江戸カルタメイン研究室 十一頁目

~江戸カルタに関する総合的な研究室です~


⑲-1 技法「あわせ」の研究再論 前編
  『あわせ=めくり系技法説』

 【1】前稿のまとめ及び補論

気が付けば前稿『技法「あわせ」の研究(前後編)』を書き上げてから、実に8年の歳月が流れていたとは・・・。今回、何故久し振りに続きを書こうと思い立ったのかというと、前稿執筆時にはどうしても納得のいく説明が出来ず、やむを得ず放置していた或る問題に関して、最近になって漸く自分でも納得のいく答えが見つかったからです。その問題とは、『雍州府志』に書かれた「合」の技法をどの様に解釈するかという事です。正直に告白すれば、実は前稿は未完成作品だった訳なのですが、今回はそれを8年振りに完結させる作業という事になります。

前稿の流れは大まかに言って、「あわせ」技法に対する私自身の認識の変遷に沿って構成されています。前編では最初に『雍州府志』の「合」技法を示し、そこに書かれている「紋」を「数」の間違いだと考え、これを「めくり」系統の技法だとする説(山口吉郎兵衛氏・佐藤要人氏)を紹介しました。この「あわせ=めくり説」が長らく、いわゆる定説と言える地位を保っていた訳ですが、「紋」を「数」の間違いだとする合理的な理由が全く示されておらず、にわかには納得出来かねる、というのが正直な感想でした。

この説に対して、痛烈な反論を唱えたのが江橋崇氏です。氏の説を要約するならば、次の様な事だと認識しております。

  1. 「紋」を「数」と読み替える事はせずに、文面通りに「紋の同じものを合せる」と読む。
  2. 古来「合」には「競い合せ」の語意が有り、江戸前期に書かれた『雍州府志』はこの「競い合せ」の語感で解釈すべきである。
  3. 従って『雍州府志』の「合」技法は「同じ紋のものを競い合わせる」と解すべきであり、つまりはトリックテイキング系の技法である。

 当時、従来の「あわせ=めくり説」に疑問を抱いていた自分としては、江橋氏の唱えた「あわせ=トリックテイキングゲーム説」は大変に魅力的であり、正に我が意を得たりという思いでこれを受け入れた訳です。この時点では、更に探求を進めて行けば、「あわせ=トリックテイキングゲーム説」を裏付ける新たな資料が見つかるに違いないと考えていました。
 ところが、資料の探索が進むにつれ事態は予想外の展開を見せて来ました。当初の予想に反して「あわせ=めくり説」を支持すると考えられる資料の方が、次々と見つかって来たのです。それらの資料を使って、全く新たな「あわせ=めくり系技法説」を唱えたのが前稿の後編です。

ここでもう一度、前稿の論旨を要約しておきましょう。

  1. 貝原益軒執中堂西山の『教訓世諦鑑』の記述から、「あわせ」は「めくり」系の技法であると考えるのが妥当である。
    教訓世諦鑑(きょうくんせたいかがみ)宝永八年(1711)享保六年(1721)
     巻二 第三 博奕はくえき
    博奕ばくえき字訓じくんハ、ひろく、かゆるとよむ。もろこしなどハしらず。我国わがくにのならわし、哥留多かるたと云へる。かず四十八枚あるものをもつて、勝負しやうぶしなをわかつに、はんのかずに、三五七九と、あたるをかちとし、二四六八を、みなまけとす。是ハ哥留多かるたまいをもつて、其てうはんとのしるしを見る。こゝにおいて、かう、おいてう、など云へる、色々のあり。さて又九まひ六まひのかずを以て一二三四乃至ないし九十、むま、きりと、よんで勝負しやうぶをなすを、これをバ、よみと云ふ。二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第しだい々々に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留かるたと云ふ。さまざまのしなありと、云へとも、くハしくしるすに、およばず。
  2. 『大の記山寺』の記述は、明和年間に「あわせ」を基にして「めくり」が考案されたという認識を、パロディー化したものと考えられる。
    大の記山寺だいのきさんじ』天明三年(1783)
    青五山あをごさん  負寺まけでら

    本尊 釈迦青二仏しやかあをにぶつ 六代ろくだい御前まも本尊ほんぞん
    霊宝 あさまる太刀たち あお兵衛ひやうへか太刀也

    此寺このてらはむかし借住寺かりじうじさだまらずして工面くめんのあしきひとてらぬしとする也むかしは五大せんあはせみやといふてらにて一しうたつきた

    (中略)

    明和年中めいわねんぢう取立とりたて庫裏くりも目だつほどにたてければ皆人みなひと此くりを。めくりといふ。今ははなはたたさかりにして此宗旨このしうし帰依きゑせぬ人はなし団十郎仲蔵なとゝいふ役人やくにん有ておゝくの散銭さんせんをとりあくる此末寺このまつじに十三めくりといふ小寺有こでらあり

    「あわせ」が「めくり」の先祖だと見做されているのだとすれば、「めくり」技法の基本的な構造は、「あわせ」から引き継がれたものと考えるのが自然である。

  3. 第三の論点に関しては、前稿で説明不十分だった部分の補足を含めて、少し詳しく論じておきます。

    江戸カルタの技法の中で、「めくり」及びめくりと同系統の技法である「てんしょ」に関しては、札に固有の点数を持つ事が確認されていますが、不思議な事に「めくり」「てんしょ」の誕生(明和年間)以前にも、札に固有の点数の存在を示す資料が複数確認されています。前稿後編に『軽口もらいゑくぼ』元禄六年ヵ(1693)、『軽口あられ酒』宝永二年(1705)、『商人軍配団』正徳二年ヵ(1712)、『役者金化粧』享保四年(1719)、『須磨都源平躑躅』享保十五年(1730)の五点を紹介しておりますので、個々の内容は前稿を参照して頂きたいと思います。

    これらの資料の中で、固有の点数を持つとされる札は「あざ」「青二」「釈迦十」の三種に限られており、その点数に関しては資料間で若干の異同が有るものの、「釈迦十」については全資料共通で100点としています。併せて、資料の年代が比較的狭い範囲に限られている点を考えれば、これらが同一のカルタ技法についての記述であると考えて良いでしょう。更に、札の点数の意味について何等説明的な記述が無いという事は、大部分の読者には、特に説明しなくても内容が理解されるであろう事が前提と成ります。つまり、ある程度は世間に知られている技法でなければ為らない訳です。では、その技法とは何かを考えて見ましょう。

    上記五点の資料が刊行された元禄から享保迄の期間に絞って見ると、存在が確認されているカルタ技法の中で、少なくとも或る程度の認知度が有ったと考えられるのは「よみ」「あわせ」「かう」「三枚」「きんご」の僅か五種のみです。
     この中で「かう」「三枚」「きんご」は共に、札のポイント(数字)を加算して行き、決められた点数か、それに最も近い点数の者が勝ちとなるタイプの技法です。勝敗は偶然に支配される部分が大きく、又、通常は一回の勝負毎に賭け金を遣り取りをする形態を採る、極めて賭博性の高い技法だと言えます。それぞれ江戸初期から多くの資料が確認されていますが、勿論これらの中に札に固有の点数が有ったらしき形跡は見当たりません。又、技法の基本原理から考えても、特定の札に固有の点数というオプションには馴染みにくい気がします。これらの技法の基本原理とは、毎回の勝負に対する賭け金を敗者は全て失い、勝者は倍額を得るというものですが、そこに、例えば「あざ」が100点(百円)という固有の点数を持っているとしたらどうなるでしょうか。例えば、一回の賭け金が一円の場合、一円という賭け金は殆ど無意味と成り、「あざ(百円)」を手に入れれば即ち勝ちというゲームに成ってしまいます。一方、もし一回の賭け金が一万円の勝負ならば、「あざ」の百円などには誰も関心を示さないでしょう。以上、説明終わり。「かう」「三枚」「きんご」は候補から除外され、残るは「よみ」と「あわせ」の一騎打ちと成ります。

    この時代、資料数に於いて圧倒的多数を占めるのは「よみ」です。明和年間に「めくり」が登場し、安永初年頃に大ブームを起こす以前は、「よみ」こそが江戸カルタを代表する技法でした。当時の多くの人々にとって「よみ」はとても身近な、よく知られた存在であったと考えて間違い無いでしょう。しかしながら、膨大な数にのぼる「よみ」に関する資料の中に、札に固有の点数が有った事を窺わせる様な資料はほとんど見当たりません。勿論、「よみ」技法の解説書である『雨中徒然草』(明和六年序)にも「札に固有の点数」の存在は示されていません・・・。

    何事も無かった様に、先に進みたいのはやまやまですが、後で突っ込まれるのも面倒ですので、手の内をさらけ出してしまいましょう。先程「ほとんど見当たりません」と書いたのを見逃さなかった貴方!!さすがです。実は、僅か一点のみですが、どうしても見逃す訳にはいかない資料が有るのです。かなり長い脇道に入る事になりますが、どうしても避けて通る事の出来ない道ですので、どうか覚悟の上でお付き合い頂ければ幸いです。検討すべき唯一の資料とはこちらです。

    『須磨都源平躑躅』享保十五年(1730)
    我等われらためにはすつてけた鉈廻なたまはし、坊主ぼうず釋迦しやかじふ青二才あをにさい阿根輪あねわめ、はせて三光さんくわうひやくづゝ。

    下線部「三光」は「あざ」「釈迦十」「青二」の三枚で構成される役の名称であり、数多い「よみ」の役の中で最も有名、且つ最も重要視されていると言って良いでしょう。

    『都ひながた(京略ひながた十二段)』正徳四年(1714)
    たそやたそ樟子せうじのそとにをとするは。あざ。しやか。あを二。三光さんくはうの。

    「三光」の名は、江戸初期の元禄期から明和・安永期迄の長きに渉って様々な資料中に散見されますが、これらは例外無く、全て「よみ」の役の様に見えます。だとすれば、享保十五年刊の『須磨都源平躑躅』に見られる「三光」も又「よみ」の役だと考える外は無く、当然の帰結として「よみ」技法において札に固有の点数(具体的には「あざ」「釈迦十」「青二」にそれぞれ100点ずつ)が有ったという解釈が導き出される事になります。これは、ちょっとマズイ事に成って来ました・・・。いやいや、ご心配無用。ちゃんと反論は用意して有ります。

    さて、幸いな事に我々は、既に「よみ」技法における得点計算の概要を知っています。これも太楽先生が『雨中徒然草』を残して下さったお陰です。計算方法を大雑把にいうと、「上り点」と「役点」の合計を3倍するというものです。『雨中徒然草』によると、役点は「五光」の30点を最高とし、最低の1点迄とかなりの幅が有ります。件の「三光」(『雨中徒然草』では「団十郎」という名称ですが、同じものです。)の役点は5点で、以外と低い様にも感じますが、これは三枚の札で構成される役の中では最高点であり、やはり「三光(団十郎)」が最重要視されていた事が窺えます。しかし、もしも幸運にも「三光」を完成させたとしても、得られる得点は5点の3倍、つまり僅か15点に過ぎません。
     一方、『須磨都源平躑躅』に示される「あざ」「釈迦十」「青二」それぞれに100点、合せて300点では正に桁違いという訳です。もしも「三光」の三枚の札で300点が得られるのだとしたら、「三光」本来の得点である15点という僅かな点数など、殆ど無意味だと言って良いでしょう。しかもこれは「三光」役のみに限らず、「あざ」「釈迦十」「青二」を構成札に含む役を完成すれば、悉く高得点を得るのに対し、これらの札を含まない役の場合には例え完成したとしても、ほんの雀の涙程の得点しか得られない事に成ります。つまり、100点という固有の点数を持つ札の存在は、『雨中徒然草』に示されている「よみ」の点数体系を根本的に破壊するものであり、全く相容れないものだと言えます。

