江戸カルタメイン研究室 十四頁目

〜江戸カルタに関する総合的な研究室です〜


S 新発見資料か?『祢覚譚』について 前編

【1】事の発端

長年カルタの資料漁りを続けていると、独特の嗅覚が身について来るものです。いや、本当に。何となく匂うなーと感じられる資料に目星を付け、ざっと目を通した時に更にプンプン匂って来たらシメタ物。かなりの高確率でカルタに関する記述が見つかるものです。
 しかし、より確実且つ効率的なのは、多くの先人方の先行研究の成果に目を通す方法です。直接カルタに関わる研究は言う迄も有りませんが、その他の周辺領域、わけても近世文芸関係の研究を通じて多くの資料に出会う事が出来ました。今更ながら、今日のカルタ研究は多くの先学による学恩の上に成り立っているという思いを強くします。

さて、今回ご紹介する資料『祢覚譚(ねざめものがたり)』の存在を教えて頂いた恩人のお名前は花咲一男氏。言わずと知れた近世文化風俗研究の大家です。氏には数多くの著書が有りますが、今回の出処は一風変わっていて、『続日本随筆大成 別巻一 近世風俗見聞集1』の付録です。『日本随筆大成』のシリーズには、各巻に数ページの小冊子が付録として添付されていますが、そこに寄せられた「未刊風俗覚書(一)」と題された一文が出処です。

  ねざめものがたり

 国立国会図書館蔵『祢覚譚』は、美濃本型全一冊、九十一張の筆写本で、内容は編年体をとって、ほぼ宝暦二年から文化五年までの主として江戸市中の事柄を記録している。異形の別本が東大図書館にあるが、いまは触れない。序文は次のように述べられている。「光陰は矢の如しとかいへる諺むへなる哉いたつらに星霜を経るうちにも奇説珍事の見聞まに/\そこはかとなく事の前後もわかちなく筆すさみに藻塩草かきあつめ侍る猶此冊子に遺漏すること/\数多かるへしとかく世の人に見すへきものならねは深く秘する話をも記し置く過こし事の跡を後の世に知り覚つ眠気をさますものかたりの種とはなしけり」。この稿の標題の訓み方も、この序文によったものである。
 編者の身許の手がかりを知る事はできないが、各年冒頭が公辺の記事で起筆されていること、安永八年に、
○竜吐水といふ物、始て町奉行所より町火消へ渡る。という記事がズバリあること、他の年次に比べて安永期の町方世態に詳しい点等から、安永年代、奉行所に在職した武士か。

『続日本随筆大成 別巻一 近世風俗見聞集1 付録』
吉川弘文館 1981年

続いてが問題の記述です。

 僕の興味をひいたのは、明和五年四月の吉原全焼に続いて、
○めくりと言物時行はやる、後に・・・。とある一項で、翌年に『雨中徒然草』が執筆されている事実と照合し、その過熱の様相を推測できるからである。紙数の関係で、以下へ安永八年を抄出し、駄文を添える。

同前

オイオイ、生殺しかよー!
 紙数の関係で「めくり」に関してはこれで終わり。続いて安永八年の記事というのが・・・

○ぱっちと云物時行出す。

同前

「ぱっち」とは、あの股引みたいなアレです。まあ、世のぱっち研究者の皆様にとっては大変貴重な情報なのでしょうけどね・・・。それにしても「めくり」を差し置いて、よりによって「ぱっち」ですか〜? トホホ・・・

まあ、愚痴っていてもしょうが無いので、気を取り直して調べに行く事にしましょう。いざ、国会図書館へ!!

平成二十九年、早春のとある日。9:30の開館時間に照準を合わせて到着。この日は所用の為、出来るだけ早く作業を終える必要が有ったのです。開館と同時に入館ゲートを通過・・・アレ? 入れません!

「やっちまった!!」何と利用者カードの有効期限が切れていました(現在は登録後三年で失効)。いきなり痛恨のミスです。

やむを得ず新館に回って更新手続きを済ませ、漸く入館を果たした時点で既にかなりのタイムロス。急がねばなりません。幸い事前に請求記号を調べて有りましたので、わき目も振らず本館三階に有る古典籍資料室へと向かいます。急ぎ閲覧許可申請書と資料請求票を提出します。原資料の出納は日に7回の決められた時間に行われるシステムなのですが、何とか一回目の出納に間に合いました(事前に請求記号を調べておいてよかった〜)。後は只管資料の到着を待つのみです。

さて、待ち時間を利用して、しばし雑談にお付き合い下さい。古典籍資料室は国会図書館内の専門室の一つで、和書、漢籍等の古典籍約28万冊の資料を所蔵しています。10件の重要文化財をはじめ、多くの稀書・珍書も収蔵されており、研究者(学者先生)の方々も頻繁に(多分ですが)利用されています。もう数年前の事ですが、私の前に小柄な外国人の方が資料請求をされていた事がありました。もしやと思い、こっそりと(失礼!)請求票を盗み見たところ、案の定カタカナで「アダム カバット」と署名されていました。
 アダム・カバット氏は、我が国の妖怪・化け物という大変ユニークなテーマの研究者であり、多くの著書が有りますのでご存じの方も多いかと思います。又、私がくずし字の勉強を始めた際に一番最初に使用した入門書がカバット氏の著書だった事もあり、氏には親近感を抱いておりましたので、この出会いには大変感激いたしました。小心者ゆえ、お声を掛ける事が出来なかったのは心残りでしたが、とても良い思い出です。
 古典籍資料室は、そこに一歩足を踏み入れるとアラ不思議、自分がいっぱしの研究者に成ったかの様な、奇妙な錯覚を覚えさせる特別な空間です。勿論、それが単なる錯覚なのは言う迄も有りませんが、中々気分の良いものです。申請書に住所・氏名等と、簡単な研究テーマを(でっち上げて)記入をすれば誰でも利用可能ですので、決してハードルの高い場所では有りません。機会が有れば、是非一度チャレンジしてみて下さい。

