まったならば、そのテーマに沿ってどの様な内容を、どの様な流れで、どの様な結論に向かって話を進めるかといった全体の構想を練る必要が有ります。全体が何章にも分かれる様な場合には、更に細かい構成まで決めておく場合も有るでしょう。これと並行して、執筆に必要な情報や資料を揃えておく作業が必要ですが、ここ迄の準備段階が完璧に整っているならば、後は一気呵成に書き上げれば良いだけです・・・まあ、原理的には。しかし、実際問題としては、必ずしもそう簡単に行くものでは有りません。経験上言わせてもらえば、執筆中に新たな発想が浮かんで来る事はしばしば有りますし、時には、幸運にも執筆内容に直接関係する重要な新資料に出会い、根本から構想を練り直さねばならない事態に陥る事さえ有ります。
     ここでちょっと想像してみて下さい。あなた自身が桑林軒先生だとしましよう。あなたは『歓遊桑話』の執筆中、『白河燕談』の「加留太」記事の存在を知り、自著に利用しようと考えました。それがまだ構想を練っている準備段階であるか、或いは執筆初期の段階であれば、まだ自由に構成を変更出来ますので何等問題は有りません。しかし、もしも執筆作業も最終段階に入っており、勿論全体の構成は固まっていて、最終稿もほぼ出来上がっている段階だとしたらどうでしょうか。「ほぼ」としたのは『白河燕談』からの二か所目の引用が組み込まれている、最後の数丁を残している程度まで完成している段階という意味です。さあ、貴方ならどうしますか?
     もしも貴方が現代のライターで、ワープロソフトやテキストエディターを使って原稿を書いているならば、大した問題では無いかも知れません。現代の我々には「コピペ」という強い味方がいますので、『白河燕談』からの引用部分をどこでも好きな部分に挿入し、その前後の必要な部分を、話が上手く繋がる様にチョイチョイと修正すれば完了です。しかし、今の貴方は江戸中期に生きる桑林軒先生です。そこにはパソコンやワードプロセッサーは勿論の事、修正液や消しゴムすら有りません。目の前に有るのは筆と墨と白い紙、そして既に書き上げた草稿の分厚い束です。選択肢は二つ。引用を最も適切な場所に、最も適切な形で利用出来るように全体の構成を組み換え、それに伴って変更が必要な部分の原稿を書き直すか、或いは全体の構成にはなるべく手を加えず、必要最小限の書き換えで済む様に引用するか。恐らく、多少の手間が掛かっても前者を選択したいとお考えの方が多い様に思われますが、最終的な決定を下す際に考慮すべき、ある重大な要因が有ります。それは『歓遊桑話』の原稿執筆に時間的な制約が有ったか、つまり最終的な原稿の締切りが設定されていたか否か、という点です。
     『歓遊桑話』は版本として刊行された立派な出版物です。一般的に言って、商業的な出版物には原稿入稿の締切りが有ります。勿論、元々刊行の予定の無いままに草稿を完成させ、後に出版が決まるケースも有りますが、『歓遊桑話』に限ってはその可能性は極めて低いと思われます。何故なら、まともな版元ならば『歓遊桑話』の完成原稿を見て、進んで出版を請け負うとは想像出来ないからです。勿論、中にはチャレンジ精神旺盛な版元もいるでしょうし、何等かのしがらみの為に損得勘定抜きで請け負う場合も有るでしょう。更に、著者自身による完全な自費出版だった可能性等、例外的なケースはいくらでも考えられますが、あくまで例外的なケースとして今は考慮しません。ここでは『歓遊桑話』の草稿は、その刊行が具体化する以前に、既に完成してはいなかったと、かなり強引に断定して以下の論を進めさせて頂きます。
     一方、著者と版元が構想企画段階から相談し、両者同意の上で出版の準備に入ったという経緯の方が有り得そうです。「カルタ」は当時の人々にとっては、まず知らない人はいない程人気の有る遊戯だった訳ですが、その専門書の類いのものは殆ど無かった様で、少なくとも現存は確認されていません。版元にしてみれば、カルタ本の刊行はちょっとした冒険だったかも知れませんが、潜在的な需要は十分に見込まれるジャンルですので、内容さえ良いものが出来れば十分商売に成ると考えても不思議は有りません。そこで桑林軒先生の登場です。既に彼の手元には色々な関連資料が集められている様ですし、少なくとも或る程度の教養を持ち、それなりの文章を書けると思われる人物です。版元サイドとしては、中々面白そうな企画だと判断したとしても頷けます。そして、いよいよ『歓遊桑話』プロジェクトがスタートする運びと成りました。この時期を、前述の如く享保十三年から十四年頃の事として話を続けましょう。
     さて、順調にスタートしたかに見えたプロジェクトですが、途中である問題が発生しました。かなり体裁が整ってきた草稿を見たプロジェクトリーダーである版元は、ある重大な事実に気付きます。
    「こ、これは・・・売れそうに無い!!!」
     その後の経緯は重複になりますので割愛させて頂きますが、スッタモンダの末「珍曲加留太風流」を取り入れる事によって、何とかこの難題をクリアーしたチームは更に団結を強め、最終目標である『歓遊桑話』の刊行に向かって一丸と成って邁進していくのであった。
     さて、プロジェクトもいよいよ大詰めの段階。桑林軒先生の原稿も最後の数枚を残して大方完成し、後は入稿を待つのみとなれば、ここから先は版元サイドが大忙しです。原稿が上がり次第、版下用に清書する筆工に届ける段取りは手配済み。その後の工程を計算して版木を彫る彫師、印刷を担当する摺師の日程を確保し、必要な用紙等の資材関係の調達も万全ですし、後は完成原稿の入稿を待つのみです。しかし、ここに来て事態は意外な展開を見せる事と成ります。
     切っ掛けは、とある懇意にしている版元からもたらされた、新刊書(或いは近刊予定の)『白河燕談』に載るカルタ記事に関する情報でした。その内容は、確かに多少無理をしてでも利用すべき価値が有るものです。しかし、原稿の締切りの期日が目前に迫っており、原稿を大幅に修正するのは物理的に不可能だという現実も有ります。さあ、どうしたものか・・・。
     ここで取り得る選択肢は三つ有ります。
    1. 締切りの厳守を最優先し、『白河燕談』の利用を断念する。
       勿論、この選択肢は選ばれませんでした。残るは二つ。
    2. やはり締切りは厳守。よって、構成に多少の無理が生ずるのにはこの際目をつむり、日程に影響を及ぼさない程度の最小限の修正によって『白河燕談』の引用を利用する。
    3. 『白河燕談』を最大限に利用する為には原稿の締切り、必然的に出版予定日を遅らせてでも、とことん納得のいく修正を加える。

