江戸カルタメイン研究室 十九頁目

~江戸カルタに関する総合的な研究室です~


◎『日本かるた文化館』に於ける“合せ”の問題(二)

【4】「江戸カルタ研究室による問題提起への応答」への返答

前ページに引き続き『日本かるた文化館』大目次2ー2の「江戸時代前期の合せカルタ遊技」を読み進めます。最後の小目次のタイトルは何と「江戸カルタ研究室による問題提起への応答」です。

 (一)単なる批判者の責任と対抗学説主張者の責任
私が誤記説批判を文章にしたのはずいぶん以前で、それは当時私一人で行った学界全体を相手にした反乱であったのだが、当時は研究室のサイトはまだ開設されていなくて、私の念頭にもなかった。研究室はその後にこの議論に参加してきたのだが、幸い、従来の通説のこの問題性に気付いたようで、長い時間をかけて十七世紀、江戸時代前期(1652~1704)の文献史料の発見に努力された。その労は高く評価するけれども、結果的には、それはどこまで成功したのだろうか。十八世紀の文献史料を何点か追加することに終わったように見える。

アチャー・・・いきなりいかにも江橋先生らしい辛口のコメントを頂戴致しました。まあ、当方もかなり免疫が出来ていますので、この位は屁でも有りませんが。
 “合せ”技法の解明は当方の重要な研究テーマの一つであり、幸い重要と思われる幾つかの新資料を発掘し、ご紹介する事が出来ました。但し先生のご指摘の通り、それらは十八世紀のものであり、残念ながら十七世紀の重要な新資料の発見には至っていないのは事実です。

当方は江戸期全般のカルタ資料の全てを探索している者で、特に十七世紀の“合せ”に絞って「文献史料の発見に努力」した訳では有りません。結果的に十八世紀の資料が主体に成っているのは、出版物の絶対数の増加という量的要因と、カルタ流行のピークが十八世紀だった事からすれば当然の事です。勿論、今後も新たな資料の発見に努めていく積りですが、今は既知の資料を最大限に活用して知恵を絞っていくしか有りません。

ここでは、研究室の努力に報いるように、そこで新しく提起された論点について、そのいくつかを検討しておきたい。

何と光栄にも、当方によって「新しく提起された論点について、そのいくつかを検討して」頂ける様です。一介のアマチュア研究者に過ぎない当方の主張に対して、当代の第一人者である江橋先生から名指しでご批判頂ける事自体が夢の様な話です。こういうのを“研究者冥利に尽きる”と言うのでしょう。大いに期待して読ませて頂きたいと思います。

研究室は、『雍州府志』は、「紋を合わせる」という表記で、「プロトめくり」のような「模様を合わせる」あるいは「数を合せる」フィッシング・ゲームの遊技法を意味しているのであって、これは誤記ではなく正しい説明であるとした。このように理解すれば、十七世紀、江戸時代前期(1652~1704)に「プロトめくり」の遊技法が存在したことを証明する同時代史料が発見できていない中で、『雍州府志』こそが唯一無二と言っても良い基本文献史料だということになる。数年かけてたどり着いた研究室の自説がこれであったという説明にはとても驚いた。

こちらの方が驚きました。何処をどう読んだらその様な理解に成るのでしょうか? 寧ろ江橋先生の方こそ『雍州府志』の“合せ”が“トリックテイキングゲーム”であることを裏付ける合理的な傍証を一点たりとも示せていない中で、「『雍州府志』こそが唯一無二と言っても良い基本文献史料」として自説を主張し続けているのではありませんか?

ここから生じるのは、『雍州府志』の「賀留多」の項の文章の全体を、フィッシング・ゲームを記述しているという立場から解読し、それを説明する責任である。

又か・・・このご主張に対する当方の考えは説明済みです。
 尚、誤解の無い様に言っておきますが、当方は『雍州府志』の“合せ”が“フィッシング・ゲーム”だなどとは主張していませんし、そもそも“フィッシング・ゲーム”なる分類概念を採用しておりません。当方の主張は“合せ=めくり系技法”です。

誤記説に追随するだけならば、黒川は訳の分からないことを言っているというだけでいいのかもしれないが、積極的に十七世紀、江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)の日本にすでに、18世紀に江戸で発祥した「めくりカルタ」遊技の前身、「プロトめくり」のフィッシング・ゲームが存在していたという自説を立てたのだから立派だが、立証責任は誤記だと悪口を言っているだけの誤記説に比べると飛躍的に増大する。だが、残念なことに、私は、研究室のこれまでの主張には、この自説の積極的な立証が不足していると感じている。

「自説の積極的な立証が不足している」とは手厳しいご評価ですが、具体的にはどの様な点が「不足している」とお考えなのでしょうか。当方としては「積極的」に「立証」してきた積りですが、勿論それが完璧なものだなどとは考えておりません。不勉強ゆえの誤読、誤認、誤解も多々有ろうと思います。この後、当方の拙い「立証」を論破された上で、「不足している」点をご指摘頂けるのでしょう。まさに“まな板の上の鯉”の心境です。

『雍州府志』には、表題「賀留多」の部分以外の箇所でも「合」という文字の使用例が多数ある。研究室はそれの意味内容の悉皆調査に取り組んだ。文献史料の活字版をデータ化して検索を掛ける、デジタル情報時代らしい調査手法である。その他にも、江戸時代中期以降のカルタ文献での「紋」を含むスーツ・マークの呼称例の調査に取り組んだりもした。私の到底及ばない地味な作業を尽くした労苦にも敬意を表したいが、傍証はやはり傍証に留まると思う。

やっとの事、当方が示した『雍州府志』の「合」に関する論証について言及して下さいましたが、「傍証はやはり傍証に留まると思う」とはどういう意味でしょうか? 傍証は重要なものです。自然科学の分野ならばいざ知らず、歴史学に限って言えば、或る学説(仮説)に対して有力な傍証が多い程“有力な学説”と言えますし、逆に妥当性の有る傍証を一つも示せなければ、それは“極めて脆弱な学説”であると言わざるを得ません。
 例えば、我が国の古代史最大のミステリーである邪馬台国論争で言えば、“九州説”“近畿説”双方に有力な傍証が多数有る為、未だ結論に至っていません。尚、その他の色々な場所を邪馬台国だと主張する説が有り、それぞれ立論の根拠となる資料やアイデアを示してはいますが、そもそも論理的に無理が有ったり、有力な傍証の無い仮説は学術的には無視される運命にあります。

「傍証はやはり傍証に留まる」という発言の意味をよくよく考えたところ、先生は次の様にお考えなのでは無いかと思い至りました。
 『雍州府志』の「合」の解明は、あくまでも「賀留多」の項の徹底的な読解(つまり江橋先生の採られている方法)こそが本道、王道であり、それ以外のアプローチでの論証は全て傍証である。従って『雍州府志』の他の部分の「合」の意味をいくら論じても、それは所詮傍証に過ぎない、と。どうでしょうかね?

ところで、当方が取った方法の実態は「デジタル情報時代らしい調査手法」といったスマートなものでは有りません。先ず『雍州府志』の活字版のコピー(308枚)をひたすら読み進め、そこに有る全ての「合」の文字にマーカーで印を点けた後、再度頭から一件づつ意味を解釈して集計(勿論これも手計算です)するという極めてアナログな作業であり、おっしゃる通りの「地味な作業」です。
 その検証の結果と考察の詳細は該当箇所をご参照頂くとして、概略のみを示しておきます。

  1. 『雍州府志』全体で「合」の字は138個有る。
  2. その内「賀留多」の項の6個をを除いた132個は、その殆どが一対となる物を“組み合わせる”という意味であり、“競い合わせる”の意味と解せるのが1個、解釈困難なのが1個である。
  3. 「賀留多」の項の6個の内、後半の「歌賀留多」に有る3個の「合」も一対となる物を“組み合わせる”という意味であり、更に少し前の「貝合せ」の項での「合」も同じく“組み合わせ”という意味である。つまり“合せ”技法の説明の前後に位置し、遊技法の説明という共通点を持つ「歌賀留多」と「貝合せ」の説明においても「合」は“組み合わせ”であり、“競い合わせ”の意味では無い。
  4. 従って当時の読者の立場からすれば、“合せ”技法の説明での3個の「合」の字も当然“組み合わせ”の意味と読み取る筈である。何等かの説明無しに、ここだけ“競い合わせ”の意味に読み取る事は有り得ない。
  5. 以上の理由により、『雍州府志』の「合」は“競い合わせ”の意味には読み得ず、“合せ”が“トリックテイキングゲーム”であるという主張は否定される。

この様なもので、江橋先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”を根本的に否定する論証です。これを「傍証に留まる」と言われるのは心外ではありますが、先ずはこの論点に対する江橋先生の検討の結果を読ませて頂きましょう。果たしてどの様に受け止められたのでしょうか?

私は、自分が取り組んだことのない研究方法で他人が努力を重ねて出した研究成果について、自分の研究による裏付けも欠けたままでないものねだりのような批判をすることは避けたいと思っているので、研究室のこの方法での研究の成果については批評を避けたい

何ですとぉ~??? 当方としてはこの「努力を重ねて出した」、江橋説を根本的に否定する「研究成果」にこそ一番ご批判(「批評」では無く)を頂きたかったのですがね。勿論「自分の研究による裏付けも欠けたままで」他説を批判など出来ないのは当たり前の事ですが、大体「ないものねだりのような批判」て、一体何が無いんですか?
 当方と先生との双方の前には『雍州府志』という同一の資料が有ります。当方は、江橋先生の説の根本である“『雍州府志』の「合」は競い合わせの意味である”という主張を否定する論証の検証方法と検証結果を示して有ります。まあ、ご多忙な先生の事ですから、こんな酔狂な方法を再検証する暇など無いし、そうする価値も無いという事でしょうか? 何れにせよ先生は真剣に反論する気など無く、残念ながら自説に対する危機感すらも全く無い様です。

もし仮に逆の立場で、当方が“合せ=トリックテイキングゲーム説”を主張していたとして、「合」の悉皆調査によって当方の説を根本的に否定されたとしたならばどうしましょうか。私ならば先ずは相手の検証方法や手続きの妥当性を吟味します。もしもこの段階で不備が有るならば、導き出された結論の信頼性は失われます。しかし吟味の結果、検証方法が論理的に妥当なものであり、手続きにも不備が無いと認めざるを得ないならば次なる一手を考えます。
 大変では有りますが、示されている検証方法に従って再検証を試みるしか無いでしょう。「ないものねだり」などと呑気な事を言っている場合では有りません。『雍州府志』の全ての「合」を拾い出し、その意味を吟味します。その結果“組み合わせ”では無く“競い合わせ”の意味だと解釈可能な「合」の事例がもっと見つかるかも知れません。仮に十点程も見つかれば十分に反論可能です。「研究室は一点のみと言ったが、再検証したところ実際には十点程度確認出来る。すだれ十(当方の事です)の主張は恣意的な解釈、或いは悪質なデータ改ざんに基づくものであり、その結論の信頼性は低い。」これで一発逆転です。
 しかし再検証の結果、この方法も駄目だったらどうしましょうか? 苦肉の策としては『雍州府志』と同時代の文献での「合」の用例を多数拾い出し、『雍州府志』の「合」の用法は特殊な例であり、当時の読者が「合」を“競い合わせ”の意に解した筈だと主張する方法も可能かも知れません。まあかなり大変な作業ですし、恐らく望んだ結果は出ないでしょう。
 残された選択肢は潔く負けを認めて自説を取り下げるか、或いは負けを認めるのは悔しいので取り敢えずこの論点に対する「批評を避け」ておいて、別の角度から反論する戦略を採りますかね。

が、「合」という文字の扱いについてはすでに述べた。

 何の事を言っているのか解りません。「すでに述べた」という表現を常識的にとらえれば、過去に発表した論文や書籍の中で述べたのものでは無く、今回『日本かるた文化館』の中で述べたという事だと思われるのですが、具体的にどこの部分の事なのかが思い当たりません。お解りになった方がいらっしゃれば是非ご教授下さいませ。

「合」に、単に合せるという意味を与えるのか、競い合わせる、合戦という意味まで与えるのかは、『雍州府志』の「合せ」がトリック・テイキング・ゲームを指すのか、フィッシング・ゲームを指すのかという判断を決するポイントにはならない。この言葉をどちらの意味に解しても、文章全体を読んで得られる、これはトリック・テイキング・ゲームを指しているという結論に変動は生じない。

そう来ますか・・・当方が「判断を決するポイント」だと考える点を「判断を決するポイントにはならない」として争点をずらすという戦略を採られました。どうやら前の「傍証はやはり傍証に留まると思う」の部分での推論は当たっていた様です。つまり先生の認識では『雍州府志』全体での「合」に“競い合わせ”の意味が有ろうが無かろうが関係無く、重要なのは「賀留多」の項であり、その「文章全体を読んで得られる、これはトリック・テイキング・ゲームを指しているという結論に変動は生じない。」という事でしょう。

そもそも先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”は、

という立論だと理解しておりました。それが今や、『雍州府志』全体の「合」の語意が“競い合わせ”で有ろうが“組み合わせ”で有ろうが全く関心は無く、「賀留多」の項の「合」だけは“競い合わせ”である事は間違い無いので、“合せ”は“トリックテイキングゲーム”であると声高に主張されるばかりです。
 どうやら江橋先生には、自説の本丸が危機的情況にあるという認識は無い様です。大坂夏の陣になぞらえれば、外堀も内堀も埋められて丸裸同然となった大坂城に立て籠もり、あくまでも徹底抗戦を続ける豊臣方の姿と重なり合います。落城は目前に迫っています。

また、研究室は『毛吹草』が「付合」で「袷」に「賀留多遊」を合わせたことを自身の説の論拠に使っているが、同書には「繪合賀留多」という表記もある。カルタよりも研究室のいう符合するという意味合いが濃い「貝合」の遊技も「貝袷」とは表記していないことを指摘しておこう。

は? 御免なさい! 何度も読み返してみたのですが、恥ずかしながらご指摘の意味が全く理解出来ません。先ず「研究室は『毛吹草』が「付合」で「袷」に「賀留多遊」を合わせたことを自身の説の論拠に使っている」て、何の事でしょうか?
 恐らくこれは“メイン研究室 十一頁目 『あわせ=トリックテイキングゲーム説』【1】『かるた』に於ける「あわせ」技法”の記述を念頭に置いての事と思われるのですが、そこでは

この資料から読み取れる事実とは、「あわせ」の語から「賀留多遊」が自然に連想されるという事であり、恐らく当時のカルタ技法の中に、何等かの形でカルタ札を“合せる”タイプの技法が有ったのであろうと云う点です。更には“あわせ”という技法の名称が、既にこの時代に存在していた可能性を考えても良いでしょう。

と、極めて常識的な解釈を示しただけで有り、“合せ=めくり系技法説”の根拠だなどと主張した積りは有りませんが、そんなに誤解され易い文章だったでしょうか?
 続く「同書には~」以下のご指摘も当方の出来の悪い頭脳では理解不能です。勿論、江橋先生としては“この点も考慮せよ”という意味でご指摘下さったのでしょうが、当方のどの様な論点に対して、どの様な意味のご批判を下さったのかがサッパリ理解出来ません。もしも重要な論点であるならば、もう少し噛み砕いた説明を頂ければ幸いです。

一方、「紋」について、研究室は、『雍州府志』の「加留多」に関する説明の中での「紋」の使用例のうち、「賀留多有四種紋」(カルタに四種類の紋があり)、「一種紋謂伊須」(一種の紋をイスと言う)、「一種称波宇‥‥此紋」(一種はハウと称する。‥‥この紋は)、「一種紋謂古津不」(一種の紋はコツフと言う)、「一種紋謂於宇留」(一種の紋はオウルと言う)などという部分の「紋」は「紋標」を意味するが、それに続く「合せ」の説明の箇所で使っている「合其紋之同者」(その紋の同じものを合せ)、「其紋無相同者為負」(その紋と相同じものがなければ負けとする)、「是謂合言合其紋之義也」(これを合せと言う。言うこころはその紋を合せるとの語義である)の「紋」は「数標」ないし「模様」の意味であるという一語両義の説明をするが、これでは傍証としての説得力にも支障が生じる。それではなぜ表記は「合其數之同者」、「其數無相同者為負」、「言合其數之義也」、あるいは「合其模様之同者」、「其模様無相同者為負」、「言合其模様之義也」ではなかったのか。同じ文節中で同じように表記されて繰り返される「紋」の語の各々に別異の語義を与える解読は、そうする理由、根拠についての説明責任がいっそう重い。

「同じ文節中で同じように表記されて繰り返される「紋」の語の各々に別異の語義を与える解読は、そうする理由、根拠についての説明責任がいっそう重い。」と言われましても、とうの昔に「理由、根拠についての説明」をしておりますので返答に困ります。江橋先生には論証をしっかりお読み頂いた上で、その論証に不満が有るのであれば具体的にご批判頂ければ大変有り難いのですが、あたかも論証自体が存在しないかの様な書き方は慎んで頂きたいものです

とは言え、原文はやたら冗長且つ脱線しまくりで、論旨も読み取りにくい駄文だと自覚しておりますので概略を説明しておきます。

  1. 先ず議論の前提として、江戸期全般の資料でカルタの“スーツ”に関してどの様に表記されているかを調べたところ、「紋」の他に「品」「與」「種」等、様々な字が充てられおり、統一された表記は無い。従って「紋」はカルタの“スーツ”と特に強く結び付く表記だとは言えず、必ずしも“スーツ”の意味に限定されるものでは無い。
  2. 『雍州府志』中の「紋」の字の用法を全て調べたところ、①いわゆる“家紋”の事、②言わば“模様”“絵柄”という様な広い意味の用法の二種に分けられ、②では、個々の「紋」の指す具体的な内容はその部分の文脈によって判断すべきだと考えた。
  3. 「賀留多」の項の最初の方の「紋」は、その文脈からカルタの“スーツ”を意味するのは明白である。一方、“合せ”の説明中の「紋」は、必ずしも直前での“スーツ”の意味に限定される必要は無く、“スーツ”と“ランク”との両方の要素を含む、カルタの“絵柄”と読み得ると考えた。
  4. 『雍州府志』中のほぼ全ての「合」は“同一”のもの、“一対”のものを“組み合わせる”という意味合いであるから、“同じ紋を合せる”は同じものが12枚有る“スーツ”よりも、より“同一”“一対”の対応が明確である“ランク”つまり同じ数標の札を組み合わせるという解釈の方が妥当ではないか、な?