そうこうする内に資料が到着いたしました。ここからは時間との勝負です。恐らく、短時間で内容を解読するのは無理でしょうから複写を取らねばなりません。原資料の複写は、写真撮影をしてフィルムから印画しますので、手元に届く迄にはそれなりの日数と費用が掛かりますが、その手続きだけでも終わらせておかねばなりません。
 帙を開き、慎重に中身を取り出しますと先ず「祢覚譚」と書かれた題簽の貼られた茶色の表紙が目に入りますが、そこには「帝国図書館蔵」の文字の空押し加工が施されており、旧帝国図書館時代に収蔵された後に付けられた表紙という事に成ります。
 この表紙をめくると、中からもう一つ別の表紙が現れます。こちらが、より古い時期に付けられた表紙という事に成ります。表紙をめくりますと、一丁オモテには内題「寝覚譚」に続いて序文が記されています。内容は前掲、花咲氏の引用の通りですが、恐れていた通り、かなり癖の有る読みにくい書体です。
 そこには三種の蔵書印が押されています。上部中央には「帝國図書館藏」の印、本書がこの印が使用された明治三十年から昭和二十二年の間に収蔵された事が判明します。残りの二つは・・・よく判らないので取り敢えずパス!

一丁ウラから始まる本文は編年体で、宝暦二年の記述から始まっています。所々に虫喰い跡のあるページを慎重にめくっていきますと・・・
  有りました!
 たしかに明和五年の記述です。けっこう長そうですが、ざっと目を通しますと・・・残念ながら以外と簡単に解読出来ちゃいました。
  「ん? 残念ながら・・・って?」
 はい。取り敢えず翻刻をご覧頂けばお分かり頂けますでしょうか。

『祢覚譚(ねざめものがたり)』文化五年(1808)頃
 明和五年
  ○めくりと云物時行後に鬼を加へ鬼入と云其後かるた御吟味有之八町堀山城屋と云かるた問合入牢此時鬼入何となく止む此節此節皆人の噺にめくり是米久離に通ひ又女久離にかよふ何れにしても米穀高直にして夫婦離散の前表之といふ果して段々天気不順米穀も次第に高直になりついに飢饉に及ふ天明七未年の頃は小賣百文につき三合になる

見覚えが有りますね。多少の異同は有るものの、加藤曳尾庵による随筆『我衣』の記述とほぼ同文です。
(以後の『我衣』からの記述は、国会図書館所蔵の十八冊本を底本とした『日本庶民生活史料集成 第十五巻』の翻刻からの引用です。)

『我衣』江戸後期
めくりと云物、後には鬼を加へ、鬼入といふ。其後かるた御吟味有之。八町堀山城屋と云かるた問屋入牢。此時鬼入何となく止す。此節皆人の噺に、めくりは米久離にかよひ、又女久離にも通ず。何れにしても米穀高値にして、夫婦離散の前表也といふ。果して段々天氣不順、米穀次第に高値に成り、終には飢饉に及ぶ。天明七年未の頃は小賣百文に三合に迄成たり。此比めくり大に行わる。

残念ながら、新資料大発見の夢はあっさりと消え去りました。しかし意気消沈していても仕方有りませんので、ここは前向きに『祢覚譚』の記事の持つ意義を考えてみましょう。
 両書の間に関係が有るのは明らかです。常識的に考えるならば、どちらか一方が他方を参照したと考えるのが自然でしょう。尤も、二書に先行する元資料が存在し、両者が別々にそれを参照した可能性も有りますが、その可能性は、その検証が必要だと考えられた場合に検討する事にして、今は二書間に直接的な参照関係があったものと仮定して見て行きます。参照関係が明らかになれば、当然、先行する資料の方が、より信頼性が高いと言えます。
 以前、言及しましたが「めくり」の流行の始まった時期に関する『我衣』の記述は曖昧で、明和五年から七年の間に位置すると判断出来ますが、『祢覚譚』では明確に明和五年の記事として記録されています。これが信頼の置けるものと確認されるならば、少なくとも「めくり」の誕生時期を考える上で明確な定点を得られる事になります。では、両書の記述を詳しく比較して見ましょう。

両書の記述の最も大きな相違点は、『祢覚譚』では文頭に「めくりと云物時行(はやる)」と明記しているのに対して、『我衣』では文末に「此比めくり大に行わる」としている点です。『祢覚譚』が原型だとすると、『我衣』の文ではめくりが明和五年頃から、更に読み様によっては天明頃迄も含めて盛んに行われたと、広く解釈出来る様に書き換えたという事に成りますが、敢えてそうするべき理由は思い浮かびません。しかし逆に『我衣』の文が元であり、それを敢てピンポイントに「明和五年に流行」と書き換えたとは、一層考えにくい様に思われます。

『祢覚譚』で「此節」が二回ダブって書かれているという、明らかな間違いが『我衣』では修正されています。又、『祢覚譚』に有る「問合」という不可解な語が、『我衣』では恐らく正解である「問屋」に直されています。両方共に『祢覚譚』の間違いを『我衣』が訂正したと考えるのが自然でしょう。『祢覚譚』が『我衣』を写す際に間違えた可能性も皆無では有りませんが・・・。

『我衣』に「天明七年未」と有るのは表記法として明らかに不適切であり、『祢覚譚』の「天明七未年」が正解です。しかし『我衣』が写し間違えたのか、『祢覚譚』が訂正を加えたのか、何れの可能性も有ります。

全体としては・・・。んー 何と無く『祢覚譚』の方が先行資料な様な気がしないでも無いが・・・まあ、何とも言えませんね。さて、どうする?

