本稿もいよいよ最終盤へと差しかかって来ました。そこで皆様、ここらでちょっと一息ついて、本稿をもう一度最初からじっくり読んで見て下さい・・・て、勿論いやですよね。めんどくさい。
自分で言うのも何ですが、「長い」「くどい」「解りにくい」と三拍子揃った駄文と承知しながらも、それでも長々と書き連ねて来たのは、そうせねばならない理由が有ったからです。「あわせ」とは何か? という問いに答える為に、現在利用可能なあらゆる資料を検討し、あらゆる可能性を考慮し、得られた結論を十分に理解して頂ける様、丁寧に説明を尽くした結果です。まあ、単なる脱線の部分もかなり有りますが。ゴメンナサイ・・・
突然ですがここで、大変喜ばしい報告が有ります。実は、ついに見つけちゃったんです。え、何をって? 聞きたい?
「コラ~! バカ言ってないで、さっさと言え!!」はい、失礼しました。(まだいたのか・・・)
本稿の主題である「あわせ=めくり系技法説」の最大の根拠となるは、『教訓世諦鑑』の「二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第しだい々々に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留たと云ふ。」という記述であり、これが「あわせ」技法の内容に直接言及した唯一の資料でした。ん? 「でした」という過去形に敏感に反応したアナタ、鋭いです。
ついに見つけちゃったんです。二つ目の資料を! 先ずはご覧下さい。
有りますね。「合はかるたにて、数を合せ勝負する事也」と。以外とあっさり見つけちゃいました。何故、以外とあっさりなのかと言うと、『日本随筆大成』という、少し大きめの市町村の中央図書館レベルで普通に収蔵されている、割りとありふれた叢書に収録にされていたからです。(『日本随筆大成 別巻 近世風俗見聞集8』収載)
これでもう確定と言っても良いでしょう。少なくとも、江戸中期以降の「あわせ」は、同じ数の札を組み合わせるタイプの技法であり、「めくり」と同じ原理に基くものでした。
余談になりますが、本資料によって、もう一つ嬉しい発見が有りました。かねてからの謎が一つ解けたのです。
次の資料には多くの賭博の名称が登場しています。
「ちやうはん(丁半)」「ちよぼいち(ちょぼ一)」はサイコロ賭博、「かう」「きん五」「よミ」「めくり」「あわせかるた」はカルタ、「お花(お花独楽)」「ひつへかし(引っ剥がし)」も良く知られた賭博です。残る「さいがう」だけが謎でした。
気を付けて見ると、外にも出ていました。次の引用は江戸後期の名歌舞伎役者、初代中村仲蔵の自伝『月雪花寝物語』からです。
「ほうびき(宝引)」「あないち(穴一)」「ちよぼいち(ちょぼ一)」は解りますが、問題の「さいかう」。そして「すいのうち(粋の内?)」「からめひき(搦め引き?)」に至っては、果たしてこれが賭博の名称なのか、それとも地の文なのからして不明です。
《追記》もう一点見つけました。
『江府風俗志』を見ると「札かう・さいかう」と対に成っており、「札かう」が通常のカルタを使った「かう」であるのは明白です。一方の「さいかう」には「角加宇」と振られている事から、「さい」はサイコロの事で、サイコロを使った「かう」技法であると考えて間違い無かろうと思われます。謎は解けました。
それにしても、本稿の完成前の時点での本資料の発見という僥倖に恵まれたのはまことに幸運でした。いや、考えてみれば単なる幸運では無く、必然だったのかもしれません。当初の目標からすれば、本稿はとっくの昔に完成していた筈なのですが、遅筆で有名だった故井上ひさし氏を越えるやも知れぬ、当方の超遅筆なればこその結果です。そもそも遅筆の原因はというと、執筆に行き詰まったり、単に飽きたりすると、直ぐに資料探しの本読みに逃避していたからに他なりません。その中での新資料の発見ですので、全ては遅筆なればゆえの幸運。いやー、遅筆で良かった。遅筆礼讚。
「遅筆礼讚じゃねーよ! さっさと進めろ!!」
スミマセン・・・
さて、『雍州府志』には、「合」は「同じ紋の札を組み合わせて取るタイプのゲーム」だと書かれています。では「同じ紋」とは何でしょうか。私自身、以前は何の疑問も持たずにこれを「同じスーツ」の札を合わせると解釈して来ました。だとすれば、これは『教訓世諦鑑』や『江府風俗志』に載る「同じ数」の札を合わせて取るゲームとしての「あわせ」とは別のルールのゲームという事に成りますし、『大の記山寺』の示唆する「めくり」の直接の祖先としての「あわせ」とも別のゲームだという事に成ってしまいます。私、それでは困るんです。
「コラ~! お前が困ろうがそんな事ぁ~知った事っちゃね~や。そこにそ~書いてあるんだから、つべこべ言わずに素直に認めたらどーなんでい!! べらぼうめ!!!」
(江戸っ子? それにしても怒りっぽい人だなー。何か不足している栄養素でもあるのでは?)
さて、ここで検討すべき二つの立場を整理しておきましょう。先ず、本稿で検証して来た通り「あわせ」は同じ数の札を合わせて取るタイプのゲームであり、「めくり」や「てんしょ」の直接の祖先であると考えられる事。この点に関しては、少なくとも享保期以降の「あわせ」については江橋先生からもご賛同頂いておりますので、議論の前提としてお認め頂きたいと思います。又、「あわせ」は江戸時代の文献に、その初期から大きな空白期間も無く、連綿と登場し続けているという資料事実が有ります。ここから導き出される結論は、『雍州府志』の「あわせ」をどの様に捉えるかによって、次の二つの立場に分れます。
ここで質問です。常識的に考えて、1と2とではどちらの方がより有りそうに思われますか? 勿論、1の方ですよね? え! 2の方ですって? 弱ったなあ・・・。
「だって同じ紋標を合わせるって書いて有るじゃん!!」
あなた、かなり強情・・・いや、ブレない方ですね。ここはもう少し柔軟に考えましょうよ。それに『雍州府志』には「同じ紋標を合わせる」なんて一言も書かれていませんよ。「同じ紋を合わせる」です。
本稿の中編で、江橋氏の「また、こうして手にしたカードの中から紋標の同じものを互いに出し合って競い合い、その同じ紋標のカードを持っていない者は負けにする方法もある。これを「合」というが、紋標を合せるという意味である」という文章に対して「最大の問題点は「合其紋之同者」の「合」の語を、全く理由の説明も無しに「競い合い」と書き換えている点です。つまりこの文章は、自説に基く江橋氏による創作です。」と批判しましたが、実は「最大の問題点は」というのが伏線でして、そこにはもう一つ見逃し難い問題点が有ります。それは原文の「紋」を「紋標」と書き換えている点です。
江橋氏が、「紋標」の語をトランプ用語の「スーツ」の意味で使用されているのは明白です。原文の「同じ紋を合わせる」を「同じ紋標(スーツ)を競い合せる」と書き換えた上で、これがトリックテイキングゲームであると主張されましたが、トリックテイキングゲームの原理と見做す為には「合わせる」を「競い合わせる」と読み替え、「紋」を「紋標(スーツ)」と読み替える必要が有ったまでの事です。しかし、『雍州府志』の「合わせる」は「競い合わせる」の意に解釈出来ない事が明白と成り、「あわせ=トリックテイキングゲーム説」が否定された今となっては、「紋」に関しても、これを「紋標」と読み替え、「スーツ」の意味と解釈せねば成らない理由も義理も有りません。先入観を捨てて「紋」は「紋」として、その意味を考え直す事にしましょう。
では、そもそも「紋」て何でしょうか?