まあ、こんな所です。お気付きかと思いますが、かなり強引な論証である事は十分承知していますし、全ての方に納得して頂けるレベルのものでは無い事も自覚しております。この部分が当方の“合せ=めくり系技法説”にとって最も危うい論証、最大の弱点だとさえ思っていましたので、恐らく江橋先生からの徹底的な攻撃が有るものと覚悟して身構えていたのですが、何と無視ですか・・・何だか肩透かしを食らった気分です。
 江橋先生は当方のこの論証を全く読まれなかったのでしょうか? 或いは読まれはしたものの、余りにも取るに足らない論証であり、有って無きが如し、よって0点と評価されたので存在を無視されたのでしょうか? まさか反論出来なかったので見て見ぬふりをされた・・・訳は無いか。

研究室は、『雍州府志』における「合せ」をトリック・テイキング・ゲームだとする私の説が誤りであることを雄弁に主張してきた。私はそれに同意できないが、だからと言って、同書の「合せ」をフィッシング・ゲームの一種、「プロトめくり」だと主張する研究室の側の理解、作業仮説について、それ自体が仮説としてまるで成立しないから議論の場から退席せよとまで私が言うのは行き過ぎであろうと考えている。むしろ逆に、この説の積極的な論証を見たいものだと思っている。

くどい様ですが、当方は『雍州府志』の“合せ”が“フィッシング・ゲーム”だなどとは言っていませんし、後の“めくり”とほぼ同じルールとしての「プロトめくり」であるなどとは考えていません。あくまでも“めくり”と同様に同位の札を組み合わせる事によって取得するという基本原理に基づく遊技であると主張するものであり、それを“めくり系技法”と呼んでいます。

ところで「研究室の側の理解、作業仮説について、それ自体が仮説としてまるで成立しないから議論の場から退席せよとまで私が言うのは行き過ぎであろうと考えている」というお言葉から察するに、光栄にも当方の手法、主張に対して一定の評価はして頂けている様ではあります。ところが「むしろ逆に、この説の積極的な論証を見たいものだと思っている」とはどう言う事でしょう? どうやら当方が、先生の説が「誤りであることを雄弁に主張」してはいるものの、その主張の「積極的な論証」はしていないと見做されている様です。
 もしも江橋先生が、当方の示して来た一連の「論証」の内容をちゃんとお読みになった上でこの様におっしゃているのならば、もはや江橋先生のおっしゃる「論証」の語と、当方の使っている「論証」の語の意味自体が異なっているとしか考えられません。当方は「論証」の語を“具体的な資料や事象に基づく論理的な説明”といった様な意味で使っています。ちなみにこの条件を満たさない発想は“アイデア”とか“妄想”と呼んでいます。勿論“アイデア”や“妄想”は言わば“「論証」の母”であり、それはそれで重要なものと考えますが、「論証」はもっと重いものです。当方としては、不十分かもしれませんが自分なりに実証的、論理的に「積極的な論証」を積み上げて来たつもりですが、江橋先生の目にはそれが「論証」として映ってはいない様です。
 先生が「見たいものだと思っている」「論証」とは、一体どの様なものなのでしょうか?

「プロトめくり」説は、これだけ自信たっぷりに自説を誇るのであるから、『雍州府志』の表記について、例えば「數」と「筭」の使い分け、「人々」と「互いに」の使い分けのように繊細な論点について、すでに当然繊細に検討したであろうと推測されるが、その研究の成果がまだ発表されていない。『雍州府志』には、誤記説では説明の困難な文章、文字が多かったであろうと思うが、研究室はすでに「プロトめくり」説を立ち上げているのであるから、そうした困難を克服したのであろう。それなしに自分に都合がよさそうに見える語句だけに依拠して立ち上げたとすれば不安定にすぎる。だから、研究室には、対抗学説を主張した者の社会的な責任を自覚して、自説の立場から、『雍州府志』の「賀留多」の箇所の全文章の解読を、今日までの研究成果を駆使して全面的に展開する責任があるし、その仮説を立証しようとしてさらに研究を進展させて、実証性の高い積極的な説明をするのであれば大歓迎である。逆に、それができないのであれば、自説の訂正を行ってもらいたい。

又これだ・・・どうやら先生のおっしゃる「積極的な論証」とは「『雍州府志』の「賀留多」の箇所の全文章の解読」の事の様です。先生にとっては、それこそが「論証」であり、それ以外はせいぜい「傍証に留まる」と見做されている様です。江橋先生も相当くどいので、こちらもくどく言わせて頂きましょう。
 江橋先生はご自身の採られた『雍州府志』「賀留多」の項全文の解読という手法の優位性と、解読の結果に対して相当な自信を持たれている様です(しかもそれを「実証性の高い積極的な説明」とお考えなのでしょうか?)。自分と同じ様に全文の解読を示さない者には対抗学説を提出する資格が無いとばかりに繰り返し主張されますが、お恥ずかしい事に当方には「全文章の解読」を行うに足る学識も能力も有りませんし、そもそもいかなる分野の研究にせよ、その様なルールが存在するとは考えていません。先生はご自身の採られている手法こそが唯一絶対的なものだとお考えなのでしょうが、当方はその様な手法がさほど有用だとは思えませんので採る積りは有りませんし、ましてやそうすべき「社会的な責任」が有るなどとは到底思えません
 「全文章の解読」については博識な江橋先生にお任せします。当方としては、後学の特権として先生の読解の美味しい所(納得のいく部分)は甘受させて頂き、読解に納得がいかず、且つ反論可能な部分については批判させて頂きます。勿論当方の批判に対して論理的な再批判を頂ければ、真摯に受け止めて検討させて頂きます。

当方は、自分が有用だと考える別の手法、別の観点に基づいて立論しているまでの事です。当方の主張、論証に不満が有るのならば、批評を避けたり、或いは全く無視されるのでは無く、真正面からしっかりと反論して頂きたいものです。もしも「それができないのであれば、自説の訂正を行ってもらいたい」のはこちらの方です

なお、もし仮に、研究室であれ他の誰であれ、どこかの研究者が、『雍州府志』に依拠するのではなく、他の文献史料や物品史料に基づいて、十七世紀、江戸時代前期の日本に、フィッシング・ゲーム・タイプの日本固有の遊技法「プロトめくり」がすでに成立していたことを明らかにできたら、それがカルタ史研究を大きく前進させるであろうことは疑いない。その時には私も真剣にそれに学び、自説を訂正したいと思う。

繰り返し言わせて頂きますが、『雍州府志』のみに依拠されているのは江橋先生ご自身ではありませんか?

当方の“合せ=めくり系技法説”は決して「『雍州府志』に依拠する」ものではありません。複数の資料(主に十八世紀のものですが)から導き出されたものであり、更に『雍州府志』を含む十七世紀のカルタ資料の記述はそれに矛盾するものでは無く、寧ろ整合性が有ると主張するものです。江橋先生を含め、誤解されている方がいらっしゃると困りますので、当方が主張する“合せ=めくり系技法説”の主たる論拠を整理しておきます。

  1. “合せ”が“めくり系技法”である事を示す直接的な証拠としては、『教訓世諦鑑』と『寛保延享江府風俗志』とが挙げられる。
    『教訓世諦鑑』享保六年(1721)
    二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第/\に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留たと云ふ。
    寛保延享江府風俗志』寛政四年(1792)
    ○町方正月の慰みとて、夫々家内にて宝引読かるた等有之、上品は双六、歌かるた合等あわせ札の事、といへる慰有、合はかるたにて、数を合せ勝負する事也、

    寛保延享江府風俗志』は寛政四年(1792)の成立ですが、内容は寛保から延享年間(1741-1748)頃の風俗を記した物ですので、享保六年(1721)刊の『教訓世諦鑑』と時代的にも近く、両書の“合せ”は同一のものと考えて良いでしょう。共に“同じ数”の札を組み合わせる技法だと読み取れますが、これは“めくり”の基本原理と同じです。

  2. 『大の記山寺』の記述は、以前から有った“合せ”技法を基にして、明和年間に“めくり”技法が誕生し、天明初頭に大流行していたという認識を、寺の縁起になぞらえてパロディー化したものと読み取れる。
    『大の記山寺』天明三年(1783)
    青五山あをごさん  負寺まけでら

    本尊 釈迦青二仏しやかあをにぶつ 六代ろくだい御前まも本尊ほんぞん
    霊宝 あさまる太刀たち あお兵衛ひやうへか太刀也

    此寺このてらはむかし借住寺かりじうじさだまらずして工面くめんのあしきひとてらぬしとする也むかしは五大せんあはせみやといふてらにて一しうたつきた

    (中略)

    明和年中めいわねんぢう取立とりたて庫裏くりも目だつほどにたてければ皆人みなひと此くりを。めくりといふ。今ははなはたたさかりにして此宗旨このしうし帰依きゑせぬ人はなし団十郎仲蔵なとゝいふ役人やくにん有ておゝくの散銭さんせんをとりあくる此末寺このまつじに十三めくりといふ小寺有こでらあり
  3. 江戸中期の文芸作品に、特定の札(具体的には“あざ”“青二”“釈迦十”の三種)が固有の点数を持つ事を示す一連の資料が見られる。

    『軽口もらいゑくぼ』元禄六年(1693)ヵ
    (前略)おまへ様ハ釈迦しやかじやと存、百文しんじ候と云ふ。僧、然れは其方の手に持けるを見れば、たしかにあをとミへた。けつく、此方より百上打うハうちをとらすべしとて、百文やられける。是ハ忝候。それならハとてもの事ニ又六十文被下べし。こゝにあざが御座るとて、右のかいなに生れ付よりくろくろとしたるあざをミせ、わがしんじたる銭の外ニ、以上百六十文申うけたると也。
    『軽口あられ酒』宝永二年(1705)
    しやかハきわめが百文なり。あわせも百にたつ。なんぢ五十にねきること、三ごく一の此しや伽を、あをにゝするかといわれたり。
    『商人軍配団』正徳二年ヵ(1712)
    打こんでかるたのかき。一から十迄年中是で女夫めをとが口をすぎぬ。不断ふだん書てゐる釈迦の十は百ものときけど。つゐに百つなぎたる銭のねすがたを見ず。
    『役者金化粧』享保四年(1719)
    しからばおまへは百十郎様と申せしお方か。中々百十じやによつて釋迦しやか異名ゐみやうは申が。
    『須磨都源平躑躅』享保十五年(1730)
    我等われらためにはすつてけた鉈廻なたまはし、坊主ぼうず釋迦しやかじふ青二才あをにさい阿根輪あねわめ、はせて三光百さんくわうひやくづゝ。

    全ての資料に於て“釈迦十=100点”と共通しており、年代的にも近いので、これらは同一のカルタ技法についての記述だと考えられます。更に『軽口あられ酒』の「しやかハきわめが百文なり。あわせも百にたつ。」という記述から、それは“合せ”技法だと考えて良いでしょう。
     一方、江戸カルタの技法の中で、札に固有の点数を持つという特徴を持つのは、他には“めくり”と“てんしょ”のみです。従って、札に固有の点数を持つというルールを共有する“合せ”“めくり”“てんしょ”は同系統の技法である可能性が高いと考えられます。

  4. 『関取千両幟』明和四年(1767)初演
    はせの勝負かちまけ骨牌かるた、「一まん二千二まん五千、三まん八千がお才様さいさまかち。」「アノどうしてれがかちぢやぞいな。」「エヽ不器用ぶきようなお才様さいさま、まだおぼえさんせぬか。」「サイナ歌骨牌取うたがるたとりとちがうてむづかしいものぢやわいな。」「ナンノれがむづかしい、禮三様れいざさん末永すゑながはせの勝負しようぶ

    これにより“合せ”が“めくり”や“てんしょ”と同様に、点数を取り合い、その合計点数によって勝敗を決めるタイプの遊技法である事が判ります。又、三人遊技である点も“めくり”と共通しており、“合せ”と“めくり”が同類の技法である事の傍証と成ります。

  5. 『色道大鏡』延宝六年(1678)
     続松
    歌がるたの事也、当時傾国のとるは、貝おほひのごとくに、残らずならべ置て、歌の上の句を一枚づ出し、歌に合てとる時は、露松といふ、又、常のかるたのごとくに、歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ、扨、一枚づゝうち出て、歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むるを、歌がるたといふ、其もとはおなじ物ながら、とりやうにて名目かはるなり、されども、かるたのごとくにうちあふ事、今はたえて、貝おほひのごとくにのみもてあそび来れり、(後略)

    歌賀留多の古い遊技法に「常のかるた(江戸カルタ)」に似た技法が有ったと解釈出来ます。更に、技法の詳細は不明ながら「歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むる」、つまり上の句と下の句のペアーを多く取得した者が勝者と成ると読み取れます。これを江戸カルタに当てはめれば、同じ数標の札の組み合せを作る事を目的とする、広義の“めくり系技法”だと考えられます。
     又、「常のかるたのごとくに」と言うのですから、ここで言っているカルタ技法は、当時の人々に良く知られたポピュラーな技法だと考えるべきでしょう。そうすると候補としては“よみ”“かう(三枚)”“きんご”“合せ”等に絞られますが、“よみ”“かう(三枚)”“きんご”ではここに記された技法の内容に合いません。又、もしも“合せ”が“トリックテイキングゲーム”だったとしたら、これも又記述に合いません。唯一残る可能性は“めくり系技法”としての“合せ”という事に成ります。
     つまり『色道大鏡』は延宝期以前に“めくり系技法”が存在した事、更にそれが“合せ”である可能性を示すものと言えます。

  6. 貞享三年(1686)刊の『雍州府志』「賀留多」の項の「合」が“めくり系技法”だと考えられる事は、既に十分説明を尽したので繰り返しません。又、同時代の『鹿の巻筆』の「合せ」も“めくり系技法”として解釈可能な事を示しました。

ざっとこの様な内容です。勿論これで“合せ=めくり系技法”を完璧に立証出来ているなどとは思ってはいません。特に初期の“合せ”に関しては、江橋先生のご指摘の通り直接的な証拠となる資料を見つけられていない為、『雍州府志』や『色道大鏡』の分析に依拠しているのは事実ですし、その論証に危うい部分が有る事も十分に自覚しております。しかしそれでも、江橋先生の唱える“合せ=トリックテイキングゲーム説”よりは余程説得力の有るものと自負しています。

私は、カルタ史の研究者が極度に少ない今日、その希少な人材には、度の過ぎた通説批判やややこしい文献解釈で自ら作り出して自ら迷いんこんでいる迷路から脱出して、カルタ史の史料を探索し、好個のものを発掘し、それを素直に解読し、その結果に基づいて自説の再構築に向かうことを期待している。

当方が「希少な人材」に含まれているとしたら光栄の至りであり、大先輩からの含蓄に富む助言として有り難く拝聴させて頂きます。「ややこしい文献解釈で自ら作り出して自ら迷いんこんでいる迷路」というご指摘には、思い当たる節が多々有るだけに耳が痛いと言わざるを得ません。
 しかし「度の過ぎた通説批判」というのはどの様な主張を念頭に置かれての発言なのでしょうか。まさか江橋先生の“合せ=トリックテイキングゲーム説”に対する批判は「度の過ぎた」行為だという意味では無いでしょうが・・・
 当方は、積極的に新資料を発掘し、斬新的な発想で通説を覆す新説を数多く発信されている江橋先生の研究姿勢に多大な影響を受けた者です。又「通説批判」は学問の進歩に必要不可欠なものだと考えていますので、資料的根拠が有り、論理的に成り立つと考えるならば、江橋先生に倣ってそれがいかに“通説”と掛け離れたものであろうとも主張する事をためらいません。逆に資料的にも論理的にも根拠の乏しい主張ならば、如何なる大家によるものだとしても“通説”としてはおろか、そもそも“学説”としてすら認め得ません。

又、当方としては及ばずながら「カルタ史の史料を探索し、好個のものを発掘し、それを素直に解読し」、更には先学や同時代の研究者の言葉に耳を傾けて「その結果に基づいて自説の再構築」をし続けて来た積りです。
 前にも書きましたが、当方がカルタ研究に足を踏み入れた当初、江橋先生と同様に『雍州府志』の“合せ”は“トリックテイキングゲーム”だと解釈すべきであろうと考えました。勿論先生の説を知る前の事です。もしかして自分はスゴイ発見をしてしまったのでは無いか? 何とかこれを裏付ける資料を見つけたいという思いで「カルタ史の史料を探索し、好個のものを発掘」すべく江戸期の文献を読み漁った結果、幸運にも“合せ”に関する幾つかの新資料を発見する事が出来ました。しかし当初のおもわくに反して“合せ=トリックテイキングゲーム説”を強く裏付ける資料は見付からず、寧ろそれらの資料を総合的、論理的に解釈すれば“合せ=めくり系技法”だと考えるべきであろうという「自説の再構築」に至った次第です。
 勿論、今後も先生のご助言を肝に銘じて、自説に凝り固まる余り自説の論理的欠陥や矛盾に思い至らなくなったり、他者からの論理的な批判に対して耳を貸さない様な独善的な態度に陥る事なく、常に「自説の再構築」をためらわない柔軟性と勇気とを持ち続けたいと思う所存です。

肝心なのは、史料に素直な気持ちで接することである。『雍州府志』を素直な気持ちで読む時、「カルタの遊技では、親がすべての札を遊技の参加者に配布して始まる」と書いてある文章を、「親がすべての札を配るタイプの遊技を説明しているとともに、『手七、場六』、つまり親が遊技者には裏返しで七枚の札を配り、場には表を上にして六枚の札を晒し、残りの札はすべて山札として裏を上にして場の中央に置くタイプの遊技も説明している」と読み解くことはあり得ない。

当たり前です。『雍州府志』の記述をその様に読み解くことはあり得ません。そんな事は一言も書かれていませんし、その様に読み取れる書き方もしていません。普通の読解力を有する読者ならばその様に読み解く事はまず有り得ないでしょうし、当時の読者がその様に読み解いた可能性も100%有り得ません。いったい何処から湧いて出た発言なのでしょうか?
 想像するに、恐らくこれは山口吉郎兵衛氏や佐藤要人氏等の、所謂“誤記説”を念頭に置かれているのでしょう。先生は“誤記説”の主張が“『雍州府志』の「合せ」は凡そ一世紀後に流行しためくりと全く同じ技法である”というものであると考え、ならば誤記説論者は『雍州府志』の記述を“めくり”の基本形態である「親が遊技者には裏返しで七枚の札を配り、場には表を上にして六枚の札を晒し、残りの札はすべて山札として裏を上にして場の中央に置くタイプの遊技」だと主張している事に成る(実際には誰もその様な主張はしていませんが)という論理展開の基に、その様な読解は「あり得ない」と否定する事で“誤記説”を論破した積りなのでしょう。
 論理的に間違っているとは言えないかも知れませんが、先生が「『雍州府志』を素直な気持ちで読む」というのは、この様な読み解き方の事なのでしょうか? 実際には誰も主張してもいないし、常識的にも読み取り得ない読解を持ち出されているのも、その読解を否定しているのも江橋先生ご自身です。所謂“マッチ‐ポンプ”てやつですかね。これは全て先生の頭の中で練り上げられた論理展開の産物ですよね。「ややこしい文献解釈で自ら作り出して自ら迷いんこんでいる迷路」という先生のお言葉が、ふと思い起こされます。

「紋を合せる」と書いてある文章を、「紋とは数の書き間違いである」とか、

これも“誤記説”の主張ですね。当方も「書き間違いである」などとは考えていませんし、勿論主張もしていません。本項目のタイトルは「江戸カルタ研究室による問題提起への応答」ですので、“当方の問題提起への批判”と“誤記説への批判”とをごっちゃにされては、全てが当方の主張であるかの様な誤解を招きかねません。きっちりと区別して批判して頂きたいと思います。

「紋という文字は、前後の箇所での紋、すなわち紋標という使用法とは異なり、ここでは、ここだけだが実は数のことを意味するのであり、紋を合せるは数を合せると読むべきであり、書き間違いではない」等と読み解くこともあり得ない。

これは当方に向けての批判で間違い無いしょう。細かい事ですが、「前後の箇所での紋」と書かれているのは先生の勘違いでしょう。「後」の部分には「紋標という使用法」は有りません。「紋標」の意としているのは「前」の箇所についてのみです。又、当方が「ここでは、ここだけだが実は数のことを意味する」などという、全くトンチンカンな主張をしているかの様な誤解を与え兼ねない書き方は勘弁して頂きたいものです。

まあ、少々ねじ曲げた解釈をされてはいますが、一応当方の主張の趣旨は理解していて下さっている事は判明しましたので安心しました。ちゃんと読んで頂いてないのではないかという疑念は晴れましたが、ならば問いたい。何故「あり得ない」のか?と。
 先生としては『雍州府志』を「素直な気持ちで」読めば「合」は間違い無くトリック・テイキング・ゲームなので、その様に「読み解くこともあり得ない」という事なのでしょうが、これでは全く学問的な批判の体を成していません。当方がお聞きしたいのは江橋先生の“感想”では無く“論理的な批判”です。当方は、かなり苦しいにせよ具体的な論拠と論証を示して「あり得る」と主張しているのですから、それを「あり得ない」と否定されるならばその理由を示して頂く責任が有ります。
 勿論、ご多忙な江橋先生に当方の冗長な駄文を一語も漏らさず熟読せよとは申しませんが、少なくとも対抗説を批判する際にはその骨子となる論点だけはしっかり読んで頂いた上で、“否”とする部分には具体的な根拠を示した上でご批判頂きたいと願います。

史料は、その作者の意図する主旨を読み取り、素直に解釈するべきである。この、歴史研究の基本は常に心に残しておいてほしい。

結局、最後の最後まで先生お得意の「素直に解釈するべきである」の繰り返しです。「史料は、その作者の意図する主旨を読み取」る事が重要なのは全面的に同意しますし、資料を「素直に解釈する」のが研究の出発点であるという意味ならば異論は有りません。但しそれはあくまでも出発点であり、その解釈に論理的な破綻や矛盾は無いか、裏付けとなる資料によって説得力の有る説明が出来るか、他の資料とに齟齬は無いか、等を考える事こそが「研究の基本」だと考えます。
 勿論先生は、ご自身の素直な読解が正解であるとお考えなのでしょうが、残念ながら当方の目にはその様には映りません。先生はご自身の解釈に添った論理展開の事を素直な読解だとおっしゃっているだけの様に感じられます。

突然余談ですが・・・
私の大好きなミュージシャンの一人であるBob Dylanの作品に「One Too Many Mornings(いつもの朝に)」という曲が有るんですが、その中に特に大好きなフレーズが有ります。

You're right from your side,
I'm right from mine.

