江戸カルタ「めくり」分室 壱頁目

〜江戸カルタ技法「めくり」に関する研究室です〜


@江戸カルタの花形「めくり」

時は江戸後期、恐らく明和年間(1764-1772)の中頃でしょうか、江戸の地に「めくり」というカルタ遊戯が誕生しました。この新しいゲーム「めくり」は瞬く間に人々を魅了し、続く安永年間(1772-1781)初頭には、正に一大ブームと呼べる状況を呈していました。「めくり」は、それ迄百数十年の長きにわたって江戸カルタの代表的技法であった「よみ」に取って代って、江戸カルタを代表する技法に成ったと考えて良いでしょう。

「めくり」は、同時期に刊行された咄本や洒落本といった戯作の題材や小道具として、その作品中に数多く取り上げられており、それらの記述によって当時の熱狂ぶりを窺い知る事が出来ます。

『百安楚飛』安永八年(1779)
ちかきころめくりとやらんいふ物時行はやりて。ひと/\゛の心をなやます。むしもころさぬやうな隠居いんきよ。又ハの中を能思よくおもはなれたる後室ごけあるひハ子飼こがいより年ひさしくつとめ。女におどけ口いはれてもかほをあかめるやうな。世けんしらずの奉公人ほうこうにんも。このめくりに一寸ちよつとを出して。二百のほまちセにが四百になつたことを。てもさめてもわすれかねて。つゐにおゝきなるやまいのもとだてとなるなり

又、「めくり」ブームの真っ最中である安永四年(1775)に誕生した、新ジャンルの絵草紙である「黄表紙」も、「めくり」を恰好の題材として数多くの作品に取り入れています。これらについては百聞は一見に如かず。当サイト内の「カルタ資料展示室」の画像(江戸っ子は老いも若きも「めくり」に夢中)をご覧頂ければ、老若男女を問わない熱狂ぶりを実感して頂けるかと思います。更に、悪乗りした戯作者達は、歴史上の人物や異界の存在にまで「めくり」を打たせてしまいます。そちらも(「めくり」ブームは時空を超えて)をご参照下さい。

更に、極め付けはといえば、ついには夜空に浮かぶお月様まで「めくり」ファンに仕立ててしまいます。

『天慶和句文』天明四年(1784)
お月様さへめくりがきでと、深川なぞでは申ます。

ところで、これらの戯作作品を中心とした「めくり」に関する資料(文中に「めくり」と明記されているか、又は使用されている用語から「めくり」に関する記述だと判断出来るもの)は、全体でどの位の点数が有るのでしょうか。「めくり」の流行期と考えられる明和七年(1770)から寛政三年(1791)迄の二十年余りの間に限っても、現時点で確認されているものだけで、その数凡そ150点に上ります。更に、同じ時期の「めくり」以外の技法や、その他のカルタに関する資料も凡そ同程度有りますので、合わせると約300点程が数えられます。この数字は資料数の密度という点において、江戸時代の他のどの時期と比較しても突出しています。つまり、この時代こそ江戸カルタが最も輝いていた時代、正に江戸カルタ黄金期と呼ぶに相応しいものであり、そして、その黄金期を象徴する存在が「めくり」であったという事も間違い有りません。本分室は、これらの資料を読み解く事によって「めくり」の実像を解明する事を目的とするものです。

公開年月日 2013/10/20


A「めくり」の登場

「めくり」の誕生した年代を正確に特定する事は困難ですが、遅くとも明和七年(1770)頃には流行が始まっていたのは間違い無いでしょう。この件については、以前メイン研究室で論じておりますので、詳しくはそちらのページをご覧頂ければ幸いです。論証の要旨を整理すると、初期の「めくり」資料である『辰巳の園』明和七年(1770)、『両国栞』明和八年ヵ(1771)、『よるのすかかき』明和末年頃ヵ(1772)、『無量談』明和八年(1771)、『猿の人真似』明和九年(1772)の五点の文芸作品中に、何等意味の説明も無しに「めくり」の語が使用されているという事。これは、既にこの時点で多くの読者に「めくり」の存在が知れ渡っている事が前提と成ります。つまり、この頃にはある程度の流行が始まっていたと考えられる訳です。更に『我衣』の「此比めくり大に行わる。」という記述を明和五年から七年頃の状況と解釈し、この頃には既に「めくり」が流行していた傍証と考えました。