そうです。こういう時はアノ手「木を見ず、森を見ろ」です。資料全体を見る事によって新たな手掛かりが見つかるかも知れません。件の記述は『我衣』の「巻一ノ二」に含まれていますので、せめてこの部分だけでも目を通しておく必要が有そうです。

そういう訳でペラペラとページを捲っていると、ある一文が目に止まりました。この巻の一番最後、文化五年の記事です。

『我衣 巻一ノ二』
文化五辰年永代橋新大橋かけかへ有之。
△回向院にて永代水死の一周忌有之。
(後略)

見覚えが有ります。国会図書館で『祢覚譚』を閲覧した際、念の為に最後の記事を控えておいたのがこちらです。

『祢覚譚』
文化五年辰年永代橋新大橋かけかへ有之
○回向院ニ而永代橋水死人一周忌法事有之
(後略)

ほぼ同じですね。では、始まりの方はどうでしょうか。

『我衣 巻一ノ二』
寶暦二申年天滿宮八百五拾年忌、所々開帳有之。

一方、『祢覚譚』の方も一番最初の記事は同じ宝暦二年(1752)からです。残念ながら、ちょっと読み取りにくかった為、内容を控えていなかったのが悔まれます。
 他はどうでしょうか。例えば花咲氏が紹介されていた、安永八年に「○竜吐水といふ物、始て町奉行所より町火消へ渡る。」というのは・・・やはり有りました。

『我衣 巻一ノ二』
龍吐水といふ物始て、町奉行所より町火消へ渡る。

という事は、もしかしてアレも・・・

『我衣 巻一ノ二』
此比より、ぱつちといふ物流行。

頭が混乱して来ました。
  コレって、ドーユーこと〜??
もしかして『我衣 巻一ノ二』と『祢覚譚』は、殆ど同じものなのでは?

この疑問に答えるべく、先ずは『我衣』の成り立ちについて調べて見ましょう。幸い『我衣』の成立過程に関しては、巻十七の冒頭に曳尾庵自信によって記されています。

『我衣 巻十七』
 又記す。此わが衣といふ書は、往し寛政の始、古寫本あまた求得し中に、寛永の比より寳歴の初までの、異説・寄話・時世裝の轉じたる、或は時々の流行の言葉、男女の風俗のうつりかわり、衣類、笠より木履に至る迄、其圖を顕し、年月をよく糺したる書一册あり。益なき事とは思へども、好古の癖やみがたく、其中より抄出して、壹巻百枚とぢ物とす。

曳尾庵は寛政の初め頃に古写本を多く買い集めました。その中に、江戸初期の寛永期から宝暦の初め頃迄の巷説や異聞、世の風俗を絵入りで記した一書が有り、そこからの抜き書きを百枚にまとめたのが、元々の『我衣』の巻一です。何故「元々の」なのかというと、続きを読めば判明します。

『我衣 巻十七』
 或日、松平鳩翁君へ謁せし折から、此書の物語申上しに、翁君仰ありしは、予若かりし時より世のなかのさま、あまさず洩さず筆記せし物あり。夫れは寳歴の初より、四五年以前迄の事共也しが、近比老衰して筆を採る事不能。汝其書に是を合せて、猶後ちの事も記録せば少しは世に益ある事もあるべしと仰ありて、則御側なる小林金次郎に命じて、御書庫を尋しめ給ひ愚老に借し與へ給ひぬ。是則、壹巻と二巻のとの間にさしはさみて、一ノ二とせし冊子也。
(後略)

ここが『我衣』と『祢覚譚』との関係の秘密に係わる重要な部分ですので、じっくりと読み込んでおきましょう。

或る日、曳尾庵が松平鳩翁君なる人物の元を訪れた際の事です。「君」といっても現代の様なお友達感覚では有りませんよ。当時の用法としては「君」は尊称でした。別の所では「松平鳩翁侯」とも呼んでいますし、「謁せし」という表現からも目上の人物であったのは明白です。
 『我衣』に書かれている人名の殆どは呼び捨てです。尊称としては「君」の他に「殿」「公」「侯」等が使用されていますが、「君」の使用は寧ろ稀な方です。印象では、曳尾庵自信が親しく交際する目上の人物に対して用いている様に思われます。

曳尾庵が自分の書き続けている『我衣』の事を話した所、鳩翁が言うには
 「自分は若い頃から、世の中の事を色々と書き綴って記録してきました。それは宝暦の初めからで、今から四五年前迄の事ですが、最近は高齢の為に書く事ができません。」
 彼の言う「今から四五年前」とはいつ頃の事でしょうか。

