中編では、江橋崇氏の「あわせ=トリックテイキングゲーム説」について色々と検討しましたが、もう一度江橋説の問題点を整理しておきましょう。
この様に近年の江橋氏の主張は、全て『雍州府志』の「合」がトリックテイキングゲームであるという大前提の基に組み立てられているにも拘らず、その前提自体に対する説明が不十分であると言わざるを得ません。勿論、過去に於て十分に証明を尽くされているならば問題は有りません。この点に関して、管見では最も踏み込んだものと思われる論文、『遊戯史研究9』に掲載の「花札の歴史(三・完)」の内容を検討したいと思います。
江橋氏は「花札の歴史(三・完)」の中で、「あわせ=トリックテイキングゲーム説」の根拠として①合駒骨牌、②物合、③「合せ」の語感の変化の三点について論じておられます。順に検討して行きましょう。
①「合駒骨牌」について
ところで、ここで問題なのは、このゲームが「合駒」と名付けられていることである。花合わせの場合「合せ」という言葉は自分と同じものに「合わせる」という意味である。一方「合駒」の場合は、同じジャンルでより優れた駒を競合させる、という意味である。「合せ」の意味がまったく違っている。
(中略)
「合駒骨牌」という命名は、「合」がなお競い合せの意味で用いられていることからすると江戸前期の語感である。実に興味深い。
(中略)
『雍州府志』の誤読が生じる原因の一端は、その後「合せ」技法に関する記録が発見できていないことにあった。永沼の「合駒」の記述は、二〇〇年の空白期を経た第二例目の記録として貴重である。江橋 崇「花札の歴史(三・完)」
『遊戯史研究9』遊戯史学会 1997年
どうやら江橋氏は、「合駒骨牌」の「合」は「競い合わせ」の意味であり、これは「あわせ=トリックテイキング系技法説」を支持するものであるとお考えの様です。
「合駒骨牌」とは、明治四十一年に雑誌『風俗画報』上に掲載された永沼小一郎氏の論文、「古今室内遊技余談」に記された花札技法です。
序に合駒骨牌の遊方を述て後の紀念とせんに、之も二人又は四人の遊にして、松、櫻、月、雨、桐の五王を切札とし第一番より題として隨意に牌を出し、同じ繪の牌なれば、一枚にても二枚にても三枚にても又四枚ながら一度に出す差支なしと雖、梅一枚ならば詮方なし、然れども王を出して之を切ると切らざるとは任意なり。若し梅二枚を受る人なく又切る人もなければ、梅の主は再び他の題を出すかゝる時には間と云ひて、何の牌にても一枚捨てゝ新に題を出すこと幾囘にても同じ、かくて早く牌を盡したるものを勝とする也。永沼小一郎「古今室内遊戯餘談」
『風俗画報 三八一号』明治四十一年
江橋氏は合駒骨牌」の競技法の解読を、「花札の歴史(三・完)」と『花札』に於ての二度試みられており、両者には若干の違いがみられますが、ここでは新しい方の『花札』の解釈をご紹介致します。
「合駒骨牌」は二人または四人で遊ぶ。すべてのカードを配り分け、まず第一番の競技者が任意にカードを出す。他の競技者は座の順番によってより強い紋標のカードを出し、最強のカードを出した者が次の第一番になって次の回をリードできる。第一番が同じ紋標のカードを二枚出したときは他の者はより強い紋標のカードが二枚なければ出せない。その際に、「五王」の札を切り札として使うことで二枚になるならばそうしてよい。三枚のときは三枚、四枚であれば四枚でないと対抗できない。残念なことに、どの紋標が強く、どの紋標が弱いのかは記述がない。ただ、「梅」のカードが最も弱いらしく、「梅」一枚でリードするのでは詮方ないが、こういう「梅」でも、二枚でリードして、他の競技者がより強い紋標の札二枚で対抗するか、あるいは切り札の「王札」を使って対抗することがなければそのトリックは勝ちで、次にもう一度リードすることができる。こうして手札を早くなくした者が勝ちとなる。
こう理解してみると、永沼は花札を使った「大貧民」というトランプの遊技法に近いトリック・テイキングの遊び方を紹介していたことになる。江橋崇『花札(ものと人間の文化史 167)』法政大学出版局 2014年 (pp.99-100)
「五王」の使用法に少々疑問が有りますが、今は深入りしません。何れにせよ「合駒骨牌」がトランプの「大貧民」に似た遊戯法であるのは間違い無いでしょう。この様な原理に基くカルタ・花札技法は他に類を見ない「合駒骨牌」独特なものであり、貴重な本技法の発掘は江橋氏の功績に間違い有りません。しかしながら逆に、他に同類の技法も関連する資料も見当たらないならば、先ずは「合駒骨牌」の資料としての信頼性、妥当性に対する慎重な評価が不可欠な筈です。もう少し平たく言いますと、「素性は大丈夫? 信用出来るの?」「江戸初期のカルタ技法と何か関係有るの?」という事です。
身も蓋も無い言い方に成りますが、実際の所その素性は不明ですし、少なくとも江戸初期とは何の関係も無さそうです。「合駒骨牌」は、永沼小一郎氏自信が考案されたオリジナル技法かも知れませんし、或いは、当時一部で実際に競技されていた技法であった可能性も有ります。更には、何等かの伝承に基く技法であった可能性も有りますが、少なくとも名称の由来が江戸初期にまで遡り得ると考える根拠は有りません。
ところで、江橋氏は「合駒骨牌」の「合」は「競い合わせ」の意だとされていますが、果たしてそうなのでしょうか。そもそも「大貧民」がトリック・テイキングの技法というのが初耳です。私は、てっきりストップ系のゲームに分類されるものと思っていました。確かに、トリックテイキングゲームの原理は札を「競い合わせる」という感覚で理解出来ますが、「大貧民」系ゲームの原理を、札を「競い合わせ」ていると言えるのかは甚だ疑問です。寧ろ「合駒骨牌」の「合」は、複数の同種の札を「組み合わせて」出せる事に基くものと考えた方が、「大貧民」系技法の実態により近いと思われるのですが、如何でしょうか。
②「物合(合せもの)」について
江橋氏は、山口吉郎兵衛氏の『うんすんかるた』から例の部分の引用を示した上で、次の様に批判されています。
山口の理解はその後広く支持され、今日まで疑われたことはない。しかしこれには今日の「合せ」の語感で江戸前期の文献を理解している危うさがある。前出「花札の歴史(三・完)」
江戸前期の文献を今日的な感覚で解釈すべきで無いという指摘は、全くその通りだと思います。しかし、江橋氏ご自身は江戸前期の語感をどの様に理解されているのでしょうか。例えば、競い合わせとしての「合せ」の具体例として示されている『古事類苑』の「物合(合せもの)」に関する記述をもう一度見てみましょう。
「合せ」の語義のこのような転換は各種の遊戯史で生じている。『古事類苑遊戯部』には「合せ」の遊びが多数掲載されているが、「絵合」「歌合」「花合」「香合」「鳥合」「琵琶合」「今様合」その他、多くは競い合せの意味である。「貝合」も同様で、より素晴らしい貝殻を競う遊びであった。はまぐり貝を使って本来のペアと合わせる遊びは、これとの混同を避けて「貝覆」と呼ばれていた。前出「花札の歴史(三・完)」
『古事類苑』の遊戯部には囲碁、将棊、骨牌等の項目別に関連資料の抜粋が数多く掲載されており、引用の「絵合」「歌合」等は全て『物合』の項に収録されているものです。