    最終的に2と3のどちらが選択されたかは、完成した『歓遊桑話』の内容から推測出来ます。『歓遊桑話』本文中において『白河燕談』からの引用は、十分にこなれた形で利用されているとは言い難く、寧ろ前にも述べた通り、まるで取って付けた様な不自然な引用に終わっている印象を受けます。つまり、著者及び版元が選んだのは2の選択肢で、原稿の修正を最小限に留める事で刊行迄のスケジュールを守る、というもので有ったと推測されます。

    ここで、もう一度論証(以下、「論証」を「妄想」と読み替えて頂いて結構です。)を整理しておきましょう。

    1. 『白河燕談』と『和漢三才図絵』と類似した二つの引用が有るのは不自然であるが、『和漢三才図絵』は権威有る資料からの引用、『白河燕談』は最新情報としての引用と考えれば了解可能である。
    2. 『白河燕談』の引用は最新情報の提供という側面の外に、宣伝目的といった版元サイドの事情も考えられるが、何れの場合も『白河燕談』の刊行から『歓遊桑話』の刊行迄の期間が短い程効果的であり、離れれば離れるほど意味合いが薄れると考えられる。
    3. 『白河燕談』のカルタ記事が本文冒頭という重要な位置に、しかも後続部分と脈絡無く無造作に引用されているのは不自然である。もしも時間的な余裕が有ったならば、もう少し自然な形、且つ効果的な形で利用されて然るべきであるが、実際にはそうは成っていない様に感じられる。
    4. これらの事から、『白河燕談』の刊行から『歓遊桑話』の刊行迄の期間は、大幅な修正が困難な程に短かいものであったと推測される。

    さて、いよいよ結論を出すべき時が来た様です。「大幅な修正が困難な程に短かい」とは、具体的にはどの程度の期間なのでしょうか。非常に難しい問題ですが、あえて数字を挙げるとすれば、享保十五年の『白河燕談』刊行から後れる事、せいぜい数か月以内か、最長でも半年程度を限度と考えるのが妥当でしょうか。よって・・・