或る物事について調べようとする時、最初にするべき事は辞書を引く事です。
えーと、どなたか調べて頂けませんかね? あ、そこの貴方。
「へ? あたしですか? よござんす。旦那の頼みとあっちゃしょうが無い。ここは一肌脱がして頂きましょう。広辞苑なら持っているので、これでいいですか? えーと・・・。」
もん【紋】
①織物の地に織り出された模様。転じて、物の表面の模様。あや。「紋様・波紋・指紋」
②代々その家に伝わる家のしるし。「―つき」「紋章・定紋・家紋」
はい、有り難う御座います。(あれ? さっきまでと同じ人? 何かキャラが変わっている気が・・・。てか、何でそんな重い物を持ち歩いてる?)
つまり限定的に、所謂家紋を意味する場合と、一般的に広く模様を指す意味の二種に大別される訳ですね。これは、古今を通じて変わり有りません。
ちなみに「紋標」は?
「えーと、も・ん・ひ・ょ・う・・・と、あれ? 載って無いでげす。」
(ありゃー、完全に幇間キャラに成っちゃってるよ。)
これは私も意外でした。とりあえず今後は「紋標」の語は使用せず、スーツに統一する事にします。
繰り返しになりますが、『雍州府志』には「同じ紋を合わせる」と書いてあります。そこに「同じ紋を合わせる」と書いてあっても、実際はめくり系技法だったっていいじゃないか、人間だもの。
「意味解んないし。」「めくり系技法ならば同じ紋を合せるじゃ無くて、同じ数を合せるじゃん。」
「あっ、解った! 人間だから間違いは有るって事? 結局の所「紋」は「数」の間違いだっていう、例の「誤記説」に戻っちゃう訳ですかい?(はっ、いけない。うっかりキャラ設定を忘れていた!) まあ、メンドウなので地で行っても宜しいでしょうか?」
はい、どうぞ。(てか、そもそも頼んで無いし。)
「誤記説」ではありません。あ、いや、誤記の可能性が100%無いとは言えません。一応、「誤記説」についても検討しておきましょう。
そもそも「誤記説」とは山口吉郎兵衛が『うんすんかるた』で示された「あわせ」に関する見解に対して、江橋崇氏が名付けたもので、実際の「あわせ」は「めくり」や、多くの「花札」技法と同様に「同じ数(ランク)」の札を合わせるものであり、『雍州府志』に「同じ紋」を合わせると有るのは誤った記述(誤記)である、という立場です。江橋氏はこれを批判し、「合わせる」とは競い合わせの意味であり、同じ紋の札を競い合わせるトリックテイキングであると解釈し、「あわせ=トリックテイキングゲーム説」を唱えられました。この説は本稿において完全に否定されました(よね?)が、勿論これによって「誤記説」の正当性が証明される訳では有りません。
誤記の生じる原因としては二通りの可能性が考えられます。
最も単純な形の誤記の原因としては、誤写、誤刻(近代以降ならば、誤植)が有ります。この場合、著者は正しく認識していたが、何等かの単純なミスが原因で誤った記述が為されてしまった、という事に成ります。これを仮に「うっかり誤記説」と呼ぶ事にしましょう。
現代の出版物でも誤字・脱字は決して珍しいものでは有りませんが、江戸時代のそれは現代の比では無い事は、江戸期の文献を或る程度の数を読まれた方ならば、既に実感されている事でしょう。
古い写本や版本を定本として、それを活字に直す作業を翻刻と言いますが、ちょっと気の利いた翻刻書ならば、最初の方に凡例というページが有る筈です。凡例は、校訂者が校訂の方針、規範を箇条書きで示したものですが、そこにはかなりの高確率で次の様な一文が有る筈です。
明らかな誤字・脱字は訂正した。
又、極端な当て字(これもやたらと多い)や異体字(活字やパソコンで再現不能な文字も多いので)の多くも正字に直されます。そうせねば、下手すると現代の我々にはチンプンカンプンに成ってしまう程、江戸時代の写本・版本はかなり自由で、いいかげんです。
しかし、『雍州府志』の「あわせ」の問題に限って言えば、著者がうっかり「数」を「紋」と書き間違えたとか、製版の際に彫り間違えたという様な単純な原因によって誤記が生じ、数度の改定の際にも見逃されたという可能性は、限りなく0%に近いと考えても良いでしょう。
誤記が生じるもう一つの可能性は、著者の事実認識自体が誤っていた場合です。つまり、本来は「同じ数」を合せるルールであるのを、「同じ紋」を合せるものと誤解していたケースであり、「誤記説」というより「誤認説」と呼んだ方が的確かも知れません。この可能性ついては、既に本稿の前編で触れています。山口氏が「紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じきものを合せるの間違いではあるまいか。」と考えられたのも、恐らくこのケースを想定されたのかと想像されます。
確かに誤認の可能性は否定出来ません。人間だもの。よって、以後これを「人間だもの誤認説」と呼びます。
もしも誤認の可能性が無い事を証明したいならば、検証する方法が無い訳ではありません。『雍州府志』の本文で、「あわせ」以外の全ての項目・事項について、同時代の他の資料や現代の認識と照らし合わせて見て、もしも明らかな誤認と思われる記述が他に全く無いならば、「あわせ」に関する記述も恐らく誤っていないと結論付けられます。しかし、実際問題としてこの様な作業は殆ど不可能ですし、無意味です。賭けてもいいですが『雍州府志』の記述には数多くの誤りが有る筈です。
「うっかり誤記説」や「人間だもの誤認説」の扱いが厄介なのは、誤記・誤認の可能性を完全に否定出来ないのと同時に、それが有った事を証明する事も又、ほぼ不可能であるという点にあります。従って「うっかり誤記説」「人間だもの誤認説」に関して色々と議論しても、そこから得られる物は少なく、よって私はそれらの立場は取りません。
「でもさ~ 『雍州府志』の「賀留多」の項の「紋」に限って見れば、江橋先生がどうのこうのじゃ無くて、誰が読んでもカルタのスーツの事を言っているとしか読み取れないと思うんですけど。」
確かに前半の、カルタ札の構成を説明している部分での「紋」は、スーツの事を意味しているのは間違い有りません。しかし、続く「あわせ」技法の説明部分での「紋」も同じなのかは別途検討する必要が有ります。
「??? あの~ それって恐れ入りますが、もう少し分り易く説明して頂けませんでしょうか?」
ええ、勿論。ご心配無く。ところで話しは変わりますが・・・
「オイ! コラ~!! 人が下手に出たのをいい事に又々調子に乗りやがって~。又も寄り道かよ。」
あっ、ちゃんと繋がりますから。そう先を急ぎなさんなって。まだまだ先は長いのですから・・・
「だから、それが一番の問題なんだっちゅーの。本当にお前ってやつは・・・」
実は以前から不思議に思っていた事が有ります。『雍州府志』が刊行された貞享三年(1686)から、昭和初期に山口吉郎兵衛氏が、所謂「誤記説」を唱える迄の凡そ二世紀半の間、この件に関して誰一人としてツッコミを入れなかったのは一体何故でしょうか。不思議ですよね?
例えば『教訓世諦鑑』の著者である貝原益軒執中堂西山や、『江府風俗志』の著者(名前は不明)。時代は下りますが、大田南畝、山東京伝、山崎美成、滝沢馬琴、上田秋成、柳亭種彦等、多くの考証随筆を残した江戸後期の名だたる文人達。中でも考証オタクと同時にカルタオタクでも有ったであろう山東京伝や、かの『博戯犀照』を著した山崎美成を含め、誰一人としてツッコミを入れていません。これらの面々の全員が『雍州府志』を知っていたのは確実と思われますし、恐らくほぼ全員が内容を読んでいたと思われます。カルタに対する関心度には差が有ったでしょうが(多分、馬琴や秋成はカルタ嫌いだった様な気がします。)、全て安永天明という江戸カルタの絶頂期を生きた面々ですので、多かれ少なかれカルタに関する知識を持っていた筈です。当時大流行していた「めくり」は全員知っていた筈ですし、その前身である「あわせ」について全く知らなかったとは考えにくいでしょう。「あわせ」が同じ数の札を合わせ取る技法と知りながら、それにも拘らず、誰一人としてツッコミを入れないって変じゃ無いですか?