ここで、その後に見つかった資料をご紹介しましょう。

『けいせい扇富士』明和七年(1770)
ヱヽ扨めくりあつかくふ様で気ざ/\

惜しくも「めくり」の初出年の更新は成りませんでしたが、今まで初出資料とされていた『辰巳の園』と同じ明和七年(1770)の作品です。今後も同時期、更にはより古い年代の資料が発見される可能性は大いに有ります。

明和九年十一月十六日、改元が行なわれ安永元年となります。この年に刊行された資料を一点、追加致します。

『運附太郎左衛門』安永元年(1772)
コリヤめくりでもおしへてやろうかこのすべた野良奴やらうめ

これら二点の資料も又、説明無しに「めくり」の語が使われている点において、ご紹介済みの五点の資料と共通しています。

さて、ここで最近発見した大変興味深い資料をご紹介しましょう。著者は江戸歌舞伎の名優、初世中村仲蔵(1736-1790)です。ご存知の方も多いと思いますが「めくり」の役の一つに「仲蔵」(青七、青八、青九の三枚)が有るのですが、この役名の元である著者による自伝的随筆『月雪花寝物語』の一部です。

『月雪花寝物語』天明五年序(1785)
上略

加奈川より又々池上江參り歸り申候。參り候日よりして、道にて仲藏/\と申候。見られ候と存、かくれ申候か、よく/\聞申候得はめくりにてよひ申候也。道中にて子供貝をもつてめくりを致おり申候なり。見せ/\江めくりて、おりよく仲藏出來申候なり。難有奉存候。めくりに仲藏出來申にはきんごに狐の出來、十六御座候て狐とはかり十五に仕り取申候。はやり狐の札も問屋より出來參り申候。夫よりゆうれい出來、又鬼出來、さま/\仕り申候。

中略

雨降りの節は獵師町めくり仕り申候。雨なれば芝居は出來不申候。所の繁昌は仲藏參りし故なりとて、仲藏大明神さまと申候。皆々寄り申候ては其咄し申候。大明神/\と申候か鬼を仲藏と名付て、鬼出申候と仲藏か出た/\と申候が、江戸表へ歸り候節、行徳河岸にて網子宿を仕り申候所に寄、鬼を仲藏/\と申候由。夫よりして七八九を仲藏と名付け申候由。赤嶋七八九出來申候とみおりとやら申候て、つきぬけと名をつけ、箱又は見物までもほうびを取申、一番打申候と殊の外勝に相成、手柄と申候ゆへに、かたもめくりにかゝり申候と仲藏/\と被申候。七八九に紋所を中車を九に付、秀鶴七八に付申候ふだ出來申候て、上方仕入仕り、江戸へ下し申候。よみにて團十郎、めくりにて仲藏と定り申候。誠に有難き御事に奉存候。

中略

二十四歳迄ばくゑきしらぬ事もなく、朝夕にまて仕り候か、子細御さつて廿四の時に一錢の事も仕間しく、佛神へきせいかけ申候て、今日まて何事も仕不申候時はめくりは御座なく候なり。三十六七の時にめくりとてうわさを承り申候。其後めくりに仲藏出來申候とて札を見申候。