     『歓遊桑話』の刊年 仮説その参
    『白河燕談』が刊行された享保十五年(1730)の直後。同年か、翌十六年と考えられる。

    はいはい、分ってますとも!かなり苦しいのは百も承知の上です。そもそも論証(妄想)の前提条件からして、例えば『和漢三才図絵』と『白河燕談』と二つの引用が内容的にカブっているのは「不自然である」、或いは『白河燕談』の引用のされ方が「不自然である」といった、極めて主観的な事実認定に基づいている事からして問題です。従って、そこから導き出される推論(これも「妄想」に読み替え可)にも又「了解可能である」「推測される」「考えられる」等、如何にも自信無さげな言い回しに頼らざるを得ないのは、そもそも自信など無いからに外なりません(オイオイ、開き直ってどうする)。
     心優しい読者様の中には「論証の脆弱さを十分自覚していながら、敢えて無謀とも言える結論を断言しちゃっていいんですか?」と心配して下さる方がいらっしゃるかも知れませんが、ためらわず「これでいいのだ!」と言わせて頂きます。では、何故「これでいい」と言い切れるのかをご説明しましょう。

    という訳で、提出者自身からして全く確信を持てない仮説ではあるものの、それが将来的に否定されないであろう事を確信しているという、何ともややこしい状況に陥っている訳です。
     しかし将来、決定的な新資料の発見という幸運が絶対に無いとは言い切れません。あくまで幸運の女神が微笑んでくれればの話ですが、当研究室に対しては過去にも幾度となく微笑んでくれている様な気もしますので、希望だけは持ち続ける事にしましょう。そして、もしも幸運にも新資料の発見によって『歓遊桑話』の刊年判明が現実の事となり、そして、もしももしも当方の仮説が当たっていたとしたら、実に喜ばしい事であるのは勿論ですが、例え見事に外れていたとしても(恐らく外れていますが)、決して悲嘆に暮れる事は有りません。寧ろ、悦んで愚説を即刻破棄すると同時に、我が両手を天に向けて高く差し上げましょう。このポーズは「お手上げ」でも「降参」でも有りません。勿論「万歳」です。