「いや、別に。」
(イラッ・・・)
その時、突如ひらめきました。彼らは「あわせ」が「めくり」と同じく、同じランクの札を合わせ取る技法である事を承知していた筈である。にも拘わらず、誰一人として『雍州府志』の記述に対して疑問を感じなかったのは何故か。それは、彼らはこの記述を、「あわせ」は同じ数(ランク)の札を合わせる技法であると理解していたからではないか。いや、そうとしか考えられない。間違い無い!!
「まあ、言わんとする事は解るんですけどね(でも何でそんなヒネクレた考え方するのかねえ、多分この人、友達少なそうだな)、それって他にも色々と説明が付くんじゃ無いですかね。例えばですね・・・」
あ、先を急ぎますので、また今度ゆっくり伺いましょう。
「コラコラ、自分に都合が悪い時だけ急ぐな!!」
(やりにくいなー。ちょっと袖の下を使って懐柔策を取っておきましょうか。もしもし、ゴニョゴニョ・・・。)
さて、いよいよ本編の核心部分に突入して行くにあたって、当方の立場をハッキリさせておきましょう。それは「あわせ」はめくり系の技法であり、『雍州府志』の著者黒川道祐は「あわせ」技法の原理を正しく認識しており、その上でこの文章を書いたというものです。更にはこれを読んだ読者も又、「あわせ」がめくり系の技法であると読み取ったであろうと考えます。つまり、「同じ紋を合せる」とは「同じ数(ランク)を合せる」という意味である、という事です・・・えーと・・・この辺で何処からか「まさか! いくら何でもそれは無理でしょう。」という声が聞こえてきそうですが・・・。
「ま、まさか! いくら何でもそれは無理でしょう。」
はい、ちょっとタイミングが遅れましたが、打ち合わせ通りのリアクション有り難う御座います。後も宜しくお願いします。
勿論、非常に難易度の高い問題である事は百も承知の上です。ウルトラC技を繰り出して、見事着地に成功すれば御慰み。
先述の通り、「賀留多」の項の前半部の「紋」がスーツの意味で使われている事に異論は有りません。では、『雍州府志』以外の資料ではスーツの事をどの様に表現しているのでしょうか。もしも大部分の資料に於いて「紋」がスーツの意味で使われているならば、「紋」と「スーツの概念」とに強い結び付きが有る事に成ります。つまり、カルタに関する記述中に「紋」と有れば、それはスーツの事だと認識する訳です。
では、江戸カルタにおけるスーツの扱われ方を概観しておきましょう。
「パウ」「イス」「オウル」「コップ」の呼称は、元々はポルトガル語に由来すると考えられていますので、その起源はカルタ自体の伝来時に迄遡るものと考えて良いでしょう。これらの呼称は江戸時代初期の文芸資料にも数多く見られますので、広く一般に認識され、使用されていたものと考えられます。では、これら四種の呼称を包括する「スーツ」という概念はどの様に表現されていたのでしょうか。
『雍州府志』では「紋」という語を充てていますが、他の資料ではどうかを見てみましょう。
この様に、当時の我が国では「スーツ」を指す特定の語句は存在していなかった様で、皆さんの説明に苦労の跡が見て取れます。『本朝世事談綺』では『雍州府志』と同じ「紋」が使われていますが、全体としては「四品」を用いた表現が目立ちます。しかし、これとて他の「四與」「四種」「四通り」等の表現と同じく、「スーツ」という概念に直接対応する語句では有りません。どうも、江戸時代の人々はカルタの「スーツ」という概念を、あまり重要視していなかったと云うか、寧ろ、殆ど無頓着だったという印象を受けます。何故でしょうか。又々脇道に逸れてしまいますが、聞きたい?
「・・・はい・・・但し、手短にお願いします。」
ではご要望にお答えして。
江戸カルタの遊戯法では、長きに渉って「よみ」がその中心的技法としての地位を保っていましたが、江戸後期になって、古くから有った技法「あわせ」から発展した「てんしょ」「めくり」が考案され、「よみ」に代わって中心技法の地位を占めました。又、「かう」「きんご」といった賭博系技法も江戸初期から後期迄一貫して人気を博していました。
これらの技法に共通しているのは、スーツの区別は競技法自体には殆ど関係無く、せいぜい役作りや得点計算にのみ関係していると云う点です。一方、スーツの区別が重要な意味を持つタイプの技法はあまり発展しませんでした。具体的に言えば「うんすんかるた」や、その誕生の母体となったであろう「元技法」の類、つまりトリックテイキングゲーム系の技法です。
「めくり」「てんしょ」系の技法では、得点計算や出来役に関係するのは殆どが「青札(パウ)」「赤札(イス)」の2スーツの札です。例外的に「太鼓二(オウルの2)」「豆六(オウルの6)」の二枚が、得点計算や出来役に関係する重要札として個別の名称が与えられており、更に例外的に「唇の二(コップの2)」「かっぱ十(コップの10ヵ)」の名称が伝えられていますが、共に得点や役には無関係だった様です。これらの例外を除いた残りの「オウル」「コップ」の札は、終にはスーツとしての区別も名称も奪われ、全て「すべた」として一括されて扱われる事に成ります。いったい誰が、何の目的でこんな非情な仕打ちを・・・彼等に何の罪が有るというのか!!!