    これに対し、恐らく反論も有るでしょう。『雨中徒然草』は明和六年序(1769)、これは、長い「よみ」の歴史の中で見れば、江戸カルタの技法の王者の地位を「めくり」に譲り渡す直前の時期の成立です。ここに示された得点法は、あくまで明和後期時点での、しかも恐らく江戸でのものであり、過去、或いは他の地域には別の点数体系が存在した可能性も否定出来ません。否定は出来ませんが、対案として考慮する必要が有るとは考えません。理由は単純です。繰り返しになりますが、膨大なと言ってもおかしくない数に及ぶ「よみ」に関する資料の中に、札に固有の点数が有った事を窺わせる様な資料は、管見ながら他に一点も見当らないという事実を、再度指摘しておけば充分でしょう。しかし「じゃあ、この三光は一体何なのさ?」という、当然挙がるであろう疑問の声には答えておかねばなりません。とは言え、実はこの問題に対して、誰でもが納得する様な明快な回答を用意出来ている訳では有りません。しかし、負けず嫌いな私としては、素直に「ごめんなさい、解りません」と謝るのもシャクなので、ここは得意の詭弁を駆使して、何とかそれらしく見える回答を示したいと思います。

    先ず、誰でも思い付きそうなのは、「よみ」以外の何かの技法においても「三光」役が存在した可能性です・・・と言うと、恐らく多くの方が「あわせ」の事を思い浮かべるのでは無いでしょうか。「あわせ」を基にして生み出されたと考えられる「めくり」には、「三光」と全く同じ構成の「団十郎」という役が存在します。従来、これは「よみ」の役を取り入れたものと考えられて来ましたが、もしも「あわせ」にも「三光」役が存在したのならば、それがそのまま「めくり」に引き継がれて「団十郎」役に成ったと考えられます。この筋書きはとても自然に見えますが、残念ながら世の中はそうそう筋書き通りに進むほど甘いものでは有りません。では何故、この一見魅力的なアイデアが受け入れ難いものなのかを説明致しましょう。

    詳しくは「めくり」分室の方で述べるつもりですが、「めくり」の役に関して、或る奇妙な現象が見られます。間違いなく「めくり」の役だと断定出来る資料の初出は安永九年(1780)なのです。この年だけで三点の資料が確認されていますが、一点だけご紹介しておきましょう。

    『玉菊燈籠弁』安永九年(1780)
    役者でいわゞゑび蔵かめくりなら仲蔵むべ山ならば文屋のやすひてといふ人だが

    この安永九年(1780)から寛政二年(1790)迄のおよそ十年の間には、ほぼ毎年数点の「めくり」の役に関する資料が見いだされ、総数では四十点以上にのぼります。この期間の「めくり」関連の資料の総数が百点程なので、およそ四割が「役」に関するものという事に成ります。一方、「めくり」技法の初出である明和七年(1770)から安永八年(1779)迄の十年間を見ると、総数で五十点程の資料の中で、はっきりと「めくり」の役だと断定出来る資料は一点も見当たりません。この様な資料状況を素直に解釈するならば、「めくり」のルールに「役」というものが取り入れられたのは安永後期以降の事と考えられ、「めくり」の誕生した明和後期以来、安永初年頃のめくり大ブームの時期をも含め、始めの十年程の期間は「役」無しのルールだったと考えるのが自然でしょう。従って、「あわせ」に「三光」役が存在し、それが「めくり」の「団十郎」役に引き継がれたというアイデアは成立し難いと言えます。

    さて、又々困った事に成りました。「あわせ」でも「よみ」でも無く、勿論「かう」「三枚」「きんご」でも無いとすれば、『須磨都源平躑躅』に見られる札に固有の点数を持つ「三光」とは一体何なのでしょうか。難しい問題では有りますが、現時点での考えを言わせてもらえば、札に固有の点数を持つ技法は、これまで検証した通り「あわせ」だと考えて良いと思います。そして「三光」は、あくまで「よみ」の役としてのものであり、「あわせ」の役では無いと考えます。どういう意味かご説明しましょう。

    今迄に確認されている膨大、かつ広範な資料群の存在から推し量るに、江戸初期から中期に至る時期迄には、既にカルタは江戸の人々に広く浸透しており、ごく身近な存在で有ったと思われます。更に、何度も言う様ですが、「めくり」が登場する明和期以前には、「よみ」こそが最も人々に親しまれていた、江戸カルタを代表する技法であったと考えて間違い有りません。その中でも特に重要な役である「三光」の名前ぐらいは知っていた割合は、以外と高かったのでは無いかと思われるのです。
     ところで「三光」には「よみ」の役名以外にも様々な意味が有ります。最も一般的な意味としては、日・月・星の三つを指すものであり、恐らく役名としての「三光」は、これから派生したものであろうと思われますが、江戸初期から中期に掛けての或る時期、「三光」と云うと真っ先に「よみ」の役を思い浮かべる人の方が多かったかも知れないと想像してしまいます。

    ここで更に脇道に逸れますが、ゲーム用語が一般語に拡大使用される現象について考えてみす。例えば「リーチ」「連チャン」という語を考えて見ましょう。元々は共に麻雀の用語です。更に、後には共にパチンコの用語としても広く使用されているのは面白い現象です。しかし、麻雀もパチンコも全く経験が無い人でも、これらの語を日常で耳にしたり、或いは自信で使った経験のある方も結構多いのでは無いでしょうか。つまり、麻雀やパチンコといった超メジャー級なゲームでは、その用語が元々のゲームの枠を越えて一般語に組み入れらる現象は、それ程珍しい事では有りません。
     これと似た現象は江戸カルタに関しても見られます。今日でも多用される「ピンからキリまで」という慣用句は、元々カルタの用語から生まれたものですし、今では使われませんが、江戸期には「アザの持ち殺し」という言い回しが有りました。これは「よみ」技法から生まれた慣用句です。これらの語は、当時カルタが如何に超メジャーな存在で有ったかを物語っていると思われます。

    さて、「三光」に話を戻しましょう。今見てきた例とは少し違い、「三光」は一般語に迄広がって使用された形跡こそ有りませんが、カルタ遊戯の範疇に限って見れば、「よみ」技法の枠を越えて拡大使用されています。例えば「めくり」には、名称こそ「団十郎」と変化していますが「三光」と同じ役が引き継がれています。又、そこに至る経緯は不明ですが、今に伝わる花札技法の幾つかに「三光」の名称が受け継がれている事はご承知かと思います。つまり、元々は「よみ」技法のみに使用されていた役の名称であった「三光」では有りますが、時代を降るに従って、少なくともカルタ遊戯の範疇に限っては拡大使用されていても不自然では無いと考えられます。つまり『須磨都源平躑躅』に見られる「三光」は必ずしも「よみ」の役だと限定されるものでは無い、という事です。ではどういう意味なのかというと、

    皆さん良く御存知の、あの「三光」の三枚「あざ」「釈迦十」「青二」の札が、それぞれが100点である。

    この様に理解出来ます(ふ~、苦しかった~)。漸く長かった脇道も終わり、元の道への合流点が見えて来ました。

    さて、何の話しだったか覚えていらっしゃいますか?そう、札に固有の点数を持つ技法は何か、という問題でしたね。消去法に拠って「よみ」「かう」「三枚」「きんご」が候補から消し去られた今、残されたのは「あわせ」のみという事に成ります。しかし、実を言うと前稿で示した通り、この結論と全く同じ事を示す直接的な証拠となる資料が有るのです。

    『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
    しやかハきわめが百文なり。あわせも百にたつ。なんぢ五十にねきること、三ごく一の此しや伽を、あをにゝするかといわれたり。

    下線部分の解釈は、さほど難しい事では有りません。「あをに(青二)」と「しゃか(釈迦十)」との二つの語から、これがカルタを題材としている事は明白です。従ってここの「あわせ」はカルタ技法の「あわせ(合せ)」の事だと理解されます。つまり「あわせ」技法では「しゃか(釈迦十)」の札は100点とされるという意味だと解され、それ以外には解釈のしようが無いと思われますが、如何でしょうか。更に、他の「釈迦十」を100点とする点で共通する諸資料に関しても、元禄六年(1693)から享保十五年(1730)迄という極めて限定された期間にのみ限られている点から、全て同一の技法についてものと考えられ、全て「あわせ」に関するものと考えて良いでしょう

    さて、長々と「札に固有の点数を持つ技法」について検討して来ましたが、どうやら結論が見えて来た様です。江戸カルタの技法の中で、札に固有の点数を持つという特徴を持つのは、江戸初期から存在した「あわせ」と、江戸中期の明和年間に考案されたと考えられる「めくり」「てんしょ」との三種のみです。従って、この「札に固有の点数」というルールは「あわせ」から「めくり」「てんしょ」へという方向で受け継がれたものだと考えられます。これは又、「あわせ」が「めくり」の直接の先祖だという、『大の記山寺』で示されている認識の信憑性を強力に裏付けるものだと言えます。

    くどい様ですが、ここで再度結論を整理しておきましょう。「あわせ」がめくり系の技法である事を示す資料として『教訓世諦鑑』の「二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第(しだい)々々に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留(かる)たと云ふ。」という記述が有ります。直接的な資料はこの一点のみですが、『大の記山寺』の記述から「めくり」は「あわせ」を基として生み出されたと認識されていた事を確認し、更に「札に固有の点数を持つ技法」についての検討から、「めくり」は「あわせ」の直接の子孫であり、その基本構造を受け継いでいるものと考えられる事を示しました。これらの論証から『教訓世諦鑑』の記述が、十分に信頼するに足りるものであると判断出来ます。前稿の後編ではこれら新発見の資料を元にして、『雍州府志』の記述を単なる間違いとした従来の「あわせ=めくり説」とは全く別の視点から、新たな「あわせ=めくり説」を提示した訳です。つまり、「あわせ」は「めくり」系統の技法であると云うのが前稿の結論です。

     追記
    後日、「あわせ」が同じ数の札を合わせる技法である事を直接示す二点目の資料、寛保延享江府風俗志』の発見に至りました。この件については本稿後編をご参照下さい。

    さて、ここ迄は言わば足場固めです。いよいよ本稿の主題であり、前稿の時点では手も足も出せなかった超難問に挑む事に成ります。それは・・・
    『雍州府志』の「合」はめくり系技法か、トリックテイキングゲームか?
     という問題ですが、又々そうとう長くなりそうですので一旦稿を改めさせて頂く事とし、最後に前稿発表以降に新たに見つけたアイデアと、新資料をご紹介しておきます。

    【2】初期のめくり系技法か?