ところで、そもそも「物合」「合せもの」とは何かというと・・・いや、当方の拙い文章力でくどくどと説明するよりも、簡潔、且つ明解な説明を引用する方が余っ程分かり易いと思いますので、先ずは江戸期のものをご紹介しましょう。
え? 分かりにくいですか? では、念の為に現代の研究水準での見解もご紹介いたしましょう。
多様な「合せもの」は貴族達の消閑のため考案されたのであろうが、遊びを楽しむための創造といえる。勝敗が明白なものだけでなく、作歌や工芸品などのように優劣が確実に判定できないものも比べあっている。形式は常に左方と右方に分れ、場合によれば念人達も定めて、二つのグループによる対抗であった。増川 宏一『合せもの(ものと人間の文化史 94)』法政大学出版局 2000年 (p.54)
ここで、ぜひ記憶に留めておいて頂きたいのは、「物合」は必ず、一対一での競い合わせであるという点です。多数の物を競い合わせる場合も、全体を左右二組に分け、それぞれから順番に一対一の組合わせでの優劣を競います。勝者同士を更に競い合わせてチャンピオンを決める事は有りません。
例えば、古来から有る「物合」の一つに「競馬」が有ります。これは「けいば」では無く「きそいうま」と読みます。ゴールまでの早さを競うのは「けいば」と同じですが、「きそいうま」では各馬ゲートから一斉にスタート・・・は、しません。左右の組から一頭づつの組み合わせで競い合い、勝者の多かった組が勝ちと成ります。これが「物合」です。
ところで、江橋氏は以前この点について誤解をされていた節が有ります。
この、「合わせ」という言葉の変化にも面白いものがあります。江戸時代になる前は、日本では、合わせのゲームとは競争するという意味でした。たとえば歌合わせといえば、何人もの人間が和歌を作ってきてコンテストをすることです。貝合わせは、誰がもっとも見事な貝殻を持っているかのコンテストです。花合わせも、見事な花を出した者が勝ちというコンテストのゲームです。ところが、江戸時代になると、合わせるという意味が変化して、自分にあったものに身を寄せていくという内容になってきます。ですから、貝覆はいつの間にか貝合わせと呼ばれるようになり、花札のように、自分と合ったものに合わせていくゲームが花合わせと呼ばれるようになります。江橋 崇「海のシルクロード ートランプの伝来とかるたの歴史」
『遊戯史研究1』遊戯史学会 1989年
「歌合せ」も「貝合せ」も、断じてコンテストでは有りません。必ず、一対一で優劣を競い合うものです。さすがに、今では江橋氏も認識を改められている事とは思いますが、これが最初に「あわせ=トリックテイキングゲーム説」を唱えられた時期の認識だった事には留意しておくべきでしょう。何故かというと、この「物合」に対する誤解がそのまま、「競い合せ」としての「合せ」の語感に対する認識に繋がっている恐れが有るからです。
断定は出来ませんが、「競い合わせ」の意味としての「合せ」も又、一対一の間での優劣を比較する事を基本としている様に思われます。現代の国語辞典の記述を確認しておきましょう。
戦闘・勝負事・物合わせなどで、両者を取り組ませる。対立させる。『角川 古語大辞典』 角川書店 昭和五十七年
物と物、あるいは人と人とを比べる。比較する。また、物の優劣を比べる遊びをする。『日本国語大辞典 第二版』 小学館 2000年
何れも一対一での比較、競い合いのニュアンスが強い様です。もしも「競い合わせ」が二者間に限定されるものであったり、三者以上にも適用されるにしても極めて例外的な用法であったならば、「あわせ=トリックテイキングゲーム説」にとっては重大な問題が生じます。というのも、トリックテイキングゲームが、主に三者以上の競技者によって争われるタイプのゲームだからです。勿論、トリックテイキング系ゲームにも「ピケ」や「ヤス」等の二人ゲームは有りますが、少なくとも我が国に伝来したトリックテイキングゲームは、三者以上の競技者によって争われるタイプのゲームであったと考えて間違い無いでしょう。だとすれば、そのゲームに対して「合せ」と名付けようという発想自体が生まれて来ない筈で、「あわせ=トリックテイキングゲーム説」は、その根底から覆される事態に陥りかねない問題です。
しかし今は、この問題にこれ以上深入りするのは止めておく事にして、「物合」の問題に戻りましょう。
多種多様な事象を対象とした「物合」は、確かに「競い合わせ」の意味での「合せ」を基本原理とした遊戯です。従って、遊戯史における「合せ」の意味を考える上で無視出来ない存在であるのは間違い有りませんし、江橋氏がこれを論証の中で持ち出した意図も理解出来ます。
確かに、江橋氏が指摘する通り、『古事類苑』の巻三十「遊戯部」には「合せ」の遊びが多数掲載されており、その「多くが競い合わせの意味である」のも間違い有りません。しかし、そもそも『古事類苑』の「物合」の項は、競い合わせの遊戯である「物合」に関する文献を収集したものですので、「多くは競い合わせの意味である」のは当たり前ちゃー当たり前の話しですよね。
問題は、これらの「物合」の記述が、江戸初期の「合せ」の語感を推測する根拠と成り得るのかという点に尽きます。そこで『古事類苑』の内容を基に、「物合」が隆盛していた時代はいつ頃なのかを考えてみましょう。
『古事類苑』の「物合」の項には、49ページに渉って総数191点の文献が引用されています。本来ならば、全ての文献の成立年代を確認すべきなのでしょうが、少々手抜きをさせて頂いて、引用中に元号が記されているもののみをピックアップし、更に重複しているものを省くと総数46の元号を確認出来ました。これを一般的な時代区分毎に分けると次の様に成ります。
平安時代だけで全体の五割以上を占めています。鎌倉時代、室町時代を含めた中世という区切りで見ると凡そ九割を占めており、安土桃山時代以降の、いわゆる近世のものは全体の一割程度に過ぎません。尚、その他の、元号の記されていない文献に関しても、ざっと目を通した限りでは、江戸前期の俳書の書名が時々目に留まりはするものの、全体としては中世の資料が大半を占めている様です。
勿論、この様な大雑把な集計結果をもって、何等かの確定的な結論が導き出される訳では有りません。しかしながら『古事類苑』に見られる、掲載文献の成立年代の極端な偏りという明白な事実は、決して偶然の結果とは思われません。偏りの原因としては『古事類苑』の編集方針自体の問題や、編集当時に利用可能であった資料の状況といった問題も考慮すべきかも知れませんが、最も根本的な要因は「物合」が盛んに行われていたのは中世であり、中でも特に平安時代という王朝文化、貴族文化の最盛期において隆盛を極めたという歴史事実を反映しているものと考えて間違い無さそうです。
尤も、何もこんな数字遊びをする迄も無く、「物合」が平安時代の貴族文化において隆盛を極めた事はちょっと調べれば簡単に判る事なのですが、江橋氏が『古事類苑』の「物合」を引き合いに出されたもので、つい余計な遊び心を起してしまった次第です。つまりは、「『古事類苑遊戯部』には「合せ」の遊びが多数掲載されて」おり、その「多くは競い合せの意味である」という指摘自体は真実で有るにせよ、その事と『雍州府志』の「合」が「競い合わせ」の意味か否かという問題とは、時代的に見ても無関係であるという事です。