ご覧のように、「めくり」に関する新情報や面白情報が満載の貴重な資料ですが、今回は最後の段落の記述のみに触れる事にします。

仲蔵さん、若い頃には結構バクチに嵌っていた時期も有ったようですが、二十四歳の時、何が有ったのか判りませんがキッパリとバクチを断ったようです。仲蔵は元文元年(1736)生れですので、二十四歳の年は宝暦九年(1759)に当たりますが、この頃にはまだ「めくり」は無かったと証言しています。彼が初めて「めくり」の事を耳にしたのが三十六、七歳の頃という事ですので、明和八年から九年(安永元年)の事に成りますので、この資料も又、この頃には「めくり」がかなり広まっていた事を示す傍証と成ります。

「はい、はい、耳にタコが出来そうですよ〜。明和七年迄にはめくりが流行していたってのはよ〜く分かりました。じゃあ、めくりが出来たのはいつなのさ?
 ウッ、痛い所を突かれた・・・
「バ、バッキャロー! そんなこたーわかりっこねーだろうが。なんたって資料がねーんだからよー。ベラボーめ!」(心の中の叫び)
 落ち着け! 落ち着くんだ! ここは何とかごまかさねば・・・
「えーとですね、いかんせん決定的な資料が無いもので、あくまで推測に過ぎませんが・・・聞きたい?」
「聞いてやるよ。」
(ムカッ)
ズバリ! 明和五年・・・のあたり・・・かな? まあ、当たるも八卦、当たらぬも八卦という事で。」
「占いかよ。して、その理由は?」
「詳しくはウェブで!」
「ハァ?」
「失礼!間違えました。詳しくは別稿にて詳述する予定ですので、今日のところはひらに御勘弁を〜。」

ところで、今後の考察では「めくり」の歴史を四つの時期に区切って考えて行く予定なのですが、先ず明和末年(安永元年)までを第1期(登場期)と致します。第1期は「めくり」の誕生から、徐々に流行が広がりを見せ、大ブームが始まる迄の時期と定義出来ます。

第1期の終りを安永元年とするのには、一応の根拠が有ります。「めくり」資料の現時点での初出年である明和七年から、安永元年までの三年間で確認されている資料は『けいせい扇富士』『辰巳の園』『無量談』『両国栞』『猿の人真似』『よるのすかかき』『運附太郎左衛門』の七点ですが、これに対して、翌安永二年にはこの年だけで八点もの資料が刊行されている事から、所謂「めくり」ブームの到来、大流行の始まりと考えて良いでしょう。ただし、厳密に言うと「めくり」ブームの開始と、それが戯作本に採り上げられ、出版される迄のタイムラグを考慮すれば、実際には安永元年(明和九年)迄にはブームが始まっていた筈ですが、便宜上、本格的な流行が確実な安永二年からを第2期(流行期)と定義したいと思います。この年に刊行された咄本から、「めくり」の流行ぶりを示す小咄をご紹介します。

『千里の翅』安永二年(1773)
当世とうせいハねこも。しやくしも。めくりの。なんによひさをくミ。ゐるところへ。色白いろしろな。わかしゆ。むすめのそばにくつつきてそつとふところへ。手を入れハ「(むすめ)をゝすべた
当世は猫も杓子もめくりの座。男女、膝を組み居る所へ色白な若衆、娘の傍にくっ付きて、そっと懐へ手を入れれば、(娘)「おお、すべた」

咄しの落ちは、無点札を意味するめくり用語の「すべた」と、「冷た」を掛けたしょうも無い駄洒落ですが、現代でも使われる「猫も杓子も」という慣用句から、当時の流行振りが良く窺われます。

ちなみに予告しておきますと、この第2期(流行期)は安永二年(1773)から安永八年(1779)迄とし、安永九年(1780)から寛政二年(1790)迄を第3期(完成期)、寛政三年(1791)以降を第4期(衰退期)としていく予定ですが、その前に、今しばらくは第1期(登場期)の検討を続けて行く事に致しましょう。

公開年月日 2013/10/20


B「めくり」は何処で生まれたか?