    「あわせ=めくり説」と「あわせ=トリックテイキングゲーム説」との論争で、明らかにトリックテイキング説に有利と思われる問題が有ります。それは「うんすんかるた」の成立に深く関わる問題なので、当サイト内うんすんかるた分室で詳しく述べていますので、そちらも御参照頂ければ幸いです。簡単に言いますと、「うんすんかるた」のルールや構造が、西洋の古いトリックテイキングゲームである「オンブル」に非常に良く似ている事から、両者の間に何らかの影響関係が有ったのが確実と考えられる事。だとすれば「オンブル」系統の技法の我が国への伝来から、「うんすんかるた」が誕生する迄の間の時期に両者を繋げる技法、つまり48枚のカルタを使用するトリックテイキングゲームが存在した可能性が高い、いや、寧ろ確実に存在したと考えても良いでしょう。当サイト内うんすんかるた分室では、この謎の技法の事を仮にうんすんかるたの「元技法」と呼んでいます。

    更に、江戸初期に札の強弱の有るカルタ技法が存在した事を示す資料として、『仁勢物語』と『私可多咄』からの笑話を紹介しました。札の間に強弱が有るというのは、トリックテイキングゲームの最大の特徴ですので、これらはうんすんかるたの「元技法」を題材にしたものと考えられます。

    お気付きかと思いますが、もしも「あわせ」がトリックテイキングゲームだと証明されれば、「あわせ」こそが「元技法」の正体であり、「オンブル」と「うんすんかるた」の間を繋ぐ技法だという事に成ります。しかし、決してトリックテイキングゲームだと「考えれば」では有りません。あくまでトリックテイキングゲームだと「証明されれば」で有り、その暁には「元技法」なる語はその使命を終える事と成ります。

    一方、めくり系技法に関しては、西洋の古いカードゲームに類似の技法が認められない為、我が国で独自に考案されたものと考えられます。恐らく「貝覆い」や「絵合せかるた」「歌かるた」等の技法を基にして考え出されたのであろうと想像されますが、資料上の裏付けは有りません。問題は、めくり系技法がいつ頃から存在したかという点です。これ迄は宝永八年(1711)享保六年(1721)刊の『教訓世諦鑑』がめくり系技法と確認出来る最も古い資料でしたが、出来ればもっと古いもの、それも『雍州府志』よりも古い資料が無いものかと気に掛けていたのですが、最近ふと或る事に気付きました。

    『色道大鏡』延宝六年(1678)
     続松
    歌がるたの事也、当時傾国のとるは、貝おほひのごとくに、残らずならべ置て、歌の上の句を一枚づ出し、歌に合てとる時は、露松といふ、又、常のかるたのごとくに、歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ、扨、一枚づゝうち出て、歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むるを、歌がるたといふ、其もとはおなじ物ながら、とりやうにて名目かはるなり、されども、かるたのごとくにうちあふ事、今はたえて、貝おほひのごとくにのみもてあそび来れり、(後略)

    勿論、この『色道大鏡』は新発見の資料では有りませんし、寧ろカルタ研究史上ではかなり有名な部類に属します。前半部分、続松(露松)の競技法は、現代の「百人一首」の競技法の説明とほぼ変わり有りません。問題は下線部分で示されている別種の競技法で、これをどう解釈するかです。下線部冒頭の「常のかるた」とは48枚の江戸カルタの事を指していると考えて良いでしょう。では「常のかるたのごとくに」という表現は、何を意味しているのでしょうか。

    従来は漠然と「歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ」の部分に係ると考えていました。歌かるた系の技法では通常、歌や絵の描かれた面を全員に見える様に表向きに並べ、或いは散らした状態でプレイします。一方、江戸カルタ系の技法では、一部の札が表向きに曝される場合は有るものの、基本的には概ね札を裏向けに分配し、他の競技者に手の内を知られない状態でのプレイとなります。
     『色道大鏡』の説明は、歌かるたを使用するにも拘らず、江戸カルタの様に札を裏向きの状態で行う技法である事は解りますが、「三枚づゝまきならべ」以下の説明が簡潔過ぎて、具体的な技法の内容を把握出来ないままに放置していました。ところが最近、たまたま読み直して見たところ、おぼろげながら競技の基本構造が見えて来た気がします。

    「常のかるたのごとくに」は単に札を裏向けに使用すると云う事では無く、下線部全体に係っています。これは後の部分に有る「かるたのごとくにうちあふ事、今はたえて」と云う記述から明らかです。つまり、かつて歌かるたを使用して、江戸カルタの競技法と同じ様な方法の技法が有ったが、今は行われなくなったと云う事です。技法の内容を詳しく検討しましょう。

    「歌のかたを下にかくして」は既に説明した通り、札を裏向けにした状態の事。「三枚づゝまきならべ」が難問なのですが、これは各競技者への札の配り方を表していると思われます。カルタの札を配る行為を「まく(撒く・蒔く)」と呼ぶのは、数多くの資料から明白です。

    『大塔宮曦鎧』享保八年(1723)
    しらがまじりがまく歌流多
    『川柳評万句合勝句刷 安元義7』安永元年(1772)
    はあさまがまくと死ニ絵か又たりす

    「三枚づゝ」は、言葉通りで、カルタ札を一度に三枚づつ配る事を意味すると思われます。西洋のカードゲームの多くでは、ディーラーは各プレイヤーにカードを一枚づつ配っていきます。これに対して我が国では、伝統的に複数の札を一度に配る(まく)方法が伝承されています。現代でも花札の技法「八八」では一度に三枚、又は四枚の札を配りますし、熊本県人吉地方に伝わるうんすんかるたの技法「八人メリ」では三枚づつ配ります(これを「撒く」と称するそうです)。ちなみに『半日閑話』の「うんすんかるた打方」によれば、江戸時代のうんすんかるた技法では五枚づつ配る様です。
     では、「よみ」や「めくり」といった江戸カルタの一般的な技法ではどうだったかと云うと、決定的な資料が無い為に確定は出来ないのですが、恐らく三枚づつ配ったのであろうと推測されます。

    『雨中徒然草』明和六年序(1769)
    三々九の数をまき落絵おちへと云テ一枚とるハ大極なり四所へ九枚つゝまくハ四九三十六しんをかたとり

    「よみ」では四人の競技者に九枚づつ札が配られますが、その方法は「三々九」つまり三枚づつ三回で配る様で、この方法は江戸初期から存在したと考えられます。

    『鹿の巻筆』貞享三年(1686)
    三枚まくは三くじの心なり

     以前はこれを、カルタ技法「三枚」に関するものと考えていましたが、「まく」と有るので札の配り方について述べていると考えた方が良さそうです。

    『色道大鏡』に戻ります。「常のかるたのごとくに、歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ」の意味が見えて来ました。48枚の江戸カルタの様に、歌の面を隠して裏向きに、三枚づつ札を配るという事で、競技に入る前のディールの方法を説明したものです。最後の「ならべ」の語が説明しきれていないのが、ちょっと気に成りますが、これはスルーして先に進みます。

    「扨、一枚づゝうち出て、歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むる」競技の基本構造を述べた部分です。
     先ず「一枚づゝうち出て」は競技の基本動作を示しており、競技者が順番に一枚づつ札を出す事によって進行するタイプの競技である事が解ります。「よみ」「めくり」更にはトリックテイキングゲームも全てこのタイプのゲームです。
     続く「歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むる」は競技の目的を示しています。当時の歌かるたは、一首の和歌を上の句と下の句とに分けてあるのが標準的なスタイルの様です。競技の目的は、ペアーと成る上の句と下の句との札を合わせ取り、そのペアーの数の多い者が勝者と成ると考えられます。これを「常のかるた」の技法に当てはめるとすると、どの様な技法に成るでしょうか。上の句と下の句とのペアーに該当するのは、「同じ数」の札のペアーと考えるのが妥当だと思われますが、これは「めくり」系技法の原理です。

    つまり『色道大鏡』の記述「常のかるたのごとくに、歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ、扨、一枚づゝうち出て、歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むるを、歌がるたといふ」に云う「歌がるた」なる技法は、「常のかるた」を使うめくり系技法の「如き」ものであり、しかも『色道大鏡』刊行の延宝六年には「かるたのごとくにうちあふ事、今はたえて」と有る様に、より古い時代に行われていた技法だという事に成ります。延宝六年というと、まだまだ江戸初期では有りますが、更に遡った時代に「歌がるた」なる技法が存在し、同時に江戸カルタを使用する「めくり系技法」と呼べる技法が存在していたと云う事を示している訳です。

    これが何を意味するかというと、江戸初期の資料に見られる「あわせ」技法の記述、もっと具体的に言うならば『雍州府志』の「合」技法の内容を考える時、その候補として「めくり系技法」にも名乗りを挙げる資格が十分に有るという事です。

    【3】おまけ
    『昼夜用心記』宝永四年(1707)
    をのぞけばはじめは一せんせんがけのかるた。律儀りちぎに。十馬切をなたよみに。伊勢いせみあげとはあかい二塗箸ぬりばしの見たて。うしろから見物けんぶつものにこれは七か九かとふもまだるく。次第しだい功者こうしや入かはり。合せになり。三まいになり。

    この資料は、「あわせ」に関してちょっと気になる問題を投げかけて来ます。情景としては、最初は一銭二銭の少額を賭けた「よみ」の軽い勝負が、次第に本格的な博奕へと発展していく様を描いたものでしょう。賭けがエスカレートして行く順序は「よみ」「あわせ」「三枚」という方向と理解出来ます。この三つの技法の中で、「よみ」と「三枚」に関しては或る程度技法の内容が判明しています。「よみ」は、基本的なルールはシンプルですが、上手にプレイするには高度なテクニックや駆け引きが要求される、かなり完成度の高いゲームです。勿論賭けの対象となる事も多々有りますが、その多くは「二文四文」と形容される類いの低額のもので、所謂慰みと呼ばれる程度の賭け事です。一方、「三枚」は正確なルールは良く判っていませんが、カルタ札の数字の合計によって勝ち負けを争うタイプのゲームと考えられ、勝敗はほぼ偶然によるもので、従って極めて賭博性の高い競技であるのは間違い有りません。さて、問題と成るのは中間に位置する「あわせ」の内容です。つまり「めくり系のゲーム」と「トリックテイキング系ゲーム」とのどちらのタイプのゲームの方が、この位置に置かれる事がより自然に受け取れるかという点です。私自身は「めくり系のゲーム」の方が、より相応しいと感じるのですが、これはあくまで感じ方の問題に過ぎません。従って、この資料をもって「あわせ」が「めくり系のゲーム」である証拠となる様な性質のものでは有りません。よって、あくまで「おまけ」なのです。

    最後に、前稿の公開以後に見つかった、「あわせ」に関するその他の資料をまとめて紹介しておきます。

    『露沾俳諧集』享保年間(1716-1736)
    夢なみた合骨牌や雪の花
    『夢庵戯哥集』明和三年(1766)
      合かるたによせて恨恋
    つまとつまいつかあはせてねる身ともなしてはくれですつるうき世や

      合かるたによする無常
    うつ/\とおもひあはせてうき親もすてゝ行あとそはかなき
    『犯科帳』明和三年(1766)
    油屋町
      喜助
     戌十一月廿一日溜入 同月廿三日手鎖町預
     同十二月十三日過料弐貫文申付ル
    右之者先月廿日之夜人集致し博奕相催ニ付令吟味其方儀は其夜長崎村之内小嶋郷従弟平兵衛方江罷越候留守江同町八郎次本石灰町惣太郎同町五平次万屋町喜三次元長崎村之内高野平郷無宿米蔵髪結セ候とて相集リ其方帰リを相待候内古かるた有合候ニ付一二銭かけの合かるたいたし居候処江罷帰早々相止候様申聞候内市中廻リ之者ニ被召捕候儀ニ而人数に加わらずといへとも正月慰ニよみかるたいたし候由ニ而古かるた致所持候上ハ申口難相立不埒之旨吟味請候ては無申披誤入旨申之縦令よみかるたニ候とも都而博奕筋之儀は一統重キ御法度ニ而度々被仰出も有之処不相守正月慰ニいたし候由ニ而古かるた所持致候より事発リ不埒ニ付急度咎をも可申付処全求候て相催候儀共不相聞ニ付宥恕を以過料弐貫文申付候
       過料銭三日之内ニ可相納候
    (後略)
    『忠義墳盟約大石』寛政九年(1797)
    次は仲居なかゐが五六両。片手かたてひろけたてんしよ札よいあげ手とはどふであろ。それは只今法度はつとなり。
    (中略)
    片手かたてに小判八九両。讀骨牌よみがるたとはどふであろ。それも合せの嵌句はめくなり。さりとはふるいなら古い。
    【4】更におまけ