彼がまだ二十歳そこそこの頃の作品で、元は男女間の心のすれ違いを歌ったものですが、さすがは後のノーベル文学賞受賞者の言葉です。このシンプルなフレーズで世の中の真理を見事に言い当てていると思います。“正しさ”なんて所詮相対的なものに過ぎないと。

歴史研究も又しかり。資料を「素直に読む」という姿勢を否定はしませんが、ややもすれば恣意的な解釈に陥る危険と背中合わせだと考えます。「素直に読む」という主観的、観念的な概念を「歴史研究の基本」としていたのでは、結局いつ迄経っても議論は平行線のままであり、実り有る成果は生まれないと考えます。
 勿論、豊富な学識に基づく江橋先生の「素直」な読解は多くの示唆に富む、拝聴に値するものであるのは間違い有りません。しかし、学識も教養も乏しい浅学の者としては、何等の資料的な裏付けも無くして、説得力の有る主張など出来よう筈は有りません。

ところで江橋先生は本項の最初に、当方によって「新しく提起された論点について、そのいくつかを検討」する旨を述べられていましたので楽しみにしていたのですが、いざ蓋を開けてみると全くの拍子抜けであり、所謂“ゼロ回答”ってやつですかね。
 先生の「検討」の結果は、当方の提起した最も重要な論点である『雍州府志』の「合」の語義の問題に関しては「批評を避け」たり、「紋」に関する論証に至ってはその存在さえ無視した上「あり得ない」の一言で片付けられてしまいます。論理的な“批判”は全く示さず、根拠無き“否定”と“無視”のみであり、後は“文句が有るなら「賀留多」の項全文の読解を示してからにせよ”という意味不明な要求と、今迄のご自分の主張の繰り返しと、単なる上から目線(“上”であるのは間違い有りませが)からのお説教としか感じられません。これでは話が違うじゃん!と愚痴の一つもこぼしたくも成ります。

最後に、江橋先生に是非ともご返答願いたい点を整理しておきます。

  1. 当方は『雍州府志』全文中の「合」の字の用法の分析によって、「合」は“競い合わせ”の意味には解し得ず“組み合わせ”を意味する事を示しました。よって必然的に「賀留多」の項中の“合せ”技法は先生の主張する“トリックテイキングゲーム”では有り得ず、“めくり系技法”だと考えられると主張して来ましたが、この論証に対する具体的なご批判を頂きたい。
  2. 同じく『雍州府志』全文中の「紋」の字の用法の分析によって、「賀留多」の項中の「紋」は“スーツ(紋標)”の意味に限定する必要は無く、“ランク(数標)”の意味にも取り得ると考えました。よって「誤記」だなどと証明困難な主張をせずとも、“合せ”技法の説明は“めくり系技法”の事だと解釈し得るという論証をでっち上げた訳ですが、それを「あり得ない」とおっしゃるのならば、その根拠を具体的に説明して頂きたい。
  3. 今回先生が示された『雍州府志』の「賀留多」の箇所全文の読解に対して、当方が示した様々な批判点に反論が有るならば、具体的、論理的な再批判を示して頂きたい。
  4. 先生が“合せ=トリックテイキングゲーム説”を支持するものとして紹介されてきた諸資料や情況証拠に対して、それらは論理的に傍証としての妥当性が無いものか、或いは資料の解釈自体が間違っているものかの何れかであり、「“合せ=トリックテイキングゲーム説”には傍証と認められる様なものは無」いと断言しちゃいましたが、反論が有るならばお示し頂きたい。

以上、四つのお願いきいて~きいて欲しいの~♪(ごめんなさい。お若い方には意味不明でしょう。)

勿論、返り討ちになるならばそれも本望、覚悟の上での挑戦状です。恐らく先生は反論の準備を着々と進められている事でしょう(そう願います)。よもやそんな事は無いとは思いますが、もしも全く反論が示され無ければ、勝手ながら降参されたものと判断させて頂きます。
 先生はこの項のタイトルを「単なる批判者の責任と対抗学説主張者の責任」とされています。もしも当方の主張を「対抗学説」と認めて頂けるのならば、カルタ研究の第一人者としての、対抗学説主張者による批判に対する責任についても自覚して頂きたいものです。

公開年月日 2020/08/25


【5】『教訓世諦鑑』に関する問題 前編
 『教訓世諦鑑』の書誌情報、及び主要部分の翻刻と解釈


『教訓世諦鑑』の現存本について

引き続き『日本かるた文化館』を読み進めます。続いての目次のタイトルは「『教訓世諦鑑』の検討」です。江橋崇先生が何故ここで突然『教訓世諦鑑』を持ち出されて来たのか、事情をご存じ無い方の為に説明しておきましょう。
 当方は、『教訓世諦鑑』の「二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第/\に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留たと云ふ。」という記述が、後の“めくり”技法と共通するものと考え、当方の唱える“合せ=めくり系技法説”にとって重要な文献的根拠と位置付けました。従って“合せ=トリックテイキングゲーム説”を唱える江橋先生にとっては余程目障りな存在なのでしょう。何とかして『教訓世諦鑑』自体の資料としての信頼性を貶めようとされた訳です。

先生は本稿の終わり近くで、次の様に述べられています。

いずれにせよ、貝原は不知の世界のことを書いたのであり、記述の信頼性はあまり高くない。『教訓世諦鑑』は、全体としての評価はいざ知らず、少なくとも「博奕」の項は、カルタ遊技史の文献史料としては第一級のものとは言えない。このような文献史料を基礎に置いて歴史像を立論するのは危うい。大いに危うい。

つまり『教訓世諦鑑』の著者は、当時のカルタの状況を良く知らないのであり、その記述は不正確なもので信頼性は低い。従ってそれを依拠資料とする“合せ=めくり系技法説”の信憑性も低いという論法です。
 当方の“合せ=めくり系技法説”は『教訓世諦鑑』という単一の資料の読解のみによって立論している訳では有りませんが、重要な依拠資料である『教訓世諦鑑』の記述内容が全く信用するに堪えないもので有るならば、当方にとって大打撃である事は間違い有りません。勿論、江橋先生による批判が妥当と認められるものならば、当方も自説を修正するにやぶさかでは有りませんが、とにかく先ずは先生のご主張をじっくりと見させて頂くとしましょう。

(二)『教訓世諦鑑』の検討
言及するのが遅くなったが、研究室が発掘した文献史料、宝永八年(1711)刊の貝原益軒『教訓世諦鑑』巻二、第三「博奕(ばくえき)」について一言しておこう。私は、この文献の存在することを研究室の指摘で初めて知った。当然、原本を読みたいのであるが、利用可能なものの所在がよく分からず、また、復刻本もない。それどころか、『貝原益軒全集』の著作目録にも掲載されていないし、貝原に関する研究書も何冊か読んだがこれを貝原の著作物として活用しているものを知らない。『国書総目録』には、京大、教大、東北大(狩野文庫)にあるとされているが稀書である。私には今日までこの書全体の内容が把握できていない。また、これまでの貝原研究者の業績からも彼らがなぜこの文献を無視してきたのかも分からない。わずかに研究室のページにある該当部分、二ページ分の影印のみが利用可能な史料である。したがって私には、これの内容についてあれこれ論評することはできない。この二ページから分かることだけを書いておく。

「二ページ分の影印のみが利用可能な史料である。したがって私には、これの内容についてあれこれ論評することはできない。」とおっしゃりながらも、この後「この二ページから分かることだけ」から随分と「あれこれ論評」されており、最後には「カルタ遊技史の文献史料としては第一級のものとは言えない。」と断定されているのですから、まことに恐るべき洞察力です。

ところで、三箇所の公的な図書館に所蔵が確認されている『教訓世諦鑑』を「稀書である」と言えるかは微妙なところですが、少なくとも閲覧が困難な資料という訳では有りません。『国書総目録』に記されている所蔵先「京大、教大、東北大(狩野文庫)」は、①京都大学図書館潁原文庫、②筑波大学図書館(残念ながら「博奕」の項が載る第二巻が欠本です)、③東北大学図書館狩野文庫の三箇所の事ですが、今回調べ直したところ、もう一箇所④九州大学附属図書館雅俗文庫にも収蔵されている事が判明しました(ネット時代の恩恵ですね)。何れも国立大学ですので手続きを踏めば誰でも原本の閲覧は可能な筈です。しかし一般の方(図書館に於て“一般”とは、大学や研究機関に所属していない人の事です。勿論当方も“一般”ですが、公立の大学図書館や専門図書館では、余程の貴重資料を除いては閲覧を拒まれる事は有りません。)にはちょっと心理的ハードルが高いと思われますが、原本にこだわらず複製(マイクロフィルム)で良しとするならば、かなりハードルは下がります。
 ③の狩野文庫本については、丸善が製作販売している『東北大学附属図書館所蔵狩野文庫マイクロ版集成』に収録(リール番号はBMBー004)されています。当方は国会図書館で閲覧しましたが、CiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ])のサイトによれば、他に全国十箇所の大学図書館で閲覧が可能な様です。又、①の潁原文庫本は国文学研究資料館(東京都立川市)によってマイクロフィルム化されており、同館で閲覧可能です。当方の様な素人でも容易にアクセス出来るのに、何故江橋先生がこれらの資料の確認作業をされないままに論を進められたのかは解りませんが、もしも何れかでも確認されていたならば、この後に述べる問題も避けられていた筈だったのですが・・・

研究室によるこの文章の紹介には、書誌的なデータがない。延宝八年(1680)の刊とするが、刊記の紹介がないので、誰が著者で、誰の刊行物であるのか分からない。書誌的な検討がないので、出版の事情も刊記の正確さも分からない。著者は貝原益軒とされているが、貝原の著作とされている二百余冊の書籍の中には、その名前で周囲の人間が編集し、代筆し、あるいは名前だけ借用したものがある。貝原の膨大な著作をくまなく点検したのではないが、主要な著作に当たっても、博奕に関する関心や知識は示されていない。その貝原が、八十歳を超えて、残り少ない人生であるのになお教訓書や地誌、旅行記の執筆、出版に忙しい中で、博奕に新たに関心を持つようになり自ら取材して執筆したとは想像しにくい。だが、貝原の著作の実際の執筆者に関する研究をしていない私であるので、ここは一応『国書総目録』の記載のままに貝原本人の著述として扱おう。

控え目な表現では有りますが、『教訓世諦鑑』の著者が本当に貝原益軒なのか? という疑念を抱かれている事は容易に読み取れます。今は、さすがは江橋先生とだけ申し上げておきます。

江橋先生からの最初の批判点は、当方による「書誌的なデータがない」という点です。ハイ、その通りであり、全く弁解の余地は有りません。

元々当方は、歴史学や近世文芸に関する知識も素養も全く持たず、「書誌」なんて言葉すら全く知らぬままに、ただカルタに興味を持ってやみくもに資料を拾い集めては悦に入っていた好事家に過ぎません。最近は偉そうに“研究者”などとも自称してはいますが、単に“研究をしている者”というだけの意味であり、所詮はアマチュア研究者の域を出るものでは有りません。勿論今は書誌情報の重要性を十分に認識してはいますが、かと言って今更千余点に及ぶカルタ資料の書誌情報を全て調べ直す余裕も気力も有りません。必要な場合にのみ調べ直すという事でご勘弁下さい。
 で、今回は勿論“必要な場合”ですので、改めて狩野文庫本と潁原文庫本(同版と思われます)を確認して来ました。その成果をご報告致します。

『教訓世諦鑑』「博奕」の項、主要部分の翻刻

先ずは『教訓世諦鑑』の「博奕」の項の中で、カルタ以外の博奕も含めて重要と思われる部分(その他の部分は単なるお説教みたいなものですので省きます)の翻刻をお示ししておきます。底本は『東北大学附属図書館所蔵狩野文庫マイクロ版集成』です。

教訓世諦鑑(きょうくんせたいかがみ)』享保六年(1721)

教訓世諦鑑巻二
  第三 博奕はくえき
博奕ばくえき字訓じくんハ、ひろく、かゆるとよむ。もろこしなどハしらず、我国わがくにのならわし、哥留多かるたと云へる、かず四十八枚あるものをもつて、勝負しやうぶしなをわかつに、はんのかずに、三五七九と、あたるをかちとし、二四六八を、みなまけとす。是ハ哥留多かるたまいをもつて、其てうはんとのしるしを見る。こゝにおいて、かう、おいてう、など云へる、色々のあり。さて又九まひ六まひのかずを以て一二三四乃至ないし九十、むま、きりと、よんで勝負しやうぶをなすを、これをバ、よみと云ふ。二と二とを、合せ

(1オ)

五と五とをあハせ、次第しだい/\に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留かるたと云ふ。さまざまのしなありと、云へとも、くハしくしるすに、およばず。こゝに又、象牙ざうげの、四四方なるものに、一より六までの、目を付て、さいと名付。二つ三つ四つ六つたうかずをもつて、なげこかして、其多少たせうを見て、勝負しやうぶをする。もと此さいハ、双六すごろくより出て、金銀のしやうぶも、さまでのことにハ、ならざるを、かくのごとく、しなをわかつて、勝負かのかるたにばいし、過分くハぶんのかちまけありと云へり。其しな又、さま/\゛ありて、しろうとの、知りがたき、事なり。あるいぜにをもつて。かずをかぞへて、しやうぶを、す

(1ウ)

るを、けんねいじと云ひ、何子なんごなど云ふ。双六、おりは、宝引、のたぐひまで、金銀銭をもつて、勝負しやうぶをなすときハ、ミな博奕はくゑきと云ふべきなり。就中なかんづく、さいるたの二品ハ、下品げぼんの悪勝負なるによつて、中人ちうじん以下いげのもの、過分くハぶんの勝負をなして、身をほろぼし、家職かしよくをやぶるに至る。然るに今どき、世間にます/\、このたぐひおゝく、どうとやらん名付て、金銀の元をするものしよ々に徘徊はいくハいし、其ひをくハいして、勝負をなす(。)西国にも、東国にも、北陸ほくろくにも、南陽なんやうにも、これをかく人となづけて、ばくえきの一道いちだう達者たつしやとし、商人あきびとなどの、ていにもてなし、ひそか旅宿りよしゆくをもとめ、其類族るいぞくをつのる

(2オ)

是がつゞゐて近年きんねんハ、誹諧はいかいにことよせ、三笠付、大一などゝいふことを仕出しいだし、人の金銀をうばふ、勝負しやうぶをなしてこと/\゛く、身上をやぶらしむ。
(後略)

(2ウ)

(前略)
かく、ゆたかなるもてあそびも、金銀の勝負しやうぶ莫大ばくたいにして、下品げぼん行迹かうせきに、おちいるときハ、壱せん弐銭のよミ、かるたも、五もく壱銭の、かけも、面角めんかくすじをいらゝげ、まなこになりと。勝負をあらそひ、のちにハ身上の、つりがへとなる時、いかんぞ、博奕ばくゑきのがるべき。
(後略)

(六オ)

『教訓世諦鑑』の書誌情報

外題は『教訓世諦鑑』、内題と柱題は共に『世諦鑑』です。

『教訓世諦鑑』は全六巻から成り、巻一から巻五迄が本編、巻六が付録という扱いです。本編五巻の性格を一言で言えば、文字通り“教訓書”つまりお説教です。序文を読めば本書を上梓した意図が窺い知れます。

世諦鑑せたいかゝミ
(中略)
いま世諦せたいに心あらんひといへをとゝのへしよくたもつがために、古昔むかしの人のひやうする、身をほろぼし、いへやぶるの本、はしとなるもの、四つ五つ書付かきつけ
(後略)

「世諦」とは、今で言うと“世帯”とか“所帯”に近い意味の様です。自らの「世諦」を保つ上での第一は“家業”を怠らず、常にそれに励む事であり、“家業”を疎かにし破綻に至らしめる原因と成る、謹むべき諸悪の数々とその弊害を説いています。
 著者が諸悪の第一として筆頭に挙げているは「酒」で、第二が「色」、そして第三が「博奕」という訳です。順番は少し異なりますが、現代でも男の三大道楽として言われる“飲む、打つ、買う”と一緒ですね。日本人(厳密には日本の男)は、三百年経っても殆ど進歩が無い様です。
 お説教の内容に関しては「おっしゃる事は一々ごもっともです」としか言い様が有りませんが、裏を返せば、当時実際にこれらの悪習、悪行によって身を持ち崩す事例が多かった事を示す証拠なのでしょう。

教訓書的なものは、古今数多く刊行されていますが、類書と比べて『教訓世諦鑑』がユニークなのは(他書を詳しく調べた訳では有りませんが)、付録と位置付けられている巻六の内容では無いでしょうか。この巻は他の巻とは全く内容が異り、一言で言うならば“生活の知恵百科”でしょうか。例えば“自家製味噌の作り方”“漬物の漬け方”“家庭菜園の作り方”等の実用的な情報を、『大和本草』『農業全書』等の当時の実用書から抜粋して編集したものです。
 この巻を最初に見た時は“何でやねん?”と思いましたが、序文中の「費(ついへ)をはぶき」という記述を見て得心しました。つまり、「世諦」を保つ為には日々の暮しでの無用な出費を抑える事も重要であり、可能なものは出来るだけ自家製して倹約に努めよと云う訳ですな。ふむふむ。

と、読み進めて来た所、序文の最後に至ってとんでもない事実が発覚しました。序文の末には次の様に書かれています。

旹享保六龍集 丑 孟正吉旦
         (印)〔執中堂〕 (印)〔西山〕

何てこった! 著者名が記されているべき箇所に貝原益軒の名は無く、代りに聞き馴れない号名の印が捺されています。しかも刊年は宝永八年では有りません。享保六年(1721)に書かれた文章が、宝永八年(1711)に刊行されている筈が有りませんからね。一体、どういう事?