松平鳩翁の名は『我衣』本文中にも都合四回登場しますが、内三回は共に文化十一年の記事です。

『我衣 巻九』文化十一年
松平鳩翁君より拝借せし古寫本の内に、幸案老人覺書といえる本二冊あり。
『我衣 巻九』文化十一年
予此比松平鳩翁君より一本の古寫のものを拝見す。
『我衣 巻九』文化十一年
貝原篤信 文字ノ事、伊勢平藏貞丈 號安齋隨筆ニ悉ク見ヘタリ。世に少き本也。予は松平鳩翁侯より拝借して三度迄見たり。

これらの記述から、曳尾庵は鳩翁から少くとも数度に渉って蔵書を借り受けている様です。鳩翁宅には自著の他にもかなりの蔵書が有った様ですので、少なくともある程度の経済力が有り、それなりの教養の有る人物であったと想像されます。

『我衣 巻十』文化十二年
文化十二乙亥二月八日於松平鳩翁君舘會、幸太夫、東儀隼人佐殿(御樂人也、今天文方へ出役)終日魯西亞の談を聞。
(後略)

鳩翁宅に招かれていた幸太夫とは、ロシアに漂流の後、寛政四年(1792)に帰国し、桂川甫周・大槻玄沢等との交流によって蘭学の発展に大きく貢献したと伝えられる、あの大黒屋光(幸)太夫に他なりません。彼らは鳩翁宅で光太夫から終日ロシアの話を聞きました。
 一説では光太夫は帰国後、小石川薬草園内の拝領屋敷で半ば軟禁状態で一生を終えたとも言われていますが、実際にはそれ程厳重に拘束されていた訳では無い様です。しかし、誰でもが簡単に自宅に招く事が出来た訳では無いのは言う迄も有りません。
 この時もう一人同席していたのは、今も雅楽の家として著名な東儀家の楽人であり、同時に幕府天文方へ出役しているという東儀隼人佐殿です。翻刻の校訂者は「佐」に対して「正ヵ」と疑問の注を呈していますが、文化十二年の『武鑑』には「御楽人衆」の一人として

『武鑑』文化十二年
東儀隼人佐 現米七十石十人ふち 下谷御たんす丁

と有りますので、「東儀隼人佐」で間違い無く、歴とした幕府お抱えの御楽人です。不思議なのは「天文方へ出役」という記述です。幕府天文方は極めて専門的な役職であり、しかも原則的には世襲制ですので、当然ながらこの時期の『武鑑』の「天文方」に彼の名は見当たりません。東儀隼人佐の名は後で再度登場しますので、この謎に関してはそこで説明致します。

これらの人脈を考えると、松平鳩翁は幕府と何等かの関係の有る人物であり、恐らくは幕臣ではないでしょうか。しかも或る程度の身分の人物かと考えられます。

この様に見て来ると曳尾庵と鳩翁の二人は、文化十一年から十二年頃に親しく交流していた事が分ります。従って曳尾庵が鳩翁の筆耕を借り受けたのもこの時期か、その直前の文化十年頃の事であった可能性が高いと思われます。だとすれば、鳩翁の言う「寳歴の初より、四五年以前迄の事共」が『祢覚譚』のコンテンツである宝暦二年から文化五年にほぼ一致していると言って良いでしょう。

さて、二人の対面場面に戻りましょう。

「あなたの書かれている書にこれを合せて、更に後の事も記録すれば、少しは世の中の役にも立つでしょう。」
 鳩翁はそう言うとただちに、御側なる小林金次郎に命じて書庫から探し出させ、自分に貸し与えて下さった。

 小林金次郎は、たまたま近くにいた訳ではありませんよ。御側とは主人のそば近くに仕える家来の事で、つまり金次郎は鳩翁側近の家臣です。この小林金次郎も後でもう一度登場しますので覚えておいて下さい。
 尚、御書庫と有りますので、鳩翁はやはりかなりの蔵書家だった様です。

曳尾庵はこの書を自著に取り入れる事にします。しかし、仮にこの遣り取りが文化十年の事だったとするならば、『我衣』の執筆は既に巻八のあたり迄進んでいた筈です。そこで彼は、年代的にも内容的にも巻一の後ろに置くのが適当だと考え、「巻一ノ二」一冊という奇妙な扱いと成った訳です。
 ややこしい事に、写本によっては元々の「巻一」を二冊に分けて、それぞれ「巻一の上」「巻一の中」とし、「巻一ノ二」を「巻一の下」としているものが有りますが、混乱を避ける為に本稿においては「巻一ノ二」の表記に統一させて頂きます。

さて、いよいよ問題点が明確に成って来ました。曳尾庵が『我衣』「巻一ノ二」の元ネタとして松平鳩翁から借り受けた手稿と、現在国会図書館に収蔵されている写本『祢覚譚』一冊がどの様な関係に有るのか・・・エーイ、まどろっこしいのでズバリ言っちゃいましょう。
 もしかして『祢覚譚』こそが松平鳩翁自筆の手稿そのものなんじゃねー?