    先日、たまたま立ち寄った書店で見つけてしまいました。江橋崇氏の新著『かるた(ものと人間の文化史 173)』(法政大学出版局 2015年11月10日)です。前著『花札(ものと人間の文化史 167)』『花札(ものと人間の文化史 167)』(法政大学出版局 2014年)で仄めかされていたので、いつかこの様な本を出されるだろうと楽しみにしていたのですが、まさかこんなにも早くこの日が来ようとは夢にも思ってもいませんでしたので、正に驚きをもって早速購入し、一気に拝読させて頂きました。特に、関心の深い賭博系カルタに関する部分については、それこそ貪る様に繰り返し読ませて頂きました。

    大変光栄な事に、両書の中で当「江戸カルタ研究室」の名を何度か紹介して頂いており、少なくとも一定の評価はして頂けている様です。しかし、それ以上に光栄に思うのは拙サイトの内容に対する批判を頂いている点です。本来、正式な論文では無い、一素人によるサイト上の書き込みなど無視されて然るべきものなのですが、少なくとも批判するに価するものとの評価を頂けたと自負しております。しかも、誰もが認める当代随一のカルタ研究者からのご批判ですから、そんじょそこらの批判とは格が違います。
     誤解の無い様に言っておきますが、当方Mの気は全く有りませんが、こと研究という点においては、論理的な批判こそ最高の快感、いや、喜びだと考えております。勿論、自説に対する称賛や賛同は嬉しいものですが、そこには進歩が有りません。感情的、理不尽な非難はもっての外ですが、論理的な批判の場合は、そこから自らの考えを深化させて再批判に至るか、或いは自説の非を認めて批判を受け入れるか、何れにせよ自らの認識を進歩させてくれるものだと考えています。

    さて、話しを江橋氏の新著『かるた』戻しましょう。熟読の結果、正直なところ内容的には疑問点、反論点が数多く有ります。又、当方の専門外である花札や百人一首、その他のカルタ類に関する部分についても、恐らく、それぞれの専門の方からの異論も多々有ろうかとは思われます。しかし、その様な事とは全く別の次元に於て、私は本書『かるた』及び前著『花札』の二書に対して、最大限の称賛を贈る事に聊かの躊躇も有りません。

    二書を通読すると、そこからは江橋氏のカルタに関する幅広い知識と見識、カルタ史研究に対する情熱の深さがヒシヒシと伝わって来ます。しかも、この手の書籍に有りがちな、過去の定説を無難にまとめた類いの入門書、教養書的な内容に止まらず、従来説の非なる部分に対しては氏一流の攻撃的な論評をもって鋭く切り捨て、斬新な自説を展開する内容は痛快でさえ有ります。正に「江橋カルタ史学」のエッセンスと言って良いでしょう。実は、最初「エッセンス」の代りに「集大成(勿論、現時点での)」という形容を考えていたのですが、良く考えれば氏のカルタ史研究の全体像が、二冊合せてたった700ページ程度の分量に収まる切る訳が無いのは明らかだと考え直し、「エッセンス」としました。いつの日か真の集大成が上梓される事を願ってやみません。

    あっ、ちょっと待って下さい!!今、慌てて図書館に行こうと思ったあなた。あなたの向かうべき場所は、図書館では有りません。書店です。
     この二書は、図書館で借りて済ませられる類いの代物では決して有りません。少なくともカルタの勉強を志す者ならば、何時でも参照出来る様に、必ず自らの書架に置かねば成りません。二冊で7000円(+税)はちょっとした出費では有りますが、絶対にそれ以上の価値が有る事を保証します。但し、一二回読んだ位で放置しておいたのでは正に宝の持ち腐れ、いや、アザの持ち殺しです。座右に置いて常に参照すべき事は勿論ですが、何度も繰り返し、しかも批判的に読む事を心掛るならば、そこから得られるものは、あなたの一時的な出費を簡単に取り戻せるだけの大きな財産と成るでしょう。

    「何か、ちょっと持ち上げ過ぎじゃない?」「そんなに江橋氏の心証を良くしたいの?」「いや、先ずは散々持ち上げておいて、後で一気に蹴落とそうと云う魂胆だろう。」

    どうか誤解しないで下さい。確かに最初にも書いた通り、本書の内容全てに満足している訳では有りませんし、寧ろ不満だらけと言っても良いでしょう。今後、本書に対しての批判を繰り広げて行く予定ですし、しかもかなり過激な内容に成りそうですが、それとは全く別の次元の問題なのです。最初に本書を通読した後、自分に関心の有る部分をじっくり読み直しながら疑問点、問題点、突っ込み所に付箋を貼りながら読み直したのですが、結果、あちらこちら付箋だらけに成ってしまいました。しかし私にとっては、この夥しい数の付箋こそが、本書の価値の高さを物語っているものだと思っています。

    考えても見て下さい。我が国におけるカルタ研究、及びカルタ史研究の歴史と現状を。歌かるた類、特に百人一首に関しては、それなりの研究の蓄積が有ると思われますが、賭博系カルタの研究となりますと、その現状たるや惨憺たるものと言わざるを得ません。
     賭博系カルタに関する近代の研究で、ある程度まとまった量の有る、まともな研究書を挙げるとすると、古いところでは尾佐竹猛著『賭博と掏摸の研究』(大正十年)と、廃姓(宮武)外骨著『賭博史』(大正十二年)の二書はどうしても外せないでしょう。しかし、両書の歴史的な価値は揺るぎ無いとはいうものの、現代の研究レベルから見ると、内容的には物足りなさを感じざるを得ません。
     近年の業績では、何と言っても山口吉郎兵衛著『うんすんかるた』(昭和三十六年)が筆頭に挙げられます。それ以外には、日本かるた館編『江戸めくり賀留多 資料集』(昭和五十年)及び、佐藤要人編『川柳/江戸の遊び(国文学解釈と鑑賞519号)』(昭和五十年)位が満足のいくもので、その後、昭和後期から平成期に掛けては、江橋崇氏を含む数点の論文は有るものの、書籍の形態では特に見るべき物は見当たりません。

    今回の、江橋崇氏による『かるた』『花札』の出版は、およそ40年にも及ぶカルタ研究の空白期間に終止符を打つもので有り、これを快挙と呼ばずして何と呼べば良いのでしょうか。繰り返し言います。
      迷わず、即、買い、です。

    公開年月日 2015/12/30


    ⑲-2 技法「あわせ」の研究再論  中編
      『あわせ=トリックテイキングゲーム説』

     【1】『かるた』に於ける「あわせ」技法

    前編では「あわせ」が江戸中期以降に大流行した「めくり」の元と成った技法で有り、「めくり」と同系統の技法で有るとする「あわせ=めくり系技法説」を論証して来ましたが、続く本編では江橋崇氏が主張する「あわせ=トリックテイキングゲーム説」を徹底的に検証したいと思います。そもそも「あわせ=トリックテイキグゲーム説」とはどの様な説なのか。如何なる根拠と論証に拠って導き出されたものなのか。新著『かるた』では「あわせ」技法が重要なテーマの一つとされている様ですので、先ずはそこから見ていく事にしましょう。

    そこで問題を「あわせ」に絞って、もう一度『かるた』を読み直して見たのですが、いきなり困った事態に直面してしまいました。なかなか見付からないのです。「あわせ=トリックテイキングゲーム説」が・・・。
     こう書くと、既に本書をお読みの方からは「そんな事は無いだろ。あちこちに出ているじゃん。」という声が聞こえて来そうですが、私が言っているのは学問的な仮説としてのトリックテイキングゲーム「説」が見付けられないという意味であり、つまり「あわせ」がトリックテイキングゲームであると考る理由らしきものが見当たらないのです。
     では、本書の中で「あわせ」技法がどの様に扱われているかを見てみましょう。

    実際には「あわせ」に関する記述は、我が国へのカルタの伝来に関して述べた第1章の、かなり早いページから登場します。カルタの伝来と共に伝えられたであろうと考えられる「オンブル」系統のトリックテイキングゲームの解説に続き、次の様に述べられています。

    これをトリック・テイキング・ゲームと呼ぶが、日本でもこうした遊戯法は江戸時代初期から断片的な言葉として残っていて、正保二年(1645)刊の『毛吹草』では「あはせ」と呼んでいる。さらに同書から四十年後の『雍州府志』では「合セ」と呼び、「又互所得之札合其紋之同者、其紋無相同者為負。是謂アハセ。言合其紋之義也」、つまり、「また、こうして手にしたカードの中から紋標の同じものを互いに出し合って競い合い、その同じ紋標のカードを持っていない者は負けにする方法もある。これを「アハセ」というが、紋標を合せるという意味である」と説明されている。

    江橋 崇『かるた(ものと人間の文化史 173)』(法政大学出版局 2015年 P29)

    『毛吹草』の「袷」については後述します。問題は『雍州府志』の「又互所得之札合其紋之同者、其紋無相同者為負。是謂合。言合其紋之義也」という原文に対する解釈です。
     ここで『雍州府志』の「賀留多」の項の全文と、自己流読み下しを示しておきます。

    賀留多
    六條坊門金銀箔賀留多(*1)是繪草子屋阿蘭陀人玩長崎土人傚(*2)賀留多四種一種各/\十二枚通計スルニ四十八枚也一種伊須蠻國稱シテ伊須波多第十畫法師之形スル僧形ナリ也第十一ハ畫スルナリ也第十二畫床之人スル庶人ナリ也一種波宇蠻國稱シテ青色波宇紋自第十第十一第十二同一種古津不蠻國酒盃古津不スル酒盃ナリ也一種於宇留蠻國稱シテ於宇留スル也其法其三人或五人圍坐内一人左手持賀留多裏面上下混雑シテ配分シテ而置各々之前(*3)切賀留多賀留多シテ後人々所フタ一二三次第之札ヨミ倭俗毎事算ルヲ又互之札合之同紋無相同アハセ心ハルノ之義也或又謂加宇又謂比伊幾又謂宇牟須牟加留多法有若干畢竟博奕之戯ナリ也又賀留多札百枚半五十札書古歌一首之上中央隙地又半五十枚書之下ダシ所謂中央隙地置所スル之下句一枚圍座人各/\之上今所之下寸ハ相合則取シテ後其所之札算多算少ウタ賀留多貝合之戯ナリ
     一部、表示不可能な旧字・異体字を、新字・正字に直しています。又、定本の間違いと思われる以下の三箇所を訂正しています。
    (*1)箔賀留多の後の返り点()の抜けを追加
    (*2)效を傚に訂正
    (*3)謂を謂に訂正
     賀留多
    六條坊門にこれを製す。その良きものは池と称す。金銀の箔をもってこれを飾るもの、箔賀留多という。これ、絵草子屋においてこれを造る。元、阿蘭陀人これを玩ぶ。長崎の港の土人、これに倣て戯と為す。凡そ賀留多に四種の紋有り。一種各々十二枚、通計するに四十八枚なり。一種の紋は「伊須」という。蛮国、剱を称して「伊須波多」という。この紋の形、剱に似たり。一の数より九に至る。第十、法師の形を画く。これ、僧形を表するものなり。第十一は、馬に騎る人を画く。これ、士を表するものなり。第十二、床に踞るの人を画く。これ、庶人を表するものなり。一種は「波宇」と称す。蛮国、青色を称して「波宇」という。この紋、一の数より九の数に至る。第十、第十一、第十二、前に同じ。一種の紋は「古津不」という。蛮国、酒盃を「古津不」という。これ酒盃を表するものなり。一種の紋は「於宇留」という。蛮国、玉を称して「於宇留」という。これ、玉を表するものなり。その、これを玩ぶの法、その始め三人、或いは五人囲座し、その内一人、左手に賀留多を取り持ち、裏面をもって上下混雑して、その画を見ず配分して、各々の前に置く。これを賀留多を切るという。その戯を為すを賀留多を打つという。しかして後、人々得る所のふだ一、二、三の次第を数え、早く持つ所の札を払い尽くす、これを勝ちと為す。これを「よみ」という。和俗毎事、これを算るを読むという。又、互に得る所の札、その紋の同じきものを合せ、その紋相同じきもの無き、負けと為す。これを「あわせ」という。言う心は、その紋を合せるの義なり。或いは又「加宇」という、又「比伊幾」という、或いは又「宇牟須牟加留多」という、その法若干有り。畢竟、博奕の戯なり。又、賀留多の札百枚、半ば五十の札、古歌一首の上の句を書し、床の上に囲み並べ、中央に隙地を残す、これを「地」という。又、半ば五十枚、上の歌の下の句を書し、これを「だし」という。前のいわゆる中央隙地に、手に応ずる所の下の句一枚を出し置く。囲座の人、各々これを、床の上に在る所の上の句と、今出し置く所の下の句と、相合うものある時は、則ちこれを取る。しかして後、その合せ取る所の札の算多き者を勝と為す。算少き者を負と為す。これをうた賀留多と称す。元、貝合の戯より出るものなり。