次なるテーマは、「めくり」は何処で誕生したのか?という問題です。残念ながらこの問いに対して明確な回答を示す資料は見当たりませんので、例によって状況証拠を積み重ねる事によって推理して見ましょう。

『咲分論』安永頃(1772-1781)
去ルころよりしてめくり合といふ事東武とうぶもつぱ流行はやり是をもてあそひとなし

「東武」というのは江戸の事ですので、ここから「めくり」の流行の中心地は江戸であった事が読み取れます。又、次の小咄では更に直接的な表現で「めくりは江戸」と断言しています。

『出頬題』安永二年(1773)
 めくり
幽靈いうれいはなぜおににまける。「よくけよ、幽靈いうれいではをまはし、おににはひとくはれる。「そんなら釋迦しやかかちさうなものだ。「それは天竺てんぢくめくりは江戸えどだ。

この小咄の意味は難解で、いったいどこが面白いのか理解に苦しみます。一応、解釈のアイデアは有るには有るのですが、「鬼札」「ゆうれい札」に関連して述べる機会が有ると思いますので、ここでは一旦スルーして先に進ませて頂きます。

『記原情語』安永十年(1781)
もつはら時行はやるめくりは天せいといふ物より出てもとは上方のもの也それをあづまにてつくなをせし

ここには「めくり」誕生の過程がより具体的に記されています。つまり、「めくり」の元となったのは上方の「天性」である。この「天性」は、他の資料に多く見られる「天正」「てんしょ」と同じものと考えて良いでしょう。それを元にして東(あずま)、つまり江戸で作り直したものが「めくり」だというのです。尚、「天正」「てんしょ」について、及び「めくり」との関係に関してはメイン研究室内『「てんしょ」「天正カルタ」について』で検討していますので、詳しくはそちらをご参照下さい。

さて、以上3点の資料は何れも「めくり」は江戸生まれだという認識を示唆していますが、結論を急ぐ前に慎重を期す為、裏を取っておきましょう。その方法としては、初期の「めくり」資料の出版された地域が何処なのかを調べるのが有効な手段だと思われます。つまり「めくり」登場期の資料の出版された地域に明らかな偏りが見られるならば、その集中する地域こそ「めくり」誕生の有力候補地と考えられる訳です。平たく言えば、もしも初期「めくり」資料の殆どが、例えば江戸版ならば、「めくり」は江戸生まれと考えて良いだろうという事です。

江戸中期以降の出版物の版元の殆どは、江戸、京都、大阪の三つの地域に集中しています。現在では多くの版元の所在地が判明していますので、版本に限れば、その版元が判明しているものは大抵出版地が特定出来ます。その際に有用な参考図書としては、『増補改訂 近世書林版元総覧』(井上隆明著 青裳堂書店 1998年)が一番のお薦めです。版元が不明な版本や写本の場合には、その作者が判明しているならば、その出身地や活動した地域等の履歴が手掛かりと成ります。国文学関係の人物調査には『国書人名辞典』(市古貞次他編 岩波書店 1993年-1999年)が重宝します。又、版元や作者から確認出来ない場合でも、作品自体の中に舞台と成っている地名が具体的に示されていたり、その他作品内の様々な情報から成立地域の推測が可能なケースも有ります。但し、実際に行う確認作業ではこれらの参考図書を引っ張り出したり、本文の内容をじっくりと読み込む必要が生じるケースは稀です。翻刻されている資料の場合には、編者による解題を参照する事で事足りてしまうケースが殆どです。