江橋氏は、山口吉郎兵衛氏の説に対して「今日の『合せ』の語感で江戸前期の文献を理解している危うさがある」と批判されましたが、返す刀で江橋氏に対しては、近世以前の語感で江戸前期の文献を理解している危うさがある、と逆批判せざるを得ません。
③「合せ」の語感の変化
物事を競い合うという戦国時代、安土桃山時代の気風が薄れて、封建の世で自己の身分によって周囲、世間に合せる生き方が求められるようになると、それに呼応するように、「合セ」という呼称の遊技も日本式の「物合せかるた」をもっぱら意味するようになった。江橋崇『花札(ものと人間の文化史 167)』法政大学出版局 2014年 (p.123)
確かに、戦乱の世が終わり、天下泰平の世が続く事によって人々の気風にも変化がもたらされるという考えは、一般論的な歴史観としては理解出来ます。それにより「合せ」の持つ語感にも変化が有ったという考えも不自然ではありません。
実際、我が国を代表する(そして、私が最も尊敬する)遊戯史研究者である増川宏一氏も又、著書『合せもの(ものと人間の文化史 94)』の中で同様の見解を述べられています。
中世の言語や表現には独特の語義や意味がある。近世の言語ももた独特の形容や内容をもっている。「合せる」行為もこれまで述べてきたように、相撲や競争のようなせり合せ、刃を合せるなどの武技があり、動物を闘わせる合せ、優劣を比べる意味での合せがある。また、富くじやかるた等のように、重ね合せる、数を一致させるという意味での「合せ」が存在することも述べた。
多くの例を挙げたように、「合せ」は各々の時代や社会環境で異なったニュアンスをもっている。これらの変遷は時代の反映であり、それぞれの時代に特有な生活全般から生み出されたといえる。増川 宏一『合せもの(ものと人間の文化史 94)』法政大学出版局 2000年 (pp.262-263)
この引用は本書の最終盤、全体の総括とも言える部分の書き出しの文です。つまり本書自体が、我が国の遊戯史における「合せ」の意味の変遷という視点を、重要なテーマとして構成されていると言って良いでしょう。大まかな時代区分といては「中世」と「近世」との比較で、その時代環境の影響によって、遊戯の主流が「競い合わせ」から「組み合わせ」へと変化していったと読み取れます。
これに関連して、同書からもう一か所引用いたします。
さいころ賭博と並んで近世の賭博の双璧となったかるた賭博は、絵合せ、めくりの遊戯法、いろはかるたにみられるように、同種のものを「合せる」遊戯法であった。換言すれば「一致させる」「合一させる」という同じものに統一する用法である。概念が先行して言語で表現されたのであろうが、「合せる」内容は対立して争う行為から、同じものを求める行為に変化したといえる。かるたの流行と多用が、「合せる」の意味を変える原動力の一つになったとも考えられる。同前『合せもの』(pp..149-150)
何と、近世における「カルタ」の流行、それも「組み合わせ」系の遊戯法の隆盛が「合せる」の語意の変化を促す要因となったというのですから、私の様なカルタ大好き人間としては、何ともワクワクさせられる話しですね。しかし冷静に考えれば、全く無責任な立場の当方でさえちょっと躊躇する様な、かなり大胆な仮説ではあるのですが、増川先生が言われると不思議と説得力が有ります。
増川宏一氏と江橋崇氏のお二人のお考えに、どの様な影響関係が有ったのかは定かではありませんが、正に当代を代表する遊戯史研究者のお二人が揃って主張されている、「合せる」の語感が時代によって変化したという基本的な認識に関しては全く異存は有りません。しかし、この様な一般論的な歴史観では「あわせ」技法の内容自体が変化したという主張の根拠には成り得ませんし、ましてや『雍州府志』の「合」技法という個別の事例に関して、それが「競い合わせ」なのか「組み合わせ」なのかを判断する根拠とは成り得ないのは言う迄も有りません。
江橋論文の続きを見ましょう。
「貝合」も同様で、より素晴らしい貝殻を競う遊びであった。はまぐり貝を使って本来のペアと合わせる遊びは、これとの混同を避けて「貝覆」と呼ばれていた。前出「花札の歴史(三・完)」
そうですね。
こうした、ダイナミックな競い合せが、自分の身分に釣り合うものに寄り添うというニュアンスの「合せ」に沈滞するのは江戸期以降であった。そして、近代では「合せ」は主として後者の意味で使われる。「貝覆」が「貝合せ」と呼ばれるようになったのは象徴的である。前出「花札の歴史(三・完)」
ちょっと待って下さい。「江戸期以降」とはいつ頃の事なのでしょうか。不明瞭な表現では有りますが、常識的には「江戸時代になってから徐々に」というニュアンスと感じとれます。しかし、驚くべき事に(いや、今更もう驚きはしませんが)近著『花札』(p.101)の中で、ほぼ同様の記述を載せながら、何等の説明も無く「江戸期以降」の部分を「江戸時代中期以降」と書き改められています。そうせねば成らなかった江橋氏のお気持ちは、痛いほど察せられます。何せ、江戸初期に書かれた『雍州府志』の「合」が「競い合せ」の意味であるという事が、言わば江橋説の生命線とも言える部分ですので、「合せ」の語感の変化は江戸中期以降でないと、どうにも都合が悪いので・・・以下、略。
「花札の歴史(三・完)」も、いよいよ結論部分となります。
当時の語感からすれば「合せ」はまさに同じ紋標のうちで強いものを出し合う「競い合い」であったはずである。『雍州府志』はたしかに山口が言うように簡単すぎてよくわからないが、「同じ紋のものを競い合わせる」という基本構造の記述は「間違い」ではなかろう。前出「花札の歴史(三・完)」
「競い合い」であったはずである・・・これが結論です。そして、その理由は「当時の語感からすれば」です。「当時」とは『雍州府志』の成立した貞享年間(1684-1688)頃という事になりますが、江橋氏の論法では「当時」の世間一般における「合せ」の語感は「競い合い」の意味で有ったか、少なくとも明らかに優勢で有った事が前提条件と成ります。しかし、残念ながらこの点に関して、当方の乏しい読解力では納得するに足る説明を見出す事は出来ませんでした。にも拘らず、「あったはずである」と言われましても・・・。果たして本当に江橋氏の言う様に、当時の「合せ」の語感は「競い合い」だったのでしょうか?
この質問に対しては、かなりの自信を持ってお答え出来ます。答えはズバリ
当時の語感からすれば、「そんなはずはない」です。
当方、カルタに関する資料収集の為に、そこそこの数の近世資料に目を通して来たつもりです。勿論、熟読と言うには程遠い、流し読み、斜め読みといった程度のものですが、それでも長年続けていると目が馴れてくるというのでしょうか、不思議とカルタに関係が有りそうな語句には敏感に反応する様になるものです。「合」もそういった語の一つで、注意を払って読んできたつもりですが、少なくとも江戸初期の資料中の「合」は「競い合い」の意味である、というのは素人目にも全く資料事実に反しています。まあ「お前の印象など何の証拠にもならん」と言われるならば、「おっしゃる事はごもっとも」と答えるしかありませんが、しかし考えてもみて下さい。世の名だたる国語学者や近世文学の専門家の中に、江戸初期の文献だからと云う理由で、そこにある「合」は「競い合い」の意味である、という様な解釈をされる方が果たして一人でもいらっしゃるのでしょうか?