    問題の「又互所得之札合其紋之同者、其紋無相同者為負。是謂合。言合其紋之義也」の部分は「又、互に得る所の札、その紋の同じきものを合せ、その紋相同じきもの無き、負けと為す。これを「合」という。言う心は、その紋を合せるの義なり。」と読み下してみました。

    一方、江橋氏は「また、こうして手にしたカードの中から紋標の同じものを互いに出し合って競い合い、その同じ紋標のカードを持っていない者は負けにする方法もある。これを「合」というが、紋標を合せるという意味である」と意訳されていますが、これは断じて『雍州府志』原文の内容を正確に伝えるものでは有りません。最大の問題点は「合其紋之同者」の「合」の語を、全く理由の説明も無しに「競い合い」と書き換えている点です。つまりこの文章は、自説に基く江橋氏による創作です。

    この様に「あわせ=トリックテイキングゲーム説」は、何の説明も無いままに、あたかも既成事実であるかの如く登場します。まるで数学における「定理」の如く、既に証明済みの命題の様な扱いと言えます。
     続きを見て行きましょう。

    「ヨミ」の遊戯法は「参加者が手にしたカードを一、二、三という次第に数えてゆき、早く所持するカードを出し尽くした者を勝者とする。」と明快である。「合セ」の遊戯法は「手にしたカードの中から紋標の同じものを互いに出し合って競い合い、その同じ紋標のカードを持っていない者は負けにする」とあるから、トリック・テイキング・ゲームであることは明白である。

    前出『かるた』(p.70)

    明白であるらしい。もはや「定理」ですら無く、証明するまでも無い「公理」の様である。そりゃあ「合」を「競い合い」と読み替えれば、勿論そう読めるでしょう。しかし、何の先入観も持たずに原文をそのままに読むならば、江橋氏も言う通り「よみ」の遊戯法の説明が明快であるのに対し、「あわせ」の説明は明らかに明快さを欠いています。そもそも、曖昧で無いならば論争になど成らないと思うのですが・・・この点、もう少し具体的に説明いたします。

    『雍州府志』には「賀留多」の他にも幾つかの遊戯具が登場しますが、その中で具体的な遊戯法が説明されているのは僅か四種のみです。「賀留多」の項に載る「よみ」「あわせ」そして「歌賀留多」。少し前の「貝」の項に載る「貝合せ(貝覆い)」がそれです。これらの遊戯法の説明を比較して見ましょう。

    1. 【貝合せ】
       原文
      「其法三百六十之貝左右分之圍並床上空其中央貝一隻内右貝稱地而並床上左貝稱ダシ毎一箇而出置中央之隙地各圍座視之則出貝與地貝其紋采有合者則取出貝合地貝其所合之貝多者為勝少者負」

       読み下し
      その法、三百六十の貝、左右にこれを分ち、床の上に並べ囲み、その中央を空る。貝一双の内、右の貝を地と称して床の上に並べる。左の貝をだしと称して、一箇毎に中央の隙地に出して置く。各々囲み座してこれを視、すなわち、出貝と地貝と、その紋采合うもの有れば、すなわち出貝を取り、地貝と合す。その合す所の貝、多い者を勝ちと為し、少ない者を負と為す。
    2. 【歌賀留多】
       原文
      「賀留多札百枚半五十札書古歌一首之上句圍並床上中央殘隙地是謂地又半五十枚書上歌之下句是謂ダシ前所謂中央隙地出置所應手之下句一枚圍座人各之所在床上之上句與今所出置之下句有相合者則取之然後其所合取之札算多者為勝算少者為負」

       読み下し
      賀留多の札百枚、半ば五十の札、古歌一首の上の句を書し、床の上に囲み並べ、中央に隙地を残す、これを「地」という。又、半ば五十枚、上の歌の下の句を書し、これを「だし」という。前のいわゆる中央隙地に、手に応ずる所の下の句一枚を出し置く。囲座の人、各々これを、床の上に在る所の上の句と、今出し置く所の下の句と、相合うものある時は、則ちこれを取る。しかして後、その合せ取る所の札の算多き者を勝と為す。算少き者を負と為す。
    3. 【よみ】
       原文
      「人々所得之札數一二三次第早拂盡所持之フタ是為勝」

       読み下し
      人々得る所のふだ一、二、三の次第を数え、早く持つ所の札を払い尽くす、これを勝ちと為す。
    4. 【あわせ】
       原文
      「互所得之札合其紋之同者其紋無相同者為負」

       読み下し
      互に得る所の札、その紋の同じきものを合せ、その紋相同じきもの無き、負けと為す。

    「貝合せ」と「歌賀留多」の説明は共に詳細かつ具体的であり、競技の手順と勝利条件も明確です。恐らく、著者自身がこれらの遊戯法に精通しているものと考えて良いでしょう。
     「よみ」の説明も、内容は簡潔ながら明快であり、手順と勝利条件も明確です。著者自身が「よみ」を打った経験が有るかは分りませんが、競技の様子を実際に見聞していた可能性は十分に有ります。少なくとも技法の基本的な部分に関しては、正確に理解していたと考えられます。
     これらと比較すると「あわせ」の説明は明快さに欠く印象を受けます。競技の手順は不明瞭ですし、勝利条件を明示しない替りに「その紋相同じきもの無き、負けと為す。」と云う、言わば下位ルールを記すのも不規則に感じられます。その理由を推測するならば、著者は「あわせ」の正確なルールを知らずに、曖昧な伝聞を基にして書いたので無いかという疑念を抱かずにはおれません。但し、これは単なる憶測に過ぎませんし、この記述を読んで「トリック・テイキング・ゲームであることは明白である」と感じるか否かは全く主観の問題ですので、その判断は読者の皆様に委ねるとして、先に進む事にしましょう。

    『かるた』から、上の引用の続きです。

    ところがこれに関しては、『うんすんかるた』が「(二)合せ、記載簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合せる意味であろう。『其紋之同じき者を合す』とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じきものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代って大いに流行した。現代の『花合せカルタ』は此技法を伝えている」とする誤記説を唱え、それが通説化した。私は以前から誤記とするほうこそ誤解であると指摘してきたが、それも誤記説の追随者の立場から逆批判されている。だが、誤記説には論拠がない。すでに触れた正保二年(1645)の『毛吹草』や後に述べる文芸作品の例を見ても、この時期までに「合セ」というトリック・テイキング・ゲームがあったことは確かで、それを抹殺しようとする論拠のない推論には無理がある。

    前出『かるた』(pp.70-71)

    これを見て驚きました。何と江橋氏が「誤記説の追随者」なる者から批判を受けていたとは全く知りませんでした。誰による、どの様な内容の批判なのか是非とも知りたいものだと思い、指示されている注釈(p.116)を見ると、何と何と拙サイトの事でした・・・ (ちなみに、そこには当サイトとは全く関係の無い、謎のURLが書かれているのですが、どうした事でしょうか? 誤記? )

    どうやら前稿を読まれて、当方が山口氏の唱えた誤記説を支持していると誤解された様です。前稿の内容を良く読んで頂ければ、『雍州府志』の記述が誤記であると主張するものでは無い事は理解して頂けると思います。しかし、この様な誤解を生んでしまった責任は当方にも有ります。
     前稿の結論は「あわせ」はめくり系統の技法であると云うものですが、その結論に対して『雍州府志』の「合」をどの様に解釈し、どの様に位置付けるべきかという問題は、当時の自分には全く手も足も出ない超難問でしした。そこで、敢えて触れずに放置するという、何とも中途半端な態度を取ってしまいました。今にして思えば、少なくとも「この問題に対する態度を保留する」と表明しておけば、余計な誤解を招く事も無かったであろうと深く反省しております。まあ、この落し前は本稿にてしっかり付けさせて頂くつもりです。

    さて、江橋氏の「誤記説には論拠がない」と云う指摘には同感です。しかし、山口説をこうもバッサリと切り捨てている割に、江橋説の「論拠」なるものがさっぱり見えて来ないので苦労している訳ですが、漸くそれらしきものを見出す事が出来ました。続く「すでに触れた正保二年(1645)の『毛吹草』や後に述べる文芸作品の例を見ても、この時期までに「合セ」というトリック・テイキング・ゲームがあったことは確か」と云う記述から、どうやら、それらの文芸作品が江橋説の論拠となっている様ですので検討して行きましょう。

    先ず、名前の挙がっている『毛吹草』から見てみましょう。前に揚げた引用の中で「これをトリック・テイキング・ゲームと呼ぶが、日本でもこうした遊戯法は江戸時代初期から断片的な言葉として残っていて、正保二年(1645)刊の『毛吹草』では「あはせ」と呼んでいる。」と、唐突に紹介されていましたが、どういう意味でしょうか。

    『毛吹草』寛永十五年(1638)序
    あはせ 四月一日 掛香かけがう 相撲すまひ 薬 哥  賀留多かるた遊 菊 草 鴬 にはとり 犬 虫 貝

    『毛吹草』は松江重頼編に成る江戸初期の俳諧書で、引用は巻三の「付合」の部分の一項目です。俳諧とは、現代の俳句の元と成った五・七・五から成る発句に始まり、七・七の短句と五・七・五の長句を交互に詠み連ねる詩文学です。付合とは、この長句と短句の組み合せの事ですが、その際、後に付ける句には前の句と何等かの関連性を持たせる必要が有ります。『毛吹草』の「付合」は、言わばその為のアンチョコで、上の例では、前の句の中に表題語の「袷」が有った場合、続く句に「四月一日」以下の語を入ればOKという事です。

    江橋氏の説明では、まるで「袷」がトリックテイキング系のカルタ技法の名称であるかの様な書き方ですが、余りに強引な拡大解釈と言わざるを得ません。江橋氏の思考回路の中では、既に「あわせ=トリックテイキングゲーム」という公式が、疑う余地の無い真実として認定されている様で、そこに「あわせ」と有れば即ち「トリックテイキングゲーム」だと云う結論が出るのでしょう。しかし、表題語の「袷」は、着物の「袷」以外の何物でも有りません。

     江戸時代には季節によって着用する着物が厳密に決められていて、夏場は裏地無しの「単衣」、旧暦の四月一日から五月四日迄と、九月一日から九月八日迄が裏地を付けた「袷」、冬場は中に綿を詰めた「綿入れ」と成っていました。勿論、実際には気候によって柔軟に対応していたのだろうと思いますが・・・。
     余談ですが、時々珍しい名字としてクイズ等で出題されるものの一つに、「四月一日」と書いて「わたぬき」と読ませると云うのが有ります。冬場の「綿入れ」から綿を抜き、「袷」に替える衣替えの日が四月一日だからです。

    「掛香」は着用も可能な小型の消臭具、匂袋の類です。「四月一日」と「掛香」との二つが、着物としての「袷」からの直接の連想です。「相撲」以下が「袷」と同音の「合せ」からの連想される物で、「賀留多遊」もその一つと考えられます。ちなみに「菊」から後は全て、所謂「物合せ(合せもの)」の代表的なものです。