では、さっそく調べて見る事にしましょう。対象とするのは明和七年から明和九年(安永元年)迄の三年間に成立した、初期「めくり」に関する下記の7資料です。

以上確認した通り、初期の「めくり」資料は例外なく江戸版だと考えられます。従って今回の結論は、かなり自信を持って断言出来ます。

結論は「めくり」は江戸生まれです。

公開年月日 2013/11/07


C「めくりかるた」は無かった!?【前編】

ここで突然ですがお尋ねします。ご覧の読者の方々の中で、当サイトで使用している「めくり」という名称に違和感を感じている方はいらっしゃいませんか?。その様に感じられる方々の多くは、恐らく「めくりかるた」という名称の方が耳に馴染んでおられるのではないでしょうか?。実際、江戸カルタに関する古今の研究や解説を見渡してみると、安永天明期に大流行したカルタ遊戯の名称は「めくりかるた」とするものが大半であり、今や「めくりかるた」の名はカルタの歴史を語る上で重要なキーワードとして認知されていると言えそうです。一方で単に「めくり」のみで使用されるケースは比較的少数に止まっている印象を受けます。

ところが、江戸期の資料においてはこの様な状況は一変します。当時書かれた資料、特に洒落本、黄表紙、咄本、古川柳等の大衆文芸を中心に色々と読み漁っていて強く感じるのは「めくり」はしょっちゅう見かけるけど、「めくりかるた」はあんまり見かけないなあ・・・という素朴な印象です。本稿ではこの疑問に答えるべく、「めくり」と「めくりかるた」の関係と、その真の意味を明かにしていきたいと考えています。

先ずは「めくり」と「めくりかるた」についての一般的な定義を知る為に、これらの語について辞典類ではどの様に記述されているかを調べて見ましょう。最初に『江戸語大辞典』から「めくりかるた」の項の記述を見て頂きます。

めくりかるた【捲骨牌】ウンスン骨牌(五種各十五枚総数七十五枚)を簡略にし、ハウ(棍棒)イス(剣)オウル(貨幣)コップ(盃)の四種各十二枚総数四十八枚の骨牌。打ち方は花合せの八八に同じ。めくりの札。

『江戸語大辞典』前田勇編
講談社 昭和四十九年

この説明には75枚の「うんすんかるた」と48枚の「江戸カルタ」の先後関係に誤認が有る点や、紋標名として「めくり」の時代には既に消滅していたハウ、イス、オウル、コップという名称を揚げている点など、今日から見れば間違いと言わざるを得ない記述が含まれています。しかし当時のカルタ研究の水準としては、これはやむを得ない事かも知れません。ここで重要なのは「めくりかるた」の意味をカルタの札を指す名称と捉え、更には「めくりの札」と同義としている点です。この解釈を「品名としてのめくりかるた」と定義しておきましょう。

これに対して、もう一つ別の辞典を参照して見ましょう。『角川古語大辭典』の「めくりかるた」の項を見ますと別の解釈を採っているのが分ります。

めくりかるた【捲かるた】 かるた遊びの一。博奕として行われた。「天正かるた」の札四十八枚を用い、二人から五人の間で争う。五人のときは一人ずつ順番に休み、四人に七枚ずつ札を配り、別に六枚を表を見せてまき、残り十四枚を重ねて伏せておく。配られた札が悪いときはその者が休み、三人で打つこともあり、そのときは右の十四枚に七枚を加えて伏せる。札ごとに、また、特定の札の組み合わせにより点数が定められており、打ち手は順番に場にある札と手持ちの札の数の合うものを取り、伏せた札を一枚めくって場に数の合うものがあれば取り、合わねば捨てる。このようにして取った札の点数の多い者を勝ちとする。のちには、鬼札一枚が加った。また、地方によって技法や点数に差があった。略して「めくり」とも。なお、古川柳で「よみ」とあるものは、実際は「めくり」である場合が多いといわれる。

『角川古語大辭典』中村幸彦他編
角川書店 1982年-1999年

この説明の大部分は明らかに『博奕仕方』の「めくり博奕仕方」を参考にしたものです。ここでは「めくりかるた」の意味を、カルタを使う遊戯法の名称の一つと捉えているのが分ります。先程の「品名としてのめくりかるた」に対して、こちらは「技法名としてのめくりかるた」と定義出来ます。