衝撃的な事実が発覚しましたが、ここは心を落ち着けて事実関係を確認しましょう。
 先ずは見慣れない語について簡単にご説明しておきますと、頭の「旹」は“時”の異体字です。「龍集(りょうしゅう)」は年号の後ろに付けられる語で、単に“○○の年”といった様な意味です。「丑」は勿論十二支の丑(うし)年、「孟正」は“一月”の事、「吉旦」は“物事をするのによい日”で、今も使われる“吉日”と同じ様な意味と考えて良いでしょう。この序を書いたのは“享保六年丑年一月の或る日”という事を堅苦しい表現で記したものです。
 執筆者の著名は無く、代わりに篆書体の〔執中堂〕〔西山〕の二種の印が捺されています。但しマイクロフィルムの為、これが本当の捺印なのか、或いは印影を版刻したものなのかの判別はつきません。ところが不思議な事に、九州大学所蔵本の書誌情報によると、この印の代わりに“墨書書入れ「摂刕(州)大坂住/西山子」”と書かれているとの事です(原本未確認)。「墨書書入れ」とは版刻されたものでは無く、肉筆による署名という事でしょうか。もしも肉筆ならば著者本人によるものと考えて間違い無いでしょう。だとすれば印形も版刻されたものでは無く、この部分は元々は空欄であり、そこに自ら著名したサイン入り本(知人等への贈呈用?)と、少し手を抜いた捺印本(一般販売用か?)の二系統が有った事に成ります。不勉強の為、これが特殊なケースなのか、有り触れたものなのかは知りません。
 尚、この墨書書入れから、著者が摂刕(州)大坂の住人(今で言えば大阪府大阪市在住)であった可能性が高いと考えて良いでしょう。

跋文末には

旹享保龍集 辛丑歳
     仲春吉旦
       執中堂 西山子

と有ります。「旹享保龍集 辛丑歳」は序と同じ事です。ここでは「六」が省かれていますが、代わりに干支の「辛丑(かのとうし)」と記されていますので、序と同じ享保六年の事だと解ります。「仲春」は“二月”の事ですので、享保六年の一月に書き始めて二月に書き終わったという事に成ります。
 ここには「執中堂 西山子」と署名が記されており、「執中堂」の堂号は序末の捺印と一致しています。「西山子」は九州大本の墨書と一致しますが、捺印の方は「西山」のみで「子」が抜けていました。恐らく「子」は自称の後に付ける、へりくだった意味合いの用法と思われ、正式な号は印に見られる「西山(せいざん?)」だと考えられます。
 「執中堂」や「西山」の号を名乗った人物の素性については色々調べては見たのですが、今のところさっぱり判りませんが、恐らく当時としてもさほど著名な人物では無かったと思われます。少なくとも貝原益軒とは別人であるのは間違い有りません。益軒がこれらの別号を使用した形跡は有りませんし、そもそも彼は正徳四年(1714)に没していますから、享保六年(1721)の著作など有る筈が有りません。

最終丁には版元が記されています。
大坂高麗橋筋上人町
        鴈金屋庄左衛門
        武川善右衛門
大坂北久太郎町五丁目
        瀬戸物屋傳兵衛
 と、本書が大坂版である事が判ります。これにより、九州大本の「摂刕大坂住」の記述の信憑性は高いと考えて良いでしょう。

以上の情報を整理すると、本書は享保六年の一月から二月に掛けて執筆されたものであり、刊行も同年中(遅くとも翌年正月)と考えるのが妥当でしょう。著者は執中堂 西山(子)と名乗る人物です(以後“執中堂西山”と記します)。出版地は大坂であり、恐らく著者も大坂在住です。
 執中堂西山の人物像を想像するに、「旹」「龍集」「吉旦」等、余り一般的とは言えない表記を駆使する事から、少なくともそれなりの教養の有る人物だと考えられます。まあ実際には大した教養は無くとも、気取った語句を真似するだけならば誰にでも出来る事ですが、エセ知識人ならば必ず何処かでボロが出るものです。本文を読んだ印象からも、更に貝原益軒の作と誤認されて来た事からも分かる様に、著者は一定レベルの教養を有する知識人であったと考えて良いでしょう。よって『教訓世諦鑑』のカルタ記事は、大坂在住のそれなりの知識人(但し、あまり有名では無い)による、享保期初め頃のカルタ博奕に関する知見を記したものと評価出来ます。

それにしても不思議なのは、これだけはっきり書かれているのに、何故『国書総目録』(国文研の『日本古典籍総合目録データベース』も)に貝原益軒著、延宝八年(1680)刊と記されているのかという事です。何等かの根拠が有っての事なのか、或いは編纂作業上の何等かのミスがたまたま見過ごされてしまっただけなのでしょうか? 謎だとしか言い様が有りません。

と云う訳で、江橋先生が直観的に違和感を抱かれた通り、『教訓世諦鑑』は貝原益軒の著作では有りませんでした。又、成立年は宝永八年(1711)では無く、十年下った享保六年(1721)です。ここに訂正させて頂くと共に、今迄誤った情報を掲載し続けて来た事を、深くお詫び申し上げます。
 特に江橋先生には、当方の誤った情報を前提とした、結果的に全く無意味な論考をさせてしまった部分が多々有ります。これは当方の未熟さ故の誤認に因るものであり、責任は全て当方に有ります。この点に関して深く深くお詫び申し上げます。

この間違いに気付いた時はさすがに動揺しました。しかし冷静に考えれば、この誤認は当方の“合せ=めくり系技法説”に対して殆ど影響は無いと気付きました。そもそも当方の論証は貝原益軒というネームバリューに頼った立論では有りませんし(正直に言えば、ちょっぴり残念では有りますが)、成立年が十年下ったのも論証内容に全く影響は有りません。
 それにしても、江橋先生より先に誤りに気付けて本当に良かった。もしも先生の方が先に気付かれていたならば、間違い無くもっとボロクソに叩かれていた事でしょう。

公開年月日 2020/10/29


【6】『教訓世諦鑑』の内容の検討

(一)カルタ賭博

江橋先生は「『教訓世諦鑑』の検討」の論考の最後を、次の様に締めくくられています。

研究室が、今後も『教訓世諦鑑』を信頼してそれに依拠するのであれば、その第三「博奕(はくゑき)」の全編について、カルタ博奕に続いた骰子博奕や、その後ろに書かれた雑な諸勝負の部分に至るまで素直に読み、書誌学的な検討も含めた全面的な再検討と鋭利な解析を加えて、その史料としての信頼性を納得させる研究成果を公表されることを望みたい。

至極もっともなご指摘です。当方は「今後も『教訓世諦鑑』を信頼してそれに依拠する」積りですので、最低限済ませておかねばならない作業だと考えます。
 「書誌学的な検討」については前稿で示しましたので、次に為すべき事は「全面的な再検討と鋭利な解析」です。「鋭利な解析」であるかは自信が有りませんが、『教訓世諦鑑』の内応についての自分なりの解釈を示しておきます。

我国のならわし、哥留多と云へる、数四十八枚あるものをもつて、勝負の品をわかつに、

カルタ自体についての説明は「我国のならわし、哥留多と云へる、数四十八枚あるもの」という、極めて簡潔な記述だけです。同時代の他の主だったカルタ資料、例えば『雍州府志』『和漢三才図絵』『白河燕談』等と比べると余りに簡単な記述だという感は否めません。しかし、これらの書は何れも博物誌的な書物であり、その一つの項目としてカルタについて説明しているものです。従って、カルタの事を良く知らない読者を想定しての説明になりますので、当然かなり詳しいものに成ります。
 一方『教訓世諦鑑』は、世間の悪癖を戒める目的で書かれた書であり、悪癖の一つとしての賭博の、その又一例として、お馴染みのカルタについて記述したものです。『雍州府志』等とは資料性格も、記述の目的も全く異なりますので、同じ様な詳細な説明を期待してもしょうが有りません。執中堂西山としてはこれだけで読者に十分通じると考えたのでしょう。つまり“読者の大部分がカルタを知っている”という事を前提にしての記述と考えられます。これは例えば、現代の我々が“トランプ”について語る時、一々その形態や札の構成等から細かく説明する必要が無いのと同じ事です。この事は、カルタが「我国のならわし(習わし・慣わし)」だという表現からも裏付けられます。彼自身も含め、当時の人々にとってカルタは日常生活に溶け込んだ、一般常識の部類であると認識されていたものと考えられます。

続く「勝負の品をわかつに」は、遊技法の区別の事を言っているのでしょう。カルタ技法の説明の最後の部分でも「さまざまの品ありと、云へとも、委しく記すに、及ばず。」と書いています。又、後のサイコロ賭博の部分でも「かくのごとく、品をわかつて」「其しな又、さま/\゛ありて」と書いており、「品」を遊技法の意味で使っているのは明らかです。

続いて四十八枚一組の哥留多(カルタ)を用いる技法を、三種類紹介していますが、最初に記されている技法が最大の謎であり、実に興味深い内容ですので詳しく検討いたします。

①“長半カルタ(仮称)”について

半のかずに、三五七九と、あたるを勝とし、二四六八を、皆まけとす。是ハ哥留多三枚をもつて、其長と半との印を見る。

記述が曖昧で、技法の具体的な内容はハッキリは判らないのですが、「哥留多三枚をもつて、其長と半との印を見る」とは、恐らくカルタ札三枚の数標を合計して、その一の位が「三五七九(何故か“一”が抜けている)」の奇数(半)か、「二四六八(こちらも“零”が抜けている)」の偶数(長)かによって勝敗を決するものと考えられます。
 もう少し具体的に想像すると、先ず思い浮かぶのはサイコロの長半(丁半)賭博との類似性です。当時既にサイコロの長半博奕が存在したのは資料的にも間違い有りませんので、それをモデルにしたのだとすれば、親の引いた三枚の札に対して、子が半か長かを予想して賭けるという技法が想定されます。「半のかずに、三五七九と、あたるを勝とし、二四六八を、皆まけとす」は、子が半の数に賭けた場合、親の札の点数が半(三五七九)ならば勝ち、長(二四六八)ならば負けという事でしょう(試案①)。
 もう一つ別の可能性としては、既に存在した“かう”や“きんご”といったカルタ技法の形式に長半博奕の勝利条件を組み入れた可能性も考えられます。その場合、親も子も三枚ずつ札を引いて、親の手が半の数の場合には半の手を持つ子は勝ち、長の子は負けというルールが想定出来ます(試案②)。
 何れにせよ、親対子で争う形式だと思われます。試案①②のどちらも競技として成立し得ると思いますが、賭博技法としてはルールの単純さや、ゲームのスピーディーさに勝る試案①の方に分が有りますし、カルタ遊技としての面白味を考えれば、試案②の方に軍配が上がるでしょう。
 尚、何れにせよこの技法は、金銭を賭けずに行ったのでは面白くも何とも無いものであり、“かう”や“きんご”と同類の純粋な賭博系技法だと考えて間違い有りません。

技法の説明で“零”と“一”の扱いが抜けていた問題を検討しておきましょう。勿論、単なる書き漏らしであるのかも知れませんし、その可能性が一番高い様な気がしますが、それでは面白く無いので他の解決策に想像を巡らして見ましょう。
 試案①の場合、親の点数が“零”か“一”の場合には“親の勝目”として、子の賭け方に関係無く無条件に親の惣取りとなるルールが想定出来ます。つまり寺銭(親の利益分)に相当するもので、賭博遊技では良く見られるものです(例えばルーレットでの“0”や“00”)。しかしこれでは、所謂控除率がかなり高く成り、親が圧倒的に有利な事は確立などに疎い素人でさえも分かるでしょうから、成立はちょっと難しそうに思えます。(但し、親が順番に替って行く形式ならば有り得なくは無いでしょう。)
 一方試案②の場合には、先ず試案①と同様に親の点数の“零”“一”を親の“勝目”とし、子の手札の点数に拘らず親の惣取りとする方法が考えられますが、これも試案①と同じ問題が有ります。或いは子の手札の点数の“零”“一”を“親の勝目”とするルールも想定出来ます。例えば、親の手が“半”の時、子の手が“三五七九”の場合には勝ちに成りますが、“一”の場合には負け、或いは引き分けに成るという事です。これならば控除率も少し下がりますし、「半のかずに、三五七九と、あたるを勝とし、二四六八を、皆まけとす」という記述の、少なくとも前半部とは辻褄が合っています。まあ、こちらの方が有りそうだと位しか言えませんが、何れにせよ単なる妄想に過ぎませんので、軽く聞き流して下って結構です。

爰において、かう、おいてう、など云へる、色々の名あり。

この部分の意味を考えましょう。ここに書かれている「かう」「おいてう(おいちょう)」は、一見この技法の名称の様に見えますが、そうでは無いでしょう。その理由は幾つか挙げられます。
 執中堂西山は、この後に言及する二種の技法については「これをバ、よみと云ふ」「あハせ哥留たと云ふ」という形で、技法名の説明だと明確に理解される書き方をしています。それに対し、ここだけ技法名を「爰において、かう、おいてう、など云へる、色々の名あり」と書くのは変ですし、そもそも「爰において」という表現自体が、技法名の説明の文脈としては不自然です。
 又、「色々の名あり」と有りますが、「かう」と「おいてう」の二つだけでは普通「色々」とは言いません。「名」を技法名だと解すると、他にも複数の名称が有った事に成ってしまいます。この技法に「かう」「おいてう」更にその他幾つかの名称が有ったと考えるのは現実的では有りません。では、「かう」「おいてう」が技法名(「品」)では無く「名」ならば、「名」とは一体何なのでしょうか?
 確かに江戸期を通じて“かう”は技法名としても使われていますが、同時に“かう”系の技法で9点を表す用語(符丁)としても使われる語です。同じく“おいちょう”は8点を表す用語(符丁)ですが、“おいちょう”という名称の技法が有った事を示す資料は(多分)存在しません。“おいちょう”が技法名で無いのであれば、ここでの“かう”も技法名では無く、点数を表す符丁と考えるべきであり、それを「名」と呼んでいるものと考えます。
 「爰において」とは“今述べてきた、この遊技法において”という意味だと考えられます。つまり、“この技法では「かう」「おいてう」という「名(用語、符丁)」が使われている”と解釈すれば自然な表現として受け取れます。
 更に「色々の名あり」も説明が付きます。当事盛んだったと考えられる“かう”や“三枚”で点数を表す符丁として一般的に使われていたのは、0点が“ぶた”1点が“うんすん”、2点から7点迄は“二寸(すん)”“三寸”・・・“七寸”。で、8点が“おいちょう”9点が“かう”です。同時代のこの技法でも同じ符丁が使われていても不思議では有りません。これらの代表格として「かう」「おいてう」を紹介したが、他にも「色々の名あり」という事でしょう。
 以上の理由により「かう」「おいてう」は、この技法で使われる符丁であり、技法名では無いと結論付けられます。そうすると、この技法の名称が書かれていない事に成ってしまいますが、恐らく名称を知らなかったのでしょう。仕方有りません。しかしそれでは不便なので、仮に名前を付るとすれば“長半カルタ(仮称)”というベタなものに成るでしょうか。

もう一つ考えておくべき問題は「かう」「おいてう」という「名」に触れながら、当時盛んに行われていたと推測される“かう”技法に関して、全く言及していないのは何故かという点です。もしも“かう”に関して多少でも知識が有るならば、一言ぐらい触れても良さそうなものですよね。思うに彼は“かう”については全く知らなかったのでは無いでしょうか。執中堂西山は、当時のカルタ遊技全般(特に賭博系技法)に精通していた訳では無かったと想像されます。

最後に検討するのは“長半カルタ(仮称)”が実際にどれくらい行われていた技法なのか、という問題です。管見では『教訓世諦鑑』以外に“長半カルタ(仮称)”に関して具体的に記された資料は有りませんし、過去のカルタ史研究に於いても全く触れられていません。“長半カルタ(仮称)”はこの時期の大坂の一地域で、限られた一部の人々のみの間で行われていたものを、たまたま見聞した執中堂西山が書き留めただけなのでしょうか? それとも或る程度の時間的、空間的な広がりをもって行われていたのでしょうか?

“長半カルタ(仮称)”に関係すると思われる資料として、以前『浪華獅子』明和七年(1770)を紹介しました。今回、もう少し踏み込んで検討致します。

『浪華獅子』明和七年(1770)
天所先生著
羅連 青金吾 輯
馬飼 讀長班 校

『浪華獅子』は戯作であり、ここに書かれている著者、編者、校訂者の名前は全てカルタ遊技のパロディーと考えられます。
 先ず、著者に擬される「天所(てんしょ)先生」からしてが、当時上方で流行していたカルタ技法“てんしょ”のパロディーで有るのは、天所先生の肖像がカルタ札を手に持ち、添えられた賛に「平生天所三昧」と有る事からも間違い無い有りません。更に“天所先生”自体が、恐らく“甘藷(かんしょ)先生”こと青木昆陽(1698~1769)のもじりで有ろうと想像されます。

「金吾(きんご)」「讀(よみ)」は説明不要でしょう。
 「羅連」の読みは“られん”で間違い無いでしょう。“られん”は『浪華獅子』以外では今の所『渡世身持談義』と『歌枕棣棠花合戦』との二書のみに見られる謎のカルタ技法です。

『渡世身持談義』享保二十年(1735)
左の方には青二高名寺かうみやうしの万九上人とかうしてられんの衣にきんしの袈裟をかけ。
(中略)
栄塞和尚ゑいさいおしやうのいへるは。我せいの国よりせり馬にのつ此土このどに渡り。どうをたてかわを取上んと。あまねく世界せかいのならずものゝ衆生等をすゝめ四十八枚の札をまきひろめ。釈迦しやかあざの有がたい道をまいてみせ。
『歌枕棣棠花合戦』延享三年(1746)
扨札物ハ、手めが上手、三枚一切せいせり馬、られん万ぐわん金五ハおろか、

『浪華獅子』の「羅連」は、両書に見られる「られん」と同じものと考えられ、これもカルタの遊技法名です。
 ここ迄は以前にも述べたところですが、今回幾つかの新たなアイデアが浮かびましたのでご報告させて頂きます。

以前は「青」は青札(パウ)の事で、単にカルタ用語と考えていましたが、もしかしたらこれも遊技法名かも知れません。「青金吾」は唐人風の名前のパロディーですので、姓の「青」は和語の“あお”では無く、漢音で“せい”と読むべきでしょう。だとすれば、これも江戸前期から中期の資料に散見される謎のカルタ技法、“せい”の事だと考えられます。カルタ技法“せい”は、“られん”の載る前掲の二資料にも併せて登場していますし、他にも5点の資料を確認しています。つまり“せい”は、当時そこそこメジャーな技法であったと考えられ、“られん”と同時代、同地域で行われていた技法だと考えて良いでしょう。従って「青」が“せい”技法の事だとするのも決して荒唐無稽な主張では無く、有ってもおかしくは無いと考えます。
 「馬飼」が難問です。ここ迄のパターンでは「馬飼」もカルタの遊技法名かと想像されますが、残念ながら思い当たるふしは有りません。勿論「馬」はカルタ用語として理解可能ですが、では「飼」は? ここで又しても思い付いちゃいました。「飼」を普通は何と読みますか? “かう”ですよね! 後は説明不要でしょう。まあ、これに関しては自分でも半信半疑というか、寧ろ“疑”の割合の方が圧倒的に高いというのが正直な所ですが、単なる偶然にしては余りにも出来過ぎだとも思えるのですが・・・

さて、最後に残った「長班」を考えましょう。読みは“ちょうはん”で、偶数を意味する「長(丁)」と奇数を意味する「半」の事と考えて間違い無いでしょう。“長半”というと真っ先に思い浮かぶのはサイコロを使った長半博奕ですが、他が全てカルタ用語、特にカルタ遊技法名のもじりなのに、「長班」のみがサイコロ遊技の名前というのはちょっと不自然ですよね。普通の感覚ならば、ここはカルタ用語で統一されて然るべきでしょう。だとすれば「長班」もカルタ用語、それも遊技法名である可能性が有ると考えられます。つまり“長半カルタ(仮称)”の事です。
 尚、『浪華獅子』はその名の通り大坂版ですが、『教訓世諦鑑』も同じく大坂版であり、著者も大坂人です。この事からも江戸中期の大坂で、“長半カルタ(仮称)”と呼べる技法が行われていた可能性を考えて良いでしょう。
 又、少し時代は下りますが、江戸後期の御仕置例に気になる記述を見つけました。