    この資料から読み取れる事実とは、「あわせ」の語から「賀留多遊」が自然に連想されるという事であり、恐らく当時のカルタ技法の中に、何等かの形でカルタ札を「合せる」タイプの技法が有ったのであろうと云う点です。更には「あわせ」という技法の名称が、既にこの時代に存在していた可能性を考えても良いでしょう。しかし、間違ってもこの資料が、「あわせ」がトリックテイキングゲームである事を示す論拠に成り得ないのは言うまでも有りません。

    『毛吹草』以外の「後に述べる文芸作品の例」とは、恐らく『仁勢物語』『私可多咄』『軽口もらいゑくぼ』の三点だと思われます。それぞれの翻刻と当方の解釈による意訳、及び江橋氏の解釈を示しておきましょう。

    仁勢物語にせものがたり』寛永十五~十七年(1638-1640)
    をかし、女はあざ持つ、男はそうた持てり。早く打棄てたりけるを見て、勝ちこそは今はあだなれ是無くはそうたは四方に有らまじ物を

    (意訳)
    女は「あざ」を持ち、男は「ソウタ」を持っている。男が「ソウタ」を早く打ち出したのを見て、女が言うには、これでもう「ソウタ」は何処にも無いので、あなたには勝ち目は有りませんよ 

    カルタの遊戯で、「ハウの一」のカードである「アザ」は切り札だが、「ハウの十(ソウタ)」(別名「釈迦十」)も切り札で、「ソウタ」のほうが「アザ」よりも強いことになる。これはカルタ札の中で常に切り札になるのが「ハウの二」つまり当時の呼称で「青の二」と「釈迦十」「アザ」で、この順番で強弱がある「合セ」の遊戯法である。

    前出『かるた』(p.31)

    私可多咄しかたばなし』万治二年(1659)序 寛文十一年(1671)刊
    むかしむかし、遠国に外科有。さる者、あざとる薬を給ハれと云。外科、心えたとハいへ共、此薬をいかゝせんとあんしわつらひ、かるたの札のそうたとやらんいふものを、くろやきにして、天下一あさとる薬とじまんしてやつた。

    (意訳)
    昔々、ある所に外科の医者がいた。ある者が「あざ(痣)を取る薬を下さい」と言った。医者は「承知した」とは言ったものの、その薬をどうしたものかと思い悩んだ末、カルタの「ソウタ」と云う札を黒焼きにして、天下一の「あざ」を取る薬と自慢してやった。

    当時「アザピン」という価値の高い切り札を使われても「ソウタ」で切り返せば勝ちで、「アザピン」のカードもこちらに取れるというトリック・テイキングのカルタの遊戯法が人々に理解されていたことになる。薬で痣を「取る」ことと「ソウタ」で「アザピン」を「取る」ことが重ねられているのであるから、これは強いカードを出して相手の弱いカードを取る(あるいは「刈る」)という動作のあるトリック・テイキング・ゲームとしての「合セ」以外にはありえない。

    前出『かるた』(p.85)

    『軽口もらいゑくぼ』元禄六年(1693)ヵ
      大仏建立こんりう勧進くハんじん
    過し比、なら大仏のだう供養くやうくハんしんとて、貴僧きそう一人、洛中らくちう 奉加ほうかに御まハり被成ける時、諸人しよにんたつとミ十念をいたゞき、金銀米銭べいせんさゝげける。然る所へ青菜あをなもちうりける男来り、此御僧を奉見、殊勝しゆせうに思ひ、一せきの売だめ銭をさしにつなぎ、百文しんじける。僧仰らるゝハ、其方の風俗ふうぞく にてハ此奉加ちかごろ太儀なるべし。たゞシ六しんの年にもあたりたるこゝろさし有やとおたつねある。いやさやうニても御座なく候。ちらと見まいらせバ、おまへ様ハ釈迦しやかじやと存、百文しんじ候と云ふ。僧、然れは其方の手に持けるを見れば、たしかにあをとミへた。けつく、此方より百上打うハうちをとらすべしとて、百文やられける。是ハ忝候。それならハとてもの事ニ又六十文被下べし。こゝにあざが御座るとて、右のかいなに生れ付よりくろくろとしたるあざをミせ、わがしんじたる銭の外ニ、以上百六十文申うけたると也。

    (意訳)
    ある時、大仏堂の勧進の為に貴僧が一人で洛中を奉加に巡っていると、人々は奉加に金銀米銭を捧げた。そこに青菜一荷を担いで売り歩いている男が来て、売り上げの中から百文を寄進した。僧が「あなたの身なりから見ると大変な額の奉加ですが、どなたか肉親の年忌でもあるのですか」と尋ねると、「いや、そうでは有りません。あなた様は『釈伽』とお見かけしましたので百文寄進したのです。」僧が「それならば、あなたが持っているのは『青二(青物の荷)』ですから、こちらから上打ちに百文差し上げましょう。」と言って百文を渡した。「これはかたじけない。それならばいっその事、もう六十文頂きたい。ここに『あざ』が有ります。」と、生まれつき腕にある黒々とした痣を見せて、自分が寄進した百文の外に、合せて百六十文を申し受けた。

    ここには、同じ「青」の紋標の中で、「釈迦十」という強力なカードが出されたが、それを上回る強さの「青二」を出して勝負を逆転し、さらに、次のトリックを隠し持っていた中では最強の「アザピン」でリードするとデモンストレーションして六十文を追加で出させた、というゲーム展開が想定されている(「アザピン」がなぜ百文ではではなく六十文なのかは知らない)。そうだとすると、これは「合セ」の遊戯法である。

    前出『かるた』(p.86)

    上記の内、『仁勢物語』『私可多咄』の二資料は当サイトの「うんすんかるた分室」にて、江戸初期にトリックテイキングゲームが存在した事を示す資料として紹介したものです。二点に共通するのは「ソウタ」と「あざ」の間に強弱の差が有り、両資料共に「ソウタ」が「あざ」に優るとしている点であり、札の間に強弱の順があるというのは「トリックテイキングゲーム」の特徴です。

    『軽口もらいゑくぼ』の内容をトリックテイキングゲームとして捉える発想は江橋氏独自のもので、正直な所完全に意表を突かれました。確かに札の間に強弱が有る様にも読めますが、前の二資料ほど明確では有りません。この点に関する批判は後回しにして、これら三点の資料がトリックテイキングゲームだとした上で江橋氏の主張を確認して見ますと、三点とも論旨は殆ど同じです。つまり「あわせ=トリックテイキングゲーム」という公式が正しいならば逆もまた真なりと云う訳で、上記三資料にはどこにも「あわせ」の「あ」の字も出ていないにもかかわらず、それが「トリックテイキングゲーム」と考えられるというだけの理由で、自動的に全て「あわせ」であると断定されてしまっています。そこには何等の論理性も無く、従って、これらの文芸作品が全く「あわせ=トリックテイキングゲーム説」の論拠に成っていないのは言う迄もありません。

    更に江橋氏は、絵画資料の分析においても全く同じ論法を使われています。『かるた』(p.50)に掲載されている、立命館大学アート・リサーチセンター内、藤井永観文庫収蔵の『かるた遊び図』に描かれている競技風景を分析し、これをトリックテイキングゲームの一場面であると結論付けた上で、次の様に述べられています。

    これは獲得したトリックの数の多寡を競うトリック・テイキング・ゲームの遊技の場面であるから、「合セ」で遊んでいると考えてよい。

    前出『かるた』(p.51)

    と云う具合です。ちなみに、この『かるた遊び図』がトリックテイキングゲームであるという見解には全面的に賛成です。この絵が実際の遊技風景を正確に描いているならば、トリックテイキングゲームの場面と考えてほぼ間違い無いと考えていますが、これが「あわせ」であるかどうかは別の問題です。

    「あわせ」に関するもう一つの絵画資料は、全く別の奇妙な謎を投げかけています。『絵本池の蛙』から、文字を除いた挿絵だけを掲載し、そこに「合せの遊技」とタイトルを付けていますが、本文中にこの絵に関する説明は有りません(p.183)。何故「奇妙な謎」なのかと云うと、消された文字の部分を見ればお解り頂けるかと 思います。

    『絵本池の蛙』延享二年(1745)
    二子にこ/\と三子さんこにちかきよみがるた
    青二あをにひねれバおかわ二なりけり

    正直なところ、意味は良く解りませんが「二子/\」は今でも使う笑顔の「ニコニコ」、「三子」は恐らく「よみ」の役の「三光」の事、「青二(パウの2)」は「三光」役の構成札、「ひねる」はカルタ札を打つ事を表す語で、「丸二」は「太鼓二(オウルの2)」の別称です。えーと、よみかるたで「三光」役の完成が近く、ご機嫌顔で「青二」を打ったところ、何と「太鼓二」が出て来た・・・? やはり良く解らないので、とりあえず保留とします。

    ただ、間違い無く言えるのは、これは「あわせ」では無く「よみ」の遊技風景を描いたものであるという事です。何故ならば・・・

    1. そこに「よみがるた」と書かれているから。本来ならばこれだけで理由として十分であり、余計な説明は不要な筈ですが、念の為に傍証も示しておきましょう。
    2. 競技者が四人である事。「よみ」の最も標準的な競技人数は四人だと考えられています。ちなみに、江橋氏は「『合セ』は五人の競技である(『かるた』p.29)」と述べられています。その根拠は示されていませんが、想像するに、先述の藤井永観文庫蔵『かるた遊び図』をトリックテイキングゲームと推定し、トリックテイキングゲームならば「あわせ」だと断定し、ここでの競技者が五人ですので「『合セ』は五人の競技である」という結論を導き出されたのでは無いでしょうか?(違っていたらゴメンナサイ)。
    3. 脇に積まれた札の山は、その位置から見てどの競技者にも属していない様に見えます。これは「よみ」を打つ際に不要な赤絵札を取り除いたものと考えられます。場に出されている札の絵柄は、不鮮明ながら何れかの紋標の「一」の札と、恐らく「青二(パウの2)」の札に見えます。又、左の女性が今まさに打ち出そうとしている札は「オウルの3」の様に見えます。これらは「よみ」の競技開始時の描写としては理に適っています。
       一方、これが「あわせ(トリックテイキングゲーム)」の描写だとするとどうでしょうか。江橋氏の想定されている「合セ」技法では『かるた遊び図』の分析(『かるた』p.51)を見る限り、四十八枚の札を競技者に等分に配分する様ですので、余分な札は出ません。そうするとこの山札は、右側の二人の男のどちらかが競技中に獲得した札だとしか考えられません。更に、場には既に二枚の札が出されており、次に左側の女が札を打とうとしているのですから、一番右の男がこの回(トリック)の最初の札を打ち出した事に成りますので、山札はこの男が獲得した札である事が判明します。
       手札の残り枚数と山札の量から見ると、競技は既に中盤に差しかかっている様ですが、ここ迄はこの男の一人勝ち状態です。そう言えば、この男一人だけやけに嬉しそうですね。

       この様に見ると、この遊戯図は「よみ」の競技開始直後の場面としては全く自然に受け止められます。一方、「あわせ(トリックテイキングゲーム)」の中盤の一場面としては、有り得ないとは言えませんが、かなり特殊なシチュエーションであるのは藤井永観文庫収蔵の『かるた遊び図』の描写と比較すれば一目瞭然と言えます。恐らく、当時の人々にとっても、この図は「よみ」の風景に見えたに違いないと思うのですが・・・。

    この図は正に文字通り「よみ」の遊戯図だと理解するのが自然だと思われるのですが、一体どの様な根拠をもって江橋氏は、そこに書かれている文字を伏せて迄して「あわせ(トリックテイキングゲーム)」の遊技図だと主張されるのでしょうか。謎としか言いようが有りません。
    (まさか誤記ではあるまいが・・・)