トンデモ無い事に成って来ました。カルタの研究という本来の趣旨からは離れてしまいますが、ここは乗り掛かった船、もしも可能であるならば、この謎を解明しない事にはどうにもスッキリしません。その為にはもう一度『祢覚譚』の内容を精査する必要が有ります。

という訳で、もう一度国会図書館で調べてまいりますので、この続きは暫くの間お待ち下さい。では、行って来まーす。

公開年月日 2017/11/19


【2】『祢覚譚』の正体

ただいまー。取り敢えずビール!! じゃ無かった。報告でしたね。収穫ですか? 勿論たっぷり有りましたぜ。先ずは簡単な書誌情報を。

  1. 【表紙】
    砥粉色地横刷毛目模様 縦27.4p×横18.9p
  2. 【題簽】
    「祢覚譚 完」子持枠 縦18.1p×横3.5p
  3. 【本文】
    序文半丁を含め、全92丁(花咲氏は91丁と書かれていますが、92丁が正解)
    本文中、所々に朱色の書き込み有り(凡そ四十箇所)。間違いの訂正、及び難読箇所の読み方を示すもので、明らかに本文とは別の筆跡です。
  4. 【蔵書印】
    一丁オモテ、序文の部分に三種の捺印(何れも朱印)有り。
  5. 【その他】
    背表紙裏に「文淵堂 丗九 千四百 六 [不明数文字]」の書き込み有り。
祢覚譚序

今回は複写も取って来ましたので、先ずは『祢覚譚』の現物を見て頂きましょう。右は一丁オモテの序文の画像です。
 薄くて見えにくいと思いますが、2〜4行目の文字に掛かって押されているのは「帝國圖書館藏」つまり現在の国会図書館の蔵書印で、サイズは約4.5p四方です。この印が使用されたのは明治三十年から昭和二十二年の間ですので、その間に収蔵された事になりますが、収蔵年に関しては、他の資料によってもう少し絞り込む事が出来ます。大正二年に帝国図書館によって刊行された『帝國圖書館和漢圖書書名目録 第三編』には「明治三十三年一月ヨリ同四十四年十二月マテニ増加シタル和漢圖書」の書名が収録されています。そこに『祢覚譚』も記載されていますので、その間の十二年の間に収蔵された事が判明します。
 次に、右下の方に直径約2pの丸印が有ります。中央は「圖(図の旧字)」の篆書体で、それを囲んで「三九・五・一五・購■・■」と見えます。「購」の次の文字は一部欠けていて断定は出来ませんが、恐らく「求」かと思います。確証は有りませんが、本書を帝国図書館に納入した書店の印かと想像されます。数字が日付だとしたら、明治三十九年五月十五日に購入された事を示すものかも知れません。これに関連して、裏表紙に有る文淵堂の書き入れにも「丗九」と有る事との関係も気になりますが、文淵堂に関しては後述します。

 

三つ目の蔵書印ですが、右上に変則的な四角形の印が捺されています。サイズは底辺が約2.5p、右側の長い辺が約4.0p。くすんだ色合いからもかなり古いものかと想像されますが、幾つかの蔵書印譜を調べて見た所一致するものは見つかりませんでした。文字は篆書体で四字。左の二字は「文庫」と読めますが、右の二字が判りません。取り敢えず解読は後回しにして、本文に入りましょう。

祢覚譚

右の画像がめくりの記事の掲載箇所です。五行目に「明和五子年」と有るのがお分かりでしょうか。その三行先の真中あたり「○めくりと云物時行〜」から始まります。そこから四行目でページが替わりますが、行が少し上がっているのは単なる画面の合成ミスですので、気になさらないで下さい。ページが替わって四行目迄がめくりの記事です。
 ページの替わる直前の行の頭の二文字は「此節」で、その右横にうっすらと縦線が引かれているのが見えますでしょうか。(判らない場合はここをクリックして下さい。最初の小さな赤枠の所です。)これが朱書きです。その前の行の最後の二文字も「此節」で、全く同じ形をしていますのでお分かり頂けるかと思います。『我衣』ではこの重複が訂正されています。

我衣

参考に国会図書館蔵『我衣』(『日本庶民生活史料集成』の翻刻の底本)の写本の該当箇所も掲載しておきますので比較して見て下さい。左ページの二行目に当たります。

『祢覚譚』に戻って頂いて、一つ目の「此節」の行の上の方をご覧下さい。三文字目から「かるた問合入牢」とあるのは比較的読み易いのでは無いでしょうか。この部分『我衣』では「問合」を「問屋」に直しています。
 ついでに『我衣』について補足させて頂きます。翻刻で「山城屋」されている箇所は、原本では「山城や」です。又、翻刻では「夫婦離散」の部分に(二字抹消シテアリ)と翻刻者による注が付けられていますが、たしかに「夫婦」の二文字分が墨で消されている様にも見えます。しかし、下の文字が確認出来る程墨の色が薄い事、文字の潰し方がいびつな事、前の行の「離」「ひ」の文字にも同様の墨跡らしきものが見える事等から、これは意図的な抹消では無く、偶発的な汚れである可能性が高いと思われます。

さて、今回の国会図書館訪問は時間がたっぷり有りましたので両書の記述内容を逐一比較する事が出来ました。予想通り、両書の内容はほぼ一致しており、しかも多くは全く同じ文面であるか、僅かな違い(例えばめくりの記事の様な)です。一方にしか見られない内容も有りますが、印象ではせいぜい全体の一割に満たないのでは無いでしょうか。先ず二書の内、片方のみに見られる部分を検討しましょう。
 『我衣』に有って、『祢覚譚』には無い記述についてはその理由は明確です。『祢覚譚』の序文の替わりに、『我衣』の巻頭には次の記述が有ります。

『我衣 巻一ノ二』
○圈は本文
△は予が思ひ出るを記す。依て後年の事なども書て加へぬ。

つまり、○印から続く記事はネタ元からの引用であり、△の部分は曳尾庵自身の知見による追加という訳です。従って当然の事ながら、△印以下の文は『祢覚譚』には見られません。この一点をもってしても『祢覚譚』が『我衣』のネタ元であるのは間違い無いと思われますが、更に決定的な証拠が複数有ります。