『文政三辰年御渡』文政三年(1820)
道中奉行伺
一 中山道高崎宿旅籠屋佐兵衛宅ニて召捕候、無宿文右衛門外三人、博奕又ハねたり事いたし候一件
(中略)
右文右衛門・要蔵儀、旅人之金銭可欺取と、住所不知久次其外之もの共え銘々申合、中山道深谷宿旅籠屋友右衛門外四人方え止宿いたし、泊り合候旅人を勧メ、かるた札を賽之代りニ相用ひ、廻り筒之博奕いたし、

江戸後期の文政三年(1820)、今の群馬県高崎での事件記録です。「かるた札を賽之代りニ相用ひ」つまり、本来はサイコロを使う賭博を、代りにカルタを使って行なったと云う事です。この時代の代表的なサイコロ賭博といえば長半博奕ですので、カルタで長半博奕類似の技法を行なったと考えるならば、これはまさに“長半カルタ(仮称)”に他なりません。

“長半カルタ(仮称)”以外にサイコロ博奕の技法をカルタに採り入れた例が有るのかと問われれば、残念ながら今の所確認されていませんが、逆にカルタの技法をサイコロ博奕に採り入れたと思われる技法が有ります。以前“さいがう”という賭博を紹介し、カルタの“かう”技法をサイコロを使用して行うものであろうと論じました。最近“さいがう”の傍証となる資料を発見しましたのでご紹介しておきます。

『御前義経記』元禄十三年(1700)
あまつさえ御法度はつとの四つざい。つけめおい長。うん吉ぶたにでつくはせ。まけばらたてては旅人りよじんのよは手を見すまし。

「御法度の四つざい」は、四つのサイコロを使う博奕の事でしょう。「おい長(8点)」「うん吉(1点)「ぶた(0点)」は“かう系技法”で用いられる符帳です。従ってこれは“さいがう”の記述である可能性が高いと考えられます。
 サイコロとカルタは江戸時代を代表する賭博用具の双璧であり、共に数字を用いるという共通点が有る、極めて関係性の強い物です。“さいがう”がカルタ技法の“かう”をサイコロ博奕に転用したものであるのは間違い無いでしょう。だとすれば、逆にサイコロ技法の“長半”をカルタに転用した“長半カルタ(仮称)”が有ってもおかしくは有りません。

と云う訳です。結論としては“長半カルタ(仮称)”と呼べる遊技法が存在したのは間違い無いと考えますが、現状では資料が乏しい為、その実態を捉えるのは困難です。一定のルールや固有の名称を持つ確立した技法だったのか、或いは単にサイコロが無い時にカルタを代用して即興のルールで行われただけのものなのか、現状では定かでは有りません。少なくとも“よみ”“合せ”“かう”等の技法とは比べ物にもならないマイナーな技法であったのは確実でしょう。今後、新たな関連資料の発見が有る事を願うしかありません。

②“よみ”について(及び“手目”問題)

扨又九まひ六まひの数を以て一二三四乃至(ないし)九十、むま、きりと、よんで勝負をなすを、これをバ、よみと云ふ。

『教訓世諦鑑』が世に知られる以前は、“よみ”技法の基本原理が具体的に記されている基礎資料は『雍州府志』貞享三年(1686)と、『博奕仕方』寛政七年(1795)との二つのみでした。『教訓世諦鑑』はそれらの間を埋めるものであり、両書の記述とも根本的な矛盾点は無く、三つ目の基礎資料と見做せます。
 但し記述が簡潔過ぎる為、現代の我々ではこの文章のみから“よみ”のルールを想像するのは困難ですが、幸い我々は『雍州府志』や『博奕仕方』を既に知っているので、これが当を得た記述だと理解出来ます。同様に、日常的に“よみ”に接している当時の読者にもこれで十分に理解されたのであろうと想像されます。

この簡潔な記述の中に、他書には見られ無い貴重な情報が含まれています。それは「九まひ六まひの数を以て」の部分です。これは競技者の手札の枚数の事だと考えて良いでしょう。
 “よみ”の最も基本的なパターンは、四十八枚のカルタ札の内、“海老二(イスの2)”以外の赤絵(イスの札)を除いたを三十七枚を使用し、四人の競技者がそれぞれ九枚の手札を持ち、残る一枚を“死絵”とするものです。最初に「九まひ(九枚)」と有るのはその為でしょう。では「六まひ(六枚)」とは何か。四人競技で六枚の手札で行う別法が有ったとは考えにくいので、四人以外の人数の場合での手札の枚数と考えるのが妥当でしょう。
 “よみ”は必ずしも四人だけでは無く、三人、五人、六人でも競技される事が有ったと考えられます。『雍州府志』によれば、カルタ遊技の競技人数は概ね三人から五人であり、“よみ”についての説明文中でも競技者は四人とは限定されていません。“よみ”の遊技風景を描写していると思われる絵画資料では、勿論主流は四人ですが、三人や五人のものも見受けられますし、六人での遊技図も『絵本池の蛙』の挿絵の一点のみですが存在します。
 文献的な裏付けとしては、次の資料を揚げておきます。

『吉原下職原』延宝九年(1681)
わがごときのびりこきもの四三五六人よりあひこのへうばんにめざしかるたの一から十まてよミてミるに

難解読資料で有り、そもそも「めざしかるた」とは何なのかが判りません。カルタ札の種類の様にも読み取れますが、そうならば「一から十まて」と有るので“馬”“切”の札を除いた40枚一組の“きんご札”との関係も想起されます。その遊技法は「よミてミるに」とある事から、“よみ”系の技法であろうと考えられます。そう仮定すると、その競技人数は「四三五六人よりあひ」という事に成ります。「三四五六人」では無い所がミソです。敢て“よみ”の標準形である四人の場合を頭に持って来たとも考えられ、基本は四人だが、概ね三人から六人迄の競技だと言っていると解釈出来ます・・・
 とは言ってみたものの、自分で言うのもなんですが余りにも雑な論理ですね。と言うのは、実は「四三五六」という表現は“よみ”技法に関してのみ用いられるものでは無く、江戸期の資料全般で頻繁に見られるものだからです。

『新色五巻書』元禄十一年(1698)
なさけなやすそびんぼうのはりぞくなひ。打(うち)まくる三枚(まい)がるた。是まだるしと四三五六。なげた手もとはしかふ。
『市川今団十郎かるたつくしほめことば』宝永初年(1704-)頃
かゝるぜうずになるさいの。四三五六のころよりも。はつとてをうつげいのほど。のこらぬ/\大あたり。座もとハくさりをぶちぬいて。はめをはつしてかきこめバ。一二三四のわらいして。
『女殺油地獄』享保六年(1721)
かるたのゑの付きたうにあざふの明神しやかむに仏。どう取のいのりは。四三五六しや大明神。

これらは手持ちのカルタ関係資料から拾い出したものですが、少なくとも“よみ”の競技人数とは全く関係無さそうです。恐らく他の資料(特に双六やサイコロ博奕関係)を広く探せば、カルタと無関係な「四三五六」が幾らでも見つかるでしょう(調べてはいませんが)。つまり「四三五六」は慣用句的な表現と考えた方が良さそうです。『吉原下職原』の「四三五六人」が“よみ”の競技人数を反映しているという主張は乱暴過ぎました。取り消させて頂きます。

ここで更なる脱線をお許し下さい。敢てここで、余り意味の無い『吉原下職原』を無理やり引用したのには、実は深い訳が有ります。『吉原下職原』に出る「めざしかるた」について、以前江橋先生は次の様に書かれていました。

かつて山口吉郎兵衛は、延宝九年(一六八一)の『吉原下職原』中に「めざしかるたの一から十までよみてみるに」という言葉があることを紹介して、この「めざしかるた」はカルタの種類か遊技法を意味するのではないかという疑問を提示している。この「めざしかるた」は、「手目てしめかるた」と同じく、カルタの遊技での不正(遊技の場でのカルタの切り方や配り方で不正を行う場合と、カードに傷を付ける等の不正な仕掛けを施す場合とがある)を意味するものであって、遊技法と考えるのはいかがなものかと思う。

江橋崇「「合せ」カルタの技法━━『雍州府志』の誤読解消で見えるもの」
『遊戯史研究26』遊戯史学会 2014年 (pp.36-37)

この主張に対して一言物申したい、いや間違えました。是非ともご教授賜りたい疑問点が二つ有ります。最初の疑問は、何故「めざしかるた」が“手目かるた”と同義だと主張出来るのかという点です。全く考えてもいなかった観点でしたのでビックリしましたが、例によって根拠を示さない主張です。仕方が無いので色々と考えたところ、当方が以前「めざしかるた」に関するものとして紹介した、次の雑俳に思い至りました。

『二息』元禄六年(1693)
手目くはず目指かるたのまき直し

当方は「目指かるた」は“めざしかるた”と読み、『吉原下職原』の「めざしかるた」と同じものと考えましたが、句意は全くチンプンカンプンでした。確かに先生のご主張の様に「目指かるた」がイカサマに関連するものと考えれば一応句意が通ります。しかし、この説に基づいて『吉原下職原』を読んでも(少なくとも当方には)文意が理解出来ませんので、100%賛成と云う訳にはいきません。判断は保留とさせて頂きます。
 「めざしかるた」がイカサマに関係するという先生のご主張が、当方の推測の通り『二息』の句に基づくものならば一応根拠の有る有力な仮説と認められます。しかしその当否は別にして、自ら根拠も示さずに山口吉郎兵衛氏の説を批判されるのは「いかがなものかと思う。」

もう一つ重大な疑問点が有ります。それは「手目」を“てしめ”と読ませている点です。当方はずっと“てめ”と読んでいたので強い違和感を覚えました。念の為、数種類の辞典類を調べ直しましたが、全て“てめ”であり、“てしめ”の読みは見当たりません。
 「手目(てしめ)」は先生のご著書『花札』の中でも使われており、『日本かるた文化館』にもほぼ同文が転載されています。

カルタ賭博でも同じことで、江戸時代にこういう札を手目てしめカルタ賭博とか、手目札と呼んでいた頃からずっと、博徒の裏技や詐欺札はどこの賭博にも必ずあったし、それの供給にはカルタ屋の協力が必須であった。

江橋崇『ものと人間の文化史167 花札』
法政大学出版局 2014年 p.292

“てしめ”が先生の書き間違いでは無く、勿論誤植でも無いのは明らかです。寧ろ“手目”が一般的には“てめ”と読まれている事をご承知の上で、敢えて“てしめ”と読むべきであると主張している様な印象を受けます(よね?)。
 江橋先生がご自分の主張の根拠を示さないのは毎度の事で、すっかり慣れっこに成ってはいますが、如何なる理由でそう為されているのでしょうか? 何等かの資料根拠無くして“てしめ”の語が湧いて出て来る訳など有りません。少なくとも定説と異なる主張をされるならばその根拠を示すべきです。最低限、根拠となる資料名を示すだけでも十分なのに何故それさえも頑に拒むのか、研究者のはしくれとしては全く理解に苦しみます。根拠不明の“てしめ”は当否の検証が出来ませんので、学問的な研究の対象外であり、無視されても仕方が有りません。

そもそも名だたる辞典・辞書の全てが「手目」の読みを“てめ”としているのには、当然その根拠が有ります。それは「手目」に“てめ”と読み仮名が振られている資料が幾つも有るという、余りにもベタな、否定しようの無い理由です。管見の内一番古い資料は次のものです。

『俳諧中庸姿』延宝七年(1679)
不慮の思ひあちらむく間に帰花博奕の手目テメやしれぬ浮雲

もう一点、少し時代が下りますが、カルタ資料として古くから知られたものをご紹介します。

『籠耳』貞享四年(1687)
屏風びやうぶごしの賽投さいなげ軽板かるた手目てめも。不思議ふしぎとをもへバ不思議ふしぎなり

更に時代を下れば、同様の例は幾つも確認出来ます。少なくとも十七世紀後期以降には、「手目」が“てめ”と読まれていた事は疑い様の無い事実です。江橋先生はそれを何故“てしめ”と読むと主張されるのか? そして何故理由を説明しようと為さらないのか? 謎だとしか言えません。

ところで、この“てしめ問題”について賭博関係の書籍を調べていたところ、気になる記述が目に止まりました。

・・・以上が丁半の大体ですが、当時においても、詐欺賭博が行なわれていました。これを手目賭博といいます。手目は古くてめし・・・と読まれたらしいことは前に引用した史料によって知れます。

石井良助『第三江戸時代漫筆(ばくち その他)』
井上書房 昭和38年 p.92

最初は勘違いしました。ついに“てしめ”の関連資料発見!と、ぬか喜びしたのも束の間、落ち着いて読み直してみれば“てしめ”では無く“てめし”でした。残念!!
 結局、“てしめ問題”に関する資料の発見には至らず、解決の糸口さえ掴めないのみならず、新たに“てめし問題”をも抱え込んでしまうと云う結果と成りました。トホホ・・・

さて、ここは気を取り直して“てしめ&てめし”問題に取り組む事にしましょう。お二人の主張の相違は、単に“てしめ”か“てめし”かと云う点では有りません。江橋先生は何の説明も無しに「手目」に“てしめ”と読み仮名を振っているだけですので、つまり「手目」は“てしめ”と読む(或いは、読め!)と云う主張です。一方、石井良助氏の主張は、「手目」は“てめ”と読むという事を前提として、それを古くは“てめし”と読んだと云うものであり、「手目」を“てめし”と読めと云う事ではありません。お二人の主張は似て非なるものです。

先ずは石井氏の“てめし”から検証致しましょう。
 前掲の文中に「前に引用した史料」と書かれているので、該当する部分を探したのですが、何故かそれらしき引用は見当たりません。その代わりに次の記述が見つかりました。

四代将軍のころになると、上記のような、獄門とか磔にするのは無作法者とか他の事件に関連するとかいう特殊な者に限られたようであって、ふつうは死罪または流罪でした。てめし(手目)博奕、すなわち詐欺博奕や手鎖を勝手に外した者など悪質の者は死罪になっていますが、そういう事情のない通常の博奕打は流罪になりました。

石井良助『第三江戸時代漫筆(ばくち その他)』
井上書房 昭和38年 p.80

ここにも具体的な根拠資料は示されていませんが、記述内容から推測するに、四代将軍(徳川家綱)の治世(1651-1680)の頃の、御仕置例(判例)に関係していそうです。そこで真っ先に思い当たる資料として『御仕置栽許帳』に目星を付けて調べてみた所、図星でした。

『御仕置栽許帳』宝永頃成立
  寛文九年 六月五日
壹人庄九郎 是ハ淺草田町之者、てめし博奕打之由、香車利兵衛訴人ニて、召連來ル付、穿鑿之内籠舎、
右之者、同七月十一日三枝平右衛門方え渡、死罪、
同日
壹人女 是ハ淺草田町長右衛門店庄九郎女房、夫庄九郎博奕打てめし之由、香車利兵衛訴人ニて籠舎、女房成故、穿鑿之内揚り屋ニ入、
右之女、同七月十一日松野又右衛門方え婢ニ渡ル、

文中で二回「てめし」が使われています。文の内容から見て、これが“手目”と同義のものである可能性は高いと思われます。前に揚げた『俳諧中庸姿』や『籠耳』よりも古い資料ですので、「手目(てめ)」の事を古くは“てめし”と読んだと云う主張は十分に信憑性の有る仮説だと言えます。但し、管見ではこれが“てめし”に関する唯一の資料ですので、確定するには更なる検証が必要でしょう。又、文章の解釈として「てめし」は“手目をして”の意味に取れなくも無いと思うのですが、如何でしょうかね?

一方、江橋先生の“てしめ”の方に関しては根拠は勿論の事、手掛かりさえも全く有りませんので検証の仕様が有りません。この問題は、我が国の賭博史における基礎的な認識に係わる問題です。先生はカルタ研究のオーソリティーであると同時に、法制史学の専門的な研究者ですので、何等の根拠も無しに無責任な主張をされる筈は有りません。古今の辞典・辞書の編者の見解を覆すに足る根拠が有る筈ですので、是非ともお示し頂きたいと願います。もしも今後も根拠を示され無いならば、検討に値しない妄言として扱うしか有りません。

・・・という事でケリをつけたい所ですが・・・何かモヤモヤしませんか? 私はとてもモヤモヤしています。全く根拠の無い妄想が、頭から離れないのです。
 もしかして、もしかしてですよ! 江橋先生は、石井良助氏が示した“てめし”を、“てしめ”と勘違いされているのでは? いや、まさかねえ~、でも絶対に無いとは言えませんよね。人間だもの。
 とにかく江橋先生には、当方の無礼な妄想を一蹴して頂くべく、“てしめ”の根拠を示してこのモヤモヤを晴らして頂きたいと切に願う次第です。

さて、本題に戻るとしましょう。“よみ”の競技人数と手札の枚数について考えていた途中でしたね。
 “よみ”が四人競技以外の場合でも、使用する札は三十七枚であったと仮定すれば、「六まひ」とは六人競技の場合の手札の枚数だと考えられます。つまり六人×六枚=三十六枚で、残った一枚が“死絵”と成り、四人の場合とほぼ同じルール(一部の“役”は排除するか、条件の変更が必要ですが)で競技が可能です。又、三人競技の場合は手札十二枚ならば、三人×十二枚=三十六枚と“死絵”一枚で同じく問題有りません。五人競技の場合には手札七枚で、五人×七枚=三十五枚と二枚余ってしまいます。この二枚の“死絵”の扱い方を規定する必要は有りますが、それ以外はほぼ同じルールで競技出来ます。
 “よみ”は参加人数によって、使用する札の枚数を増減させるのでは無く、各自の手札の枚数を増減させるので有ろうと考えてはいましたが、『教訓世諦鑑』の「九まひ六まひの数を以て」の記述はそれを裏付けるものです。但し、何故「九まひ」と「六まひ」だけしか書かれていなのかと問われれば、明確にお答えは出来ませんが、主に手札“九枚から六枚で”行うと云う意味に解しておきましょう。

③“合せ”について

二と二とを、合せ五と五とをあハせ、次第/\に、其かずに合せて、しやうぶをなすをバ、あハせ哥留たと云ふ。

これも極めて簡潔な記述であり、この文章のみから技法の全体像を窺い知る事は不可能ですが、“同じ数の札を合せる”という基本原理は明解に示されています。ある程度江戸カルタの遊技法についてご存じの方ならば、これが“めくり”の基本原理と良く似ているという事に異論を唱える方はいないでしょう。よって当方は“合せ=めくり系技法説”の重要な根拠と位置付けました。
 “合せ”に関しては、江橋先生からのご批判にお答えする時に詳しく触れる事に成りますので、今はこれ以上あれこれ言うのは避けます。

ところで、“長半カルタ(仮称)”は別として、ここでカルタの代表的な遊技法として“よみ”と“合せ”とが説明されているのは重要だと考えます。

カルタ技法は大きく二つに分類出来ます。一つは比較的単純なルールで、勝敗はほぼ偶然に左右される、賭博性の強いタイプです。メジャーな技法としては“かう”“三枚”“きんご”等がこれに当たります。尚“長半カルタ(仮称)”もこれに属するでしょう。
 もう一つは比較的複雑なルールで、勝敗が競技者の技術・戦略に左右される割合の大きい、遊技性の強いタイプです。“よみ”“合せ”“めくり”“てんしょ”“元ウンスン”等がこれに相当します。このタイプの内で江戸前期に圧倒的な人気を誇っていたのは“よみ”であり、それに次ぐのが“合せ”です。
 貞享三年(1686)京都版『雍州府志』で遊技法の説明が有るのは“よみ”と“合せ”の二つです。又、地域は異りますが同年の江戸版『鹿の巻筆』にも「讀の、合せの、かうなどゝいふ事」と併記されています。享保六年(1721)大坂版の『教訓世諦鑑』は少し時代も下り、地域も異なってはいますが、やはり“よみ”と“合せ”です。更にその後、明和期(1764-)に“てんしょ”や“めくり”が登場する迄の時期の資料に見られる遊技性の強いタイプのカルタ技法で、或る程度まとまった数が確認出来るのは“よみ”(圧倒的多数)と“合せ”の二種のみです。これらの資料状況を素直に解釈するならば、十七世紀後半から十八世紀中頃迄は、京でも江戸でも大坂でも、“よみ”と“合せ”とがカルタの中心的な遊技法であったと考えて間違い無いでしょう。執中堂西山はそれを正しく認識しています。