それでもめくり札の場合は、札のデザイン上はスーツの要素が残されている分、名前こそ奪われたものの、からくも「すべた」君達のアイデンティティーは保たれていると言えます。もっと悲惨なのは「かう」や「きんご」技法専用の、単一のスーツで構成された札(或いは、スーツが無いと言っても良いかも知れません)です。これらのカルタには「パウ」に由来する筋札系(江戸時代からの存在が確認されています。)と、「オウル」に由来する豆札系との二系統が有りますが、共に単一のスーツによって構成されています。では、それ以外のスーツはどの様な運命をたどったのかというと・・・粛清です。キャー、怖過ぎー。「必要は発明の母」という格言が有りますが、これでは「不必要は抹殺の父」です。しかし、いかに不必要な存在とはいえ、いとも簡単に抹殺されてしまったスーツ君達の無念を思うと涙が・・・。
「ハイハイ、何もそんな事に感情移入しなくても・・・冷静に考えれば理由は簡単です。必要無いから。これに尽きますね。」
そんな、身も蓋も無い言い方をしなくても・・・。
「特定の技法に特化して使用する札の場合、その技法に不必要な要素を省く事によって競技をスリム化するという考えは、競技者ファーストの観点から見れば、大変合理的なものでは無いでしょうか。」
ハア、競技者ファーストですか。そういうご時勢ですかねえ。
「ご時勢は関係ないと思います。」
「さて、ご持論はその内ゆっくり聞かせて頂く事にして、そろそろ本題に戻りましょう。元々おっしゃりたかったのは、次の様な事で宜しいでしょうか。
江戸カルタでは、スーツという概念に対応する特定の熟語は存在しなかった。『雍州府志』ではスーツの説明にたまたま「紋」を使用しているが、元々「紋」と「スーツ」には強い結び付きは無い。従って、『雍州府志』の「紋」に関しても、必ずしもスーツの概念に縛られる必要は無く、個々の「紋」はそれぞれの文脈によって意味を考えるべきである、と。」
おっしゃる通りです。
「では、続きに参りましょう。」
(何か完全に仕切られて気がするが・・・ま、いいか。)
ではいよいよ、『雍州府志』の中での「紋」の意味を検討する事にいたしましょう。
おっと、今慌てて『雍州府志』の「賀留多」の項のページを開いた、そこのアナタ。ちょっと待って下さい。その前に『雍州府志』全体で「紋」がどの様な意味で使われているのかを調べて見ましょう。そう、再び例の虱つぶし作戦ですが・・・結果としては、特に面白い発見が有った訳では無く、普通に予想通りでした。
『雍州府志』の本文中、「紋」の文字は合せて41回登場しますが、全て前記の二つの意味に分類出来ます。家紋の意味が合計11回、残りの30回が模様の意味であり、「賀留多」の項の9回もここに含まれます。模様の意味での用例を幾つか挙げておきます。
そして「賀留多」の項に於いては、「紋」をカルタ札の表面に描かれている図柄の意味で使用しています。この様に「紋」は、動物・植物の形状から幾何学的な文様に至る迄、あらゆる模様に対して使える便利な文字です。つまり、「紋」は「模様」です。
「成る程。『雍州府志』全体に於ける「紋」の意味は、一般的な「紋」の意味の範疇を出るものでは無い・・・って、まあ、当り前ちゃあ当り前の事ですが、敢てそれを確認しておく事に意味が有るって事ですね。その上で、いよいよ「賀留多」の項の「紋」の意味を考えようと。」
はい。視野の狭い事を譬えて「木を見て、森を見ず」などと言いますが、今迄の研究では「賀留多」の項内の文面にのみとらわれ過ぎていた感が有ります。森全体を見終わった所で、いよいよ一本の木をじっくりと観察する事にしましょう。
「凡そ賀留多に四種の紋有り。一種各々十二枚、通計するに四十八枚なり。一種の紋は「伊須」という。蛮国、剱を称して「伊須波多」という。この紋の形、剱に似たり。一の数より九に至る。第十、法師の形を画く。これ、僧形を表するものなり。第十一は、馬に騎る人を画く。これ、士を表するものなり。第十二、床に踞るの人を画く。これ、庶人を表するものなり。一種は「波宇」と称す。蛮国、青色を称して「波宇」という。この紋、一の数より九の数に至る。第十、第十一、第十二、前に同じ。一種の紋は「古津不」という。蛮国、酒盃を「古津不」という。これ酒盃を表するものなり。一種の紋は「於宇留」という。蛮国、玉を称して「於宇留」という。これ、玉を表するものなり。」
この部分に六回登場する「紋」は、全てカルタのスーツの意味で使用されている事に異論は無いでしょう。
「互に得る所の札、その紋の同じきものを合せ、その紋相同じきもの無き、負けと為す。これを「合」という。言う心は、その紋を合せるの義なり。」
問題はこの三つの「紋」が何を指しているのかという点です。「あわせ」がトリックテイキングゲームでは無い事は立証済みですので、この「紋」がスーツの意味と考える必要性は全く有りません。では何か? これを考えるに当ってはクドイ様ですが、一旦「紋」に関するあらゆる先入観を捨てて、頭を真っ白な状態にリセットして下さい。見て来た様に「紋」とは、古今一般的な意味に於ても、又『雍州府志』全体に於ても、単に「模様」という意味に外なりません。
では「カルタの紋」とは一体何でしょうか。この「紋」とは「模様」であるという視点に立てば、「カルタの紋」とは札の表面に描かれた模様の事に外なりません。更に言えば、カルタとは48種類の異った「紋」が描かれた札の集まりであると言えます。しかし、この48種の紋は個々に完全に独立したものでは無く、スーツとランクという二つの要素の組み合わせによって成り立っていますので、紋の同じものを合わせるという事が可能と成る訳です。問題はスーツとランクのどちらを合わせると考えるのがより適切なのかという事に成ります。視覚的な面ではスーツ、ランクのどちらの要素についても、「同じ」ものという感覚は違和感無く受け入れられると思われ、どちらが優位であるとは言えなさそうです。そこで視点を変えて、「合わせる」の語感という切り口から検討して見ましょう。
「合わせる」の語感に関しては、既に「競い合わせ」の意味での「合わせ」について、原則として一対一の間での優劣の競い合いである事を示しました。では、「組み合わせ」の意味での「合わせ」に関してはどうなのかを検討しましょう。
先ずは基本に立ち返って辞書を調べて見ましょう。『日本国語大辞典』の「あわせる」の項を見ると、一番始めに書かれているのが次の字義です。
【一】(合)物と物とを一つに重ねる。また、物と物とをつり合うようにする。『日本国語大辞典 第二版』 小学館 2000年
つまり、これが全ての「合わせる」の第一義です。この文面からは「対応関係にある二つの物を一つにまとめる」という印象を強く受けます。勿論、この字義とて必ずしも一対一の対応に限定しているものでは無く、実際「合わせる」には多種多様な字義・用法が有る訳で、複数の対象から、ある基準に基づいて組み合わせを作る方法は無限に考えられます。しかし、「同じものを合わせる」と言った場合には少し事情が変わり、組み合わせられる対象範囲は大幅に狭められます。大別すれば①完全に同一である二つの物、②組み合わせる事によって完全となる二つの物(例えば靴の左右)、③それらに準じる物、という事に成ります。
・・・あのー、言いたい事、解りますか? ついて来てくれてます?
「んー、なんとなく。」
①については特に説明を要しませんよね。②の例としてスーツはどうでしょうか。あっ、トランプのでは無くて洋服のスーツです。そもそもジャケットとズボンの組み合わせには絶対的なルールなど存在しませんので、誰が見ても悪趣味としか言いようの無いものから、逆に多くの人が「合ってるな」と納得出来るもの迄、それこそ無限の組み合わせパターンが存在します。その頂点に有るのがスーツでは無いでしょうか。スーツは元々上下合わせて一つのものとして作られている訳ですから、ピッタリと対応する二つの物である事は誰の目にも明らかです。
問題は③です。「それらに準じる」という基準は何とも曖昧ですが、少なくとも多数の人によって「合っている」と見做される事が、最低でも必要な条件と成ります。ジャケットとズボンの組み合わせで言えば、完全な対には成っていなくても、多くの人が「オッ、その組み合わせイイじゃん。ピッタシじゃん!」と認めればOK、みたいな感じ?
「ちょっ、あなた、みたいな感じ?って・・・」
いや、いいんです。考えるな! 感じるんだ!!