    ここ迄『かるた』に於ける「あわせ=トリックテイキングゲーム説」を検討してきました。ご覧頂いた様に、「あわせ」がトリックテイキングゲームであるという事は最早「説」などでは無く、今更説明の必要の無い客観的な「事実」と見做されている様で、論証は完全に放棄されています。何故江橋氏は、ここ迄の確信を持って主張されるに至ったのでしょうか。その経緯を探る為、氏が過去に発表された文章に遡って検証する事にしましょう。

    【2】江橋説を遡って検証する

    江橋氏は『かるた』の刊行(2015年)の前年、遊戯史学会の紀要『遊戯史研究26』に『長崎奉行所犯科帳にみるカルタ博奕の実態』『江戸期の「花札」を読み解く ー誕生秘話の史実の不存在』『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』と、一気に三本の論文を発表されています。それぞれは短いものですが、内容は充実したものです。
     今回取り上げるのは、タイトルを見てお気付きの通り『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』になりますが、そこから「あわせ」に関する記述を見ていく事にしましょう。

     以前のカルタ史研究では、江戸時代前期のカルタの遊戯法について、構造的に理解する説明ができていなかった。日本には、「オンブル」のようなヨーロッパのトリック・テイキング・ゲームが伝来していたはずであるが、「オンブル」→「合せ」→「うんすん」という遊戯法の流れが見失われていた。これには、「オンブル」と「うんすんカルタ」では距離があり過ぎるという事情が作用していた。同じトリック・テイキング・ゲームでも、四十八枚のカードを使う「オンブル」の遊戯法と、七十五枚のカードを使う「うんすん」の遊戯法では違いがあり過ぎる。そこで、両者の中間に、四十八枚のカードを使う日本の遊戯法があったと想定されるのでであるが、それが見えなかったのである。
     だが、答えは身近な所にあった。それが私の「合せ」は四十八枚の「坊門」のカルタを使うトリック・テイキング・ゲームだという主張である。

    江橋 崇『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』
    『遊戯史研究26』遊戯史学会 2014年

    かつて我が国に渡来したで有ろうと考えられる「オンブル」系の技法と、後に我が国で独自に考案され、現在迄伝承されている「うんすんかるた」の技法の間に、無視し難い多くの共通点が有る事は古くから指摘されています。この二つの技法の間に、48枚のカルタを使用する同様の技法の存在を仮定するのは自然なアイデアであると思われます。当サイトに於いても、かつて「うんすんかるた分室」で同様の指摘をし、その謎の技法を仮に「うんすんかるたの元技法」と呼んで検証しています。江橋氏の説によると、トリックテイキングゲームである「合せ」こそが、当サイトで言うところの「元技法」の正体であるという事に成ります。

    こうして、四十八枚のカードを使う「オンブル」から、同じ四十八枚のカードを使う「合せ」の遊戯法が発達し、さらにそれが七十五枚のカードを使う「うんすん」に引き継がれたというラインが理解できる。これに異を唱えて、「合せ」はやはり「めくり」の前身だと理解すると、「オンブル」から「うんすん」へとつなぐ連結の部分が見えなくなるので、そこに、無名の、そして存在を証明する史料も出ていない「元技法」という江戸初期の遊戯法を想定することになる。

    前出『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』

    江橋氏による「元技法」に対する批判は、全く的外れです。「無名の」って、名前が判らないので仮に「元技法」と呼んでいる訳ですから。「存在を証明する史料も出ていない」?、江橋氏が「合せ」がトリックテイキングゲームである根拠として挙げている文芸資料『仁勢物語』『私可多咄』、及び絵画資料として藤井永観文庫収蔵の『かるた遊び図』、これらが「元技法」の「存在を証明する史料」です。いや、厳密には江戸初期に「トリックテイキングゲーム」が存在していた事を「示唆」する史料であり、「証明」するものとまで言うつもりは有りません。あくまでその技法の名称が究明される迄、暫定的に「元技法」と呼ぼうというのが当方の立場であり、それを「合せ」と断定しているのが江橋氏の立場であるだけの違いです。

    これに続く部分を読んだ時は、一瞬我が目を疑いました。しかし、何度見直しても読み間違いでは有りませんでした。

    だが、そのような面倒なことをしないでも、「合せ」が「オンブル」と「うんすん」をつなぐブリッジだと認めれば事態はとても平明に理解できるのである。

    前出『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』

    信じる者は救われるとでもおっしゃりたいのでしょうか? しかし、カルタ研究は宗教では無く学問ですので、やみくもに「認めれば」と言われて「はい、認めます、信じます」という訳には行きません。まあ、当方は所詮アマチュア、素人研究者に過ぎません。時にはその立場をいいことに、想像力にまかせて突拍子も無いアイデアを発表する事も有りますが、少なくとも重要な問題に関しては、慎重に仮説を立て、可能な限りの資料的裏付けをもって検証するという態度を取っているつもりです。その為にはたとえ「面倒なこと」であろうとも、労力を惜しむ気持ちは毛頭も有りません。

    確かに「うんすんかるた」の成立過程を考える上で、「オンブル系ゲーム」→「(トリックテイキングゲームとしての)あわせ」→「うんすんかるた」という流れには整合性が有り、大変魅力的な仮説である事は間違い有りません。しかし、先ず「あわせ」がトリックテイキングゲームである事が十分に論証されて初めて、有力な仮説として成立し得ると云う類いの問題であり、逆に、この流れに整合性が有るという事をもって、「あわせ」がトリックテイキングゲームである事の根拠には成り得ないのは言う迄も有りません。

    では、本論文の中に具体的な論証が有るかを探して見ましょう。

    問題の個所は、『雍州府志』が「又互所得之札合其紋之同者、其紋無相同者為負。是謂あはせ。言合其紋之義也。」と述べていること、つまり、現代語に訳せば「また、互いに、その得た所の札の中から紋標の同じものを合せ、それと同じ紋標の札をもっていない者は負けとする。これを合せという。こう言うのは、同じ紋標を合せ打つ義である。」という文章に関する『うんすんかるた』の次の記述である。

    前出『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』

    ここでは「合其紋之同者」を「紋標の同じものを合せ」と原文に忠実に記しています。『かるた』に於ける様に「競い合い」と創作していない点では良心的ですが、問題はこの後の部分です。続いて、山口吉郎兵衛氏の『うんすんかるた』の記述を引用した上で次の様に述べています。

     山口は「合せる」という言葉の意味を取り違えたのであり、「合せ」という言葉の語義を対応する二枚のカードを釣り取ることと考えた。だが、国語辞典を見れば、「合わせ」には①「合せること」、②「同類の二つの物を比べ合わせて、優劣を決めること」という二つの意味があるのであり、ここでは「合せ」が②の意味、つまり同じ紋標を出し合って強弱を競い合う意味であり、その紋標のカードをもたない者は他の紋標のカードを出すことになるがそれは負けであると書かれているのにそれが理解できないで、「合せ」は「めくり」の前身であり、『雍州府志』はそこを書き間違えたという誤解をしたのである。そしてこの理解はその後長く踏襲されていた。

    前出『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』

    ここでやっと、問題の本質、核心部分が見えて来ました。つまり「合せる」には大きく分けて二つの意味が有り、第一には、同質の物、対になる物、適合する物、釣り合いの取れる物等を一つにするという意味であり、昔も今もこれが「合せる」の主たる意味合いだと思われます。この意味での使用を、今後の議論においては便宜上「組み合わせ」と呼びます。
     第二の意味としては、現在はあまり使われない用法ですが、二つの物や人を対戦させる、比較して優劣を付ける、競い合わせる等の意味であり、こちらを「競い合わせ」と呼ぶ事にします。『雍州府志』の「合せ」はこの「競い合わせ」であるというのが江橋氏の主張です。こちらとしては、そう解釈する根拠が見付けられずに苦労している訳ですが、「同じ紋標を出し合って強弱を競い合う意味であり、その紋標のカードをもたない者は他の紋標のカードを出すことになるがそれは負けであると書かれているのにそれが理解できない」と、理解できない側の責任であると一蹴されてしまっては、全く取り付く島も有りません。

    だが、『雍州府志』を素直に読めば黒川の説明には不明な点も疑問を感じる点もない。同じ紋標のカードを出し合い、同じ紋標の中でのカードの強弱により、一番強いカードを出した者がそのトリックを獲得する。そして、ここでは触れられいないが、この競い合いにより一層強い「切り札」が投じられて、一番強い切り札を出した者がそのトリックを取るのもこの遊戯法の特徴である。

    前出『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』

    「素直に読めば」内容は明白らしい・・・

    ところで、江橋氏は素直に読まれた結果、かなり詳細なルールを解明されていますが、それは一体どこの部分を読まれたのでしょうか。「ここでは触れられいないが」以下の部分が書かれていないのは当然ですが、その前の「同じ紋標のカードを出し合い、同じ紋標の中でのカードの強弱により、一番強いカードを出した者がそのトリックを獲得する」という内容も又、『雍州府志』のどこにも触れられていない内容です。

    結局、本論文での江橋氏の主張は、『雍州府志』の「合」は「競い合わせ」の意味であり、同じ紋標の札を競い合わせるのであるから、これはトリックテイキングゲームだと理解出来る。更に「あわせ」がトリックテイキングゲームならば、「オンブル」系の技法と「うんすんかるた」を繋ぐ技法と考えられ、「うんすんかるた」の成立過程がスムーズに説明出来る。この様な論理展開であろうと思われます。この論理展開自体は納得出来るものですが、最大の問題点は『かるた』に於いてと同様に、大前提である『雍州府志』の「合」が「競い合わせ」の意味であるという事の証明が、全く為されていないという点に尽きます。この点については、更に古い論文に溯って検討する必要が有りそうです。

    【3】江橋説の原点を探る

    江橋氏が初めて公に「あわせ=トリックテイキングゲーム説」を示されたのは、1988年12月11日に開かれた遊戯史学会創立総会での記念講演の場であった様です。これを文章化したものが、翌年刊行された遊戯史学会の紀要『遊戯史研究1』に掲載されていますので、当該部分を引用しておきます。

    次に「合せ」というのがあります。これは、後の時代の花札のように、手に持っている札と場に出されている札とを「合わせ」るものと考えられていました。しかし、よく読んでみると、紋の同じものを出し合い、その中での高い低いが勝負、その紋がないものは負けと書いてあります。今日のブリッジやツーテンジャックのような、いわゆるトリックテイキングの遊びと理解しておいた方がよさそうです。

    江橋 崇「海のシルクロード ートランプの伝来とかるたの歴史」
    『遊戯史研究1』遊戯史学会 1989年

    カルタ史概論的な講演という性質上、踏み込んだ内容に成らないのは仕方無い事でしょう。
     「あわせ=トリックテイキングゲーム説」に関して、最も踏み込んだものは、管見では『遊戯史研究9』に掲載された論文「花札の歴史(三・完)」の次の部分かと思われます。