『祢覚譚』に有って『我衣』に見られない記事が何箇所か有ります。意識的に削除したと思われる部分も有りますが、中にはどう考えてもウッカリ写し漏らしたとしか考えられない部分が有ります。偶然にも件のめくり記事の直後の部分です。中央左寄りの長い赤枠部分

『祢覚譚』には「明和六丑年浅草観音開帳 ○西丸御普請有之」と有りますが、『我衣』ではこの一行分が丸々抜けており、いきなり「○伊勢両宮御遷宮有之 八月大風深川三十三間堂吹倒す○諸国風邪流行」と続き、次に明和七年の記事が始まります。その為、この三件の出来事が、あたかも明和五年の記事の続きであるかの様に見えてしまいますが、他の資料からもこれらは明和六年の出来事に間違い有りません(詳細は後述)。
 そもそも『我衣』の記事は宝暦二年に始まり、年によって記事の量に多少はあるものの、丸々一年分抜けているのはこの年が最初です。これで謎が解けました。曳尾庵さん、痛恨のミスです。尚、『我衣』ではこの後もう一箇所、安永四年の年号が飛んでいますが、これも『祢覚譚』の該当箇所の約二行半程が抜けている事が確認出来ました。曳尾庵て、すごく几帳面な人の様なイメージが有りましたが、実は結構オッチョコチョイだったのかも知れません。

更に両書の関係性を如実に物語るのは、『祢覚譚』に書き込まれた朱書きの内容です。一部を現物で見て頂きましょう。
 左下の赤枠部分です。(拡大図)

薄く「麦ヵ」と有るのが朱書きです。左のゴニョゴニョした文字に対して「これは多分”麦”かな?」という覚え書きであり、はたして『我衣』では「麦」と明記されています。
 実は朱書きの大半はこのパターン、「○○ヵ」という難読字に対する校訂です。重要なのはそれらの校訂の内容の殆どが、『我衣』の方にしっかりと反映されているという事実です。

次に、違うタイプの朱書きを幾つか見ておきましょう。今のすぐ下に「こぶじき」という文字が有り、その右肩に朱書きで小さな丸印しが付けられています。『我衣』でこの部分を見ると、「こぶじき」の下に割注で「本ノマヽ(元のままの意)」と書き加えられています。つまり『祢覚譚』に有る、あまり聞き馴れない「こぶじき」の語に取り敢えず目印を付けておき、最終的にはそのまま「こぶじき」と記した上で「意味の判らない語ですが、書き間違いではありませんよ。原本の表記そのままですよ。」と注記している訳です。

もう少し見ておきましょう。『祢覚譚』の安永六年の記事で、松平陸奥守が深川の蔵屋敷で花火を上げさせた処が評判に成り、「其日夥舗群集(その日、はなはだしき群集)」と記されていますが、「日」の横に「夜ヵ」と朱書きされています。別に「日」でもおかしく無いと思うのですが、朱書きの主としては花火なので「夜」の方が相応しいと考えたのでしょう。で、『我衣』の方はというと・・・「其夜夥舗群集」です。

次は『祢覚譚』の明らかな間違いを訂正しているケースです。「天明六丙午年正月元は日も午の日に當る」の「元」の横に「日」の朱書きが有ります。たしかにここは「元日」でないと変ですね。
 続いては天明七年の記事からです。めくり記事にも出ていましたが、この頃は所謂天明の飢饉の時期に当り、この年には米価が高騰して江戸市中でも打ち壊しが多発しました。『祢覚譚』では「白米金壹兩に貳斗貳升より壹石八升に成」つまり、以前は一両で米を二斗二升買えたのが、今は一両で一石八升になったというのですが、これでは米価高騰では無く、米価大暴落になってしまう事がお解り頂けますでしょうか。ここでは「壹石八升」の「石」に対して「斗ヵ」という朱書きが有りますが、明らかに「壹斗八升」が正解です。『我衣』では「壹斗八升」と記されています。

寛政元年。本来妻帯の許されていない僧侶が、密かに女を囲っている事に対する取り締まりの記事が有ります。「先年より寺方に■妻多く」の不明字に対して「陰ヵ」と朱書きし、更にその上部に「本字梵妻 ダイコク」と頭注を書き込んでいます。これは「陰妻」は正式には「梵妻」と呼び、俗に「大黒」とも呼ぶというコメントでしょうが、『我衣』では単に「梵妻」と成っています。

くどい様ですが、あと少しお付き合い下さい。寛政二年の記事中「目黒黄柏宗瑞聖寺」の「柏」の横に「檗」の朱書き有り。『我衣』では「目黒黄檗宗瑞聖寺」で、これが正解です。
 寛政三年七月の信州松本地震の記事で「城の屋倉崩れ」の「屋」に対して「矢」の朱書きが有り、『我衣』では「城の矢倉崩れ」と成っています。城の「やぐら」の正字は「櫓」か「矢倉」です。
 この二件では「○ヵ」という言い回しでは無く「檗」「矢」が正字と断定しています。自身の知見によって『祢覚譚』の明らかな間違いを訂正するという立場を取っている訳ですので、少なくともかなり知識豊かな人物によるものと考えられます。