両辞典には「めくりかるた」とは別の表題語として「めくり」の項目が有りますので、そちらも見ておきましょう。『角川古語大辭典』の「めくり」の記述は極めて簡潔です。

めくり【捲】 「めくりかるた」の略。「早くしまふたら、めくりをうとふ」〔辰巳之園〕

『角川古語大辭典』角川書店

つまり「めくり」は略称であり、正式名称は「めくりかるた」なのでそちらを見ろという訳です。するとこれは「技法名としてのめくりかるた」の略という事ですので、当然ながら「めくり」も技法名という事に成ります。では、「めくりかるた」をする時に使用する札は何と呼ぶのでしょうか。ご心配は無用、『角川古語大辭典』には「めくりかるた」「めくり」の外にもう一つ「めくりふだ」という表題語が有ります。これは『江戸語大辞典』の「めくりの札」に相当するものと考えて良いでしょう。

めくりふだ【捲札】 「めくりかるた」に使用する、かるたの札。また、そのとき、一枚ずつめくるために場に伏せてある札。

『角川古語大辭典』角川書店

『角川古語大辭典』の「めくりかるた」「めくり」「めくりふだ」の関係を整理すると次の様になります。

一方、『江戸語大辞典』では「めくり」に二通りの意味が載せられています。

めくり【捲】(場札をめくるのでいう)@めくりカルタの札の略。Aめくりカルタで行なう博奕。もと上方から伝わり、明和後期から行なわれ、安永期に最も盛んであった。

『江戸語大辞典』前田勇編
講談社 昭和四十九年

@では「めくり」は「めくりかるた」の略としていますが、こちらの場合は「品名としてのめくりかるた」の略称という事に成ります。しかし、この@の解釈を採ると「めくりかるた」と「めくり」更には「めくりの札」が全て同一の物を指す品名という事に成ってしまいます。だとすれば、これを使って遊ばれていた技法は一体何と呼ばれていたのでしょうか?。何処をどうほじくり回しても「めくり」以外の候補が出て来そうも無い気がするのですが・・・。

一方、Aの場合には「めくり」を技法名と捉えています。ここで注意して頂きたいのは「めくり」を技法名、「めくりかるた」「めくりの札」を品名と捉えた場合、論理的に考えるならば、先ず「めくり」という技法名が存在し、それに使用する札の名称として「めくりかるた」「めくりの札」という品名が生まれたという順序を考えるのが自然であり、逆はちょっと考えにくいという事です。つまり「めくり」が主で、「めくりかるた」「めくりの札」が従という関係に成ります。こちらも整理しておきましょう。

さて、いよいよ実際の用例にあたって「めくり」「めくりかるた」「めくり(の)札」それぞれの意味を確認していく段になりますが、その作業に入る前に少々寄り道をさせて頂く事をお許し下さい。

『角川古語大辭典』の「めくりかるた」の項目の内容は主に『博奕仕方』の「めくり博奕仕方」に基いている事は指摘しておきましたが、末尾の部分には別系統からの情報が三点追加されています。

  1. のちには、鬼札一枚が加った。
  2. 地方によって技法や点数に差があった。
  3. 古川柳で「よみ」とあるものは、実際は「めくり」である場合が多いといわれる。

1と2に関しては別稿にて論じる予定ですので、ここでは触れません。しかし、3の主張に関してはどうしても聞き捨てなりませんので、ここで真偽をはっきりさせておきたいと思います。何故なら古川柳はカルタ資料の宝庫で有り、当研究室でも「よみ」に関する様々な論証においてその根拠として古川柳を利用しています。もしも「よみ」のつもりで引用している資料が実際は「めくり」の資料だったすると、全くトンチンカンな論証に成ってしまっている事に成りますので、是非とも事実関係を確認しておかねばなりません。

そもそもこの説(以後便宜上、この説を「よみ=めくり説」と呼びます)の出処は何処かというと、どうやら宮武(廃姓)外骨氏の『賭博史』(半狂堂 大正十二年)からの流用と思われます。