で、そんな感じを心に留めておいて頂き、『雍州府志』に戻る事にしましょう。
あっ、まだ「賀留多」のページには行きません。その少し前、以前にも紹介した「貝合せ(貝覆い)」の所から見て行きましょう。
「和俗、婦人、貝を合せて遊戯とす。その法、三百六十の貝、左右にこれを分ち、床の上に並べ囲み、その中央を空る。貝一双の内、右の貝を地と称して床の上に並べる。左の貝を出と称して、一箇毎に中央の隙地に出して置く。各々囲み座してこれを視、すなわち、出貝と地貝と、その紋采合うもの有れば、すなわち出貝を取り、地貝と合す。その合す所の貝、多い者を勝ちと為す。少ない者を負と為す。」
「貝合せ」に使われるハマグリの貝殻は、元々のペアー同士以外ではピッタリと組み合わせる事が出来ないそうです(確かめてはいませんが)。従って、実際に組み合わせてみる事によって、本来のペアーであったか否かは客観的に判定可能です。先程の分類に照らし合わせて見ると、表面の「紋采(模様)」を手掛かりとして同じ物を見付けるという点で①に適合していますし、元々一つの貝であった二枚の貝殻を見付けるという点では②にも適合していると言えます。
ところで、「貝合せ」って何かに似ていますよね。カルタと貝との違いこそあれ、カルタ技法の「あわせ」と「貝合せ」は、同じ模様の物を組み合わせてペアーを作るという点に於いて、競技法の基本構造を共有していると言えます。そして『雍州府志』の読者は「賀留多」の項を読む前に、先ずこの部分を読んでいるという事をお忘れ無い様お願い致します。
では、いよいよ「賀留多」のページに行きますが、先ずは後半の「歌かるた」の部分から見ましょう。
「賀留多の札百枚、半ば五十の札、古歌一首の上の句を書し、床の上に囲み並べ、中央に隙地を残す、これを「地」という。又、半ば五十枚、上の歌の下の句を書し、これを「出」という。前のいわゆる中央隙地に、手に応ずる所の下の句一枚を出し置く。囲座の人、各々これを視、床の上に在る所の上の句と、今出し置く所の下の句と、相合うものある時は、則ちこれを取る。しかして後、その合せ取る所の札の算多き者を勝と為す。算少き者を負と為す。これを歌賀留多と称す。元、貝合の戯より出るものなり。」
「歌かるた」では古歌の上の句・下の句のペアーを完成する事が目的と成ります。勿論、たまたま上下の句で意味が通じる組み合わせなどではダメで、元々の歌を完全に復元するペアーのみが「合っている」ものと認められます。こちらは分類②の典型的な例だと言えます。
『雍州府志』の読者の視点が明白に成って来ました。「貝合せ」や「歌かるた」といった、二つの物を組み合わせる遊戯では同一の二つの物、又は合わせて完成形と成る二つの物を組み合わせるというのが基本的な認識であった筈です。
さて、満を持していよいよ「あわせ」技法に目を通す事にしましょう。えーと、同じ紋を合わす、と・・・ああ、ダメだ。①か②の、どちらかの条件を満たす組み合わせなんて無いじゃないか!!
そうです。残念ながら48枚のカルタの図柄の中に、完全に一致するものや、完全に一対となる組み合わせは有りません。しかし心配はご無用。③の「それらに準じる物」というのが有ります。何せ、こんな時の為の逃げ道として用意していた項目ですから。
質問を少し変えてみましょう。48枚の中の任意の2枚のペアーで、同じ図柄のペアーに準じると見做せるのは、どの様な組み合わせの場合でしょうか。更に質問を絞り込むならば、それは同じスーツのペアーでしょうか? それとも同じランクのペアーでしょうか?
『雍州府志』の読者の立場に立ち、全体の記述法則に従って読み進めて来た目線から見れば、同ランクのペアーの場合には「同じ図柄のペアー」と認識され易い様に感じられるのですが、如何でしょうか。一方、同スーツのペアーの場合は「同じ図柄のペアー」という認識が持ちにくいと思われます。同スーツのペアーは「合わせる」というよりも、寧ろ「揃える」という語感に近い様な気がします。何しろスーツは「同じものが十二枚もある」のですから。
「あれ? お話しの途中スミマセンが、なんか聞き覚えのあるフレーズのような気が・・・。」
お察しの通り、山口吉郎兵衛氏の名著『うんすんかるた』から、「あわせ」に関する記述の一部を借用いたしました。江橋氏が「誤記説」と名付けて批判した、例の部分です。再度、該当部分を見て頂きましょう。
合せ、記載簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合せる意味であろう。『其紋之同じき者を合す』とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じきものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代って大いに流行した。現代の『花合せカルタ』は此技法を伝えている。山口吉郎兵衛『うんすんかるた』
リーチ 1961年
再度読み返して見ると、本稿との大きな相違点としては、山口氏が「紋」をスーツの意と解した上で、それを「数(ランク)」の「間違い」だと考えたのに対し、当方の考えでは、この「紋」とはそもそも「数(ランク)」の意味であると考えるという点のみです。何の事は無い。ここまで延々と、有ること無いことを書き連ねた末に漸くたどり着いたのとほぼ同じ結論に、恐らくこの偉大な先人は直観的に気付いていたのでしょう。
これに関連して、かねてから抱いていた疑問が有りました。この山口氏の見解に対して、かの佐藤要人氏までもが無批判に追従している点です。しかし、今は理解出来ます。誰よりも近世の資料・文芸に精通された、碩学の佐藤氏なればこそ、恐らくは無意識的に問題の本質を見抜かれていたのでしょう。即ち「同じものが十二枚もある」ところのスーツを基準として「同じものを合わせる」という表現は、「合わせる」本来の語意・語感から見て「不自然」である、と。
山口氏・佐藤氏の見解に対しては、かつて私自身「紋標は同じものが十二枚もあるから間違いであるという推定は説得力に乏しく、紋標が数標の間違いであるとする合理的な理由は、特に見当たりません。」と批判しました。しかし、今にして思えば「同じものが十二枚もある」という事実こそが重要、且つ強力な論拠であった事に全く気付かなかった、当時の自分自身の不明さに恥じ入るばかりです。
『雍州府志』の「あわせ」技法に於いて、「同じ紋を合わせる」とは「同じスーツを合わせる」では無く「同じランクを合わせる」という意味でした。いや、さすがにそこ迄は言い過ぎかも知れませんが、少なくともその様な解釈が可能である事を示しました。これにより「あわせ=めくり系技法説」と(明らかに)相容れない資料は無くなりました。
以上!、終りです。お疲れ様でした。最後に何か感想でも有ればお聞かせ願えますか?
「はい、お疲れ様でした。ではお言葉に甘えて正直な感想を述べさせて頂きましょう。
あなたのおっしゃりたかった事は理解出来たつもりです。一応の理屈には成っているとは思います。でも何と言うか、その・・・どうしても屁理屈っぽく思えちゃうんですよね。」
(ウ、ヘリクツですか・・・せめて大胆な仮説とか言って欲しかったな・・・。)
いいんです。屁理屈で全然構わないんです。
「アラ、開き直っちゃった。それともスネた?」
いいえ、スネてはいませんし、開き直った訳でもありません。何故ならば・・・(続く)。
【5】まとめ
何故ならば、たとえ屁理屈であろうと理屈は理屈です。これには「あわせ=めくり系ゲーム説」の総仕上げ的な意味合いが有りますが、何もこれに固執するものでは有りません。何故ならば、たとえこの理屈抜きでも「あわせ=めくり系ゲーム説」は十分に立証されていると考えるからです。
もし、あくまでも「そんな屁理屈では納得出来ない。紋はスーツの事であるに違い無い。」と主張なされたいのならば、拙案では理屈が通っていない、つまり「屁理屈」では無く「誤り」である事を論証する責任は批判者の方に有ります。更に可能であるならば、江戸初期に「同じスーツを組み合わせる」タイプの技法が存在した事を示唆する具体的な資料や論証の一つ二つも示して頂きたいと思います。もしそれが妥当なものと判断されれば、悦んで愚説を撤回させて頂くつもりです。
①「あわせ」はめくり系の技法である
江戸初期から存在した技法「あわせ」は、同じ数(ランク)の札を組み合わせて取るものであり、「めくり」と同系統の技法と考えられる。江戸中期の明和年間(1764-1772)初期に、「あわせ」を継承、或いは発展させた技法「めくり」「てんしょ」が誕生した。
ふー、やっと終わりました。これでもう思い残す事は・・・あ、有りました。まだ例の件が残っていましたね。それについては恒例の【おまけ】でお届け致します。