近世初期における(更に、中世まで遡って見ても恐らく)「合せ」の主たる語意は「組み合わせ」系のものであり、「競い合わせ」系の意味の方が特殊な用法だと考えて良いと思われます。この点については、証拠と成る資料を御覧頂きましょう。
『日葡辞書』(1603年刊)は、キリスト教布教の為に日本を訪れていたイエズス会の宣教師らによって編纂された辞書です。日本語の表題語の意味をポルトガル語で説明しているもので、当時の日本語の語彙を知る上で大変貴重な資料だと言えます。
『日葡辞書』から「合せる」に関する用例と意味を抜き出したのが下の一覧です。尚、頭の数字は便宜上付け加えたものです。
全二十項目を「組み合わせ」と「競い合わせ」とに分けるならば、⑱と⑲の二項目は、正に「競い合わせ」としての「合せ」と言えます。更に、⑬と⑰もそれに近い用法と言っても良いでしょう。その他は「組み合わせ」に属する用法と考えられます。つまり、「競い合わせ」としての「合せ」の用法は、全体の一割からせいぜい二割程度という事に成ります。しかも、全て後半に出ているの事も単なる偶然では無く、当時の語法での優位を示すものと考えられます。
『日葡辞書』の性格から考えると、この二十項目は、編者によって網羅的に集められた用例を分類、整理したといった類いのものでは無く、彼等が日常の生活でしばしば耳にしていた用法を掲載したものと考えるのが妥当でしょう。だとすれば、全体のせいぜい二割程度という割合は、当時の一般社会における「合せ」の用法の実態を反映していると考えて良さそうです。つまり、『日葡辞書』が編纂された近世初期(江戸時代以前です)においては、「組み合わせ」こそが「合せ」の主たる語意であった事を示していると考えられます。
更に、『雍州府志』の成立は『日葡辞書』の凡そ八十年後の事ですが、その間に「競い合わせ」の語感が強まっていったとは考え難く、寧ろ徐々に弱まっていったであろうと考えるのが自然でしょう。つまり『雍州府志』の時代の「合せ」は主に「競い合わせ」の意味であったとか、或いは、多少なりとも「競い合わせ」の語感の方が優勢だったとは到底考えられないという事です。
以上、「花札の歴史(三・完)」の主たる論旨である①合駒骨牌、②物合、③「合せ」の語感の変化の三点について検討し、併せて近世初期の資料事実に関する私見、並びに『日葡辞書』の記述の分析を示しました。その結果、江戸初期の「合せ」の語感は「競い合わせ」だったとする主張には全く説得力が無く、従って、「当時の語感からすれば『合せ』はまさに同じ紋標のうちで強いものを出し合う『競い合い』であったはずである」という結論には、これといった根拠が無い事を示せたかと思います。
さあ、これでスッキリされましたでしょう・・・か?
いや、まだスッキリされては困ります。何せ、実はここからが本番、漸く本稿の主題が始まるのですから。
「え!? じゃあ、今迄のは何だったの?」
えーと、長過ぎる序章と言うか、壮大な「おまけ」と言うか・・・。
まあ、さすがに「おまけ」は言い過ぎにしても、本稿の中編から後編のここ迄、延々と続けて来た江橋氏説への批判など、実際には大して意味など有りません。いくら批判を積み上げたところで、そこから導き出される結論はせいぜい次の様なものです。
『雍州府志』の「合」は「競い合わせ」であるとは言えない。従って、「あわせ」はトリックテイキングゲームであるとは言えない。
この程度の結論で終っては、江橋先生から頂戴したご批判に対する回答というには余りにもお粗末であり、恥ずかしくて先生に合せる顔が有りません(勿論、お会いする予定は有りませんが)。
これに対して、本稿で目指す結論は次の様なものです。
『雍州府志』の「合」は「競い合わせ」では無い。従って、「あわせ」はトリックテイキングゲームでは無い。
僅か数文字の違いですが、意味の上では大きな違いが有ります。少なくともここ迄しっかりと論証出来て初めて、江橋先生から頂いた多大なるご学恩に対して、僅かながらも報いる事が出来るものと考えております。
【2】『雍州府志』の「合」とは?(一)
くどい様ですが、問題点をもう一度確認しておきましょう。
『雍州府志』の「合」がどの様な技法なのかを推測する為には、「合其紋之同者(その紋の同じものを合せる)」の「合」がどの様な意味かを特定せねば成りません。具体的に言うと、この「合」が「組み合わせ」なのか「競い合わせ」なのかを特定出来るならば、カルタ技法としての「合」の真の姿も、自ずから見えて来る筈です。
江橋氏は『雍州府志』を「素直に読めば」これが「競い合わせ」の意味であるのは明白だとされています。確かに資料と向き合う時、先入観を持たないという意味で「素直に読む」という姿勢は大切かと思います。しかしそれ以上に、資料に対しては基本的には批判的に、且つ徹底的に読むという態度が大切ではないかと考えます。その上で資料全体が語りかけてくる言葉に「素直に」耳を傾ければ、自ずと真実が見えて来るのでは無いでしょうか。
少々気取った言い回しをしてしまいましたが、具体的な方法としては、至ってシンプルなものです。その方法とは『雍州府志』全体から全ての「合」の文字を抜き出して、その用法を確認しようというものです。ね、簡単でしょ?。まあ、多少の根気と時間は必要ですが、その気に成れば誰にでも追試、再検証が可能な方法です。
検証に使用した定本は『続々群書類従 八巻』所収の翻刻です。
では、結果発表です。『雍州府志』の中で「合」の字が登場する回数は・・・
138回です!