明和安永の頃には「めくり○○○カルタ」即ち「よみ○○カルタ」が大流行であったので、川柳作家までが賭博語を使った
  「青二○○から出るは正月ぎりのよみ○○
  「こりやアこりやアきり○○だと呆れた子」
  「嫁のよみ○○氣の毒そうにあざ○○を立」
などいふ句が數多く出て居るのである、
(中略)
右の「よみ○○」といふ名稱に就て辧ぜねばならぬ事がある、古川柳に「よみ○○」とあるのは、後世の數よみ○○の「よみ○○カルタ」ではなく、「めくり○○○カルタ」を云つたのである、尚古川柳ばかりでなく、享保以後から天明頃まで「よみ○○カルタ」と云ったのにも、めくり○○○キンゴ○○○、數よみ等が含まれて居るのである

『賭博史』宮武(廃姓)外骨
半狂堂 大正十二年

この様に述べた上で、その証拠の一つとして次の資料を揚げています。

延享四年版、京都西川祐信筆の『繪本池の蛙』にある「うれしい物盡」の中に
 「ならよみ○○の握りのあざ○○にまだ見れば、葉末の露も青二○○によつこり」
とあるのも、「めくり○○○カルタ」でなければならぬ

『賭博史』

この様な調子で断定している訳ですが、外骨氏がこれらの「よみ」が本当は「めくり」であると断定する根拠がどうも今一つ明確ではありません。しかし○印を付けて強調されている単語がポイントである事は容易に想像がつきます。○印が付けられている語の中で「めくり」「よみ」「キンゴ」の三つは技法名ですが、その他は「あざ」「青二」「馬」「きり」の四つで、これらは全て札の名称です。どうも外骨氏はこれらの名称が「めくり」特有のものだと誤解しているふしが有ります。従ってこれらの語が使用されているならば、当然それは「めくり」に関するものである、という論法が生まれる訳です。今日ではこれら「あざ」「青二」「馬」「きり」といった名称が「めくり」の誕生するの遥か以前から存在しており、「よみ」においても使用されていた事は明らかに成っています。しかし、外骨氏が『賭博史』を上梓された大正末期という時代において、利用出来る資料の種類も数も限られている中で、特に重要な情報源であった『博奕仕方』の「めくり博奕仕方」に記されたこれらの名称が「めくり」特有のものと誤解されたとしても仕方の無い事だったかもしれません。しかし、もしも本当に外骨氏の「よみ=めくり説」がこの様な論法に拠るもので有ったのならば、残念ながら今日の知識からすれば全く通用しないのは言う迄も有りません。

どうやら「よみ=めくり説」は、その誕生過程からして何やら危ういものに成ってしまった感が有りますが、本当の真偽はあくまでも資料事実に合致するか否かによって検証されるべきものです。先ずは該当する資料をリストアップする事にしましょう。「めくり」の推定誕生時期である明和五年(1768)以後の『川柳評万句合勝句刷』『誹風柳多留』(両書に共通する句は『万句合勝句刷』を優先)及び広義の古川柳と見做されている柳書群の中から、「よみ」を詠み込んでいる句を抜き出して見ました。

では、これらの句の中の「よみ」が実は「めくり」の事であるという可能性を検討しましょう。本来、資料中の語句を何等合理的な理由も無く(或いは、単に自説に有利だと云う理由で)恣意的に読み替えて良い筈は有りません。但し、読み替える事によって明らかに合理的な解釈が可能に成るとか、内容の矛盾や他資料との齟齬が明らかに解消される様な場合には、読み替えの可能性を考慮しても良いかも知れません。但し、あくまでも一つの仮説としてであるのは言うまでも有りませんし、逆に読み替えによる明白な利点が見出せない場合には、仮説にすら成り得ません。