これ位で十分でしょう。『祢覚譚』に施された朱書きの内容が、悉く『我衣』に反映されている事をご理解頂けたでしょうか。この事実が示唆するのは、『祢覚譚』に朱書きを入れた人物と『我衣』の著者は同一人物では無いか、ズバリ言っちゃえば曳尾庵その人なのでは無いかという疑念です。それを確定する方法としては『祢覚譚』の朱書きと、曳尾庵直筆の手稿の筆跡を比較鑑定すれば確実かと思いますが、さすがにそこ迄は当方の手に負えかねますので、今後の課題としたいと思います。しかし、情況証拠は十分過ぎる程ご提示出来たと考えます。

いよいよ大詰めです。『祢覚譚』に朱書きを入れたのが曳尾庵本人だとすれば、この『祢覚譚』こそが松平鳩翁が曳尾庵に貸し与えた手稿そのものであると考えるのが自然です。更にそれを裏付ける決定的な証拠が有ります。

前に『祢覚譚』の一丁オモテには三種の蔵書印の有る事をお伝えし、その内の一つについては解読困難として一旦保留としましたが、ここで宿題の答えをお示ししましょう。
 もう一度件の蔵書印(拡大図)をご覧下さい。問題は右の二文字です。篆書の字典を見ると、一字目はすぐに判りました。右側は「木」つまり木偏で、左側が「公」。つまり「松」の字です。
 二字目には少々てこずりました。左側から下辺に伸びている部分は「九」に見えます。該当しそうな字としては、一般的なものでは「旭」「馗」「鳩」位でしょうか。特殊な字を含めても候補はそれ程多くは有りませんので、絞り込むのはそれ程難しく無さそうに思われます。しかし字典を見る限り、どれもしっくり来ません。敢て言えば「鳩」が最も近い様に感じられますが、正式の篆書体の「鳩」に比べて蔵書印の文字の方は単純過ぎて、とてもピッタリ合致しているとは言えません。さあ困りました。
 或る日ふと思い付き、江戸時代の版本で一般的に使用されている「鳩」の崩し字を調べて見ますと、蔵書印の字形とほぼ一致している事に気付きました。つまりこれは「鳩」の正式な篆書体ではありませんが、江戸時代の人々が普通に見慣れた書体の「鳩」の字形を元に篆刻したものと考えられます。これで判明しました。蔵書印の文面は「松鳩文庫」です。
 では「松鳩文庫」とは一体何なのでしょうか。勘の鋭い方はもうお気付きでしょうが、「松鳩」は松平鳩翁の名前の「松」と「鳩」を組み合わせたものだと思われます。まさか単なる偶然だとは考えられません。つまり「松鳩文庫」は松平鳩翁の蔵書に捺された印であり、『祢覚譚』は鳩翁の自筆本であると考えて間違い無いでしょう。

結論が出ました。正体不明のまま国会図書館に収蔵されていた写本『祢覚譚』は、これ又不明とされてきた『我衣』の「巻一ノ二」のネタ元であり、松平鳩翁から曳尾庵の手に託された手稿そのものです。

本書がその後に辿った運命を考える上で、キーワードとなるのは「文淵堂」です。和古書の世界で「文淵堂」に該当しそうな候補はただ一つのみ、江戸浅草広小路観音前に有った書肆、浅倉屋久兵衛の用いていた号です(文淵閣とも称す)。確証は有りませんが、『祢覚譚』は明治39年に文淵堂の有する処となったと考えられます。『改訂増補 近世書林版元総覧』(日本書誌学大系76)及び『浅倉屋書店・ホームページ』を基に文淵堂の沿革を簡単に記しておきましょう。
 文淵堂こと浅倉屋久兵衛は、江戸初期の貞享年間(1684-1688)創業と伝えられますので、300年以上も続く超老舗の書林です。江戸・明治期には自ら開版(出版事業)も行なっていましたが、現在は主に和漢の古典籍を扱っており、関東大震災・戦災を経て文京区本郷に移転の後、現在は練馬区小竹町にて浅倉屋書店として営業を続けられています。
 ちなみに『祢覚譚』の書き込みに有る「千四百」という数字は、恐らく販売価格であろうと考えられます。明治期の金額表記の慣習、及び当時の貨幣価値から考えると、多分「14銭」の事と思われます。この当時の14銭がどの位の価値だったのか、他の物価を参考に推測して見ましょう。

これらから考えると、当時の14銭の価値は、現代の感覚では1500円から2000円位では無いでしょうか。当時は一般的に和古書の価値が低く、ましてや作者不詳の得体の知れない写本としては妥当な値段かと思います。

その後『祢覚譚』は、明治44年迄の間に帝国図書館に買い上げられて現在に至ります。
 浅倉屋書店のホームページによりますと「震災・戦災により蔵書を消失」と有りますので、もしも『祢覚譚』が文淵堂の元に有ったまま震災・戦災に遭ったならば、他の蔵書と共に灰燼に帰していた可能性が高かった事を思えば、その前に帝国図書館に収められた事によって、本書が今に伝わった幸運に只々感謝するばかりです。

公開年月日 2018/02/03


S 新発見資料か?『祢覚譚』について 中編

【3】『祢覚譚』の成立過程

『祢覚譚』は、松平鳩翁が自ら見聞した江戸の町の出来事を記録したものです。その内容は宝暦二年(1752)から文化五年(1808)迄の56年間に渉っていて、これは「人間五十年」と言われた当時とすれば、ほぼ一人の人間の一生に当たる期間です。その間の出来事を編年式に記録したものですが、宝暦二年から書き始めて毎年書き加えていったものでは無く、或る時点で過去の記録をまとめたものと考えられます。この事は例えば明和五年(1768)の項に収められた「めくり」記事の中に、天明七年(1787)の米価高騰の記述が有る事からも明らかです。では「或る時点」とは一体何時の事なのかを解き明かす為、同様の記述を年代順に幾つか抜き出して見ましょう。

これで終わりです。終わりというのはこの後、寛政五年以降には記事の記載された年次と、記事中に含まれる事項との間に年代の隔りの見られる例は確認出来ないという事です。
 以上の検証から導き出される仮説は次の様なものです。

『祢覚譚』は寛政四年(1792)に、一旦まとめ上げられたのでは無いか?