まあ、驚く程多い訳では有りませんが、結構有るものですね。では、それぞれの「合」の意味を見ていく事にしましょう。
最初の「合」は巻一「形勝門」という、京都の地理を解説した部分の冒頭に登場します。京都を代表する河川である賀茂川(加茂川・鴨川)の流れの説明の一部です。
「而して糺の杜の南に於いて高野川と合す。これによりて糺、或いは河合と称す。而して二条・三条の橋下を過ぎ、大和橋の西に於いて白川と合し、第五橋の下を経て伏見に入り、宇治川と合し、淀橋の下を歴て難波の津に出て、海に入る。」
「合」が三回、及び地名の「河合」が見られます。
三つの「合」は、全て賀茂川と他の河川との合流を意味しています。合流の意味での「合」は、この三つを含めて全部で十七回使用されています。
「河合」の地名は、賀茂川と高野川との合流地点である事に由来すると説明されています。「河合」或いは「川合」という地名は、全国各地に存在すると思われますが、恐らくその殆どが同様の地理条件に由来するものと思われます。まあ、二つの川が「競い合って」流れているような場所が絶対に無いとは言い切れませんが・・・。
「河合」の名は、「河合社」「河合神」の形も含めて全部で十箇所に見られます。他に「合」を含む地名としては「辛河合」「談合谷」「落合」が見られます。ちなみに、その他の固有名詞としては、「出合」「合同船」(古跡の呼称)、「蘇香合圓」(薬の名)、「鴨川合坐小社宅神社」(神社名)、「鸕■草葺不合尊」(神名)が有ります。
「合」は度量衡の単位でもあります。ほぼ絶滅の危機に瀕している、所謂尺貫法の単位の中で、量の単位である「合」「升」は奇跡的に現代まで生き延びています。尤も、日常的に使用されるのは「米」と「日本酒」の場合に限られているかも知れませんが、さすがに日本人にとっては切っても切れない存在であるこの二つの食品に関しては、そう簡単に伝統を捨て切れるものでは無い様です。
「日本酒」に関連しては、改めてお店の日本酒コーナーを眺めると、ビン・紙パック・ワンカップ系、それぞれに様々な容量のものが揃っていて驚かされます。その中には180ml(一合)720ml(四合)1800ml(一升)等が生き残っていて、ホッとさせられますが、商品表示は全てミリリットルで記されており、合・升の単位は使用されていません。たしか、尺貫法での表示は法律で禁止されているんでしたっけ(野暮だね~)。
更なる脱線をお許し下さい。お酒の量を表す言葉で「小半(こなから)」というのが有ります。これは一升の四分の一、つまり二合五勺の事で、江戸時代には飲酒の適量を表す表現として、よく使われていた言い回しです。まあ、お酒の適量ほど個人差の大きなものは、他にあまり見当たりませんが。
ちなみに私、利き腕は右手ですが、実は自他共に認める左利きです(通じますか?)。つまり左党という事です(通じてますよね?)。ですので日本酒の場合、一合ではとても呑んだ気がしません。たしかに「小半(二合五勺)」ぐらいで程良い酔い心地、「ほろよい」ってやつですね。その位で止めておけば体にも良いのでしょうが、どうしてもちょっと物足りないので、あと一合五勺追加して都合四合、これが今も多く見られる720mlビンです。この位が「ほどよい」量ですが(え、既に呑み過ぎですか?)更に調子に乗って杯を重ねれば・・・後はよく覚えていません。
失礼、話しを元に戻しましょう。『雍州府志』では量を表わす単位としての「合」は五回登場し、全て米の量を示すものです。
次に「合」の字を含む普通名詞、熟語を幾つか見てみましょう。
あまり聞き馴れない言葉かと思いますが、香料を入れる容器の事で、「こうごう」と読みます。本体と蓋の組み合わせである事から「合」の字が使われているのでしょう。「香合」の実物はカルタ資料展示室内「江戸カルタ美術館 その壱」でご覧頂けます。
これは皆様ご存じでしょう(ですよね?)。「カッパ」です。勿論、川に生息する緑色のUMAの事では無く、我が国の伝統的レインウェアーの方です。伝統的と言っても我が国に起源を持つ物では無く、元々は戦国時代後期以降に訪れたポルトガル人によってもたらされた、所謂「南蛮渡来」の品です。「カッパ」の名称はポルトガル語の「capa」ほぼそのままで、つまり外来語です。そう、「カルタ(carta)」と同じですね。
「倭俗、紙を綴りて油を傳(塗)り、雨衣とす。簔に代えてこれを著(着)す。これを合羽という。人のこれを著(着)するや、その体、鳥の両翼を合せるに似て、これにより合羽と号するものか。」
どうやら、著者黒川道祐には「カッパ」が外来語だという認識は無かったらしく、「合羽」が当て字である事には思い至らなかった様ですが、「合羽」の字面が当てられた理由は、「鳥の両翼を合せるに似て」という推測通りであろうと思われます。
本文では続いて「徒合羽」「馬合羽」「圓(円)合羽」等、「合羽」のバリエーションが紹介されており、何やかやで、この「合羽」の項には「合」の字が全部で十回登場します。これは一つの項目に含まれる数としては、『雍州府志』の全項目中で最多です。
これは現代とほぼ同じ意味と考えて良さそうです。互いの利益、思惑を談じ合せて皆で旨い汁を吸う事・・・か?。勿論、この「合」は「競い合わせ」の意味ではありませんね。現代では、本当に競い合っている場合を「競争入札」と言い、競い合いを装いながら実はその逆の場合を「談合」と言います。
現代の感覚では結婚の事と考えてしまいそうです。ちなみに「合せる」には単独で「結婚させる」の意味が有るそうで(小学館『日本国語大辞典 第二版』に拠れば「夫婦にする。結婚させる。めあわす。)、思うに結婚こそ究極の「合せ」なのかも知れません。しかし、非常に危ういものであるのも真実です。夫婦の離婚等に関連して現在でも良く使われる「合せ物は離れ物」という諺は、古くは寛永十五年(1638)序の『毛吹草』にも、そのまま登場しています。
老婆心ながら、何とか無事に銀婚を過ぎた立場から一言申し上げますと、長持ちの秘訣はただ一つ。兎にも角にも相手に「合せる」事に尽きます。ゆめゆめ妻と「競い合い」などは考えるべからず。間違いなく痛い目を見ます。
ところがドッコイ。実は「婚合」は「結婚」に非ず、「交合」(勿論、男女の)を意味します。『雍州府志』の中で「婚合」は只一度だけ登場します。
「世に伝わるに、少将、小野小町に恋す。しかれども終に婚合を遂げず。而して卒す。」
四位少将は、深草の少将の方が通りが良いかも知れませんね。例の「通小町(かよいこまち)」の逸話です。ご存じ無い方の為に粗筋を説明しますと・・・世界三大美女(一体誰が決めた?)の一人、小野小町に恋した四位少将が、小町が求愛受け入れの条件として求めた百夜通いを続け、やっと明日にはエッチ出来るという九十九夜目に凍死してしまいましたとさ。メデタシ、メデタシ・・・間違えました。そういうカワイソ過ぎる、或るお馬鹿さんの物語りでした。
字面を見てもピンと来ないかも知れませんが、読みが「まぐわい」と言えば細かい説明は不要でしょう。「婚合」と同じです。男女の「交合」と言えば、身体の一部の物理的な「結合」が大前提ですが、加えて互いに心を「合せ」る事も重要な要素では無いでしょうか。少なくとも互いに「競い合う」という類いの行為では無いでしょう。
これは、古事記や日本書紀に用例が有る、非常に歴史の古い、しかしかなり特殊な用語ですが、読めますか? 私は読めました(エヘン)。
「また曰く、伊弉諾の尊、伊弉册の尊、共に日神・月神を生む。この二子、光華明彩にして六合の内を照らしとおす。」
「六合」は「くに」と読み「国」と同じ意味に用いられています。何故これが読めたのか、種明かしをしましょう。
我が国を代表する名湯、上州草津温泉の有る群馬県吾妻(あがつま)郡草津町の東側に隣接するのが、吾妻郡六合(くに)村です。珍しい地名なので記憶に残っていました。村名「六合」の由来は以外と新しく、明治33年に近隣の入山・小雨・生須・日影・赤岩・太子の六地区が合併した際に、六つの地区を合せた事から「六合」の字を充て、記紀に用例の有る「くに」の読みを付けたとの事です。「六合村」の命名者については良く分かりませんが、当時の片田舎(失礼)にも中々粋な知識人がいた様です。
更に余談に成りますが、六合村にも幾つかの温泉が有ります。草津温泉の周辺の地域には他にも多くの温泉が点在し、強酸性の硫黄泉というかなり強烈な草津温泉に対して、比較的柔らかな泉質である事から、よく「草津の上り湯」と称されます。六合村内の温泉もその類ですが、中でも極め付けにユニークなのが、その名からして個性的な尻焼(しりやき)温泉でしょう。尻焼温泉には湯船という物が有りません。村内を流れる長笹沢川の川底から源泉が湧き出ている為、言ってみれば川全体が湯船という訳です。ごく普通の川ですので、脇には川を見下ろせる道路が普通に走っております。更に、おあつらえ向きの位置に橋が架かっており、ここが絶好のビューポイントに成っています。勿論、水着を着用しての入浴もOKですが、あくまでもここは温泉ですので、何も着用せずとも軽犯罪法違反に問われる事なく、最高に開放感溢れる入湯を満喫出来る事請け合いです。某男性アイドルグループの草■君に教えてあげておけば良かったですね(古いネタでゴメンナサイ)。
『雍州府志』土産門(ちなみに「土産」は「みやげ」では無く「どさん」と読むそうです。恥ずかしながら、実は私もつい最近知りました。)にはこの地域の特産物や名産品が数多く紹介されており、ちなみに「賀留多」の項もここに含まれています。その中で、主に加工食品や薬品等の項目に多く見られるのが上記の熟語です。全て、複数の素材を混ぜ合わせるという意味ではありますが、微妙な違いを含めて見てみましょう。
「混合」「滾合」は共に「こんごう」と読み、語意もほぼ同じと考えて良い様です。「混合」は現代でも普通に使用されているのに対して「滾合」の方はあまり見慣れないと思われますが、『雍州府志』での登場回数を見ると、「混合」が二回に対して「滾合」が四回と、僅かに優勢です。
「粘合」は糊と共に混ぜ合わせる事で、一回のみの登場です。
「倭俗、骨続ぎと称す。この方、白楊梅皮を以て主とし、少し軽粉を加え、紺屋の糊を以てこれを粘合す。跌摩痛所に貼れば、則ち立ちどころに愈す。」
マジか!?