さまざまの品ありと、云へとも、委しく記すに、及ばず。

この部分の解釈にはかなり悩みました。浅学素人の悲しさ、「委しく記すに、及ばず」をどの様に解釈すべきかが良く解りません。
 最初に思い浮かんだのは“(他にも)様々な技法が有る様だが、(自分は良く知らないので、これ以上)詳しく記す事は出来ない”という読み方です。そもそも執中堂西山の様な“堅物”が日常的にカルタに親しんでいて、当時の様々な技法を熟知していたとは考えられません。
 一方“~に及ばず”には、“~しても意味が無いので、敢てしない”というニュアンスの用法も有ります。例えば織田信長が本能寺の変の際に言ったとされる「是非に及ばず」もこの用法でしょう。この用法を採れば“(他にも)様々な技法が有るが、(それらについて)詳しく書く意味は無い(のでしない)”という意味に解釈出来ます。
 どちらの解釈が妥当なのか判断に苦しみましたが、この後に続くサイコロ賭博の部分の末尾の記述「其しな又、さま/\゛ありて、しろうとの、知りがたき、事なり。」という記述が大きなヒントと成りました。両者は似てはいるものの、意味の違いは明白です。
 サイコロの方では具体的な技法の説明が無い事からも“これ(サイコロ)にも様々な技法が有るが、素人(の自分)には知ることが難しい”と一義的に理解出来ます。これに対しカルタの方は三種の技法を簡単に説明していますので、“(他にも)様々な技法が有るが、(それらについて)詳しく書く意味は無い(のでしない)”という意味に解する方が自然かと思われます。

カルタ技法についてはここ迄ですが、最後に検討しておきたい問題は、執中堂西山のカルタ遊技法に関する記述の情報源、ネタ元は何か? という点です。
 カルタの遊技法について具体的な解説がされている資料で、『教訓世諦鑑』以前のもので現在迄伝わっているのは『雍州府志』のみです。執中堂西山が『雍州府志』を知っていた可能性は有りますが、少なくとも『雍州府志』の記述を元にしたとは考えられません。共に“よみ”と“合せ”とを採り上げていると云う共通点は有るものの、例えば“よみ”に関しては「九まひ六まひの数を以て」という独自の情報を示していますし、“合せ”に関しては、その基本原理を「合其紋之同者(その紋の同じきものを合せ)」では無く、「二と二とを、合せ五と五とをあハせ」つまり同じ数を組み合わせると明確に示しています。更に、何と言っても“長半かるた(仮称)”という独自の情報を示しています。
 『雍州府志』以外の、現在では知られていない資料に拠る可能性も無いとは言えませんが、その場合には“『○○○』に云う”と、出典を明らかにするのが当時の慣例です。他書の引用は自身の博識を誇示し、自説に箔を付ける事に成りますので積極的に示すべきものです。何等の引用を記していない『教訓世諦鑑』のカルタ記事は、『雍州府志』や他のかるた資料に拠るものでは無く、享保初期の大坂に於ける独自の見聞による知識を記したものと考えられます。

公開年月日 2020/12/31

(二)サイコロ賭博

続いてサイコロ賭博や、その他の賭博について書かれている部分を読んで行きます。

当方の主たる研究テーマはカルタですが、実はその他の賭博技法についてもちょっと関心を持っていてちょこちょこと調べています。今回『教訓世諦鑑』を賭博史研究の視点からじっくりと読んで見ると、これが中々面白いんです。勿論、カルタ以外の諸賭博の研究は余技に過ぎず、殆どド素人の域を出るものでは有りません。以下の考察も浅い知識に基づく、ほんの思いつき程度のものとご承知置き下さい。

爰に又、象牙の、四分四方なるものに、一より六までの、目を付て、さいと名付。二つ三つ四つ六つ等の数をもつて、なげこかして、其目の多少を見て、勝負をする。

ここからサイコロ賭博の説明に入ります。カルタに比べると簡単な内容ですが、幾つか興味深い記述が有ります。
 先ずサイコロの材質が象牙だという事。当時ワシントン条約は有りませんので、もしかしたら象牙は現在よりも入手し易かったのかも知れませんが、100%舶来品ですのでかなり高価な素材であったのは間違い有りません。にも拘らずサイズが「四分四方(約12mm角)」て、以外と大きいですよね。想像するに彼が実見したのは、当時高級遊具と化していた盤双六のセットの付属品のサイコロだったのでは無いでしょうか。盤双六の駒やサイコロに象牙を素材としたものが有る事は確認されています。
 しかし、当時の庶民が普段博奕に使っていたサイコロは、仮に象牙製だとしたらもう少し小型だったと思われますし、一般的にはもっと廉価な素材が使われていたと考えられます。不勉強の為全くの想像に過ぎませんが、例えば鹿や牛の角とかは有りそうですかね。或いは、白の碁石の様にハマグリ等の大型の貝殻はどうでしょうか。この件に関しては、何れ機会が有れば(と言うか、気が向けば)詳しく調べてみようと思います。

ここでちょっと気になる事が有ります。サイコロについては材質や形状や目の構成を説明しているのに、何故カルタに関してはその材質や形状、札の絵柄の構成等について全く触れていないのかという点です。想像を膨らませば、当時の主な読者層である健全な一般庶民の中にはサイコロの実物を見た事が無い者がかなり存在したか、少なくとも執中堂西山はその様に認識していたので詳しく説明したとも考えられます。もしもそうならば、カルタは誰もが良く知っている見慣れた存在であり、その材質や形状まで細かく説明する必要は無いと考えたのかも知れません。

サイコロ賭博の遊技法に関する記述は、残念ながら大雑把過ぎて良く解りませんが、それでも幾つか興味深い記述が有ります。
 サイコロ賭博には「二つ三つ四つ六つ等の数」で行う様々な技法が有った様です。“五つ”が抜けていると言うか、敢て“五つ”を抜いているのには何か理由が有るのでしょうか。“五つ”のサイコロを使う技法は存在しなかったと確信しての記述とも思われません。又、江戸前期の資料に最も頻繁に見られるサイコロ賭博である“ちょぼ一”はサイコロ“一つ”使用ですが、何故か省かれているのが不思議です。
 「なげこかして」とはサイコロを手に握り、場に放り出すという事でしょう。後の“長半(丁半)賭博”でお馴染みの壺皿は、当時はまだ使われていなかったか、少なくとも一般的では無く、手で振り出す方法が主流だった事が窺われます。
 サイコロ賭博には色々な種類が有ると認識していた事は、後の部分で「其しな又、さま/\゛ありて」と書いている事から明らかですが、残念ながら技法の名称も、具体的なルールも示されていません。遊技方法に関する唯一の記述としては「其目の多少を見て、勝負をする。」と有るのみです。文面を文字通りに受け取れば、目数の合計の多少によって勝負を決するという事に成りますが、それでは当時流行していた“ちょぼ一”や、後に大流行する“長半”のルールには合いません。ここは余り厳密に解釈せずに、“サイコロを振って出た目の数で勝負をする”と云う程度の広い意味に理解した方が良いのかも知れません。

もと此さいハ、双六より出て、金銀のしやうぶも、さまでのことにハ、ならざるを、かくのごとく、品をわかつて、勝負彼(かの)かるたに倍し、過分のかちまけありと云へり。

「もと此さいハ、双六より出て」つまりサイコロ賭博は双六から独立して成立したと云う見解は、今日でも常識的な認識であり、妥当なものと思われます。
 ここで言う「双六」は、今も子供の遊びとして残る“絵すごろく”の類では無く、“盤双六”又は“本双六”とも呼ばれるものです。我が国には遅くとも奈良時代迄には伝来し、古代から中世には最も代表的な博奕だったと考えられ、“博奕打ち=双六打ち”と云うイメージが有ります。江戸時代にもそこそこ行われていた形跡は有り、特に江戸初期には賭博の範疇として認識されていた事は資料的にも裏付けられます。しかし江戸中期以降では賭博技法という印象は薄く、寧ろ中流以上の、しかも主に女性の嗜みというイメージを受けます。ちなみに、大名クラスの武家の婚礼調度にしばしば含まれる“三面”とは“碁盤”“将棋盤”“双六盤”の三種の遊戯盤の事です。
 遊技法については簡潔に説明するのは困難であり、どうしても冗長になってしまうので(本音を言えば面倒臭いので)興味の有る方はお手数ですが各自でお調べ下さい。もしもバックギャモンをご存じでしたら殆ど同じものと思って頂いて差し支え有りません。

「金銀のしやうぶも、さまでのことにハ、ならざるを」が少し解り辛いですが、当時の双六は中世の様にそれを生業とし、負ければ身ぐるみを剥がれる様な過激な賭博では無く、たとえ金銭を賭けた勝負にせよ通常はそれ程高額の勝負では無かったという意味と思われます。それが「かくのごとく、品をわかつて」つまりサイコロ賭博が独立した結果、双六を凌ぐ過激な賭博と成り、しかも「勝負彼かるたに倍し、過分のかちまけありと云へり。」と、かのカルタ賭博に倍する程の掛け金を遣り取りする賭博に成っているという事でしょう。勝ち負けの金額の大きさという観点では、彼の認識としては“サイコロ(高)>カルタ(中)>双六(低)”という事でしょう。

其しな又、さま/\゛ありて、しろうとの、知りがたき、事なり。

と正直に述べていますが、恐らくその通りだったのでしょう。詳しい説明が出来ない事に対する一種の言い訳では有りますが、執中堂西山は知らない事は正直に知らないと言える誠実な著述者ですね。カルタについての部分でも「さまざまの品ありと、云へとも、委しく記すに、及ばず。」と、似た様な事を言っていましたが、その割には結構詳しく技法の説明をしています。前に述べた通り、カルタに関しては或る程度の知識は有るものの、必要最小限の説明に止めたものと考えられますが、サイコロ賭博の技法に関しては本当に良く知らなかったのでしょう。しかし賭博の害悪を述べるのに、数多有る賭博技法の詳細を知らなくとも別に恥ずべき事では有りません。逆に、サイコロの様な玄人博奕に余りにも詳しかったりしたらかえって不自然でしょう。

一つ指摘しておきたいのは、恐らく彼はサイコロの長半賭博を知らなかったであろうという点です。もしもちょっとでも聞き及んでいたならば、自身の書いたカルタ技法との類似性に気付かぬ訳は有りません。何等の言及も無いのは、彼がサイコロの長半賭博の事を良く知らなかった為と考えられます。そうだとすれば“せめて長半博奕ぐらいも知らない様では、賭博についてあれこれ語る資格は無いのでは?”と云う疑問を抱かれる方もいらっしゃるかも知れません。この批判が妥当なものかどうかを検討します。

テレビの時代劇で画かれる賭博のシーンの殆どは長半博奕の場面であり、現代人が江戸時代の賭博として真っ先に思い浮かべるのは間違い無く長半博奕でしょう。では江戸時代の人々の間での知名度はどうだったのでしょうか。時代を追って検討しましょう。
 長半博奕がいつ頃誕生したかを知る術は有りません。サイコロ自体は遅くとも奈良時代迄には伝来しており、 偶数・奇数は陰陽思想に通じるものですのでこれも古くから存在した概念です。よって長半博奕がかなり古い時代に誕生していた可能性は無いとは言えませんが、いかんせん記録が有りません。
 13世紀(鎌倉時代)には“目増”“四一半”“七半”という名称のサイコロ賭博の存在が記録されています。“四一半”“七半”が長半博奕の類だという説(宮武外骨等)が有りますが、明確な根拠が不明の為、今は採りません。確実に長半博奕と考えられる資料の登場は室町時代になってからです。

『松井本太平記』十四世紀後期
 三三 新田左兵衛佐義興自害事
調半等の様々の博奕を、夜昼十余日までぞしたりける

時代は跳びますが、江戸幕府成立の直前の刊行である『日葡辞書』に次の記述が有ります。

『日葡辞書』慶長八年(1603)
Chofan. チョウハン(重半) 偶数と奇数と。¶ Cho-fanni caqete suru.(重半にかけてする)偶数〔丁〕と奇数〔半〕を争う勝負事をする。

サイコロとは明示されていませんが、恐らく長半博奕である可能性は高いでしょう。『日葡辞書』の編者の目に留まった、或いは耳に入ったのですから、当時の上方でそこそこは広まっていたものと想像されます。ところが何故かこの後江戸時代前期、具体的には18世紀前半迄は長半博奕に関する資料が殆ど見当たらず、管見では18世紀半ばの『歌枕棣棠花合戦』(延享三年)や『華頂百談』(延享五年)が最初期のものです。

『歌枕棣棠花合戦』延享三年(1746)
賽に取ツてハ三つぼつぼ見たならござれな■ならござれびりがけ長半、ちよぼ、さいがう、
『華頂百談』延享五年(1748)
女まじりに。よミの。あハせのとて。二月三月迄毎夜の遊び。親のすることなれハ。其子なんぞ。悪事こと。おもはんよミがこうじて。長半ちよぼ一になるハ。はるうちのことなり

勿論、よく探せば江戸時代の“長半”に関するこれらよりも古い資料も必ず見つかるでしょうが、絶対数としてはさほど多いとは思えません。その時代のサイコロ賭博で最も多く記録されているのは“ちょぼ一”です。一方18世紀後半に成ると、長半博奕は様々な文芸資料にも頻繁に登場する様に成ります。この様な資料状況を鑑みれば、長半博奕が流行し、サイコロ賭博の代表格に成ったのは18世紀後半だと推測されます。
 で、結局何が言いたいのかと云うと、18世紀前半の『教訓世諦鑑』の時代に長半博奕が存在していたのは間違い無いにせよ、少なくとも当時の人々に広く知られている様な有名な賭博では無かったという事です。従って執中堂西山がそれを知らなかったとしても、不思議でも不自然でも無いという事です。

当時の諸資料を見る限り、この時期にカルタ遊技がかなり流行していたのは疑いようが有りません。賭けを伴わない純粋な遊戯としてや、正月松の内の少額のカルタ賭博も含めれば、身分や年齢性別に係わらず広範に愛好されていたと考えられます。市井の知識人である執中堂西山自身も競技を実見する機会が(もしかしたら自身が参加した経験も)有り、或る程度の知識が有っても不思議では有りません。
 一方、サイコロ賭博も広く行われてはいたものの、そもそも賭け無しでの遊技など考えられない純粋な博奕です。執中堂西山も「しろうとの、知りがたき、事なり。」と言っている様に、サイコロ賭博は“玄人賭博”だったと考えられ、愛好者の主体は下級階層の無頼漢と、せいぜい中級以上の階層のドラ息子といった所でしょうか。何れにせよ健全な一般市民が日常的に行う類のもので無かったのは間違い有りません。そもそも博奕(特にサイコロ賭博)は、江戸前期には死罪に処せられる事も有る重大な犯罪行為でした。『教訓世諦鑑』が執筆された享保初期は、賭博に対する量刑が大幅に軽減されてきた時期ではありますが、何れにせよ天下の御法度である事に変わりはありません。執中堂西山としても実見(勿論、自身が参加したり)する機会など殆ど無かったと思われますし、その性格上、常習者にインタビューしてもペラペラ話してはくれないでしょう。彼が詳細な情報を知り得なかったのも仕方の無い事です。

(三)その他の賭博

或ハ銭をもつて。数をかぞへて、しやうぶを、するを、けんねいじと云ひ、何子(なんご)など云ふ。

次に「けんねいじ」或いは「何子(なんご)」という、江戸時代にはかなりポピュラーだった小バクチについて触れています。
 名称は“けんねいじ”“けんねんじ”“けんねじ”或いは“なんご”“なんこ”“なご”等と、時代や地域によって様々ですが、当方の印象では“なんこ”が最も多く、次いで“けんねんじ”を多く目にする様に感じますので、以下の説明では一般名として“なんこ”を使用します。
 執中堂西山は「けんねいじ」「何子(なんご)」と両系統の名称を示しています。“けんねんじ”と“なんこ”とが同系統の遊技である事は様々な資料から推測されてはいますが、それらがほぼ同一の技法の単なる異称なのか、或いは明確に区別出来る、何等かの技法上の違いが有るものであるのかは断定されていないと認識しています。『教訓世諦鑑』の記述からは、少なくとも享保初期の大坂では同じ技法の別称と認識されていた事が窺えます。

執中堂西山による“なんこ”の遊技法の説明は「銭をもつて。数をかぞへて、しやうぶを、する」だけです。これ又簡潔過ぎると言うか、“なんこ”の事を全く知らない読者が読んだならば、何を言っているのかさっぱり理解出来ないであろう文章に成っています。もう少し別の書き様も有ったのではとは思いますが、それでも彼が“これで良し”とした理由を考えねばなりません。その為には“なんこ”の遊技法を知っておいて頂いた方が都合がいいので、簡単に説明しておきましょう。但し“なんこ”の遊技法には様々なバリエーションが有りますので、以下の説明は最大公約数的なものだとご承知下さい。

  1. 参加人数は2人から5人程度迄。
  2. 必要な道具は、握りこぶしに数個が収まる小さな物体(一文銭、碁石、小石等、何でも良し)を、各自に数個づつ。
  3. 各自、他の競技者に分からない様に任意の数を手に握り前に出す。
  4. 参加者全員の手の内の合計数を予想し、順番に発表する。
  5. 全員こぶしを開き、合計数を当てた者がいれば勝者と成り、掛け金を得る。

大体のルールをご理解頂けましたら、再度「銭をもつて。数をかぞへて、しやうぶを、する」という説明を読んでみて下さい。どうでしょう、先程よりは意味が通じるのでは有りませんか? つまり、ここでも読者が“なんこ”を知っている事を前提にしているという事です。江戸時代に於ける“なんこ”の知名度はかなり高かった印象が有ります。現代の遊技に例えるならば、“あっち向いてホイ”あたりが適当でしょうか。皆さん勿論ご存じですよね。
 突然ですが、ここで皆さんに一つ課題をお出しします。
 “あっち向いてホイ”を全く知らない人に対して、そのやり方を文章で説明してみて下さい。制限時間は5分とします・・・どうでしょう、結構大変ですし、どうしてもかなり長ったらしい文章になりますよね。
 次に、なぞなぞを一つお出ししますので解いてみて下さい。
“人差し指を上下左右に動かして、同じ方向を向いたら勝ちになる遊びはなーんだ?” 恐らく大部分の方が「あっち向いてホイ!!」と瞬時にお答えになるでしょう。しかし、例えば江戸時代の人々や、或いは数百年後(“あっち向いてホイ”が消滅しているならば)の人々にとっては、このなぞなぞの言葉から遊技の内容を正確にイメージするのは困難でしょう。逆に、内容を知っている人に対しては大雑把な説明でも伝わります。
 同様に“なんこ”を知っている人に対しては「銭をもつて。数をかぞへて、しやうぶを、する」という必要最低限の説明で十分に伝わるという事であり、執中堂西山が『教訓世諦鑑』の読者として想定しているのはその様な人々です。

尚、“なんこ”は特別な用具を必要とせず、身の回りの品を使って何処でも簡単に始められる手軽な博奕です。ちなみに『博奕仕方』の「なんこ仕方」の項に「往来歩行之節も出来候博奕に御座候(道を歩きながらでも出来る博奕です)」という一文が有り、何と“歩きスマホ”ならぬ“歩きなんこ”が有った様です。この様な手軽な博奕ですので、わざわざそれを目的として集まってする様なものでは無く、主に暇つぶし、時間つぶしの為に行われるものであり、しかも殆どは掛け金も少額の“小バクチ”という印象が強いです。“なんこ”によって刑罰を受けた例は知りません(有るかも知れませんが、レアケースでしょう)。