それでは、いよいよ句中の「よみ」を「めくり」に読み替えて検討してみましょう。先ず、二番目の句「娵のよミきのとくそうにあざを立テ」ですが、これは宮武外骨氏が『賭博史』の中で「よみ=めくり説」の実例として挙げられたものの一つです。既に述べた様に外骨氏は「あざ」を「めくり」技法特有の名称と考え、従って本句の「よみ」は「めくり」でなければならぬと考えたと推測されますが、この論法が成り立たないのは明白です。 逆に「あざ立て」という「よみ」技法特有のルールの存在からここは「よみ」で無ければならず、つまり本句の「よみ」を「めくり」に読み替えるのは不可能だと断言出来ます。つまり本句は決して「よみ=めくり説」を支持する実例では有り得ず、寧ろ強力な反証となるものです。

では、その他の句はどうでしょうか。実際に「よみ」を「めくり」に読み替えて検討して頂ければお解り頂けると思いますが、結論を言えば、残りの句に関しては全て必ずしも「よみ」で無ければならないと云う理由は無く、「めくり」に読み替えても特に不都合は有りません。かと言って「めくり」に読み替えた方が合理的だという訳でも有りません。つまり「よみ=めくり説」を積極的に支持する様な資料は存在せず、従って『角川古語大辭典』や宮武外骨氏が主張する「古川柳で「よみ」とあるものは、実際は「めくり」である場合が多い」という説は、全く資料事実に合致していないものと言わざるを得ません。では、何故この様な主張が生まれたのかと考えると、一つ思い当たるふしが有ります。ヒントはリストの一番最後の句に有りました。

『柳籠裏 三篇』天明六年(1786)
けちなよミ團十郎が十弐文

今でこそ「団十郎」が「あざ」「青二」「釈迦十」の三枚の札によって構成される役の名称であり、「めくり」と「よみ」の両技法で使用される事は常識となっていますが(いや、なっていないか・・・)、「よみ」技法に「団十郎」役が有る事が世に知られる様に成ったのはそれほど古い事では有りません。恐らく、佐藤要人氏によって『季刊古川柳』(川柳雑俳研究会 昭和四十九年一月創刊)に創刊号から四回に渉って連載された「かるた目付絵雨中徒然草について」の中で紹介されたのが初めてであろうと思われます。一方、「めくり」技法における「団十郎」役に関しては、尾佐竹猛や三田村鳶魚等によって紹介された『博奕仕方(風聞書)』中の「めくり博奕仕方」によって、大正末から遅くとも昭和初頭には一部の研究者の良く知るところと成っていたと考えられます。だとすればその間、凡そ半世紀に渡っては「団十郎」は「めくり」技法の役としてのみ認識されていた訳です。その間の事情について佐藤要人氏は前記連載の中で、いみじくも次の様に指摘されています。

この団十郎役は、めくりの役とその構成札が全く同じである。従来、団十郎役とあれば、ただちにめくり加留多と考えられ勝だったが、読加留多の場合もあり、即断は許されなくなったようである。

『季刊古川柳 第二号』「かるた目付絵雨中徒然草について(二)」
川柳雑俳研究会 昭和四十九年

佐藤氏によって『雨中徒然草』が初めて紹介され、「よみ」技法の「団十郎」役が知られる以前の事情を鑑みれば、問題の句「けちなよミ團十郎が十弐文」の「よみ」は「めくり」の間違いだと誤解してしまったとしても、いくらか同情の余地が有るかも知れません。しかし、あくまでも一つの仮説としてならば許されるとしても、あたかもそれを既定の事実の如くに扱い、更にはそれを根拠として他の句の「よみ」を「めくり」に読み替える様な手法が、決して許されないのは言うまでも有りません。

さて、随分と寄り道が長く成りましたので、そろそろ本題に戻るとしましょう。で、本題って何でしたっけ?・・・えーと、「めくりかるた」「めくり」「めくり(の)札」の関係でしたね。

公開年月日 2014/01/02


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