主原料は白楊梅皮(楊梅皮はヤマモモの皮の事らしい)。これに軽粉(塩化第1水銀を成分とする白色粉末の事らしい)を少々加え、紺屋の糊(て、何で紺屋?)で練り合わせたものを以て、打ち身・擦り傷に湿布すれば、立ちどころに治るそうです。恐らく、何等かの効能は有ったのでしょうが、現代ならば間違いなく薬事法なり、何たらかたら表示法とかに抵触しそうな記述です。もっとも、当時は医者に成る事さえ何の資格も免許もいらず、修行や勉強すらも必要無く、ただ自称さえすれば誰でも医者に成る事が出来たという、何とも大らかな時代ですから。
「調合」は薬品、香具(お香)の項目に多く見られる様に、複数の原料の個々の分量、及び全体の混合比率を厳密に守って混ぜ合わせるという印象を受けます。都合、六回登場しますが、現代とほぼ同じ用法ですので詳述は省かせて頂きます。
「合」の文字を含む名詞、熟語は今迄見て来た以外にも幾つか有りますが、それらも含めて、そこに使用されている「合」の殆どは「組み合わせ」系統の意味合いだと考えて良いと思われます。はっきりと「競い合わせ」の意味と考えられる例は見当たりませんが、一つだけ判断に苦しむのが「慧福合比」です。
「夢窓国師開祖たり。これにより尊氏公、天龍寺を尊崇す。寺僧、出世の後、薄紫の衣を著(着)す。是を天龍の位とす。寺産千七百石余り有り。夢窓、慧福合比の僧にして七朝の国師たり。」
「慧福合比」は、夢窓国師の事を褒めている言葉なのは間違い有りません。しかし、色々な辞書類を当たって見たものの「慧福合比」は見当たらず、「慧福」と「合比」に分けて探しても結果は同じです。
更に細分して考えると、「慧」には知恵・宗教的英知という様な意味が有り、「福」には神仏の賜り物といった意味が有りますので、合わせて「生れ付き備わった知恵」という感じでしょうか? 問題は「合」ですが、「比」を伴っている事から「競い合わせ」的な意味合いの可能性も否定出来ませんが、今のところ、これ以上の事は申し上げる事が出来ません。
最後に「合」単独の用例を見ておきましょう。度量衡の単位としての「合」と、川の合流の意味での「合」については既に述べました。残りの「合」の殆どは土産門に見られ、薬品・加工食品・料理等の製法の中で使われています。その中で特に美味そうなやつを二品、少し詳しく紹介いたします。
「祇園楼門の外、東西の両茶店、薄く豆腐を切り竹串でこれを貫き、火にてこれを焼く。連串の焼餅と合せ、味噌の稀汁をもってこれを煮、コガシの粉をその上に点じてこれを食う。その風味淡脆、他の及ぶ所に非ず。これを祇園豆腐と称す。」
先ずは「祇園豆腐」ですが、中々美味そうですね。参考として『雍州府志』から凡そ半世紀後の享保十九年刊行の考証書、『本朝世事談綺』に出る祇園豆腐の記事をご紹介します。
殆ど同じ内容ですので、『本朝世事談綺』の記事の元ネタは『雍州府志』である可能性は高いと思われます。唯一の大きな相違点は『雍州府志』の「連串の焼餅と合せ」のくだりが無い事ですが、この「合」というのはどの様な意味なのでしょうか。恐らく、豆腐と焼餅を物理的に合体させるという訳ではなく、豆腐の串と餅の串とを一緒の鍋で煮込むという事だと思われます。
味付けに用いられる「味噌の稀汁」は、味噌の製造過程で滲み出る水分の事。「こがし」は大麦や米などを炒って粉としたもので、食す直前にこれを振りかける事で、香ばしさが絶妙なアクセントと成りそうです。個人的には餅串の方にはあまりそそられませんが、豆腐串の方は是非とも試してみたいですね。絶対日本酒に合いそうですよね。
「真竹の生ずる所の笋、その形大にして味わい厚し。煮てこれを食う。籜皮に斑点の有るもの佳とす。醍醐寺の僧これを蒸してこれを食う。世に醍醐の蒸笋と称し、これ春末の珍味たり。これを蒸すの法、籜皮を去らず、根を連ねて大釜に入れ水を盛る。大なる榾柮を焼き、これを蒸すこと二三日、柔脆綿の如きに至りて則ち止む。しかる後、聶てこれを截、醋醤あるいは熬酒に合せてこれを食う。」
少々解りにくい所が有りますので、解説しておきましょう。材料は皮付きの真竹の笋(筍・竹の子)適量。皮に斑点の有るものが味が良いらしい。笋は皮付きのまま大鍋に並べて水を張り、榾柮を燃やしてこれを蒸します。煮るのでは無く、蒸すらしい。二三日も蒸すと、何と綿の様に柔らかくなるとの事。これを「聶」とは「へぐ」、多分薄切りにするの事では無いでしょうか。先ずは薄い輪切りにし、これを「截」、意味は「裁つ・断つ」ですので、恐らくは真ん中で真っ二つに切ります。これで、薄い半月型をした、綿の様に柔らかい竹の子料理「醍醐の蒸し笋」の完成です。
「醋醤」は恐らく「酢醤油」の事でしょう。「熬酒」は「煎り酒」で、醤油が高価だった江戸初期には刺身の味付けに良く使われていた調味料です。寛永二十年(1643)刊の料理書『料理物語』に載る製法を要約すると、古酒・水に鰹節・梅干しをたっぷりいれ、たまり又は塩を少々加えて火にかけ、半分程に煮詰まったところで漉して完成です。これが一般的な製法ですが、残念ながらこれを本家の「醍醐の蒸し笋」に使う事は出来ません。何故なら醍醐寺は仏教のお寺ですので、一切の生臭物はNGです。確か、本式の精進料理では鰹節の使用も禁じられている筈です。しかし心配はご無用。鰹節の代りに昆布を用いる「精進いり酒」というものが有りました。こちらは元禄二年(1689)刊の『合類日用料理抄』という料理書に載っていました。
やっと絶品竹の子料理にありつく事が出来そうです。可能ならば「醋醤」と「熬酒」と両方共に試して見たいものです。
おっと、いけない、危うく「合」の事を忘れるところでした。
蒸し上がった竹の子を食べ易いサイズに切り、「醋醤あるいは熬酒に合せてこれを食う。」この「合」は具体的にはどういう事でしょうか。二通りの可能性が考えられます。
どちらが正解かは判りませんが、何れにせよ、調理された食材と調味料が合わさって最終完成型と成ります。どちらも中々美味そうですね。これも又、間違いなく日本酒に合うやつです。
さて、残りの「合」を駆け足で見ていく事にしましょう。最初の四つは、引き続き調味料・加工食品関係です。
全て、複数の材料・原料を混ぜ合わせて一つの物にするという意味合いと考えられます。現代でも「合せ酢」、「合せ味噌」というのが有りますね。これらは、特徴の異なる複数の素材を組み合わせる事によって、さらなる旨みを引き出そうというものと言えます。大切なのは調和です。間違っても各素材が競い合っていてはいけません。
続いては薬品関係で、『日葡辞書』の用例の⑨に相当します。基本的に上の食品関係と同様の用法です。
最後に、その他の加工品、工芸品を見てみましょう。
「張子」のケースは、一対となる物を組み合わせる事。「細物」は、複数の物を物理的・空間的に一緒にしておく事。その他は、上の食品・薬品類と同様の用法でしょう。