双六、おりは、宝引、の類ひまで、金銀銭をもつて、勝負をなすときハ、皆博奕と云ふべきなり。

続いて「双六」「おりは」「宝引(ほうびき)」三種が揚げられていますが、前記の「カルタ」「サイコロ」「なんこ」とは扱いが少し違います。「金銀銭をもつて、勝負をなすときハ、皆博奕と云ふべきなり」つまり執中堂西山の認識では、これら三種は純粋な賭博技法とは言えないにせよ、金銭を賭ける場合は立派な賭博だと云う事であり、金銭を賭ける場合と賭けない場合が有ったという事です。逆に「カルタ」「サイコロ」「なんこ」の三種は常に賭けを伴う純粋な賭博だと認識していたと理解されます。

「双六」に関しては既に説明しました。「おりは」は“折葉”“折羽”“下端”等と様々に表記されますが、双六盤と双六用の駒・サイコロを用いる遊戯で、これもバックギャモンをご存じならば終盤のベアリングオフを独立させたものに近いとお考え下さい。江戸時代の資料には頻繁に見られる遊戯ですが“本双六”と同様に今では絶滅した遊技です。江戸期の資料での扱われ方は主に子供向きの遊戯という印象であり、賭博と結び付くイメージは殆ど有りませんが、これとて金銭を賭けて遊べば立派な賭博であるという事でしょう。実際に賭博として行われる場合が有った事を窺わせる貴重な証言です。
 「宝引」も今やほぼ絶滅した遊技です。ご存じ無い方が多いと思われますし、江戸時代の賭博を語る上で欠かす事の出来ない重要な技法の一つですので少し詳しく説明します。
 宝引は一言で言えば、数本から数十本の紐を使ったくじ引きであり、様々なバリエーションが有りますが、大きくは二種類の形式に別けられます。
 一つは、紐の一方の端に様々な景品を結び付けておき、紐の他方の端を競技者に引かせて引き当てた品物を取らせるというものです。このタイプは主に大身の武家や商家で正月の娯楽行事として行われるもので、言わば家臣や奉公人へのお年玉の様なものです。景品の価値の当たり外れは有るものの、賭博的要素は有りません。
 もう一つは、一本の紐だけ端に当たりの目印となる物を結び付けておき、それを引き当てた者に賞品を与えるというものです。賞品と言っても多くの場合は金銭であり、参加者からは少額の賭け金を取りますので、実質的には賭博に他なりません。尚、このタイプの宝引は主に正月の女性の遊び(男姓陣は主にカルタ)として行われていた様です。

宝引はカルタの資料を探していると、かなり頻繁に一緒に見掛ける賭博技法で、所謂『慶安の御触書』として知られているものにも「はくち(サイコロ)」「けんねんし」「かるた」と共に「ほうひき」が揚げられています。

『江戸町触 慶安元年』慶安元年(1648)
一、前々より被仰付候はくち、ほうひき、けんねんし、かるた、何にても諸勝負堅仕間敷事

ちなみにこれは『慶安の御触書』として教科書にも載る程良く知られているものですが、近年の研究によれば慶安元年に発布された事を証明する記録は無く、元禄十年(1697)に甲斐国甲府藩領で発布された“農民教諭書”がオリジナルだという説が有力な様ですね。
 他にも多くの法令資料で賭博として禁止されている「宝引」を、「カルタ」「サイコロ」「けんねいじ(なんこ)」と同格の立派な賭博と認定しても良さそうに思うのですが、何故ワンランク下の分類に入れたのでしょうか?
 理由としては、前に紹介した様に賭博とは言えないタイプの有る事、他の賭博と違ってほぼ正月松の内の間に限って行われるものである事、一回の賭け金が概ね少額である事等が考えられます。お上もこの程度は“慰み”としてお目こぼし(見て見ぬふり)をしていた様であり、実際当時の御仕置例を見ても、宝引で厳罰を受けた例は(多分)殆ど有りません。執中堂西山も同様の認識だったのでしょう。

少し後の部分(六オ)で“賭け碁”についても言及しています。囲碁自体については「圍碁(いご)ハ、仙家(せんか)の、もてあそびにして」と、基本的には高尚な遊技だと認めつつも、

かく、ゆたかなる翫(もてあそ)びも、金銀の勝負莫大にして、下品(げぼん)の行迹に、おちいる時ハ、壱銭弐銭のよミ、かるたも、五もく壱銭の、かけ碁も、面角すじをいらゝげ、血まなこに成と。勝負をあらそひ、後にハ身上の、つりがへとなる時、いかんぞ、博奕の名遁るべき。

と、「ゆたかなる翫び」である囲碁でさえも、金銭を賭けた勝負ならば例え少額にせよ賭博に他ならないと断罪します。常識的に考えて当時賭け碁が有ったのは間違え無いでしょうが、「五もく壱銭の、かけ碁」と具体的なレートの例が示されている点に強いリアリティーが感じられます。
 これが賭け将棋ならば、一局の勝負の勝ち負けに対してズバリ幾らという設定に成るでしょう。一方、囲碁の場合は単に勝ちか負けかだけでは無く、目差によって勝ち負けの金額が変動するというルールはいかにも有りそうです。少なくともこれは執中堂西山の想像による創作では無く、彼の見聞に基いた記述であるのは間違い無いでしょう。これは江戸前期の賭け碁の実態を示す貴重な情報だと考えます。
 ところで、文脈から考えれば「五もく壱銭」といのは当時の平均的なレートという訳では無く、最低のレートなのでしょう。五目の差につき一銭(=一文=20円程度)では、例え圧勝しても子供の小遣い銭程の金額にしか成りません。せめて“五目で十文”とか“一目で十文”位でないと賭け事としてのスリルは無いと思われますし、実際には往々にして「金銀の勝負莫大に」成る事も有ったと想像されます。彼が訴えたいのは例え「五もく壱銭」程度の低いレートにせよ、金銭を賭ける限り賭博である事に違いは無いという事でしょう。

就中、さい哥るたの二品ハ、下品(げぼん)の悪勝負なるによつて、中人以下のもの、過分の勝負をなして、身をほろぼし、家職をやぶるに至る。

ここ迄に幾つかの賭博技法を挙げて来ましたが、執中堂西山の認識としては、中でも「サイコロ」と「カルタ」は「過分の勝負をなして、身をほろぼし、家職をやぶるに至る」最も目に余る悪質な類であると云う事であり、彼自身、実際にその様な実例を目にしていたのかも知れません。彼が「博奕」の項の冒頭に「カルタ」と「サイコロ」を挙げたのも頷けます。

(四)「覚人」「大一」について

執中堂西山はここ迄、当時行われていた様々な賭博を論じて来ましたが、この後の彼の論点には微妙な変化が感じられます。

然るに今どき、世間にます/\、此類ひおゝく、胴(どう)とやらん名付て、金銀の元をするもの所々に徘徊し、其類ひを会して、勝負をなす。西国にも、東国にも、北陸にも、南陽にも、これを覚(かく)人となづけて、ばくえきの一道の達者とし、商人などの、躰にもてなし、竊(ひそか)に旅宿をもとめ、其類族をつのる 。

冒頭の「然るに今どき」からハッキリ分かる様に、ここからは彼が『教訓世諦鑑』を執筆した享保初年頃の最新の賭博事情について記述したものです。勿論ここ以前の記述を見ても、過去の文献の引き写しらしき部分は一切見当たりません。『教訓世諦鑑』は基本的に彼自身の取材に基づいた同時代の記録と考えて良いでしょう。執中堂西山はジャーナリストです。

“覚人(かくじん)”は大変興味深い記述です。この時代に賭博を生業とする、後世の博徒の様な者が存在したという発想すら有りませんでしたし、“かくじん”という名称自体も初耳でした。恐らく賭博関係の研究書の類でも今迄殆ど採り上げられていないのでは無いでしょうか。
 早速“かくじん”について調べて見たものの、不思議な事にかの『日本国語大辞典』では表題語として採用されていません。極めて特殊な語なのかと思いましたが、調べを進めると『江戸時代語辞典』(潁原退蔵著 尾形仂編 角川文芸出版)に見つかりました。但し漢字表記は「覚人」では無く「闕人・膈人」と成っていますが、同じものであるのは間違い無いでしょう。

かくじん【闕人・膈人】 ばくちうち。博徒。『吉原失墜』に「かく人ばくちうちなり。かくのわづらいは飲めばはくやまひなり。ばくち打も勝ちてまた負くるゆへにかく人といふ」とあるように、胃病の人は飲めばすぐに吐くということにたとえたもの。「有がたや観世音、八旬あまりのかく人(じん)と現じ、告てのたまはく」〔露休置土産・三〕「、世中に闕人(かくじん)男だてといふ異名あり、かく人と云は博奕(ばくゑき)のみ業としてけり」〔子孫鑑・中〕

又、『角川古語大辭典』(中村幸彦他編)にも同様の語釈と共に、多くの用例が紹介されています。両辞典に載る用例を、書名と成立年のみ年代順に列記しておきます。
 『子孫鑑』寛文十三年(1673)・『吉原失墜』延宝二年(1674)・『御当代記』天和三年(1683)の条・『小夜衣』元禄二年(1689)・『男色哥書羽織』元禄十七年(1704)・『露休置土産』宝永二年(1705)・『四民乗合船』正徳四年(1714)・『赤本智恵鑑』明和七年(1770)・『軽口咄』享和三年(1803)
 何と『男色哥書羽織』と『露休置土産』の二点は以前から江戸カルタアーカイブに収録していた資料でしたが、“かくじん”に関しては全く意識していなかったので見落としていた様です。そこで改めてアーカイブを検索し直してみたところ、新たに次の二点の資料が見つかりました。

『大織冠』正徳三年(1713)
にげんとすればかく人をつかくかねてたくみしことなれば。又ひらよみにまきなをし。五したに打きりつんばねあざばねにぎりのそろでぞ勝たりけり。
『色里新迦陵頻』享保初年頃(1716-)
其外かるたのよしあしに付後日の為のかくじん奉公、まけ状のおもむきくだんのごとしと、ぜにさし斗をなげいだす。

何の事は無い、“かくじん”は初見では無く、以前から何度も目にしていたのに気に留めていなかっただけの事でした。
 これら“かくじん”の用例を見ますと、全体として江戸前期のものが多いのが目に付きますが、中には明和や享和の用例も有る様に江戸後期に至る迄通用していた語だった様です。後期に少なくなったのは、ほぼ同義の“博徒”等の呼称が広まった為かも知れません。
 これらの用例から“かくじん”が“博奕打ち・博徒”の意である事は明白ですが、その実態について具体的に示されているのは『教訓世諦鑑』のみです。その記述から“かくじん”の実態について、想像も交えて考えて見ましょう。

「胴とやらん名付て、金銀の元をするもの」つまり所謂“胴元”ですね。“かくじん”は昔の西部劇に出て来る様な一匹狼的なギャンブラーでは無く、賭博の胴元を引き受けてテラ銭を稼ぐという、わりと地味で堅実な稼業だった様です。
 そもそも純粋に運のみによって勝敗が決まる種類の賭博で、確実に利益を上げる方法は二つしか有りません。一つは手目(イカサマ)的手段を使う事です。うまく行けば荒稼ぎが可能ですが、もしも発覚すれば命取りと成ります。この場合の“命取り”は比喩的な意味では無く、文字通り命の保証は有りません。さんざん痛め付けられた後、簀巻きにされて川に放り込まれるでしょう(想像ですが)。手目はハイリスク・ハイリターンですが、リスクの方が余りにも高いのでお勧めは出来ません。
 確実に利益を上げるもう一つの方法は、賭博自体には参加せずに胴元になって寺銭を稼ぐ事です。“パチンコで確実に儲けたいならば、パチンコは打たず、パチンコ屋を経営せよ”という格言が有る様に(有りませんが)、実際のところパチンコに限らず競馬、競輪から宝くじに至る迄、確実に儲かるのは胴元だけです。小規模な賭博の場合には一度に大きな利益は望めませんが、確実に寺銭を稼ぐ事が出来ます。勿論江戸時代を通して賭博はご法度、つまり重大な犯罪行為であり、しかも胴元は賭博の参加者よりも重罪ですのでかなりのリスクを伴う稼業です。では、リスクを最小限に抑えるにはどうしたら良いでしょうか。続く文章にヒントが有ります。
 「所々に徘徊し、其類ひを会して、勝負をなす。」つまり“かくじん”は後の博徒の様に決まった場所に賭場を開帳し、親分格と数人の手下によって組織的に運営されるのでは無く、一人で(複数の場合も有るか?)諸国を徘徊した先々で素人衆を誘い込んで博奕を開催したのでしょう。
 固定した賭場の開帳には常連客が集まり易いというメリットは有りますが、当局によって検挙される危険性が高いというデメリットも有ります。その点、諸国を徘徊しながらの開帳ならば、検挙される危険性は格段に下がります。
 「商人などの、躰にもてなし、竊(ひそか)に旅宿をもとめ、其類族をつのる 。」と、その風体はいかにもそれと判る胡散臭いものでは無く、堅気を装って行動するというのも賢い手です。商用で旅する商人といった体を装って旅籠に宿を取り、同宿の者を言葉巧みに博奕に誘い込むのでしょう。宿場の旅籠を一夜の賭場とし、翌日にはさっさと移動するので捕まる危険性は低いでしょう。勿論、宿屋側としては博奕が行われている事には気付いていたにしても、一夜だけの事ならば、当局に通報して面倒なイザコザに巻き込まれるよりも黙認するのが得策だと考えた事でしょう。或いは、もしかしたら“かくじん”が儲けの一部を旅籠屋に還元する様な関係にあったのかも知れません。

ところで“かくじん”が主に行っていた賭博の種類は何だったのでしょうか? 一番有りそうなのはサイコロ博奕でしょうが、カルタも十分に有り得ます。
 現代でもグループ旅行にトランプを持参する事は普通に有るでしょうし、たまたま旅先で知り合った人とトランプ遊技に興じる事も有るでしょう(これは昭和の常識で、今は無いのか?)。しかし、もしもそこでサイコロを取り出したならば、思いっきり引かれるのは確実です。江戸期に於てもサイコロは純粋な賭博用具ですので、旅の途中で見知らぬ同宿者からサイコロ賭博に誘われたならかなり警戒したであろうと思われます。その点カルタの場合、先ずは賭博性の低い“よみ”等からならば心理的なハードルが低いのでは無いでしょうか。場が盛り上がった頃合いを見計らって、賭博性の高い“かう”等に誘導するのが“かくじん”の腕の見せ所でしょう。

そう言えば当時の文芸作品には長時間の船旅で、たまたま同船した者が始めたカルタ賭博の場面がしばしば描かれています。思いつくままに挙げれば『懐硯』貞享四年(1687)、『御前義経記』元禄十三年(1700)、『風流夢浮橋』元禄十六年(1703)、『風流今平家』元禄十六年(1703)等が有ります。勿論これらは読み物、つまりフィクションでは有りますが、これだけ繰り返し用いられているモチーフですので全くの想像の産物であるとは思えません。長時間の船旅の慰みとして、実際にしばしばカルタ賭博が行われていたと云う事実に基いているものと想像されます。
 代表として井原西鶴の『懐硯』を紹介しておきます。

『懐硯』貞享四年(1687)
舟人が櫓米櫃ろまいひつより、布袋ほてい屋かるたの十馬八九のたらぬ取あつめ物を出しけれは、小者とも壱文二文によみて程なく、跡先あとさきに四五文つゝ置て、手もとせわしく勝負しやうふしける。清兵衛下人、越中よりめしつれたる男、百さしみなになして鬢鏡びんかゞみ八分に即座そくざに賣て是もうちこめば、律義りちぎものにて上してうろたへたるかほつきおかしく、取かへしてとらすとて清兵衛立かゝりてんがうにするうちに銭八百まけになれは、是切といふ所へ播磨はりまの長らうすゝみ出、後生ごしやう大事にひねりけれは、九品の浄土しやうどかふとて、しゆのこらすから取れは、ひたものに置かけつゐまめ板一歩せんさくに成、長老六七両も勝たまへは近江の布屋さし出、長崎のひと大氣にかゝり、三番まきに付目取て、山のごとく置立しに、次第につのりて千両はかり小判、あなたこなたの手にわたれは船頭せんとう古御器ふるごき出しててらをうたせけるに是さへ金子十両にあまりぬ。

お恥ずかしい事に今の当方の知識、能力では明確な解釈をお示しする事は出来ませんので、代りに江橋先生の解釈を引用させて頂きます。

船頭が櫓米櫃やぐらこめびつから「ほてい屋骨牌の十馬・八・九のたらぬ取あつめ物」を取り出して、小者たちが一文・二文賭けの「ヨミ」を始めて、その内に四・五文賭けの「アトサキ」になった。清兵衛の小者が穴開き銭を索にむすんだ一束百文をすっかり取られて、持っていたびん鏡八分で叩き売ってその金も賭けたが取られて、のぼせあがってうろたえているので、「取りかへしてとらす」といって清兵衛が賭博に参加したが彼も負けて八百文取られた。
 清兵衛はここで止めようとしたのだが、やはり乗客の坊主で播磨の長老が乗り出してきて後生大事そうに賭けて、「くっぴん」という札の組み合せ「浄土かぶ」の役となり、皆の賭け金を残らず巻き上げてしまった。そうなると負けた方が収まらなくなって、豆板銀や一分金を賭けるようになり、結局長老が六、七両も勝った。そこへ近江の布屋が加わり、長崎の町人も大胆に張り出して「三番まき」で「つけ目」に山のように金を賭けるようになり、結局、乗客全員が参加する高額の賭博になり、千両ほどの小判があちこちに行ったり来たりになった。大きな勝負なので船頭がテラ銭を集めたら十両になった。

江橋崇『かるた』(ものと人間の文化史173)
 法政大学出版局 2015年 p.77

全体の流れとしてはこの通りでしょう。しかし細かい部分で納得がいかない点が幾つか有ります。自分自身の読解も示さずに人の読解にイチャモンを付けるのは気が引けるのですが、ここは相手が当代のカルタ研究の第一人者である江橋先生です。これが通説だと認識されては困りますので、敢えて批判させて頂きます。勘のいい方はお気付きかも知れませんが、その為に無理やり『懐硯』を持ち出した訳ですが・・・

大きな疑問点が二箇所有ります。一点目は「小者たちが一文・二文賭けの「ヨミ」を始めて、その内に四・五文賭けの「アトサキ」になった。」という部分です。
 この部分の原文は「小者とも壱文二文に讀て程なく、跡先に四五文つゝ置て、手元せわしく勝負しける。」です。小者たちは最初、当時最も盛んだったカルタ技法である“よみ”を始めたという点に異論は有りません。江橋先生は、その後に“あとさき”という技法に移ったと解釈されている様ですが、これには賛成出来ません。恐らく先生は、近現代に伝わる花札技法の“アトサキ”の事を念頭に置かれているのでしょうが、余りにも強引過ぎます。実は当方もカルタの勉強を始めた当初、『懐硯』の“あとさき”に付いて同様のアイデアを持ったのですが、今は自信を持って否定出来ます。そもそも「程なく、跡先に四五文つゝ置て、手元せわしく勝負しける。」を素直に読めば「跡先」が技法名に読める筈は有りませんし、江戸期の諸資料を丁寧に読み込めば“アトサキ”が技法名だと解釈出来る筈は無いと思うのですがね。