この仮説は、もう一つ全く別の観点から裏付ける事が出来ます。

『祢覚譚』の内容を、各年毎の記事の量と質という観点を基に検討すると、全体を三つの時期に分ける事が出来ると思われます。
  ○第T期 宝暦二年(1752) 〜 宝暦十一年(1761)
  ○第U期 宝暦十二年(1762)〜 寛政四年(1792)
  ○第V期 寛政五年(1793) 〜 文化五年(1808)
 作者である松平鳩翁の生年は不明ですが、『我衣』の記述を元に大まかな推測は可能です。曳尾庵と鳩翁とが親しく交流した文化十年頃には既に「翁」を冠した号を名乗っている事と、鳩翁自信の懐述として「近比老衰して筆を採る事不能」と述べている事から、この文化十年(1813)時点の年齢を70歳だと仮定しましょう。そうすると第T期は概ね彼の少年期と言えます。この時期の記述の特徴としては、各年毎の記事量も少なく、内容も火事や寺院の建立といった事実関係の記述が主で、正直なところ面白味に欠けるという印象です。
 続く第U期が『祢覚譚』の大部分を占める時期であり、著者の青年期・壮年期に当たります。年毎の記事量も豊富で、内容も自身の見聞や巷間説の伝聞等を交え、表現豊かに綴られている印象を受けます。まさに本書のハイライト部分と言って良いでしょう。
 第V期は著者の初老期から老年期に当たる時期と言えますが、寛政四年を境として再び記事量の減少が見られ、内容の質的にも低下している印象を受けます。一部長文の記事も有りますが、その殆どは他の文書からの引き写しであり、再び面白味に欠けるというのが正直な感想です。
 第T期の情報量が少ないのは当然としても、第V期における情報量、質の低下の理由は何でしょうか。寛政四年から五年の間に、一体彼に何が起きたのでしょうか。鳩翁が文化十年(1813)に70歳位という仮定から逆算すると、寛政五年(1793)時点での年齢は50歳位だった事になります。確かに当時としては老域に差しかかる年齢ではあるかも知れませんが、一気に能力的な衰えが有ったとは思えません。有ったとすれば『祢覚譚』執筆に対するモチベーションの低下でしょう。

鳩翁の思いと行動を想像するに、丁度この頃に『祢覚譚』の執筆を思い立ったのだと思います。恐らく彼の手元には予てから書き溜めてきた日記、或いは備忘録の様なものが有ったのでしょう。そこから自身の個人的な事項を省き、世の中の出来事をまとめ上げました。それは自分の生きた時代を描く事によって、自分の生きた証しを残したいという思いだったのでは無いでしょうか。それを『祢覚譚』と題し、一旦書き上げたのが寛政四年から五年の間であったと考えます。
 この時点で彼が、一種の達成感を抱いたであろう事は想像に難く有りません。しかし、この時点で『祢覚譚』の執筆を終えようとした形跡は文中に見られませんし、実際この後も十五年間に渉って書き続けられていますが、一旦達成感を覚えた後の一種惰性の様な状態であったのかも知れません。又、彼自身も述べている様に加齢による気力の衰えも実際に有ったのでしょう。
 更に想像すれば、『祢覚譚』の終わる文化五年以後の記事も用意されていたのかも知れません。しかし、それを書き足す前に草稿は曳尾庵に託され、それが『我衣』に反映されるのを見届けた後、再び書き足される事は有りませんでした。恐らく「もう十分だ」と感じたのでは無いでしょうか。


【4】『祢覚譚』の内容の信憑性

『祢覚譚』の記事内容の信憑性を確認しましょう。そもそも他の記事の内容の多くがいい加減なものならば、めくりの記事に関しても信用が置けないという事に成りますので、この検証は避けて通れません。しかし全ての記事を検証する事は困難ですので、めくり記事の載る明和五年とその前後、明和四年から六年迄の三年間に載る、都合十一の記事について検討する事にします。

最初に『祢覚譚』の記事を示し、続いてそれに該当する記事を、出典を明示出来る他資料から選んで引用しました。内容を比較検討し、最後に『祢覚譚』の記事の正確さを○・△・×の三段階で評価したいと思います。

以上、結果を集計しますと、「めくり」を除いた10件の記事の内で評価○が9件、△と×が各1件づつです。○を1ポイント、△を0.5ポイント、×を0ポイントとして平均点を出すと、正答率は85%と成りました。
 この数字をどう評価するかは難しい所ですが、まあ及第点と言って良いと思います。あくまでサンプル検査の結果に過ぎませんが、『祢覚譚』の内容にはそこそこの信憑性が有り、少なくとも荒唐無稽な与太話では無いと結論付けられます。

公開年月日 2018/03/22


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