    公開年月日 2015/07/23


    ⑱-2 カルタ資料『歓遊桑話』について 本文編

    未完成につき、次のページにお進み下さい。

      歓遊枽話

    千早振ル神之御氏子下備ケヒ卑拙ヒセツマテユタカスメル寿ハ(マヽ)ニ神之御恵明ケキ風楊柳ヲ吹ドモ枝ヲ不鳴。雨軽塵ケイヂン穿ウテドモツチクレクダカズ難有ケル御代ナレヤ。然バ中華モロコシニハ詩作ヲ以謡物トセリ。和国之風俗イトモ賢キ皇之道ノ道タル習トテ童之口号クチヅサミニ御月様幾ツ十三七ツト往古イニシヘヨリ自然ノ道理ヲ謡リ。是ヤ此神哥也。拝ニ童蒙ノ弄ニ加留太之意味ヲ一一ツラ/\思惟ヌ。其様唐渡之物ナレバ搪様之イチハ一二三ノ数卦爻クワコウ繋辞ケイシラケンシ一貫通達シム。夫神理声ナシ。言葉ニヨツテ意ヲ興シ、言詞ハ無跡文字ニ縁テ音ヲ(マヽ)ス。故ニ字ハ言ノ符蹄フテイトシ、其理ヲ述ベツクスヲ言之符セントス。琴棊書画之玩ビ中ニモ加留太ノ画(マヽ)ヲ見バ、理有テアナガチ無道之物不成。然ルニ予愚意ナガラ、手コウ織ニ製作スルニ馴テ、閑窓カンソウ数日サグリ求、拙モ一編ス。見聞之人ノ嘲リヲモ恥ズ、又其一ニ三ニエツ〔マヽ〕付、童蒙ノ一助トス。偏ニ竿棹カントウ以テ比辰ヲ搗、網ナフシテ渕ニ臨ニ似タリト云トモ、其用益ヲ寸志シテ加留太ノ由来ト為事爾リ。
        桑林軒謹選誌
    右所アラワス詞章シシヤウハ凡ノ大綱ヲ記シ了ヌ。且軍用ニ加留太ヲ持テリト云。尤僻事不成。ハカリコト帷幄イアク之中ニ廻ストカヤ。然ニ心一ツ致シテ水魚之如クスト。又雑兵スラ辛労ヲ休ンジ、睡眠スイメンサマサシメントノ思慮タルベキカ。マコトニ中ニ一種ノ徳有レバ、外ニヲヽツテ十種ノ功有トハ、是ナン士卒之労ヲ保シ能クメグムトキンハ、衆軍喜懐ヲ遂ゲ、戦ン場ニ臨テ軍功ヲハケムモノカワ。
      加留太由来
    濫觴ランシヤウレキは不知、其本旨を校訂カウテイしぬ。諸国名物考に加留太は筑後国三池に始まり、夫より花洛におひて、経師細工にて三池筑後屋友貞抔と名付る加留太有しが古代の物故其名も捨ず、然るに其後次第売弘しが、経師細工より其業を別て、后々只一編に今の黒裏加類多と成りぬ。斯て加類多と云文字を尋に、漢ニ骨牌と書し、和に万葉字を用ひ、今は一向に京都の細工と成て、他国に曽而不成。只京都諸国へ売出せる矣。先人夾ならんで五人ウツ時ハ、則五濁塵に交るの神慮ニ叶、六人ウツ時ハ則六ヂンの境ニ遊ぶの道理不背。
    (中略)
    夫禁字四十八字になぞらへ、四句之偈を和釈して、和歌に教ていろはノ仮名文字を製作し、又父読母誦の開口の訓を付、まさに加類多打を読謂べし。又万葉字可留多と書、可留多カナルヲトヽムルコトとかや。且唐渡の加留太ハウンスムとて七十五枚有。しかも一キワ也。然るを、和朝之規則ノリに合せ、其理をチヾめ、枽数ソウスウとす。ソウの画たるや四十八、因茲ヨツテコレニ名付て枽札ともいつべし。蓋異朝には加留多を打に盤有也。碁、将棊、双六とひとしく、故に加留多も一面と云矣。
      加留太インジ故事大概
    伏羲フツキ一ツ画始め給ひ、何等ナンラの文字と云共一点を不出、是より形質を成す。言語音律道を辧ず。天地万物の始終を明る事、敉量に至て敉量をしる。言語開けて万物象有、象有れバ文あり、字有。文字成て道開け、物の名をしる。善悪を辧ふ。善ならず悪ならざるを中と云。中ハ天下の太平也。人心の興也。其真の述を顕すハ誠乃言葉猶し。真のヲトロへさらんやうにと云ものを以て、その事を正す。是明法と云。

     [和漢三才図絵引用]

    所謂イワユル十ハ僧形ト云非也。蛮国には無僧也。十ハ女形也。十より子を生故に、十一、十二と数の子産。然バ女形なり。天竺にてハ婦人を夜叉ヤシヤと云。彼国にてハ叉嬶シヤカと云。本朝にてハ婭嚊アシヤウと云。十を叉嬶と云謂也。重数の母也。偶数なれバ也。
    (中略)
    抑本朝にて、春始源氏絵会貝合を初り。其後中院道村公小倉色紙哥合を加留多中立売麩屋何某に命じて作らせ次第追て今専業を所為之職之渡世とす。
    △一ツ画ハ
    ひとつハ開キトヅル也。開ハ則陽の理、閉ハ陰の気也。陰陽インヤウ*聚まりて質をなす。是比登津ヒトツと訓ず。其一ツの元ハ理也。理ハ不生不滅にしてイキなく声なし。以言をイヽがたし。故に歴記に鴻濛コウモウと云。儒家に無極とゆう。仏氏に空とゆう。神道ニ渾純コントン(マヽ)とゆう。則円融の義也。混(マヽ)未生以前なれバ、無相無也。故ニカタトリを虫ニ作り、虫を■哉。是鶏の子の如く、溟涬クヽモリて含キザシといふ。一徳元水共ゆう。此水無波無風湛然タンゼン空明なれども、理を備へて一つと成らんとす勢有。然るに、加留多に一むし四枚有り、中にも一枚をあざと珍美せり。是アザナの下略の云也。発端ホツタンの一なれバ惣領といふ。てう愛あり。アザヤカとも云つべし。

    (△二画ハ~△七画ハ迄略)