無理やり恒例にしてきた「おまけ」ですが、いよいよ今回が最後と成りました。採り上げるテーマは勿論あれ、ずっと保留していた『軽口もらいゑくぼ』の問題です。先ずは全文を原文と、拙訳による現代語意訳でご覧頂きましょう。
(意訳)
ある時、奈良の大仏堂の勧進の為に貴僧が一人で洛中を奉加に巡っていると、人々は奉加に金銀米銭を捧げた。そこに青菜一荷を担いで売り歩いている男が来て、売り上げの中から百文を寄進した。僧が「あなたの身なりから見ると大変な額の奉加ですが、どなたか肉親の年忌でもあるのですか」と尋ねると、「いや、そうでは有りません。あなた様は『釈伽』とお見かけしましたので百文寄進したのです。」僧が「それならば、あなたが持っているのは『青二(青物の荷)』ですから、こちらから上打ちに百文差し上げましょう。」と言って百文を渡した。「これはかたじけない。それならばいっその事、もう六十文頂きたい。ここに『あざ』が有ります。」と、生まれつき腕にある黒々とした痣を見せて、自分が寄進した百文の外に、合せて百六十文を申し受けた。
では『軽口もらいゑくぼ』の何が問題となるのかを確認しておきましょう。
前稿にて、固有の点数を持つ札の存在を示すものとして『軽口もらいゑくぼ』『軽口あられ酒』『商人軍配団』『役者金化粧』『須磨都源平躑躅』の五資料を紹介しました。『軽口あられ酒』の「あわせも百にたつ」という記述から、これらを「あわせ」技法に関するものと考え、更に本稿前編に於いて、これらが「あわせ」に関するもので有る事を詳しく検証しました。これにより「固有の点数を持つ札の存在」という特徴を共有する「あわせ」と「めくり」を連続性の有るものと考え、『あわせ=めくり系技法説』の重要な論証の一つとしました。
これに対して、江橋先生は『かるた』の中で『軽口もらいゑくぼ』の内容に新たな解釈を示し、これをトリックテイキングゲームだと主張されました。江橋氏による意訳と解釈をご覧下さい。
過ぎし日、奈良の大仏堂の勧進として尊い僧侶が京の町中を回っていた。人々は金銀や米銭を奉加したが、そこに青菜を一荷持って売っている男が通りかかった。男は僧侶を見て殊勝に思い、売り上げの中から銭に紐を通して百文を奉加した。僧侶が、「失礼だがあなたのような身なりの方には百文の寄進は大事でしょう。どなたかご親族の年忌のお志なのですか」と尋ねた。ここから話は急転直下して笑い話になる。男はこういった。「いやいや、そうではありません。ちらとお見かけしたのですが、あなたは『釈迦』(十をお待ち)ですので、(私の負けですから)百文を差し上げたのです」。これに対して僧侶は「いやいや、あなたこそ手の中を見れば『青二』(青菜の荷)をお持ちだから(これを打てば百上打になり、わたしの方こそ負けだから)、こちらから百上打に百文差上げなければ」といって、男が出した百文のほかにもう百文を差し出した。すると男は、「これはかたじけない。それならばいっそのことさらに六十文いただきたい、ここに『アザ』がありますから」といって右の腕をめくって生まれつきの黒々とした痣を見せて、結局、自分が出すそぶりをした銭の外に、百六十文を申し受けた。
これはどういうゲームを反映しているのだろうか。相手にあなたは「釈迦十」をもっているだろうから自分は百文の負けだと駆け引きをして、相手の僧侶が、いやあなたこそ「釈迦十」より強い「青二」をもっているのだからこちらから百文出さねばといって実際に出させて、そのタイミングで、いやそれならばもう六十文出して欲しい。なぜならば自分は「青二」も「釈迦十」も出された後ではもっと強い「アザピン」も持っているのだからといって、結局自分の出した銭のほかに、僧侶から合計百六十文をせしめた、と読める。ここには、同じ「青」の紋標の中で、「釈迦十」と云う強力なカードが出されたが、それを上回る強さの「青二」を出して勝負を逆転し、さらに、次のトリックを隠し持っていた中では最強の「アザピン」でリードするとデモンストレーションして六十文を追加で出させた、というゲーム展開が想定されている(「アザピン」がなぜ百文ではなくて六十文なのかは知らない)。そうだとすると、これは「合セ」の遊技法である。前出『かるた』(pp.85-86)
先ず最初に、少し本題からは外れてしまいますが、どうしても気になってしょうがない「アザピン」の語について意見を述べさせて頂きます。
この「アザピン」が「あざ」と同義に用いられているのは明白ですが、江橋氏は『かるた』の中で「あざ」に該当する語として「アザ」(p31)、「アザピン」(p85)、「あざピン」(p81)、「あざ(ハウのピン)」(p82)、「ハウのアザ」(p41)と、幾つかの語句を使用されています。
何も言葉尻を捉えてイチャモンを付けようという訳では有りません。只、読者に混乱を招かさせない為にも、出来る限り用語の統一を図るべきでは無いでしょうか。少なくとも江戸期のカルタに関して言えば、「あざ」は「パウ(青札)の1」だと明示した上で、後は「あざ」の表記に統一するのが望ましいと考えます。
いよいよ本論に入ります。先ず、『軽口もらいゑくぼ』に対する江橋氏の解釈、主張を整理しておきましょう。
(1)に対しては、一つの仮説としてはこれを認めますが、何もトリックテイキングゲームを持ち出さなくても解釈可能である事をこれからお示しします。どちらの解釈がより適切なものなのかという判断は、読者の皆様にお任せ致します。
江橋氏によれば、この「合セ」なるトリックテイキングゲームは上記(2)(3)の特徴を併せ持つものらしいのですが、先ず(2)に関しては、これが如何なる資料事実と論証を以て導き出された結論なのかが全く不明です。取り敢えず『かるた』の中から関係の有りそうな記述を探して見ましょう。
江橋氏は『かるた』の中で、「青二」最強切り札説を明確に述べられています。
「青の二」のカードは、「合セ」遊技では最強の切り札であり前出『かるた』(p.112)
又、『仁勢物語』を引用した上で次の様に述べられています。
カルタの遊技で「ハウの一」のカードである「アザ」は切り札だが、「ハウの十(ソウタ)」(別名「釈迦十」)も切り札で、「ソウタ」のほうが「アザ」よりも強いことになる。これはカルタ札の中で常に切り札になるのが「ハウの二」つまり当時の呼称で「青の二」と「釈迦十」「アザ」で、この順番で強弱がある「合セ」の遊技法である。前出『かるた』(p.31)
『仁勢物語』は『私可多咄』と共に、「あざ」と「ソウタ」の間には強弱関係が有ると解釈出来る事から、江戸初期にトリックテイキングゲームが存在した事を示唆する資料として、当サイトの「うんすんかるた」分室で紹介したもので、共に『かるた』にも引用されています。これらの資料から読み取れるのは「ソウタ」が「あざ」よりも強いと解釈出来るという点のみであり、「ソウタ」が「パウのソウタ(釈迦十)」に限られるのか、或いは全てのスーツの「ソウタ」なのかは不明です。ましてや「パウの2(青二)」が常に最強の切り札であるなどとは何処にも書かれていません。(ちなみに、「青二」「釈迦十」は少し後の呼称であり、「当時の呼称」としては「パウの2」「パウのソウタ」の方が適切かと思います。)
次に80ページからの『近衛家熙公(豫楽院)カルタ遊自画賛巻』に関する記述を検討します。少々長くなりますが、当サイトのアーカイブから全文の翻刻を掲載致します。
これに対して江橋氏は、次の様にコメントされています。
この近衛家熙の遺墨は、作者と贈呈先が明確で、作品制作の趣旨がいたって真面目であるところが良い。「ヨミ」の遊技に遭遇してさまざまに質問し、それを客観的に描写していて、当時のカルタ遊技の状景がよく見える。その文章は、最後は「三皇」を忘れないようにとしてこの手役を構成する三枚の役札を詠み込んだおふざけの一首で終わっているが、本文でも、和歌でも、役札は「青二」「釈迦」「あざ」の順番に表記されていて、これは、三枚のカードの間での強弱を強い順に正しく記述したものであり、作者の観察の正確さを保証してくれている。前出『かるた』(pp.81-82)
確かに、本文では「青二釈迦あさ」、和歌では「青によしならのみやこのしやか仏 あかめそまつるあさなゆふなに」と、たしかに「青二」「釈迦」「あざ」の順になっていますね。しかし「ヨミ」技法の観戦記録の中に、「合セ」技法の切り札の強弱が正しく織り込まれていると読み取るのは、かなり無理が有るのでは無いでしょうか。しかも、それをもって「作者の観察の正確さを保証」するものとするのは、如何なものでしょう。一体全体、家熙公が見たのは「ヨミ」だったのか、それとも「合セ」だったのか・・・あ、そうか! 両方やってたんだ!!