    ここでは花札を使用する技法「合駒骨牌」(内容は後述)の紹介に続いて、次の様に記されています。

     ところで、ここで問題なのは、このゲームが「合駒」と名付けられていることである。花合わせの場合「合せ」という言葉は自分と同じものに「合わせる」という意味である。一方「合駒」の場合は、同じジャンルでより優れた駒を競合させる、という意味である。「合せ」の意味がまったく違っている。
     「合せ」の語義のこのような転換は各種の遊戯史で生じている。『古事類苑遊戯部』には「合せ」の遊びが多数掲載されているが、「 絵合」「歌合」「花合」「香合」「鳥合」「琵琶合」「今様合」その他、多くは競い合せの意味である。「貝合」も同様で、より素晴らしい貝殻を競う遊びであった。はまぐり貝を使って本来のペアと合わせる遊びは、これとの混同を避けて「貝覆」と呼ばれていた。こうした、ダイナミックな競い合せが、自分の身分に釣り合うものに寄り添うというニュアンスの「合せ」に沈滞するのは江戸期以降であった。そして、近代では「合せ」は主として後者の意味で使われる。「貝覆」が「貝合せ」と呼ばれるようになったのは象徴的である。
     「合駒骨牌」という命名は、「合」がなお競い合せの意味で用いられていることからすると江戸前期の語感である。実に興味深い。
     かるた史の世界で「合」というと直ちに思い出されるのが貞享元年(1684)に刊行された『雍州府志』にある「互所得之札合其紋之同者其紋無相同者為負是謂合言合其紋之義也」(互いに得しところの札その紋の同じき者を合わす。その紋の相同じきなき者を負けとなす。これを「あわせ」と言う。その紋を合わせるの語義なり。)という記述である。
     山口吉郎兵衛『うんすんかるた』三八頁は、この部分を次のように理解した。
     「記述簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合わせる意味であろう。「其紋之同じき者を合す」とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代わって大いに流行した。現代の「花合せカルタ」は此技法を伝えている。」
     山口の理解はその後広く支持され、今日まで疑われたことはない。しかしこれには今日の「合せ」の語感で江戸前期の文献を理解している危うさがある。当時の語感からすれば「合せ」はまさに同じ紋標のうちで強いものを出し合う「競い合い」であったはずである。『雍州府志』はたしかに山口が言うように簡単すぎてよくわからないが、「同じ紋のものを競い合わせる」という基本構造の記述は「間違い」ではなかろう。
     『雍州府志』の誤読が生じる原因の一端は、その後「合せ」技法に関する記録が発見できていないことにあった。永沼の「合駒」の記述は、二〇〇年の空白期を経た第二例目の記録として貴重である。

    江橋 崇「花札の歴史(三・完)」(pp.39-40)
    『遊戯史研究9』遊戯史学会 1997年

    漸く論証らしきものが見えて来ました。つまり、「合」の語感として先に定義した「組み合わせ」と「競い合わせ」とを比較すると、遊戯の世界においては元々「競い合わせ」の語感が主だったものが、江戸期以降に「組み合わせ」の語感に変化していったとし、その根拠として『古事類苑』に数多く記載されている「物合(合せもの)」を挙げています。変化の起きた時期については「江戸期以降」という曖昧な表現になっていますが、

    「合駒骨牌」という命名は、「合」がなお競い合せの意味で用いられていることからすると江戸前期の語感である。

    という記述から察するに、江戸前期の語感は「競い合わせ」だと認識されている様です。従って、貞享年間(1684-1688)という、江戸時代の比較的早い時期に成立した『雍州府志』に関しては、「合」の語感を「競い合わせ」の意味で解釈すべきであるというのが江橋氏の主張であり、これこそが「あわせ=トリックテイキングゲーム」説の根幹を為す部分であろうと考えられます。

    漸く論点が明らかに成った所では有りますが、その検証の前に、少し横道に逸れさせて頂きます。但し、かなり重要な横道ですのでしばしお付き合い下さい。

    【4】「あわせ」技法内容変化説(仮称)について

    『かるた』に先だって出版された前著『花札』の中に、上記引用(「花札の歴史(三・完)」)とほぼ同じ内容の記述が有りますが、内容が一部変更されていますので比較して見ましょう。

    ダイナミックな競い合せが、自分の身分に釣り合うものに寄り添うというニュアンスの「合せ」に沈滞するのは江戸期以降であった。

    前出「花札の歴史(三・完)」

    ダイナミックな「競い合せ」のゲームが自分の身分に釣り合うものに寄り添うというニュアンスの「合せ」ゲームに沈滞するのは江戸期中期以降であった。

    江橋崇『花札(ものと人間の文化史 167)』法政大学出版局 2014年 (p.101)

    うっかり見落としてしまいそうな僅かな違いに見えますが、実は大きく文意が変わってしまっているのがお解りでしょうか。
     元々の文意は「合せ」の語感の変化について述べたもので、「競い合わせ」の語感が「組み合わせ」に変化していったのは江戸時代以降であったとしています。江戸時代以降という表現が曖昧ですが、江戸時代前期成立の『雍州府志』の「合せ」は「競い合わせ」の意味と取るべきあるという文脈の中の記述ですので、江戸初期には「競い合わせ」という語意が主であったとお考えの様です。
     一方、『花札』の方では「合せ」技法の内容についての記述に変わっています。『雍州府志』の時代の「あわせ」技法は「競い合わせのゲーム(トリックテイキングゲーム)」であったものが、江戸期中期以降に「あわせ」技法は「釣り合うものに寄り添う(めくり系ゲーム)」に変化した、この様な主張に変わっています。つまり、江戸前期の「合せ」はトリックテイキングゲームであり、江戸中期以降の「合せ」はめくり系ゲームであるという事です。

     これと似た主張が『かるた』の中にも見られます。

    物事を競い合うという戦国時代、安土桃山時代の気風が薄れて、封建の世で自己の身分によって周囲、世間に合せる生き方が求められるようになると、それに呼応するように、「合セ」という呼称の遊戯も日本式の「物合せかるた」をもっぱら意味するようになった。

    前出『かるた』(p.123)

    直接的には「物合せかるた」に関する記述ですが、根本的な認識としては「あわせ」技法に関するものと同一と考えて良いでしょう。ここでは、より明確に「合セ」という呼称の遊戯の内容が、時代によって変化したと主張されています。
     江橋氏が「合せ」技法は江戸中期に「トリックテイキングゲーム」から「めくり系ゲーム」に変化したという立場を取られていると言うと、驚かれる方もいらっしゃるかも知れません。江橋氏自身が『かるた』中でははっきりと説明されていない為、気を付けていないと見過ごしてしまいそうなのですが、前出の論文『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』では明確に記されています。

    「伊勢」を使う「テンショ」は「めくり」の前身の「天所」(江戸時代中期以降の「合せ」)の後継者だと理解している。

    前出『「合せ」カルタの技法 ー『雍州府志』の誤読解消で見えるもの』(p.36)

    この点を認識していないと、『かるた』の中の次の二つの記述に戸惑われるのでは無いでしょうか。

    江戸時代前期に「ヨミ」と人気を競っていた遊技法の「合セ」は、この時期になると人気を失い、消滅していった。「合セ」は四十八枚のカードを用いるトリック・テイキングの遊技であり、同種のものは世界各地にあり、ゲームとしては十分に興味深いものであるから、これが江戸時代中期の日本の社会で嫌われた理由はよく分らない。いずれにせよこの時期からこうしたトリック・テイキングの遊技が一部に例外はあるものの日本のカルタ遊技から消えたことは確かである。

    前出『かるた』(p.183)

    消滅した筈の「合セ」ですが、僅か数ページ後には不死鳥の如く復活します。

    この時期に関西地方では「テンショウ」(別名「合セ」)というカルタの遊技法が登場した。

    前出『かるた』(p.188)

    あれ?
    「あわせ」は消滅したのでは??
    あれあれ???

    江橋氏によれば『雍州府志』を始めとして江戸初期の文献に散見される「あわせ」はトリックテイキングゲームであり、これは江戸中期の或る時期迄に一旦消滅したというのが最初の引用で、それ以降の資料に見られる「あわせ」は、同じく江戸中期の或る時期に登場した新たな技法「てんしょ」の別名であるというのが後の引用です。
     いきなり「あわせ」を「てんしょ」の別名とするのは少々乱暴かと思いますが、少なくとも江戸中期以降の「あわせ」が、「てんしょ」と同じくめくり系ゲームであるという事を認められている点に関しては、当方と立場を同じくされています。しかし江橋氏は、江戸初期の『雍州府志』の「合」に関してはトリックテイキングゲームである事が確実という立場ですので、一旦それを消滅させる必要が有る訳ですし、そうする以外に取るべき道は有りません。

    ここで一つ、告白する事が有ります・・・

    実は・・・正直に言いますと、私自身もかつてこの「あわせ」技法内容変化説(仮称)の誘惑に負けそうになった経験が有ります。前稿の執筆当時、「あわせ」はめくり系ゲームだという結論に達してはいたものの、『雍州府志』の「合」に関してだけはトリックテイキングゲームである可能性を否定しきれずに苦悩しておりました。当時の『江戸カルタ掲示板』への書き込みをご覧頂下さい。

    実は「あわせ」に関して、本文には書きませんでしたが、掟破りのアイデアを一つ持っています。それは「あわせ」の内容が時代によって変化したのではないかという事です。元々、江戸初期の「あわせ」はトリック・テイキング系の技法で「うんすんかるた」の元と成りました。『雍州府志』に書かれている「合」はこちらであり「競い合わせ」の意味の合わせです。この技法の衰退後に「あわせ」の名称は「めくり」系統のマッチング・ゲームに流用されました。「同じ物を合せる」という意味で、これが『教訓世諦鑑』に書かれた「あハせ哥留た」です。

    いかがでしょう??これで問題は全て解決です。こんな都合の良い解釈が許されるならばの話ですが・・・

    すだれ十『江戸カルタ掲示板』2007年 7月29日

    冗談めかして書いていますが、当時は本文中でこの立場を取るべきか否か、真剣に悩んだ記憶が有ります。結局、すんでの所で思い止どまった為、結果として本文での結論が中途半端なものに為らざるを得なかったという経緯が有ります。ところが、さすがは江橋先生、何の躊躇も見せずに一気に中央突破されてしまいました・・・。
     勿論、有り得ない訳ではありません。しかし、この説を唱える為には、次の二点を十分に立証する必要が有ると考えます。

    1. 江戸中期以降の「あわせ」がめくり系技法である事。
    2. 『雍州府志』の「合」を含む、江戸初期の「あわせ」がトリックテイキングゲームである事。

    もしもこの二つの条件が完全に満たされているならば、江戸前期から中期にかけての或る時期に、「あわせ」という名称の指す技法の内容に断絶、或いは変化が有ったと認めざるを得ない事になります。

    1. については、既に本稿で十分に論証したつもりですし、江橋氏にも認めて頂けている様です。
    2. この点について、江橋氏が十分な論証を示されているか、これこそが今まさに検証中の問題です。

    さて、寄り道はこの位にして早速本題に戻りたいところですが、本稿もかなり長く成りましたので一旦稿を改めさせて頂く事とし、最後に恒例と成りつつある「おまけ」をお届けいたします。

    【5】再び、おまけ

    論証の本筋とは直接関係有りませんが、『かるた』書中で、明らかに内容の間違いと思われる箇所を指摘しておきます。

    前に指摘した、当サイトのURLの他にも、明らかに単純ミスと思われる間違い箇所が幾つか有ります。

    何れも単純なミスや、思い違いかと思われます。勿論、最終的に校了を出された江橋氏の責任は免れようが無いのは当然ですが、これらの間違いをもって江橋氏を非難しようとか、貶めようといった意図で指摘したのでは有りません。寧ろ大歓迎だと言って良いでしょう。何しろ、江橋先生をしてこれだけの間違い、見落としを犯されているのですから、いわんや浅学ど素人のサイトに於いてをや、という訳です。自慢じゃ無いが(当り前だ)拙サイトなど叩けば埃が、いや、詳しく調べればボロボロと間違いが見つかる事、請け合いです(開き直ってどうする)。

    勿論、間違いは無いに越したことは有りませんが、生身の人間、いかに注意しても間違いを100%排除する事は不可能であり、又この手の単純ミスは、得てして書いた本人自身には気付きにくいものと思われます。本書『かるた』は、現在のカルタ研究に於ける最も重要な参考文献であると同時に、将来カルタの勉強を志す者にとっても重要な教科書と成るものと確信しているが故に、些細な間違いではありますが、敢てここで指摘させて頂きました。本書重版の折りに訂正される事を切に願う次第です。

    公開年月日 2016/06/05


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