『西鶴評點湖水等三吟百韻巻断簡』延宝頃(1673-1681)
ほんとにはつて露よ涙よ
 跡先かまはす只一はいの所を
『男色子鑑』元禄六年(1693)
臺(だい)所にハ二文四文のかるた打跡先あとさきそろはぬ世継曽我のつればやし
『今源氏六十帖』元禄八年(1695)
お姫様へもちをあとさきにはつたやうに二ぜんなからすへる。
『御前義経記』元禄十三年(1700)
かたはだぬいで四十八ぐわん絵合ゑあはせのちには三まいがるたのおせ/\。四郎三郎はけつきにまかせぜにの有たけあとさきにはり。こぶしをにぎつてこゝじやといわんかほ。三郎左衛門はとし比にはぢてかしらに十文。あとばり丗の銭にもひだりの手をかけ。うん吉ならばなか/\はなすまじき風情ふぜい舟頭せんどうの六助はゑてにばしら。なんでも旦那だんな衆の銭は我らがものと。ふたきる手もとはしかう。あとさきなしに壱貫の銭ほんとにはる。
『風流夢浮橋』元禄十六年(1703)
船頭せんとうかたはたぬぎての三まいかるた。皆々みなみな打寄うちよつて。おせ/\とけつきにまかせ。せに有切ありきり跡先あとさきにはり。
『大織冠』正徳三年(1713)
なむや四と五にくはんをんしやかさま三まい坊主の。くげんをたすけてたび給へとて。大悲の利剣を親にうちて。うんすんをふため飛おれば。跡さきしやんとぞをしたりける

意味の解りにくいものも有りますが「あとさきにはつたやうに(『今源氏六十帖』)」「銭の有たけ跡さきにはり・跡さきなしに壱貫の銭ほんとにはる(『御前義経記』)」「跡先にはり(『風流夢浮橋』)」や、『懐硯』の「跡先に四五文つゝ置て、手元せわしく勝負しける」等の用例を見れば“あとさき”がカルタ技法名で無いのは明らかです。その意味するところは“三枚”(或いは“かう”)技法での賭け方に関する事と考えられます。恐らく“三枚”では賭け金が二度(“先”と“跡=後”)に分けて張られたのだと思われます。賭け方の詳細は不明ですが、ジャックポット式のポーカーで二度のベッティング・インターバルが有るのと似た様な事でしょう。
 尚、この点に関しては杉本重雄氏が論文『カルタ賭博から読み解く京都「先斗町」の語源』で豊富な資料引用と、詳細且つ明快な論証によって次の様な解釈を示されています。

これらの用例に登場するカルタ賭博は、胴元と子が勝負する加宇カルタと考えられるが、『鹿の巻筆』や『御前義経記』の用例でも見たように、金を賭ける際に、最初に一定の額を賭け、その後でまた賭けるということが行われ、この最初のものを「先(さき)・頭(かしら)」と言い、後のものを「後(あと)・尻」と言ったようである。これからすると、「跡先なしに」、「跡先構わず」、「跡先知らずに」といった言葉は、むしろ、金の賭け方を表したカルタ用語として、「跡先に分けずに」と解するのが妥当であろう。

杉本重雄「カルタ賭博から読み解く京都「先斗町」の語源」『遊戯史研究 第29号』所収
遊戯史学会 2017年10月 pp.83-98

“あとさき”の意味を見事に看破されており(更には謎のカルタ用語である“ぽんと”についても、決定版と言える解釈を示されています)、当方も全面的に賛同致します。もしもこの論文が江橋先生が『かるた』を執筆される以前に発表されていたならば、恐らく先生も“あとさき”が技法名であるとお考えには成らなかったでしょう(か?)。

もう一つの疑問点は「播磨の長老が乗り出してきて後生大事そうに賭けて、「くっぴん」という札の組み合せ「浄土かぶ」の役となり」の部分です。
 原文は「播磨の長老すゝみ出、後生大事にひねりけれは、九品の浄土かふとて、衆生残らす根から取れは、」です。先生は「九品の浄土かふ」を「九品」と「浄土かふ」との二つの要素に分け、「九品」を現代のカブ系技法や、江戸後期の『博奕仕方』の「きんご仕方」に見られる“くっぴん”(九と一の札の組み合わせ)の事だと解釈し、その呼び名(ニックネーム)が「浄土かふ」だとお考えの様です。
 「九品」が“くっぴん”だとするアイデアは面白いとは思いますが、実際問題としては無理でしょう。言語学的に見て当時「九品」が“くっぴん”と読み得たのかどうかは知りません。しかし『懐硯』の「九品」にはルビが振られていませんので、これは普通の読み方をせよという事を意味します。有名な仏教用語である「九品浄土」は当時も今も“くほんじょうど”としか読み様は有りません。
 又『懐硯』の「九品の浄土」が、同時代の知識人に“くほんのじょうど”と読まれた事は他の文芸作品によって立証出来ます。次に示す二つの資料は、明らかに『懐硯』の該当箇所をパクった作品です。

『分里艶行脚』正徳六年(1716)
はりまの出家すゝみ出。まはりどうにし給へと。後生大事ごしやうだいじにひねりければ。九ほんの浄土がうとて。衆生しやじやうのこらずからとれば 。
『渡世身持談義』享保二十年(1735)
播磨の長老すゝみ出。後生ごしやう大事だいしにひねりければ。九ほんの浄土とて。九つのひかりをはなつて。衆生残らずからとれば。

何れの作品でも「品」は“ほん”と読まれています。「九品」は“くほん”であり、“くっぴん”では有りません。少なくともこれらの作品の作者が『懐硯』の「九品」を“くっぴん”だと認識していないのは明らかです。特に『渡世身持談義』の作者である江島其磧は、他の多くの作品でもカルタ関連用語を駆使しているカルタ通ですので、その証言には重みが有ります。
 当方はこの時代の“かう”や“きんご”に“くっぴん役”が有った可能性は低いと考えています。但しその理由は、単にその存在を示す資料が見当たらないと云う事に尽きますので、もしも一点でも確実な資料が見つかれば簡単に覆されるものではあります。しかし、少なくとも『懐硯』の「九品の浄土かふ」が“くっぴん役”とは無関係である事だけは疑う余地は有りませんし、これが当時“くっぴん役”が存在した証拠には成り得ないのは言う迄も有りません。

ところで、これらの作品で描かれている様な船旅での賭博は、誰か言い出しっぺがいて初めて始まるものでしょう。その言い出しっぺは商人の様な体をしてはいますが、実態は賭博を渡世としている“かくじん”だったとすれば納得がいきます。或いは、船頭自身が“かくじん”的な者だったのかも知れません。『懐硯』で使われたカルタは船の米櫃に隠されていた物ですし、最終的に船頭は十両余りのテラ銭を稼いでいます。かなり怪しい・・・

少々妄想を膨らませ過ぎたかも知れません。勿論『教訓世諦鑑』の記述のみによって“かくじん”の実態が解明出来る訳では無く、新たな資料の発掘無くしてはその真の姿を知るのは難しいでしょう。将来的には新たな資料の発見の可能性は十分に有ると思われますが、それ迄は『教訓世諦鑑』が“かくじん”に関する最重要資料で有ると言って良いでしょう。

続いての記述が又面白い。

是がつゞゐて近年ハ、誹諧にことよせ、三笠付、大一などゝいふことを仕出し、人の金銀をうばふ、勝負をなしてこと/\゛く、身上を破らしむ。

何が面白いのかと云うと、ズバリ「大一」です。ここでは「三笠付」と「大一」という二種類の賭博に触れており、共に誹諧に関係する技法だと指摘しています。「三笠付」は江戸時代の賭博の内ではかなりメジャーな部類ですので、勿論当方も承知していましたが、「大一」って何? 初耳です。いや、もしかしたらこれも気付いていなかっただけかも知れません。大変気になりますが、その前に「三笠付」について簡単に触れておきましょう。

「三笠付」は江戸中期以降にかなり流行した賭博です。『博奕仕方』にも詳しく解説されていますし、幕府からも度々名指しで禁令が出されています。「三笠付」は誹諧の発句(今の俳句)が元に成った賭博であり、元々は出題者が上の句を三つ示し、それに続く中の句、下の句を複数挙げて、どの組み合わせが発句として良いかを考えさせるものだった様で、誹諧の学習法の側面が強かったものと考えられます。これが次第に句としての善し悪しとは無関係に、単に出題者の設定した正解の組み合わせを予想するだけの“当て物”的な性格が強まり、ついには発句の五七五という形式さえも無くなって、単に三つの数字の組み合わせを当てるという形に変化しました。その際、回答者から少額の参加料を徴収し、正答者には纏まった金額が配当されます。つまり現代のナンバーズに似た形式の賭博ですね。その時期は『教訓世諦鑑』の成立した享保の初め頃だった様です。そこに至っても「三笠付」という名称は受け継がれていますが、内容的には誹諧とは全く無関係な、単なる数当ての純粋な博奕と化しています。

で、一方の「大一」については賭博に関する諸資料でも見た記憶は有りませんでしたが、先日たまたま別件で『御仕置類例類集』を調べていた所、偶然次の記述が目に留まりました。

『御仕置類例類集 古類集』寛政十二年(1800)
  寛政十二年申年御渡
大坂町奉行伺
一 備中國惣爪村・藤次郎、大一と唱、富ニ似寄候博奕いたし候一件、
(中略)
右之もの共儀、村内所々ニて、大一と唱へ、富ニ似寄候博奕、相催候もの有之を、吟味ニ相成候迄、不存罷在候段、不念ニ付、庄屋ハ、過料五貫文ツヽ、年寄は、三貫文ツヽ、惣百姓共ハ、村高ニ應し過料、

人間の目と脳とは本当に不思議なもので、かなり速読していても気にしている語句は目に飛び込んで来るものです。逆に、意識していない語句は目に入っても全く記憶に残りません。
 かなり時代が隔たってはいるものの、ここに見える“大一”が『教訓世諦鑑』と同じものであるのは間違い無いと思われますが、気になる点も有ります。“大一”の性格に関して、『教訓世諦鑑』では「誹諧にことよせ」た賭博とあるのに対し、『御仕置類例類集』では「富ニ似寄候博奕(富突きに似た賭博)」としている点です。この疑問を解くには他の資料を多く見る必要が有りますので、手っ取り早い方法として辞典類を調べる事にしましょう。
 辞典を引く為には「大一」の読み方を知る必要が有ります。『教訓世諦鑑』の「大一」にはルビが振られていませんが、全く問題は有りません。読み方は“だいいち”で間違い有りませんね。何故ならば『教訓世諦鑑』では大部分の漢字にルビが振られているのですが、「大一」にはルビが振られていません。それは誰もが普通に読める読み方をせよと云う事ですので、つまり“だいいち”しか有り得ません。
 先ずは例によって『日本国語大辞典』を見たのですが、残念ながら“だいいち”の箇所に「大一」という標題語は無く、有るのは同じ音の「第一」のみです。しかしその語釈の中に気になるものが有りました。

だい-いち【第一】
・・・④賭博の一種。富くじに類するもの。*浄瑠璃・壇浦兜軍記 (1732)二「ちょぼいち張るな、畏つた。第一の宿ならぬ、心得たと、判さへ押せば済む事」 *御触書天明集成-四八・明和四年(1767)八月「博奕三笠附 取退無尽は勿論〈略〉中国筋にては第一と唱、三笠附抔に粉敷会合致し候趣抔相聞候」 *草茅危言(1789)九「又は第一謙徳等名付て、諸国の在々を巡て渡世をなし、貧民の剥倒する者四方に遍し」

『日本国語大辞典 第二版』 小学館 2000年

又、『近世上方語辞典』にも同様の語釈が載せられています。

だいいち[第一]
 富くじの類。享保十七年・壇浦兜軍記 二「ちよぼいち張るな、畏つた、第一の宿(やど)ならぬ、心得たと判さへ押せば済む事」〔参考〕俚言集覧「第一(ダイイチ)をたいちと呼ぶは富鬮の類也」

『近世上方語辞典』前田勇 東京堂 昭和39年

内容から見て『教訓世諦鑑』や『御仕置類例類集』に有る「大一」と同じものであるのは確実ですので、以下「第一」「大一」は同一のものといて“だいいち”として扱います。

“だいいち”に関する資料を時代順に整理しておきます。

『教訓世諦鑑』享保六年(1721)
是がつゞゐて近年ハ、誹諧にことよせ、三笠付、大一などゝいふことを仕出し、
『壇浦兜軍記』享保十七年(1732)
ちよぼいち張るな、畏つた。第一の宿ならぬ、心得たと、判さへ押せば済む事
『明和四年 御触書』明和四年(1767)
 明和四亥年八月
博奕三笠附取退無盡は勿論、富突抔と名附、博奕ケ間敷儀致間敷段従前々相觸候處、致忘却候者共所々に有之、中國筋ニては第一と唱、三笠附抔ニ粉敷會合致し候趣抔相聞候、
『草茅危言』寛政元年(1789)序
  寺社富の事
(前略)
又は第一謙徳等名付て諸國の在々を巡て渡世をなし、貧民の剥倒する者四方に遍し、是を嚴に官禁を加て、天下一統に停止有度者也、
『御仕置類例類集 古類集』寛政十二年(1800)
  寛政十二年申年御渡
村内所々ニて、大一と唱へ、富ニ似寄候博奕、相催候もの有之を、
『俚言集覧』江戸後期
第一(ダイイチ)
(中略)
又第一をたいちと呼ふハ富鬮の類也

“だいいち”が十八世紀の凡そ100年間に渉って行われ、『教訓世諦鑑』がその最も古い記録である事が分かります。どうやら、かの『日本国語大辞典』の編集に携われた諸先生方も“大一”には気付かれていなかった様ですね(と、密かにほくそ笑む)。

さて“だいいち”はどんな賭博だったのでしょうか? 勿論、現状の限られた資料から実態を確定するのは不可能ですが、出来る限りの推理を働かせて見ましょう。
 技法の原理に関しては『教訓世諦鑑』(誹諧にことよせ)、『明和四年 御触書』(三笠附抔ニ粉敷會合致し)が誹諧との関連性を匂わせているのに対して、『御仕置類例類集 古類集』(富ニ似寄候博奕)、『俚言集覧』(富鬮の類也)では富突との類似を指摘しています。一見、相容れない主張にも見えますがそうとも限りません。
 これらは技法の基本原理についてでは無く、賭博開催の形態について言っているのでは無いでしょうか。つまり『教訓世諦鑑』の「誹諧にことよせ」は、当時既に流行していた、誹諧の前句付けや笠付けの興行と同様の運営形態、つまり点者の選んだテーマに沿った句を少額の応募料を取って広く募集し、優秀句には豪華な景品を与えるという興行形態(ギリギリ合法)に倣っていると云う意味に取れます。実際“三笠付”は正にその通りであり、“だいいち”も同形態の興行であると云う意味では無いでしょうか。
 『明和四年 御触書』の「三笠附抔ニ粉敷會合致し(三笠付などに紛らわしき会合いたし)」も同様に、“三笠付”と紛らわしいのは技法の原理では無く、興行形態だと理解出来ます。つまり少額の掛け金で不特定多数の参加者を募り、少数の当選者に高額の配当金を渡すという形態の賭博であり、ようするに富突や現代の宝くじと同様の賭博です。この様に考えれば“だいいち”の基本原理が誹諧と直接的な関係が有ったり、“三笠付”と同様に誹諧を起源とするものと推測する根拠は弱いと言えるでしょう。

当方の知る限り“だいいち(第一)”について具体的に考察されたのは石井良助先生お一人だけです。

宮武外骨翁が「賭博史」において、享保四年(1719)刊、乙州著「それぞれ草」中巻に載せた、涼み台の上で、桶(曲物?)の中から、「第一」と記した札を突き出して数人に示している絵は、
(中略)
天狗頼母子にあたるものとしておられますが、これによってかんがえると、「草茅危言」にいう「第一」というのも、曲物に、一から十五までの木札を入れ、錐でついて、「第一」が当たった者に賞金を与える博奕のことと思われます。そうだとすれば、「草茅危言」に第一と並べてある謙徳も、同じような往来人相手の博奕だったのではないかと思われます。第一や謙徳が富類似と考えられた主な理由は、それが富突の場合と同じように、錐で札をついて当籖者をきめた点にあると考えます。前項に述べた明和四年の法令に見える「第一」は、会合・・があるのですから、ここにいう第一より組織的なもののように思われますが、錐で札をついて当籖者をきめたことは同じだったのでしょう。

石井良助『第三江戸時代漫筆(ばくち その他)』
井上書房 昭和38年 pp.135-136

さすが石井先生、色々と示唆に富む考察です。先生は『草茅危言』で“だいいち(第一)”を富突きと同類の賭博として挙げている事から、富突きのミニチュア版とも言うべき賭博“天狗頼母子(てんぐたのもし)”の事を思い浮かべられた様です。天狗頼母子は文中でも説明されている様に、円筒形の容器の中に、数字の記された木札を何枚か入れ、蓋の中央の丸い穴から錐で突き、刺さった札を当たりとする形式の賭博です。規模の差こそ有るにせよ、基本的には富突と同じ原理だと言えます。
 更に傍証として、天狗頼母子の図と思われる『それぞれ草』の挿絵で、錐に刺さった当たり札に「第一」と書かれている事を指摘しています。これで“第一”という名称と、“富突に類似”という特徴と、“天狗頼母子”という具体的な賭博技法とが一本の糸で繋がる訳です。これはかなり強力な仮説と思われます。
 但し、単純に“第一”=“天狗頼母子”だと捉える訳には行きません。石井先生も言及されている様に『明和四年 御触書』の「第一と唱、三笠附抔ニ粉敷會合致し候」という部分の「会合」の語から、“第一”は或る程度の規模を持ち、組織的に運営された賭博興行で有った印象を受けます。又『御仕置類例類集 古類集』の「大一と唱へ、富ニ似寄候博奕、相催候」の「相催」の語からも同様の印象を受けます。
 対して“天狗頼母子”は、絵画資料(『世間手代気質』『風流曲三味線』等)を見る限り往来等で小人数を相手にする賭博だと考えられます。そうすると石井先生のおっしゃる様に、“第一”は大規模な“富突”と、小規模な“天狗頼母子”との中間に位置するものと考えるのが穏当な理解でしょう・・・が、正直に胸の内を明かすならば何と無くスッキリしません。勿論合理的な解釈だと思いますし、積極的に反論する材料も有りません。ただ何と無く、です。敢て言うならば、その様な賭博技法が存在した事を裏付ける資料が見当たらないと云う事が、何と無くスッキリしない原因かも知れません。

結局“だいいち”の実態の解明は、もう少し資料が集まらない事にはどうしようも有りませんが、少なくとも今のところ『教訓世諦鑑』が“だいいち”という謎の賭博技法に関する初出資料である事は間違い有りません。

(五)総合的な評価

以上『教訓世諦鑑』「博奕」の項の主要部分についての当方なりの読み取りを示しました。正直に白状しますと、当方はこれ迄『教訓世諦鑑』を単なるカルタ技法の資料として、それも“合せ”や“長半カルタ(仮称)”の部分しか見ていませんでした。しかし今回江橋先生のご指摘により全体を検討した結果、その資料価値をハッキリ認識するに至りました。
 サイコロ賭博に関してもユニークな情報を提供していますし、他にも“けんねんじ”と“なんこ”とが同一の遊技の別称である事を示す最初期の資料だったり、賭け碁における「五もく壱銭」という賭け方や、賭博を生業とする「覚人」の実態、“だいいち(大一・第一)”という賭博の初出資料だったりする等、非常に貴重な情報が満載である事を実感しました。同時に、著者である執中堂西山は優れた情報収集能力を持った人物であったと云う印象を強く受けました。
 江戸時代の各種の賭博技法に関する或る程度まとまった資料と言えるものには『博奕仕方』や『博戯犀照』が有りますが、共に江戸後期の成立です。『教訓世諦鑑』は江戸前期のものとしては唯一まとまった情報量を持つものと言えます。勿論個々の記述の正否は慎重に検討する必要が有りますが、江戸前期の賭博の実態を伝える貴重な資料であり、我が国の賭博史、遊戯史研究にとって一級の資料であると考えます。又、江戸カルタ技法に関する資料としては『博奕仕方』『雍州府志』に次ぐ情報量を持ち、その間を埋める貴重な資料だと評価します。

公開年月日 2021/02/27


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