さて、これ迄に見てきた「合」の用例は全て「組み合わせ」系統に属するものですが、公平を期す為には「競い合わせ」系統と認められる用例も示さねばなりません。
「大坂方の先軍、後藤又兵衞、重政と闘いに挑み、義安と一番鎗を合わせて首級を獲る。」
昔の合戦では自身の手柄を示す証拠として、討ち取った相手の首を切り取って持ち帰りました。これが「首級(しゅきゅう)」で、位の高い武将の首級ほど大きな手柄と成ります。その確認作業は「首実検」と呼ばれています。
残念ながら、テレビドラマや映画の合戦シーンでは殆ど描かれる事は有りませんが、これが合戦の実態です。まあ、余りにも生々しくなるので止むを得ないとは思いますが・・・。
この「合」は『日葡辞書』の用例の⑰に合致するもので有り、「競い合わせ」に近い用法と考えて良いでしょう。
以上! 終了!! そうです。都合138回登場する「合」の中で、たった一例のみなのです。
この用例と、前に判断保留とした「慧福合比」と、更にカルタ技法に関する部分の「合」を除いた残りの「合」に関しては、今まで触れなかったものも含めて、全て「組み合わせ」系統の意味合いだと断定して良いと思われます。勿論、浅学の身(謙遜では無く、本当にです)の事ゆえ、見落としや誤認が有るやも知れません。当方の検証に疑問をお持ちの方がいらっしゃいましたら、願わくは再検証の上、間違いをご指摘頂ければ幸いに存じますが、何れにせよ『雍州府志』中の「合」の殆どは「組み合わせ」の意味だという結論の大勢に影響は無い事は、100%の自信を持って断言出来ます。
これで検証の第一段階は終わりです。ここで、今迄の検証で得られた結果と、残された問題点を整理しておきましょう。
この論証の示すところは重いものと考えますが、勿論、これで満足出来る訳では有りません。はい、当然出て来そうな批判を先取りしておきましょう。
さて、これから検証は第二段階に入ります。
【3】『雍州府志』の「合」とは?(二)『雍州府志 巻七(土産門下)』「賀留多」の項から「あわせ」技法に関する部分を再掲しておきます。
「又、互に得る所の札、その紋の同じきものを合せ、その紋相同じきもの無き、負けと為す。これを「合(あわせ)」という。言う心は、その紋を合せるの義なり。」
ここには「合」が三回登場しています。最初の「合」は「その紋の同じきものを合せ」で、「あわせ」技法の根本的な原理の説明です。次の「合」は技法名としての名詞の「あわせ」であり、最後の「合」はその名称の由来を述べたものであり、最初の「あわせ」の繰り返しですので、結局最初の「その紋の同じきものを合せ(合其紋之同者)」の意味を考えれば事足りそうです。しかし、この部分のみから、この「合」が「競い合わせ」なのか、或いは「組み合わせ」なのかを判断する事は出来ません。そこで、調査範囲を少し広げて見ましょう。「賀留多」の項の後半は歌かるたに関する記述になっています。
賀留多の札百枚、半ば五十の札、古歌一首の上の句を書し、床の上に囲み並べ、中央に隙地を残す、これを「地」という。又、半ば五十枚、上の歌の下の句を書し、これを「出」という。前のいわゆる中央隙地に、手に応ずる所の下の句一枚を出し置く。囲座の人、各々これを視、床の上に在る所の上の句と、今出し置く所の下の句と、相合うものある時は、則ちこれを取る。しかして後、その合せ取る所の札の算多き者を勝と為す。算少き者を負と為す。これを歌賀留多と称す。元、貝合の戯より出るものなり。
江戸中期以降になると「歌かるた」と言えば、ほぼ「百人一首歌かるた」の事を指す様に成りますが、この記述は百人一首では有りません。採られている和歌は五十首で、それを上の句・下の句に分けて札に記し、上の句の札五十枚を場に同心円状に並べますが、この時、中央に札一枚分を置けるスペースを空けておきます。
競技法も現在の百人一首と異なります。歌を詠み上げるのでは無く、真ん中のスペースに下の句の札を一枚出す事により競技がスタートします。
この部分にも「合」が三回登場します。
「床の上に在る所の上の句と、今出し置く所の下の句と、相合うものある時は、則ちこれを取る。」
最初の「合」は技法の原理に関するものです。競技者は、出された下の句の札を見て「相合うもの」、つまり対になる上の句の札を取ります。これを五十回繰り返せば終了で、勝敗の判定と成ります。
「その合せ取る所の札の算多き者を勝と為す。算少き者を負と為す。」
二番目の「合」は競技の勝利条件に関するもので、意味は明快です。上の句と下の句を合せたペアーを多く取った者が勝者と成り、これは百人一首と同じです。
最後の「合」は「歌かるた」技法の起源を述べた文脈に登場します。
「元、貝合の戯より出るものなり。」
「歌かるた」は「貝合せ」の技法を元に生み出されたという事です。本来の「貝合せ」は所謂「物合」の一種で、貝殻の美しさを「競い合わせ」る遊びですが、ここでの「貝合せ」は元々は「貝覆い」と呼ばれるものであり、対となる貝殻(ハマグリ)のペアーを「組み合わせ」るタイプの遊戯で有る事は明らかです。
以上、三つの「合」は全て「組み合わせ」系の用法である事は明白です。『雍州府志』の「賀留多」の項という一つの文脈内に有る六つの「合」の内、「歌かるた」に関する三つは全て「組み合わせ」系の用法であるという事実は重く受け止める必要が有ると考えます。この事実を全く無視した上で、「あわせ」に関して登場する三つの「合」について「当時の語感からすれば「合せ」はまさに同じ紋標のうちで強いものを出し合う「競い合い」であったはずである。」とする江橋氏の論理は、完全に破綻していると言っても良いでしょう。
又、この「歌かるた」に関する記述について全く言及せずに、「『雍州府志』を素直に読めば黒川の説明には不明な点も疑問を感じる点もない。」と断言する江橋氏の説明は、不明な点や疑問を感じる点だらけです。この点に関して、果たして江橋氏はどの様にお考えなのでしょうか。
江橋氏は近著『かるた』の第2章において、『雍州府志』「賀留多」の項の前半部(四十八枚の賭博系カルタの解説部分)を詳しく検討された上で、次の様に記されています。
『雍州府志』の記述の第四段は「歌合せかるた」を扱っているが、これについては次章で扱う。前出『かるた』(p.71)
さあて、江橋氏の見解や如何に、と第3章を読み進めて行きますと・・・アレ? アレレ?? 無いのです。何故か『雍州府志』の「よ」の字も出ない内に終わってしまいました。キツネにつままれた思いでもう一度上の引用を読み直すと、ハタと気付きました。「これについて」とは「『雍州府志』の記述の第四段」についてでは無く、「歌合せかるた」についてだったのですね。ああ、間違いでは無かったんだ。納得、納得・・・出来るかい!!