ここで戯れに、「合セ」技法における切り札である「青二」「釈迦」「あざ」の名を織り込み、「三枚のカードの間での強弱を強い順に正しく記述した」雑俳を二点紹介しておきます。
結局、「青二」を最強の切り札とする明白な根拠は見い出せず、解釈の前提自体が怪しげであるという印象を抱かざるを得ません。まさか「青二」「釈迦十」「あざ」の順に切り札の強弱が有ると仮定すれば、『軽口もらいゑくぼ』『仁勢物語』『私可多咄』『近衛家熙公(豫楽院)カルタ遊自画賛巻』等の内容がうまく説明出来る。従って、この仮定は正しい。この様な論法では無いでしょうけど・・・。
上記(3)の、「青二」「釈迦十」「あざ」の三枚は、それぞれ固有の点数を持つという事に関しては同意出来るものです。但しこれが、めくり系ゲームとしての「あわせ」に関するものであると考えられる事は、本稿の前編で徹底的に論証しておりますので、ここでは繰り返しません。これに対して江橋氏は、トリックテイキングゲームとしての「あわせ」であると主張されています。
勿論、トリックテイキングゲームの一形態として、獲得した札の点数を競うタイプの技法の有る事は承知しております。しかしこの「合セ」では、一部の強力な切り札が100点・60点という高い得点を有するのに対し、それ以外の一般の札は無点、或いは、有ったとしても極めて低い点数だと考えられます。この様な点数体系を持つトリックテイキングゲームの実例は有るのか、寡聞にして存じませんが、もし有ったとしても、その様なタイプの技法が江戸初期迄に我が国に伝来した可能性は・・・まあ無いでしょうね。寧ろ、我が国で独自に考案されたと考える方が、まだ少しは有り得そうですが、それとても可能性としては限り無く0に近いと思われます。
又、江橋氏は前述の通り、トリックテイキングゲームとしての「合セ」の遊戯法が発展し、「うんすんかるた」に引き継がれたとお考えです。しかし、江戸期の「うんすんかるた」にも、人吉地方に伝承される「うんすんかるた」にも、固有の点数を持つ札が存在した形跡は有りませんし、勿論、「青二」の札が最強の切り札であった事実も有りません。
江橋氏が想定されている「合セ」技法は、「青二」「釈迦十」「あざ」の三枚の札がそれぞれ100点・100点・60点といった極めて高い固有の点数を持つと同時に、強力な切り札でもあるという、かなり特異なルールのトリックテイキングゲームです。では、この奇妙な遊戯法は一体何処からやって来て、そして何処へ行ってしまったというのでしょうか?
さて、先に進む事にしましょう。いよいよ本文の解釈に入ります。この文を一つの笑話として捉えた時、どの様な解釈が適切でしょうか。先ずは前記(4)、笑話の前半部分を検討します。
笑話は、青菜売りが僧侶に百文を寄進する事に始まります。江橋氏の解釈によれば、この百文は元々寄進するつもりなど毛頭無い「自分が出すそぶりをした銭」であり、「駆け引き」の為のものです。悪いやつですねー。そして誘いに引っ掛った僧侶は、見事に百文を巻き上げられてしまいました。何ともマヌケな高僧ですねー。ここが笑える所??
果して、ずる賢い青菜売りと間抜けな高僧、この二人の汚名を返上する事は出来るのでしょうか。先ずは青菜売りの名誉挽回から取り掛かりましょう。
事の発端は青菜売りが僧侶に百文を寄進した事でした。果してこの百文は単なる「駆け引き」の為であり、元から「出すそぶりをした」だけのものだったのでしょうか。否、とんでもない冤罪です。
彼が百文を寄進した動機は、本文中に「此御僧を見奉り、殊勝に思ひ」と書いてある通り純粋な信心によるものですし、「売だめ銭をさしにつなぎ、百文しんじける。」と、寄進は確実に実行に移されています。
何故百文もの大金を? という問いかけに対して、咄嗟にカルタの点数に引っ掛けて
と答えるあたり、中々の切れ者と見て取れますが、少なくともズル賢こさなどは微塵も感じられません。
一方、僧侶の取った行動も、文章を素直に読めば容易に諒解できます。百文の寄進は大変有り難いが、彼の風体から見れば簡単に出せる金額では無いのは一目瞭然。しかし、もし寄進を断れば青菜売りの志を無にし、彼のプライドを深く傷つける事に成ります。さあ、どうする。
この部分の解釈上でのキーワードは、ズバリ「上打ち」でしょう。江橋氏は、この語をトリックテイキングゲーム用語の「上切り(オーバーラフ)」のイメージで解釈されている様に思われます。
僧侶は「いやいや、あなたこそ手の中を見れば『青二』(青菜の荷)をお持ちだから(これを打てば百上打になり、わたしの方こそ負けだから)・・・
又、「上乗せ」と同じ様なイメージをお持ちの様にも見えます。
・・・こちらから百上打に百文差上げなければ」といって、男が出した百文のほかにもう百文を差し出した。
勿論、「上打ち」が江戸時代のカルタ用語として「オーバーラフ」の意味で使用されていた可能性は有りません。では、一般的にはどの様な意味だったのでしょうか。
答えは・・・よく判りません!・・・て、そんな無責任なって言って下さいますな。一応、頑張って調べては見たんですけどね。載っていないんですよこれが。どの辞書にも。
『江戸語辞典』(東京堂出版)・『江戸語大辞典』(講談社)・『近世上方語辞典』(東京堂)・『角川古語大辭典』(角川書店)等、近世語彙を調べる際の定番の辞典を見ても、どれにも載っていませんし、かの『日本国語大辞典』(小学館)にも有りません。勿論、ネットを検索しても無駄です。江戸語としての「上打ち」は、極めて特殊な用語であったと考えて良いでしょう。
あっ! 有りました~!!
恐らく、唯一「うわうち」を標題語として採り上げているのが『江戸時代語辞典』(潁原退蔵著 尾形仂編 角川文芸出版)です。
【上打ち】追加の金銭を出すことか。
この語釈は、江橋氏による『軽口もらいゑくぼ』の解釈に近い様に思われます。もしかすると、江橋氏はこれを参考にされたのかも知れません。
但し、この語釈は原著者である潁原退蔵氏ではなく、編者である尾形仂氏によるものです。どうやら潁原氏は明確な語意を掴むに至っていらっしゃらなかった様で、用例として二書を引くのみです。その一つが『軽口もらいゑくぼ』であり、もう一書は宝永三年刊の『風流仕出男』です。
『風流仕出男』(宝永三年)「半季に廿匁づゝ奉公人の方から給銀出して有付奉公人はどこにも有まい・・・口の上にて居る奉公人に廿匁の上打、ぜんだいみもんのもうけをさらりとかゝえて」
ちなみに「口の上にて居る奉公人」とは、無給で、三度の飯だけは食わせてもらっている奉公人の事です。それにしてもよく判りませんね。まあ、取り敢えず尾形仂氏による語釈を採るのは簡単ですが、ちょっと悔しいというか、勿体ない!