    △八画ハ
    開くハ陽、聚ハ陰、陰陽合て質成て、出る声と発す。六七にて万物の気質成就して後自出る音をやと云、やつと訓ズ。陰ハ二より生じ、四にて陽去り、四より起て八ツに帰す。爰に取て四八の敉量呼て四十八枚の加留多の枚数をあ(?)り。十ハ空敉にして声にして声に対て四十八ならん。
    (後略)

    △十一画ハ
    大凶変ジテ一元ニ帰ス。敉ハ一より起り、九にて充、十にて変数し、又重敉始り、十一ハ已に満敉也。此声呼て有満ウマ。馬に作り、馬をエガけり。又欠たるを再興サイコウして、満を平直するのカケ引を、馬にたとへていて(?)なるべし。又馬乗に甲冑を着したる躰、想バ官軍也。
    (後略)

    △十二画ハ
    一つより十ハ属、則者理者気質の三つを以万物の始中終の敉起りて、始り始りて、終ヨクアツマルを無窮の敉と也。スベて一切敉より不出ハなし。然るに十二の因敉も隅切ッなるがゆへ切りと唱ふるが、是も歩射に兵具をたいしたる体相を画たり。
    (後略)
     ◎加留太因縁
    △壱ヨリ切迠十二枚、是十二ヶ月也。
    △札数ハ一月三十日、土用十八日、合シテ四十八枚欤。
    △加留太惣絵の小数合テ三百十二有り、右札数四十八枚の数ヲ加ヘテ三百六十有。是一年の日数也。

    夫レ一ヶ年の日数三百六十四日ハ天ノ一年、三百六十日ハ地の一年。又三百八十四日と三百五十八日とす人の一年也。十一月ハ周の正月とて天の正月と云。十二月ハ殷の正月とて地の正月と云。又三十年来に壱度、十一月朔日に冬至在て、是を朔旦サクタン冬至とて和漢とも祥瑞シヤウズイとし、賀辞ガジの御祝有。爰に俗説の諺に、正月かるたをうてバ、夏蚊にさゝれぬと云伝へて祝言せり。是を今の正月ハ夏正月なれバ、かくなん云いはべぬらん

    [カルタ図版]
    巴宇ハウ   上之表シ 釼ノ鞘
    伊寸イス   右同断  青龍頭寳釼
    乞浮コツフ   右同断  白錦寳袋
    遠々留ヲヽル  右同断  マトカナル黄金

    16丁オモテ

    △巴宇の劔の鞘ハ干戈を宝納する祝儀なり。
    △伊寸の劔ハ煩悩生死のきつなを切る降(マヽ)の利劔なり。
    △乞浮の袋ハ三恵の智を納る也。
    △遠々留のまるかせは衣食住のタクワヘの三樽なり。
     ○珍曲加留太風流
    加留太奇妙、裏より絵揃へ取中先一二三四五六七八九十馬切と四通りながら手にとく/\と三四枚取揃持チて、扨切まぜる法下より上へ/\と三四枚程づゝならし、五六枚成共持上ケ重テ幾度成共切上ケ/\すり当のごとくには切らず、扨一枚つゝ十二取ておきて、初めの所より壱枚宛十二所へ加へ、四度加へ見れバ、同ジもの四枚も揃ふ也。又此四枚づゝ揃たるをとく/\手に取持、右の如ク下より上へ重上ゲ/\扨又四所に置ならべ、始めの所より一枚づゝ以上十二度加へ見れば、一より切迠揃也。右を算術より考へ工夫出る面にして、敢て無道の所為と不可取物也。

    『勘者御伽双紙(かんじゃおとぎそうし)』寛保三年(1743)

    (中略)
    加留太全ク博奕物にあらず。其所変シヨヘンの用捨によるもの欤。其外、賭禄カケロクすれバ、碁・将棊・双六も博奕とやいわん。一花開けバ天下の春を知り、鶯ハ梅か枝にくせりかい、蚊蝶花に戯れ、時去り時移り、五月雨、あやめとかわり、早苗も秋のかぜに紅葉して、五穀成就して刈田を祝ふ賀儀の名にや。又正月ハ睦月とて七五三シメカケて、互に睦び会すの所謂なり。酒興の友とするかるたの翫楽笑悦を催し、目出度春也。

    前の頁へ  次の頁へ

    研究室トップへ