この文を素直に読めば、普通は『雍州府志』の「歌合せかるた」について書かれていると思いますよね。違いますか? 確かに「歌合せかるた」については『雍州府志』以外にも重要な資料が多く有りますので、『雍州府志』を引用せずとも十分に充実した内容に成ってはいますが、完全に無視するのは勿体ない、重要な資料だと考えます。それを、敢て排除せねばならない理由でも有ったのでしょうか。
あっ!、まさか・・・何かに気付いてしまったとか・・・何か不都合な事実に・・・いやいや、邪推はいけませんね。本題に戻りましょう。
『雍州府志』には「貝合せ(貝覆い)」に関する記述も有ります。「賀留多」の項と同じ巻七、土産門下(服器部)の内、項目数にして13個前ですので殆ど直近と言っても良いでしょう。項目名は「貝」ですが、内容は「貝合せ」の説明に外なりません。
「和俗、婦人、貝を合せて遊戯とす。その法、三百六十の貝、左右にこれを分ち、床の上に並べ囲み、その中央を空る。貝一双の内、右の貝を地と称して床の上に並べる。左の貝を出と称して、一箇毎に中央の隙地に出して置く。各々囲み座してこれを視、すなわち、出貝と地貝と、その紋采合うもの有れば、すなわち出貝を取り、地貝と合す。その合す所の貝、多い者を勝ちと為す。少ない者を負と為す。」
あれ? 何処かで見た様な気が・・・
そうです、「歌かるた」の説明とそっくりですね。まあ「歌かるた」の元と成ったのが「貝合せ」だというのですから、似ていて当然です。
ここには「合」が都合四回登場します。最初の「貝を合せて遊戯とす。」に関しては、これが一対の貝を比べて優劣をつける「競い合わせ」なのか、一対の貝をペアーにする「組み合わせ」なのか、この部分のみからは特定する事は出来ません。しかし、残る三つの「合」によって、その意味する所は明確に成ります。
「出貝と地貝と、その紋采合うもの有れば、すなわち出貝を取り、地貝と合す。その合す所の貝、多い者を勝ちと為す。」
貝殻の模様を基に、出貝と「合う」地貝を見つけだし、二つを「合せて」取る。「合せ」取ったペアーの多い者が勝ちと成る。これらは全て「組み合わせ」の意味の「合」である事は明白です。
さて、以上で全ての検証作業が完了しました。カルタ技法としての「合」の遊戯法の説明である「その紋の同じきものを合せ」の文意を考える為に必要な検証が、全て終わったという意味です。いよいよ結論が見えて来ました。ここでまとめとして、『雍州府志』の「あわせ」技法がどの様に読み取られるのか、読者と著者の双方の立場から考えてみたいと思います。
『雍州府志』を徹底的に読み込んだ結果から言えるのは、「当時の語感からすれば「合せ」はまさに同じ紋標のうちで強いものを出し合う「競い合い」であったはず」では無いのは明白ですし、そこには「紋の同じものを出し合い、その中での高い低いが勝負、その紋がないものは負けと書いてあり」ません!。「『雍州府志』を素直に読めば黒川の説明には不明な点も疑問を感じる点もない」のにはある程度同意出来ますが、「同じ紋標のカードを出し合い、同じ紋標の中でのカードの強弱により、一番強いカードを出した者がそのトリックを獲得する」なんて事は一言も書かれていません!!。
『雍州府志』を素直に読む限り、「あわせ」は同じ紋の札を組み合わせて取るタイプのゲームだとしか読み取る事は出来ません。今後、『雍州府志』の「合」がトリックテイキングゲームだと主張したいならば、明確な証明を示して頂きたいと思います。
ようやく目指していた結論にたどり着きました。
『雍州府志』の「合」は「組み合わせ」であり、決して「競い合わせ」では無い。従って、「あわせ」はトリックテイキングゲームでは無い。
さて、今度こそスッキリして頂けましたでしょうか? 恐らく、まだ多くの方がスッキリされていないのでは無いかと思われます。何しろ、まだ私自身がスッキリ出来ていないのですから・・・。
皆様の声を代弁しておきましょう。
「言いたい事は解った。まあ、百歩譲って『雍州府志』の「あわせ」がトリックテイキングゲームでは無いという事は認めてやろう。でも、お前の元々の主張は「あわせ=めくり系技法」じゃ無かったっけ? 同じ紋を合せるんじゃ「めくり系」じゃ無いよね? どうなのよ? まさか、ウヤムヤにしたまま幕引きを計ろうちゅう魂胆じゃあるまいな?」
ウッ、痛い所を突かれた!(自作自演ですけど)
確かにこれは重大な問題であると同時に、大変厄介な問題である事は承知しております。しかし、侮ってもらっては困ります。この位の事は、わたくしが長年培って来たヘリクツ力と詭弁技術を駆使して、見事に論証して見せましょう。信じる信じないはあなたの自由ですが。
「それと『軽口もらいゑくぼ』の件はどうなったのよ?」
えっ、何の事でしたっけ? ああ、思い出した!!(白々しいトボケ)
江橋氏が、「あわせ」がトリックテイキングゲームで有る事を示す資料であると指摘されたものでしたね。確かに「この点に関する批判は後回しにして」と書いていましたね(まさか覚えている方がいたとは・・・)。しかし、心配はご無用。この位の事は、わたくしが長年培って来たヘリクツ力と詭弁技術を・・・(以下同文につき略)。