今迄に多くの専門家によって検討し尽くされ、正確な語義がほぼ確定されている語句とは違い、「上打ち」は殆ど誰も気に掛ける事無く、無視され続けてきた語句です。それ故に当方の如きド素人にも口出し出来る余地が残されている、とても美味しいテーマですので、ここはもうひと粘りしてみましょう。
残念ながら『風流仕出男』には翻刻が無い為、止むを得ず霞亭文庫蔵の版本を何とか解読した結果をお示しします。
どうにか情況が見えて来ました。普通、奉公人は半季に二十匁の給銀(匁は銀の貨幣単位ですので、「給金」では無く「給銀」です。)を払って雇うのに、逆に雇い主に二十匁を差し出すから奉公させて欲しい、という不思議な娘が現れます。無給で、食事支給のみの契約だけでも十分に得なのに、逆に二十匁を受け取れば雇い主の丸儲け。旨い話しには何か裏が有る筈と訝しく思い、何か特別な望みでも有るのか、変な病気でも持っていないか、と問い正しますが、結局、吝い主人は二十匁の「上打ち」付きで娘の奉公を認めます。
勿論、娘は或る目的を持ってこの家に入り込もうとしているのです。何やらサスペンスの一場面の様ですね。この娘に一体どの様な子細が有るのか、そして事態はどの様に展開し、どんな結末を迎えるのか・・・は、知りません。ゴメンナサイ。当方の乏しい読解力ではこの部分の解読だけで目一杯です。どうかご勘弁下さい。
これを踏まえて「上打ち」の意味を再検討しますと、尾形氏の語釈「追加の金銭を出すこと」ではしっくり来ません。娘が申し出た二十匁の「上打ち」は追加の金銭では有りませんから。僭越ながら「上打ち」の新たな語釈を考えてみました。
【上打ち】通常と逆に金銭を差し出す事か。
みたいな感じ?
本文に戻りますが、覚えてます? 僧侶が取った行動は・・・
そこはさすが高僧。こちらもカルタの点数に引っ掛け、一休さんも顔負けの見事な頓知で見事に解決します。
「あなたから『釈伽(十)』に対して百文の寄進を受けましたので、拙僧からもあなたの『青二』に対して百文を上打ちに差し上げましょう。」
僧侶から青菜売りへと、通常と逆方向に金が差し出されている百文が「上打ち」です。注意して頂きたいのが最後の「百文やられける」です。僧侶が青菜売りに渡したのは百文のみであり、最初に寄進された百文も返したとは読み取れません。
つまりここ迄の所、青菜売りは純粋な信心から僧侶に百文を寄進し、僧侶は憐情と頓知によって青菜売りに百文を受け取らせました。よって双方プラスマイナスはゼロです。
青菜売りは決して腹黒い男では無く、僧侶も阿呆では有りませんでした。しかし、もしもここで話しが終わってしまったならば、「笑話」と言うよりも、所謂「ちょっとイイ話し」みたいに成ってしまいますね。
いよいよ最後の(5)、即ち笑話としての「落ち」の部分の検討に入ります。この部分はさほど難しくは有りませんね。
青菜売りは素直に感謝の言葉を述べています。僧侶からの百文は、自分が勝負に勝って当然受け取れる類いの金では無く、僧侶の志によるものですので感謝は当然ですが、ちゃんと礼儀を弁えている男です。しかし彼も中々の頓知者で、ちょっとしたイタズラ心が湧き上がります。
自分の腕に有る「痣」をカルタの「あざ」に引っ掛けて六十文要求し、これを手に入れます。僧侶は青菜売りの要求に従わねばなりません。何故ならそれが論理的に正しい要求だからです。僧侶は「釈迦十」故に百文の寄進を受け、青菜売りは「青二」によって百文を手に入れました。更に、身に「あざ」を持っているのですから、もう六十文を手に入れる権利が有る訳です。
この結末の部分にも、全体の解釈に係わる重要なキーワードが有ります。それは「外に」の語です。青菜売りは自分が寄進した百文の「外に」、以上の百六十文を手に入れたという訳ですが、問題はこの「外に」の語の意味するところです。
何れにせよ僧侶の持ち出しになった事に違いは有りませんが、重要なのは百六十文と六十文との差の問題では有りません。笑話としての質の問題です。
江橋解によれば、僧侶は青菜売りからの見せかけの百文の寄進に騙されて、逆にまんまと百文を取られ、更には追加の六十文を巻き上げられてしまいます。これって面白い話しですかね?
確かに江戸前期の笑話には、単なる下ネタの様に現代の感覚ではちょっと笑えない様な話しが多い事は否定しません。一方、現代の落語の原型と成っている様な上質なアイデアも又、数多く生み出されているのも事実ですので、決して侮ってはいけません。
拙解では、前半のやり取りでは双方共に善意と頓知によって損得無しの状態に収まっていますが、後半での青菜売りの更なる頓知によって僧侶は六十文を出さざるを得なかった、これが「落ち」だと考えます。結果として僧侶は六十文の損をした訳ですが、その気持ちを代弁するならば「コリャ、一本取られたわい、ワッハッハ」という感じです。そして、これが作者の期待した読解だったのでは無いでしょうか。だとすれば、これはかなり上質な笑いだと言えます。
以上、『軽口もらいゑくぼ』の笑話の解釈に関して、トリックテイキングゲームとしての「あわせ」の勝負になぞらえたものとする江橋解を批判し、これを、めくり系技法としての「あわせ」の点数計算に基づくものとしての解釈をお示ししました。どちらの解釈が妥当かの判断は、読者の皆様にお任せしたいと思います。
【8】終わりに寄せて
これで全ての論証は終わりです。(恐らく、皆様の予想された通り)当初の目論見から大幅に遅れてしまいましたが、その間、重要な新資料『江府風俗志』の発見という嬉しい出来事も有り、苦しみながらも何とか脱稿を迎える事が出来た今、しばしの間、安堵感と虚脱感に浸らせて頂こうかと思います。
本稿は様々な角度からの論証から成っています。中には強引なこじつけや、独り善がりと感じられる部分も有る事でしょう。又、もとより浅学非才ゆえの誤認・誤解も多々有るやも知れません。皆様からの忌憚の無いご批判をお待ちしております。
結局、最後の「おまけ」に至るまで江橋先生に対する批判になってしまい、大変心苦しいのですが、「あわせ」技法の探求という本稿テーマの性格上、江橋先生の「あわせ=トリックテイキングゲーム説」に対する批判を避けて通れない事は御了解下さい。
本稿は2007年5月当サイトにて発表した『技法「あわせ」の研究』を基に再考を加えたものであり、そもそも再考の切っ掛けは2014年2月に頂戴した、江橋崇先生からの私信メールによる拙稿に対するご批判でした。その時の喜びと、何とも言えぬ恐怖心は今も忘れられません。その後熟考の末、本格的に本稿執筆を開始した2015年の夏頃からでも既に2年の月日が流れています。
更に、その後に出版された『かるた』や、『遊戯史研究』に発表された諸論文の中で頂戴したご批判に対する感謝の気持ちと、何としてでもお答えせねばならぬという強いプレッシャーこそが本稿執筆の原動力でした。つまり本稿が成ったのは、一にも二にも江橋先生の御蔭にほか成りません。この場を借りまして、心から感謝申し上げます。
果たして本稿が、これ迄に江橋先生から頂戴し、これからも頂戴するであろう多大なる御学恩に対して、ほんの僅かでも報いる事が出来たであろうかと自問しつつ、一先ず筆を置かせて頂く事としましょう。